::*:::*:::Blue Moon 銀の血をしたたらせた満月が、アーグウル街区を見下ろしている。 煌々とふりこぼれるのは、冷たささえ感じる月光だ。霧雨のようなヴェールが異界路に紗をかけて、インヤンガイの様式を踏み外した建物群を、そして訪れる旅人を、いっそう混沌とした幻夢に誘う。 「月が、明るすぎるね」 ムジカ・アンジェロは、真昼の陽光でもさえぎるかのように、眩しげに手をかざす。月のひかりが強すぎて、星さえ見えない。彼の珊瑚色の髪も、月のいろに染められていた。 「金木犀が、散ってるんじゃないかな?」 エレナは小さな白い手のひらを、そろえて天に向ける。幻想の花びらを受け止めるように。 この街区に伝わる伝説を、現地探偵のカイから聞いたことがあったのだ。 月には天人の都がある。その中央、《時の湖》を見はるかす月宮殿の庭には、金木犀の巨樹が枝を広げている。 花盛りの季節、星のさざなみのように咲いた金木犀は、月をいっそう輝かせる。 月宮殿のひとびとが宴をもよおし、拍子をとると、花はやわらかなしずくとなってこぼれ落ちていく。 しずくの花は光に混ざり、やがて地上にも降り注ぐ。 落ちた花は、地の理とまじわり、静かに芽吹く。 「だから、地上に咲いている金木犀は、月の花の子どもなんだって」 そういうエレナのハニーブロンドも、銀の絹糸となってなびいている。どこまでが彼女自身のもので、どこからが月の霧雨なのか、わからない。 「すると」 不意に、甘い芳香が漂ってきた。金木犀の香りだった。ムジカは一瞬だけ目をみはり、しかしすぐに、細める。 「ここにも、月の花が咲いていることになるね」 彼らは、螺旋飯店(ルオシュエンホテル)の門扉の前にいた。 装飾のひとつのように蔦が絡まる蜂蜜色の外壁も、今は銀色に見える。 そして。 双頭の竜の意匠が刻まれた鉄製の扉の横には、小さな金木犀の木が、花をつけていたのだった。 小ぶりの枝の下に、エレナは両手を差しのべる。 ほろり、と、ひとつ、幻想でも月光でもない花のかけらが、少女の手に落ち、香りを放った。 † † † 過日、このホテルで、ミステリーナイトなる催しが行われた。 インヤンガイの上流階級の子弟を招いての謎解きイベントとして開催される予定だったものが、暴霊による連続殺人予告がなされたため、ムジカとエレナを含む五人が出向いたのだった。 そのおりに、螺旋飯店の支配人をつとめる黄龍(ファンロン)が、もとはファミリーの一員であったこと、ロバート・エルトダウンの異母弟、ベンジャミン・エルトダウンであったことが明らかになった。 そして事件収束後、五人には、ミステリーナイトの成績優秀者への賞品として、螺旋飯店のロゴが入った金と銀の「探偵バッジ」が授与されたのである。 ムジカとエレナは、どちらも、最優秀探偵賞の「金バッジ」を贈呈された。螺旋飯店では、四人の従業員と支配人を四神とその長に見立てているので、バッジにはそれぞれに称号が付随する。すなわち《金の麒麟》と《金の青龍》である。 かつ、バッジ保持者には特典があった。セキュリティの高さゆえの高額料金を堂々と標榜するこのホテルに、予約なしでの無料宿泊が可能という権利が。 ――だから。 「ようこそ、螺旋飯店へ。金バッジのおふたりが、律儀にご予約をくださるとは意外でした」 レセプションで待機していた黄龍は、うやしやしくそう言い、深く礼をした。 「それにしても……、このたびは、非常に申し訳なく」 ひどい失態を犯してしまったように、支配人は何度も謝った。心当たりのないふたりは、かたわらに並列している従業員たちに視線を移す。しかし、蒼(ツァン)、墨(ムオ)、紅花(ホンファ)、雪花(ユエファ)らは、それぞれ何か言いたそうにしながらも、今は黙って控えていた。 エレナはきょとんと小首を傾げる。 「予約しちゃいけなかったの、ファンちゃん? だって、それが礼儀かなって思ったの」 「おれはどちらでもかまわなかったんだが、小さな姫君の礼節を尊重したくてね」 苦笑するムジカに、ああ、いえ、そういうわけでは、と、黄龍はゆるやかに片手を振る。 「バッジをお渡ししたからには、ご利用の際には、いついかなる時であろうと、十分な饗応をご用意したいと思っております。ですが、わざわざご予約いただいたにも関わらず、おふたりをおもてなしするための準備が、今現在の異界路の状況をかんがみますに、まったく整っていないと申しますか……、少々、困ったことになっておりまして……。こればかりは、不確定要素が多すぎるといいましょうか……」 「何かあったの?」 「事件でも起こったのかな?」 「……それが」 言いにくそうに逡巡していた黄龍は、とうとう、観念して言葉をつないだ。 「何も起こっていないんです。おふたりの関心を惹けるであろう、不可思議で興味深い事件など、何ひとつ」 申し訳ありません、と、黄龍はがっくりと肩を落とす。 「何も」 「起こっていない?」 とうとう我慢できなくなった紅花が、ぷっと吹き出し、くすくすと笑った。 「んもー、聞いてくださいよ。支配人たら、予約もらってからずっとそわそわしっぱなしだったんですよ。せっかく金バッジの探偵がふたり異界路に来てくれるのだから、大いなる謎を秘めた事件をご提供しておもてなししなければならないって」 「でもさ、ここのところ、異界路どころかアーグウル街区全体が平和続きなんだよね」 蒼が肩をすくめる。 「先日のミステリーナイトの後、このホテルには、凶悪な暴霊のかたも、あまり近づいてくださらなくなって……」 雪花が頬に手をそえ、ふぅとため息をつく。 「あんな事件がそうそう頻発してたまるか。あのとき暴霊に破壊された胡桃の木の螺旋階段(ウォルナット・ナッツケース)や切り裂かれたブロケード織の壁布を修復するのに、どれだけの費用と手間がかかったと思ってる。だいたいウチの支配人は人使いが荒過ぎるんだよ」 墨が眉間にしわを浮かべた。施設管理担当の彼は、原状復帰に大変な苦労をしたらしい。 従業員のぼやきをよそに、黄龍は天井を仰ぐ。 「まったくもって情けないにもほどがある。この街区の劇場型犯罪者の諸君や暴霊諸君は、仕事を怠けてどこでお茶を飲んでいるのだか」 「ファンちゃんったら」 黄龍を見上げ、エレナは、かわいらしく「めっ」と言った。 「探偵の出番なんて、ないほうがいいんだよ? ね、ムッちゃん」 「エレナの言うとおりだね」 ムジカの口もとが、わずかに緩む。 「その気持ちだけ、有り難く頂戴しておこう。おれたちの来訪に合わせて凄惨な連続密室殺人が起きたら、それはそれで問題だと思うからね」 「しかしですね、私にも見栄というものがありましてね」 「出た、支配人の口癖」 紅花が言い、ムジカは面白そうに問うた。 「口癖なのかい?」 「そうなのー。以前、白色情人節(ホワイトデー)のディナーに来てくれたひとたちに、そうぶっちゃけてたみたい。そのときあたしたち、酷使に耐えかねて給料値上げのストライキ中だったから、あとで知ったんだけどね」 「ホワイトデー?」 目を丸くするエレナに、支配人はうやうやしく頭を垂れる。 「ダイニングルームをレストランとし、白色情人節限定ディナーをご提供しつつ、女性のお客様にのみ、当ホテルからのプレゼントをさせていただく企画です。よろしければ、その節はぜひご用命を」 「……ねえ支配人。いい調子のところ悪いんだけど、本題忘れてない?」 蒼が、黄龍の耳になにごとかを囁く。 「ああ、なるほどね。そこに謎がないのならつくりだせばいい、彼らにふさわしい、美しい謎を――さすがは蒼、我が片腕。比類なき青龍よ」 「こんなときだけ、おだてられてもね」 どうやら蒼は、客人をもてなすための提案を行ったようだった。 それを受け、支配人は姿勢をただし、 「お見苦しいところを。あらためまして、おもてなしの用意をさせていただきます」 大仰に、一礼。 そして、ふたりは案内される。 《青の部屋》へと。 ::*:::*:::That is the question 螺旋飯店には四つの客室がある。 それぞれ、担当する従業員と四神との符合により、《青》《朱》《黒》《白》を基調とし、どの部屋の内装も凝ったつくりとなっている。 たとえば、この《青の部屋》は、チッペンデールの原画をもとに再現された家具と調度品で統一されており、要所にベーシックカラーの青が使われているのだ。たとえば、天蓋付きのベッドのカーテンは淡い水色であるし、革張りのソファの縁取り、テーブルとライティングデスクの刺し色は瑠璃色、バスタブは猫足部分だけが濃紺、といったふうに。 この部屋の大きな窓を覆うカーテンは、薄い青絹が使用されている。そして今、そのカーテンは引きあけられ、くっきりとした満月が、青いはずの室内を、銀色に浸食しているのだった。 蒼が、真鍮の鳥籠を運び込む。 小鳥ではなく、青い薔薇が一輪、閉じ込められた鳥籠を。 そして黄龍、いや、ベンジャミンが問う。 ムジカに。エレナに。 「ひとつめの謎として申し上げる。『鳥籠の扉を開けることなく、薔薇を取り出すには?』」 そして、満月を見る。 「ふたつめの謎として申し上げる。『あの月を青く染め、捕えるには?』」 ::*:::*:::Applause 「扉に触れなくてもいいの」 エレナの、ひとつめの解はこうだった。 「鳥籠の底を、開けてしまえばいいんじゃないかな」 ベンジャミンが、おや、という顔になる。 「でなければ、扉以外のガラスを割ってしまえば、薔薇は手に入るよ」 しかし、と、ベンジャミンは思案顔だ。 「それは本当に、エレナさんの解ですか?」 「……なんてね」 見抜かれたとばかりに、エレナは微笑む。薔薇のつぼみがほころぶように。 「ファンちゃん、ハーブティーは好き?」 ベンジャミンが頷くと同時に、エレナは蒼に耳打ちをする。 蒼は退出し、ほどなく、人数分のティーセットが運びこまれた。 「これね、あたしのお気に入りなの」 ロイヤルコペンハーゲンのティーカップの中に注がれたのは、マロウブルーの紅茶。 エレナは、ティーカップを窓に向けて傾ける。 ――紅茶に、月が映った。 エレナの手の中に、青い月が揺れている。 「ほら、ね?」 「お見事です」 拍手をするベンジャミンに、エレナは、青い月を閉じ込めた紅茶を渡す。 「ねえ、ファンちゃんは、隠された秘密を全て解き明かしたとき、それを誰かに聞かせたい?」 「謎に謎を返すとは、さすがは《金の青龍》。ときと場合によるとだけ、お答しましょう」 「うん……。あたしもね、真実が知りたいだけだから、自分だけの秘密にしてもいいなって思う時があるの」 † † † 「おれが触れたら、壊してしまいそうだ」 ベンジャミンとともにティーカップの青い月を渡されたムジカも、そういって、笑う。 そのことばどおりに――、 ムジカが手にしたとたん、カップの中の青い月は、ゆらりと消え去った。 「蒼。青い手鏡をひとつ、用意してくれないか」 手鏡は、この部屋の備品としてバスルームにあった。渡されるなり、ムジカは、それをテーブルの角に思い切り良くぶつける。 手鏡の表面に、亀裂が走る。蜘蛛の巣のような、それは――獲物を絡めとる網。 ムジカは、月を、鏡に映す。 そこに出現したのは、蜘蛛の巣に囚われた、青い月だった。 † † † 「これはこれは」 ベンジャミンの喝采はやまない。 「エヴァ姫のお怒りを買いそうな野暮な話になりますが、薔薇は青の色素の遺伝子を持ちえない。品種改良や交配をいくらおこなったところで、青い薔薇は生まれない。なので壱番世界における青薔薇の花言葉は長らく『不可能』」だったのですが、このたび遺伝子操作により、青い薔薇が誕生したようで」 日本の、とある酒造メーカーが青薔薇の開発に成功したらしいと、ベンジャミンは言う。 その薔薇は、「アプローズ(喝采)と名付けられた。 そして、それまでは「不可能」であった青薔薇の花言葉に、「奇跡」と「夢はかなう」の文言が、追加されたのだと―― ::*:::*:::A miracle 「少し、あなたと話をしたいのだけれど」 そう申し入れたムジカに、ベンジャミンは不思議そうな顔をする。 「私なぞと語り合っても、あまり有益ではないと思うのですが」 「そこに"謎"があるから」 「謎――」 「あなたが何を想って0世界から去ったのかと。おれは強欲だから“名探偵”が逃げた謎と聞いたら、興味を持たずにはいられない」 「それは」 しかし支配人は、その問いをひらりとかわす。 「またの機会があれば、お話しましょう」 「大切な誰かのために秘匿するべき真実があることは、理解しているけれどね」 ムジカも自然に受け止めて――それでも、月を見る。 † † † 手鏡を指し示し、与えられた課題を、ベンジャミンに返す。 「この解、あなたならどうする?」 「満月はもともと、Blue Moonと呼ばれているのですよ。ですが、言葉遊びで落とすのも芸がない」 言ってベンジャミンは、青絹のカーテンを引いた。窓が覆われる。 部屋に、青いひかりが満ちる。 カーテン越しに、青い月の輪郭が、ゆらりと浮かび上がった。 青い月光は鳥籠を照らし、その中の青薔薇をも溶かし込み、絡めとったのだった。
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