彼女にとって彼の第一印象はけっして悪いものではなかった。それどころかむしろ良いとさえいえた。 しかし今、彼女は彼をおとしめる言葉をならべたてている。不安で不安でしかたなかった。 「あの人は、なんていうか、怖いわ。とても気味が悪いし」 安寧を得るには、放火犯を逮捕してもらわなければならない。この界隈をさわがせている放火犯さえ捕まれば不安は消えるのだ。 彼女の訴えを無言で聞いていた探偵は、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。頭の中で事象を整理しているのだろう。 彼女はたたみかけるように椅子から立ちあがった。 「放火事件は、あなたがあの人をここに連れてきたころから起こってるんです」 奇妙に青ざめた唇から、すべてをふりしぼってその名を口にする。 「あの人が――利政が犯人かもしれない」 探偵はすっと煙草をもみけした。 二週間前―― 「これ、なに、ですか?」 「これは青菜の一種。栄養があって、お肉と炒めると美味しい。でも、ちょっと高いわ」 「高い、ですか?」 青い瞳が疑問をたたえ、前髪がさらりと流れる。 小首をかしげたのだとわかって、彼女はあわてて言いなおした。 「高い、というのは、値段が高い、ということ。高価だってこと」 納得いった笑顔で、彼は手帳を取り出した。あたらしく覚えた単語をメモしているのだ。 古部利政。彼女がめんどうをみている男の名前だ。 とある探偵にこの男の世話をするように頼まれたとき、彼女には断るすべがなかった。その探偵が彼女の弱みをにぎっていたからだ。 盗みで生計をたてていた彼女は、数週間前にヘマをしてしまい捕まることとなった。このインヤンガイでは探偵ほど恐ろしいものはない。 ひとり息子のためにも投獄されるわけにはいかない。必死に懇願する彼女に、探偵はひとつの条件を出した。見逃してやる代わりに、ある男に言葉を教えつつ生活をともにしろというのだ。 その男もまた探偵だった。 「つぎ、現場、行きます」 利政が指さす方向で、現場というのが事件現場であることがすぐに知れた。もうこの街の全貌を把握してしまったのか、利政はさっさと店をあとにする。それでも女性がついてこれる程度の速さで歩いているのは、彼なりの気遣いだろう。 道順は完璧だった。探偵というものは総じて頭の良いものだ。だからこんなに勉強熱心なのだろうし、飲み込みも速いのだろう。 昨夜まで、古めかしい家屋が一軒、そこにはあったはずだ。今はもう静かにくすぶる消し炭と化している。隣家にも飛び火してしまい、右手の商店と左手の一般家屋にも被害が出ていた。 彼女は心の底からふるえがくるのを感じた。うすら寒い。 「今回、も、放火殺人、みたい、です」 利政のつぶやきに、息が詰まりそうになって深呼吸した。 建物が密集しているこの街では火事はおそろしい結果をまねく。ゆえにあまたの犯罪がはびこる中でも、放火がもっとも忌み嫌われていた。それはある意味殺人よりも重い罪。 「どんな人が……どんな人が放火犯なのかしら……」 彼女の独り言に、利政はにっこり微笑んだ。 「探偵、それ、調べます」 恐怖はまだ身近にあったが、彼の笑顔は心をやわらげてくれた。 燃え残りの中へ、利政は足を踏み入れていった。彼がいろいろと調べものをしているあいだ、彼女はぼうっと空をながめていた。泣き出しそうな鈍色の空だった。 連続放火殺人事件が起こりだしたのはつい最近のことだ。 被害者はすべて若い女性で、死因は鋭利な刃物での刺し傷だった。ずたぼろに切り裂かれた死体は、しかし、それ以上のことを語らなかった。炎があらゆる痕跡を焼き尽くしていたからだ。 現場界隈を根城とする探偵たちがいっせいに捜査に乗り出したものの、成果はあまりないという噂だ。この地区を牛耳っているとある名士が事件解決に懸賞金を出したとも聞く。自分の財産まで燃やされてはかなわないと考えたのかもしれない。 利政の調査は事件発生と同時にはじまった。 「なにかわかった?」 粗末な豆のスープを口にはこびながら、彼女は利政に訊いた。彼のめんどうをみる報酬として、探偵から最低限の生活費はもらっている。盗みをはたらいていたころよりはマシなものを息子にも食べさせることができていた。 「そう、ですね」 利政は上品に口元をぬぐうと、あれこれとわかったことを話しだした。彼がどこから来たのかも、なぜここの言葉を学びたいのかも、知らないことだらけだったが、優秀な探偵であることは徐々にわかってきていた。 「人殺しと、放火、時間にあいだ、あります」 「犯人はなにをしていたのかしら?」 「わかりません。殺す、あと、火をつける。もしかしたら、楽しんで、いたかもしれません」 「すぐに逃げないんだから、たいした度胸ね」 利政はかるく肩をすくめた。こういうなにげない所作に、彼女はすこしだけ安らぎを感じる。考えてみれば、こうしてなごやかな雰囲気の中で男性と暮らすのははじめてかもしれない。すくなくとも息子の父親には暴力をふるわれてばかりだった。 「度胸、ある、かもしれません。もしくは……」 「もしくは?」 利政はいつものようににっこり笑ってから、おそろしい推測を告げた。彼女はおもわず時が止まったかのように固まってしまった。 「どうか、しましたか?」 彼女はとっさに微笑の仮面をかぶった。 利政は良い人間だ。それはここ二週間の生活で身に染みてわかっている。だが、彼は探偵だった。探偵はやはり探偵以外のなにものでもないのだ。 このときから彼女は、放火犯を捕まえなければと焦るようになった。 煙草をもみけした探偵は、重々しくこう答えた。 「利政が犯人だとする推理はなりたたんよ。なぜなら彼は、私がこの事件の解決のためにこの街に呼び寄せたのだから。事件の発生と時をおなじくしてここにやってきたのもそれが真相だ」 放火犯として利政を捕まえさせれば自分たちを脅かすものをいっせいに処理できると考えていたのに、彼女は自分の行動が裏目にでたことを悟った。 利政はやさしくしてくれる。それでも探偵というものは別人種だ。彼が真相にたどりつく前に、どうにかして事実を闇に葬り去らねばならない。 彼女は不安を胸のおくへとおしこめて、足早に探偵のもとをさった。 窓からそっと中をのぞくと、利政が膝をおってかがんでいるのが見えた。ちいさく切り取られた四角い風景からは判然としなかったが、おそらく死体を検分しているのだろう。できたての惨殺死体ほど探偵の興味をひくものはない。注意力と観察力とを総動員いしているはずだ。 ここに呼び出された本当の理由にも、いま家の周囲をとりまいている油の匂いにも、彼は気づいていないにちがいない。 彼女はこきざみに震える両手で、ライターの火をつけた。あとはこの火を油に投じるだけ。この火事は、放火犯である利政があやまって起こしたものになる。放火犯も利政も両方がいっぺんに滅失する。 「ごめんね……」 人差し指、中指、薬指と、一本ずつほどいていく。ひらかれた手のひらからライターがこぼれ落ちた。 光が尾をひきながら流れ―― 見覚えのある、べつの手のひらがそれを受け止めていた。 優雅な手つきで炎を消す。 窓からの明かりでそれが誰の仕業なのかすぐにわかった。 いつのまに外に出てきたのだろう。 利政だ。 探偵だ。 「僕に罪をなすりつけたいのなら、せめて火元を家の中にするべきだね。出火元が家の外なのか中なのか、燃え跡からすぐに判断できてしまうよ」 ライターをもてあそびながら流暢にしゃべる彼は、笑顔こそ変わりないものの、まったくの別人に思えた。まるで外見だけはおなじで、中身が入れ替わってしまったかのよう。 「なん、で……」 「なぜ、と言ったかい? だったら、きみはまず最初の時点で疑問に思うべきだったんだよ。もう何年ものあいだ窃盗を生業としてきたきみが、ああも簡単に捕まってしまった理由を考えてみるべきだったんだ」 青い瞳が理解を求めて光る。窓明かりで半分だけ照らされた利政の姿は、半身が闇に溶け込んでおり、悪魔のようにも天使のようにも見えた。 「きみはね、見張られていたんだよ。放火殺人事件の容疑者としてね。だが、きみはどうしても尻尾を出さない。いや、正確には、放火犯としての尻尾は簡単に出してくれたんだけど、殺人犯としての尻尾を出してくれなかった。まぁ結論としては、出すべき尻尾をはなから生やしちゃいなかったんだけどね」 彼女はなにがなんだかわからず混乱していた。利政の言葉の半分も頭に入ってこない。 ただ、やるべきことだけが閃いた。本能がそうさせた。 「……ぅぅう、ああああああああ!」 いざというときのために殺人犯と似たナイフをもってきている。めちゃくちゃにふりまわす。利政の二の腕をかるく切り裂いた。 あっさり手首をつかまれ、ひねられ、ナイフを取り落とした。 「見事な母性本能だ。でも、ぼくには柔術の心得があってね」 彼女はゆっくりと全身の力をぬいた。なにもかもが終わってしまったとようやく理解できた。 地面にうずくまる彼女に、利政の錆をふくんだ穏やかな声がふりつもる。 「僕は、かの探偵から放火殺人事件の証拠を集めるよう依頼されていたんだよ。きみを捕まえた探偵だね。理由はさっき述べたとおり、きみがなかなか殺人の証拠を残さないからさ。でもね、きみと生活するうちに不思議なことに気づいた。きみは僕が言葉が不自由だと思い込んで気にもしていなかったんだろうけど、いつもきみは『放火犯』とか『放火事件』とか、そういった言い回しをするんだよ。被害者が殺害され、家に火がつけられる。ふつうはこういった事件は『殺人事件』とか『放火殺人事件』と言うものだ。そこに違和感をかんじたんだ」 だまされていたことに対する怒りよりも、彼が真相へと近づいていく恐怖のほうが勝っていた。 「調べてみれば案の定、殺人と放火にはかなりの時間差があった。だから僕はあのとききみに告げたんだ。『放火犯と殺人犯は別人かもしれない』とね。そうすれば、きみが焦って動き出すと思ってね」 「わたしが……わたしが殺したのよ! 火をつけたのもわたし!」 「違うね。きみは殺人をおかすような人間じゃない。もしそうなら、もっと早くに窃盗なんかより実入りのいい強盗やなんかに鞍替えしていたはずだよ。殺人犯は――」 利政の視線が窓のほうへ動き、つられて彼女も屋内を見た。とっさに彼女は叫んだ。喉がはり裂けんばかりに叫んだ。 「逃げて! 逃げるのよ!」 窓のむこうから呆然と彼女らを眺めていた殺人犯の――ひとり息子の反応は激烈をきわめた。 「こンの、クソアマァ! 俺を焼き殺そうとしやがったな!」 母親が家に火をつけようとしていたところを、息子はずっと見ていたというのか。いつも息子が立ち去るのを確認してから火を放っていた。今日だけ失敗するはずがない。なぜ息子は現場に戻ってきたのか。 「ちがう! わたしはあんたのためを思って――」 「俺のため?! そもそも俺がこうなっちまったのは、あんたのせいだろ! あんたが俺をこんなふうに育てたんだ! あんたが悪いのに、あんたが悪いのに、あんたが……」 彼女は今度こそすべての力がぬけていくのを感じた。それは魂がぬけていくに等しかった。 そっと見上げると、探偵が見下ろしていた。笑顔はいつものままに。 「バカだな……息子をかばうために証拠を消してまわってたんだろうが、あんたの息子はあんたに一片の感謝もしていない」 彼女はぼうっと空をながめた。泣いているのか笑っているのか、なにもわからない真っ黒な夜空だった。 獄中の彼女が知ることのない会話。 「これが報奨金の分け前だ。ヤツはこの街ではかなりの実力者だ。うまく取り入ったもんだな」 「あんたの依頼のおかげだよ」 「自分で依頼しておいてなんだが……おまえが現場から逃げる息子を呼び止めたんだろう?」 「ああ。母親の本心を教えてやると言ったらしぶしぶながらも現場に残ったよ」 「なんでそんな嘘をついてまで、ひどいことをしたんだ?」 「ひどい? 本当にひどいことなんてこの世界にはざらだろう? ただ僕は、自分たちの境遇を憐れむだけのあの母子にその現実を直視させてやりたかっただけだよ。本当にひどいことなんてもっとたくさんあるんだってことをね」
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