太陽が山の稜線を焼き、鳥たちは一斉にねぐらへと飛び立つ。一羽の小鳥が群れを離れて寄り道をした。檻の中に花が咲いているように見えたのだ。事実、そこは絢爛たる牢獄であった。朱塗りの格子の内側に艶やかな遊女たちが押し込められ、外側から品定めを受けている。羽繕いにいそしむ鳥は小首を傾げた。彼女たちはなぜ檻の中にいるのだろう。 「あ」 格子から伸ばされる手をすり抜け、鳥はすぐに大空へと飛び立った。鳥はその後も度々色街を訪れては見て回った。気紛れに、軽やかに。牢の中の花からすれば、花から花へと次々に渡る浮気な男に見えただろう。 それゆえだったのだろうか。焔が、真っ先にその鳥を喰らったのは。 艶やかな喧騒が終わりを迎え、街がようやく眠りに就いた頃に悲劇は起こった。 発端は誰にも判らぬ。倒れた蝋燭か、はたまた煙管の不始末か。とにもかくにも、遊郭の下男が気付いた時には既に取り返しがつかなくなってしまっていた。 小鳥は遠出をし、疲れていた。一晩の宿を遊郭に定め、窓辺のわずかな隙間を借りていたところを焼き殺された。悲鳴を上げる間もなかった。よしんば命乞いをしたとしても焔の唸りに掻き消されてしまっただろう。次いで火焔は危険を叫ぶ下男を丸呑みにした。それから床を、柱を。焔はあっという間に遊郭を覆い尽くし、次なる犠牲を求めて色街に雪崩れ出た。 ギエエエエエエエ……。 ギャアアアアアア……。 深更であったことも被害の拡大に拍車をかけた。寝ぼけ眼をこすりながら起き上がった人々た見たのは間近に迫った焔だったのだから。色街が燃える。格子の内側の遊女が燃える。上っ張りから下帯をはみ出させながら焔に巻かれる男がいる。花魁行列が練り歩いたぼんぼり通りも瞬く間に煉獄と化した。轟音と共に火柱が天を衝く。何もかもが燃えている。建物も人も炎上する。命、悲鳴、怒号、全てを呑み込み、奪いながら燃え上がる。 火消しは熱波に阻まれて近付けない。混乱に乗じて不逞をはたらく輩は消し炭にされた。あちこちで人が踊っている。火だるまになった人々がぐねぐねと身をよじっている。 ギエエエエエエエ……。 ギャアアアアアア……。 人のものとは思えぬ金切り声。振袖が翻るように火の手が広がり、立ち並ぶ遊郭が次々と延焼する。逃げ遅れた遊女は焼け落ちた梁に押し潰された。深紅の襦袢が焔に魅入られたように燃え上がる。爆ぜる火の粉は場違いに美しい黄金色だ。夜具に施された刺繍の金糸が、火の粉と共に舞い狂っているのだった。 (死にたくない) 嘆願の涙すら乾上がらせて火焔はうねる。 (助けて) 開かぬ格子に取りついた遊女は生きながら焼かれた。溶けた簪が顔に垂れ、溶けたべっこうのように皮膚に貼りついた。もし彼女が生きていたらもはや商売にならなかっただろう。 (誰か、誰か、誰か――) ギエエエエエエエ! ギャアアアアアア! 業火が渦巻く。数多の女の怨嗟を喰らい、逃げ惑う男の叫喚を呑み込んで咆哮する。奇怪な啼き声だった。軋みながら焼け落ちる柱の悲鳴、あるいは巨大な鳥の絶叫のようであった。 ああ、まさに鳥だ。焔の翼を広げ、天に向かって火の粉を噴き上げる怪鳥ではないか。焔の中心で死んだ名も無き小鳥を誰が知ろう。小鳥と焔が妖に変じたことを誰が知ろう? 蹂躙される色街を俯瞰した者がいれば戦慄した筈だ。 全てを奪って膨れ上がる紅蓮は激しく、禍々しく、美しい。 煤けた月が西の底に落ち、東の果てから朝がせり上がる。焔は明け方の白光すら焼き尽くして猛り狂う。 明け方の色街を怪鳥の雄叫びが引き裂く。それはまさしく産声だ。大火のただ中で、命と呼べるのはこの鳥だけであった。 紅蓮の焔は三日三晩燃え続けた。暴れて、奪って、壊して、喰らって、そして――。 「ほォ……まるで戦の跡じゃ」 灰色の街でゆるゆると番傘が回る。傾いだ傘の下から現れた貌は、端正な男。纏う着流しに施された縫い取りは豪奢かつ精密で、この焼け跡には似つかわしくない。 無人の街をそぞろ歩く。着流しの裾が降り積もった灰を舞い上げる。傘に落ちた煤を指で拭い取り、男はふと口許を歪めた。 「大した焔じゃ。なんもかんも呑み込むとはの」 刀剣のような眦を緩め、かすかに笑った。 色街で大火が出た――。衝撃的な一報は稲妻となって近隣を駆け巡った。 この街には付き合いで幾度か顔を出したことがある。もっとも、彼自身は酒と団子を楽しむだけだったのだが。馴染みの店はどうなったのかと気紛れに焼け跡を訪れたものの、徒労に終わった。視界を塞いでいた全てが焼き尽くされ、廃墟の荒野が広がるばかりであったのだ。 「どこがどこやら。まァ……迷うこともなかろうが」 陽炎に似た熱気がたゆたっている。焔の残滓は蛇の舌のようにちろちろとくすぶり、焦げた砂糖のような黒ずみがそこここにこびりついていた。人か、それともギヤマンでも溶けたのか。焼け跡の街は虚無に似て静かだ。埃っぽい風だけが時折そよと鼻先を撫でる。 (助けて) ざらついた声が鼓膜を震わせる。風が怨みをも運ぶのか。 (死にたくない) 男は答えない。焼かれた人々の声を拒むでも聴くでもなくそぞろ歩く。 (誰か、誰か、誰か――) 「……あァ?」 懇願めいた声音に男はとうとう足を止めた。 そこは色街の中心部であった。折り重なった瓦礫の底に、褥のような灰が積もっている。灰はわずかに赤く燃えていた、断末魔の蝋燭のように明滅する様を燃えると称するならばの話だが。それでも、色彩を失った街で血潮のように脈打つ赤は男を惹きつけるに充分であった。 『死にたくない』 焔は弱々しくわななく。くすぶる。ゆらゆらと揺れ、惑いながら。 『死にたくない……』 「ほォ。これが火元か」 男は蝋細工のような唇を緩めて喉を鳴らした。皮肉なことだ。目に映る全てを燃やし尽くした焔はよすがを失い、今まさに潰えんとしている。 『死にたくない』 「あんたが喰ろうた命も同じことを言うたじゃろう」 『……死にたくない……』 焔は男の息吹にすら頼りなく震える。翼をもがれた鳥のように小刻みに痙攣するばかりであった。 静寂の中をそよと風が渡る。乙女の溜息に似た微風でさえ焔にとっては大風と同じだ。男は流れるような所作で片膝をつき、焔の傍らに手で衝立を作った。滑らかな手に庇われた焔は刹那の息吹を取り戻す。男の目はいつしか熱を帯びて濡れていた。ちろちろと揺れる焔にあてられたとでもいうのか。 「俺と共に来るか」 男の目には焔だけが映っている。焔の前には男だけがいる。死んだ街の中に、二人きり。 『なぜ』 「美しいもんを見つけた。それじゃ足りんか」 良い拾い物をしたと男は笑う。 「俺んもんになれ。対価はこん体じゃ」 吐息のような囁き。肯くように焔が震えた。 男は灰ごと焔をすくい上げた。灰を隔てて尚、掌に熱が伝わる。 「俺は白燕。俺の一部をあんたに……」 睦言を紡ぐように唇を寄せる。 「――白待歌、と」 そして契りを交わした。焔を、固めの杯のようにして飲み干したのだ。 灰の街で焔が燃える。男を呑み込み、炎上する。 「っはは」 男は焼かれながら笑った。陶然と手をかざし、番傘を回して焔を全身に渡らせる。新しい衣装を楽しむように。焔は男の髪一本焦がすことなく紅蓮から白銀へと変じていく。喰らった怨みが浄化されたのか、それとも新たな情念が宿ったのか。真相は誰にも判らぬし、些事である。ただ重要なのは、焔が男好みのしろがねに染まったということだけであった。 やがて焔は巨鳥の姿を取り、どんな従僕よりも厳かに、どんな伴侶よりも親愛に満ちたしぐさでひざまずく。 『今生、主様の御傍を離れませぬ』 顔を上げ、改めて男と相対した焔は身震いした。 何と美しい男。何という幸福。彼の目には白待歌だけが映り、白待歌の前には彼だけが立っている――。 「っはは」 男の喉仏が愉快そうに上下した。 「気に入った。好(え)え色じゃ」 鬼へと変生した男はそれを微塵も感じさせぬ洒脱さで金の目を細める。 「鋼を生み出すための色じゃ。来い、白待歌」 伸べられた手の美しさにさえ言葉を失う。男の舌に名を転がされる度、閉塞じみた酩酊が全身を蕩かす。 『共に――我が君』 身を委ねた途端、焼けるような衝動が突き上げた。このまま焼き尽くしてやったら彼はどんな顔をするだろう? 男は全てを見透かしたように目を細めた。 「急くな。喰らえる日はいずれ来るけえ」 来た時と同じように番傘を傾ける。男と白待歌は密やかに傘の下に収まった。 「それまで誰にも渡しやせん。なァ?」 『……は』 傘の陰で交わされる囁きを聞いた者はなかった。 焼け野の街に、二人きり。彼らの行く先は誰も知らない。 (了)
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