クリエイターthink(wpep3459)
管理番号1390-13732 オファー日2012-06-13(水) 22:04

オファーPC ヴィンセント・コール(cups1688)コンダクター 男 32歳 代理人(エージェント)兼秘書。
ゲストPC1 アルウィン・ランズウィック(ccnt8867) ツーリスト 女 5歳 騎士(自称)
ゲストPC2 業塵(ctna3382) ツーリスト 男 38歳 物の怪
ゲストPC3 イェンス・カルヴィネン(cxtp4628) コンダクター 男 50歳 作家

<ノベル>

 暮れ泥む空は橙色に染まり、狭間を薄紫の入道雲が悠々と泳いでいる。そんな美しい夏空の下、イェンス・カルヴィネンは同居人のアルウィン・ランズウィックを連れ立ち歩いていた。のんびりと進むイェンスに反し、アルウィンは小柄な身体で先に立ち、時折跳ねるようにその身を宙に舞わせる。空の色彩をそのまま反射したようなコンクリートの上で、黒い影が忙しげに動いている。アルウィンは手にした虹色のロリポップ──これは先程、イェンスが散歩ついでに買い与えたものだ──を一つ舐め、上機嫌でイェンスを仰ぐ。
「イェンス、うまいぞー! これにしてよかった!」
「うん、だいぶ悩んでいたものな。アルウィンが嬉しそうだと僕も嬉しくなるよ」
 なんの衒いも無く告げると、少女は大きな瞳をキラキラと輝かせ、それから満面の笑みを浮かべて鼻歌混じりに進んで行く。今日のお夕飯はなんだろなあ、あれがいいかな、これがいいかな、なんて即興の歌詞は酷く平和的で年相応に子供らしい。
 なだらかな勾配をころころと転げるように進む後ろ背に和んだイェンスの顔は、だが着実に縮まりつつある自宅との距離を思えば俄にその色を変えた。端的に言ってしまえば、分かりやすくブルーな表情である。
 ひとたびそうなってしまうと、後には長々とした溜息が続く。
(……参ったな)
 実はここ数週間の間、イェンスは追い詰められていたのだった。
 締め切りに。スランプに。そして、彼の代理人である、ヴィンセント・コールに。
 今ばかりは、これら全てを一括りにした上で「悪魔」と呼んだとしても差し支えはないだろう。


 ***


 切っ掛けは未だに判然としないがある日の夜、書斎でいつものようにテーブルにつき、いつものように執筆準備をしているうちに、イェンスは自らの異変に気付いた。
 ──おかしい。
 言葉がまるで出て来ない。いや、浮かばないのだ。
 作家としてはベテランの域、単発の仕事のみならずコラムのような連載までもを抱えているイェンスにとってこの状況、いわゆるスランプに陥るのは酷く久しぶりの事だった。
 どこか懐かしい感覚にある種の感慨を覚えるも束の間で、次の瞬間には途方も無い焦燥感が全身を襲った。
 慌てて手元のカレンダーを確認すると、約二週間後の日付が丸く囲まれている。脇に『Dead!』と踊る不穏な赤文字は、彼の有能な代理人が書いたものに違いないのだろうが、この場合のDeadが決して冗談では済まないだろう事は推して知れる。あははと鼻で笑い飛ばそうにも、こと仕事に関してはシビアな男の絶対零度の微笑みが脳裡をチラつき邪魔をするのだ。
 今回求められているのは、『マーカス・ボイド』名義でイェンスが綴っている成人向けダークファンタジーの原稿である。
 ものは試しで得意の児童文学や日常コラムに手を掛けてみると、こちらはすらすらと文章が出来上がる辺り、どうやら執筆自体が不可能という訳では無いようだった。だが、その勢いのままダークファンタジーに移行しようとすると、たちまち筆が萎えて言葉が潰えてしまう。打つ術無し。
 途方に暮れに暮れ、限界まで頭を悩ませ、ふと気付けばイェンスは──突っ伏して寝てしまっていた。
 追い詰められた瞬間、彼を形成するのほほんとした性格の一片が顔を覗かせ、まあなるようになるだろうと匙を投げたのである。
 それは言うまでもなく、極めて楽観的な見通しであった。そして致命的な誤りであったと気付いた頃には、運命の日付はいよいよ明日にまで迫っていた。
 動転するままアルウィンを引き連れ、籠りきりの部屋から出たのは、外の空気に触れる事で何らかのインスピレーションが得られないだろうかと思ったからだ。アイディアさえ浮かんでしまえば、貫徹をしてでも原稿を仕上げる覚悟は出来ていた。されど現実は非情なもので、時間は悪戯に過ぎて行き、得たものと言えばアルウィンが喜々として舐める飴だけだった。
 帰路を辿らざるを得ない足取りが無意識に鈍くなる。
 祈りにも似て振り仰いだ天は、未だ赤い。血のように赤い。
 ああもしやあの不穏な色合いは、完膚無きまでに叩きのめされるだろう自分の未来を予言しているのではなかろうか。もう少し、もう少しさえ時間があれば天啓を得られる気配がするのに。
 道の分岐点に到達し、いよいよ足がぴくりとも動かなくなる。このまま真っ直ぐ突き進めば家、曲がれば駅に出る。
 今夜には鳴り響くであろう電話のベルが恐ろしい。
 動物的な勘でアルウィンが振り返るのと、イェンスが彼女の腕を掴み引き留めるのはほぼ同時だった。瞬く灰の瞳が鏡面となり、青ざめた男の容貌をくっきりと映し出す。
「イェンス、どした? ぽんぽんいたいか?」
 首を振り、イェンスは意識的にやわらかく微笑む。
「いいや、大丈夫さ。……なぁアルウィン。突然だけど、今日は外でご飯を食べないかい」
「お外?」
 突然の申し出に、アルウィンがきょときょとと瞬く。イェンスは頷き一つで続けた。
「ああ。例えばええと、インヤンガイにでも行ってみようか。美味しい屋台を知っているんだよ。たまには変わった夕飯も良いだろう」
「おお!」
 途端、幼顔がパッと輝く。大袈裟なまでに相槌を打ち、アルウィンは喜々としてイェンスの手を取る。
「うん、うんうん! いいぞ賛成! アルウィン、今日はお外でごはん食べます! あっでも」
 ぶんぶんと繋いだ手を上下させていた動きが、ぴたりと一時停止する。そうして、そろりと首を傾げた。
「ゴウジンは? 置いてくのはなんかちょと、し、し……」
「忍びない?」
「それそれ!」
「なるほど。そうだなあ……」
 目下の者を想うような、しかつめらしい頷きが可愛らしい。
 笑いを誘われてイェンスは目尻を下げ、しかし脳内ではこの小さな子供を言い包めるための台詞をフル回転で叩き出す。背に腹は変えられないのだ。
「業塵とはまた今度三人で一緒に行こう。今日はいつにも増してぼんやりしていた気がするし、そっとしておいた方がいい」
 とはいえ業塵のぼんやりレベルには実のところ波が無い。アルウィンも鼻に皺を寄せた。
「ええー、そか?」
「そうそう、なんだったらお土産でも買って行けばいい。さあ、行こう」
 少女は少し迷う素振りで道の先を見たが、結局非日常の誘惑に抗えなかったのだろう。腕を引かれるままカクンと左折し、浮かれた足取りで歩き出す。
「よーし。アルウィン、ゴウジンにお菓子買ってってやろーっと!」
「ははは、アルウィンは本当に良い子だなあ」


***


 まずはインヤンガイで夕食を済ませる。それからなんやかんやとアルウィンを説得して零番世界まで高飛びし、身を潜めてどうにか原稿を仕上げる。
 漠然とではあるが、三日もあればなんとかなりそうな気がする。泣いて縋ったところであのヴィンセントが譲歩しないだろう事は織り込み済みであるのだから、これはいわば不可避の実力行使という奴だ。
 ひっそりと静まり返ったホームの隅で先のスケジュールについて画策していると、アルウィンがあっと声を上げて空を指した。
「来たー!」
 ロストレイルは突如として虚空に出現し、そのままゆっくりと垂直に、滑らかに降りてくる。漸く沈みつつある巨大な夕日を背負う車両は自ら発光している如き眩さで、目に痛い程だ。
 喜々として跳ねるアルウィンを宥めながらイェンスは目を細め、直後、あまりの驚愕に瞠目した。
 今まさに目の前で開いた扉から、たった一人の乗客がホームに降り立って来る。
 その挙動の一つ一つが、視界の内側でスローモーションのように再生された。
 コツ、と地面を打ち鳴らす、磨き上げられた革靴の踵。仕立ての良いスーツを、隙無く着込む身体。徐々に逆光に照らし出される細面は紛れもなく──。
「──これはこれは、ミスタ・カルヴィネン。奇遇ですね」
 見知った二人の姿を認識するなり、ヴィンセントは朱に染まる顔に彼にしては珍しく満面の微笑みを浮かべた。
 一瞬の空白。夏にしては寒々しい一陣の風が、互いの間を吹き抜ける。
 そうして我に返った次の瞬間、イェンスは弾かれたように踵を返し、アルウィンは全身の毛を逆立てる勢いで天敵に吠えた。
「おまえーっ! ヴィンセント!!」
「逃げろアルウィン!」
「えっ、あっ! イェンスどこ行く!?」
 いきなり叫び、駆け出したイェンスに虚を衝かれ、少女は天敵を威嚇するもそこそこで慌てて後を追って行く。
 ぽつんと取り残されたヴィンセントは間も無く溜息を吐き、思案気に顎を撫でつつ一人ごちた。
「……悪い勘というのはよく当たるものですね」
 瞬く間にターゲットを見失った不測の事態にも関わらず、ヴィンセントの顔に焦りは見受けられない。それどころか、そのかんばせには程なくして余裕の色が滲んだ。
 胸を張り、動じぬ足取りで悠然と階段を降りていく。


***


 駅階段の物陰に身を潜めるようにしながら、イェンスは改札を潜り歩き去るヴィンセントの後ろ背を固唾を呑んで見守った。
 予想外の遭遇に度肝を抜かれ、咄嗟の判断で遁走してしまったが誤りだったかもしれない。と思いかけたものの、そんな希望は即座に打ち消した。あの凄惨な笑みは、間違いなく何もかもを見抜いているからこそなのだろう。理由を考えたところでナンセンスだ。優秀な男というのは、鼻も利くのだから。
 恐慌を来たし過ぎたせいか、ふと我に返ると傍らにアルウィンの姿が無い事に気付いてイェンスは頭を抱えた。額に滲み出た冷や汗を拭い、トラベラーズノートを開く。
『ヴィンセントは恐らく家に向かった筈だ。だから帰らずに、戻ってくるように。僕はまだ駅にいるよ』
 そこまで文字を走り書き、思い止まる。
 速やかにページを捲ると、自分がいつのまにか留守番をしている事すら気付いていないのだろう同居人に向けても送信する。
『すまないが今日は帰れないかもしれない』
 そうしてノートを閉じ、二人の応答を待った。
 だが、5分、10分──いくら時が経てども、返事は無い。
「……おかしいな」
 眉を顰めて懸念するが、こうしている間にもヴィンセントが、ぬっ!と背後から顔を出すのではないかと気が気ではなかった。
 入り口の方向と階段とをおもむろに見比べること暫し。やがて、イェンスは身を屈めたまま全速力で駈け上がった。
 二人にはまた改めて連絡をしよう。予定は狂ったが、このまま単身零番世界に避難するのが得策だ。そうに違いない。
 今の今まで暗澹としていた未来に不意に一筋の光が差し込んだ気がして、パァアッとらしからぬスマイルを咲かせるもそこそこ。
 そうは問屋がおろさなかった。
 ホームに突進するなり、横合いから忽然と現われた何かに思いきり弾き飛ばされたからだ。
「ぶっ!」
 激痛に鼻を抑えて仰け反り、眼鏡の奥の瞳を白黒とさせる。そして何より、改めて見据えた光景にイェンスは唖然として言葉を失った。
「なっ」
 立ち塞がった壁の正体──同居人の業塵は、ゆっくりと腕を組み合わせて平然と仁王立ち、行く手を遮る。
 濃紺の直垂の袖が風に翻り、半ば西日に融け込んだ姿は幻のようで現実味に乏しい。思わずぽかんと見下ろし、動揺を引き摺りつつもイェンスは程なく問いかける。
「や、ぁ業塵。こんなところで会うなんて。いつのまに外出したんだい、どこからの帰りかな?」
「否」
 横に首を振られ、理解し兼ねて瞬きを早める。
「ノートでも連絡したんだけど、これからちょっとした野暮用で零番世界に行くんだ。よかったら一緒に」
「否」
「……わかった。じゃあ留守番を」
 よく分からないがこのままでは埒が明かない。口を動かしながらもさり気なく爪先を出すと、図ったようにスッと横に業塵が動いた。つまり、また目前を遮られた形だ。
 イェンスは言葉を呑み、真っ直ぐに業塵を見つめる。業塵の茫漠とした眼差しもまた、イェンスを見詰め返す。
 イェンスが右に動く。ス、と業塵がスライドする。イェンスが左に動く。スス、と業塵がスライドする。
 動く、スライド。動く、スライド。
「……」
「……」
「……ええと」
 そんな馬鹿げたやり取りを繰り返す間に、イェンスは突然悟ってしまった。表情筋が引き攣り、すぐには言葉が出て来ない。
「……ヴィンセントだね?」
 漸くの一声に重々しい頷きがあり、業塵はそっと懐を探るようにして取り出したものを高らかと天に翳した。
 狼狽える男の顔を、どこか面白がる目付きが仰ぎ見る。
「是」
 その手が握り締めている、光り輝く巨大なお菓子の詰め合わせパックは──業塵がヴィンセントによって買収された事実を、あまりにも無慈悲に語っていた。


***


 ところ変わって同刻。
 逃亡を防ぐべく駅のホームに巧妙且つ珍妙な罠を張った張本人は、着々と雇い主の住処へと近付いていた。
 今までも何度か似たような事態が起きた経験はあるが、今回のようなイェンスの慌て振りは過去最高である。虫の知らせで様子を見に来る気になったのは幸いだった。
 果たして件の原稿は、現在どのような状態にあるのだろうか。
「頭が痛い……と、」
 気付けば漸く太陽が沈みきり、住宅地帯一帯は半ば薄闇に満たされている。その先にある目的の借家へ視線を伸ばすと、柵の前に佇む小さなシルエットに気付き、ヴィンセントは口を噤んだ。
 ほぼ同時に、向こうも招かれざる客の存在を察したようだ。
 獣のように低く唸ったアルウィンは、ピンと耳を立てて身構える。燐光でも帯びているように白く爛々と輝く対の瞳。
「またお会いしましたね。こんばんは」
「──おうち、守る!」
 鋭い眼光に怯むことなく挨拶をなしたヴィンセントを襲ったのは、返事代わりの啖呵と体当たりだった。
 突進してくる猛獣をひらりと躱した男は、制止を促すように片手を挙げて素早く距離を置く。
「お待ちなさい、貴女出会い頭にそれはないでしょう。礼儀として、挨拶には挨拶を返さなければ。こんばんは」
「うるさい!」
「こんばんは」
「か、え、れーー!!」
 嘆かわしくも、相変わらずこの子供はこの調子らしい。
 アルウィンに礼儀作法を仕込み、教養を身につけさせる──そう遠くない日に決めた決意が早くも真っ二つになりそうな予感を覚えたヴィンセントだったが、あれから自分なりに『おこさまの扱い方』について勉強していた。
 右に左に猛進するアルウィンをてきぱきと避け、いなしながら、おもむろに懐に手を入れる。
「!」
 すると本能的に何かを察したのだろう、目と鼻の先でアルウィンがピタリと一時停止した。闘争本能を抑え込んでいるのか、未だその鋭利な牙は全力で剥かれているままだ。
 一触即発の膠着状態を打ち破ったのはヴィンセントが先だった。
「じゃーん」
 真顔且つ棒読みの擬音に合わせ、取り出された物に反射的にアルウィンは釘付けになり、即座に目を瞠って声を上げた。
「あっ! "ビービ玉"!」
「いいえこれは"おはじき"です」
「はじ……?」
「おはじき」
「きれー!!」
 街灯の冴えた照明を浴び、ヴィンセントが手を揺らす度におはじきは色のニュアンスを微妙に変え、キラキラと光りを放つ。
 ビー玉とはまた趣の異なる『いい感じの形』に心囚われたアルウィンの顔は、ふわぁ~っと緩み、早くもヴィンセントに対する敵意を忘却しつつあった。
 うずうずと小柄な肩が動き、訴えるようにぴょんと跳ねた。
「ちょうだい!」
「駄目です」
「なんでだ!? けち、けちー!!」
「そんなに欲しいですか? なら、貴女が正しい挨拶をしたらお譲りしましょう。はい、"こんばんは"」
「う……こばは」
「こんばんは」
「こ、ん、ばーんー……は」
「よく出来ました」
 約束通りにピンと赤いおはじきを一つ飛ばしてやると、アルウィンは振り切れんばかりに尻尾を揺らして飛び付いた。だが暫く矯めつ眇めつした後で、まだヴィンセントの手にある他の色が気になるのか、物言いたげにジッと見詰めてくる。なので何度も繰り返し繰り返し『即席挨拶講座』をなし、そのたびにピシピシとおはじきを与えて躾をした。
 ついでに、イェンス宅の敷地内にゆっくりとしかし着実に上がりこんで行く。すっかりガードの甘くなった門番は、おもちゃに気を取られて隙だらけだ。
 ──なるほど、どうやらこのやり方は間違っていないらしい。
 飴と鞭作戦に確かな手応えを得たヴィンセントは、またサッと何かを取り出す。すると再びアルウィンが跳ねる。
「じゃじゃーん」
「ああっ! ぴーぴー鳴る奴! アルウィン、みたことある!」
「じゃじゃじゃーん」
「あああっ! なに、赤いのなんだ!?」
 壱番世界の素敵なおもちゃに骨抜きにされたアルウィン、ここに陥落。
 無表情で吹き戻しを口に咥え、ピーヒャラと鳴らしながら、けん玉を器用に操る男は、少女を引き連れ扉の向こう側へと消えて行った。


 ***


「なんということだ……」
 そんなこんなで駅から出ざるを得なかったイェンスは、自宅前で繰り広げられたトンチキな攻防戦の一部始終にまたも茫然とした。電柱の影に潜む身体が激しい脱力感に襲われる。
 この展開はもはやアルウィンが人質に取られたも同然だった。先の展開が読めるのが恐ろしい。と思うか思わないかのうちに案の定、手元のトラベラーズノートに何らかの文字が浮かび上がる。
『ミズ・ランズウィックは私の手の中にあります。無事に返して欲しくば帰宅しなさい』
 一目見るなり、そらきたー!とイェンスは心の中で絶叫した。
「これはもう、……絶体絶命という奴かな」
 ノートを閉じ、まだ悪足掻きをしたがる自分の心と囚われの少女とを天秤に掛ける。言うまでもない事だが、軍配は瞬く間にアルウィンに上がった。
 溜息一つで意を決して踏み出すイェンスの背後には、影のように業塵が付き従っている。つかず離れずの距離感を維持して進む二人。
 闇に紛れた業塵は相変わらず浮き草のような雰囲気を漂わせており、しかし注意深く観察してみると、やはりどことなく楽しげな空気を纏っているのが分かる。
「業塵」
「……」
「楽しいかい」
「……」
「……楽しいんだね」
 無言は肯定を指すとも言うが、この場合は一体どうなのだろう。ただ、現にこうしてイェンスが困惑している瞬間すらも、業塵は面白がっているような気配が確かに伝わって来るのだ。
 彼の目には、いつになく慌てふためく家主の姿が物珍しく、また興味深いものに映っているのかもしれない。
 背後で菓子の包みがカサカサと開かれ、甘味をポリポリとマイペースに喰らう音が聞こえ始める。イェンスはもう一つ溜息を吐いて目元を覆い、しずしずと玄関扉を開いた。
 薄暗い廊下を直進すると、開けたリビングの先に座り込んでいた二つの顔が振り向く。
「あっ、イェン」
「随分と遅いご帰宅でしたね」
 すかさず立ち上がったアルウィンを、ヴィンセントの両腕が過たず羽交い締めにする。今まで遊んでいた数々のおもちゃがぽろぽろと床に落ちて行き、それを合図とするようにヴィンセントへの敵意を思い出した少女は、サッと顔色を変えてしたばたと藻掻き始める。
「ううっ、イェンス~! アルウィンのことは、ほっといて、逃げろ!」
 逃げるつもりなど毛頭無い。だが、その言葉を受けてイェンスは若干たじろいでしまった。それを見越したようにヴィンセントが片目を眇め、謳うように続ける。
「ミスタ、そのまま大人しくこちらへいらして下さい。でないとこの子がどうなっても知りませんよ」
 イェンスは思わず呻吟し、疲弊も露に肩を落とした。
「ああ、わかった。わかったよ。……要求を呑みさえすれば、アルウィンに危害は加えないな?」
「ええもちろんです。例えば仔狼が仔プードルになるような悲惨な出来事は回避出来るでしょう」
「……」
 アルウィンが艶やかな狼耳と尻尾を、なぜだかトイプードルのようにまあるくトリミングされ、あまつさえカラーまで施される。具体的な想像図が、あまりにも鮮明に脳裡を走り抜けて行く。
 そのイメージが消えるか消えないかのところで、イェンスはお縄に──否、ヴィンセントに降伏したのだった。
 首根っこを掴まれ、放心状態でずるずると連行されて行くイェンスを必死に追い掛けたアルウィンの目と鼻の先で、書斎へ至る扉がピシャリと閉まる。
「イェンス! イェンス、イェンスー!!」
 閉ざされた空間の向こう側からは、何やら言い合う遣り取りが続いた後で、不気味且つ恐ろしい音が鳴り響き始める。小さな手をドンドン、と打ち付け、いくら呼び掛けれども応答は無く、半泣きで涙を拭ったアルウィンは、ふと背後に感じる男の気配に今更気付いて振り向いた。
 そこには、一部始終をただただ見守り続けていた業塵が居た。封を切った菓子袋の中に手を突っ込み、時折もぐもぐと咀嚼しつつ扉を凝視する姿は、さながら映画館で映画を嗜む観客のようでもある。
「……ゴウジン?」
 アルウィンの涙が、ぴったりと止んだ。突如呼び掛けられた業塵の挙動もぴたりと止まり、ゆっくりと虚ろな眼差しを向けてくる。返事のような瞬きが一度。
「ゴウジン、おまえ……なんで楽しそーなんだ?」
「……」
「さっき、イェンスのこと助けれたのに、何もしなかったな?」
「……」
 アルウィンの詰問に、業塵はスッと視線を逸らすと、何気無い素振りで顔を背けて行く。
 だが最後の最後で堪えきれなかったらしい。思い出し笑いを殺しきれず、『ぷっ』と噴き出す音が、閑散とした室内に木霊した。
 途端、アルウィンが毛を逆立て、怒張天に達す。
「ゴウジンーー!!!!」
「!?」
 怒りのあまり再びしゃくりあげたアルウィンが業塵に突っ込む。虚を衝かれ、バランスを欠いた業塵が尻餅を付き、その手から食べかけの菓子袋が鮮やかに宙を舞う。
 それを見ることもなく、アルウィンはどこからともなく取り出すタバスコを、押し倒した男の顔目掛けて問答無用でぶちまけた。
「バカバカーー!! イェンスかわいそうだろ!! おまえなんて、おまえなんて子分しっかくだ!!」
「げほっ、ごほっ、死ぬ、死ぬ!!」
 小瓶の中はあれよあれよという間に空っぽになり、床に伏した業塵の身体は真っ赤に染まり、あたかも殺人現場の様相と化した。


 ***


 ──こうして、イェンスの逃亡劇は見るも無惨な失敗に終わったのだった。
 翌朝、力尽くで原稿を奪い取ったヴィンセントが颯爽と借家を後にすると、今にも倒れそうなイェンスが書斎という名の牢獄からふらりと脱出し、どうにか二人分の朝食を用意した直後に力尽きた。
 だが、泣き疲れたアルウィンはソファですやすやと眠り続けており、業塵に至ってはタバスコの海に沈むまま生死すら危うい。

 彼らの悪夢が明けるには、もう暫くの時間が必要なようである。

クリエイターコメント大変長らくお待たせいたしました! プラノベオファー嬉しく思っております。
アレンジなど許可いただきましたので、だいぶ好きにさせていただきましたが如何でしょうか。上手くドタバタ出来て居るといいのですが……。
書かせていただいている分にはとても面白かったです。
少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
このたびは本当にありがとうございました。
公開日時2012-08-04(土) 09:00

 

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