――呆気ない幕切れだった。 眼前で朱の雨に浚われた男の姿を思い返し、逸儀=ノ・ハイネは静かに長い息を吐く。 物部護彦が企てた儀莱への渡航、そしてその母親が起こした東雲宮の襲撃、その双方を恙無く阻止する事に成功したロストナンバーたちは一度、東雲宮にて合流していた。 物部護彦。迫害された天神の末裔。権威を覆すなどと言う大望からは程遠い、脆い精神の小童だった。事実を突き付けるだけで全てを諦め、そして受け容れた男は、晴れやかとすら言える顔で雨と共に天に昇り、輪廻の路に還って行った。 面白くない。 朱金の扇の下、逸儀は幼い子供のように唇を尖らせ、一人離れた場所から依頼を終えたばかりの旅人たちを見遣っている。 酒が呑みたい。 誰にも邪魔をされぬ場所で、思いの丈をぶちまけたい。 ――神をも畏れぬ逸れ者の狐は、ふと誰も思い至らぬような事を考えた。「そこの」「……何?」 そして、浅葱色の衣に身を包む、少年へ声を掛ける。 呼び止められた少年は、上機嫌とも不愉快とも取れない表情で、淡々と逸儀を振り仰いだ。「我ァは龍王に逢いに行こうかと思っておる」 幽かに声を潜め、彼にだけ聞こえるように計画の一端を明かす。あの、龍王の宿る大河の中央――時計塔のある中州に陣取って、此の世の権力者を相手に管を巻くのも悪くはあるまい、と逸儀は思いついたのだ。 目敏い野狐が、依頼を終えた人々の中で唯一、少年の顔に僅かに残った落胆の色を見逃す筈もなく。その意味を手繰るのも彼には容易い事だった。「主も来るかえ。なァに、目障りならさっさと追い出すがよい、と伝えておるしのぅ」 不遜な狐の誘いに、幼き龍神は僅かの逡巡の末、無言で頷いた。 ◇「――そう、ですか」 朱色に燃えるヴェールの奥から、静かな相槌が返る。 一度ターミナルへと戻った二人は、世界司書に確認と許可を取ってから、再び東雲宮へと引き返した。持てるだけのつまみと肉と酒を、或いは王への礼を失さぬよう、手土産としての御神酒を携えて。 天帝の妹君にして半神半妖の女、茜ノ上は神妙に頷いて、二人の申し出を認める。「明晩は龍燈祭です。王の意識も常より鮮明でしょう」 ゆえ、誰にも邪魔されず謁見するなら今晩が適していると。 東雲宮の防衛と物部大佐の討伐に尽力した二人だからこそ、茜ノ上もそれを許したようだった。「……では、これをお持ちください」 そう云って、女は一本の朱を彼らへと差し出した。「ほう。此は何ぞ?」「これ、しだりの角……」 その濃い朱が孕む強い力に興味を示した逸儀の傍らで、しだりは僅かに目を瞠った。先の防衛戦で朱の力を取り込んだ異界の龍神が顕現した、一時的な姿の象徴。第六小隊に保管を頼んでいたはずだが。「左様」 茜ノ上は神妙に頷くと、白絹に包んだ朱の角を持主へと返す。当惑するしだりへ、彼女は口許だけで静かに微笑んだ。「妾をはじめとした國の者は王に謁見するほどの権限を持ちませぬゆえ、御自分で返上なさるのが宜しいかと」「……わかった」 しだりは静かに頷いて、女の差し出す白い布を受け取ると懐に仕舞い込んだ。「では、そろそろ往くとするかえ」 傲岸不遜に言い放ち、逸儀は小さく息を吐く。ぱん、と乾いた音を立てて、閉じていた扇を開く。 一振り仰いで生まれた風に乗るように、ひらりと二尾の狐が大地を蹴り、宙へと躍り出た。褪せた毛並みを風に靡かせて、野狐は東雲宮を越えて、高くへと登っていく。 その後を追うように、細い若龍の姿に戻ったしだりもまた、澄んだ青空を滑っていった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>逸儀=ノ・ハイネ(cxpt1038)しだり(cryn4240)=========
眼下に広がる東の岸には、長い屋台通りが形成されている。色とりどりの幟が空を往く二人の目を惹き、立ち昇る煙に紛れて食事の匂いが彼らの元まで届いた。 川辺の全域が、明日の夜訪れる祭の気配に浮かれている。 「酒と肴には困らずに済みそうじゃの」 く、と喉奥で笑い、細くしなやかな二尾の狐が先導するように宙を駆ける。その後ろを追う龍の、黄金の瞳は感情を見せる事なく淡々と眼下の光景を眺めていた。 そのまま空を滑る彼らの前に、目的の大河が現れる。 朱昏を二つに別つ龍王の河は広大で、凪いでいた。岸辺の賑わいが遠い場所の出来事に思えるほどに、静謐で、波一つたたぬ水面が彼らを迎える。 その先を延々と駆ければ、次に姿を顕わすのは、広大な足場。 白砂を寄せ集めただけの、陸地と呼ぶには脆く軟弱な浅瀬。 それでも不思議と打ち寄せる波に覆われないほどの高さを持った、大きな中洲の中央に、其れは在った。 東国の建築様式を用いた時計塔に似た、巨大な臙脂色の建物。四辺を向いた外壁には四つの時計盤が嵌め込まれており、以前は幾つかが不調だったらしいそれらも、今は正常な数字を指し示していた。そして、空から見下ろす彼らの眼には、その天辺が屋根ではなく、丸い硝子のドームに覆われた天球儀のようなものになっている事が見て取れる。 「これが――」 「……ふん。やはりでかいだけで地味じゃの。龍王の趣味かぇ」 唖然と、黄金の瞳を見開くしだりの隣で、逸儀は鼻を鳴らす。依然訪れた時と変わらぬ。傍目には時計塔にしか見えぬこれが、この朱昏を司る世界計だと言うのだから。 二人は高度を下げ、静かに中州へと降り立った。 ――それを待ち侘びたように、水面が高く波打ち、二つの灯が燈る。 黄金の燈火は波の上に留まるように、鷹揚と揺れていた。 其は二つの瞳。その身を河と変えた巨大な龍王が、地上に顕現するための徴(しるし)。 『――何用ぞ』 問い掛けは酷く簡潔だ。その言葉に来訪者を拒む意思はなく、ただ静かに二人の真意を見極めんとしている。 「何、此奴が如何してもぬしに会いたいと言うものだから、案内をしてやったまでよ」 中州を覆う神威にも臆することなく、逸儀は扇を口許に当ててくつりと笑う。指し示されたしだりは、龍姿のままするりと進み出た。 「王、この度は突然の来訪をお許しいただき有難う御座います」 丁寧に謝辞を告げて、頭を下げる代わりに目を伏せる。 「先日の東雲宮での一件、御存知の事かとは思いますが、改めて御報告をしたく」 『よい。聴こう』 王の言葉は重く、しだりの耳を打つ。深く身を垂れ、しだりは己の見た限りでの事件を、鳥妖の呆気ない最期を、慈悲深く降る雨を、語って聞かせた。 「それと、もう一つ」 言葉を切ったしだりの鼻先に、透徹した水の球体がふわりと浮かび上がる。風の紗にくるまれたように揺蕩う、澄んだ水塊の中央に、違う色彩が見て取れた。 透き通った朱色の、一本の角。 異世界の龍神たるしだりが、此の地の朱を編み上げて創った新たな力。エネルギーの塊でもある其れを、しだりは恭しく差し出した。 「……御借り致しました朱の力、確かに御返し致します」 黄金の燈は暫し差し出された朱を眺めていたが、やがて、一際高く昇った波が一条、其れを呑み込んでいった。 『確かに受け取った』 厳かな了承の言葉に、しだりは再び目を伏せる。 『――して、狐。汝にも用があろう』 唐突に矛先を変えられれば、何じゃ気付いておったのか、と逸儀は拗ねたように返した。 「我ぁはぬしに場所と時間を借り受けたいと思うての」 提げていた樽を地面に降ろし、酒瓶をこれ見よがしに振ってみせれば、芳しい酒の香りが風に乗って大河を駆けた。その香に横柄な狐の意図を悟り、龍王は好きにせよ、とだけを応える。 そして、ささやかな酒宴が始まった。 早速のように樽を開け、酒を注ぎ己で呑み始める逸儀の隣で、幼き龍神はふと何かに気づいたようだった。 黄金の瞳をぐるりと水面へ巡らせ、しだりは小さく首を傾ける。 『如何した』 「……しだりも酒を持ってきたのですが……足りないかな、と」 戸惑うように、幼き龍の視線は大河を滑る。 眼前に広がる海とも見紛う水流、それそのものが龍王だ。 幼龍たるしだりが持ち寄れる酒の量には限界がある。逸儀は端から、自分で呑む分だけの酒を用意してきたようだった。 「……王、少しばかり水を分けていただいても構いませんか」 『好きにせよ』 簡素な了承を得、しだりは凪いだ水面へと向き直った。 水神の求めに応じて、波間から水が持ち上がる。 虚空に浮かび上がった水は蛇龍を模した流れを作り、宙高くでぐるりと円を描いて球体へと形を変える。風にたわみ、躍るように水球が揺らいで――ぱぁん、と唐突に、それは弾けた。 内側から膨れ上がるようにして飛び散った其れらは、雨のように中州を含めた大河全域に降り注ぐ。 毛が濡れると億劫そうに眼を眇めていた逸儀は、ふと鼻先を翳めた匂いに勢いよく耳を立てた。芳醇で、透徹した香り。逸儀が最も好む其れ。 「おお、若しやこれは!」 「……そう。河の水を酒に変えてみたよ」 「この子童め、粋な事をするではないか!」 一回りで狐姿に戻った逸儀が、嬉々として飛び跳ねる。全身で酒の雨を浴び、口を開いて雫を受け止める獣は、奉納を受けているはずの龍王よりも其れを喜んでいた。 『水行に属すものか』 「……はい。しだりは水を司る龍神です」 応えながら、しだりは雨が途切れぬよう水を汲み続ける。 雨に打たれながら、王の黄金の瞳は途絶える気配も見せず其処に在る。その炎は来訪者の心よりの演出を好ましく見守っているように、しだりには見えた。 ◇ 「ところで、王よ」 己が分身たる小童からの酌を受けながら、逸儀が流し目を送る。 「ぬしにも郷里があるのかの」 その舌足らずな言葉遣いから、どうやら相当酒がまわっているらしく、隣のしだりが懸念の視線を向けている事にも気づかない。 『――我ら天神は高天原より此の地に舞い降りた』 「ほう。どのような場所じゃったのかぇ?」 『どのような、と問われても。言葉では説明できぬ世だ』 「何じゃ。詰まらんのう」 「天より降りて、今も此の地に留まっている神は……貴方たち三柱のみと伺いました」 『如何にも』 しだりの控えめな言葉に、鷹揚と龍は頷く。 儀莱――引いては朱昏の礎となった、龍王の妹と、河内の丹儀速日(ニギハヤヒ)。そして、この中津国を掌握しながら、決して私欲を持たず調和の為にあり続ける龍王。 「……ひとつ、御願いが御座います」 その申し出に、先を促すように燈火が揺れた。 「貴方の妹神と、水鏡を通して会話は可能でしょうか」 儀莱の地下で眠っているという彼女。世の理を変えてまで、夫の手伝いをし――その手の裡から永遠に去る事を決めた妻。 『よかろう。我も彼(あれ)を呼び起こすのは久々だ』 淡々と、感情を見せぬ言葉でそう聲が落ちる。 深く身を垂れるしだりの前で、凪いだ水面が一度波紋を浮き立たせた。完全な円を描く波が、ゆらりと広がり――水面は、銀の輝きを纏う。 其は水鏡。彼と此とを繋ぐ、水面の境界。 その一面が、蒼に染まる。 淡い青の、鉱石めいた艶やかな質感を持った蔦が縦横無尽に張り巡らされた、広い洞穴のように、彼らの眼には見えた。朱昏の五行を示す五色の光が、花蕾の容をして蔦の彼方此方で明滅している。緩やかな、呼吸をするような光に覆われた荘厳な領域で、ただ一つ、生き物の輪郭が水鏡の奥に見て取れた。 朱金の――朱色の禽と、黄金の爬虫類を縒り合わせたような異形の獣が、蒼い蔦に巻き付かれ、聳えるように眠っている。 「あれが丹儀速日かぇ」 『左様』 そんな会話を交わす二人の傍ら、しだりの目を惹いたのは、丹儀速日を戒める鉱石の蔦だった。蒼い、蛇のようにうねる、樹の蔦。生物としての姿は留めていないが、若しや、としだりは直感する。 「……貴方、が」 ――この蔦こそが、樹蛇の成り果てた姿なのだ。 (如何なさいましたか、異界の客人(まろうど)よ) 柔らかな聲が、水鏡の向こう側から響き渡る。鼓膜に浸み込む薫風のように、しだりの緊張を優しく取り去っていった。 「……突然失礼します。貴方が、世界を保つために海に沈められたと聞きました」 (左様) 「高天原に……或いは王の許に、還りたいとは思わないのですか」 礎として祀られ、ただの枷として在り続ける生から。 その身を捧げた、夫の元へ。 水鏡は――水面の向こうの祠は静謐を保ち、光だけが息衝いている。 (私(わたくし)は此処に居ります) しだりの問いに、それとだけ樹蛇はいらえた。 誰に強制されるわけでもなく、誰に求められたわけでもなく。それこそが自らの帰結、自らの務めと理解し、其処に在る。 しだりはそれ以上何も問わず、ただ消えゆく水面の光景を見据えていた。彼の蛇神の在り方を、忘れないように。 「……今、信じられる者が居ます」 脳裏に浮かぶのは、全てを受け容れるように柔らかな、笑顔。ターミナルで孤立していたしだりの心を解き、世界を開いてくれた友人の姿。 「そのものとの別れが近づいています」 今、世界図書館は様々な変化を始めている。 “世界の果て”へと至る一年間の旅路。しだりは彼にも内緒で、その搭乗員に立候補をしてきた。この旅を無事に終えれば、還るべき――護るべき己の世界を見つける事も遠くなくなるのだ。 「……別れはいずれ来ます」 きっと、彼の行く末も己の世界なのだろう。彼と共に歩いてきた路が離れつつある事を、しだりは確かに受け止めていた。 「――喜ばしき出会いならば、別れも喜ばしく迎えたい」 悔いなど残さぬように。彼との出会いを、ターミナルでの日々を喜ばしく思い返す事が出来るように。 「その為に日々過ごしていますが……心が、納得してくれません」 頭では理解はできているものの、未だに此の幼き心は彼との別れを、別れの気配を恐れている。溢れる事を知らぬ涙の代わりに、しだりは複雑のその胸の裡を吐露する。 「……王は、大切な者との離別にどう向き合っておられるのでしょうか」 しだりの独白を、龍王は静かに聞き届ける。逸儀も思う所があったのか、ただの気紛れかは判らないながら、口を挟む事もなく酒を煽っていた。 『離別などと大層なものではない』 苦笑するような聲が降り、頭を垂れるしだりの眉間を、風が撫ぜるように通り過ぎた。 『我が妹は此処に在る。此の朱昏の地に』 至極当たり前の事のように、龍王はそれを口にする。 しだりは口を閉ざし、暫し考え込んでいた。応えを己の中で昇華するように。価値観を其の侭鵜呑みにするのではなく、己の心を定める一つの指針にしたい。 そして、僅かに貌を上げた。 「……それと、もう一つ。実際に世界を治める時に気を付ける事などあれば、聴かせていただけますか」 それは、幼さを残す少年としての問いではない。 仙界の結界師たる、次代を担う龍神としての問い掛けだった。 「……調和を保つのも、しだりの役目の一つ。己に活かしたいと思います」 真面目な申し出に、傍らの逸儀が倦厭を顔に出した。神とはかくも頭が固い、とでも言いたげに。しかししだりはそれには堪えない。 龍王はただ静かに、しだりの問い掛けに対して言葉を編む。 『人の世は、人の統治する侭に。獣の世は、獣の駆け巡る侭に』 「――其処に棲む者に、任せろと?」 『如何にも』 永く一つの世界を統治してきたものの言葉は、堂々としていて揺るぎない。 しだりはその言葉を聞き届け、深く頭を垂れた。 ◇ 調子に乗って、酒を煽りすぎたようだ。 逸儀はぼやける頭を横に振る。気の付いたしだりが呼び出した冷水を顔に浴び、意識を覚ます。 「王よ」 『何か』 感傷的な色が、はぐれ狐の瞳に走る。 ――こんな事を訊こうと思ったのは、酔いゆえか。 「ぬしは、物部の最期を如何に思う」 『如何とも。人は死して儀莱へ還るものだ。我にそれを止める理由はない』 「……“人”かぇ」 禁忌の森で見た、抑圧されし一族の蜂起。 簒奪者と呼ばれた王は、彼らの叛乱を如何に見ていたのか、それを知りたかったのだが。 当の本人には歯牙にもかけられていないとその言葉で痛いほどに理解し、逸儀は息を長く吐き出した。 「呆気なかった」 『噫』 「実に呆気ないものよ……神に反旗を翻しておきながら、あの様とは」 朱の雨に打たれながら、微笑みと共に消えていく異形の姿を思い返し、また一口酒を飲み下す。 見世物としてつまらなかった? ――そうではない。 生まれし時より世の正道を外れた“逸儀”と名を受け、世を覆す化物として疎まれ、そしてその通りに振る舞ってきた。逸儀にとり、天神の末裔たる彼らは何処か自分を、自分の庇護した逸れの者を思い起こさせる有様だったのだ。だから、彼らの結末を注視していたのだが。 ――あれは、神に認められれば呑みこめてしまう類の感情だったのか。 脆く崩れ落ちた童そのものの心を思い返して、逸儀は考え込む。そんなものだったのか、と。 「……逸儀、は」 その様を静かに眺めていたしだりが、ふと口を挟んだ。 「どのような神なら、好ましく思える?」 問われた瞬間、秀麗な眉間の皺が、ぎりりと音を立てて寄った。 「我にそれを問うのかぇ」 倦厭を隠さず顔に出しながら、そう応える。しだりは首を傾けながらも、逸儀の険悪そうな様子には気づいていながら臆しない。 狐は扇の奥で溜め息を零し、真摯な龍神に言葉を返した。 「ならば、ぬしは調和から弾き出された逸れモノが恨み辛みをぶつけてきたらどうするのかの」 この少年――幼龍とて、調和を維持する神に属する存在だ。 逸儀はそんな彼らを毛嫌いし、反感を抱く立場にある。――それもこれも、向こうが先に此方を“逸れ”と看做したからだ、と逸れ者の王たる狐は思う。 しだりは僅かに考え込み、ややあって、静かに口を開いた。 「……とりあえず、全部聞き届ける、と思う」 「ほう?」 そんな相手に出遭った事はないから想像にすぎないけれど、と前置きをして、しかし龍神は真面目に逸儀の問い掛けに向き合おうとした。 「……相手を否定するだけでは何も変わらない、変れない。しだりは身をもって、それを知ってる」 水は止まってしまえば濁るだけだ。眼前に流れるこの大河だって、凪いでいるように見えながら、静かに静かに流れている。 価値観の違うものを、寿命の違うものを、感情の違うものを認めて、受け容れていかなければならないのだと、しだりはターミナルにやってきて初めてその事を知った。 「だから、しだりは聴きたい。その者が何を思っているか」 「……ふん。優等生な答えじゃの」 不服そうに鼻を鳴らしながら、その横貌に嫌悪の色はない。 口では彼是と云いつつも相手の美徳を認める彼は、やはり様々な逸れ達に慕われる王だけあるのだろう、と、しだりの目にはそう見えた。 「そうよの……」 暫し考え込むようなそぶりを見せ、ややあって、狐は拗ねるように、静かに口を開いた。 「責務を果たし、己にも他者にも誇りと威を保つ王は――憎たらしいが、好ましいの」 「……そう。そんな相手と、出逢えるといいね」 龍神の、慈悲すら滲む透徹した眼差しが痒くて堪らない。 逸儀は顔を背けると、腹癒せに近くにいた小童の尾を鷲掴んだ。ぴゃっ、と啼いて飛び上がった獣の尾を、手慰みに毛繕う。その耳に、ふと聲が届く。 『汝は、情深い獣よの』 ぽつりとそう零した、彼の聲が鼓膜を引っ掻いた。 「ぬしに云われとうないわ」 肉を一掴み持ち上げて、獣めいた所作で荒々しく食い千切る。充足感のある味が咥内に広がるが、乱雑に咀嚼し飲み下してもささくれ立った心は落ち着きを見せなかった。 全てを見透かす王の燈が、己の世界の神を思い起こさせる。 ――まるで。 これではまるで、世を引っ掻き回す自分自身さえも、彼の神の想定に含まれていたようではないか。 「……面白くない」 そう独り言散て、逸儀はまた一口、酒を煽った。 ◇ ――いつしか陽は沈み、代わりに僅かに欠けた月が姿を見せ始めていた。 控えめに瞬く星々はその光を水面に映し出し、眼前に広がる大河は星の海と姿を変えた。 持ち寄った酒とつまみを粗方(大半は逸儀が)片付け、二人の来訪者は龍王の元を辞するために立ち上がる。 「また明日も邪魔するぞぇ」 『構わぬが、狐。酒はなるべく控えよ』 細められた燈火と呆れたような物言いは、何処か人間染みていて。それが狐に対する友好さから来るものか、それとも単に面倒な狐の扱い方を覚えたからかは判らなかったが、何処か微笑ましいものだった。 「喧しいわ。我の好きにさせよ」 逸儀は拗ねたような声音でそっぽを向く。そして逸早く狐の姿に戻ると、地面を蹴って空に飛び出した。 『汝は如何する』 「……龍燈祭は友人を呼んでいるので、彼とゆっくり過ごします」 逸儀を見送った龍王に問われ、しだりは静かに応えた。彼が来てくれたら、北極星号への想いについて語ろう。彼は恐らく、わらって見送ってくれるだろうから。 『そうか。汝にとって善き一日であればよい』 「……はい」 穏やかな言葉を背に、しだりもまた、泳ぐように中州を飛び立った。 新しい年は、もうすぐそこまで迫っている。 <了>
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