緑だ。 見渡す限りの緑である。 植生も種族的な分布も無視した、でたらめでごちゃ混ぜの、ありとあらゆる植物が生い茂る、深く濃い緑の森である。 空の高い位置を飛んでいてもなお届き、鼻孔をくすぐる濃厚な緑の香り、そして全身を包みこむがごとき芳潤な木気に、玖郎の唇をほんのわずか、笑みがかすめた。「なんとも、胸のすくにおいだ。四肢のすみずみにまで力がゆきわたるような」 猛禽の翼がばさりと大きく羽ばたき、空を掻くたび、彼の身体はぐんと前へ進む。彼の飛翔は勇壮で力強い。 二重鉢金の奥で、黄金の双眸が細められていることを知るものは、行軍の仲間にはいなかろうが、少なくともこの山神とも風神とも妖魔とも言える存在が、濃い緑に喜びを感じていることは察していただろう。「……しかし、植物以外の生命は存在せぬようじゃ。不思議な光景じゃのぉ」 やさしい色合いの肢体をくねらせるように飛びつつファン・オンシミン・セロンが言うように、これだけ濃厚な生命の気配を立ちのぼらせておきながら、ここには植物以外存在せず、また、水場のようなものも今のところ見受けられないのだった。「人々が口にできる果実や茸、野草のたぐいは繁茂しておるようじゃが、それ以外のものは感じ取れぬ。ここにおるのは、我々ロストナンバーと、かの緑だけじゃ」 飛べど行けど、見えるのは緑の海だけ。 遠くにはナラゴニア、後方にはターミナル。 あまりにどこまでも続きすぎて、徐々に距離感さえ失われてゆく、そんな光景が広がっている。「時おり遠近感を誤りそうになるな、ここは」 美しい白翼を優美に羽ばたかせ、空を行きながら、オペラ=E・レアードが言うものの、むしろその表情はどこか楽しげだ。「そう言いつつ、楽しんでおるようじゃが?」「そうだな、絵画の世界に迷い込んだかのようで、興味深い」 地上における生活には少々かさばる翼をのびのびと羽ばたかせ、ほとばしる緑の香気を全身に受けて空を飛べば、開放的な気持ちになるものか、眼下に広がる樹海への警戒は怠らぬまでも、皆、表情はやわらかい。「世界樹の何が、この光景を生み出したんやろねぇ。案外、こないなもんを望んでた……なァんて言わはるんなら、それはそれでかわいらし思うんやけど」 黒天狗、森山 天童がくすくすと笑い、おっとりと眼を細めた。「まァ、ひとまず、行けるとこまで行って戻ろか。帰りのことも考えたら、そない遠くまでは行けへんさかいなァ。せやろ、玖郎はん」「……ああ」 黒天狗の物言いに、天狗は低く答え、頷く。 彼らの遠征目的は、空からの偵察および、異変への対処だ。 世界図書館に対して攻撃の意志を残したまま樹海に身を潜めているものや、旅団の統制を離れたワームの討伐のほか、ナレンシフが動かなくなったことで半遭難状態にある旅団員もいるだろうということで、必要とあらば救助を行う心づもりでいる。 それゆえに、玖郎は飛行手段を有する、機動力の高いロストナンバーを遠征面子に呼んだのだ。「こないな風に、自由気ままに飛ぶのんも楽しいなァ。なかなかないことやさかい」 のんびりした天童の言葉を受けつつ、そうやって、どれくらい飛んだだろうか。 見えるものは緑の海ばかり、どこまで行っても森の香、木々のエネルギーに満たされているばかり。静謐だが、0世界の大地を覆い尽くす、壮烈なまでのいのちの気配の他に、特筆すべきものは見当たらない。 ――今回の遠征には、自力でターミナルまで戻るという行程が含まれている。 深く深くへ入り込んで、果たせなくなっては意味がない。「今回は、特に何もないようじゃの。余力のこともある、そろそろ戻るかえ? むろん、飛べなくなったものがいれば、妾が乗せてしんぜるがの?」 この中では一番余力のありそうなファンが言いかけたところで、「待て、みょうだ」「異質なものの気配……」 玖郎と同時に声を上げ、「ワームだ! 誰か、襲われているぞ!」 オペラが、眼下を鋭く指示した。 樹海の一角、緑のじゅうたんのいっぺんに黒々と穴が空いている。 そこには、奇妙な角度で地面に突き立ったナレンシフがあり、その傍らには十を少し超える程度の人影がある。どこかへ避難しようとナレンシフで飛び立ったが、世界樹が滅びたことで、不時着せざるを得なくなった人々だろうか。あまり、戦いに特化した印象は受けない。 事実、そこで武器を手にしているのはそのうちの半数に満たず、彼らは苦戦しているようだった。 そして、「……何を、どうこねくり回したら、あのような冒涜的な、嘲笑的なモノがつくり出されるというのだ……!」 オペラが眉をひそめるように、旅団員たちの前には、旅団の統制を離れ、暴走したワームが、その巨体をわだかまらせている。 ぎ、ぎぎ、ぎぎぎぎぎぃいいいおおおおおおおおおおおお!! 気味の悪い咆哮に大地が震え、非戦闘員と思しき人々が悲鳴を上げてその場にうずくまる。武器を手にした人々は、顔を引き攣らせつつも戦おうとするが、明らかに不利な状況だった。 そいつは、全体的にはぶよぶよとした芋虫のように見える。ワーム、というのだから当然かもしれない。 しかし、それには、無数の脚が生えている。しかも、その脚は、ムカデのような節足動物の持つそれではなく、どこか妖艶ですらある、たおやかな女の腕で出来ている。繊研たる手の平には、腕の美しさを裏切る凶悪な牙の生えそろった口がついていて、それらは獲物の肉を求めてかガチガチと噛み慣らされている。 その『腕』が、ゆるりと動き、時に触手のごとき伸縮を見せながら地面を叩き砕く勢いで踏みしめるたび、辺りは震えた。 狂乱するワームは、全長にして十メートル強。 先ほどから、武器を手にした旅団員が、炎や風を操るなどの特殊攻撃とともに何度か攻撃を加えているものの、傷ひとつつけられずにいる。すさまじく頑丈な個体と見えて、生半な攻撃は利かないようだ。「……あらまァ、困ったことになってるみたいやねぇ」 扇子で口元を隠しながら天童がつぶやく。 ワームはまだ、こちらには気づいていない。「くそッ……くそ、くそッ……!」 鞭のようにしなり、伸びた『脚』に跳ね飛ばされ、太い樹木に叩きつけられて血を吐きながら、まだ若い男が歯噛みしている。剣を支えにどうにか立ち上がりつつも、身体が言うことをきかないのだろう、奥歯を噛みしめる音がここまで聞こえてくるほどの無念さをにじませている。 彼は、数名の戦闘要員の中で、もっとも率先してワームと戦い、非戦闘員を逃がそうとしている人物だった。普通の人間の中ではかなりの手練れに位置するのだろうが、残念ながら、常識の通用しないワームが相手では、苦戦せざるを得ない。「せっかく、ゴウエン殿が、護るべきものを与えてくれたのに。俺はまた、こんなところで、なすすべもなく喪うしかないのか……!」 土を掴みもがきながらの悲痛な叫びに、ワームの咆哮と、戦うすべを持たぬ人々の悲鳴が重なる。 オペラが、ファンが、天童が眼差しを厳しくし、「……」 玖郎は、無言のままトラベルギアを鳴らした。 彼らを取り巻く風が熱を帯びる。 翼に、力がこもる。 ――緑は何も語らず、ただ芳潤に人々を包み込むのみだ。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>=========玖郎(cfmr9797)オペラ=E・レアード(cdup5616)ファン・オンシミン・セロン(czta4413)森山 天童(craf2831)
1. 先陣を切って飛び出したのは森山 天童だった。 禍々しくも美しい黒翼が風を切り、しなやかな四肢が解き放たれた矢の鋭さでワームへ迫る。 それを二重鉢金の奥から眼で追い、 「……『虫』は駆除せねばならぬ。すておけばこちらの脅威となる」 玖郎は小さくつぶやいた。 眼下では、ぎいぎいと、金属と金属がこすれるような、耳障りで癇に障る鳴き声を上げてワームが狂乱している。足元を這いずるしかない、ちっぽけな命を嘲笑っているのかもしれない。 「見目は土のものに似るのだがな……惜しいことだ」 無論、その『惜しい』は捕食対象としての意味である。 食性は鳥、猛禽である玖郎にとって、彼に人間的な意味での好悪の感情が存在しない以前に、かの『虫』が嫌悪の対象となることはありえない。むしろ、あれが食すことの出来る存在ならばさぞや食いでがあるだろうに、といった感覚があるほどだ。 もちろんのこと、放置できる存在ではないことも、これまでの経験から理解しているが、それはこの場にいるすべての面子に共通した意識だろう。 瞬く間にワームへと肉薄した天童が、全力で正面からその胴体へと突っ込むも、がぢん、という硬い音とともに弾かれた。 「……かなんなぁ、お堅すぎるんと違うのん? 野暮天は嫌われるえ……?」 勢い余って弾き飛ばされ、宙を舞いつつも飄々と笑う天童に、なぜかそこだけは目を瞠るほど美しい、女の繊手めいた脚が、触手のような不気味さで伸ばされ、彼を捕らえようとする。 しかしそれが天童に届くことはなかった。 「さてさて、脚はまだやわらかそうじゃが、どうだかのぉ……?」 ファン・オンシミン・セロンが、下降しつつ生み出した刃を撃ち出し、ワームの意識を――といっても、意識などと言うはっきりしたものがあれに存在するのかは不明だが――そらしたからだ。速度とともに生み出され、撃ち放たれた刃は、たおやかな手のかたちをした脚を斬り裂き、貫き、切断した。 千切れた『手』がばらばらと地面へ落ちる様はシュールですらある。 痛覚があるとも思えないが、ワームがぎぎぎと鳴き、身を震わせると、それらはすぐに再生してしまったが、 「ふむ、物理攻撃が効く部位もある、ということじゃの」 ファンの言うとおり、攻略の糸口を示すものでもあった。 「ほな、その部位を探りやすぅしとこかな。他にあることもあるさかい」 背の黒翼を力強く羽ばたかせて離れる間際、天童はトラベルギアである紅い紐をワームの巨体に巻きつけると、周囲の木々に絡めて結び付けた。ぎぎぎッとワームが忌々しげに鳴き、身じろぎしたが、その動きはほとんど封じられている。 「ものすごい力やわ……あんまり長くは持たへんえ。今のうちに、体勢を整えよか。……皆も見てはったやろけど、えらい硬いさかい、あんじょうおきばりやす」 やはり飄々と笑い、天童が宙を舞うのへ頷き、 「――……龍よ」 玖郎はファンへと声をかけた。 『虫』の意識は完全に旅団員からこちらへ移ったようだ。 ファンが刃を生み出して放ったのには、おそらくその目論見もあってのことだろう。 「うむ、いかがしたかの」 「負担でなくば、かれらを回収してはくれぬか。自力での回避・逃走がかなわぬものを優先してほしい」 ワームの周囲を飛び、掴み取り捕食せんと伸ばされる触手をかわしながら玖郎が言うと、ファンはもともとのサイズ、ワームと同じ十メートルほどの大きさを取りながら、非戦闘員の前へ降り立った。玖郎が言うまでもなく、最初からそのつもりだったということだろう。 非戦闘員たちからははじめ、悲鳴が上がったが、この龍が自分たちとワームの間に立ちはだかった理由を理解したのだろう、闇雲に逃げ出そうとしたり、混乱のあまり攻撃をしかけてこようとしたりするものはいなかった。 「ふむ、よい子らじゃ。怯えても構わんが、迂闊に逃げんといておくれ。下手をして別の場所に迷い込んでは、他のワームに食べられてしまうわえ」 目を細め、ひとりひとりの傷の様子など確かめているファンを、的が大きいからだろう、身動きできないなりにワームが触手脚を伸ばして捕らえようとするが、玖郎はその周囲を刃の速さで飛び回り、鉤爪を用いて次々に切断した。 「ほ、こりゃありがたいの」 「助力はとうぜんだ」 目障りなのか、それとも餌にしようと思っているのか、ワームが、頭上を飛ぶ玖郎を捕らえようと触手を幾重にも展開し、彼を追い回す。しかし玖郎は、それらを軽やかに、無駄のない動きで回避し、散々に引っ張り回した。 その間に、非戦闘員はファンによって離れた位置まで避難させられている。 「これでよかろうかいの?」 茶目っ気たっぷりにウィンクされ、玖郎は無表情に頷いた。 「旅団員を交戦にまきこむは、融和策をとる図書館の方針上失当であろう」 とはいえ、拠点から遠く離れた状況下である。 援軍など望むべくもないだろう。 徒な消耗戦や、自らを危地へと陥れるような戦法は避けなくてはならず、よって、こちらの安全圏と有効性を見極める必要がある。距離を取り、触手脚の猛攻をかわしつつ、玖郎は冷静にワームを観察していた。 その視界の端に、先ほど歯噛みしていた旅団の男の隣へと舞い降りる、オペラ=E=レアードと、天童の姿が映った。 2. オペラにとって、護ること、護るために戦うこととは、ほぼ生きることと同義だ。彼女を拾ったあるじが、そういう生き方をしているからかもしれない。だからオペラは、生きたい、生かしたいと願う魂を掬い上げるために羽ばたき、降り立つのだ。 「えらい気張らはったなぁ。あんさんが無事でよかったわ」 彼女から少し遅れて舞い降りた天童が、森の生命力を借り、香にそのエネルギーを乗せて男の傷を癒す。 「あんさん、名前はなんて言わはるん? わいは森山天童言うねん、よろしゅうに」 疲労からか、まだどこかぼうっとした風情の青年に問えば、桃ノ井千里(もものい・せんり)との答えが返った。癖のない黒髪に黒目、顔立ちや身体つきは壱番世界の日本人と大差ない。 「千里か。私はオペラ、オペラ=E・レアード。貴方に、共闘を申し入れに来た。アレは滅さねばならない……旅団も図書館も関係なく。私にも、手伝わせてはもらえないだろうか」 彼の故郷にも、そういう存在がいるのだろうか。彼女が名乗り、告げると、千里はひどくまぶしげな――神聖なものを見る目をしたが、ややあって首を横に振る。澄んだ黒瞳に逡巡がよぎった。 答えは返さぬまま、剣を拾い上げ、立ち上がる。 「……千里はん?」 天童が小首を傾げた。 千里は、ぎゅっと剣の柄を握り締め、 「仲間を助けてくれてありがとう。傷を癒してもらったことも礼を言う。だが、俺は……」 やはりどこか、迷いと、わずかな恐れの感じられる声で小さく言い、前を見つめた。 彼の視線の先では、天童のギアに縛められた特大の不気味な芋虫が、それを振りほどこうと身をよじっている。紅い紐のたわみ具合から、そう遠くなく、ワームが自由を取り戻すだろうことが予測できた。 つまるところ、あまり有余はない、ということだ。 しかし、オペラには、それでもなお千里が躊躇う理由の想像がついた。 世界樹旅団内部に、世界図書館を、悪魔のような残虐性を持つ殺戮集団のように吹聴する流れが存在しても、決しておかしなことではないからだ。それは、集団と集団のぶつかり合いにおいて特別奇妙なことでもない。 その予測がつけば、彼が、オペラたちを信じたいと思いつつ躊躇ってしまう理由も察することは容易い。 オペラにその疑念を振り払ってやることは出来ない。 こういう時、言葉は無力だとも思う。 だから彼女は、静かに、ただ思いの丈を込めて、言うのだ。 「貴方が護りたいと願うものを、私も護りたい」 オペラの言葉に、千里が弾かれたように振り向く。 双眸に涙めいた光が揺れ、ぐっと唇が引き結ばれる。 そこへ、 「いけず言うけど、そのゴウエンはんや、あんさんが護ろ思てる御仁らは、あんさんが死んで喜ぶん?」 からかうような、それでいて労わるような天童の言葉がかかり、千里の眼がまた揺れた。 「わいは、あんさんに死んでほしないんよ。誰かのために命投げ出せる御仁、死なすよォなあかんたれでいたいとは思わへんのや」 「しかし、自分たちの問題を、都合よく押しつけては」 「だんない、だんないて。どこにでもいいやつ悪いやつはおるもんや、それは旅団も図書館も関係あらへん。わいは、自分で言うのもなんやけど、見た目通りのいいやつやで。こないな時やねんから、利用できるもんは利用したらええねん」 ぱたぱたと手を振り、軽やかに笑う天童に、千里は瞑目する。 低い、受容の呼気がゆっくりと吐き出され、 「オペラ、天童、こちらは完了じゃ。妾はワーム退治に専念するゆえ、そこなもののふ殿においでいただけると助かるのじゃがの」 神々しくもやさしい色合いの、藤色の龍ことファンが彼を呼んだところで、千里はふたりに向かって深々と頭を下げた。 「すまない……感謝する」 そんなん感謝せんでええって、ほんまに真面目な御仁やねぇなどと天童が笑う間に、千里は同胞たちのもとへ走ってゆく。 彼が仲間たちのところへ辿り着き、ファンによって治療を施された他の戦闘員たちとともに、非戦闘員を庇うように立ったのを見届けて、龍の生術師はオペラと天童の傍らへふわりと降り立った。 「ぎょうさん治さはったみたいやねぇ」 「そうじゃな、身動きが取れぬではしかたないゆえのう。しかしまァ、妾にとっては生業じゃ、どうということもないわえ。それよりも、」 ファンが言いかけたところで、 「皆、注意しろ、来るぞ!」 上空より天狗の鋭い警戒が届き、それと同時に紅い紐がぎちぎちと鳴った。 その一瞬あと、 ばちんッ! 甲高い音を立てて、ギアが弾き飛ばされる。 ぎおおおおおッ、と、ワームが歓喜とも怒りとも取れぬ咆哮を上げ、身を震わせた。全身からどす黒い気配をほとばしらせ、ワームが攻撃の態勢に入る。 「あちゃあ、吹っ飛んでしもたわ。向こうさん、ずいぶん怒ってはるみたいやねぇ」 おっとり、飄々と、ギアを戻しながら天童が言い、 「さて……ここからが本番じゃ。こやつはまた比喩でもなく骨が折れそうじゃて」 ファンが、やれやれとばかりに――しかし焦りも恐怖も感じさせぬ力強さで――ワームと対峙する。 オペラもまた身構えた。 「かの方々に手は出させない。誰かが護りたいと願う命……その手助けの、一端となりたい」 彼女の手の中で、精緻な紋様のちりばめられたガラスのハンドベルが踊り、宙を舞い、鳴り響くと、千里たちの周囲をガラスの障壁が取り囲んだ。音色を変幻自在のガラスに変える、オペラのトラベルギアである。 「ほ、これは美しいのう。心が清ぉなるわえ」 ファンの笑みを傍らに、戦いが始まった。 3. 最初に動いたのはファンだった。 「まずは、『傷を生み出す』ことが可能か試してみようかの」 生術師として、物質のみならず、事象さえ生み出せる彼女である。 それが可能であれば、戦局は一気に傾くだろう。 しかし、 「――む」 彼女が生み出そうとした傷は、ガヂン、という音とともに阻まれ、霧消する。 「やはり、そううまくはゆかぬか」 ファンは怯まないし、へこたれない。飄々と笑い、新たな策を打ち出す。 「ならば次は、熱と冷気を交互にぶつけてみようかえ」 「それはわいも賛成やわ、ファンはん。火ィからの熱、雷の感電、毒やら酸の腐食もあるわなぁ、あの硬さに影響を受けへん攻め方、言うのんがセオリーっちゅうもんやろ」 「うむ、急激な温度変化は外部にも内部にも異常を起こさせる……普通は、じゃがの。きゃつめが、『普通』に収まるかどうかは、妾にも判らぬわえ」 ファンの身体からオーロラめいた力の波動が立ち上る。 それは一直線に撃ち放たれ、ワームをたやすく包み込んだ。 ワームの姿がぐにゃりと歪んで見え、周囲が唐突に暑くなる。蜃気楼を思わせる、何とも不思議な光景のあと、再度ファンから放たれた波動がワームを包み込むと、今度は肌がヒリヒリするほどの冷気が吹きすさび、触手脚の一部を凍てつかせた。 ぎぎぎぃ、と、ワームが鳴く。 関節に熱気と冷気が入り込んだか、ぎこちない動きで身をよじった。 「ふむ、ちぃとは効いたようじゃな」 「せやね。そうや、ファンはん、水気や酸を生み出す、て出来はる? 木気をな、高めたいねん」 「お安いご用じゃ」 ファンがウィンクをしてみせる。 それと同時に、ワームの足元に酸の池が生まれ、雲もないのに雨が降った。酸に剥き出しの触手脚を溶かされたからか、ワームが身の毛もよだつ声で鳴き、巨体を揺らしながらこちらへ突進してくる。 「ほ、こりゃあすさまじいの」 的の大きいファンは狙われやすく、あの巨体と真正面から組み合えば、彼女も無傷ではいられまい。そんなことを冷静に算段し、ファンは再度熱を生み出す。急激な温度変化による外角の劣化を狙うためだ。 ワームは、一度目で慣れたとでもいうのか、水が一瞬で蒸発するような熱を喰らわされても、速度を落とすことなくファンへと突っ込んでくる。さすがに、あの速度でぶつかられたら、いかなファンと言えども対策なしでは吹き飛ばされるだけだ。 しかし、いよいよ激突するかと思われた一瞬前、耳をつんざく轟音とともに、何条もの雷がワームへと降り注いだ。 それは相当な衝撃であったらしく、ワームの巨体が弾き飛ばされる。女の繊手のかたちをした脚は、その大半が焼け焦げていた。すぐに再生してしまったが、再生の速度が先ほどより遅くなっていたのは気のせいではないはずだ。 「……だいじないか」 上空からは、手甲に金の光条をまとわりつかせた玖郎が、淡々と問うてくる。 空は、いつの間にか、黒々とした雷雲が覆い尽くしていた。 ファンはからからと笑った。 「そなたのお蔭でぴんぴんしておるわえ。さすがは天狗、すさまじいものじゃ」 「……やくめは、果たさねばな」 返る言葉は朴訥だ。 「天童が、木気をたかめてくれたのだ、こたえねばなるまい」 邪気のないそれに、当の黒天狗がくすりと笑った。 「ほな、さらにパワーアップといこか」 天童が言うなり、上空でぱりぱりと稲妻が走り、それは一条の金光となって玖郎へ落ちた。鼓膜に響くような轟音に、戦いを見守る人々が息を飲む。 しかし、木行の天狗を、木気である雷が傷つけることはありえない。それは玖郎を包み込み、留まり、彼にさらなる力を与えるだけだ。 「ほな玖郎はん、よろしゅう。わいは別方面から攻めるさかい」 天童へ頷いてみせ、金の光をまといながら玖郎が羽ばたく。 抱擁を髣髴とさせるしなやかな――それゆえに寒々しく不気味な――動きで、上空の玖郎めがけて触手脚が伸ばされる。手のひらの真ん中にある凶悪な口が、獲物を求めてガチガチと噛みあわされる。 玖郎は野生の猛禽そのものの、力強くも精緻な飛翔で、触手脚を惹きつけ、ときおり牽制のように雷を落としては、ワームが非戦闘員たちへ向かわないように努めている。 「外側が硬いんなら、内側から……やわなぁ?」 天童の手には、いつの間にか小さな練り香入れがある。 「天童よ、それは?」 「……わいなぁ、ぼんぼんやさかい、香遊びなんかも好きなんやわぁ。香の調合も、自分でやるんやで? これはなぁ、わいがつくった、腐食の香いうんや」 美しいとすら言える指が、物騒な効果を持つ練り香のふたをそっと開ける。 ふわり、と、彼の周囲を風が舞った。 立ちのぼる香りを風がさらい、運んでいく。 風は、精密なコントロールでもって、香を『口』の中へと届けようとしている。 「……なるほど」 意図を理解し、ファンは宙へ舞い上がった。 ワームの触手脚が、大きな『的』めがけて伸ばされる。ファンに肉薄したそれらはすべて、美しいガラスの針に貫かれ、地面へと縫いとめられてしまった。オペラのトラベルギアの持つ力だ。 手の甲を貫かれて、閉じられなくなった口が、涎をこぼしながら――いったいどんな成分を持っているのか、唾液をかぶった周囲の植物を枯らしてしまった――じたばたと身じろぎをする。 その間に、じんわりと、確実に、腐食の香はワームの『中』へと浸透してゆく。 その違和感に気づいたか、ワームが鳴いて身をよじった。 ガラスの大針に縫いとめられていた触手脚がぶちぶちと千切れ、ワームが再び自由を取り戻す。脚は再生したが、やはり速度は鈍っている。そしてそのころには、相当な量の腐食香が、ワームの内部へ送り込まれている。 「よっしゃ、ええ塩梅や」 天童の言葉にかぶせるように落雷が木々を貫き、斬り裂く。荒々しくも槍のごとき鋭さに整えられたそれを、局地的な竜巻が絡め取るようにして放り上げる。恐ろしい力ではるか上空まで舞い上がった木槍は、すぐに自由落下の体勢に入った。 それを見上げ、玖郎がまた朴訥に問う。 「龍よ、お前には『生み出す』力があると聞いた。あの槍に金気を与え、さらなる速度とおもさを生み出すことはできるか」 「むろん、お安いご用じゃ」 ファンはウィンクをしてみせた。 同時に、木槍が鋼の色を帯び、そこだけ重力が加わったかのように、落下速度が増す。 「ならば……私は、そこに、『奇跡』を」 オペラの、幾重にも重なるパイプオルガンの調べのごとき、重厚にして荘厳、繊細にして神聖なる歌声が響き渡った。 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。 天上の園にて熾天使たちが主を褒めたたえる歌とは、このようなものなのだろうか。それは清浄に、凛冽に周囲の空気を震わせ、満たし、聖なる力によって包み込んだ。 折しも、鋼の長大な槍となった木の幹が、流星のすさまじさで落下してくるところだ。ワームは、状況を察した天童のギアによって再度縛められ、動きを封じられていた。 狂乱の体で暴れ、もがき、地団太を踏むがごとき動きをみせるワームだが、天童が渾身の力で引き留め、さらにはファンが重力を生み出して押さえつけているため、あの耳障りな咆哮を響かせるのみだ。 オペラの歌が、空気のすみずみにまで行き渡ったのが判る。 と、二十本程度だった鋼槍が、不意に倍ほどに増えた。オペラの歌による『奇跡』の効果だ。 それは、あっと思う暇もなく落下し、ワームめがけて降り注ぐ。ずん、ずん、という鈍い音が響く。耳が痛くなるほどの咆哮、絶叫と、胸の悪くなるような臭いが満ちる。鋼槍は、あやまたずワームを貫き、今度こそ完全に縫いとめていた。 それと同時にぼふっ、という音がして、内側から身が落ちる。またしても壮絶な悪臭が漂う。激しい温度変化による体組織の劣化に次いで、腐食香の効果が現れたのだ。 ワームの巨体がびくんびくんと奇妙な痙攣をみせる。 「……あと少し、のようじゃの」 玖郎がさらなる雷雲を呼び寄せる。 天童は玖郎に雷を落として力をチャージさせ、オペラはその力をさらに高めんと『奇跡』の歌声を響かせた。 ファンもまた、『我が身に持つ力を増強する』力を生み出して仲間たちのポテンシャルを高める。 ぱりぱりぱりッ。 空をひっかくような雷鳴とともに、金の光が空を走り、玖郎の周囲を舞う。 ごぼり、と、ワームの肉がまた溶けた。 そして、次の瞬間、閃光と轟音。 ワームを貫く四十の鋼槍すべてに雷撃が叩き込まれたことを、確認できたのはごくわずかな面子だけだっただろう。 地面が震え、辺りが白光に包まれ、すぐに静けさが戻ってくる。 真っ黒に焼け焦げたワームの巨体が倒れてゆくのが見えた。 ずしぃん、と、もう一度振動があって、旅団の人々が息を飲んで見守る中、死骸がゆっくりと溶けて消えていく。 あっけないとも言える最期だった。 4. 戦いが終わると、千里をはじめとした人々は、非戦闘員たちを逃がそうとした。 天童たちの前に、逡巡と躊躇いと信じたい気持ちをにじませつつも決死の表情で立ちふさがったのを見れば、大半の理由は判る。 おそらく、世界樹旅団がわに蔓延している誤解、世界図書館が旅団員を迫害し傷つけ苦しめる悪辣極まる組織である、というそれは解けていないのだ。情報の入りにくい、市井レベルであればおかしなことでもない。 「……まァ、彼らの好きにさせようかえ。むろん、むざとその命を散らせることはさせぬが……何せ、妾たちは、彼らからすれば、怖い怖い世界図書館の手の者ゆえの」 ファンは、彼らが退くまま、その背後を護る心づもりでいるようだ。 玖郎は言葉を選んでいるらしく、まだ口を開かない。 天童はそれらを見ながら、何が最善かを思案していた。 「待ってくれ」 じりじりと退いていこうとする彼らを引きとめたのは、オペラだった。 彼女は、その美しいハンドベルをすべて手放し、武器を何も持っていないことを示したうえで、千里たちに近づき、もう一度名乗ったうえで、千里以外の旅団員たちひとりひとりに名前を尋ねた。 なぜ、と誰かに問われ、貴方と私が同じ存在だと知ってほしいから、と返した彼女は、どこか頑是ない童女のようでもあった。胸を突かれたような表情をする人々に、オペラが、懸命に、真摯に言葉を紡ぐ。 「どこまで信じてもらえるかは判らないけれど、世界図書館は旅団の自治を認めたし、迫害もしない。私たちに争う理由はもうないんだ」 そして彼女は、樹海には果てがないこと、旅団の統制を離れたワームが徘徊し非常に危険であること、旅団と図書館の間で行われた話し合いのことなどを丁寧に説明した。 「貴方たちが言っていたゴウエンという人は、氷血のビスマルクという巨大戦艦を斃す手伝いもしてくれた。だから、私たちは彼や、彼の同胞を悪く思うことはないし、対等の存在として扱うことを誓える」 それを聞いた人々からざわめきが上がる。 中には涙を流しているものもいて、オペラが尋ねると、ビスマルクに蹂躙された世界の出身で、彼に大切なものを殺された絶望から覚醒してしまった人間も少なくないとの答えが返った。そしてその大半は、自分もまたビスマルクに殺されそうになったところをゴウエンに救われたものなのだった。 オペラは悼みと共感の眼差しをして、 「誤解されたままでは哀しい。判り合うことは出来ると私は信じるし、貴方がたと手を取り合いたい。ともに未来をつくり、暮らしていきたい。私はそう願っている」 童女の無垢さで訴える。 荘厳にして清らかな、歌うように美しい言葉に打たれてか、人々の眼が揺れた。 そこへ、考えがまとまったらしく、玖郎が口を開く。 「旅団への、もっか図書館がおこなっている処遇は、いましがたオペラが伝えたとおりだ。……判断は、おのおのへまかせる。管理下におかれて生きぬくも、自由を得てさまようもよかろう」 それは、厳しくもあり、 「己がいのちの使い道は、おのれでえらぶが筋ゆえ」 また、生きとし生けるものすべてが持つ、自由と許しを含んでもいた。 ファンも、玖郎もオペラも、千里たちの選択を最大限尊重し、彼らを助けるつもりでいる。そのことが判るから、言葉にせずとも伝わるから、旅団員たちは逡巡するのだろう。信じたいという、プラスの欲求に衝き動かされるのだろう。 天童はくすりと笑った。 笑ったとたん、盛大に腹が鳴る。 辺り一面に響き渡るような、間抜けで明るい音だった。 「……天童さん、それは」 千里がぽかんとした顔で言うのへ、からからと笑って、 「いやぁ、ぎょうさん気張ったら腹減ってしもたわ。あんさんらも、違うん? わいなぁ、おにぎりと煮抜き持ってきてんねん。あ、玖郎はんのために肉も持って来たさかい安心してや」 「……そうか、それはありがたい」 「まぁ、そんなお気遣い天童はんは思うわけやねん。せっかくやさかい、いっしょに食べへん? てな。同じ飯を食うたら、もっともっと判りあえることもあるやろ?」 そこに収まっていたとは到底思えない、大量の握り飯と茹で玉子を懐から取り出し、草の上に広げて勧める。 ――もちろん、腹が鳴ったのはわざとだ。場の緊張感を和ませるための芝居である。そのことに気づいたものは無論、いただろうが、 「……そうだな」 旅団員たちの気持ちは、千里の、笑みを含んだ呼気が代弁していた。 「俺は、――俺たちは、あんたたちを信じたい。信じられると思う。オペラさん、あんたが言うように、手を取り合って平和な世界を築きたいんだ」 だから、と千里が伸ばした手の先にはりんごの木があった。 真っ赤な、芳醇な香りを立ちのぼらせる果実をもぎ取り、 「ありがとう。あんたたちの誠に、感謝する」 穏やかな笑みとともに差し出す。 笑顔が、わっと咲きこぼれ、それはやがて、賑やかな会話へとつながってゆく。 天童は握り飯を配り、オペラはりんごや梨やアボカド、果てはマンゴスチンまで、辺り一面から収穫できた果実を切り分けて配り――何でもアリなばらばらの植生に感謝せねばなるまい――、ファンは水を生み出し、葡萄と合わせたあと時間を生み出して即席のワインなど供し、玖郎は玖郎で、無心に肉を食む姿など披露して、旅団員たちを不思議に和ませていた。 そこには確かに通うものがあって、皆が妙にくつろぎ、愉しい時間を過ごした。 だから天童は、おにぎりを頬張りながら確信するのだ。 困難を孕みつつも、この奇跡的な邂逅は、これから先、きっと佳き未来をもたらすだろう、と。 世界樹旅団の人々が、四人の護衛のもとターミナルを訪れ、ゴウエンと再会したのちひとまずナラゴニアへと戻るのは、そこから三日後のことである。
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