双子の妹の棗が、0世界で、とあるチェンバーに立ち寄って来たのだという。彼女はそこで鬼の面を手に入れ、持ち帰って来た。 「なんかね……”鬼のお面”は、”過去に体験した、優しい記憶を見せるんだって……」 ココアの甘いかおりが部屋の中に広がる。棗は甘いかおりのする温かい湯気を一吹きしつつ、ぽつりと落とすように口を開けた。 要は「ふぅん」と軽い返事をしながら、鬼の面を両手で持ち、引っくり返してみたり角度を変えてみたりして、しげしげと眺めた。 何ら変わった所のない張り子の面だ。手作りのものらしく、表情や装飾からは人の手の温もりのようなものを感じ取ることができる。 「他には? どんなのがあったの?」 鬼の面を頭上に掲げ持ち、言葉だけを棗に投げる。要の問いに、棗はしばし思案顔を作り、視線を斜め下に向けた。 「狐とか……天狗のお面もあった。あとは……駄菓子とか……根付けとか」 「駄菓子かあ。鼈甲飴とか懐かしいなあ。小さい頃に行ったお祭りとかで食べたよねえ」 掲げ持っていたお面を下ろし、今度は妹の顔をまっすぐに見据えながら満面の笑みを浮かべ、要は声を弾ませる。 小さい頃、祖父母の住む田舎に帰省するたびに、両親はふたりを祭りに連れ出してくれた。小さい神社で行われる小さな祭りではあったが、盆踊りや、小規模ながら花火も打ち上げられたりもしていた。落日後の山々を背景に、満点の星に紛れ打ち上がる花火がとても綺麗だったのを覚えている。 ふたりがまだ幼い子どもだった頃に殺され命を落とした、優しかった両親。鮮やかに蘇るのは、歳月を経た今もなお、両親が浮かべる笑顔ばかりだ。 「これって、あたしもかぶれるのかな?」 言いながら面を顔にあてる振りを見せる。棗は要の行動を見つめたまま、わずかに首をかしげた。 「どうなんだろ……御面屋さんに訊いてからのほうが……いいかも」 「そう?」 応え、妹の顔を見つめ返しながら、要は軽く肩を持ち上げた。 お面をテーブルに置いて、替わりにマグカップに指を伸ばす。ココアはまだ充分に温かな湯気をのぼらせていた。 「ねえ、そういえば、棗、覚えてる?」 ココアを一口運んだ後、要はふと思いついたように言葉を次げた。ココアを口にしている棗が視線だけを要に返してよこす。 たちのぼる甘い匂いに目を眇め、頬を緩めながら、要は再び言葉を次げた。 ◇ あの日も今と同じように両親を思い出していたような気がする。 両親がまだ生きていた頃――つまり要と棗がまだ小さい頃のこと。 両親は、幼い娘たちに季節ごとの行事には積極的に触れさせようとしていたのかもしれない。きちんとした豆まきをするような家も少なくなってきたようだけれど、要と棗は両親が作ってくれた紙の容器に豆を入れて、後の片付けのことなどおかまいなしにばらばら家中に播いてまわった。 父が紙で出来た鬼のお面をかぶり、家の中を無尽に逃げ回る。それをばたばたと駆け回りながら追いまわし、無遠慮に豆をぶつける。いててて! と頭や尻を押さえおどけてみせる父と、苦笑いを浮かべながらも娘たちに同行する母。最後には玄関を開け放ってばらばらと豆を播き、その後は父と三人で風呂に浸かり、今度はお湯を父に引っ掛けたりして遊ぶのだ。 優しい、穏やかな追憶だ。 両親が殺された後、要と棗は叔父の家に身を寄せ暮らすこととなった。幸いなことに、叔父の人間性は確かなものだった。両親を目の前で殺されたという記憶は決して消え失せることのないものではあるが、それでも、二人はそれなりに平穏な生活を送れるようになったのだ。 そうして、中学に入り、自分はもう子どもではないのだと思うようになり始めた頃。 部活動を終え、叔父の家に帰る道の途中だった。示し合わせたわけではないが、校門を出たところで偶然に顔を合わせた要と棗は、二人連れ立って帰途に着くことにしたのだ。 まだ寒さの残る、二月の頭のことだった。陽が傾き、時計はまだ夕方の時刻を指しているというのに、空はもうすっかり夜のそれになっていた。 明滅を繰り返す街灯の下を歩きながら、二人は小さな頃の記憶を話し合っていた。通り過ぎる家々から、時おり豆まきをする子どもの声が聞こえてきたからだ。 そういえば豆まきしたよねー。要が口を開く。棗は無言でうなずき、表情を変えることもなく、ただ静かに要の顔を見つめた。 楽しかったよね。あたしら、けっこう本気でぶつけてたじゃない? パパ、あれって本気で痛がってたのかもしれないね。要が笑う。棗は笑う代わりに視線を細め、わずかに首をかしげてからうなずいた。 もう、豆まきを楽しめる年でもなくなっていた。大人を名乗るにはまだ尚早な年齢ではあったのかもしれないが、それでも、子どもだと胸を張って名乗れるような年頃でもなかったのだ。 両親の思い出を語り合いながら帰路を歩んでいた二人は、けれど、ほどなくして、ほぼ同じタイミングで同じ場所に視線を向けた。 明滅する街灯の向こう、薄闇の中に立つ街路樹の下に、ゆらゆらと横揺れしながら立っている人影があるのを見つけたのだ。 ――否、それは、人影と称していいものなのかどうか危ういようなものだった。 明らかに不自然な横揺れをしている。まるで体内に骨というものを持たない生物のようだ。しかし頭部にあたる箇所には顔のようなものがある。ぽっかりと穴の開いた眼孔、削がれた鼻、歪んで吊りあがった唇は顔の端まで切れている。 どちらが先に足を止めたのだろう。人影が立つ街路樹から数メートルの距離を置き、二人は足を止めていた。不思議と、視線は吸い寄せられるように人影を見据えたまま動かない。 まるで金縛りにあったかのように、二人はその場所から離れることが出来ずにいたのだ。 ――違う。そうではない。 その場に凍りつき身動きすらとれずにいたのは、むしろ要だけだったのかもしれない。 要、……逃げよう。 口を開き、要の腕を引いたのは、滅多に口を開くことのない棗だった。棗は要の腕を引き、その場から無理矢理に引き離すと、何度も振り向き人影の動きを確かめながら、まろぶような足取りで道を引き返したのだ。 棗に腕を引かれ、ようやく意識を取り戻した要は、棗の手を強く握って人影を睨みつけた。 逃げよう、棗。 口早にそう告げると棗の手を引きながら走りだした。 行き過ぎる家々から豆を播く楽しげな笑い声だけが聞こえてくる。 街灯は明滅を繰り返し、走る足元を絡め取るような影を伸ばす。 笑い声が聞こえる。影が歪む。何度となくつまずきながら、二人はそれでも手を取り合い走り続けた。 人影だったものが追いかけてきているのが分かる。振り向き確かめるまでもなく、まるでそれがすぐ後ろに張り付いているかのように、生温かな風を頬に感じるのだ。 楽しげに弾む笑い声が視界を阻む。見知った道のはずなのに、気がつくと二人は見たこともない袋小路に立っていた。 棗、棗。大丈夫? 声をかけながら、要もまた懸命に自己を宥めようとした。 両親を目の前で殺され、心に深い傷を負ってしまった妹を守れるのは自分しかいない。 棗の手を強く握りしめ、庇うように肩を抱きながら、要は意を決して振り向いた。 人影は袋小路の入り口に立ち、やはりゆらゆらと不自然にゆらめきながらこちらを見ている。歪みあがった口蓋が気味の悪い笑みを形作ったのがわかった。 要の手を握る棗の手に力がこもる。要もまた棗の手を強く握り返し、棗の目に人影が映らないよう、棗の顔を自分の首もとに引き寄せた。 笑い声が聞こえる。まるで渦を巻く悪意のように響いている。 人影がぐにゃりと動いた。要は棗を抱き寄せ、自分もまた瞼をかたく閉ざした。 ――ばらばらと、何かが身体に降りかかる。 その感触に、要は閉ざしていた瞼をゆっくりと開き、そうして、自分たちのすぐ近くに立つ男と女の姿を視界にとめた。 二人とも顔に福の神の面をつけている。そして、紙の容器から何かを掴み取り、”人影”に向けて投げつけている。 人影は空気を引き裂く金属音のような声を張り上げ、大きくのたうち回っていた。男と女はただひたすらに何かをぶつけ続けている。 パパ? ……ママ? 声にならない呟きを落とす。それに気付いたのか、棗もまた顔をあげていた。そうしてやはり同じように、懐かしい両親を呼んだ。 ◇ 窓をたたく雨の音で目を覚ました。 要はテーブルに伏せていた顔を持ち上げて目をこすり、向かいで同じように寝ている棗の姿を検める。小さく頬をゆるめた後、視線をゆっくりと窓の外に向けた。 ばらばらと窓をたたく雨。 「……夢か」 独り言を呟き、ココアの残っているマグカップに目を移す。ココアはもうすっかり冷えていた。 カップを洗おうとして椅子を立ったとき、要は、ふと、テーブルの上に数粒の豆が転がっているのを見つけた。 つまみ上げてしげしげと確かめた後、要は静かに笑みを浮かべる。 「ありがとう、パパ。ママ」 ゆっくりとそう告げて、要は再び窓の外に目を向けた。 どこかで、両親がふわりと笑ったような気がした。
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