壱番世界にクリスマスが近づく、ある日のこと。 ターミナルの街並みもツリーや電飾の彩りに溢れ、クリスマスを知らない世界の旅人達にも何か楽しげな感情を覚える、そんな昼下がり。壱番世界の出身である三日月灰人が職員として勤めているエスポワール孤児院も例外ではなく、子供達が手作りの靴下や星のオーナメントで中庭の大きなツリーを飾っている。楽しいイベントを待ちわびるその瞳はきらきらと輝いている、はず、なのだが……。 「さあさあ、練習の時間ですよ! ……おや?」 パン! と手を叩き、灰人が子供達を聖堂へ集めるべく中庭へ顔を出した。途端、子供達は蜘蛛の子を散らすようにあちらこちらへ逃げ去ってしまう。 「……全く、困ったものですねえ」 いつの時代も、どこの世界でも、子供というものは勉強と練習と我慢が苦手らしい。せっかく結成した聖歌隊だというのに、子供達の練習嫌いが祟ってお世辞にも上手とは言い難い。せめてクリスマスの礼拝で一曲はお披露目したいところだが、それには程遠い現状に灰人はため息を吐いた。 「……と、こういうわけでして」 「なるほど、ご苦労の耐えぬことだ。力になれるかは分からぬが、私でよければ」 どこかでそんな会話が交わされたのだろう、オペラ=E・レアードが灰人に招かれてエスポワール孤児院の門をくぐったのは、白い吐息もすぐに解ける昼下がりのことだった。 練習の時間、いつもなら聖堂はもぬけの殻だが、今日は来訪者に興味津々の子供達が集まっている。 「こんにちは、お招きありがとう。今日は練習よりも、まず楽しんでもらおうと思っている。皆も、灰人も、そのつもりでよろしく」 「さあ、皆さんもオペラ先生にご挨拶をしましょう。今日一日、よろしくお願いいたします」 「よろしくおねがいしまーす!」 *** 「では、始めよう。皆私の指先をよく見て、リズムに乗って……さん、はい」 一人一人に配られた縦笛のチューニングを確かめてから、オペラが指揮者のように右手を振った。音の無い、規則正しい四拍子が指先から紡がれ、子供達がそれに合わせて旋律を奏でる。 「……おお……!」 灰人が思わず息を呑む。 オペラの特殊能力によって楽器の演奏技術を貸し与えられた子供達は慣れ親しんだ賛美歌の旋律を上手に表現できることに色めき立つが、すぐにそれも静まって、ただ演奏すること、そして自分達が奏でている音楽にうっとりと身を委ねた。指揮を見て学ぶためオペラの後ろで聴く灰人も驚く演奏ぶりである。 やがて曲は終わり、上手に出来た! と喜色もあらわな子供達は大はしゃぎ。それを見るオペラも、最初に見せていた緊張の表情が解れて嬉しそうだ。 「楽しかっただろう? この気持ちを忘れない、音楽に必要なのはそれだけだ」 「はあい!!」 楽しそうな様子を察したのか、聖歌隊に入っていない子供達もかわるがわる聖堂を覗いたり、こっそり紛れ込んで一緒に楽器を演奏したりと、練習の時間はいつになく賑やかだ。それを見て、上手に歌えるようになって欲しい、そう思ってオペラに指導を仰いだ自分を、灰人は少し恥じたようだ。 書いて字の如く、音を楽しむのが音楽。それは教えようとしてどうにかなる類のものではないし、何より、練習という「よい習慣」ありきの考えにとらわれていたのだと気づくことが出来た。本当に大事なことは、オペラがやってみせたようにとても単純なのだ。 *** 「素晴らしいご指導をありがとうございます、私も目から鱗が落ちる思いでした」 「あとは私が何かせずとも、ひとりでに上手くなってくれる」 演奏することの楽しさを知った子供達に曲を教えるのは意外と簡単で、あとは地道な練習あるのみ。といったところでオペラと灰人は信徒席に腰掛けながら、子供達の練習を眺めていた。賛美歌の厳かで、それでいて楽しそうな歌声が二人の耳に心地よく、話題も自然と二人の信仰や神についてのものになる。 「初めて聴いたが、壱番世界の賛美歌は美しいな。私の世界のものにもどことなく似ている」 「祈りを込めて作られる旋律は、異世界の壁を越えるのでしょうか……」 使い古された讃美歌集のページをぱらぱらとめくり、正確に読めないまでも音符の高低を指で辿って、穏やかなメロディを想像しながらオペラが呟く。その言葉で灰人は不思議そうに頷き、聞こえてくる子供達の歌声に耳を済ませた。 「賛美歌でなくとも、音楽は素敵なものですね。こうして子供達の歌声を聴いていると、昔の思い出が甦ります」 「灰人もか。私も元の世界のことを思い出していた」 目を細め、灰人はまだつたないピアノの伴奏音に妻のアンジェリカを思い出していた。日曜礼拝で必ずこの曲を弾いていた妻も、灰人が今目にしている子供達のように音楽が大好きだった。ピアノに向かっている妻の横顔は、いつも明るかった。 「そうか、奥方がいらっしゃるのだったな」 「ええ、本当によく出来た妻です。私には勿体無い……故郷の教会も、孤児院も、妻が居てくれたからこそ成り立っていたようなものです。私を私と呼べる物事のほとんど全てを、妻が支えてくれていましたから」 「素晴らしい女性なのだな。その顔を見れば、どんな方なのか想像がつくよ」 「これはお恥ずかしい。アンジェ……失礼、妻はきっとオペラさんのご想像通り、いやそれ以上に素晴らしい女性です。それだけは胸を張って言えます」 普段、口を開けばネガティブな言葉しか出てこない灰人だったが、妻のことを語るときはまるで別人のようだ。妻の名を口にした途端瞳がいきいきと輝く様子を見て、オペラは楽しげに笑った。 「身内を褒めるのは難しいと聞くが、灰人はそうでもないのだな。私にはとても無理だ」 「おや、オペラさんも故郷にご家族がいらっしゃるのでしたか?」 「家族……ではないな、あるじと呼んでいる」 瞼を閉じて、記憶の真ん中にいつも在る赤い瞳と赤い髪。家族よりももっと、侵しがたい何かで繋がっている、"あるじ"。 「確かに、あるじとは呼んでいるしそのように思っている、が」 「? どうかされましたか?」 「いや……灰人の奥方の話を聞いていると、奥方のように褒められたものではないのを思い出してな」 懐かしさに表情を和らげたのも束の間、オペラの眉間に困ったような皺が寄るのを見て、灰人が話の続きを促す。 「まず掃除が出来ない、洗濯物もろくに畳めない。私は小間使いやメイドではないと何度言い聞かせたか!」 オペラのあるじという人間はどうもものぐさな類に属するらしく、万年床や無精髭は当たり前、仕事が忙しければ風呂も忘れるのが日常茶飯事らしい。掃除洗濯炊事に追われるオペラを想像して、灰人は義憤に駆られたような表情で深く同調する。 「私ですら身の回りのことくらいは出来るというのに、オペラさんにそのようなことをさせるとは! そのあるじという方は酷い人ですね……!」 「だろう? 客あっての商売だというのに身なりを気にしないのも本当に困る。私の鍵盤を磨く暇があれば髭のひとつも剃ればいいものを。元は悪くないのだから……」 「……?」 灰人の同調が嬉しかったのか、オペラの愚痴のようなあるじ語りは止まらない。が、聞いているうちに何だか惚気話のような雰囲気に。 「それに、あるじは客を愛しすぎる。貧しい者から金を取らぬのは美徳だし尊敬しているが、自分の寝食を疎かにするまでというのは本末転倒だと思わないか?」 「ふふ、そうですね。どんなお仕事でも身体が資本ですからね」 だんだんとオペラの話が普通の惚気話に変化していくのを、灰人は微笑ましく聞いている。すると、あらかたの愚痴不満を吐き出しきったのか、オペラがふと遠いところを見るような眼差しで聖堂のピアノを見た。灰人が同じくピアノに目をやると、練習に飽きたのかピアノの周りではしゃぐ子供たちの姿が見える。 「……それでも、私は物だから。自分の意志で"在る"ところを決められない」 今ここに、天使のような姿で在るのは仮の姿で、本体であるパイプオルガンが祖国を離れて孤独に過ごしているところに手を差し伸べてくれた"あるじ"。 「だから、きっと嬉しかったのだろうな」 ぽつり、ぽつりと、記憶の奥底を掘り返しながら、断片的に紡がれるオペラの言葉には、思慕や愛情など一言では表現出来ない感情が溢れていた。本当に大切な人のことを伝えようとすると、頭で選んだ言葉はどうしても上滑りになってしまう。だから丁度いい言葉を探すより、何故浮かんだのか分からない、心からの言葉を全部すくって。 「父と子と聖霊のようですね」 「?」 ふと、灰人が思いついたように言葉をこぼす。 「父なる神が在り、子なる神が説き、聖霊なる神が力を与える。三者はそれぞれが平等に尊く、どれが欠けても私たちは神の愛を知れなかった……そんな話を思い出したのです」 「……そうだな、ひとりでは何も出来ない。それは主も人も同じなのか」 世界は異なっていても、同じようにそれぞれひとつの神を信じ崇めるふたりは小さく頷いた。 「しかし、そのあるじという方もお幸せですね」 「そうだろうか……?」 「ええ。先ほどから困った困ったと仰っていますが、オペラさんがとても楽しそうでしたから。私には何故か惚気にしか聞こえませんでしたよ」 「……む」 惚気話というのは、灰人が妻のことを語るような甘くてでれでれの話を言うのだとばかり思っていたオペラはぱっと顔を赤くして二の句を継げずにいる。 「と、とにかく! 私のあるじが幸せな男だというのなら、灰人の奥方もきっとお幸せだ。貴方の言葉には愛がある、奥方だけに向けられるものではない愛が」 半ば強引に話をまとめ、オペラが照れ隠しのようにうんと頷く。思わぬところで褒められた灰人もまたうつむき照れる。 「せんせー! あれっ?」 先生二人が自分たちを放って何やらこそこそ話をしているのが気になる子供たちが信徒席へやってくる。惚気話のおかげでちょっと照れくさい空気が流れる灰人とオペラ、気分を変えて子供たちのところへと向かう。 「オペラせんせーお顔赤いよ?」 「そ、そうか? 何でもないから、気にしないでくれ」 「あーっ、灰人せんせーも! 灰人せんせーとオペラせんせーらぶらぶだ!」 「こらこら! ご迷惑ですよ皆さん」 *** 練習に飽きてすっかり遊びの時間になっているかと思った灰人だったが、ピアノの前まで来てそれが間違いだったと知る。きちんと整列した子供たちがわくわくと二人の戻りを待っていて、あとは指揮者である灰人がタクトを振るう準備さえ整えば完璧な状態だ。 「灰人せんせー、オペラせんせーとらぶらぶでぜんぜん練習してなーい!」 「ち、違いますよ!」 「じゃあ、ちゃんと出来てるかオペラせんせー聴いててね!」 「ああ、勿論だとも」 オペラのおかげで「出来る!」と自信をつけた子供たちの表情はいつもの明るさに加えて達成感のようなものが見える。子供たちの前に立ってタクトを構える灰人にもそれは伝わってきた。ピアノの後ろで見守るオペラも目を細め、練習の成果を楽しみに待っている。 「では、いいですか? ……いち、に、さん、し」 __共にあれ 大いなる光 __共に歩め 導きのともしび __迷い 惑い つまずきながら 歩みを止めぬ人の子ら __右の手にともしびを 左の手によろこびを __闇のただなかでこそ 美しい 主の導き __伸べられた手をとって 共に歩まん まだまだつたないながらも、子供たちの美しいハーモニーが聖堂を包む。ただ大きな声で歌うだけではない、他の子供たちの声をちゃんと聴きながら、自分の声がそのなかでどうあればいいのかを分かって歌っているのがわかる。たった数時間でここまで上達してしまうとは夢にも思わず、指揮を終えた灰人は思わず涙ぐんでしまった。 「やったあ、できたー!!」 「皆さん、すばらしい……! 先生は嬉しいですよ、皆さんに負けないように、私ももっと練習しないといけませんね」 大好きな灰人先生に褒められて大喜びの子供たちと、まだクリスマスの本番でもないのにぐすぐすと嬉し泣きしてしまう灰人を交互に眺めて、オペラも心からの拍手を送る。 「貴方たちが歌を好きになってくれて、私も嬉しい。クリスマス礼拝には是非呼んでくれ」 右の手に灯火を、左の手に喜びを。隣に在るだれかとそれらを分け合って、共に歩む。孤独の旅路をゆく旅人たちには悲しく聞こえる歌かもしれない、だからこそ歌うのだ、明日への希望は闇の中でこそきらめく光。
このライターへメールを送る