青海要は眉間に力をいれて、不機嫌な顔をした。 額から流れる不愉快な汗、水分がぐんぐんと失われていくのがわかる。鼻孔をくすぐる乾いた空気と体臭、安物の香水が混ざった悪臭が要の嗅覚を痛めつける。目にはいるものといえば、赤茶色の壁、青い空といくつかの建物が見える窓。今座っている椅子はがたがたで、そろそろお尻が痛くなってきた。 なんでこんなことになっちゃったんだっけ? 要は自分がどうしてこんな汚い部屋で、両手両足、さらにはご丁寧にも口には猿轡の自由ひとつない監禁状態に陥ったのかを考えた。 だって、あたし、誘拐されたんだもん。 ――ことは数時間前に遡る。 世界遺産を狙った旅団を捕まえる大掛かりな作戦に参加した要はシェイムレス・ビィを捕まえることに成功した。 しかし。 そのせいで、四日しか世界遺産巡りが出来なかった。 旅団を捕えるという第一目標はあったが……覚醒前は壱番世界の日本生まれの普通の女子高生である要には海外旅行の経験は皆無といってもいい。 今までロストレイルでいろんな世界へと行ったが、壱番世界での旅行となると別だ。 「……」 帰りのロストレイルを待つなかで要は不満げな顔をした。 「要ちゃん? どうしたの?」 ベンチに腰かけた要の横にいるカーボーイハットとサングラス、革ジャン姿のナオト・K・エルロットが問いかける。 「たいちょー、あたしね」 「うん?」 「不満なの」 「不満?」 「そう。このまま帰るなんてすごく不満」 拳をぐっと握りしめて力説する要はナオトを見上げると両手を胸の前で握りしめ、目は宝石のようにきらきらさせる。 「ねー隊長、あたし、もっと世界遺産巡りしたかったから、あと一か所だけ何処か行かせて!」 「……いや、要ちゃん」 「ねー! 隊長!」 期待に輝く目はイエス以外の返事なんて聞かないと訴える。 「……しょうがないなぁ」 弱弱しいが承諾の声を聞いた瞬間、要はぱっと笑顔を浮かべて、その胸に飛び付いた。 ロストレイルで知り合ってから兄のように慕うナオトには護ってもらったり、運動会では旅団を騙したり、ときにはナレッジキューブを勝手に失敬して巨大スゴロクを作った仲である。――はたからみるとぱしり? と問われそうだが、それはナオト本人のためにもみな口を噤んでいる。 そんなわけで、ナオトは妹として可愛がっている要のためにもアレコレとツテやらを駆使し、まさに語るも涙、聞くも笑い話のような苦労に苦労を経て二枚のチケットをゲットした。 「隊長、ありがとう!」 要の笑顔を見るとどんな苦労もすべて報われた気持ちになるのだから不思議だ。 ナオトがゲットしたチケットはエジフト南部――砂漠地帯。建物も土をこねて作られ、民族服の人々……これだけで要は大興奮だ。 「いや、けど、暑いなぁ」 行き先を失敗したとナオトは照りつける太陽の容赦なさと着ている服をすべて脱いでもまだ足りないほどの灼熱にがっくりと項垂れた。 世界遺産が多いと思って選んだが、これは完全に失敗だ。 「えー、そうかなぁ?」 いつ購入したのか、白いベールをかぶってはりきっている要は首を傾げる。 「げ、元気だね、要ちゃん」 「うん。隊長! ピラミット見よう! スフィンクス、それにね、なんとかっていう墓地もあるし、いっぱい見て回らなくっちゃ!」 旅行者用のパンフレットを両手にもって要は意気揚揚と告げる。 「それはいいけど、要ちゃん、あんまり離れちゃだめだよ。一人で出歩いたら危ないから、ね?」 幼子に言い聞かせるようにナオトは優しく諭すのに要はむっと唇を尖らせる。腰に手をあててナオトを睨みつけた。 「大丈夫よ!」 「けどさ、人も多いし」 街のなかは旅行者が多く、観光客を相手に商売しようと出店が路上が軒を連ねている。 ナオトの経験上、この手の店はぼったくりが多い。要は気が強いが、世間知らずなとこもあるので騙される可能性は大いにある。いや、もしかしたら人の多さからスリにあったり、変な男に絡まれたり……心配のタネは尽きなることがない。 「こう、暑いと俺も本領発揮ってわけにもいかないからさぁ」 サングラス越しに怨みがましく空を睨みつける。 「だから、要ちゃん、俺から離れないように」 「あたし、そんなに子供じゃないよ、隊長」 ぷいっと顔を逸らして要は拗ねる。 「柔道だって習ってるんだから!」 「けど」 「あたしになにかあったら心配なの?」 拗ねた顔のまま、ちらりっと要はナオトを横目に見つめる。 「当たり前よ! 可愛い妹になにかあったらってもう今から心配だよ!」 その一言に要はむすっとした顔をした。 ナオトとしては当然のことを口にしたのかもしれないその一言に、要にはなんともいえない苛立ちを与えた。 なんとなく、胸のこー、奥がムカムカする! 「もう、隊長なんてしらなーい!」 「え、ちょっと要ちゃん、危ないって」 ナオトの慌てる声を背に聞きながらもあえて無視。 「そんな子供じゃないんだから!」 ぷりぷりと怒りながら大股で前に進んでいく。へばっていてもナオトのことだからあとからついてきてくれるに決まっているのであえて振り返らない。 確かに、あたしは小柄だし、ナツメほどおしとやかでもないけど。 考えたとたんになんともいえない自己嫌悪が胸に広がった。胸にそっと手をあてるとため息が漏れる。 あたし、なに怒ってるんだろう。 自分で自分の行動が理解できなくて、苛々してしまう。ナオトがせっかく連れてきてくれたのだから、ここは純粋に楽しもうと考え直して足を止めて、振り返る。 「あれ?」 人、人、人……しかし、ナオトの姿はない。 「う、うそ。ど、どうしよう……た、隊長! どこ?」 もしかしなくてもはぐれた? 「あたしのばか」 ぽつりと言葉を漏らして、要は富士さんを両手にぎゅうと抱えて元来た道を引き返す。真っ直ぐに歩いたのだから、戻ればきっとナオトと合流できるはずだ。 「あ、隊長?」 小走りに駆けながら、建物と建物の小道に見慣れた黒の革ジャンを見つけて要は突撃した。 「たいちょ……!」 片手を伸ばして、黒の革ジャンの端を掴むと、振り返った相手は別人だった。 「ご、ごめんなさい! 隊長!」 要はパニックに陥って、そのまま小道を進んでいった。だがその行動がすぐに間違いだと気がついた。進めば進むだけ人の姿が減り、いかにも危険な雰囲気が漂っている。 「ひ、引き返したほうがいいよね? 富士さん、これは」 引き返そうとすると三人の男の姿があった。 びくりっと要の体が震える。慌てて前へと思ったら、そこにも男が二人。要を見てにやにやと笑っている。 富士さんをぎゅうと握りしめて要は恐怖に立ちすくんだ。 「た、隊長……!」 そして要の世界は暗転した。 「要ちゃん? どこにいるの?」 観光客がごったがえす道を今の精一杯のスピードで駆けながらナオトは焦っていた。要が一人ですたすたと歩いていくのに、日差しの強さに参っていた頭と目は容易く見失ってしまった。 「要ちゃん?」 要のことならすぐにわかると思ったが……不安が胸を覆い、ごくりと息を飲む。 不愉快に流れる汗がいやに肌を冷たくさせる。道を歩いていると不意に警官らしい二人組の男に呼びとめられてぎょっとした。向こうもナオトの風貌を見ると人違いだとすぐに詫びてきた。要のことが気になるが、ついなにかあったのかと聞くと、ここ最近、ナオトのような服装をした観光客相手の誘拐犯が出没しているという。 まさか、まさかな。 早足に歩いて要の名を口にしながらナオトは拳を握りしめた。 「要ちゃん? ん、あれは」 必死に叫びながら、ナオトは小道に気がついた。カンに従ってなかにはいり、道に落ちているパンフレットを拾い上げる。 「これって要ちゃんが持っていた……? そうだ、ノートは?」 ノートには要からの書き込みはない。 「何かあった? そう遠くにはいってないよな? ……要ちゃん!」 不安と焦りは頂点に達した。 要になにかあった。 その瞬間、全身が言い知れぬ怒りにかられた。 「俺が傍にいたのに……!」 暑さが身体から体力を奪っていくが、そんなことにかまってはいられなかった。ナオトは今の猛る気持ちに身を任せて駆けた。 要は気がついたとき、知らない部屋にいた。 今の状態を把握するのにたっぷり一分ほど必要だった。 「あたし……ここ」 ぎぃとドアが音をたてて開くとあきらかに悪党という風貌の男が一人入ってくるとにやにやとした笑みを浮かべて要を見る。 「怖いか、怖いよなぁ。大丈夫、ちょっと大人しく、どこのホテルに泊まってるのか教えてくれないかい? そこに連絡してパパとママに助けてっていわなくちゃな」 「お父さんとお母さんはいないわ。自分で帰るからこれを解いてよ!」 要は気丈に睨みつけた。 「可愛い顔をして怖い、怖い」 あきらかに馬鹿にしながら手を伸ばして要の顎を乱暴に掴んできた男の指に力いっぱい噛みついた。 「いてえ!」 男が乱暴に手をふるのに要は椅子ごと突き飛ばされた。衝撃の大きさに頭がくらくらした。 「このアマ!」 噛まれた男が激情に任せて拳を振るうのに要は恐怖にぎゅっと目を閉じた。すると、ばたばたと奥から複数の足音が聞こえてきた。 「おい、どうした」 「傷つけるなよ」 宥める声や呆れた声に、殴られないとわかった要はそっと瞼を持ち上げた。男が五人。路上で会った男たちだ。それにナオトのような黒の革ジャンを見ると、要は心臓が掴まれるような気持ちになった。 隊長、隊長……ナオト、ナオト! 恐怖に支配された心のなかにぱっとナオトの顔が浮かぶ。いつも危険なとき、彼は助けてくれた。今回だって、ナオトが一緒にいたのだ。絶対に、絶対、あたしのこと、助けてくれる。だって、ナオトだもん! 「……っ、あ、あんたたち、はやくあたしのこと、解放しなさい。じゃないとひどい目にあうわよ」 要は吼える。 「あたしには、すごく、すごく強い……助けてくれる人がいるんだからっ!」 男たちは余裕たっぷりに笑っている。拘束された要が何を言ったところでただの強がりにしか映らない。 「へぇ、そいつは怖い、怖い。さっさと金をまきあげちまわないとなぁ」 「……本当なんだからね!」 「お嬢ちゃん、こっちとら荒事に長けた奴らばかりなんだよ。どうこう出来るって本当に思ってるのかい?」 誘拐犯のリーダーらしい男が懐にある銃を見せるのに要は身を竦めた。 「絶対に、絶対に……ナオトが助けにくるんだから!」 涙がこみ上げてきたのを必死に耐えて要は叫んだ。 「ナオト、ね。そいつはお嬢ちゃんの恋人かい?」 「ち、違うけど」 「お友達?」 関係と言われて表現できる言葉が咄嗟に思いつかなくて要がつい黙ってしまうとリーダーらしい男は吹きだした。 「赤の他人を助けるお人よしなんているのかねぇ」 「……ナオトは、絶対、絶対に助けにくるわ。あ、あんたたちなんて、絶対に負けないからっ! ナオト、隊長ぉ! たすけて!」 「ち、うるせぇ、おい。タオル、貸せ」 赤の他人だって、あたしとナオトは隊長、副隊長って呼び合う仲だもん。どれだけ敵が多くたって、絶対に助けにきて、護ってくれるんだから。 言いたい言葉が山のように胸から溢れてるのに、タオルを噛まされて何も言えない状態にされてしまった。 「ふん、困ったもんだ。はやくホテル名をいわねぇと後悔するぜ? お前ら、ちょっと行くぜ」 男たちは要を脅すのに飽きたのか、すぐに部屋を引きあげていった。 悔しくて、腹が立つのと同時に、ナオトのことを考えると心細さが募った。 震えてしまうくらい怖い。 大丈夫よ。ナオトがくるもの。絶対、絶対によ! 要が恐怖と戦っていると、足元に見慣れたピンクの物体がひょこりと現れた。――富士さんだ。 「ん、んんっ」 要は富士さんに必死に声をかける。富士さんはきょとんとしたあと、こくこくと頷いて、ズボンのポケットからノートを取り出してくれた。後ろ手に縛られている要はそれを受け取ると、手を必死に動かして、ペンを持つことにも成功した。 幸いにも窓から外が見えるので、ここがどこなのかわかるヒントになるようなものはない――必死に首を伸ばして、外の建物を見ていく。 手首の痛みを我慢して要は必死に自分がどこにいるのか、どこまではっきりと書けるかわからないがペンを走らせた。 何時間ほど経っただろうか、額から汗が吹き出し、意識がもうろうとしはじめた。不意に猿轡が外されて水を与えられてようやく要の意識ははっきりとした。自分を誘拐した男たちだ。きっと睨みつけると男は肩を竦めて笑った。 「まだそんな顔を出来るのかい。お嬢ちゃん、そろそろ自分の名前やらホテルのこと言う気になったかい」 「……もう夜ね。あんたたちは知らないから教えてあげる! ナオトは夜になったら無敵なのよ! 貴方達に勝ち目はないわ!」 「ナオト、ナオトってうるせぇな。こうなりゃ、ちょっと痛い目にあってもらうか」 男が呆れた顔をして要の胸倉を掴んで、拳を振り上げてきた。今度こそ、殴られる。要は信じていた。だって、ナオトは危ないとき助けてくれる。ブルー・イン・ブルーのときだって、船から落ちようとしていたときに助けてくれた、そのとき要にとってナオトは……どんなときだって助けてくる要の王子様なんだから! 「ナオト……助けて!」 ぱしゃん! 硝子が砕け散る。男たちが驚いて顔をあげるのに要も振り返ると、月の光を背にした男が――佇んでいた。 「ナオト!」 要が歓声をあげた。 「要ちゃん……! お前ら、要ちゃんになにしてるんだよ! 覚悟出来てるんだろうなぁ? 要ちゃんをこんな怖い目に合わせといて無事で帰れると思うなよ?」 ナオトは床を蹴って要を掴む男の股間にキックを放ち、素早く顎を殴った。要が宙に放り出されるのを両手で優しくキャッチすると、忌々しい拘束を無造作に引きちぎって床に降ろし、自分の着ている上着を肩にかけた。 「ナオト!」 要の声にナオトはすぐに殺気立つ男たちと向き直った。 怒りがナオトを支配していた。 要の華奢な身体は震えていた。冷たくなっていた。縛られた手首は赤くなっていた。本当は俺が護らなくちゃいけなかったのに、こんな目に合わせた。 「うおっ!」 男の一人が銃を抜いたのにナオトは目にもとまらぬ早業でトラベルギアを抜いて、相手の掌を撃ち抜いた。もう一人が叫びながら殴りかかってくるのをさっと避けて、腹に蹴りを放つ。さらに男たちの脚を狙い、撃つ。手加減するという思考が要を見た瞬間になくなっていた。 「ナオトっ!」 要は震える声で叫び、よろけながら立ちあがると男を殴りつけるナオトの背に抱きついた。 「……っ」 荒い息と冷たい汗を要は感じる。 「だめ、それ以上したら死んじゃう! 私は平気だから、ナオト!」 ナオトの赤い瞳と要の涙の幕を帯びた瞳がぶつかりあう。そのとたんにナオトは要を両手で強く、強く、抱きしめる。 「無事で良かった!」 抱きしめられた要は耳まで熟れた林檎のように真っ赤にして身じろぎせずに、よろよろとナオトの背中に手を回した。 「ナオト、凄く探してくれたんだ」 「もちろんだよ! ノートを見たら、なんかいろいろと書いてあってさ、それを頼りにして……要ちゃんが、強い子でよかった……けど、女の子なんだから、無茶しちゃだめだよ」 優しく頭を撫でられて要はこのときだけは素直に頷いた。だって、やっぱりナオトは王子様だもん。 「よかった……あ、ごめん」 ようやく自分が要をしっかりと抱きしめているのに気がついてナオトはゆるゆると離した。要はナオトにとって護らなくちゃいけない存在だ。可愛い妹だから、と今まで思っていたが抱きしめたとき感じた華奢さや柔らかさに正体不明の胸の高鳴りを感じて戸惑を覚えた。 「要ちゃん、行こうか」 「ナオト?」 「夜は夜で観光するところいっぱいあるからさ。けど離れないように手を繋いでいよう?」 ナオトが伸ばした手を要ははにかんで掴んだ。 「うん!」
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