冷たい花弁が手の甲に降る。しばらく留まって後、体温帯びた薄紅色の小さな花弁は風に煽られる。砂利の地面に転がり落ちる。先に落ちた幾多の花弁と混じる花弁を、湊晨侘助は見るともなしに追う。緋毛氈を敷いた縁台の上、竹灯篭の火が揺れる。光に誘い込まれた羽虫が音立てて焼け死ぬ。野立て傘の上で風が小さな渦を巻く。風と共に花が舞う。茶店のあばら屋根に覆い被さるような、満開の桜の巨木を透かして蒼白の満月が輝く。 巨木にかしずくようにして、茶店の周囲を雑多の花が囲む。純白の雪柳、温かな黄の菜花の群、葉叢に灯るような薄紫のシャガ、白鳥の群のような白木蓮。蒲公英に菫、どこからか香るのは桃花か。 背でまとめた黒髪が風に散るのを嫌い、侘助は片手で髪を掴む。 「はい、お待たせ」 絣の着物に襷を掛けた茶立て女が盆を片手に傍らに立つ。 「おおきに」 侘助はそちらに顔を向ける。まだ幼いような女の背に、心地良さそうに眠る赤子が負われている。茶を置くのに腰を屈めるのも辛いだろうと侘助は立ち上がった。茶と団子を受け取る。 「あ、ありがとう」 どこかぼうやりとして見えた青年の、その実鋭い刃のような美貌を間近に、女はたじろいで後ずさる。背負い紐で結わえた赤子の尻に片手を回して揺すりあげる。 「大変やね」 侘助の柔らかな言葉に、女は安堵にも似た笑みを浮かべる。 「横にすると泣いてしまって」 困ったように、けれど愛おしげに、女は赤子の尻を優しく叩く。 「良いお月さまですし、ごゆっくりどうぞ」 言い置いて、女は店内の客の相手に向かう。畳敷きの炉辺から、女の夫らしい男の焼く醤油団子の香ばしい匂いが漂ってくる。隣の縁台では物静かな老夫婦が桜と団子を肴に酒を酌み交わしている。縁台に座り直す侘助と眼が合った老翁が機嫌良く盃を掲げるのに応じ、侘助は熱い茶の湯呑を両手で持ち上げて笑む。 「ほんま、ええお月さんやねえ」 なだらかな山の中腹にあたる茶店には、麓の村から登って来た花見客が少しばかり。ほとんどの者は麓の川沿いの桜並木へと流れてしまうらしいが、 「私は此方が好きで」 老翁はそう穏かに笑う。妻の酌を嬉しげに受ける。 月明かりに照らされる花吹雪の向こうに、麓の村の灯が見える。月に煌く銀糸のような川が村を流れる。薄紅色の桜の隧道が川下に重なっている。川沿いの桜の下で揺れる灯篭の灯は花見客のものか。 花冷えの風の中、侘助は熱い茶を口にする。群雲のような桜花を仰ぐ。舞い散る花に眼を細める。月下の村落を見遣る。花群越しの月をまた見上げて、 ――姥桜の黒い太枝に腰掛けて、その男は居た。 侘助は眉を顰める。 花も散らさず、音も立てず、男は幽鬼のようにそこに居る。腰までの黒のざんばら髪に白装束、白い素足には花と泥。今まさに墓から這い出てきたようなその男は、 「今晩は」 侘助の視線に気付き、首を傾げるようにして会釈した。蒼白い頬に、髪の隙から覗く黒い瞳に、人懐こそうな笑みが浮かぶ。 「良い月夜ですね」 「あんた、……」 侘助は湯呑を縁台に置き、立ち上がる。男は枝から飛び降りる。やはり音さえ立てず、土の上に素足を着ける。桜花の中から降った異様な風体の男に、老夫婦が息を呑む。茶のおかわりを持ってこようとしていた女が店内に引っ込む。 侘助は真っ向から男を見据える。――否、男の眼差しから逃れることが出来ずに居る。ひりつく喉から苦しい息を吐き出す。 「人か?」 侘助の問いに、男の眼が心底楽しげに細くなる。男に誘われるように、侘助は次の言葉を口にする。 「妖か?」 男の身を、冷たく深い水底のような暗い妖気が包んでいる。男はからかうように唇を歪めて答えを拒む。 「己れの正体など疾うに忘れました」 男の眼から逃れるように、侘助は後ずさる。膝裏が縁台にぶつかる。 「何、や」 目眩のように視界が震える。血が沸き立つ。胸が高鳴る。腹の底から震えが湧く。身体が弾け飛びそうになるほどの欲望が全身を巡る。 (斬りたい) 「まっぴらや」 心の深奥から突きあがる衝動を吐き捨てる。人か妖か、それすら判然としない男が近付いてくる。侘助に向け、愛しい恋人を見つけたかのような微笑みを向ける。 (あかん) 侘助は悲鳴じみて喉を鳴らす。 (呑まれる……!) 男の纏う暗い妖気が羽虫のように侘助に群がる。 「今は唯、浮世を地獄にと思うておりましたが」 逃れようとする侘助の腕を取る。振り払おうとして、出来なかった。付喪神であるその身は、いつか正体である一振りの刀へと変じている。 「良いところで良い刀に逢えました」 黒柄には紅の飾り紐、漆黒の鞘には椿の紋様、鍔にも椿。美術品のような凛とした姿に男は顔を寄せる。 「さあ、」 陶然と囁く。 「此処を地獄と致しましょう」 悲鳴があがる。老夫婦が手を手にその場から逃れようとしている。妻が腰を抜かして座り込む。逃げてと老翁に懇願する。男は無造作に歩み寄る。妻の白髪を掴む。離せと縋る老翁を蹴り飛ばす。 (斬りたない) 男は朗らかに笑う。挨拶をするかの如く、刀を鞘走らせる。恐怖に見開く老妻の眼に、白刃を伝う月光が映る。刀身に刻み込まれた天昇る龍が月光を集める。蹴られた老翁が必死の形相で妻に覆い被さる。男はまた笑う。 (わぇはもう斬りとないんや) 老翁の首が飛ぶ。庇われた妻が悲鳴をあげる。悲鳴を上げる顔のまま、喉を貫かれる。噴出す血が男の白装束を紅に染める。言葉と笑みを交わした人間の皮膚を切り肉を裂き、その刀身に大量の血を吸って、 (――斬りたい) 侘助の、侘助としての意識は血に埋もれた。かつて首斬りと呼ばれ畏れられた妖刀としての意識がその白刃を包む。刀に満ちる、血への渇望に、男は愉悦する。 悦ぶは男か妖刀か。最早それも分からぬほどに、両者の心は混ざり合っている。男の纏う暗い妖気が刀身を群れ飛ぶ。刀から噴出す妖気が男の腕に絡みつく。 血の朱が艶やかな刀身を伝う。朱を呑んだ刃が禍々しい煌きを孕む。 男は店内に踏み入る。狂乱した店主が火箸を片手に打ち掛かる。茶立て女が悲鳴じみた制止の声をあげる。女が止めようとしたのは店主なのか、それとも男なのか。 火箸の一撃を、男は妖刀の刃で撥ね上げる。斬る、その心だけに近い男の意識は妖刀の力を増幅する。火箸は半ばで斬り飛ばされた。店主が畳に尻をつく。逃げ出ようと手当たり次第に物を投げる。稲藁、灯篭、座布団、半分きりの火箸。女が店主に縋りつく。眼を覚ました赤子が泣き叫ぶ。 「やめて、やめてやめて!」 女が狂ったように喚く。男は笑う。店主の投げた灯篭の火が散らばる稲藁に移る。座布団が燃え上がる。炎が畳を這い、煤けた木の柱を登る。壁の品書きを次々と灰に変える。 血に汚れた刀を明るい炎が照らし出す。逃げようとする店主を、女を、男は微塵の躊躇いもなく斬り捨てる。店の隅に隠れていた酔客の首を落とす。裏手から逃げ出そうとしていた別の酔客の背を、内臓が零れ落ちるまで深く切り断つ。轟々と燃える炎の中、女の死体に護られるようにして赤子が泣き続ける。 (血を) 「血を」 瞳を爛々と狂気に輝かせ、男は女の死体を蹴り退ける。女の腕の下から現れた赤子に容赦の無い刃を突き立てる。 泣き声が絶える。 花散らしの夜雨が蜘蛛の糸のように降る。 燻る炎が黒煙を吐く。咲き誇る桜花が枝に付いたまま焼け爛れる。煙に燻され萎れた花弁が泥のように重たく落ちる。幹の半ばを、満開の花の半ばを炎に呑まれ、それでも桜の古木は天に近い枝の花を瑞々しく咲かせ続けている。 焼け落ちた茶店には黒々と炭化した柱と死体が転がる。焦げた臭いが死臭と混ざり合い漂う。 泥濘の坂道で黒い番傘が揺れる。番傘に描かれた銀の鳳凰が、翼広げて小糠雨から護るのは白い髪の男。肩に羽織った華やかな緋色の着物が生暖かい春の闇風になびく。腰に帯びた朱鞘の打刀が裾から覗く。 灰燕は黄金よりも深い色した金の眸を上げる。 春宵の闇の只中、焼け落ちた茶店を背に、ぼう、と人の形した赤黒い影が浮かぶ。腐った血を纏うたような人影は、地に伏した物に向け、飽きることを知らぬ幼子じみて刀を振り下ろしている。地に伏すは火消し装束の若者なれど、人の形しているとは最早言い難い。手足は断たれ、胴は切り刻まれ、眼は刳り貫かれ。無論、生きてはいない。人影が刀を振り下ろす度、肉塊を打つような鈍い音がする。血飛沫が飛ぶ。肉の欠片が飛ぶ。 人影が足蹴にするのは火事の野次馬らしい男。首は無い。 人影が無造作に刀を突き立てるのは僧形の男。大きく裂けた腹から臓物が零れている。 死体の山の上に人影は在る。死体を刻むのに飽いて、人影は僧形の男の腹に大あぐらをかく。肩で息をする人影の尻の下、裂けた腹から押し出された臓物が血色の地面にぬらぬらと落ちる。 灰燕は不快を露わにする。 「『桜花の辻斬り』、『血狂いの妖刀』、」 低く低く、麓の村で耳にした噂を酷薄な唇に乗せる。 「どがァなもんか思たんじゃがのォ」 穏かな口調で、けれど金の眸には侮蔑だけが炯々と光る。 黒く無残に焼け落ちた茶店も、茶店の前で惨殺された無辜の人々も、死体を切り刻み血を浴び続ける幽鬼のような男も。全て灰燕の興味の外。 灰燕を新たな獲物と見て、男が立ち上がる。刀を手にする。元は艶やかな黒であったはずの柄は血でべっとりと汚れている。 灰燕は黒の番傘を畳む。地面に石突きを軽く打ちつける。透明な雨雫が散る。細かな雨に濡れ始める白髪の下の金眼が一途に見詰めるのは、男の手に提げられた抜き身の刀のみ。 男は唇の端の血を舌先で舐めとり、微笑む。痩せ細った身体に暗い妖気が羽虫の群のように渦巻く。刀から立ち昇る朱の色帯びた妖気が男の腕に絡む。 血に曇る刀に、刀身を包む妖気に、どこか見覚えのある気がして灰燕が眸を眇めた、その瞬間。 男が死体を蹴って距離を詰める。地を這うような下段から刃を振り上げる。 「そげな脂塗れの刃、」 灰燕はしなやかな獣の動きで飛び退る。番傘の手元に仕込んだ直刃の仕込み刀を抜く。 「何も斬れん」 吐き捨てる。地に根を張るように仁王立つ。再び距離を詰め、振り下ろされる刀を仕込み刀で弾く。思いがけぬ力に行き会うたように、男がよろめく。 灰燕は嘆息する。 「しばらく姿が見えん思うとったら」 刃を打ち合わせて確信した。 「そがァなとこで何しとるんじゃ」 男にではなく、男の持つ刀に向け、――血に狂う侘助に向け、灰燕は呼びかける。侘助の応えはない。男に操られるまま、男を操るまま、付喪神憑きの刀は灰燕の血を求める。 「お前、」 血脂に塗れた刀身を煙るような金の眼に映して、灰燕は唸る。血を滑らせる刀に眼を顰める。 あれほど澄んでいた刃が血色に濁っている。 けれどあの刀は自らそれを望み、血に曇るが為に男を操っているように見える。 「何でじゃ」 灰燕の握る刀に動揺が伝わる。刀の軌道が乱れる。刃筋が逸れる。 獲物の動揺を見逃さぬ一閃が灰燕の胸元を襲う。寸でのところで飛び退る。避け損ねた切っ先がはだけた胸元の皮一枚を引っ掻く。 途端、灰燕が腰に帯びた朱鞘の刀から白銀の焔が噴出した。 「よくも」 焔が憤怒の声を響かせる。低い空を白銀の焔が翔る。羽音もなく飛ぶ鳥の形と成る。その翼を打つ雨は無い。優美に羽ばたく翼に触れるよりも先、その鳥妖の纏う白銀の焔によって霧と変わる。白銀の焔と霧をその身で切り裂くように、鳥妖は血纏う男へ飛び掛る。 「灰に――」 「白待歌!」 男も男の持つ刀も、全て燃やし尽くさんとする焔の鳥妖の名を灰燕は呼ぶ。名を呼ばれ、鳥妖は壁に身を打ち付けたように動きを止めた。 「しかし、あれは我が君を」 灰燕の持つ言霊の力で名を呼ばれ身を縛られ、鳥妖は白銀の焔の翼をもがかせる。 「待て」 我が君と呼び絶対と慕う灰燕の言葉を受け、白待歌は打ち据えられたように地に降りる。地に落ち泥に塗れた桜花の群を瞬時に焼き尽くす。ただ黙して灰燕に従う。 血塗れの刀を大上段に構える男と、灰燕は対峙する。仕込み刀を脇に侍る白待歌に預け、足を泥に埋める。低く腰を沈める。腰の刀に手を添える。腹に息を溜める。 血の染みた白装束の裾が翻る。男の挙動に恐れ気は無い。宵闇の物の怪じみて男が打ち掛かる。血色の刃が風を撲つ。 灰燕の金の眼が鋭い光を孕む。身体を開く力を全て刃に乗せ、抜刀する。その一閃は風を斬る。男の両の腕ごと『血狂いの妖刀』が桜花舞う宙に跳ぶ。 腹の息を吐き尽して、灰燕は愛刀に着いた男の血を払う。刀を鞘に収め、泥濘に転がる男の両腕へと歩み寄る。 肘から先を失って、男は立ち竦む。うろたえた視線を血の噴出す両腕に巡らせる。呆然と、懇願する。 「刀を返してください」 灰燕は一顧だにしない。斬り飛ばした男の手に未だ握られたままの血狂いの妖刀だけを見据えている。 「困ります、私は、――」 「喧しいのォ」 肘だけで縋りつく男を、灰燕は無頓着に払いのける。それでもしつこく食い下がる男の胴を蹴り飛ばす。男は地に這う。 「白待歌」 灰燕に呼ばれ、白待歌は歓喜に大きく焔の翼を広げる。餌を見定めた鷹のように男へ飛び掛る。地を這いずる男の背に舞い降りる。鋭い爪をその背にたてる。逃しはせぬといっそ妖艶に燃え上がる。ごう、と焔が空気を轟かせる。 声上げる暇もなく、男は白銀の焔に包まれる。全身に浴びた血も白装束も、骨と皮ばかりの身体も、見る間に全て白灰と化す。 白待歌の焔の起こす熱風に着物の裾を揺らし、灰燕は男の手首を踏む。男に握られたままの刀は、宿主を失って尚、血を求めるように激しく震えている。泥に汚れるのも構わず、灰燕は膝を付く。刀の柄を両手で押さえつける。 妖刀は暴れる。尋常でない妖刀の力に、灰燕の腕が一瞬跳ね上がる。 「いけん、」 灰燕の声が掠れる。刀を押さえつける腕が迷う。それほどに血を求むるか。それほどに、血に狂いたいのか。 「お前の澄んだ色が濁る」 美しいものを美しいと言葉にすることを、灰燕は躊躇わない。 「お前の魂が曇ってまう」 最大の賛辞にも思える言葉にか、生活を共にしている男の声にか、その両方か。ほんの数瞬、妖刀は動きを鈍らせる。眼を覚ませとばかりに、灰燕は己の掌で妖刀の血脂を拭う。刀身を汚す血脂の下から、龍の意匠が現れる。 雲に昇り光を呼ぶ龍。 「お前は血を纏う刀じゃァなかろ、」 女を組み敷き睦言を囁くような甘さで、灰燕は侘助の銘を言い当てる。 「雲龍」 雲を割り、禍を斬り、魔を断つもの。 灰燕の言霊の力を得た刀の銘は、押さえつけられて尚、鬼神の力で暴れる妖刀を打ち据える。妖刀は妖刀たる力を鎮める。妖刀が操っていた宿主の男の腕が力を失う。血を求め、不満気に震えていた妖刀が動きを止める。 「我が君」 脇の白待歌が、何処かに転がっていた刀の鞘を持って隙無く控えている。灰燕は唇を笑ませた。自我を取り戻した刀を鞘に納めてやる。 刀は僅かに身じろいで、人の姿となる。 「……相変わらず嫌な眼やわぁ」 侘助に、開口一番心底嫌そうに言い放たれ、灰燕は金の眼を不機嫌そうに細めた。侘助の着物の裾を押さえつける形となっていた膝を退かせ、立ち上がる。 「あやかしが本性を言い当てられるのは好きやないって、」 泥塗れの髪や和服の袖を払い、侘助は情けない笑みを滲ませる。 「言いませんでした?」 今度は冗談めかして笑う。でも、と窺うように灰燕を見仰ぐ。 「おかげで思い出せましたわ」 血に狂うておらぬ己を。侘助が侘助とする自我を。 「感謝します」 素直に頭を下げる。袖にしつこくしがみついていた男の腕を引き剥がす。桜散る地面に放り出せば、白待歌の焔がゆるりと絡みついた。 骨の一片も残さず焼き尽くすされる男の欠片越し、地獄絵図とも呼べよう惨状を眼にする。麓の村に知らせれば、知己や血縁者が遺体を葬りに訪れるだろう。 侘助の灰色の瞳が自己嫌悪に歪む。 「このざまや」 吐き捨てる。 血を浴びれば更に強く血を求めてしまう。血に酔い、人を殺めてしまう。雲龍の銘を受けるに相応しくなど無い。 黒い睫毛を伏せて俯く侘助の、黒髪のつむじを灰燕は見下ろす。興味が失せたように踵を返し、侘助の傍を離れる。地に転がった番傘を拾いあげる。幾度か振って泥を落とし、広げる。白銀の鳥妖が付き従う。 「茎まで血脂滲みとろォが」 振り返るでもなく、よく響く声で忌々しげに言う。 「錆てまう」 「はあ、まあ」 力無い声で答えて、侘助は顔を上げる。灰燕は生き残った老桜を番傘越しに眺めるまま、足を留めている。雨雲が風に裂かれ、白い月が覗く。月光浴びて、番傘の鳳凰が静かな光を抱く。 侘助はふと気付いた。帰るぞ、と刀匠は言外に言っているのだ。 白銀の焔と熱を自在に操る刀匠は、刃の手入れの腕も素晴らしく良い。 (わぇは、……) 傍らに在る、自ら作りだした地獄を見詰めて侘助は迷う。 『血狂いの妖刀』のまま、血錆と恨みに塗れて折れるが末路か。それとも、……それとも。 ――この恐ろしく美しい刀匠の傍に在れば、刀として在れるだろうか。『血狂いの妖刀』とならずに在り続けられるだろうか。 「……ほな、よろしゅうお頼み申します」 侘助は泥濘を踏んで立ち上がる。 終
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