井上まなみは苛々しながら帰宅していた。 彼女は小中学校ともに優秀な生徒だった。 高校に入っても当然、周りから注目されるものだと思っていた。 しかし、大勢の人間が集まりのなかではまなみはその他大勢でしかなかった。 そんなことが許されるはずがない。 特に目障りなのが、同じクラスの比嘉あかり。 成績優秀、性格は明るく誰にたいしても分け隔てなく――今年の生徒会の会長はあかりで決まりだね、とまで言う者もいた。まなみが立候補しているにもかかわらず! 私から多くを奪った女。「ちょいとそこのお嬢さん」「なによ」 路地に黒い衣服を身に着けた、見える肌には黒い刺青が隙間なく彫られた男が立っていた。住宅街にはあまりにも不似合いな不審者だが、まなみは不思議と危険を覚えなかった。「そうお前さんさ、いい目をしている。望みがあるだろう? 憎いやつがいるだろう」「……いるわよ」 強気に言い返すとふふんと男は笑った。「そいつはどうして憎い?」「私から、私が持つものをすべて盗んでいったから」 ――そう、あかりは盗人だ。私の持つべきものをみんな盗んでいった。「ほぉ、そいつはいやな女だ。じゃあ、そいつから取り返そうじゃないか! なぁに俺が力を貸してやる。手を出してみろよ」「っていたっ! これ、なにっ!」 掌に刻まれたのは【奪】の文字。それはぐにゃりと歪んで鳥の形になるとまなみの肉体になじんだ。 なに、いまの。マジック? これ、刺青?「そいつを握りしめて、奪い返したいものの名をいってごらん。必ず戻るから。ただし、お嬢さん、それは使用一回につき『 』が代償になるよ。それに、それが本当にお嬢さんの本来持つべきものじゃなかったら、あとで返すはめになるからね」 まじまじと不思議なそれを眺めた。新手のまじないか、いたずらか、――どっちにしても、こんなものがあっては困る。さっさと消してくれと言おうとしたとき、男は消えていた。「なんなの、あれ……!」 翌日。 教室にはいると憂鬱げなあかりを大勢の生徒たちに囲まれていた。 たしか、あかりは幼馴染の「お兄ちゃん」が行方不明だって噂があったけ。「元気出して」「私たちもなにかするから」「きっとその黒埼さん、見つかるわよ」 むかつく。 むかつく、むかつく、むかつく。 なんであんな女が人の目を集めるの? 同情されるの、悲劇のヒロインぶりやがって! ――そのとき、はっと自分の手に目を向けた「奪。あかりの人気を、私に返せ」 とたんにあかりを慰めていた生徒たちがぴたりと動かきをとめて、操られた人形のようにゆっくりと離れていく。そしてまなみに羨望と憧れのまなざしを向けた。「私たち、いままでどうしてまなみさんの良さがわからなかったのかしら」「なんであんな子に声をなんてかけたんだろう」「あかりなんてさ、ヒロインぶりってきもちわるーい」 あ、ああ、あああ、あああ、――まなみは歪んだ笑みを浮かべた。 その場にいたあかりだけが友人たちの突然の豹変に目を白黒させている。「奪。あかり、あんたの美貌は私のものよ」 とたんにまなみの顔が変わる。あかりとうり二つに。「な、何が起こったの」「みんな、あかりを今すぐに捕まえて、目障りなのよ。あんたなんて、あんたなんて……!」 あかりを捕まえろ、殴れ、蹴れ、目障りだ。まなみさんの邪魔だ。いらない、いらない、いらない……コロシチャエ あかりは必死に逃げた。何かがおかしい、この教室は。まなみも変だ。これは夢なの? 廊下に出ると隣の教室から教師が出てきたのに思わず助けを求めるといきなり殴られた。 ――死ね ――お前はいらない ――目障りなんだよ ――キエテナクナレ 悪意の渦のなか、あかりは裏門まで走って外へと逃げ出そうとした。 が、見えない壁に激突した。「外に、出られない? なんで、どうして……助けて、助けて、壱也お兄ちゃん」 学校の屋上。 全身に刺青を施した黒い衣服の男は立っていた。 男の黒い無感動な目が怯えた少女を見降ろし、笑う。「結界はサービスだ。さぁて、図書館側がはやく助けがくるといいな、黒埼壱也」★ ★ ★「壱番世界で、事件が起こっているようなんやけど、ちょいとこれがおかしい」 着物服に猫耳と尻尾の二十代の姿をしたのは黒猫(コウエン)――黒猫にゃんこの変身した姿だ。キセルを吹かす黒猫の顔はなんとも不愉快げに歪んでいた。 壱番世界のとある都市部にある学校が何者かによって封鎖された状態にある、と。「しかも、そのなかでは一人の生徒が学校にいた人間を操っている。それもたった一人の生徒を除いて」 犯人は井上まなみ。彼女はなんらかの力を得て生徒、教師を操り、比嘉あかりを集団でいたぶり殺そうとしている。「この力は明らかに旅団がかかわっとる。しかも、そいつは自分では直接手は下さずに、壱番世界の人間を利用して、姿をあらわさん」 それだけでえらい気分が悪すぎる。と、黒猫は吐き捨てた。「俺が見たところ、この旅団、たぶん捕まらん。それはしゃあない。今はこの事態をどうにかすることが肝心や。結界がはられとるけど、みんなの力を使えばなかにはいれる。操られている人間に罪はない、出来るだけ怪我させん方向で……しかし、正直、このまなみという娘は、あかりにたいして憎悪を抱いているらしいし、説得は少し難しいかもしれん。最悪の場合も覚悟しておいてほしい。あと、問題はここから」 あまり時間をかけた場合、あかりは殺される。そしてまなみは死ぬ。「原因はわからんが、俺の予言にはそう出ている。……俺が気になるのは、今までの旅団の行動とのズレを感じることだ。なんだかこれは個人攻撃みたいじゃないか? 規模としては小さすぎるし、目立ちすぎる気がするんだよなぁ……なんや、俺らがこの事態に関わることをあらかじめ予定しているような……旅団に利用されてるかんじや」
結界をくぐりぬけて学校の敷地内に入ったとき、相沢優は激しい嫌悪を催す悪寒に全身を震わせた。 まるで静電気が走ったような痛みのあと、濡れた舌で全身を舐めたられたみたいな不愉快さを覚えた。 空を見上げれば、学校の敷地外では紙をちぎったような白い雲と水に溶かしたような青い空が広がっていたのに、今は重い灰色の雲に覆われている。 出来るだけ人目につかないようにと三人は裏門から侵入した。 と、優の横で黒い影が動いた。 (あっ) 瞬いた刹那。 いつからこちらにふらふらと千鳥足の生徒が襲いかかってきたのを、相手の首根っこを影が掴み、細い糸が――蛇、いや、龍だ。それが首に巻きついて締め上げた。音もない一瞬の出来事。 あっという間に三人を倒したヴェンニフ隆樹は振り返り、気絶しているなかで一番体格が大きい男子生徒を優に投げた。 「え、な」 「こいつらの服を借りて変装したほうが目立たないんで」 まだ事態がうまく飲み込めない優は目を何度も瞬かせる。 優の横にいるこの世の負をすべて寄せ集めて人の形にしたような白い髪の少女、トーテは緩慢な動きでヴェンニフの倒した男子生徒に近づくと上着を剥ぎ取りにかかった。 「ここらへんに転がしておいても問題ないだろう」 「……ズボンは自分には合わないから、上着だけでいい」 「二人とも」 優は遠慮がちな声をかけると、二人の視線が集まった。 ヴェンニフの夜のような瞳も、トーテの明け方の空のような紫色の瞳にも迷いの欠片はない。そこで優は今更だが、彼らと自分の考えの違いを認識した。 「なにか問題でもあったか?」 「いや……今は緊急事態だからな」 今、ここで躊躇っていたらまなみもあかりも死んでしまう危険性がある。それならば操られている人間には多少悪いとは思うが、手段を選ぶのはやめよう。それでもできるだけ戦闘は避けたいというのが優の本音だが。 「俺は、出来ればシャンテルさんに連絡をとろうと思うんだ。俺やシャンテルさんの目の届かないところを探していく必要があるし」 シャンテル・デリンジャーは三人とは別のルートで侵入し、いま、校内を猫の姿で探索している。 それに優もタイムをオウルフォームに変化させ、その目を使って空の上からまなみとあかりを探していた。 これならまなみ、あかりも早い段階で見つけることが叶うはずだ。 ――時間が経ちすぎるとあかりは殺される。まなみは死ぬ。 司書の告げた予言が優を不安に掻き立てた。 「……それならロッカーとか教室のなか……? 自分は、そこを探すよ……数が多いのが面倒だな」 「一階についてはヴェンニフが探すんで、僕たちは二階、三階をいけばいいと思うよ。……時間をかけたらあかりは殺されるならまなみを狙うべきか」 「まなみを狙う?」 優が目を瞬かせる。 「……この依頼はアカリを保護したら報酬がもらえるんだろう? まなみについてはどうでもいいが、邪魔なら殺す」 二人の物騒な発言に優は慌てた。 「待ってくれ。あかりの保護も大切だけど、まなみのこと……二人は殺すつもりなのか。確かに、こんな事態を引き起こしたことは許されない。けど、たった一回、一回の過ちで殺されるなんて」 「……自分の欲と嫉妬で他人を殺そうとするやつに説得は無意味」 「無意味かどうかはやってみないとわからない」 トーテに優はきっぱりと言い返した。 「こんな非常時にと思うかもしれないけど、俺に説得させてほしい。それまでは殺すことは頼むからやめてくれ」 肺を浸食する毒のような重い沈黙が流れた。優は一歩も引かず、二人を見つめる。トーテは黙したまま、 「……失敗したら殺してもいいんだな?」 隆樹の問いに優は言葉に詰まった。頭をまるで力の限り絞った雑巾のようにして言葉を絞り出す。 「得た力と奪ったものをどうにかすればいいと思うんだ。まだ方法は考えてないけど、見つけるまでは考える。だから、まなみを見つけても待ってくれないか?」 「出来る限り努力する。ノートも定期的に見るから連絡してくれ」 「……自分は、報酬さえちゃんともらえればいいよ」 二人の回答に優はほっと笑った。 「二人とも、ありがとう」 優はすぐさまにノートを開いて、シャンテルに連絡をとった。 ★ ★ ★ にゃあん。 呑気な猫の声には誰も耳を傾けない。目も向けない。校舎のなかをてくてくと歩いていたとしても気にもとめられない。 気配を殺し、人の足の間をするり、するりと水の中を泳ぐ魚のように進む。 猫はときどき欠伸をしては日当たりのいいところでまどろむ。 どこからどう見てもただの猫。 にゃあん。 再び猫は愛くるしい声で鳴く。 それがシャンテルだ。 人になることも出来るが、あかりの捜索には猫の姿のほうが有利と判断して、この姿のまま行動することにした。 あかりは当然のように助けたい。 けど、まなみも助けたい。 司書から聞いたかぎり、まなみには問題はある。けれど (なんとなーく。私、この犯人の娘、嫌いじゃないなー) と呑気に思ってしまう。 うにゃうにゃ~。にゃうむ。 猫はきょろきょろと周りを見たあと、女子トイレの個室を一つひとつ覗いていったが誰もいない。からぶりかぁ。 そこでシャンテルはノートに目を向けた。今回はみんな一緒に行動できないと踏んで、携帯電話を持っていこうとも考えたのだが、結界内では電波が届かない。少し手間はかかるがノートで連絡することにしたのだ。 優から手短いメッセージがあった。 「うーん、はやくあかりかまなみを見つけたほうがいいかもね」 にゃあん。 猫はとてとてと歩いていく。 「あ」 女子トイレを出て廊下を歩いて外へと出るとすべての命が死に絶えたような静寂に泣く声が聞こえたのにシャンテルは耳をピンッとたてて、そこへと足を進める。 「ここ?」 シャンテルの視界いっぱいに建つのは体育館。 そっとドアを押してはいるが、広い室内に人影はない。シャンテルはきょろきょろと首を動かすと、耳を澄ました。 そして辿りついたのは体育準備室の前。 シャンテルは液体化して鉄のドアのなかにするりっと身を忍びこませる。冷たい床に、無造作に置かれた跳び箱、ボールの入った籠……そこに隠れて押し殺した声が、聞こえてくる。 くぼっ。 「な、なに」 怯える少女を安心さるように闇色の液体は、その生温かい手で足を軽くなでた。 「ひっ」 少女が立ちあがって後ずさる。 シャンテルはすぐさまに人に姿を変えた。 「大丈夫?」 少女の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、不安と恐怖に彩られた瞳はじっとシャンテルを睨みつける。 「敵ではないからって……うーん、信じてほしいかなぁ」 のんびりとシャンテルは告げる。 「ここに仲間もくるから」 「なか、ま? あなたみたいな、化け物が?」 ぶるりっと少女は震え上がった。 「もういや。助けて、助けて……」 嗚咽をもらす少女にシャンテルは眉根を寄せた。他の者に気がつかれないようにと液体になって現れたのだが、恐怖をあおってしまったらしい。この調子で仲間のところまではおとなしく運ばれはくれないかもしれない。 出来ればギアの特質からいって優に引き渡すのが一番ベストなのだが。 「大丈夫、大丈夫だよ」 シャンテルは優しく声をかけ、長い爪の生えた手で傷つけようにい、細心の注意をしてその肩を撫でた。 「あ、待ってね」 ノートを見ると、優から近くまで来ていると報せにすぐに返事を書く。 「よし。ごめんね、ちょっと乱暴にするよ」 「え」 少女の返事を待たず、シャンテルは液体化すると、自分たちの背後にある壁に触れた。とたんに、壁がどろりっと溶けて人一人が通れる大きな穴を開ける。 「ひっ」 少女が震えた。 シャンテルはそれを無視して少女を抱えて、外へと飛び出す。 幸い、建物の裏手には人はいないのでシャンテルは少女を抱えたまま警戒しながらも悠然と移動することが出来た。 「シャンテルさん!」 すぐに駆けつけた優が二人の姿に安堵の笑みを浮かべる。 「よかった。無事で!」 「あ、あなたたちは……」 優の腕をとられて立たされた少女は不安いっぱいに呟く。 シャンテルは、あかりを預けることも出来たし、この場で一番安心させることができるのは優だと、今は猫の姿をとって見守っている。 「君は比嘉あかりだね?」 こくんとあかりは頷く。 「あなたたち、誰」 「……大丈夫、俺達は君を守りにきたんだ」 と優は息を飲む。事前に教えられた情報では「まなみはあかりの顔」をしている可能性がある。 「こんな最低最悪な犯人はすぐに俺たちが倒してあげるよ」 「たおす?」 「そうだよ。こんな風に複数の人間から襲うなんて相当に性格が悪いし、陰気だと思わないかい? それも君だけを狙うなんて犯人は君のことを恐れてるんじゃないのかな? きっとあかりさん、君に勝てないから妬んでさ」 わざと軽い口調で優はひどい言葉を口にすると、あかりの顔は強張り、その潤んだ瞳からは涙があふれた。 「うっ、ひ……っ、なんで? そんなこというの? 犯人は許せないけど、そんなの、わからないよ。あなたは、なんなの? 助けにきたって、そんな、こといいだすの?」 「……ごめん。本当にごめん」 彼女が本物のあかりだとわかって優は心から謝罪した。 近づいてみると、あかりの頬は赤く腫れて殴られたあとやひっかき傷もあった。制服も泥だけで彼女がいかに孤独な戦いをしていたのがわかる。学校中が敵にまわって彼女は一人ぼっちで逃げ回っていたのだ。その恐怖と混乱からようやく解放されたと思ったらまたひどい言葉を聞くのは、恐怖感から悪意に敏感になっているあかりには辛い思いことだ。 にゃあん。シャンテルは気遣わしげにあかりの震える体を撫でた。 「ごめん、混乱させるようなことをして。けど、どうしても必要があったんだ。犯人は君の顔をしていて、君が本物か判断するために……ごめん」 嗚咽を漏らし、泣き、喉を鳴らすあかりを落ち着けながら、痛々しい傷に優は手当を施していった。 さんざん泣いたあかりがようやく落ち着き、じっと優を見つめた。 「君のことははじめに言ったように守る。それで聞きたいことがあるんだ」 「なん、ですか」 あかりは聡明な瞳で問う。 「まなみさんってどんな子なのかな」 「まなみって、井上さん? えっと、あんまり話したことないけど、頭はいい子だと思う。ちょっと気分屋で周りの子たちが困ってるとき、あったかな。……それがどうかしたの? それに、みんなが変になったときは……まさか」 優が何も言わずともあかりは真実に気が付くと、悲痛な顔を両手で覆った。 そんなあかりの肩を優とシャンテルは慰めるように撫でた。 ★ ★ ★ 「……いた」 ぽつりと、トーテが告げる。 トーテの声は低く淀んだ声だったが、隆樹の耳に殺意をこめて放たれた矢のようにはっきりと聞こえた。一応、ノートで定期的に連絡するというので、それに目を通していた隆樹はゆっくりと黒い瞳を動かした。 「わかりやすい女だな、まなみっていうのは」 あかりの救出を優先するにしても、全員でだらだらと行動するのは目立ちすぎる。隆樹としては変装をした以上、隠密行動をとって依頼をスムーズに進めたかった。それには優自身も賛成してくれた。全員での行動は目立ちすぎるし、効率が悪い。 二手に分かれるのに優は護身術の心得があることと、トラベルギアの特質を考えて――シャンテルとの連携プレイが望ましかった。 隆樹はヴェンニフを放つことでミネルヴァの眼のようにかなりの広い範囲の探索が可能であることからトーテとコンビを組むことになった。 あかりの救援は優とシャンテルがしてくれる、というのが隆樹の考えだ。探さないわけではないが、自分たちはそれ以上にこの原因をどうにかするほうが性にあっている。 見つけたあかりに叫ばれたり、泣かれたりしたらそれこそトーテも隆樹もどうしていいかわからずに途方に暮れてしまう。 まなみならどこにいくか。 一般人が急に手に入れた力――それも他者を操作することを考えれば屋上か、もしくはそれに似た人を見下ろせるところ。 二人は屋上を目指した。 幸い、他の階はヴェンニフが捜索している。だったら一番可能性の高いところを訪れたほうがいいに決まっている。 屋上で髪をなびかせて微笑んでいる、彼女はまさに女王だった。人を従えて、まるでなにもかも自分の手のなかにあるような自信に満ちた顔。 隆樹はヴェンニフを呼びながら、小さな箱庭の女王と向き合った。 「誰よ?」 「……名乗る者じゃない。この騒ぎ、お前が原因だな。……いますぐにやめろ」 トーテの必要最低限の言葉にまなみの顔がみるみる強張る。まるで小さな子がお気に入りの玩具を奪われようとして、癇癪を起こす寸前の顔だ。 「いやよ」 「……そうか、なら」 トーテはトラベルギアを持つ片手をあげた。 「……死ぬ」 まなみが怒りに形相を歪めた。 「いやっ!」 トーテが引き金を引く寸前にまなみは生徒たちを自分の前に移動させて己を守った。 放たれた弾丸は幸いにも生徒の頭を少しだけかすめただけだ。トーテはふっと唇を告げて、微笑する。 「なによ、気持ち悪いわねっ」 とまなみはそのときになって自分へと迫るそれに気がついた。 ――魔力発動 ――強化 ――肉体・俊速 あと少しで間合いというところで、生徒が邪魔をする。一旦止まり、隆樹は後ろに下がり生徒の捨て身の攻撃を開始する。 一定の距離を近づけない状態で隆樹は生徒たちの攻撃をやり過ごし、再びのタイミングをはかる。 「……生徒を傷つけるなっていうのは面倒……」 トーテにも敵意をむき出しにした生徒たちが迫ってくる。しかし、彼女は逃げなかった。殴られようが、蹴られようが、踏みつけられようが、その顔は微動だにしたい。 痛みを感じず、また傷も瞬時に回復するトーテは意に介さない。むしろ強制共有能力が発動し、彼女を傷つける者たちが痛みに倒れていく始末だ。 「……死体はなにされようと平気だし」 トーテは吐き捨てる言葉に聞いたまなみが笑う。 「死体? そっか。死なないんだ。それって」 ――いいかも 「奪。その女が持つ不死を、攻撃を返す力を!」 トーテは眉根を一瞬だけ寄せた。と、生徒の一人に殴られた。 痛みはないが、強制共有が発動せず、傷が治らない。仕方なくトーテはトラベルギアで生徒を殴りつけて気絶させた。 「……くだらない」 トーテは吐き捨てる。 隙が生まれた。 トーテの力を奪い取り、まなみは得意になっているのに周囲を守っていた生徒たちより一歩、前へと出る。 そのチャンスを見逃さず、隆樹は駆ける。 まなみが気付いて防衛しようと生徒たちを動かそうとしたが、まるで糸の切れた人形のように彼らは動かない。 「なんでよっ!」 (遅いぞ、ヴェンニフ) 叱咤すると、気さくなお調子者は黒い影をゆらっと揺らせた。 障害を越え、隆樹はまなみの間合いにはいった。手の平に力をためて、一気に心臓を打つ。 魔力を注ぎこんだ技は青い輝きを帯び――スパーク。 まなみの体は吹っ飛び、かたい床に倒れ込む。と、隆樹の口からどす黒い血が溢れた。 「――っ!」 ――魔力発動 ――強化 ――肉体・防御 『イきてル?』 生徒たちの束縛を解いたヴェンニフがゆらゆらと水のなかを泳ぐ蛇のように身をくねって隆樹の影のなかへと戻って尋ねる。どこか面白がっているような響きだ。 「勝手に殺すなよ。……司書が言っていた能力はこれか」 血をすべて吐き出して、隆樹はちらりと吹っ飛んだまなみを見た。魔力やヴェンニフのおかげで肉体的に秀でている自分とまなみは根本的に受けるダメージ違う。 まなみは半死半生の状態で、生きていた。トーテから奪い取った力で肉体は回復し、また自分に攻撃した相手にそれを返すという厄介な能力はあれど、痛みの感覚は残ったままだった。倒れたまま血を何度も吐き出し、呻いている。 いたい、いたい、いたい……くるしぃ……なんでなんでよぅ……まるで幼い子供のように泣きじゃぐっているその様子を隆樹は黒い瞳でじっと見つめた。 「厄介だな」 「二人とも、無事……っ!」 駆けつけた優は目の前に広がる地獄を睨みつけた。そして、それを作り上げた痛いと泣く元凶へと目を向けた。 「……あかりさんは保護をした」 優は一言、一言に力をこめて告げた。 「このままだと君は死ぬんだ。あかりさんを殺してしまったら……その代価で」 まなみが起き上がり、優を睨みつけた。 「……今の君の顔はあかりさんのものだろう? あかりさんの人気を奪ったけど、それは本来君のものじゃないだろう? 誰かを、誰かを憎むことはあると思う。妬ましいと思うことも。俺だってあるさ。けど、生きていたら絶対に手に届かないものはあるんだ。今はまだ学生だからあまりわからないかもしないけど、社会にはもっと豊かな人は大勢いる。君より優れた人も、人気のある人も……そのたびに奪うのか? こんな風に?」 優は託した、自分の気持ちを。 「自分は自分なんだ。……辛いけど、社会に出たら、叶わないことはいっぱいある。けど、そういうことと折り合いをつけて人は生きていくんだ。諦めるのはつらいけど、その辛さを乗り越えて自分と向き合って、自分にある素敵なところを磨くしかないんだ。まだ、まだやり直せる。俺も手伝うよ。だから」 優は手を伸ばす。最終的には気絶させることも考えているが、それでは隆樹の二の舞になる可能性もある。 なによりも、自分で気がついて引き返さなくてはまなみは本当の意味で救われない。 「まなみさん」 まなみの顔を歪ませて、首を横に振った。 にぁん。 にぁん。 まなみの足元にいつの間にかすり寄っていたのはシャンテル。 「ねぇ、彼もそういってるよ? これ、なんとか誤魔化してあげるからやめようよ。じゃないともっと大変だよ? 聞いたよね? このままだと死んじゃうよ?」 まなみは泣きながらじっと優を見つめて、ゆっくりと唇を動かす。ほんとうに? と、問われて優は笑って頷いた。 「大丈夫。まだ間に合う。まだ間に合うんだ」 まなみは立ち尽くしていたが、決断したのか恐る恐る手を伸ばそうとして……突然と両手で頭を抱えると叫びだした。 「いゃあああああ!」 ――あーあ、だから言ったのに 嘲笑う声がいやにはっきりと四人の耳を愛撫した。 振り返ると、いつの間にかそこに男が立っていた。今までどうして気がつかなかったのかと訝しく思うほどに男は目立っていた。 黒一色の服で体を覆い、顔以外の肌は刺青で覆われた男が呆れた視線をまなみに向けていた。 男は自分の肩にいる黒いイタチに軽く手をふった。 「神隠、いいぞ。……だから、使いとごろは気をつけろって言ったんだ」 あまりにも呑気なその文句に優は眉根を寄せて、まなみを見て絶句した。 白い。 まなみの髪の毛は老婆のように真っ白に染まり、両手で覆われている顔があがると目も濁ってしまっている。 「なっ、あれは」 優が声を漏らした。 「対価さ。この女の持つ黒はほとんど失われた」 ――使用一回につき『黒』が代償になるよ。 「風見鳥、もどってこい」 ひゅうんと風が吹く音とともに一匹の艶やかな黒を纏った鳥がまなみの掌から飛び出し、男の元へと舞いおりた。 「ああ、いい黒に染まったな。上等だ」 「……旅団? この娘に、こんな力を与えたのはあなたなんですか?」 優は眉根を寄せ、震える声で尋ねた。 「ああ。そうだよって、おいおい、兄さん、怖い顔だぜ。俺はちゃんと注意はしておいた。それでも使ったのはこの娘だ。いやー、なかなか面白いもんが見れたよ。さぁてと、目的も果たしたし、そろそろいかねぇと」 「目的?」優が眉根を寄せた。 「……今回のこれは影なんとかを捕まえた報復を兼ねているのだろう」 トーテがぽつりと呟いた。「どうでもいいけど」と彼女らしい無気力な独り言とともに。 「影? ああ、シャドウ・メモリのことか。あいつね。心配? あんなやつを? ……と、アレ、いいわけ?」 男があれと指差した方向を見て優はぎょっとした。 よろよろとよろめいたまなみが手すりに手をかけて、身を乗り出そうと――にゃあにゃあとシャンテルが必死に止めようとしているが効果はない。すぐに人へと変化し、力づくで止めようとするが、それよりもまなみが落ちるのがはやい。 「だめだ!」 優は走り出す。 「タイム、頼む!」 まなみが落ちたと同時に、優も手すりを乗り越えて落下する。 落ちながら優はまなみの腕を捕えて、守るように胸の中に抱きしめた。トラベルギアとタイムで耐えられるだろうかと不安に地面を睨みつけると、すとんっと優の肩に軽い衝撃が走った。にゃあ。 「任せて」 優はトラベルギアで結界が張り、地面をシャンテルがどろどろに溶かすことで落下の衝撃を最低限に抑えて、二人はまなみを守り切った。 「シャンテルさん、無事ですか」 にゃう。 弱弱しいが、はっきりした返事に優は続いて腕のなかにいるまなみを見た。 「っ……まなみさん!」 白い髪に、もう見えてないだろう目は虚空を彷徨う。いやだ、いやだと何度も繰り返して泣くまなみはあまりにも憐れだった。 これが力の代価。彼女がしたことの罪の重みなのか。 優の脳裏に自分の手をとろうとしたまなみの顔が浮かぶ。彼女は間違えた。それを悔いて、やり直そうとした。なのに。 「……誰だって、失敗するんだ。過ちを犯すんだ。けど、何度だって人はやり直すんだ。何度だって……後悔して、反省して、……っ!」 優は屋上にいる旅団を睨みつけた。 「おー、すごい、すごい。助けちまったぜ、あいつら……あんな死にぞこないを助けて、なんか得でもあるのかねぇ。むしろ、死なせてやるのが優しさだと思うが」 手すりから下を見た男はけらけらと笑った。 「時間が経てばあかりは殺され、まなみは死ぬっていうのはこのことか」 隆樹は呟く。 あかりはまなみに殺される。 まなみは力を使い過ぎた代価によって自ら命を断って死ぬ。 「目的は? お前ららしくないよな、これ」 『ナニかタメソウとしてる?』 ヴェンニフ隆樹の問いに刺青の男はくっくっと喉を鳴らした。 「うん? ……ほぉ、面白いな、お前……試すなんてことはないさ。俺はただ上からの命令に従っただけさ」 「命令、ね。そっちにコンダクターいるんだよな? 不信感持つんじゃ? あんた、手出しするつりか?」 「さぁね。俺は知らない。興味もないし、めんどくさいのことは苦手でね……手出し? ああ、ここにいるのは風見鶏を回収したかっただけさ。もう消えるよ。互いのためにもここは笑顔でお別れしようぜ」 「そ。じゃ、僕も忙しいし、」 ――さっさと消えてほしいんで 軽い口調とともに銀の刃が投げられる。ほぼ同時にトーテの銃弾が火を噴いた。 「御守!」 男の腕から黒い馬が飛び出し、けたたましく鳴いた。その声は空気を震わせ、見えない壁となって刃と銃弾を弾き落とした。 「仕事はつつかなく終わったし、帰らせてもらうよ。神隠」 黒いイタチが現れると男の姿はスゥ……と空気の中へと溶け消えた。
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