陽が昇る。 それは、変わりなく繰り返される世界の巡り。 カーテン越しに光が薄暗い部屋の調度品を仄暗い輪郭を形作る。 静かな部屋。 大人2人が身体を横たえられそうな寝台の上はウーヴェだけ。 捲りあげられた毛布の上には、ぞんざいな扱いで軍服や軍帽が重ねられて、半分は物置きのようになっている。 鞭や銃はサイドテーブルの上に置かれていた。 煙草や酒に溺れることができれば、少しは違うのだろうか。 いつも右眼を覆っている黒の眼帯は外され、縦に大きな切り傷の傷痕が露わになっている。 自堕落な象徴のような酒に溺れるということがない分、深刻なのかもしれない。 鬱蒼とした雰囲気を纏う部屋の主、ウーヴェ・ギルマンは、寝覚めの悪い朝を迎えていた。 ――悪夢。 毎日のように見る悪夢は、終わることない拷問のようだ。 悪夢の名残りでもある傷痕をゆっくりとなぞり、酷薄な笑みを刻む。 どこか壊れているような笑みは、深淵に魅せられた者が見せる独特の微笑み。 ウーヴェは巨大監獄都市の看守をし、その前には軍隊にも所属していた。 軍隊所属していた数年は尋問官をしていたから、拷問の効果的な行使は分かっている。 同じことの繰り返しは、終わることない絶望へと繋がる。 けれど、ウーヴェにはそれが最愛の妻、モニカに会える唯一つの機会。 痛みを伴う悪夢でも、愛おしい妻に会えるのなら――。 ■ *** ■ 運命の日は、突然に訪れた。 妻のモニカと生まれてくる愛おしい我が子のためにと購入したお土産を手にして、ウーヴェは帰宅した。 「今帰ったよぅ」 「お帰りなさい、あなた」 緩やかな金髪がモニカの頬に掛かっているのをウーヴェは手袋を外した指で優しく耳の後ろへと流してやると、その頬に口づけを落とす。 「ああ、ただいまぁモニカ。モニカには花、生まれてくる我が子には産着を買ってきたよぅ」 「綺麗な花ね、ありがとう」 小さな鉢植えの小花は、食卓テーブルの上に置かれ、モニカはどうかしら? と振り返った。 リビングは幸せの香りで満たされている。 今日はシチューのようだ。 カトラリーの用意されたテーブルに後はメインの食事が運ばれれば、夕食は直ぐに始められそうだった。 「うん、いいんじゃないかなぁ」 ウーヴェは外套や軍服の堅苦しさから解放されて、若夫婦の旦那に戻る。 治安も悪く、犯罪者が多く闊歩する街中は武器を手放せない。 それらをモニカには出来るだけ触らせたくなくて、武器類はウーヴェが外す。 新たな命を産み落とす彼女に、命を奪う物に触れて欲しくない。 自分のエゴなのかもしれないが、一度話をして納得してくれた。 部屋の装飾はモニカが全て手作りで少しずつ整えていったものばかりだ。 ウーヴェが仕事で身につけるのは規則で決まっている装束だが、ハンカチは流石に規定されてはいないので、モニカ手作りのハンカチを使っている。 あとは肌身離さず身につけているモニカの写真入りのロケットペンダント。 子どもが生まれれば、我が子を抱いたモニカの写真に変わるのだろう。 布貼りの2人掛けのソファにウーヴェは座り、モニカに手を差し出す。 モニカはウーヴェの手を取り、ゆっくりと寄り添うように座った。 ローテーブルの上には赤子の産着と手芸箱。 淡いピンクの産着はどちらかというと女の子用だ。 「私たちの子はまだ性別も分からないのに、ウーヴェったら……」 そう言いながらもモニカの言葉と表情は怒ってはいない。 「男の子かしら、それとも女の子かしら。あなたなら、どちらがいい?」 「どちらでも。モニカの生んでくれた子なら、男の子でも女の子でも構わないさぁ」 「そう?」 「僕たちの子なんだから、可愛い子に決まっているからねぇ」 ふふふ、とウーヴェは笑う。 モニカは僅かにウーヴェを上目遣いに見、ウーヴェが父親になったときのことを想像してみる。 「そうね……、女の子だとお嫁に行くときに、娘は嫁にやらないとか言いそうだし、男の子だと2人してやんちゃをしそうだわ」 「そうか、女の子は嫁にやらなければならないという苦行があるのかぁ……」 それは悲しいなと、まだ生まれていないお腹の我が子に話し掛ける。 「女の子だったら、ずっと僕たちと一緒にいるといいよ。男の子でもずっと一緒に居られるといいねぇ」 「もう、私たちの子に伴侶を選ばせないつもりなの?」 モニカは、我が儘なお父さんだけど、いっぱい愛してくれているのよ、と話し掛けた。 「う~ん、まぁ、その時次第? かなぁ。今はモニカ不足だよ、甘やかしてくれると嬉しいなぁ」 最愛の妻モニカを優しく抱きしめ、頬と頬を触れさせ、口づけた。 「今日のあなたは甘えん坊さんね」 「モニカ、愛してるよ」 モニカもウーヴェの背に腕をまわし、その愛撫を受け入れる。 「ええ、私もよ、ウーヴェ。愛してるわ」 ■ *** ■ 寝室で就寝する前、連絡が一件、ウーヴェの元に入っていた。 脱獄犯が逃亡中というもの。 殺人を犯した者ばかりが収容される区画でで暴動が起き、その騒ぎに乗じて脱走し、逃亡中だという。 暴動は錠前を破りをした囚人が看守に暴行を加え、囚人を収容する鍵を奪い、解錠して周り、騒ぎを意図的に大きくし、その隙を狙って脱走したらしい。 騒動の動向を用心深く見守っていた者が2人おり、おめおめと脱獄を許してしまった。 簡単に脱獄など許しては面子の問題もある。 直ぐに身柄は確保されるだろうと、ウーヴェに出動の命は下されることなく、身重のモニカの傍に居てやるといいと上司の看守長が気を遣ってくれた。 家庭を持たない看守が多い中、幸せな家庭を築くウーヴェは訳あり人生を歩んできた者にとっては見守ってやりたいと思わせるものなのだろう。 ウーヴェは看守長に礼を述べ、手が足りなくなったら遠慮無く声を掛けて下さいといって、連絡を切ったのだった。 ■ *** ■ 侵入者だと気付いたのは、両腕を背後に回され、手早く手首を拘束された時。 「離せ!」 「黙れ」 顔をナイフの柄で殴られた。 身体を引き起こされて、寝台の上は乱れて汚された。 暗闇の中、強盗は苦もなく動くことができるようだ。 自分と同じ。 「脱獄犯か」 「……良く知っているじゃねぇか」 「連絡が入っている。直ぐに捕まるぞ」 ワイヤーが手首に食い込み、動かすにも動かせない。 「黙れと言っているだろう」 寝ていた所を襲われ、反撃も出来ず、拘束されてしまった。 何とかモニカに危険が及ばないようにしなければ。 侵入者は1人のようだ。 体力差から、ウーヴェから拘束したのだろう。 「誰、いや、ウーヴェ!」 目覚めたモニカが、異常に気付き胸元にシーツを引き寄せた。 「モニカ!」 次はモニカを拘束しようとした所で、モニカが枕の下から小銃を取り出し、構えた。 武器に触らせたくはなかったが、万が一の場合に備えて持たせていたものだ。 「近寄らないで、犯罪者! ウーヴェを解放しなさい!」 脱獄犯が銃器を所持していないのを知って、有利に事を進めようと考えたのだろう。 「モニカ! やめ……!」 ウーヴェは、万が一の場合に備えて持たせていた小銃をモニカが構えている姿を見たとき、撃ってくれと思ったのか、撃たないでくれと思ったのか、とにかく助かるのならと思った。 だが、硬直して上手く小銃を扱えないモニカの様子を見て取った強盗は、銃器を入手できるチャンスと思ったのだろう、トリガーを引けないように小銃を掴み取り、捻り上げた。 「くっ……!」 モニカが痛みで構えていられなくなり、小銃を手放す。 「やめろ!」 ウーヴェが脱獄犯に叫ぶ。 モニカは小銃を構えた手で頬を殴られた。 「孕んでやがるのか」 小銃を腰のベルトに突っ込み、モニカの両手を掴んで、頬を舐め、乱暴に口付けた。 「このアマ……!」 咥内に侵入してきた舌を噛んだモニカに逆上する。 更に強盗犯に唾を吐きかけた。 「私はウーヴェだけのものよ! あなたになんか……っ!」 咥内に侵入されて混じった男の唾液を全てはき出すように。 「殺してやる!」 「やめろ……!」 脱獄犯の持つナイフがモニカの腹を突き刺した。 噴き出す赤い血。 「いやっ……! あ……ぁ、ぁぁ……」 モニカが力なく、寝台の上に倒れる。 流れ出る血を、腹の中にある我が子を守るように手を伸ばす。 広がっていく赤い血の海。 ウーヴェは拘束されたまま、身体全体を使い、脱獄犯にぶつかる。 「モニカ、モニカ!」 顔をモニカの方へと突き出そうと、何度も名前を呼ぶ。 「ウーヴェ……、こ……」 モニカの瞳に涙が浮かんで、言葉を続けようとするが、声にならない。 「糞が!」 脱獄犯がモニカを傷つけたナイフで、ウーヴェを追い払おうとナイフを刃を向けた。 「あうっ……!」 切り裂かれたのは、ウーヴェの右目。 視界の右半分が赤に染まった。 焼けるように痛む。 流れ出る血を、傷を押さえようにも縛られたままでは何も出来ない。 脱獄犯が、血をシーツになすりつけ、金品を探っては手近な鞄に詰め始めた。 寝室の扉から廊下に灯された光が漏れ入る。 光の輪郭を伴って、モニカとウーヴェの姿が露わになった。 「モニカ……」 貯蔵庫から液体燃料の入った容器を持ち出してきたのか、リビング、浴室と各部屋に撒き、それは寝室にも撒かれ、容器を放り投げる。 ぽたりと熱を持った赤い火が一気に染めた。 寝台の上には、彼女が居るというのに。 声にならない叫びをあげ、ウーヴェ自身も巻き込まれ、炎に焼かれるのだと思った。 モニカが一緒なら、良いと思った。 彼女の居ない現実など、意味はない。 激痛に意識が遠のく中、力ないながらも、それでも確かな手がウーヴェを突き飛ばした。 ウーヴェが廊下に繋がる扉の方へと転がる。 『あなた』 モニカの力なく見開かれたままの瞳が、ウーヴェを見つめている気がした。 燃える。 彼女も、彼女と築くはずだった未来も。 赤く赤く燃やして、全てを消していくように。 ああ、愛した世界は何と簡単に壊れていくのか。 傷の痛みと心の痛みで、完全に意識を手放した。 ■ *** ■ 燃え崩れていく中で発見されたウーヴェは、脱獄犯は捕らえられ、射殺されたと上司から病院の寝台で聞いた。 「愛する妻を守れなかったなんて、最低だよねぇ」 自虐的にウーヴェは口にのぼらせる。 腕で目元を隠す。 傷が痛んだが、それで良かった。 彼女はもっと激痛に苦しんだ筈だ。 例え、死して焼かれたとしても。 傍にいる上司が何と言っていいのか分からずに押し黙る。 気の利いたことを言われても、上手く返す自信がなかったから、黙って居てくれたほうがよかった。 最愛の妻を守れずに、仇も討つことも出来ず、彼女も彼女との間に生まれてくるはずだった子どもも救えなかった。 残ったのはロケットペンダントと右目の傷。 彼女と作り上げた幸せな空間も何もかも。 無くなったのだ。 ■ *** ■ 「……ああ」 悪夢と共に思い出される彼女の最期。 失われた命は戻ることはない。 二度と会えない彼女。 彼女が産み落とすはずだった子どもの命。 死した彼女はきっと楽園にいる。 穢れた自分はそこにはいけないだろう。 共に在ることの出来る方法は、悪夢をみること。 失われた彼女を、愛し合っていた時に戻るには悪夢が必要なら、いくらでも悪夢を見よう。 後悔も、未来も全て内包した絶望という愛を彼女のものとして愛そう。 愛し続ける証しとして。 彼女と共に同じ場所に立てるその場所。 悪夢も愛おしいものへと変わる筈だから。 たとえ、それが心が削られるような痛みだとしても。
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