ギィン。火花が爆ぜて鋼が灼ける。ギィン、もう一度。灰燕の槌は精確に刀身を狙い打つ。 「ええ色じゃ」 熱の塊を前に金の眼が蕩けた。 産褥の刀は美しい。鍛冶場の業火が刃を産み落とすのだ。真っ白に焼けた鋼の内で熾が脈打つ。それが徐々に冷め、まどろみ、無上のしろがねへと研ぎ澄まされていく。 刀身はわずかに彎曲していた。何の難があろう。美しい腰や背は曲線を描いているものだ。 「さア……呑んでみせろ」 焔の形の鍔を引き寄せ、台の上に組み敷いた。 軒先に燕が巣を作り、雌鳥が卵を抱いている。そこへ雄が帰還し、口づけのような給餌が始まった。雄は身をくねらせて吐き戻し、雌は体を揺すりながら餌と唾液を受け取る。やがて雄はまた餌を取りに飛び出す。わずかの別離を惜しむ雌の声は灰燕には届かない。灰燕は鍔と刀だけを見つめている。 「こいつめ」 端正な面を危うい愉悦が掠めた。 「何が不満じゃ」 鍔は決して灰燕の刀を受け入れぬ。 「白待歌」 『此処に――我が君』 白銀の焔が噴き上がり、鳥妖の姿となって跪いた。 「こいつ、どう思う」 燃え上がる鳥は促されるまま鍔を一瞥する。そして冷淡に吐き捨てた。 『無礼なめでございます』 「ああ?」 『無礼な女(め)、と』 「……ほォ」 灰燕は蝋細工のような唇を吊り上げた。 「女か。道理で」 燕が巣作りを始めた頃、灰燕はふらりと居宅を空けた。いつもの気まぐれなそぞろ歩きだ。一つめの卵が産まれた日、ある骨董屋で鍔を見つけた。いわくのある品だそうだが、鳥のように翼を広げる焔の意匠は灰燕の興をそそった。店の主は値を言わず、放り投げるように押し付けてよこした。 「本当にいいんですかい。鞘も刀もありゃしないのに」 「構わん。俺が拵えちゃる」 灰燕は刀を打ち続けた。初めの刀は受け入れてもらえなかった。その間も燕は抱卵し、口移しでの給餌を繰り返す。灰燕は鍔のためだけに何度も刀を鍛えた。しかし鍔にはどうしても嵌まらなかった。 おかしなことだ。稀代の刀匠が腕を振るっているというのに。 それが却って灰燕に火をつけた。屈せぬ獲物を前に刀匠の性(さが)が昂った。 「俺を怒らせん方がええぞ」 灰燕は魅入られたように鍔に固執した。美しく強情な鍔は幾日経っても灰燕を拒み続ける。刀匠はいつしか羽織を脱ぎ捨て、着流しから肩を抜いて鍔と取っ組み合っていた。しかし結果は変わらない。 「跳ねっ返りめ。何が気に喰わん」 荒い息。頤から玉の汗が滴る。焔の翼を持つ鍔は答えない。 灰燕は気分を変えるように外へ出た。向かうは先日の骨董屋だ。 「いらっしゃ……あ」 店主は灰燕を見るなり身を縮める。 「こん前の品じゃがの」 灰燕は無造作に鍔を差し出した。 「強情で困っとる。何ぞ知らんか?」 「だから言ったじゃありやせんか。あっしはあれほど……」 「責任なんぞどうでもええ」 店主のへっぴり腰を鼻で嘲る。 「知っとることを言え。俺が聞きたいんはそれだけじゃ」 いらえはない。皮膚が切れそうな沈黙の中で店主の目が泳いでいる。 「……鬼の刀の鍔らしいです」 やがて店主は恐る恐る口を開いた。 「持ち主は捕まって、刀身も鞘も燃やされちまった。この鍔だけが燃えなかったんでさあ」 「鬼は死んだんか」 「まだ生きてるかも知れませんぜ。噂ですが――」 鬼は、とある里で晒し刑にされているという。 朧な木漏れ日が羽織に滲む。深緑の下、優美な番傘が緩やかに回る。 むっ、と濃密な湿気が押し寄せた。 「雨になるかの」 傘の下で灰燕は笑った。 鬼の里は山を二つ越えた先にあった。四方を囲む山々の谷間で質素な集落が息を潜めている。灰燕が着いたのは黄昏刻で、家々は薄闇の底で黙り込んでいた。 代わりに焔が燃えている。あちらこちらで雄弁に咲き誇っている。 灰燕は軒先に座り込む老人に歩み寄った。 「この焔は何じゃ」 「迎え火だ。死んだもんが帰ってくるでの」 老人は骸骨じみた手で焔に薪をくべた。 「死者への目印か」 「ああ。今年はようけ死んだ」 焔がうねる。花弁のように火の粉が爆ぜる。金のまなこをあかあかと染めて灰燕はうそぶいた。 「鬼に殺されたんか?」 老人の動きがぴたりと止まった。 「……そうだ」 やがて老人はうなだれた。焔が呼吸する。首筋の老人斑が照らし上げられる。 「あれは鬼になってしもうた。気のいい鍛冶屋だったのに」 灰燕はひょいと眉を持ち上げた。 「ある時、山奥から妙な鍔を掘り出した。昔、刑場だか皮剥ぎ場だかがあった場所だ。あやつは鍔を気に入り刀を拵え……呪われてしもうた。ここの娘らはみんなあやつを好いておった。じきに祝言も挙げる予定だったのに」 みな斬ったのだと。里の娘たちを一人残らず斬り殺したのだと老人は呻いた。 「斬ったのは女だけか」 「男たちも何人か。腕自慢の連中が返り討ちに」 焔が弱々しく震えている。 「ほォ。で」 灰燕の面で艶かしく影がよじれた。 「鬼はどこにおる」 老人は答えず、里の外れの樹林を指した。 灰燕は恐れるでもなく林に分け入った。白待歌が音もなく躍動する。陽は山の稜線に溶け、明かりが必要だ。白銀の焔が白昼の如く暗闇を暴いていく。 太い杭が突き立てられ、青年がはりつけられていた。 惨い有様だ。 座り込んだまま、両手は頭の上で組まされている。念入りなことに手首が五寸釘で打ち付けられていた。釘は両目と両足にも穿たれ、青年をこの場に縫い付けている。どす黒い血が涙のように頬の上を這っていた。 「誰だ」 視えぬ目で青年が呻いた。 「誰でもええ」 灰燕は静かに歩み寄った。濃厚な悪臭が鼻をつく。垂れ流された大小便。腐りかけの傷口。 「刀は。刀はどこに」 青年が問うのはそればかりだ。彼は刀だけを気にかけている。 「燃やされたそうじゃ」 「燃えた……?」 「ああ。残ったんはこいつだけとよ」 焔の鳥の鍔を差し出すと、青年の鼻孔が芳香を嗅ぐように蠢いた。 「カエン」 ひび割れた唇が甘美に蕩ける。 「カエンだ。なあ。カエン」 壮絶な形相で笑う青年はまさに鬼であった。何も見えず、ただ魅入られ、身動きもできぬほど縛されている。 「こいつの名か」 灰燕もまた凄絶に――鬼と恐れられる所以そのものの顔で――笑った。 「ええ名じゃの。ほんにええ名を考えたもんじゃ」 夜空は奇妙にほの明るい。厚く垂れ込めた雲が迎え火を照り返し、妖しい薄明かりを作り出している。雪の夜に似ていた。雪が明かりを吸うように雲が焔に染まったのだ。 「良かった」 青年の頬を水滴が伝う。 「カエンは無事なんだな。良かった。また埋もれさせちゃならない」 とうとう雨が降り出した。 「おかげで俺は難儀しとる」 薄く笑う灰燕の喉仏にも雨が落ちる。水滴は鎖骨から胸元へと這い降りていく。 「俺を受け入れんのじゃ。じゃじゃ馬め。よう手綱を繰ったもんじゃな?」 「カエンは美しい」 盲目の青年はうわごとのように繰り返す。美しい、美しいと。灰燕は愉しげに喉を鳴らした。 「おお。手篭めにしたると何度思ったか」 「そうだろう」 二人の鬼は交感し、交歓していた。 「あんた、女たちを何故殺した」 「分からない」 「許嫁がおったんにか」 殺人を責めるでもなく灰燕は問う。そこにあるのは興味のみだ。 「分からない」 青年は弱々しく、けれども誇らしげに息をついた。 「カエンのことしか考えられなかった。今だって……。カエンが全てで、唯一なんだ」 「ッはは」 灰燕は軽快に笑った。 「さては娘らに嫉妬したんか」 鍔を指先で撫でさする。焔の鳥の鍔はされるがままに雨で濡れる。 青年はいつしか黙り込んでしまった。ひゅうひゅうとかすかな息が漏れている。じきに死ぬのだろう。カエン、とうわごとがこぼれた。カエン。カエン。雨と共に鍔の名が滴り落ちる。 「返しちゃる」 灰燕は青年に鍔を放り投げた。 「もういらん。俺んもんにはならんのじゃけえ。――白待歌」 青年の傍には鍔がある。灰燕の隣には燃え盛る白銀が控えている。 「送れ。華々しく」 『御意』 鳥妖は悠然と翼を広げた。 空が泣く。白銀の送り火が咆哮する。 迎え火は雨に踏み消された。身を弓なりに反らせて白待歌が躍る。熱で釘が溶け、青年の拘束が解けた。うっとりした溜息が聞こえた気がする。燃え盛る青年は胎児のように丸まり、途端に真っ赤な焔が噴き上げた。焔は、白待歌すら押し退けて青年を絡め取っていく。 鬼が笑っている。 煉獄のような業火に閉ざされ、揺りかごの中の赤子の如く微笑んでいる。 「ええ色じゃ」 もう一人の鬼は陶然と睫毛を濡らした。 朝が来て、里の人間は慌てて火を焚き直した。灰燕は冷めた目で人々を流し見、番傘を回して里を立ち去る。 「何を迎えるんかの」 鬼も鍔ももはやこの地には戻るまい。 「何故あれが女じゃと分かった」 『一目瞭然でございます』 「似たもん同士ちゅうことかの」 鳥妖は答えず、灰燕の傍で燃えるのみであった。 居宅は不思議に静まり返っていた。訝しんだ灰燕はすぐに察した。燕がいないのだ。巣の下には卵の残骸と雌鳥の死骸が落ちていた。天敵にでも襲われたのだろうか。死後何日か経っているようで、赤々とした雌の胸はすっかり光沢を失っていた。 「雄は行ったか」 畳んだ傘を空の巣に突き込む。乾いた土くれは呆気なく崩れてぼろぼろと落ちる。 「こげなもんなぞいらんじゃろう。なア?」 伴侶のいない巣は無意味だ。 (了)
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