春らしい陽射しが漸く感じられる頃、川原 撫子はひとつの決断をした。 窓には蕾をつけた桜の木が見える。 春はもうすぐ。 撫子も桜の咲く頃には、スーツを身に纏い颯爽と出勤する姿が見られたのだが、そうならないことが今日、確定した。 就職活動で唯一残った会社の最終面談を受けに行かなかったのだ。 長い人生の中で比較的大きな出来事だということは自覚していたけれど、どうしても手を伸ばす事ができなかった。 目の前にはすっかり撫子の戦闘服に変わりつつあったリクルートスーツが、ハンガーに吊され、木製ハンガーにかけられている。 受けに行かなかったのは、撫子の意志。 三次面接だったから、余程の事がない限りは落ちるということは無かったはずだ。 だけど、スーツに袖を通してしまえば、ほんの少し先に見える未来を現実にしてしまう。 だから、撫子は袖を通せなかった。 苦学生ながら、大学4年を終えようと言うときに決めたこと。 一般的なゴールは多分、大人の仲間入りをする社会人だろう。 社会人になってからは、それが大人の仲間入りのスタート地点で、長い長いゴールを目指すことになるのだが、撫子はその道を選ぶことをしなかった。 違う未来があるのではないかと考えて、可能性を探し出そうと足掻いてみたいと思った。 可能性を探すのは、大学生の時もたぶんできただろうけれど、苦学生の撫子にはそんな余裕はなかった。 学業とアルバイト。 両立は難しい。 ある程度の時間束縛されることの少ない労働時間のアルバイトなら、社会経験の一環として学業の邪魔にならない程度で済むが、学生の前に「苦」がつく撫子は、学業以外に空いた時間は、ほぼアルバイトにつぎ込まれることになった。 アルバイトは、ガソリンスタンドの店員。 撫子は洗車が神業級で、常連さんからは、「撫子ちゃんで」と指名されるほどだ。 休日になると、フルで入って、朝から晩まで洗車オンリーということが殆ど。 磨くことが好きだったから、お客さんも撫子も満足して、まさに一石二鳥だ。 卒業すれば、壱番世界でお金のかかることは無くなるから、アルバイトの必要はない。 けれど、店長にヘルプをお願いされれば、暫くはアルバイトに入るだろう。 三次面接にいって、採用通知を貰った後に、辞退するよりも、今ならまだ先方にも迷惑を掛けることはないと思うのだ。 正式は採用通知を貰ってしまったら、大人として扱われる入口に立ってしまう気がして。 一人前になる前なら、大人になる前なら、そんな選択もありだと。 ……そう思ったから。 所謂モラトリアム期間に突入することにしたのだ。 ■ *** ■ 「ん~、何て言おうかなぁ☆」 アルバイト先のガソリンスタンドでオレンジとネイビーのストライプの制服を着用し、ビニール手袋を填めてブラシを握り、効率よく洗っていく。 冷たかった水もそれほど冷たく感じなくなった。 ポニーテールにした茶色の髪が、撫子の動きにあわせ揺れる。 ホースから出てくる水を、根元の蛇口を捻り、止めた。 車体は洗われ、きらりと陽光を反射させて、綺麗なものだ。 綺麗になった車を見ると、清々しい気分になる。 何よりも、自分が手をかけて綺麗になった子たちが、持ち主のもとに戻って、ガソリンスタンドを出て行く姿を見るときが好きだ。 空を見上げ、撫子は思案する。 離れた所では、同僚が車を誘導している。 ……就職活動かぁ。 エントリーシートも履歴書も書いた。 就職セミナーも開催されれば、何度も行ったしOG訪問だってした。 そうして、どうにか残ったそこは、確かに行きたい会社だったけれど。 行きたい会社だった筈なんだけれど……。 はぁ。 元気が笑顔がトレードマークの撫子の顔が今日は曇っている。 勿論、お客さんを相手にするときは、笑顔笑顔で接客をしている。 よく見ている常連さんのひとりに、どうしたの? と聞かれ、まだまだ修行が足りないとほんのちょっぴり凹んだ。 自然と出る溜息。 三次面接に行かなかった会社へのお詫状は書かなければならないだろう。 大学の就職課から電話も掛かってくるだろうし、マナー違反だということはわかってる。 ちゃんとしないと、私の後に面接を受けに行く後輩達に迷惑がかかる。 後輩達に不利にならないよう、アフターケアはきっちりするつもりだ。 そんなこともあって、理由をどうしようかと悩んでいるのだった。 当たり障りのない理由なら、体調不良で連絡する元気もなかったことがいいかな。 その後、体調管理も出来なかったことをあげて、お詫びを綴って大学の就職課の人に預けて、会社へと送って貰うのがいいだろう。 残るは、両親に説明する言い訳だ。 どうしよう……? ふぅ、と溜息をつき、これなら納得するかな、という理由を脳内で並べていく。 悩みながらも、自分で決めたことだから、未練はなかった。 こういうところは、おおざっぱなんだろうかと思ったりもするが、心の中にある芯はぶれていないと思うのだ。 ■ *** ■ 「状況、変わっちゃったしなぁ」 車のボディをワックスで磨き、仕上げの最後である窓を丁寧に磨きながら、呟いた。 会社勤めをするOLになったら、ロストレイルに乗る暇はきっとない。 それに、会社勤めをする生活を続けても、たぶん、壱番世界には再帰属できないきがする。 そもそも、生活してるだけで再帰属できるのなら、ファミリーのロード・ペンタクルはとっくの昔に鬼籍へ入っている筈。 何よりも撫子が思ったのは、 「泣いてそう、なんだもの」 ツーリストやコンダクター、自分も含めて、ひとりひとりに事情があるのだから、彼らには無いということはない。 短い期間で知り合った、知り合うことになった世界樹旅団の人達。 生きている人や死んでいる人、旅団の人は様々な存在形態を持っているけれど、撫子には、ほんとうに心の底から笑っている人にまだ一度も会ったことがない気がしている。 ……どうしてだろう。 どうして、貴方たちは泣いているの? そう聞いてあげられればいいのに。 思うのだけれど。 たやすく心の中を見せてくれはしないだろう。 撫子は彼らを支えてあげられたらと思う。 ……けれど、わからない。 世界を改変する死への後押しを、救うためというより、仕事として、義務として冷徹に行っている素振りも私の理解の範疇を超えている。 いったい、何がそこまで彼らを駆り立て強いるのだろう。 湧き上がった疑問はずっと解決されないままだ。 答えの見つからない疑問は、自分なりの答えを探すしかない。 納得の出来る答えを。 「就活全滅したんで、自分探しの旅に出ます……で、納得するかな、うちの親なら☆」 ぴかぴかになった車を満足げに見つめ、撫子は笑顔を浮かべる。 まずは、卒業証書を貰って、無事卒業できたことを報告しなければ。 その時に置き手紙をしてこよう。 面と向かっていえば、たぶん、我慢できずに涙をこぼしそうだから。 もし、演技しきれずに、そんなことになれば、負けず嫌いな自分を知っている両親は、疑問に思うだろう。 だから、本当と嘘が混ざっていても、手紙にしたためることにした。 自分をワイルドに育ててくれた両親だ。 自分探しの旅に出ると言えば、どこでも生き抜ける技能を身につけた撫子だから、快く送り出してくれるだろう。 卒業したら、0世界に引っ越そう。 荷物は元々必要な物しか無かった部屋だから、撫子ひとりで運び出せるし、なにより撫子の腕力で軽々運び出せる。 0世界で住まう住居はだいたい目星をつけてあった。 最初の内は、両親に顔を出しに行ってもいい。 両親が寂しがるのではなく、撫子がその状況に慣れるまでの準備期間のような、別離に対するモラトリアム期間。 引っ越しが済むまでの間、壱番世界で心置きなく楽しんで、はぁはぁしなくちゃ☆
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