ターミナルの市街はあらゆる文化に彩られており、短い暇の散策でさえ新たな発見に満ちていた。まして急事のない日などは、ひとたび室外に出れば書が一冊したためられる程の経験を得ることもあるかも知れない。 だから、如何に空が広くて伸びやかに翔けることができても、歩こうと思った。 酒屋で渡された、やけに膨らんだ瓶が些か重くはあるが、まあ良かろう。 今日は、そんな気分だ。 アマリリス・リーゼンブルグの足取りは不思議と軽く、疲れ知らずだった。 今、彼女はある約を果たす為、その場所へ向かい歩き続けている。義務や責任に縛られたものではない。違えず守りたいと素直に思えればこそ。 何の役目も帯びず、気安く人を訪ねるなど、いつ以来のことか。 彼は、息災だろうか。 ふと、湯煙越しに交わした遣り取りが浮かび、整った唇が微かに綻んだ。 0世界の建築物の中では背が低い、純和風の邸宅。 その名も焔桜屋敷の門構えから「御免」との声が涼やかに響いたとき、灰燕は、縁側で煙管片手に寝転んでいた。 紫煙を吐き、欠伸ひとつかみころしてから、やっと身を起こす。 床を軋ませながら玄関に向かうと、確かに人影があった。 まず目に入ったのは、刃に良く似た白銀の、豊かな翼。次いでその持ち主。赤い軍服を羽織る、中性的な印象の美しい女性だ。身形に不似合いな一升徳利を肩から吊るし、なにやら他に小包もぶら提げている。 見知った顔の来訪に、灰燕は「ほォ」と僅かに目を見開いた。 「誰かと思えば。よう来たのォ」 「お邪魔だっただろうか。都合が悪ければ、また日を改める」 女――アマリリスの礼は、いかにも軍属らしい無骨なそれ。 だが、張りのある語気ながらもどこか優しげで、親しみやすい。 「それはそれとして。口に合うかどうかはわからないが」 客人が手荷物を差し出すと、屋敷の主は受け取りながらも苦笑をこぼした。 「堅いのォ。あがァな口約束、手土産つけて守るお人に門前払いもなかろォが」 灰燕は、「ん?」と同意を求める。歓迎できぬ相手にはまずみせぬであろう、穏やかなおもてで。 「大体、来いと言うたんは俺の方じゃ。なんの遠慮も要らん」 「ふふ」 前にも触れた気風の良さを早速感じて、アマリリスの口元も自然と緩んだ。 共に変わりなく今日という日を迎えられたことが、まずは喜ばしい。 ならば、生半な慎みこそ無礼となろう。 「では、お言葉に甘えるとしよう」 「おォよ、俺も遠慮はせんぞ。――――白待歌。支度せェ」 灰燕は振り向き様、声を張る。ほどなく薄暗い廊下の向こうから、白い焔が尾を引いてこちらに飛んできた。かと思えば、灰燕の手元をぐるりと巡り、またすぐに引っ込んでしまった。灰燕の手元には、もう何もない。 どうやら白待歌も、相変わらずなようだった。 灰燕は真っ直ぐ客間に向かわず、邸内を案内して回った。此度の来訪は、灰燕が所蔵している刀を拝見したいというアマリリスの願いに端を発するものであり、それこそが交わした約束であるがゆえ。 通される一間一間、数多の刃が鎮座していた。 今は、壱番世界の刀剣、及びそれに近しい異界の剣が網羅された部屋にいる。 細剣や長剣のようなアマリリスにも馴染みのある西洋剣。中国の華やかな硬剣と、九曲剣や龍形剣などの軟剣。鉈のようなくの字の内反り湾刀。斬ることを主眼とする半月刀、三日月刀。鋭利な両刃を持ちながら大きな半円を描く不思議な刀。実に多彩、多種多様、多岐に渡る。 「壮観だな。さしずめ、刀剣の博物館といったところか」 「博物館ときた」 感心するアマリリスの言葉に、灰燕は思わず吹き出してしまう。 アマリリスは未知の物珍しさもあり、目を見張るばかりだ。 一方の灰燕は誇るでも謙遜するでもなく、ただ事も無げだった。 「そがァ大層でもなかろ」 「いや、眼福の至りだ」 これほど多くの種類、しかも剣ばかり一堂に会するなど他に類をみない。 だが、灰燕ははしゃぐ子供をなだめるかのように胸の内を明かす。 「悪い気はせんが、これでも減らしとるほうでのォ」 無節操に集めだすと部屋が幾つあっても足りんのよ、とこぼした。 そうして邸内の方々を寄り道し、やがて辿り着いた奥の襖を灰燕が静かに引く。 「ここで終いじゃ」 隙間から寒さを伴う日差しの如き明かりが漏れ、戸が開くに従い溢れ出た。 踏み込めば、アマリリスはその理由を知る。 広い間取り。開けっ放しの縁側から望む庭で、鋼の如き花が桜の木に咲き誇る。さらりさらりとぎらぎらと、やはり桜のように散り。自ら帯びたか照るものか、その煌きは風に吹かれた水面にも、盛る焔ともつかぬ。刃に等しい鋭さと、桜に同じ優しさが、冬の晴れ間に似た光を齎したか。 まさに焔桜。 あわや屋敷の由来に心奪われかけたアマリリスは、はっと室内を振り返る。 白みがかった壁という壁に飾られたる刀、刀、また刀。縁側の有無を除けば、基本的には今まで案内された部屋と同じだ。だが、空間に対する印象は全く異なる。初見とは受け止め難い妙な感覚。既視感というのとも、何か違う。 アマリリスは、感じたものの正体を確かめる為、灰燕に訊ねてみることにした。 「全て貴方の作なのか?」 「判るもんには判るか」 灰燕はこれ感心とばかりに応じて。 「客間も兼ねとる。好きなだけ眺めたらええ」 客間と聞いて、アマリリスにも合点がいった。 チェンバーというものは、主の内面を描く造りをしていることが少なくない。 屋敷の中でも庭園を含めたこの一画は、特にそれが著しいのだろう。 それにしても。 「……見事なものだな」 打刀、小太刀、脇差、太刀。 飾り気のない控えめで丁寧なもの。 何れ拵える気なのか、はたまたこれで良しとしたか、白木鞘に納まるもの。 実用的で質実剛健なものから、祭儀に耐える精緻な細工が施されたもの。 華飾にあらず。されど咲き乱るる花園の如し。 「……? これは……刀ではないのか?」 アマリリスは、ある一振りに目が留まった。 他の刀同様の反った形状ながら、日本刀特有の開花の如き鍔はない。代わりに、音符の如きうねりを持つ護拳が柄頭に向かって伸び、綴じてある。不思議な拵えだ。諸手にも耐える柄に見合った刃渡りは三尺ほどもあろうか。 「サーベル? にしては、随分長い」 「おォ、そやつは――……」 身内を紹介するが如く語り聞かせようとした灰燕は、しかし口を閉ざした。 代わりに客人の様子を、鋭い視線で窺う。 アマリリスは、見入っていた。いや、魅入られたというべきか。 彼女の目の前にある業物の鞘は銀朱。六枚の花弁を下から包むかのような糸とも弁ともつかぬ多くの筋。そんな紅い花が意匠として彫り込まれている。 腰と接するであろう箇所には、これまた紅の太い紐と、その更に上から幾筋か白紐が巻かれている。白が紅を削って細めるような規則的な結び方だ。 吊るす為の組紐は鞘の意匠と同じ形に編まれていて、華やか。 柄の拵えは特殊だが、紛れもなく陣太刀に類するものだ。 アマリリスは熱っぽい視線の先に、しなやかな手をゆっくりと伸ばした。 謂わば剣の花、剣花だ。人を斬ったら、また花を咲かせる。どんな花? きっと意匠と瓜二つ。血花が咲いて散るのだろう。ためしたい。今、ここで。ここで? ここに居るのは、自分と、灰燕。灰燕を……――? 「抜かんのか?」 「っ!」 今少しで鞘を握る手前、灰燕の無造作な問いかけにアマリリスは息を呑んだ。 戒めていたはずの危うい性。血煙など霞みもしない客間で、なぜ。 このつるぎは、いったいなんだ? 「……止しておこう」 灰燕に対してというよりは、自身へ向けられた言葉。 真に惹かれればこそ、アマリリスは首を横に振るしかなかった。 「ただ美しいだけではない。だが、だからこそ……美しい、刀だな」 「美しいだけではない、か。なら――」 刀工は、悩める剣人の言葉を繰り返してから一拍の間をおいて。 あたかも世間話か何かのように、実に呆気なく宣言した。 「やっぱり彼岸花(ヒガンバナ)はあんたのもんじゃ」 「彼岸花?」 「そやつの銘よ。極楽浄土ん咲く花をそがァに呼ぶ」 「極楽とは……神々が住まう、天上の国のことだろうか」 「似たようなもんじゃな。謂うなれば……――そういやァあんた、似とるのォ」 「似ている?」 「おォ。彼岸花によォ似とる」 「…………」 一旦は拒絶したにも係わらず、鮮やかな後の先をとられたように言い切られた。続け様に浴びせられた言葉は、如何なる剣捌きよりもアマリリスを惑わせる。 灰燕の真意はなんだ? 夏は暑く、冬は寒い。夜は月、昼は日が昇る。食わずにいれば腹が減る。それと同じと、灰燕は言っているのか。彼岸花はアマリリスの元にある。そういうものなのだ、と? 似ている? 誰が? 誰と? (そうだ。似ている) この刀は、私と似ている。 「あんたの言うた通りじゃ。この世に綺麗なだけのもんは存在せん」 それは、ひとつの真理だ。 如何に深い技術と心の込もりを宿そうと、刀は人を斬る為のもの。 花が、時に毒を孕んでいることと似ている。 表層の美は存在理由たり得ぬ。本義を全うするものこそが美を有する。 かつて天上より舞い降りた女が、地上の友の為に戦い抜いたのと同じように。 友の死後、その忘れ形見を支え、見守り続けたのと同じように。 アマリリスは、長いまつげを微かに揺らして伏目がちに陣太刀を見る。 そして、今度は魅入られることも躊躇うこともせず、銀朱の鞘を握り締めた。 これは、謂わば私の半生そのもの。何を気負うことがある。 見目に熱を上げるほどか。ならば、歩んだ道程はさぞや美しかったに違いない。 胸を張れば良い。緩やかな、けれど確かな弧を描く太刀のように。 そうは、思わないか。 親愛の意を込めて柄に手を添え、次の刹那にぐっと引き抜いた。 「刀ァ人を待っとる。人が刀を求めるんと同じようにのォ」 灰燕の言葉は、刃が鞘をなぞる乾いた音を後押しする。 間もなく目の当たりにするであろう妙なる邂逅に、刮目した。 果たして、顕わとなった白刃は――。 勇ましくも柔らかで潔い佇まい。波打つ紋は羽。天地を識る品格。 まさしく、穢土に生じた浄土の一輪。 「あんたに振るわれるんなら、そやつも満足じゃろう」 灰燕は、自身こそが満足げに、合わせ鏡のある方へ語り掛けた。 アマリリスもまた、満ち足りた屈託のない笑みを浮かべた。 ここは外よりも光が柔らかい。 チェンバーの仕掛けか、豊かに咲いた焔桜がそうさせているのか、アマリリスには判らなかった。灰燕に訊ねてみても「さてのォ」と生返事があるばかり。 それ故にか、尚のこと掴みどころがなく、趣き深いものに感じられる。 桜の根の傍には、いつの間にやら徳利と杯二つ、それに雪を小さく丸めたようなものが浅い菓子鉢に鎮座し、盆に乗せられていた。 何れもアマリリスが持ち込み、灰燕の手元から白待歌がさらったものである。 では、これにしつらえた者もまた然りか。 得心したアマリリスは、くすりと緩んだ口元を軽く握った手で隠した。 このひとときと、陣太刀。共に、得難きものだ。 そうだ、と思い立ち、樹に背をもたれて花と酒を愉しむ男に向き直る。 「まこと、良いものを頂戴した。正当な対価を支払わねば」 しかし、アマリリスのくそ真面目な物言いに、灰燕は「あァ……?」と、面倒臭そうな呆れたような声で、薄く苦笑いを浮かべながら応じた。 「堅いのォ」 「しかし……」 「先に言うたじゃろ」 尚も食い下がろうとするアマリリスを制し、息を吐いて杯を微かに揺らす。注がれた吟醸に映る銀の桜が揺れて、ぎらぎらと輝いた。 「遠慮は要らん。俺も」 言うなり、灰燕は菓子鉢の雪玉――上等な蕎麦薯蕷をがぶりとやっつけた。そうしてこれは絶佳と風味を噛み締めながら、アマリリスに笑いかけるのだ。 「――ほれ、遠慮はしとらん」 「そう、だったな」 アマリリスもまた、生半な慎みは無礼と判じたことを思い出した。 はなびらは、宙を漂い気ままな舞を披露する。アマリリスの掌にひとひら迷い込んでは。苔生した岩に降りては。池に波紋を起こしては。互いに触れ合っては。見る者の瞳の中で白い焔が燃え立ち、淡雪の如く失せる。 まるで、灰燕だ。 「どォした?」 「いや……――美しいな」 アマリリスは、翼を一度はためかせた。 幾許か白銀の羽散らせ、風の向くまま気の向くまま、花と交わりワルツを踊る。 魔力の残滓に過ぎぬそれもまた、焔桜と同様、やがて跡形もなく消えた。 灰燕は取り立てて褒めるでもなく、その様を眺めていたが、不意に徳利を無造作な手つきで掴むと、上機嫌に「おォ」と酌を買って出た。 「頂こう」 天上の花が実に気持ち良く美酒を受けたのは、言う迄もない。
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