『その地は海に護られている。 潮の満ち干きの僅かの間を縫わねば辿り着くは難しい。 時誤れば波が全てを攫いゆく。 海に護られし地には、慈愛深き地母神祀る修道院あり。 修道院には、慈悲深き地母神奉る修道女あり。 その地を訪うてはならぬ。 その修道女を訪うてはならぬ。 訪うた者は二度と戻らぬ。』 ――とあるキャラバン隊の見聞録より ヴォロスの広大な大陸の端。入り組んだ入り江が開いた竜の顎の形となったその内海に、その島はある。 竜に食われる宝玉のような、見事に円いその島の岩肌を隙間無く埋め尽くして、無数の塔。海面より立ち上がる岩肌は立ち入る者を拒むかのような急峻な崖。 何時の時代、何処の誰が建造したのかも判然とせぬ難攻不落の砦じみた塔は、陰鬱な色した遠浅の海にただ静かに佇む。塔の壁には多種多様な神像や紋様、古の聖典文記す装飾文字が、僅かな空間も厭うように彫り込まれている。 寄り添い合い、捩れて重なる複雑怪奇な形した塔の群、巨大な魔物が蹲るが如きその建物を、入り江に住まう寂れた漁村の住民達は『戻らずの修道院』と呼んだ。 好奇心ゆえか何らかの信仰求めてか、激しい潮流の間隙を縫い、恐ろしくも美しいその修道院へと渡った人々は、けれど誰一人として帰って来ぬと住民達は言う。「暴走間際の竜刻」 黒い目を瞬かせ、世界司書のクロハナは旅人達を見仰ぐ。「でも、竜刻回収の依頼、詳細、ヒルガブから聞いてください」 ヒルガブはあっち、と三角耳を動かす。赤茶色の尻尾をぱたり、と揺らす。桃色の舌を見せて興奮したような顔を一瞬見せたのは、世界司書ヒルガブの肩に巻きつく翼ある蛇に飛びかかりたくなったためか。「竜刻についての予言も、ヒルガブ、知っています。わたしは、こっち」 クロハナは浮かんだ本能を首を振って追い払う。ヴォロスの一地方を描いた地図を広げる。黒い丈夫な爪で、入り組んだ入り江のひとつを指し示す。竜の顎の中にあるような、小さな島。「昔は『慈悲深き女神の修道院』、今は『戻らずの修道院』。修道女、ひとりきり。ひとりきりで、女神に祈り続けている。ずっとずっと、ずーっと」 その修道女に会ってきて欲しいのだと、世界司書は依頼する。「古い資料、見つけた。コピー、しました」 コピー、の横文字言葉を何故か得意げに鼻と髭をひくつかせて口にする。地図の上に一枚の紙をおく。「ヴォロスの古い資料。キャラバン隊の記録。三百年くらい前。『戻らずの修道院』について。修道女について」 鼻の頭に皺を寄せる。くるりと巻いていた尻尾が怯えるように垂れ下がる。三角耳が心なしか元気をなくす。「修道女に、会ってきてください」 それでも、目だけは旅人達を見仰ぎ続ける。「危険、あるかもしれない。でも、修道女、ひとり。生きているものは、修道女の居るところには、修道女ひとりきり」 『導きの書』を両前肢で抱えて、謎賭けじみた言葉を口にする。「会って、話を聞いてあげてください」+++++++++++++++++++++++※ご注意ください 【Harvest】はコラボシナリオとなっております。 時間軸がほぼ同時進行となりますシナリオですので、同一のPCさまによる二つのシナリオへのエントリーはお控えください。 万が一重複されました場合は、どちらにも充分な描写が出来ないことがあります。ご了承ください。++++++++++++++++++++++++
風が泣く。耳元で髪を巻き上げ渦を巻く。肩に羽織る女物の着物が風にさらわれそうになって、 「あかんあかん」 森山天童は笑み含んだ口調でのんびりと呟いた。片手で着物を押さえ、背の黒翼を羽ばたかせる。潮風に乗る。 手の小指に固く結わえた紅い紐が風になびく。真摯なほどに静かな濃紫の眼でその紐をちらりと見て後、天童は眼下の海へ視線を逸らす。紅い紐から視線外せば、その瞳にはふわりとした笑みが戻る。 白波の立つ鈍色の海を、銀色の少女が歩く。 「えらいもんやね」 波を押し退ける少女の足は白磁の色、強い潮風に惑う柔らかな銀糸の髪、真直ぐに『戻らずの修道院』を見つめる、銀色の睫毛に縁取られた銀色の瞳。薄い胸の高さに捧げ持つ形に持ち上げられた両の掌には、修道院の地下墓地探索へと向かう旅人たち。その華奢な肩や銀色の頭には、修道女との面会に向かう、天童と目的を同じとする旅人たち。 銀色の少女、シーアールシーゼロは、可憐な少女の姿はそのまま、けれどその身体は『戻らずの修道院』のどの塔よりも大きい。 巨大化したゼロは、かつて修道院に向かおうとした人々の何割かを呑みこんだ潮流をものともしない。その身ひとつに仲間の旅人たちを乗せて、荒々しい海を渡る。波は分けても岩は砕かず、海中に泳ぐ魚の一匹も潰すことのない不可思議な少女のその頭上を飛びながら、天童は海上にうずくまる魔物の影にも似た修道院へと視線を投げる。 脳裏にあるのは、犬の司書が用意していた古い資料の複製。 『二度と戻らぬ』と記される修道院が地母神を祀るものだと知られているのは何故か。修道院に修道女が居ると知る者が居たのは何故か。 (誰かが、行って戻って来たってことなんやろけどなあ) 少なくとも見聞録の綴られた三百年前には、修道院から帰還叶った者が居たはずなのだ。 (書かれてたんはあれだけやったな) 資料が豊富に残っていればあるいは、と思って、 (まあ、ないもんはしゃあないなあ) 天童はおっとりと首を横に振る。翼で風を撫でて、着流した着物の裾を翻す。空舞う鳥と同く身軽に、背後を振り返る。厚い雲の影が重たく落ちる海の後ろには、竜の顎のかたちした湾がある。天童は幾度となく陸と海の修道院とを見比べる。もしも、島の配置に意味があるのだとしたら。 (大地の竜に供物捧げる祭壇っちゅーとこかな) 濃紫の瞳が何かを企んで細くなる。 (神力失うた地母神が修道女として生き続けてる、てのはどうやろ) 異界の住人や妖怪の存在する世界に生きていた天童は、神の化身の存在を知っている。長い時の間に、人々の祈りが地母神から別の存在へと向けられてしまうようになったとすれば。地母神は怒り狂うだろうか。祟り神と化した神が求むるは、 「さて、捧げられんのは何やろな」 「神を奉げるなのか神へ奉げるなのか」 陰鬱な空気を断って、楽しげな男の声が銀色の少女の頭から上がる。銀色野原のような、滑らかに風に舞うゼロの髪の中に菫の花の色した頭がある。風になびく髪に紛れて、獣のかたちした長い耳が揺れる。 「慈愛深きと慈悲深き。その言葉に意味があるのなら、地母神も二面性のある神なのでしょうか」 詩を紡ぐように、 「奉るだと奉げる意味も出てしまいますよね」 詠うように、遊ぶように、テオ・カルカーデは推論を重ねる。 「二面性とは?」 銀の髪に遠慮がちに掴まり、ゼロの肩に立つオペラ=E・レアードが興味深げに紅玉色の眼を瞬かせる。煙るような金髪が鮮やかな瞳の傍で舞う。銀の少女の髪を強くは掴むまいとしてか、純白の光のような翼が平衡を保つように広がる。 「例えば、あの人たちの向かう地下墓地ですよね」 テオはゼロの掌に乗って運ばれる別働隊の旅人たちを示す。花のように瑞々しい紅の色した瞳が、柔和な笑みを含む。 「慈悲深く奪う、という言葉をご存知ですか」 世界図書館に置かれていた、何処の世界のものとも知れない小説の一文です、とテオは小さく肩をすくめる。 「慈愛の地母神を豊穣の女神とするならば、慈悲の地母神は死と再生司る葬祭神なのかもしれません」 花の色の瞳を、近付く島の塔の群へと向ける。地下墓地のある島の基部と、その島の上に建てられた荘厳な修道院。 「元はいつかの復活を願って死を迎えるための島だった、かも」 軽い調子で言い、唇に獣のそれとも見える人差し指をあてて、おどけて笑う。くすくすと笑う紅い瞳のその央は、よく見れば獣の造形。 「全て私の、推論の域を脱しない作り話ですけれど」 「……村の人々は黙して語らぬ」 潮風に白い頬をさらして、オペラは曇ることを知らぬ幼子のような眼で波の先を見つめる。艶やかな黒のテイルコートの裾が潮風に暴れる。 「推測重むるも致し方なかろう」 修道院を臨む浜辺の寂れた漁村に住まう人々は、見知らぬ異国風の旅人たちを警戒した。修道院について問おうとする男装の麗人の鼻先で、木戸は閉じられ、窓は音立てて錠掛けられた。女神に花捧ぐように近付こうとする子どもたちは揃って母親にさらわれた。 それでもオペラは諦めなかった。福音を説くかのように、丁寧に村人たちに声を掛けて回った。十数人に及ぶ人々の沈黙の後、砂浜で投網繕う老人だけが胡乱な眼つきを隠しもせずに話をしてくれたが、 「信仰は、されておらぬ様子」 得られた情報は少ない。修道院に祀られる神がどのような神であるのかさえ、漁村には伝わっていなかった。 修道院の謂れを知る者は最早生きては居らず、書物とて残存しない。ただ、得体の知れぬ巨大建造物に対する恐怖だけがあった。行きて戻らぬ人々への嘆きだけがあった。 聞いてどうする、との老人の問いに、渡ってみますとオペラが答えれば、彼は深い溜息だけを返した。 「到着なのです」 巨大な銀色の少女が無垢な声で告げる。 掌の上の四人の旅人を彼らの指定する箇所にそっと下ろし、ゼロはゆっくりとその身を元の少女の大きさへと縮める。 「先行っといてー」 何か考えのある天童が鮮やかな着物の裾をひるがえす。曇り空へと飛んでいく。 「はいですー」 天童の行動を疑いもせず、ゼロは素直な返事をする。 小さくなるゼロの肩でオペラが純白の翼を広げる。天使のように空へと舞う。ゼロの頭上のテオへと手を伸ばす。 「手伝おう」 「お願いします」 遠慮なく伸ばされたテオの手を掴む。翼に風を抱き、宙をゆっくりと降りる。風に跳ねた波飛沫さえ届かぬ島の地面に、テオが、翼広げたオペラが立つ。 オペラににこやかに礼を言い、テオは軽やかな足取りで塔の群へと足を運ぶ。轟く海鳴りに混じって、高く低く、獣の唄うような音が周囲に流れる。潮風の通り道でもあるのだろうと、テオは恐れ気もなく曇天に黒々と蹲る尖塔群へ視線を巡らせる。柔和な顔が貪欲な好奇心に笑み崩れる。 テオはびっしりと刻み込まれたいにしえの装飾文字や画へ、素早い視線を走らせる。触れればざらざらと砂崩す塔の壁をなぞる。 (全てが人の手に拠るものではなさそうですね) 少なくとも、尖塔群自体は巨大な岩塊が波や風に削られて出来たものに近い。 例えば、塔を骨とすれば。 「巨大な竜の屍のようですよね」 テオの呟きに、テオの傍らにしゃがみこんで壁面彫刻を見つめていたゼロが幼い子どもの仕種でこくりと頷く。授業受ける生徒の表情で続ける。 「ヴォロスはその昔、巨大な竜が支配種だったそうです」 「はい」 模範解答を得た先生の笑みで、テオは更に装飾文字を辿る。 「だからこそ、修道院を刻んだ人々は竜の屍にも見えるこの岩塊に神を感じた、のかもしれませんねえ」 テオが記憶しているヴォロスの神話や伝承よりも古い時代のものなのか、記録に残されぬ類の伝説がこの島に潜んでいるのか。この近辺の伝説が乏しいせいか。読み取れる情報は、海岸の漁村での情報と同じに僅かだ。 渦巻く嵐、高波、開墾地の実りを奪う潮、崩れる大地。竜の顎のかたちの大地と、竜の屍の形した小島。大地に宿る神、祈り捧げる人々、島に封ぜられる女、島の底に投げ落とされる数多の人々。 「島を供物台として整備したのか」 古代の文字をどれほど辿っても、推測の域を脱する確たる証拠は得られない。 「この絵の人が、祈り続ける修道女なのでしょうか」 ゼロの小さな指先が、島の尖塔群の央に立つ女を表す壁面装飾を示す。テオが画の横の装飾文字を読み解く。島に封ぜられし、神に嫁せし乙女。 「何百年もの間を、一人で祈りを奉げておられる」 聖歌のように厳かに、オペラが唇を開く。自らの神とは違う神を祀る、まだ見ぬ信心深い人物に想い馳せて瞳を細める。 本性を人ではないものとするオペラは、数百年もの長きを生き続ける女を不気味とは思わない。福音の伝道師としての矜持抱く純粋な魂は、祈り続ける敬虔なる修道女に対してただひたすらの畏敬の念を感ずる。 その白い手に、どこで拾ってきたのか、萎れた花の束がある。 「それは?」 好奇心に眼を輝かせ、テオが問う。 「そこで拾った」 オペラは岩肌が剥き出しとなった島の一角を示す。テオは萎びた花を一瞥したきり、花に興味を失う。元のように熱心な眼でひとしきり塔の壁をなぞって、ふと首を傾げる。 「地下に竜刻があることは知られていないのかもしれませんね」 少なくとも、見た限りの壁面彫刻に竜刻を示す文字も画も見出すことはできない。竜刻の存在が過去の人々に知られているならば、その神じみた力発する物こそを彼らは神と祀るのではないか。その竜刻が描かれていないということは、 (神の正体は秘せられていた、ということでしょうかねぇ) テオは僅かに首を傾げる。柔らかな毛で覆われた耳が揺れる。 ゼロがテオと並んでこくりと首を傾げる。 「修道女は、竜刻の犠牲者なのかもしれないのです」 地下にある竜刻が、地下に投げ込まれた生贄の人々を蝕む、人にとって有害な力を有しているのかもしれない。例えば、人の生気を奪うような。 その力が修道女に呪いの如き作用をもたらしているのかもしれない。人の命奪う触媒として何百年もの長きを生かされ続け、知らずに近付く人々を、望まず犠牲としてしまっているのかもしれない。 「修道女が竜刻の存在に気付いていなくとも、」 透徹した銀の瞳が尖塔群を埋める幾千幾万の祈りの文字を仰ぐ。 「訪れる人々の命を奪う有害な何かが、自分を生かし続ける何かが島に存在することに気付いたのかもしれないのです」 海に囲まれた修道院で修道女が一人で祈り続けるのは、己を犠牲として、その有害な何かから他の人々や大陸を護ろうとする、優しい心の表れなのではないか。 「貴方は優しいんですねえ」 テオの感想に、ゼロはきょとんと銀の眼を瞬かせる。 「推測の域を脱してはいないのです」 「話を聞くしかないでしょうね」 テオは紫色の髪を揺らして空を仰ぐ。林立する塔の一際巨大な塔の先端に、黒い翼操る天童の姿が遠く見える。塔の屋根に刺したあれは、彼自身の羽だろうか。 遥か遠い地上から見仰ぐテオの視線に気付いたのか、天童はひらひらと白い手を振る。翼羽ばたかせて塔の天辺に爪先で止まり、鮮やかな色の羽織を脱いでふわりと裏返す。裏返した着物を頭から被って、次の瞬間。塔の先端に確かに居たはずの天童の姿が掻き消すように消える。 「おや」 テオは面白げに紅い花の色した眼を見開く。 「テオ?」 オペラの呼びかけに、テオは何事もなかったかのように微笑む。 「そろそろ先に行きましょうか」 途方もなく高い壁や天井には、幾千の窓が空へと開く。 蟻塚にも似た尖塔群の内部は、無数の人々の手によってひとつの広大な空間に削りだされていた。全ての岩塊に空洞を穿つ人々の熱情にも似た思いに圧倒されて、オペラは紅玉色の眼を見張る。 人工の光が一切見られない修道院内は、けれど自然光が多く取り入れられ、思っていたよりも明るい。外が晴天ならば、眩いほどの光が無数の柱となって差し込むのだろう。 「どれほどの人々が祈り捧げたのか」 オペラが吐息を零す。 薄明かりに照らし出される岩肌には、外側と同じにびっしりと祈りの文字。 奥にまで続く、白い砂岩の柱。古代の文字と波の模様彫り込まれた柱は、訪問者を導くように、他の道を塞ぐように、左右に並ぶ。 祈り封じ込めし塔には、絶え間ない海鳴りと風の音とが反響しあう。 天然の賛美歌降り注ぐその中を、訪問者は進む。 片手に花持つオペラは祈りを辿るように。テオは建築の歴史を読み解くように。ゼロは宙に舞う光の粒子に眼を惑わせ、天童は足音も立てず密やかに。 「わあ、天童さんなのですー」 「うん、天童やでー」 最後尾をいつの間にか歩いていた天童に、ゼロが驚いて跳ね上がる。天童は笑む口許を帯に差していた葉団扇で隠す。 「いつのまに」 「ついさっき」 細めた紫の眼で、天童はオペラを見遣り、 「本物ですか」 「にせもんや」 楽しげに訊ねるテオの言葉をあっさりと認める。 「よう分かったなあ」 本体はこの上や、と修道院の天井を示す。 「わいは身代わり」 けらけらと、本物の血肉持ったものと同じ姿と声で、天童の髪と羽を織り込まれた人形は笑う。 「いざ、て時の捨て駒や」 尖塔群の屋根に潜む天童に操られるまま、天童の姿した人形はあっけらかんと言い放つ。 修道院を奥へと進む。柱に挟まれた道は、ただ真直ぐに訪問者たちを導く。波の轟きと風の嘶きと、人の足音が重なる。 天井支える柱が絶える。祈りの文字刻まれた柱に代わって天井を支えるのは、無数の石の花と岩の樹々と土の穀物。実りと開花と窓から降る墨色の薄明かりの光とを従えて、いにしえの地母神。 修道女は陽の色した豊かな髪を石の床に落とし、壁に彫りこまれた巨大な地母神像に跪いている。 窓から風の糸が落ちる。石像じみて微動だにせぬ修道女の金の髪をふわりと舞わせる。 風の糸に引き上げられるように、修道女は小さな背中を起き上がらせた。息吹き返したかの如く、大きく肩を震わせて呼吸する。滑らかな動きで立ち上がる。 風の音とも、波のさざめきともとれる声が、修道女の傍から聞こえる。 「御逢いしとうございました、敬虔なる御方よ」 歩み留める訪問者たちのうち、オペラが進み出る。ずっと手にしたままでいた萎れた花の束を修道女に差し出す。 「きっと、その辺りの窓に誰かがお供えしたのが風に飛ばされてしまっていたのです」 ゼロが説明を加える。 「お教えください、貴方が奉る神のことを」 明朗なオペラの声に惹かれてか、修道女は古びた修道服の長い裾揺らして身体ごと振り返る。金の髪が風に踊る。髪と同じ色の睫毛震える。伏せられていた瞼が上がる。修道女は小麦の黄金の色した瞳で、訪問者たちをぼうやりと見つめる。 修道服に半ばまで覆われたか細い指先が、オペラの差し出す花束に伸びる。 修道女の冷たい指先が掌に触れた途端、オペラはぎくりと身を竦ませる。人の身ではないその身の、けれど人の身模したがゆえの息を奪われたように 感じた。鼓動を奪われたように感じた。体温を奪われたように感じた。その身象る、影から生まれ出でた光の魂が、魂の源である闇の深淵に引きずり込まれるように、感じた。 「オペラはん」 天童の素早い手が、オペラの肩を掴む。修道女の手からオペラを引き離す。 「大丈夫かいな」 「大事ない」 オペラは修道女の触れた自身の掌を見下ろして、首を横に振る。静かに佇むだけの修道女へと紅玉の眼を向ける。 「訪なう人々を、その手で殺めたのですか。神の贄とされたのですか」 修道女を責めるでもなく、ただ事実を確認するために問う。それもまたひとつの信仰のかたちと知るがゆえに。 修道女は黙して語らない。 否、その色の無い唇は微かに動き続けている。オペラは耳を澄ませる。修道女の周囲に流れる、修道女の発する言葉に耳を傾ける。 「大丈夫なのです」 オペラの傍らに添って、ゼロが進み出る。 「ゼロが、ゼロの生気だけを巨大化させるのです」 小さな身体で、皆と修道女の間に立ち塞がる。小さな両手を修道女に向けて差し出す。修道女の骨ばって細い手が、ゼロの幼く柔らかな手に誘われる。 「修道女さんが奪いきれないくらい、でっかくなり続けるのです」 命奪う手で生気尽きぬゼロの手を取り、オペラの手から取った花を胸に抱き、修道女が無感動に瞳を瞬かせる。 「……賛美歌を、捧げておられるのか」 呟いて、オペラは今一度踏み出す。修道女の唇とその微かな声を注意深く聞き続けていれば、微かな声の為す意味は確かだった。讃える言葉も祈りのかたちも違えど、修道女の唇から零れ続けるそれは、確かに神に奉げる歌。 「数百年の間を、ずっと?」 感嘆の声零して、オペラは修道女のもう一方の手を花と共に握る。一瞬とは言え、息と鼓動を奪われたことに対する怯えは欠片もない。 オペラが感ずるのは、命奪われる冷気ではなく、修道女の手の死人の如き冷たさのみ。 「貴方のお話を、聞きとうございます」 生真面目に、どこまでも礼を尽くして、修道女に話を請う。世界司書からの依頼の目的を『聞く』ことと据えるがゆえに。祀る神は違えど、神奉る同志と修道女を信ずるがゆえに。 「私は、ただ知りたいのです」 修道女から最も離れた位置で、テオが笑み浮かべる。 「知りたいだけなのです」 修道女が此処に居る意味を、祈り続ける在り方の意味を。この尖塔群に祀られる神の意味を、修道院の辿った歴史を。テオの興味はそれに尽きる。 「だから、貴方が望まない限り何をする気もありません」 修道女の感情浮かばぬ虚ろな眼がテオを見つめる。どこまでも平然と、テオは笑み続ける。 「貴方は、自らの意志でこの修道院にいるんですか?」 テオの問いへの修道女の答えは、抑揚のない神への賛歌。 「貴方が奉る神のことをお聞かせください」 オペラの求めにも、修道女は地母神への祈りを繰り返す。数百年、繰り返してきたままに。 「貴方の話を、お聞かせください」 オペラは修道女の冷たい手を温めようと、祈りに占められた修道女自身の心を戻そうと、修道女の手を両の手できつく握り締める。 「こんな海の中央に院を建てた人々のことを、貴方の神が此処に祀られるまでの経緯を、」 修道女への問いを、真摯な表情で連ねる。 「神に祈り続ける意味を、教えてください」 己の好奇心と心が求めるままに、テオも問い続ける。テオは知りたかった。ただ、知りたかった。 修道女は重ねられる言葉に微かな応答も、さりとて拒否も示さない。 「なあ、何を求めるんや」 己の意志失ったように、祈りの言葉だけを唇に乗せ続ける修道女に、天童が焦れた。仮初の眼で修道女の虚ろの眼を見据え、近付く。銀色の少女と金色の乙女に手を取られた修道女の蒼白い頬に、その手を伸ばす。 「言わな分からへん」 甘い虚言を繰るように、囁く。 「自分では死ねれへんけど死にたいとかやったら、わいの本物が夢の中連れてったろ」 この場から離れて身を隠す『本物』と同じように、紫眼を怪しく細める。 「ほんで優しゅう介錯してくれるで」 修道女の、色失った唇が終わらぬ祈りの動きを止める。 数年来か数十年来か。長らく掛けられなかった人よりの言葉を聞き、長らく得られなかった生気をゼロより大量に得て、修道女は夢から醒めるが如く修道服に覆われた胸いっぱいに空気を吸った。空虚に見開かれるだけだった小麦色の眼に、意志の光が戻る。 「――ならば、」 黄金の眼が、狂気帯びた貪欲な笑みに歪む。 「その血を、」 言葉発するなり、ゼロの小さな身体をその手ごと振り払い、 「その身を、」 眼を見開くオペラの胸に萎びた花束押し付け押し退け、 「捧げませ」 天童の胸を乱暴に突き退ける。修道服の裾が際どく捲れあがる。白い脛さらして、修道女は地の低くを駆ける。白い手に、袖の内から引き出した細身の小剣。刃が真直ぐに目指すのは、修道女より一番遠い、テオ。 「私には私の神がいますので」 刃に胸を裂かれるよりも速く、テオはのんびりとした表情を崩しもせず跳躍する。修道女の突き出す刃が空を切る。テオの身は修道女の身の丈の倍の高さに踊る。 「どうして、」 修道女の背後に一度足を着け、修道女が振り返るより先に大きく跳び退る。 「神にただ祈り続けることができるんです?」 今度こそ修道女の返事を聞けると期待の笑みさえ浮かべて、再度問う。修道女は答えない。テオを追い、足を大きく踏みこむ。地を蹴ろうとしたその足は、けれど何者かに掴まれたように動きを止めた。 「聞かせてください」 修道女の足に絡むのは、仄赤い液体のようなもの。答え得られぬ問答の間に、テオが地へ落とした液体状のトラベルギア。紐のようにも蜘蛛の糸にも見えるそれは、罠の態で修道女の動きを封じる。火にも見える色の通りに熱をも持つのか、修道女が苦痛の声を上げる。 「テオ!」 制止の声上げるオペラをちらりと見、テオは更に跳び退る。小さく肩すくめる天童よりも、悲しい顔で修道女を見つめるオペラよりも、地に尻餅ついたゼロよりも、誰よりも修道女より遠い位置に立つ。仲間たちの後ろで拳銃を取り出す。動けぬ修道女に向けて銃口を向ける。 向けられた銃口が何を為すのかは知らなくとも、自分に害与えるものであると勘付いて、修道女は熱と共に足縛める液体を振り解こうともがく。 「ちょっとした答えのひとつも頂けませんかねぇ」 首を捻るテオの傍、ゼロがあわあわとした動作でトラベラーズノートを開く。地下墓地探索に向かった別働隊に向け、修道女に襲われた旨を手短に書いて送る。 天童は困った風に息を吐く。その様子にどこか剣呑な気配読んで、オペラは白い翼をひるがえす。修道女に背を向け、仲間たちを向いて両手を広げる。テオの銃口に身をさらす。 「この場所があの村にとって重要な意味を為すのかもしれない」 村人の与り知らぬところで、彼らは護られているのかもしれない。村の守護に、修道女も関与しているのかもしれない。 どれほどの悪に打ちのめされようとも善を信ずる瞳で、オペラは数多の命を神に捧げ、今また仲間をもその手に掛けようとした修道女を庇う。 「貴方の神は、戦うことを是とするのか」 悲痛な眼で修道女を振り返る。命刈り取る修道女は青褪めた唇で微笑む。 「捧げ続けねば」 「何故です」 「捧げ続けて来た故に」 修道女は動かぬ足はそのままに、祈り捧げるように両腕を広げる。衣擦れの音立てて、修道服の腕がオペラに向く。 「あかん」 天童が唸る。漆黒の翼が空気を殴る。純白の翼と漆黒の翼が交錯すると同時、見えぬ力が天童の胴を打ち据える。 修道女の操る見えぬ力は刃の形していたらしい。天童の姿した人形は、人と同じように腹から血を溢れさせて膝を突く。 「天童」 天童に撥ね飛ばされることで、修道女の得体の知れぬ力から免れたオペラが悲しい声を上げる。 「身代わりやて言うたやろ」 血を噴く腹を片手で押さえ、天童はもう片手をひらひらと振る。 「帰りましょうか」 興醒めした風に、テオは首を横に振る。銃口は牽制のために修道女へと向けたまま、 「私は自分の命が何より惜しい」 素早い視線を周囲に巡らせ、脱出路を探る。 「逃さぬ!」 修道女が恐慌きたして叫ぶ。錯乱の眼で訪問者たちを睨み据える。天童を傷付けた力を続けて振るおうとして、 ――ふと、自らの手を見る。 訪問者たちの背後にある地母神像を見仰ぐ。 「祈りが、足りませぬか……?」 絶望の声で呟く。小麦色の眼が、生き続けて来ただけの、祈り続けて来ただけの絶望で満ちる。 「竜刻の回収が成されたようなのです」 澄んだ少女の声が告げる。修道女が神の力と信じたその力の源が、あるべき場所から離された。封印のタグが貼り付けられた。 修道女は悲鳴を上げる。胸の空気全てを吐き出し、それでも足りずに胸を掻き毟る。喉を掻き毟る。爪を血の色に染めて、獣の如く叫ぶ。 地が揺れたのは、神の力と信じた竜刻の力を失くした修道女の、数百年に及ぶ妄執の力か、狂気の成せる業か。 『戻らずの修道院』が軋む。崩壊に至る悲鳴を上げる。 「誰か、道を開けませんかねぇ」 遠慮の欠片もなく助けを求められ、ゼロは銀の髪震わせてテオと同じように石造りの広大な塔内部を見回す。 「ええと、ええとなのです」 まるきり経験の足りない子ども様子でおろおろとうろたえる。 「どうしようなのです」 「任せとき」 修道女を見据えながら、天童がくすりと笑う。その声が聞こえたのは、地に這いつくばる天童からではなく、遥かな天井から。 「気ィ付けやー」 雷の色した光が激しく瞬く。塔の無数の窓から淡い紫の光が凄まじい勢いで流れ込む。 轟音と地響きは、同じ刹那。 石の天井が破れる。砕けた石くれが落ちる。幾本もの柱が折られ、押し潰される。落下する石と共に倒れる。おびただしい砂埃が修道女に、旅人たちに襲い掛かる。 天井に開いた大穴から光が雪崩れ込む。 「オペラはん!」 地に這う方の天童が叫ぶ。光に導かれるように、オペラは翼を広げる。細腕に似合わぬ力でゼロとテオを片腕ずつに抱き上げる。苦悩の瞳で修道女をもう一度だけ見る。砂煙を巻き上げ弾き飛ばし、力強い翼で以って、飛ぶ。 天に開いた鮮やかに青い空仰ぎ、純白の翼羽ばたかせて舞い上がって行く訪問者たちを仰ぎ、修道女は絶望の声を上げる。 遥かな空の向こうに、神に捧ぐべきとした者たちが去る。 足縛めていた力と熱が解け、修道女は空仰いだままその場にくずおれた。 修道女がその最後の力で起こした崩壊は止まらない。地が咆哮上げて震える。柱が次々と折れて倒れる。倒れた柱が塔の壁を突き破る。壁が割れる。別の壁に亀裂が走る。白い砂煙上げて壁が崩れる。尖塔群造る岩塊が崩れる。『戻らずの修道院』が形を失って行く。 「何か話足りひんことあらへん?」 静かな声が崩壊の音の中に響く。修道女が向けた視線の先には、腹に致命傷受けて蹲る天童の姿。天童の姿摸した人形は、血を落としながら修道女の傍ににじり寄る。 「話、聞いたる」 血に塗れた手を伸ばし、修道女の白い頬に触れる。血の指痕を着ける。 修道女は小麦色の瞳を瞬かせる。 「私は、選ばれた」 頬に触れる天童の手を取り、両手で包み込み、修道女は泣き出しそうな眼を遥かな青空へと上げる。血塗れの天童の手が、修道女の膝に萎びた花束を置く。 「全て、私が選んだ」 空から降り注ぐ、重なる風にも似た光溢るる歌声と、力強く優しい大地の如き歌声。ふたつの浄化の歌が、『戻らずの修道院』に、降り注ぐ。 祈り捧げるように、助け求めるように、修道女は血に汚れた両手を光へと差し伸ばす―― その日、修道院は崩れ去った。 修道院が崩れたその日を境に、漁村の民たちの間でまことしやかな噂が交わされる。 ――瓦礫だけが山と積もる島へと至る、石積みの道が一夜にして作られた。 ――その道は巨大な銀色の少女がひとりでつくった。 ――海の道の果てに、見知らぬ旅人たちが立っていた。 噂は、けれど数日の内に忘れ去られる。 『戻らずの修道院』は、もう無い。 終
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