インヤンガイの一街区、リューシャン地区の片隅に、探偵シュエランの事務所はある。 シュエランはくたびれた風体の男だが、外見に反して腕利きでもあるので、リューシャンで起きるもめごとの大半は、大きなものも小さなものも彼のところへ持ち込まれる。繁盛していると言っていい。 おかげで、稼いだ金銭を元手にして、探偵事務所のすぐそばに小洒落た茶房を開くに至った。落ち着いたインテリアと美味な茶や菓子が出迎えてくれるこの茶房『心花(シンファ)』は、シュエランの助手であるハイリィが切り盛りしている。 清楚な美貌の持ち主であるハイリィが、やさしい笑顔で出迎えてくれ、馥郁たる茶や穏やかな味わいの甘味でもてなしてくれるとあって、茶房にはすぐ常連客がついた。 オーナーの本職の関係上、さまざまな情報が持ち込まれる場所としても機能しており、それほど大きな店ではないが、繁盛しているようだ。 日ごろ、さまざまな事件を通じてシュエランとかかわることの多い、異世界からの旅人たちも、依頼の相談や、事件解決後の息抜きに利用するようになった。シュエランは依頼を受けてくれる人々に必ずここで一杯奢るようにしているし、ハイリィはとある事情からロストナンバーたちに深い感謝の念を抱いているので、ひときわ親切だ。 よって、ここは、ロストナンバーたちにとっても、過ごしやすい場所になっている。「工芸茶って、綺麗だね。どうやってつくるんだろう」 壱番世界は日本出身、古い名家の当主にして驚異の幼顔の持ち主でもある蓮見沢 理比古と、「うん、すごいよね。職人さんたちが、心血を注いでるんだろうなあって思っちゃう」 異世界出身、良家の子女にして名探偵、最高級のビスクドールのような美しい少女、エレナもまた、例に漏れず『心花』でひと息ついていた。 ふたりは、シュエランから頼まれた謎解きの依頼を解決し、その礼を兼ねてお茶と甘味を振る舞われているところである。茶器の中で美しい花が開く工芸茶と、素朴でほっこりと甘い菓子の数々を、甘いものの好きなふたりが堪能しているのは言うまでもない。「エレナはやっぱりすごいね、たくさん助けてもらっちゃった。まさか、あんなところに、あんな風に暗号が隠されているなんて、思わなかったな」「そういうアヤちゃんも、いろいろなところからヒントを見つけ出してくれたから、おあいこだと思うよ? あたしたちが、自分の得意なことを駆使して事件を解決できたんなら、こんなに素敵なことはないと思うの。依頼人さん、とっても困ってたみたいだったし」「うん、これで依頼人さんの人生とか運命がいい方向に進むんだったら、こんなに嬉しいことはないよね」 タイプこそ違えど、ふたりとも、「泣いている人がいたら寄り添いたい、困っている人がいたらもう困らなくていいよう手助けがしたい」という理念は同じである。生命への愛、心というものへの誠実さ、隣人への善意、そういうものでふたりは出来ているし、そのために奔走することに躊躇いなどないのだ。 ひどく骨が折れた依頼だったのも事実だが、だからこそ、ふたりは満足げだ。「いや、本当に助かった。あれが見つからなかったら一家離散の危機ってくらい、追いつめられてたみたいだから。あんたたちのおかげだ、まあ、遠慮せずにどんどんやってくれ。そこの焼き菓子は、ハイリィが精魂込めて焼いたんだぜ、俺も試しに食ってみたが、美味かった」 安堵からか、シュエランは饒舌で、陽気だった。 シュエランのそんな様子を、ハイリィは微笑みながら見つめている。 そこに、探偵とその助手というだけではない何かを感じ取り、理比古とエレナは穏やかに目くばせを交わす。「エレナ、これからどうする? 帰りの便まで時間があるよね……せっかくだから、どこか見に行こうか」 問われ、少女探偵は愛らしく小首を傾げた。「そうだね、あたし、お土産にこの工芸茶を買って帰りたいな。専門のお店があるって聞いたから」「判った、そうしよう。もうじきバレンタインだし、っていってもここに聖ウァレンテティヌスさんはいないだろうけど、贈りもの用の珍しいお菓子とか探しに行きたいな」「あ、それも素敵。あたしもプレゼントを探そうかな。そのあと、もう一回お茶をしてもいいよね」「うん、そうだね。じゃあシュエランさん、ひとまず工芸茶のお店までの地図を描いてもらえると嬉し――」 理比古がそう言いかけた、――そのときだった。 けたたましい音を立ててドアが開き、ぼろぼろになった男が、悲鳴とともに転がり込んできたのは。「助け……助けてくれ、頼む、お願いだ!」 あちこちが破れた衣装の、そこかしこに血をにじませた、三十代半ばと思しき男だ。その彼を見て、シュエランが目を瞠った。「ファンジンじゃないか! いったい何があった……!?」「シュエラン? ここはあんたの店なのか? なんてこった……すまない、迷惑をかけるつもりじゃ……」 瞬時に荒事の気配を感じ取り、お代はけっこうですからと詫びつつ客を帰したハイリィの行動はさすがと言えた。「大丈夫? ……今のところ、あなたを追っている人いないから、安心して」 ざっと周囲の気配を探った理比古が男をなだめるように背中をさする。「あたしたちに出来ることがあるなら話してみて。あたしたちは神さまみたいに万能じゃないけど、お手伝いする手は持っているから」 にっこり笑ったエレナが、冷たい水の入ったグラスを差し出すと、男はようやく落ち着いたようだった。 礼とともにグラスを受け取り、ひと息に飲みほしたファンジンが、理比古の手当てを受けながら語ったところによると、彼はとある組織に追われているのだという。 ファンジンの恋女房が命と引き換えに生んだ娘は、生まれつき身体が弱く、今も重い病を患って床に伏している。その治療には莫大な金銭が必要とされ、ファンジンはそれを稼ぐために奔走しているらしい。 そして、多額の金を必要とするあまり、報酬はいいが危険を伴う仕事にも手を出すようになった――出さざるを得なくなったのだという。 そんな中、舞い込んだのがこの仕事だった。「……おかしいとは思っていたんだ。鞄ひとつ運ぶだけで一年分くらいの稼ぎになるなんて。それだけヤバいものなんだろうってな」 しかし、娘の容体が思わしくなく、そこへさらに、画期的と言われる――当然のようにとてつもなく高額な――治療法の話を聴かされたのもあって、ファンジンは受けることにした。 指定された場所へ行ってみると、他にも同じ理由で雇われたらしいものたちが数十人規模でいたらしい。中身を見てはいけないという説明とともに渡された鞄はずしりと重たく、人数の多さもあいまって、ファンジンは不吉なものを感じたそうだ。 それを、なるべく早く、かつ秘密裏に、とある会社の事務所まで運ぶようにとの指示を受け、出発したとたん、彼らは襲撃を受けた。 刃物や銃火器で武装した男たちが襲ってきたのだ。 身を護るすべすらなく、あっという間に数人が倒れた。 ファンジンは攻撃を受けつつも必死で路地裏へ身を隠し、ようやっとここまで来たのだという。「どう思う、アヤちゃん?」「……囮、かな? 他の場所でメインの、大事な取引があって、それには邪魔者がいて、その人たちの目を引きつけるための」「あたしもそう思った。……ねえ、この鞄の中身は、何なのかな?」 渋るファンジンを説き伏せ、内部に気をつけながら開いてみる。 半ば予測していたことではあったが、ファンジンが目を見開き、息を飲んだ。 ――収められていたのは爆弾だったのだ。 開けば爆発するタイプではなく、何らかの操作があって初めて作動するものだ。おそらく、運び役が事務所へこれを届けたら、それを見計らって、遠隔操作で爆発させるようになっているのだろう。 敵対者に対する二重三重の罠だ。 運び役として雇われた彼らは、組織同士の諍いに巻き込まれ、捨て駒として扱われる憐れな犠牲者なのだろう。 黒光りする、不吉な装置を目にして、ファンジンがぐびりと喉を鳴らした。 目には今まで以上の恐怖がにじんでいる。「どっちにしても死ぬしかないっていうのか。……ユエリン、俺は……!」 頭を抱えてうずくまってしまったファンジンの背へ、理比古とエレナがそっと手を添えた。「大丈夫、心配しないで」 何の相談もなくとも、ふたりの心はいっしょだ。「あたしたちが、助けるから。ね、アヤちゃん?」「もちろん。こうやって会ったのも何かの縁だろうから」 震えるファンジンを安心させるように背を撫で、エレナがにっこり笑うと、理比古は微笑みとともにうなずいた。それであっさり話はまとまり、理比古とエレナ、シュエランが手早く算段を始めるのを、ファンジンは希望と恐怖と困惑の混じった眼差しで見ている。「すまない、だが……本当にいいのか。危険なことだ」「……甘えさせてもらえ、ファンジン。ふたりなら大丈夫だ」 シュエランがファンジンの肩を叩く。 それを、ファンジンは、泣き出しそうな、困ったような、奇妙な顔で見上げた。 * 黒光りする鞄を手に、ふたりが『心花』をそっと抜け出したのは三十分後のことだ。 今ごろ、シュエランが、首謀者である組織について調べ上げ、かつ、鞄が得体の知れない男女に奪われたこと、そして彼らがどこかへ向かっている旨を先方及びその敵対者へリークしているだろう。「『心花』は見つかっていないみたいだね。これなら、あそこが襲撃されることはなさそう?」「うん、それに、シュエランさんは腕利きの探偵らしいから、組織の人たちも下手に手は出せないだろうしね。今のうちに距離を稼いじゃおう」「エレナ、無理はしちゃ駄目だよ」「そういうアヤちゃんもね。アヤちゃんが怪我したら、クゥちゃん泣いちゃうよ?」「あはは、そうだね。少なくとも、胃は痛めるだろうなあ」 武装した組織に追われる役目を自ら買って出たにしては恐れもなく、きりりとした集中だけを持ってふたりは走る。 三十分ばかり、注意しつつ進んだ辺りで、静かな殺気がひとつまたふたつと周囲を取り囲み始めた。「……いる、ね」「うん。どっちも、来てるみたい?」 そのころには、依頼者側が黒社会では名の通った武器商人、敵対者側がその武器商人の利権や新兵器を狙うマフィアであることも判明している。武器商人側が、画期的な新兵器を開発し、そのサンプルを運んでいるという情報を自らリークし、それに踊らされたマフィア側が運び屋たちを襲った格好だ。 要するに、ファンジンたちは、力だけがものを言う世界の、欲の絡んだ諍いに巻き込まれたのだ。 今すぐに襲ってくる気配がないのは、武器商人側もマフィア側も、それぞれの関与を疑って、『得体の知れない男女』の行動の裏を探っているからだろう。「エレナ、何をどうするのが一番手っ取り早くて、ファンジンさんにとっていいと思う?」「たぶん、アヤちゃんが思っているのと同じことを、あたしも考えてるよ。このまま放っておいていいのかな? って」 強い光を宿した視線が絡みあう。 そう、話はファンジンだけにとどまらないのだ。 このまま放置すれば、おそらくこの先も、同じような被害者、犠牲者が出る。 油断なく進みつつ、理比古が言うと、「シュエランさんが、警備隊と警察に話をつけてくれるって。この辺りは治安がマシなほうだから、警察もそれなりに機能してるみたいだし」「じゃあ……一網打尽、かな? シュエランさんのことだから、各ボスさんたちも引っ張り出せるようなリークをしてくれてるよね」 エレナは微笑みとともに頷いた。 前門の虎後門の狼というシビアさの中、双方を引きつけひとまとめにのして警察に突き出す。非常に厳しい状況だ。「幸い、俺たちは小回りが利くし、シュエランさんからこの辺りの精密な地図をもらってる」「アヤちゃんは戦い慣れているし、広い場所に出られれば、あたしは大きな錬金術が使えるよ。……大丈夫、何とかなる」「うん、そうだね」 しかし、ふたりは軽やかに笑うばかりだ。 失敗できないという意味の緊張はある。 凛冽なコンセントレーションがふたりには満ちている。 だが、そこに悲壮さはない。「行こう、エレナ。必要なときは、俺が護るよ」「うん、行こう、アヤちゃん。アヤちゃんが危ないときは、あたしが護るから、大丈夫」 微笑みを交わし、戦友がするように軽く拳を触れさせて、ふたりは走り出す。 周囲に黒々とわだかまる、冷ややかな殺意たちの追い縋る気配を感じつつ。 ――負けられない、命がけの追いかけっこが、始まる。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>エレナ(czrm2639)蓮見沢 理比古(cuup5491)=========
息をひそめた追跡が、殺意をありありとにじませた攻撃へ変わるまで、そう時間はかからなかった。 角を曲がろうとしたところで銃声が響き、前後を黒ずくめの男たちにふさがれる。 「どんな鉄砲玉かと思ったら若造にガキか。可愛い顔をしてやってくれるじゃないか、ふたりとも。しかし、どんな人手不足の組織なんだ? ……まあいい、身体に訊けば判る話だ」 三十路半ばと思しき、酷薄で凶悪な空気をにじませた男が、地面に唾を吐き、言う。彼がこの襲撃部隊の頭であるらしい。 男と、彼が率いる襲撃者たちの顔には、余計なことをした『得体の知れない男女』への苛立ちと、それを捕らえて散々にいたぶり、情報を引き出すことへの歪んだ悦びがにじんでいる。 心構えのないものなら、そこで心が折れて彼らの思う壺にはまりかねない、まっとうな人々を飲み込みそうな昏いオーラを放っている連中だったが、この『得体の知れない男女』ふたりに関して言えばそのセオリーには当てはまりそうもなかった。 「若造って言っても、俺、世の中で言うところのアラフォーなんだけど……いやこれ表現的にはもう古いのかな……?」 「ロストナンバーは外見が変わらないから、若いうちに覚醒しちゃうと貫録とは無縁になるよねぇ」 「一応、覚醒したのって三十のときなんだけどなぁ。俺、二十歳のころから顔が変わってないみたいなんだけど、さすがに四十を手前にして可愛いって言われるのは釈然としないよね……」 「大丈夫、あたし、アヤちゃんが可愛いの、好きだから」 「そうかな? ありがとう、俺も可愛いエレナが好きだよ」 緊迫感の欠片もない会話をぼそぼそと交わしつつ、理比古は男から視線を外さない。反対に、エレナは、よろけたふりをして、薄汚れたコンクリートの壁に指先を触れさせた。 「袋の鼠ってやつだ、観念しな。素直に吐いてくれりゃあ、多少手加減して――……」 男の言葉はそれ以上続かなかった。 なぜなら、彼のすぐ横の壁が突然盛り上がり、巨大な拳をかたちづくるや否や、ひどく滑らかな動きで男を殴り飛ばしてしまったからだ。むぎゅっ、という奇妙な音を立てて吹っ飛ぶ男の姿を見て、驚愕の声がいくつも上がる。 エレナの即席錬金術だが、事情を知らぬものにはなんのことか判るまい。 「ベイジンさん!?」 「てめえらいったいなにを……」 呆然となった『兵隊』たちが臨戦態勢に入るより、エレナを抱き上げた理比古が彼らの間を駆け抜けるほうが早かった。 背後に口汚い罵りを聞きつつ、 「さすがはアヤちゃん。あたしが何をするかお見通しだね」 「エレナも、その場合俺がどうするか、全部お見通しだったよね」 ふたりはどこか楽しげだ。 エレナを抱えたままとは思えない速さで、理比古はいくつもの路地を曲がり、細い裏道を通り抜けてゆく。 「待ちやがれ、楽に死ねると思うな!」 もちろんそのまま逃げ切らせてくれるほど甘い連中でもなく、耳をつんざく銃声とともに弾丸があちこちの壁にめり込んだし、回り込め、という指示が飛びもした。 「アヤちゃん、大丈夫? 運ばせちゃってごめんね?」 理比古に抱かれたエレナは、高貴な美しさも相まって深窓の姫君のようだ。同じく理比古が気品のある顔立ちをしているのもあって、ふたりは、滅びた国から落ち延びる王女と貴族の青年のようにも見える。 もっとも、 「ん? 俺、腕力はあるから大丈夫だよ。このほうが速いしね。エレナにはエレナのやるべきことがあるとしたら、俺にも同じものがあると思うんだ。お互いの『正しい仕事』をやることが、解決の近道だからね」 「ふふ、アヤちゃんのそういうところ、あたし、好きだな」 ふたりに、亡国の貴人めいた悲壮さはいっさいない。 「ここから先は自分で行けるよ。狭い通路だから、あたしを抱えてたらアヤちゃんが走れなくなっちゃう」 ふたりの脳内には、この近辺の地理が完全にインプットされている。 現在地から奥に進めば、非常に細くてごちゃごちゃとした、裏道のような通路に出る。その先には広いスクラップ置き場があって、立ち回りには持って来いだ。特に、エレナが派手な錬金術をぶちかますのにはちょうどいい。 「じゃあ、あそこでお出迎え?」 「そうだね。俺もいろいろ道具を借りてきたから――」 しかし、言葉は途中で切れ、 「エレナ、危ない!」 理比古は咄嗟に少女探偵の前へ飛び出していた。 直後に、がつっ、という硬い音。 低く息を飲み、理比古は吹き飛ばされる。咄嗟に腕をクロスさせて庇ったが、それでも勢いを殺しきれなかった。腕から上半身にかけてを、重たい衝撃が突き抜けていき、思わず息が詰まった。 「アヤちゃん!」 どうにか倒れずに済んで、踏みとどまったところへエレナが駆け寄る。 「ごめんね……ありがとう」 「ん? ううん、だって、俺のほうが頑丈だし」 まだ笑う余裕があるから大丈夫だ、と笑顔でアピールすれば、エレナからも微笑みと頷きが返った。 「へえ、なかなかやるな。その体勢から防御するか」 感嘆を滲ませて立つのは、ごついブーツで足元を固めた男。 理比古を、見事な足さばきで蹴り飛ばしたのが彼だった。 先ほどの連中と毛色が違うのは、 「ええと……リィアンユ商会の?」 雇主の違い、ということか。 「ずいぶん落ち着いてるな。あの噂も、あながち嘘じゃないのかもな。別の組織が動いてるって話も聞くし、早いとこ始末をつけたほうがよさそうだ」 獰猛な光を宿した眼が、楽しげに細められる。 理比古はエレナを背後に庇い、トラベルギアの小太刀を構えた。 そして囁く。 「エレナは先に行って。準備をよろしく」 少女探偵の決断と返答は早かった。 そもそも、半端な躊躇で状況を悪化させるようなタイプではない。 「……判った。でも、無理はしちゃ駄目だからね? クゥちゃんを泣かさないでね?」 エレナの言葉に理比古は笑う。 「うん。帰ったら会合に出なきゃいけないから、無茶は控えめにしておく」 それを合図に、少女が細い路地裏へと消える。 男は愉快そうに笑った。 「子どもだけでも逃がそうってか? 泣けるな」 理比古は肩をすくめる。 「違うよ。彼女は彼女の『仕事』をするだけだ」 そして、小太刀を片手に身構える。 わずかにも見えない隙と、みなぎる気迫に、男が口笛を吹いた。 * エレナが『準備』を終えるのと同時に、理比古がスクラップ置き場へ駆け込んできた。激闘を繰り広げたのだろう、あちこち傷はつくっているようだったが、動きは鈍っていないようだ。 同時に彼の背後から、「待ちやがれ」「舐めやがって」「痛い目に遭わせてやる」「後悔させてやる」といった品のない罵声が響き、悪辣な雰囲気をまとった連中が一気に雪崩れ込んできた。 エレナが錬金術でつくり変えた、もう片方の通路からは、リィアンユ商会の私兵たちがぞろぞろと姿を現しつつある。 二か所の入り口から、マフィア側と武器商人側、双方の面子が勢ぞろいしつつあるわけだが、そこには、たくさんのボディガードに護られた、 「いい加減、観念したらどうだ? てめえらのバックが誰なのか吐けば、命くらいは助けてやるぞ?」 五十代半ばといった印象の、ごつい造作の男と、 「我々リィアンユ商会は敵対者に容赦しない……覚悟するがいい」 七十に手が届きそうな風情の、狡猾そうな老人の姿があった。 「……さすが、シュエランさん」 エレナは大きな鉄屑の影に身を潜ませながらこっそり微笑んだ。 エレナと理比古が、「これ以上ふたつの組織の諍いによって泣く人を減らすため」に行ったのは、「漁夫の利を狙った大組織が動き始めている」「総動員でかからないと破滅させられる」「敵対組織を潰すために大々的な商売を始めようとしていて、手始めにすごいクスリを浸透させようとしている」など、尾ヒレのついた噂を流すことだった。 迅速かつ鮮やかな手際で包囲網をかいくぐった『得体の知れない男女』の活躍もあって、噂は一定の信憑性を持って双方の組織を駆け巡り、結果、各組織のボスを引きずり出すに至ったのだ。 「それじゃあ、仕上げに入ろうか」 エレナに、闘うことへの恐れや躊躇はない。 「アヤちゃんも、頑張ってくれてるし、あたしもしっかりやらなきゃね」 理比古は、自分を捕らえようと執拗に追いかけ回す連中の手を軽やかにかいくぐりながら、広場をぐるりと、まんべんなく走り回っている。その手がときおり閃き、きらりと光る何かを廃棄された鉄柱や鉄骨に絡み付かせるのが見えたが、頭に血の昇っている人々は気づいていないようだ。 エレナはにこっと笑い、 「びゃっくん、行こう」 かたときも離れない相棒のぬいぐるみ、うさぎのびゃっくんに手をかざす。 それはエレナの『合図』を受け取ると、光をまといながら巨大化していく。やわらかだった表面が金属の光沢を帯び、硬質化し、数秒後には『メカびゃっくん』となって広場の中央にそびえ立った。 「!?」 「なんだありゃ」 「向こうの新兵器……か? 油断するな、外見に惑わされると痛い目を見るぞ!」 可愛い顔のふたり組に散々振り回された連中が、キュートなのにメカ、メカなのにキュートなメカびゃっくんに警戒しない理由はなく、マフィアと武器商双方に緊張のざわめきが走る。 それと同時に、スクラップ置き場を一周し終えた理比古が、 「エレナ、びゃっくん、よろしく!」 わっと殺到した男たちの手をどうにかかわしつつ、広場の真ん中へと飛び込んできた。 躊躇いのない、見事なフォームの飛び込みだった。 ぐいと伸ばされたメカびゃっくんの右腕が、しなやかなその身体をがっちりと抱き留める。同時に、反対の手が何かを掴み、ぐいと引いた。そのとたん、周囲に山と積まれていたガラクタが不穏な音を立ててぐらぐらと揺れる。 「お、おい……?」 男たちが眉をひそめ、辺りを見渡すころには、折り重なるように立てかけられていた鉄骨や鉄柱は傾きつつある。一瞬ののち、理比古があちこちに巻きつけていた何かが、頑丈で強靭なワイヤーだと気づいたところでもう遅い。 メカびゃっくんの怪力で思い切り手繰り寄せられたワイヤーは、太く長い鉄骨の群れを倒壊させる。――周辺のガラクタを巻き込みながら、内部へ向かって。 「うわあああっ!?」 泡を食ったのは男たちだ。 金属系のスクラップはどれも大きいし重たい。 落ちてきたガラクタを全身に喰らったあげく埋もれるのは誰もが遠慮したいだろう。 「くそ、いったん退――……通路が!?」 リィアンユ商会社長の声が裏返る。 彼らがここへ入り込む際に通ってきたはずの道は、今や薄汚れた壁に早変わりしてしまっている。叩いてみても、それはただの壁で、内側に隠し通路を呑み込んでいる風でもない。 ――となれば、彼らに出来る選択はひとつだけだった。 すなわち、メカびゃっくんたちが陣取る広場の中央へと飛び込むこと、である。何があるか判らないが、スクラップに押しつぶされるよりはマシだ。 マフィアも武器商人も、崩れ落ちる鉄屑や鉄塊から身を庇い、我先にと押し合いながら真ん中へと駆け込み、転がり込む。ずん、ずずん、という重々しい音を立てて倒れていく鉄柱は、理比古がそうと計算して巻きつけたワイヤーのお陰もあって螺旋状に倒れ、広場中央までは至らなかった。 もうもうと砂煙があがる。 「くそ……舐めた真似しやがって……」 咳き込みつつ毒づいたマフィアのボスが、顔を上げ『それ』を確認してぎょっとした表情になる。 ――広場の中央に折り重なるのはマフィアたち、そして武器商人たち。 『得体の知れない男女』は、巨大なウサギ型メカの両腕に抱かれ、離れた場所から彼らを見ている。 「てめえら、」 「ごめんね、おじさん」 エレナは愛らしく首を傾げ、薔薇色の唇を笑みのかたちにした。 「おじさんたちの在りかたをどうこう、じゃなくて、あたしたちは泣く人を助けたいから」 それを、まるで断罪の合図とでもいうように。 弱いものからむしり取ることで力を得てきた連中が、泣くような弱いやつらが悪いんだと嘯くよりも早く、 「だから、ごめんね?」 清楚に、凛々しく、美しい笑みとともに、エレナが錬金術を完成させる。 密かに描かれた陣が光を放ち、線に沿って光が走り、それは地面を伝ってそびえたつ鉄骨を駆け上がった。同時に、筆で塗り替えるかのごとくに景色がかわっていく。乱雑でごみごみとした鉄屑の山が、一定の法則を持って組み上げられ、天へ向かって伸びていく。 それは、巨大な、網目の精密な鳥かごのかたちへと変貌していた。 ――マフィアと、武器商人たちをすべて、内側へと飲み込んで。 「な……!?」 牢屋の金網に取りすがる囚人のごとく、男たちが鈴なりになる。 エレナと理比古は目くばせを交わした。 「ええと……重ね重ねごめん」 理比古がギアの小太刀を手に近づく。 ぱりぱりっ。 白い刀身が光を帯びた。 「たぶん、そんなに痛くないから。――たぶん」 いぶかしげに眉をひそめる男らへ微笑みかけ、理比古はその切っ先を『鳥かご』へと触れさせる。 ――ばちん、と何かの弾ける音、閃光、そして。 * 「と、いうことで、ファンジンさんの娘さんの治療費、もらってきたよ」 エレナが黒いアタッシュケースを開けると、そこには爆弾ではなく、大量の札束がおさまっている。 「ち、治療費……!?」 眼を剥くファンジンに、理比古とエレナはうなずいてみせる。 「だって、ファンジンさん、ちゃんと仕事したわけだし。働いたからには、対価をもらわなくちゃね」 「だから、アヤちゃんがボスさんたちに『優しく』お願いしてくれたの。アヤちゃんて見かけによらず上手だよね、ああいうの」 「まあ、やるときは徹底的にやらなきゃね」 ハイリィに傷の手当てをしてもらいながら理比古が語ったところによると、双方の組織はシュエランの連絡によって駆けつけた警察及び警備隊によって捕らえられた。警察と親しいシュエランの口利きもあって、しっかりした調査が行われる予定である。 この辺りの警察は比較的まっとうに機能しているから、余罪を山ほど持っているであろう彼らにとっては致命的なはずだ。 ボタンひとつでアタッシュケースの持ち主を殺す爆弾のスイッチは、エレナがきっちり探し出して破壊した。 まとめて回収したそれを、笑顔でメカびゃっくんに踏みつぶさせるさまはまさに『美少女の姿をした悪魔』とでもいうべき麗しくも恐ろしいもので、ボスや幹部級はともかく下っ端連中は震えあがったらしい。 「一応、あたしたちに出来ることの大半はしたよ。マフィアさんたちも武器商人さんたちもきりきり締め上げられるだろうし、気力も思いきり削いだから、しばらくは行動不能だと思う」 「ああいう組織がのさばって、危険な『仕事』が蔓延るのは、お金を稼げる正しい方法が少ないからだよね。ということでシュエランさん、近所の人たちと協力して、まっとうな職というものを増やしてもらえるとありがたいです。危険な、人を傷つける仕事をしなくても日々の糧が得られるなら、そういう職を選ぶ人は自ずと減るはずなんだ」 「……善処しよう」 ファンジンは、アタッシュケースにみっちり詰まった紙幣に、まだ目を白黒させている。 「頑張ってね、ファンジンさん。お父さんが元気で、傍にいてくれることが、娘さんにとっては一番の幸せだし、励みだと思うから」 「ああ。……ああ。ありがとう、ほんとうに。すまない、何から何まで世話に……」 「ううん? ファンジンさんにはファンジンさんのお仕事があるんだもの。あたしたちは、あたしたちの特技を活かしてそのお手伝いをしただけだよ? ね、アヤちゃん」 「うん、そうだね。お役にたてれば何よりだよ」 ハイリィが、お茶と山盛りのスイーツを持ってくる。 さすがにへとへとのふたりは、それをありがたくいただいた。 「……ふう」 「疲れた? エレナ」 「うん。アヤちゃんは?」 「俺も疲れたよ」 言って、理比古は大きな欠伸をした。 それにつられて、エレナも可愛らしい欠伸をする。 ふかふかのソファに背中を預けると、猛烈な勢いで眠気が襲いかかってくる。 「帰りの特急に、乗らなきゃ、ね……」 「うん。でも、ちょっとだけ」 「虚空にエアメールしといたから、迎えに来てくれる、と、思うんだけど」 「クゥちゃん、暇なの?」 「いや、たぶんすっごい忙しいと思うけど。俺が仕事サボってるから」 話を漏れ聴いたシュエランが、あんたの部下も大変だなと遠い目をするのとほぼ同時に、声が唐突にやんだ。探偵が見下ろす先で、少女探偵と旧家の当主は、互いにもたれかかるように――あるいは、互いに支え合うように――寄り添い、静かな寝息を立てていた。 ハイリィが毛布を持ってくる。 「可愛い寝顔だな。このふたりが立役者っていうんだから、不思議なもんだ」 シュエランはそれを、微苦笑とともに見下ろし、そっと毛布を掛けてやった。 ひと騒動後の穏やかな時間が、ゆっくりと流れていく。 ――当主不在の多忙さを必死にフォローしていたしのびが、ご主人様の呼び出しに従って、ぐったりしながらやってくるのはそこから数時間後のことである。
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