私が15歳の時、お母様が亡くなった。 原因は、病死。 静かな、屋敷の中でも奥まった部屋はお母様が病に伏せってから、庭の景色を眺められるようにと二階から一階へとお父様がお移しになったもの。 お母様が好きな季節の花々を植えて、体調の良いときには、窓を開けて明るい外の光を取り入れたりした。 その中には、お父様がお母様に初めて贈った花もあって、同じようにお父様が摘んでお母様に見せると、花に顔を近づけて薫りを堪能しておられたりして、仲睦まじいようすは、私の胸を温かくしたわ。 同時に、涙が零れそうになるのを堪えなくてはいけなくて、美しい夫婦の姿だというのに、切ない気持ちが込み上げた。 残り少ない時間を出来るだけ一緒にすごそうと、時間を見つけては訪れて、見るたびに違う手慰みになるような品を持参されていて、人数が必要な時は、私も呼ばれて時間を共有した。 けれど、今はもう居ない。 セリカが母と生まれてから共にした道は別たれ、交わることはない。 医者がお母様の命の鼓動を止めたことを伝える。 ほっそりと頬は痩けていたけれど、生来の美しさは損なわれていない。 触れれば、ふわりと瞼を押し上げて優しげな光を宿した瞳を見せてくれるのではないかと希望をいだいてしまう。 お父様は、お母様の髪を撫でて、よく頑張ったなと声を掛け、小さな声でいつまでも愛しているよと、撫でていた手をお母様の組み合わせた手の上に重ねた。 悲しみに暮れるお父様の後ろ姿を見つめ、セリカは底のない闇に放り込まれたような気持ちだった。 大切に守られてきたセリカの心は、両親という両翼から、父親ひとりとなり片翼の守りとなった。 「まだこんなにあたたかい……」 ぱたりと白い布に灰色の染みをつくって、お父様は哀しみに暮れている。 本当は声をあげて泣きたいのに、最愛の妻を亡くした父の姿をみて、ぐっと堪える。 そして、奥歯を噛みしめた。 私が泣けば、お父様はお母様から離れて、きっと私を慰めるだろうから。 今は、沢山の涙を流して悲しんでいて欲しかった。 お母様を送る葬送の準備は、屋敷の者が進めている。 お父様の判断が必要なときまでは、そっとしておくように言い含めてあった。 だから、お母様の寝室にいるのは、お母様とお父様、そして私。 開け放たれた窓、揺れるレースのカーテン。 庭からは、花の香りが風に運ばれて鼻腔をくすぐる。 庭へと出ることのできる白木の枠で飾られたガラスの扉も、風の通り道として、少しだけ開けてあった。 風で揺れたのだろうと、きぃと鳴った音にさしたる関心を向けることなく、なにげなく眼差しを向けた。 そこにあったのは、見知らぬ人影。 闇に溶け込むように黒い装束で身を固め、立ち止まることもなく、室内へと踏み入れてくる。 セリカは、招かざる客に退室するよう、声を掛けるべく一呼吸した。 だが、その招かざる客は、いつの間にか手にしていた鈍色の兇器を、母親の枕元に膝をついている父親の首を掻ききったのだ。 同時に噴き出す血。 セリカは、ひゅっと息をのんで、父親に近づく。 「誰か……!」 力なく、動揺を隠しきれぬ声音で屋敷の者達を呼ばわる。 父親の首を両の掌をつかって押さえようと、ぬるりとする血がセリカを濡らすのも構わず、慣れない動作で止めようと試みた。 「……どうして」 父親を殺して、寝台から直ぐに離れた男は、去っていたものと思っていたのだが、そうではなかった。 セリカの行動を注意深くみていたらしく、目元だけを露わにした男は、寝台の方へと近づいてきた。 両手が塞がった状態のセリカは、逃げようにも逃げられない。 死の世界に旅立ったお母様をお父様の血が濡らし、お父様は今にもお母様の御許に旅立ってしまいそうで、この手は離すことはできない。 「来ないで」 お父様が、何かを伝えようと口を動かすが、声にならない。 何度か繰り返しているのだと気付いて、なんとか読みとろうと試みた。 それが、逃げなさい、と言っているのだと理解できた。 だが、母と父がいる場所から逃げることなんて出来ないと、セリカは頭を左右に激しく振った。 父親はセリカの両手を離し、セリカを抱き込むようにして襲撃者である男から守ろうとする。 が、すぐに父親は抱きしめていた腕を緩め、床に倒れた。 首もとと頭部からの血が、大きな血溜まりを作り出していく。 優しかった父の顔は、激痛のなか逝った為か見知らぬ人のようだ。 頭の片隅で、誰かが警鐘を鳴らしている。 見てはいけないと。 衝撃的な父親の姿に、涙を流すこともなく、悲鳴をあげることもなかった。 フィルターがかかったように、世界の巡りが遅くなり、他人ごとのような気持ちで見た。 片目に兇器が突き立てられており、襲撃者はそれを引き抜き、刃を振って血を払う。 哀しみから惨劇へと変わった室内で、セリカは自分も殺されるのだと覚悟した。 お母様とお父様と一緒に逝けるのなら、それでいいと思った。 きっとお母様は怒るだろう。 お母様、ごめんなさいと心の中で謝る。 兇器が突き立てられるのを覚悟して、逃げ出さなかったセリカに、男は触れてきた。 触れた場所は、セリカの額の中央。 わずかに上を向けさせられ、自然と男の目を見る事になった。 セリカの聞いたことのない呪文を唱え始める。 段々と遠くへと追いやられるような感覚の元へと連れ出されて、セリカは精神の限界に達して、意識を手放した。 目覚めてからも、絶望が広がっているとは思わずに。 ■ *** ■ セリカが目覚めた時には、両親の葬儀は既に済んでいた。 精神的にも肉体的にも限界に来ていたのだろう、一週間のあいだ目覚めることなく、こんこんと眠り続け、目覚めたとき、両親はもう居ないのだと哀しみに暮れた。 屋敷の者達は、古参の数名を残して、暇を頂いて屋敷を去っていた。 年若い主に不安を覚えたのだろう。 お父様のように出来るはずもないのは理解していたので、それでいいと思ってた。 何もかも、投げ出したかったのかもしれない。 親身になって接してくれる使用人には悪いが、そっとしておいて欲しかった。 傍に誰かが居ても、嫌な言葉しか投げられないと別っていたから。 「どうして……」 あの襲撃者は両親と一緒に送ってくれなかったのか。 独り取り残されて、思うのはそればかり。 自分で両親の元へ行けばいいと思ったのだろうか、盛られた果実の傍に置かれた細身のナイフを手に取る。 白い肌に刃を当てて撫でれば、赤い血が溢れるということは理解していた。 父親の最期の姿が脳裏を過ぎる。 大丈夫。 徐々に血を失って、貧血になって、眠るように逝くだけだ。 痛いのは最初だけ。 切りつけようとする刃の持ち手に手を重ねて押しとどめたのは、ほっそりとした手。 セリカはゆっくりと頭をあげ、そのひとを見た。 お母様に良く似たひとは、セリカの乾いた心に優しく触れてきた。 心に直接話し掛けられて、セリカが吃驚したのを僅かに押しとどめ、先ずは自分の身元を説明し始めた。 シズネ・カミシロと名乗り、お母様は自分の姉だといった。 このような状況に陥ると予測していたというのに、間に合わなかったことを本当に思っていること。 心に直接話し掛けられているから、シズネが嘘偽りないことはわかる。 (「セリカ、貴方を引き取りたいと思って居るの。私と一緒に暮らしましょう」) (「一緒に……?」) 家族と呼べる人はもう居ないと思って居たから、セリカはシズネの手に自身の手を委ねる。 優しく温かな手。 再び大きな翼に包まれて守られるとは思っては居なかったから。 傷ついた雛であるセリカは、シズネに引き取られ、カミシロ家の一員となり、セリカ・カミシロとなった。 ■ *** ■ 「シズネ様、おはようございます」 「おはよう、セリカ」 丸いテーブルの向かい側にセリカは座ると、ティータイムが始まる。 セリカがシズネに引き取られてから、随分経った。 引き取られて間も無い頃は、なかなか気分的に浮上できずに、何も手につかない時期があったが、献身的にシズネがセリカの傍にいて励ましてくれた。 何も言わずとも、シズネは温かく抱きしめてくれた。 夜中に声をあげずになくセリカの元にやってきて、一晩中一緒にいてくれたこともあった。 まるでお母様の腕の中にいるような錯覚をいだいてしまうが、顔をあげればお母様とは違うのだと何度も言い聞かせる。 そんな気持ちもシズネは理解して、母親だと思ってくれても、そう呼んでくれても構わないといってくれた。 けれど、セリカはシズネ様と呼び方を変えることはしなかった。 自分なりのけじめだった。 ■ *** ■ 月を経るごとに、セリカは生きる気力を取り戻していった。 シズネはセリカが元気な姿をしらなかったので、徐々に健康を取り戻すように、浮上していく姿をみて、とても喜んだ。 シズネは、貴族の家の当主で、政治にも関わりのある貴族の中でも名の知れた名士。 敏腕であるのに、それを感じさせない物腰の穏やかな中性的な顔立ちをし、シズネの前に立てば、思わず居住まいを正してしまう貫禄を持って居る。 年はお母様の妹だから、大体は推測がつくが、年齢を特定させる要素が少ない。 目下の者に接する時にも言葉使いは変わらない。 本当に不思議なところのあるひとだった。 政治的なことは、はぐらかすこともあったけれど、心を偽らないことがひとつだけあった。 セリカを心から案じ、愛おしく思って居ること。 不安になれば、心に触れて、確かめさせてくれる。 ふたりは、庭の四阿で景色を堪能していた。 最近はセリカも落ち着いて、不意に涙をこぼすこともなくなってきて、シズネは微笑をうかべ、そのことを喜んでいた。 「もう、大丈夫ね」 「はい」 セリカは誇らしげにシズネを見つめる。 もう、大丈夫だと、シズネの力添えがなければ、自分はきっとここには居なかった。 「私は、自分の命を絶つことはしません」 希望をシズネに貰ったから。 (「持って生きていくすべをシズネ様に教わったから」) はにかむようにセリカは心からの微笑みを浮かべたのだった。
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