ある晴れた日の季節。 僕は、『彼』に出会った。 この壱番世界にある街に足を踏み入れたのは、何となく創作のアンテナに引っかかったからだ。 実際、雰囲気のある街並みで、この街を舞台に一作書いても良いと思い始めていた。 街のメインストリートから少しそれた場所にある公園は、人の姿が多く賑やかだ。 芝生にはレジャーシートを敷き、寝転んでうたた寝やランチを楽しむ者の姿が見える。 露店も何軒か開いているようだ。 メインストリートから近いというのも理由なのだろう。 青く木々が生い茂り、石造りの円形噴水が涼しさを感じさせる。 噴水の周囲を取り巻くようにある木製のベンチにイェンス・カルヴィネンは腰を下ろし行き交う人の姿を流し見ていた。 やや面長の柔和な面に表情を邪魔しないフレームレスの眼鏡を掛け、緩くウェーブの掛かった髪をオールバックにしている。 いくつかの髪が額にかかり、隙のようなものを感じさせた。 膝上には、この地で流通している新聞。 時折風がイェンスの頬を撫で、通り過ぎてゆく。 情報を提供する役目を終えたのか、既に畳まれてある。 手元にあるのは、香りの良い珈琲。 味もまずまずで、変な苦みもなく、すっきりとした味わいだ。 紙製のカップを隔てて手に感じていた熱も、優しい温かさへと変わっている。 陽も頂上にあり、このまま座していれば、暑すぎるという状態になるだろうと考え、立ち上がる。 ゆっくりとした時間を過ごし、今拠点にしてる世界へと帰ろうと歩き出し、行き交う人の中に混じった。 向こう側からやってくる人の中に、目を惹かれ、その姿を追う。 彼だ。 イェンスは温厚さを感じさせる表情を驚きに彩り、振り返った。 既に彼の後ろ姿は遠くにあり、今から追いかけるのは躊躇われた。 彼の姿を見誤るということはないが、違うという可能性は少ないながらもあった。 もし、彼がこの地に居るのなら、再び出会える気がした。 なぜなら彼は、ロストナンバーだったから。 イェンスの願いは、叶うことになった。 日を置かずに街を訪れ、散策しているときに巡り会ったからだ。 イェンスが彼に声をかけると、驚き、続いて笑顔を浮かべた。 「イェンスさん、お久しぶりです」 彼がイェンスに手を差し出す。 「元気だったかい?」 イェンスは乾いた彼の手を握り握手を交わす。 「ええ。父も元気にしています」 人なつっこい笑みを浮かべ、少し待っていてくださいと言葉を残し、場を離れた。 数分して彼が戻ってくる。 手には、瓶入りの炭酸水を2本もっていた。 茶色の髪が陽の光を受けて輝いている。 「どうぞ」 彼がイェンスに瓶を差し出す。 「ああ、ありがとう」 緑色の瓶を受け取り、冷えた瓶の感触を掌に感じた。 ちょうど木の下にあるベンチへと腰を下ろす。 日陰に入ると、体感温度が違うのが分かる。 2人は会話の前に、弾ける液体で喉を潤す。 出会った幸運に感謝し、この街を訪れた訳を話した。 彼は、探してくれたということを嬉しく思ったのか、随分と嬉しそうな表情を浮かべた。 自分を知っている人というのは、安心感をもたらす。 ロストナンバーとして、歳を取らないようになり、世界からはじき出されてしまった孤独感はじわりと広がる染みのように不安にさせる。 そんな中で、自分を知っているという安堵感。 彼も同じような気持ちなのかもしれない。 炭酸水が無くなる間、沢山の話をした。 時間にしてそれほど長くは無かったかもしれない。 けれど、彼との間に流れる充足感は長い時間に感じたのだった。 彼と波長が合ったのか、遭遇する機会に恵まれるようになった。 波長があうのは、きっと一緒に居るのが居心地が良いからだろうと、イェンスは取材旅行にも彼を誘った。 彼と時間を共にする機会が増えると、彼の父親のことを思い出す。 友人だった彼の父親は、イェンスが知らない彼のことを知っていたのだろうか。 父親とはいえ、子である彼のこと全てを知っているというのは、断言できないだろう。 彼でさえ、彼自身のことを全て知っているとはいえないだろうから。 彼の周りの人物が彼に抱く気持ちは様々であるだろうし、全て知っていると言えるのは、誰しも難しい。 幾度かの邂逅、そして月日が流れた頃、いつも明るい表情を浮かべている彼が、今日は表情を曇らせ、重い口を開いて語った。 彼の父が病院に入院していると。 「会いにいったのかい?」 「……まだ、なんです」 「入院している病院の名前を教えてくれるかな」 「……!」 「一緒に行くかい?」 さりげなく彼に手を差し伸べる。 加齢を止めてしまっている自分たちでは、彼の父に会いに行けば、実年齢にそぐわないということに気づくだろう。 だが、イェンスは彼の父に会えなくなるかも知れないというのに、こちら側の都合で会いに行かないというのは失礼だし、僕はきっと後悔すると思うからだ。 「後悔はしたくないからね」 彼は父の年齢を思い出したのか、はっとしてイェンスを見た。 「……はい」 「それじゃ、切り花を見繕っていこうか」 イェンスは柔和な笑みを浮かべ歩き出した。、 クリーム色の壁と水色のカーテンが目に入り、清潔感を感じさせる白いベッドに上体を起こして本を読んでいた男性にイェンスは声を掛けた。 「やあ」 「父さん……」 小さな声で彼が父に声を掛ける。 「少し待ってもらえるかね」 そう言って、サイドテーブルの上にある眼鏡ケースを手にとり、眼鏡をかけた。 来訪者の方へと視線を向ける。 年月と共に皺が刻まれた顔。 眼鏡の奥の眼差しは年月を経ても知的好奇心に強い興味を持っているのか、全体をまず捉えて来訪者の顔へと焦点を合わせた。 「ああ、イェンスか。随分久しぶりだな。……お前の方も」 イェンスの後ろにいた息子にも声を掛けた。 「椅子に腰掛けてくれ」 「花瓶に花を活けてくるよ」 彼は気恥ずかしいのか居心地が悪いのか、席を外した。 そんな彼を見送り、いずれ戻ってくるだろうと顔を見合わせる。 「随分久しぶりだな」 「そうだね」 たわいもない話をし、心の奥底に秘めたままだったことを口にした。 世界が先か、執筆が先か。 そう考えてしまうことが、目の前であったのだよ。 心血を注いで描いたものが、既に存在する異世界だと知った時、作家は己の才能に絶望するのだろうかとね。 人間は勝手だから、自分好みなら受け入れ、好みなければ拒むだろうか、と。 「僕自身は、その時の状況次第だろうと思うのだがね。貴方なら、どうするか興味がわいたのだが、どうかな?」 「そりゃぁ、作家ならこう言うしかないだろう。それがどうした、ってな」 いたずらっ子のような無邪気な顔で、イェンスに応えた。 「そうか。そうだろうね」 彼を書いた父は、とても大らかに受け止めていることにイェンスは安堵する。 「むしろ異世界を捉えた自分の才能を喜ぶがいいさ。今この世界にいる俺たちも、創作の一部である可能性も否定しきれないだろう。考えればきりがないが、あるかもしれないと受け入れてしまえば楽になるし、創作意欲を邪魔することもないだろう?」 「その通りだよ」 何を悩んでいたのだとイェンスはスッキリとした気分を味わっていた。 話をして良かったと、口元に笑みを刻む。 「あいつ、戻ってこないな」 「彼なら、もう少しで来るよ」 「あいつのこと、頼む」 「勿論、そのつもりだよ」 それからしばらくして戻って来た彼と彼の父親の3人で時間を過ごし、病室を後にした。 彼の父親に会ったのは、それが最後になった。 彼の気晴らしになればと、彼を様々な場所へと誘った。 日々の生活で助け、助けられて感情を共有し、同じ物を見るとしみじみと思う。 目の前に居るのは自分と同じく、心を持つ存在だと。 存在が愛おしい。 そう思えれば、本当に受け入れられた。 彼の父の言葉も、意志も。 世界が先か執筆が先かなど、どうしてあんなにも悩んだのか。 答えのでない問いにひとり悩んでいただけではないか。 卵が先かひよこが先かと同じようなもの。 どうでもいいではないか。 恐らく『彼』を愛した読者も、そんなことはどうでもいいではないかと言うだろう。 亡くなった彼の父の姿を、言葉無く佇む彼を見るたび、懐かしい感情と共に思い出す。 彼を創作した父親。 父親を思い出させる面影を残す彼。 生きていた証のようではないか。 故人となったかの人を思い出すきっかけが、関わりのある友人や家族であるのはよくあることだ。 彼は、これからも僕とともに刻を刻んでいくだろう。 「イェンスさん」 「こんにちは」 挨拶を交わし、僕は今日も『彼』と共に依頼へと赴く。 ――素晴らしい『彼』をありがとう。 イェンスは彼を創作した作家へと、心の中で呟いた。
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