虎部隆は、朱い月に見守られての世界、虚幻要塞での自分を思い出すたび、深い溜め息をつく。 無力感と自己嫌悪の無限ループ。 ――なぜ説得できなかった。 ――なぜ止めることができなかった。 ――なぜ彼女の怒りを溶かしてやれなかった。 なぜ、俺は……! 何もなせなかったことは、隆のコンプレックスとなり、自身を苛む。 見かけは壱番世界の高等学校の学生といった感じで、オールバックにした髪は、やや年齢を上に見せているが、れっきとした地方都市の学生だ。 セクタンの名前はナイアガラトーテムポール。 愛称はナイア。 今はポンポコフォームで隆の思考を邪魔することなく、芝生の上をころころと転がっている。 そんな隆を見守るのは、どこか達観した雰囲気を持つイテュセイ。 地にある隆とは反対に、イテュセイは空に浮かんで、何も束縛も感じない自由な様子だ。 今は、手を差し伸べる時ではないと心得ているのだろう。 むやみに手を差し伸べては、真に必要なときにも頼って マイナス思考のループにはまっている隆と自由にたゆたうイテュセイは、束縛と自由という対比のよう。 イテュセイの方は、そういったことはなにも感じてはいない。 落ち込む隆に対してイテュセイが空に浮かんでいるのは、ヴォロスだから見慣れない生物もいるだろうと、やや警戒心を抱いていて、何かあったときのためだという。 互いに目を合わすことはないが、ある程度の距離は保っている。 そこにあるという感覚はあって、本当に孤独ということはないのだと感じさせてくれる存在。 独りになりたいときに、そばにいても気にならないのが、隆にとってはイテュセイという存在なのだろう。 疲弊した心を癒そうとヴォロスにやって来たはずなのに、いま居る場所は、フラン……、マスカローゼの村跡近くにある丘だった。 青く澄み渡る空に緑多き地。 空をゆくのは自由を謳歌する鳥たち。 緑豊かな場所も、人の優しさを感じさせる村も、心を落ち着かせることのできる遺跡もあったというのに、自分が足を向けたのは、この場所。 まるで責めてほしいとでもいうように。 だが、隆を責め立てる人はいない。 誰も居ないことはわかっていた。 自分の目で確かめて、自分の心に突きつけたかったのかも知れない。 芝生が覆う丘は、そよそよと風でなびき、自然のままにある。 人が住んでいた跡は、自然に飲み込まれていた。 この場所を人が離れても、自然は時間を紡いでいく。 彼女の思いを飲み込んで。 掌を触れさせれば、するりとした感触がした。 ナイアが、どうしたの? と隆を見上げてちょこんと芝生の上に座っている。 芝生の上にナイアの形をした跡がついているから、寝ていたのかもしれない。 「寝ていていいぞ」 ナイアの頭に掌を乗せ、感触を楽しんで幾度か撫でた。 薫るのは青々とした芝生、そしてヴォロスを巡る風。 伸ばしていた足も、心が沈み込んでいく。 隆はいつの間にか膝を抱え、頭を俯かせて、自分の殻に閉じこもってしまって、まわりの風景を楽しむ余裕はどこかへと消えていた。 周りにいるナイアとイテュセイは自分のペースで側にあったけれど。 ■+++■ 「はぁ……」 オールバックにした髪のちょうど眉間に一房落ちている髪もどこか元気がないようにみえる。 隆は、今日何度目かわからない溜め息をつき、誰に聞いて貰うでもなく言葉を紡ぎ始めた。 自分で気持ちを整理したかったのかもしれない。 「俺なんて、死んでしまえばよかったんだよ」 横を向いて、眼前に広がる景色から目を逸らす。 「きみは、ほんとうにうじうじとするねぇ」 イテュセイは特徴的なその大きな一つ目をすがめて、空を見上げてたゆたいながら、付き合うというよりは、愚痴る隆を適当にあしらっているよう。 もしかしたら、眠っていたのだろうか。 まぶたを少し重そうにしている。 とはいえ、がっつりと下を向いて、ここがヴォロスでなければ、いじけてのの字を書いていただろうに違いない隆にイテュセイの表情は伺えない。 ちらりと見る仕草もしないところを見ると、こういう弱気な隆の姿をみることには慣れているのだろう。 「自信、そろそろ取り戻したら?」 落ち込む時期は十分費やしだろうと、はふぅと欠伸をひとつこぼす。 「けど……、俺は、」 口にするのも凄く悔しいと思っているのか、言葉を途切れさせた。 「ん~? どうしたの? 最後まで言ってみなさいよ」 「俺は、兄貴を超えるのはやっぱり無理だったんだ。優秀な兄は、どんな障害も簡単に乗り越えていっただろうけど、平凡そのものの俺は、何も成せないままだ……。こんな俺は、世界から消してしまいたいよ」 整った髪を両手でくしゃくしゃにして、顔を覆う。 情けない自分の顔を晒したくなかった。 「そうだなぁ、きみの兄ときみが立場が逆だったらどうだろうか?」 責めるでもなく、解答を示すでもなく、あくまでも隆自身が答えを見つけられるように、気長につきあうと決めたらしいイテュセイは、一つの指針をしめした。 流が俺で、隆が兄貴だった場合……? 答えはすぐにでた。 「そりゃあ、俺が兄貴だったら、簡単に打破してしまうだろ。兄貴だからな」 絶対の信頼と、揺らぐ事のない兄に対する自信。 覆ることのない隆にとっての真実。 どんな難事も解決してしまえる兄は、隆に超えることのできない偉大な兄だと心に刻み込んだのだ。 それからは、兄は絶対に超えたいと願いながらも、絶対に超えられない壁として、隆の前に常に立ちふさがってきた。 優秀すぎる兄を持ったものの苦悩。 「だが、そのきみの兄はもう、居ないのだろう? きみの前から居なくなったのだから、きみが勝者だ。勝ち負けを定義するのなら、ね」 「勝ち負けじゃないんだ」 すぐにかえってくる言葉に、イテュセイはかすかに口角を持ち上げ、笑みのかたちを刻む。 停滞していた思考から解放されて、前に進み始めた隆は、もう少しで自身の答えへと到達するだろう。 あと一押し。 「きみの兄はもういない。いない対象にまるでとりつかれたように、囚われているのはなんだか滑稽だよ」 イテュセイは、うーんと空に浮かんだ場所で身体を伸ばす。 自由を得ていない隆の代わりに、自分が自由を謳歌するのだとでもいうように。 「まるできみが虎部流になりたいみたいだよ」 隆に心にすとんと落ちてきた言葉。 『まるできみが虎部流になりたいみたいだよ』 散らばっていたパズルのピースがぴたりと嵌った感覚。 そうだ。 そうだったんだ。 「兄という絶対の存在から解き放たれて、何になりたい? きみが思うのは何かな」 「なりたいもの?」 「そうだねぇ、きみにとって譲れないものって、あるだろう? 兄の存在を抜きにして。たとえば、きみが……」 どうして今まで気づかなかったんだろう。 俺は……! 「馬鹿だな、俺は!」 イテュセイの言葉に重ねるように、力強い、悪く言えば大声をだした隆にイテュセイは指を耳の穴に突っ込む。 「馬鹿がうるさい」 うるさい場所からは退散しようと、空に浮かんでいるイテュセイはくるりと俯きになり、立ち上がって熱量を発するいつもの隆を見下ろした。 俯いてばかりだった隆が上を向いている。 合わせるつもりはなかったが、隆とイテュセイの目が合った。 「うるさいよ」 「俺は気づいたぜ!」 うるさいというイテュセイの言葉を気にするでもなく、いま胸にある思いを口にする。 「あたしはひとまず退散するわよ」 ナイアもぐっすり眠っていたらしく、目を瞬かせている。 丘の上にいる隆が遠くに見える場所に浮かんで、イテュセイがつぶやく。 「あがけ人間。それがお前らの存在理由だろう!」 落ち込んでは立ち直る姿はまさしく、人の姿だ。 隆に聞こえていなくとも、これからも繰り返していくのだろう。 悩んで立ち止まり、前に進む姿こそ、成長の証なのだから。 隆はナイアを抱き上げる。 「兄の代わりでなく、兄を越える存在へ、俺はなる! 気負うな。俺は俺であればいい。俺として生き、そして死ぬのだ」 主の悩みが解放されたらしいのを察知すると、ナイアは尻尾を一振りした。 一つの解答を得た隆は、揺らぐことのない芯を抱くことに成功したのだった。
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