オープニング

 ――行ってしまうの?
 ――漂泊が僕ら一族のさだめだ。けれど、君の視力を取り戻す方法を見つけたら必ず戻って来る。
 ――……やっぱり行ってしまうのね。
 ――まじないをかけておこう。この蝋燭が全て灯った時、君の願いが叶うように。
 ――わたくしの願い?
 ――ひとつしかないだろう? 君の願いは。
 ――わたくしの、願いは……


 その城は孤高に、孤独に聳える。
 鏡のような。あるいは凍てついているかのような。波ひとつ立たぬ湖の中央に、尖塔をいただく古い城が佇んでいる。
 湖の周囲にあるのは黒々とした森ばかりだ。訪れる者など殆どない。
 それでも、緑の蔦が這う外壁は瀟洒に、清潔に保たれている。
「ようこそお越し下さいました」
 小さな舟で湖を渡れば、慇懃な老執事が出迎える。
「姉上はこちらです。お足許にお気を付け下さいませ」
 執事の先導で城内に踏み入り、来訪者は息を呑んだ。
 色とりどりの、それは宝石。あるいは満点の星。
 世界中の色彩が一堂に会したかのようだ。重厚な絨毯の上を数多の蝋燭が埋め、様々な色彩の炎を揺らめかせている。
「魔力の炎にございます。滅多なことでは消えませんし、触れても熱くはございません」
 執事がしわがれた声で告げた。
 そこに至って来訪者はようやく気付く。
 この城には蝋燭以外の灯がないし、湖も森もずっと宵闇に包まれたままだ。


「竜刻に暴走の兆しが見られました」
 リベル・セヴァンは平素通り淡々と告げた。
「場所はヴォロスの辺境、いつからか一年中夜に包まれるようになった森。森の中央にある湖に城が建っています。その城の女主人が所有する竜刻が対象です。女性の名はエレイラ、竜刻の形状は短剣。刀身に竜刻が用いられています。……竜刻の暴走はヴォロスの摂理に影響を与えます。ヴォロスの自律作用が弱まってディラックの落とし子に侵入される原因にもなりますし、放置すれば他の世界群にまで影響が及びかねません。そのため、誰かの所有物を奪うことになる場合でも回収をお願いしております。理不尽に聞こえるかも知れませんが、ご理解ください」
 言って、リベルは荷札のような品を差し出した。この“封印のタグ”を竜刻に貼り付ければ対象の魔力を安定させることができるという。
「ただし、目的は竜刻の暴走を防ぐことです。今回に限っては、竜刻自体は必ずしも回収していただかなくても構いません。封印のタグを使わずに竜刻の魔力を安定させることができればそれはそれで問題ありませんので。こちらをご覧ください」
 旅人達の手元にカード大の資料が配られる。三日月形の刃を持つ短剣――これが目的の竜刻だろう――と、太陽の文様が彫刻された腕輪が描かれていた。
「本来、この短剣と腕輪は対になる物でした。女主人の城に代々伝わる家宝です。現在、腕輪は彼女の恋人――流浪の術師で、今は彼女の元を離れています――が所持しています。かつて女主人が愛の誓いとして恋人に腕輪を贈ったのです。しかし、対として存在する物をむやみに分かてば何らかの不具合が生じるもの。腕輪と離されたことによって短剣の魔力が少しずつ歪み、暴走の兆しが生じたと考えられます。森の夜が明けなくなったのもその影響でしょう。……ええ。お察しの通り、腕輪の魔力も短剣と同じく不安定な状態にあります。腕輪の捜索に関しては既に別の依頼を出しましたので、そちらで対処していただいております」
 要は腕輪と指輪を一緒にすれば良いのだと続け、リベルは導きの書をめくった。
「女主人は今も恋人を待っている様子。彼女は“森の民”と呼ばれる少数民族の末裔です。森に生まれ、森を守り、森に縛られる一族……森を出ることは彼女にとって死を意味します。よって腕輪を彼女の元に持って行くしかないのですが、皆さんには念のため封印のタグを持って城に赴いて頂きたいのです。腕輪の到着が間に合わなかった場合はタグを用いるしかありませんので。それから、もうひとつ――」
 リベルはゆっくりと顔を上げた。
「腕輪を待つ間、女主人の話相手になってさしあげてください。願掛けやまじないとでも言えば良いのでしょうか、彼女は一万個の物語を集めることを目的としているようなのです。物語が一万個集まった時、願いが叶うと……真偽のほどは定かではありませんが、彼女の恋人が去り際にそんな術を残して行ったそうなのです。彼女は今も恋人を待ち続けているとか。彼女と打ち解けることができればいざという時に説得がしやすくなるかも知れませんので、これも任務の内とお考えいただければ幸いです。よろしくお願いいたします」


「姉上はこちらです」
 老執事は恭しく扉を開けてロストナンバーを招き入れた。
「ようこそ……」
 この部屋にも照明器具はないようだ。しかし、どんな宝石よりも美しい光たちが足許に侍り、女主人を照らし上げていた。
 その姿は壱番世界の人間とほとんど変わらない。腰まで伸びた亜麻色の髪。翡翠色の瞳。夜空の色のような、濃紺のドレープドレス。
「エレイラ・ミル・ファリアと申します。お見知りおきを」
 妙齢の女主人はドレスの裾をつまんで優雅に一礼した。だが、美しい双眸は旅人達を見ているようで見ていない。
「姉上は幼い頃に大病を患い、視力を失ったのです」
 老執事は旅人達にそっと耳打ちして退出した。
 旅人達はざっと室内を見回した。室内にあるのは調度品と、蝋燭の炎ばかりだ。壁には竜刻の短剣を収めていたとおぼしき鞘が飾られているが、肝心の剣はどこにも見当たらない。
「わたくしには見えないのですけれど……ご覧になって。あと少しですのよ」
 盲目の女主人は部屋の中央にあるケヤキのテーブルを指し示した。城じゅうを埋める蝋燭の中、そのテーブルの上にある数本――旅人達の人数と同じ数である――だけが、火を灯していない。
「ああ、今日は幸運ですわ。一度にこんなにお客様がいらっしゃるなんて。ここまで何年かかったことか」
 白磁の頬を薄紅色に染めたエレイラはうっとりと手を組んだ。
 先程老執事が話したところによれば、蝋燭の数は一万本。誰かが来て土産話を一つ残す度に一本ずつ灯が入って行くのだという。
「人のお話は心の欠片。人の想いがこの蝋燭を灯してくれますの。時々、炎の中にご自分にしか見えない“何か”が見えることがあるそうですわ」
 老執事が旅人達の背後の扉を開いて入って来た。ティーポットや菓子の皿を満載した木製のワゴンを押している。
「さあ――皆様の想いをお聞かせくださいな」
 色とりどりの炎が揺らめき、エレイラの顔に濃い影を刻んだ。

品目シナリオ 管理番号348
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
クリエイターコメントこんにちは。前のめり気味の宮本ぽちです。
こちらは同日同時刻公開の『真昼の旅人』と対になるシナリオです。
募集こそ同じタイミングですが、『真昼の旅人』は、この『宵闇の囚人』の依頼が出るよりも前に0世界を出発する内容になっております。
同一PCさんで両方のシナリオにエントリーすることはご遠慮ください。

こちらのパートでは女主人の話相手になってあげてくださいませ。
プレイングにはお土産話をひとつお書き添えください。
お話の内容も、炎の向こうに見える物も自由です。PLさんの腕を存分にふるって下さい。

蝋燭の炎の色は皆さんのお話の内容に応じて決まります。色のご希望があればお書き添え下さい。
人の想いが蝋燭を灯すと申しましたが、皆さんには何の害もありませんので大丈夫です。想いを奪われる・心を抜き取られるという類のことは一切ありません。

それでは、宵闇の茶会へと参りましょう。

<ヒントになるかも知れないもの>
・一万本の蝋燭を灯すには一万人の来客が必要です。辺境の地で一万人の来訪者を待つなんて、気の遠くなるような話ですよね。恋人はなぜわざわざそんなまじないを施したのでしょう?
・女主人と老執事は実の姉弟です。しかし外見年齢がおかしなことになっているようです。
・女主人の“願い”とは何でしょう?

参加者
カイン(czmy5816)ツーリスト 男 21歳 符術師
高城 遊理(cwys7778)コンダクター 男 23歳 作家
春秋 冬夏(csry1755)コンダクター 女 16歳 学生(高1)
スタンリー・ドレイトン(cdym2271)コンダクター 男 52歳 実業家
ネクロリア・ライザー(csdx9351)ツーリスト 男 15歳 不思議館館長

ノベル

「わあ……」
 春秋冬夏は素直に感嘆した。重厚な木で造られた室内――ワゴンも、その上の食器までもが木だ――に、色とりどりの蝋燭の炎。夜に支配された森の中、この城だけが煌々と色彩を放っている。
 数多の蝋燭は美しいが、冬夏の目には少し切なく映る。九千九百九十五本分もの間、女主人はどんな気持ちで物語を聞いてきたのだろう。
「美しい光景だ。実に神秘的だ」
 スタンリー・ドレイトンはゆっくりとロングコートを脱いだ。貫禄のある風情は体躯を包むブランドスーツのせいばかりではあるまい。
「しかし、私に言わせればこれは悪い呪いのようだがね……いや、森から出られない『長命』な存在が暇を持て余さずに済むのなら、良いまじないであるのかな」
 舞台俳優のようによく通る声で微笑むスタンリーだが、灰色の目は決して笑ってはいない。
「では、きみの『手助け』をするとしよう。その前に葉巻を吸っても良いだろうか? 未成年者もいるようだが」
「せっかくの茶会だ。葉巻の香気よりお茶の香りを楽しんでみてはどうだろう」
 ネクロリア・ライザーが静かに応じると、スタンリーは「もっともだ」と肯いた。
 めいめいにティーカップが配られ、宵闇の茶会が静かに始まる。


 高城遊理が選んだ茶は壱番世界で言うアッサムに似ていた。白樺に似た木のカップに赤みが映えて、美しい。
 遊理はゆっくりとカップに口をつけた。ふうわりとほどける香りを楽しみつつも、眼鏡の奥の瞳はじっとエレイラを見つめている。
 ――恋人が呪いを施した理由は、時をかけて自分のことを忘れさせる為ではないのか?
(始めから、定めに悲恋の決意を……)
 遊理はそっと目を伏せた。眼鏡を曇らせる湯気が辛うじて表情を隠してくれる。
「一ついいか」
 ややぶっきらぼうに手を挙げるのはカインだ。
「物語の内容だが、実際に起こった事でも構わないのか?」
「勿論ですわ」
 カインは「分かった」とカップを置いた。華やかな香りが湯気とともに立ち上る。彼が飲んでいたのはアールグレイに似た茶に柑橘のピールを加えた品だ。
「じゃあ、俺から始めても?」
 一同に異存はない。
 俺の居た国で実際にあったことだけど、と前置きしてカインは口を開いた。


 ある男の話だ。彼は国でも有数の名家の次男として生まれた。
 典型的な家父長制が支配する家柄でな。父は長男……つまり彼の兄のみに目をかけ、彼のことは長男のスペアとしてしか扱わなかった。一方、彼は兄とは交流がなく、唯一愛情を注いでくれた母親とは早くに死別し、周りとも打ち解けられずにいた。
 彼は孤独だった。とても孤独だった。
 そんな時だった、姉が彼に言葉を掛けたのは。
「可哀相に」
 姉は涙を浮かべて彼の名を呼び、慈しむように彼を撫で、抱擁した。
「私が傍に居るわ。ね? 可愛い坊や……」
 彼の心は――いや、体までもがすぐに姉へと向かった。彼は実の姉と肉体関係を持ったんだ。おぞましいと思うか? だけど彼には姉しか居なかったのさ。
「このままではいずれ皆に知られるわ。どこか遠くに行きましょう? ずーっと遠く。二人だけの世界へ……」
 姉は耳触りの良い睦言ばかりを囁いた。彼は姉の言葉を全て鵜呑みにし、本気で姉を愛した。姉にとってはただの遊びであることすら気付かずに、本当にいつか二人で遠くの国へ行こうとまで考えていた。
 やがて姉の元へ縁談が来た。相手は世継ぎの王子。姉は彼を捨てて縁談に飛び付いたが、一つ問題があった。姉は純潔ではなかったから。
 そこで姉はどうしたと思う?
「私は嫌だって言ったのに……弟が、何度も無理矢理!」
 彼の名を呼んだ時と同じように涙を浮かべながら虚偽の証言をしてのけたんだ。
 彼は罪に処せられた。本来なら極刑になるところだけど、血筋のために見逃されて国外に追放された。
 彼は打ちのめされた。恋、愛、女性……すべてに絶望し、失意のどん底へと突き落とされてそのまま行方不明になってしまった。
 いま彼がどうしているか、って? さあな、誰も知らない。彼は突然消え、別の世界を彷徨っているんだから。


 カインが言葉を切ると、テーブルの上の蝋燭がぽっと灯った。
「紫にございます」
 盲目の主に聞かせるためだろう、老執事が低い声で炎の色を告げた。
『カイン』
 甘ったるい女の声が聞こえた気がしてカインはわずかに顔を歪める。
『おいで。私の坊や』
 露わになる肌、濡れる肉体、潤んだ瞳――。
「紫の炎は」
 というエレイラの声でカインは我に返った。炎の中に見えた女の姿はいつしか消えていた。
「最も温度が高いそうですわね。見た目の典雅さとは裏腹に熱く、苛烈なものだと……わたくしはそう聞き及びました」
「彼のその後だけど」
 カインはエレイラの弁を遮るように言葉をかぶせた。冷めた瞳は女主人を低く見据えたままだ。
「彼の女性不信は根強い。恋人間の愛情などという物は信じ切れないし、信じる気もないらしい。もしかしたら信じるに値しないと思っているのかも知れないな」
 エレイラは恋人に捨てられたのではないか。決して口には出さないが、カインはそう感じている。
「そうかも知れませんわね。人の心は移ろいやすきものの代名詞……」
 エレイラはそっと目を伏せ、膝の上で繊手を組み合わせた。
「けれど、それでも信じてみたい。騙されているのではないかと感じつつ一縷の希望に縋りたい……ついついそう思ってしまうものではありません? だって、わたくし達はひとたび恋に囚われれば理性を欠いてしまいますもの。恋は盲目とはよく言ったものですわね」
 悲しげに微笑む女主人の前でカインは軽く目を眇めた。
 この女は、見かけほど盲目ではないのかも知れない。


 スコーンに似た焼菓子を頬張りながら冬夏は改めて室内を見回した。一万の物語はさぞ興味深いだろうが、気の遠くなるような話でもある。
(長い時がかかったんだよね……エレイラさんは、時の流れすら拒む程に強く相手を思ってたんだね)
 不意にエレイラがにこりと微笑んだ。冬夏は慌てて姿勢を正した。同性だというのに、大人の女についどぎまぎしてしまう。
「あの。次は私でもいいですか?」
 一同から肯きが返る。冬夏は「じゃあ」と口を開きかけたが、焼菓子の欠片が口の周りに付いていることに気付いて慌てて拭った。
「私の故郷に伝わる話です。バレエっていう……あ、バレエっていうのは、んーと……舞踊、かなぁ? とにかく、バレエの有名な作品のひとつなんですけど――」


 ある村娘の話です。彼女は心臓が弱かったけど、踊りが大好きで、いつも笑顔を絶やしませんでした。
 彼女は村の青年と恋に落ち、互いに心を通わせました。けれど、青年は本当は貴族だったんです。彼は身分と名を偽って彼女に近付いたんです。
 それでも二人は幸せでした。ただ……彼女に恋する人はもう一人いました。森番の男性です。彼は、貴族の青年が身分を隠していることに気付いてしまいました。
 ある時、狩の途中の貴族が彼女の村に立ち寄りました。この公爵の娘こそが青年の婚約者でした。……ええ。村娘と心を通わせた筈の青年には、別の相手がいたんです。
 その後、青年が隠していた剣を森番の男性が持ち出し、青年が貴族であることが暴かれました。森番は更に公爵と公爵の娘を連れて来てしまい、言い逃れができなくなった青年は公爵の娘の手にキスをしました。それを見た村娘は動転し、錯乱して、そのまま息絶えてしまいました。
 次は墓場の場面です。結婚を前に亡くなった乙女の精霊達が集まる場所があって……村娘は精霊の女王によって精霊達の仲間に迎え入れられました。
 精霊っていうくらいだから、姿は美しいんじゃないのかなぁ。でも、通りかかった旅人を死ぬまで踊り狂わせる恐ろしい精霊達なんです。夜、村娘の墓に許しを乞いにやって来た森番の男性は精霊達に踊り狂わされて死んじゃいました。
 貴族の青年も村娘の墓を訪れ、亡霊となった彼女と再会します。精霊の女王は彼の命をも奪おうとしますが、どうしてでしょうね、村娘はそれを拒んだんです。
 やがて朝の鐘が鳴り、精霊達は消え、青年だけがそこに残されました……。


「どう思いますか、エレイラさん」
 冬夏はぐいと身を乗り出した。
「最後のシーン、色々解釈があるみたいなんですけど、私は彼女が青年を守ったんじゃないかって思うんですよ。青年が彼女を本当に愛していたかどうかも分からないし、彼女が青年を許したかどうかも分からないけど――」
 冬夏は無垢だ。未だ恋を知らぬ身では村娘の心情を説明する言葉すら見つからぬ。
 だからこそ、思う。
「彼女は本当に青年のことが好きだったんじゃないかって。だから守ったんじゃないかって。……悲しくて、人を思う一途さが切ないけれど、それだけ人を愛せた彼女は幸せだったと思うんです」
 ぽっ、と蝋燭が灯る。執事が「淡い紅色にございます」と告げた。
「良い色ですこと。きっと乙女の……そう、貴方の頬のような色でしょうね」
「えっ」
 冬夏はかっと頬を赤らめ、エレイラは緩やかに微笑んだ。
「貴方の解釈、素敵ですわね。どんな目に遭っても、ただ一途な思いだけを抱き続けていられるなら……」
 物憂げに目を伏せる貴婦人の心底は少女には判らない。だが、冬夏はぴょこんと頭を下げた。
「あの。もし良かったら、エレイラさんのお話も聞かせて下さい。お願いします!」
「わたくしの?」
 エレイラは幾度か目を瞬かせた。
「はい。私、実は……恥ずかしい事に、初恋もまだなんです。だからお願いします。エレイラさんの事が聞きたいです。――エレイラさんの願いは、目が見えるようになる事じゃないんじゃないですか?」
 核心を突いた質問に、場の空気が刹那張り詰めた。
「願い事は、愛しい人と共に在ることじゃないですか? それか、愛しい人を追いかけて行くこととか」
「同感だ」
 と肯くのはライザーだ。「恋人とずっと一緒に居たいと願っているのでは? あるいは森から解放される事か」
「彼の方は貴女の願いが目の治療だと思っていたのでしょうが。肝心な所で自分を忘れて……。愛する者の居ない景色など、誰が望むのか」
 遊理が低く呟くと、宵闇のドレスを纏った貴婦人の唇がぴくりと震えた。
「私も貴女自身の物語が聞きたい。聞かせて下さいませんか」
「タカシロ様まで……かしこまりました。ですが、お客様をさしおいてわたくしが語ることはできませんわ。わたくしは皆様をもてなす側ですもの」
「もっともだ。ホスト役の物語は最後の楽しみにとっておくとしようか」
 スタンリーは穏やかにティーカップを置いた。こういった雰囲気に慣れているのだろうか、彼の姿は茶会の席にナチュラルに溶け込んでいる。彼の紅茶は壱番世界のキーマに似ていた。独特の渋さと風味が好ましい一品だ。
「では諸君。次は私が話しても構わないかな?」
 同意が返る。スタンリーはゆったりと足を組み、「ある男の話だが」と前置きして口を開いた。


 彼は田舎町に生まれた。とてものどかで良い場所だ。彼は故郷を愛していたが、いつしか都会に出ることを夢見るようになった。
 ある時それは実現する。彼は畑や野山ばかりの田舎から大都会へと旅立った。事業は成功し、彼はあっという間に金融街で昇り詰めた。全て実力でね。その代わり、彼の仕事は多忙を極め、灰色の都会から出られなくなってしまった。
 それでも彼は満足していた。金と権力さえあれば、彼の周りの世界の全てをほしいままにできたから。……ふむ。田舎出身の彼がいかにしてのし上がったか具体的に聞きたい、と? それはやめておいた方がいい。世の中には知らない方がいい事もあるものだ。
 ああ、済まない。話を戻そうか。――彼が裏であくどいことをやっているのではないかと囁く者もいたが、彼はそれすら意に介さなかった。ただの妬み嫉みだと一笑できるだけの余裕と実力が彼にはあった。事実、彼の元には自然と人と金が集まった。
 しかし彼は、ある『真理』に気付いた……自分が動かせる世界は、雀の涙よりも乏しい、ほんの一部であったということに。
 世界は広かった。彼が思っていたよりもずっとずっと広かった。無論彼の周りの世界も真実のひとつであるだろう。だが、その世界は『世界』のほんのひとかけらにすぎなかったのだよ。
 ――その後彼はどうしたのか、と?
 彼は今、自分の世界を飛び出して、旅に出ている。
 棒に振ってしまった時間を取り戻し、誰かに話して聞かせられるような土産話を作るために。


 まるで朗読劇を聞いているようであった。スタンリーの声はそれほどまでに深く、心地良い。
「そう、例えば彼はこんな場所を訪れるかも知れないね。土産話を渡しに」
 音もなく、蝋燭が灯る。黄金の色だと執事が告げた。
「これはこれは。皮肉なことだ」
 富を象徴する色彩に、スタンリーは苦笑いしながら顎髭をさする。しかし女主人は穏やかに微笑んだ。
「わたくしは実りの色だと思いますわ。幼い頃、小麦畑を見たことがありました。優しく美しいこがね色でした」
「成程。良い解釈だ」
 さらさらと、金色が揺れる。それはこうべを垂れた小麦の穂であり、はちきれんばかりのトウモロコシの実でもある。
 穏やかな黄金がどこまでも広がって行く……。
 その先に見えるのは、蒼穹。コンクリートジャングルの底から見上げる空とは異質のスカイブルー。それはまさにカンザス――スタンリーの故郷。
「あら。もしや、炎の中に何かご覧になれまして?」
 というエレイラの声でスタンリーは我に返った。同時に目の前の風景も掻き消える。テーブルの上では金色の炎が小さく揺れているばかりだ。
「ああ、懐かしい風景を見せてもらった。こんな幻なら悪くない。――私の話は以上だ」
 紳士はゆっくりと目を細めた。
「さて……これできみの願いが叶うといいのだが。願いとは、叶えば当人が幸福になるものをいう。少なくとも……本人の幸福だけは保証されるのだ。他人がどう感じようと……」
 女主人は答えない。
 そのおもてには、微笑だけが張り付いている。


「さて、あと二本……か」
 口を開いたのはライザーだった。
 ウバに似た茶にミルクを垂らし、ゆっくりとかき混ぜる。乳白色は刹那いびつなマーブル模様を描き、融け、消えた。
「次は貴方が? それとも、僕が先に話しても?」
 残っているのはライザーと遊理だけだ。
「出来れば、私は最後に」
「分かった」
 遊理の言葉に肯き、ライザーはカップを口に運んだ。十五歳の少年にすぎない彼だが、茶を楽しむ手つきは不思議と堂に入っている。
(恋人は、なぜこのような迂遠な術を……)
 彼女の目を治す方法などないと思ったのか。身分違いの恋から身を引く方便として使ったのか。他の男と幸せになってほしいと願ったのか、自分の容姿に自信が無いのか――あるいは、最初から戻る気などなかったのか。蝋燭の謎も気にかかる。この炎が彼女の時を止める呪いであるとしたら?
 だが、ライザーが口にしたのは全く別の問いであった。
「所で、竜刻の短剣はどこにあるのだろうか」
 ゆったりしたドレスを纏ったエレイラの肩が震えた。
 そう――壁には鞘が掛かっているのに、鞘に収められるべき剣はどこにも見当たらない。恋人との愛の証の片割れであるにもかかわらず、だ。ライザーだけがそれに気付いていた。ライザーだけがそれを気にかけていた。
「まさか、話し終わった途端にブスリと刺されたりはしないだろうね。一万本の蝋燭が灯って良くない事が起こるのであれば僕は物語を語らないが」
 ブルーグレーの瞳が油断なくエレイラの表情を探る。女主人は緩く微苦笑した。
「滅相もございません。お客様に対して無礼な振る舞いなど……」
「ならば良い。それと、もうひとつ」
「何なりと」
「短剣に暴走の兆しが見られる。これは確かな事実だ。恋人の腕輪が戻らなければ短剣は暴走し、貴女や執事を含めた我々全員が巻き込まれるだろう」
 エレイラの目が大きく見開かれる。
「我々がここに来たのは暴走を食い止めるためでもある。……もし腕輪が戻らなかった場合、暴走を止める術をかけさせてほしい。その術を使えば確実に暴走を防げる」
 ライザーは婉曲的に告げた。世界図書館や封印のタグのことは詳らかに話すべきではない。
「かしこまりました。お願いいたします」
 エレイラはやや色を失った顔で肯き、それを見届けたライザーはゆっくりと語り始めた。


 僕は世界各地から不思議な話を集めている。祖父から受け継いだ仕事だ。時には不思議な物語と引き換えに金品を要求されることもあってね。経済的援助を目当てに僕の元を訪れる者もいるんだ。
 これは祖父の代の話なのだが……ある時、貧乏な若い男が祖父の元を訪れた。彼の妻は病の床にあり、手術を受けなければ死ぬと宣告された身だが、男の稼ぎでは手術代を賄えない。そこで彼は藁にも縋る思いで祖父の元を訪れた。
「どうかお願いいたします。お金の用意ができなければ妻は死んでしまうんです」
 祖父は彼の境遇に心を痛めたが、ただで援助するわけにはいかない。彼に不思議な話を求めた。すると彼はこんな話をしてくれた。
「ある田舎に若い夫婦がいて、夫は妻を残して街へ出稼ぎに出掛けました。しかし夫はなかなか戻りません。やがて妻の顔には皺が刻まれ、髪は白くなり、とうとう老衰して死んでしまいました。その翌日、夫が家に戻って来ます。どういうわけか彼は出稼ぎに出た時とほとんど同じ年恰好をしていました。――夫が出稼ぎに出ていた期間はほんの半年でした。若く健康な妻が、たった半年の間に老婆となって死んでしまったのです」
 一日千秋という言葉がある。愛する夫を待つだけの半年は、妻にとっては何千年もの時間と同じくらい長かったのだろう。
 だが、祖父はこの話には感じ入らず、援助を断った。不思議というほどではないからね。男は恨み言を吐いて去った。
 しかし男は嘘をついていた。妻は病気などではなかったし、彼の生家はそれなりに裕福だった。彼は妻を家に残したまま放蕩を続けていて、遊ぶ金欲しさに貧乏なふりをして祖父の元を訪れたんだ。騙されていた事に祖父が気付いたのは彼が去ってからだった。
 男はどうにかして祖父に復讐しようとしたが、どういうわけか悉く失敗した。そうするうちに金も尽き、家を出て半年ほど経った頃に男は妻の元へと戻った。
 彼を迎えたのは老いた妻の遺体だった。そう、若く健康な妻が、たった半年の間に老婆となって死んでしまったのだ。


「妻はなぜ老衰したのか、と? さあ、僕もそこまでは知らない。何にせよ、男の嘘はひとつだけ真実になったわけだ。“金の用意ができなければ妻は死ぬ”という点においては、ね」
 蝋燭が灯る。炎の色は、青みがかった鋼。鋼ほど冷たくはなく、しかし鋼のように硬質な色。
「人を平気で騙す人間が居ること。人の話を鵜呑みにしない方が良いこと。……祖父はそれを学んだそうだ」
 静けさを崩さぬまま、ライザーは祖父の物語に仮託して何かを伝えようとしている。
 だが、エレイラは美しく微笑した。
「一日千秋……本当に、その通りですわね。愛する人を待つ一日のどれだけ長いことか」
「貴女ならばさぞお気持ちがお分かりなのでは?」
「ええ、もちろん。わたくしには見えないのですけれど……この森はもうずっと夜に包まれております」
 城の中には蝋燭が灯るばかりだ。壁一枚隔てた向こう側は動かぬ宵闇で覆われている。
「時々、ずっと夜の中に居るような錯覚に陥りますのよ。おかしいですわよね。夜であろうと昼であろうと、わたくしの目の前は暗闇のままですのに」
 焦点の合わぬ瞳がライザーを見つめ、
「それでも……きっと、わたくしはずっと夜の中に居るのですわ。明けるかどうかも分からぬ宵闇の中に」
 そっと、悲しげに眇められた。


(術を施した理由がどうであれ――)
 遊理はゆっくりと室内を見回した。
(術の効果自体は本物だと思いたいが……さて)
 宝石と呼ぶには頼りなく、星と呼ぶには脆すぎる。そんな不安定な色彩が城中を埋め、揺らめいている。
 “森の民”であるエレイラの全ては森と繋がっているのかも知れない。森が時を止め、彼女の時もまた止まったのだとしたら。竜刻の影響もあるのかも知れない……。
 思索を巡らせても答えは出ない。盲目の女は震える指先を胸に当て、倒錯した微笑を浮かべている。
「あと一本……あと一本ですわ」
 視力のない瞳が揺れ、恍惚と不安を含みながら遊理へと向けられる。
「タカシロ様。最後の……一万個目のお話を」
「ええ。それでは――」
 遊理はエレイラを見つめたまま口火を切った。


 いつの時代の、どこの世界の話か……とにもかくにも、その時、世界を支配していたのは悪の魔術師でした。民らは怯え、王すらも惑い、世界は邪悪に満ちていました。
 しかし、いつの世も悪は倒されるもの。ある時、騎士の一族が打倒魔術師に名乗りを上げました。
 戦いは激しく、厳しいものでした。何昼夜経ったのか分からなくなった頃、騎士はとうとう魔術師を打ち破ります。ただ、何の代償も支払わなかったわけではありません。事切れる寸前、魔術師は血反吐とともに呪詛を吐きました。
「呪ってやる。子孫末代まで呪ってくれる! 貴様らの子は民どもに……貴様らが守った民どもに疎まれながら生きるのだ!」
 その言葉通り、醜い仮面を被った子供が生まれて来ました。魔術、呪術、邪術……あらゆる方法を試しましたが、仮面はどうしても剥がれませんでした。
 やがてその子も一族のならいに従って騎士となりましたが、その醜い仮面ゆえに周囲から疎まれ続けていました。民らは彼を忌み嫌い、石を投げました。しかし、ある時騎士は一人の女性と出会います。彼女は騎士の仮面にも臆せず、他の人間に接するのと同じように騎士に接しました。それどころか、騎士の醜い仮面に触れ、この顔が好きだと言いました。これは自分達が自由を得た代償なのだと。
 二人はすぐに恋に落ち……初めての口づけを交わした、その瞬間。
 ――何が起こったと思いますか?
 何をしても外せなかった仮面が、硝子のように砕けて消えたのです。そう……呪いを解く方法は、真実の愛だったんですよ。


 皮肉だが、願いを込めて遊理はこの物語を選んだ。エレイラの恋人はさぞ老いているだろう、と。
(さて……宵闇は明けるだろうか)
 だが、
「これは珍しい。虹色にございます」
 執事が蝋燭の炎の色を告げた瞬間、冷静なおもてがわずかにこわばった。
 ――影が、蠢いている。
 得体の知れぬ虹色の影が無言で揺れている……。
「ひとつ、よろしいでしょうか」
 というエレイラの声で遊理ははっと我に返った。同時に、虹色の影は掻き消えた。目の前には虹色の炎があるばかりだ。
「……はい。何でしょう」
 遊理は唾とともに狼狽を呑み込み、ごまかすように眼鏡のブリッジを押し上げた。
「なぜ口づけで仮面が砕けましたの?」
「それが真実の愛の証だったからです」
「まあ……口づけを交わしただけで、相手の愛情が本物かどうか分かりますの?」
 エレイラは微笑みながら緩慢に首を傾げた。
「唇と唇……いいえ、素肌と素肌を重ねてさえも、それは肉体への接触でしかありません。心には決して触れられないのではありませんこと? 肉体に触れるだけで相手の心底が分かるのなら、これほど簡単なことはありませんわね」
 一同は無言だった。
 ――恐らく、この女は見かけよりも冷静だ。それなのに囚われてしまっている。
「先程、竜刻の暴走を予告しましたが」
 遊理は宵闇の女をじっと見つめた。
「あなた方二人……そう、貴女の恋人もです。お二人とも、これまで心に咎が無かった訳では無いのでは? もし望むなら、あなた方の心の咎を、我々が忘却の彼方へ持ち去りましょう」
 いらえはない。女主人はそっと視線を逸らすばかりだ。遊理は「エレイラさん」と静かに続けた。
「積年の間、貴女が恋人の不在を一度も恨まなかったとは私には思えないんですよ。それが貴女の咎になるなら――私はそれを取り除いて去りたい」
 スタンリーが無言で葉巻をくわえた。火はつけない。
「一万本、灯りました。……本当の願いは何ですか? エレイラさんの事を聞かせて下さい」
 冬夏は切なげに眉尻を下げる。
「私には大した力もないし、気の利いた言葉も言えません。だけど」
 あなたの話を聞くことはできるのだと。だからあなたの話を聞かせて欲しいのだと。無垢な少女の懸命な願いは貴婦人に届いたのだろうか。
「わたくしの物語は……」
 女主人が震える唇を開いた時だった。
 ゴッ――と湖の水が逆巻き、巨大な黒竜が着水したのは。


「わっ」
 一瞬、冬夏は状況を忘れた。黒竜の姿は彼女にとってひどく魅力的だったからだ。
 階段を踏む足音が性急に近付く。
 扉が開き――入ってきたのは、六人の男女。五人は咎の砂漠へと向かった旅人達だろう。その中に親しい少女の姿をみとめ、冬夏は表情を緩めた。
 ならば、残る一人、ターバンを首に巻き、太陽の腕輪を着けた男の姿は。
「ああ――」
 まろぶように、エレイラが駆け寄る。
「キークス。キークス」
 ドレープが翻り、ゆったりしたドレスの下に隠し持った“それ”がちらと露わになる。
「やっと。ああ。願いが叶った」
 女主人は恍惚の表情で“それ”を抜き、
「エレイラさん!」
「……まさか」
 悲鳴を上げる冬夏と、軽く目を見開いたカインの前で、
「共に――ずっと」
 “それ”……即ち、竜刻の短剣を振りかざして恋人の胸に飛び込んだのだ。


 どつ、り。


 エレイラははっと目を見開いた。
 キークスの胸を貫く筈の短剣は、分厚いガイドブックを刺しただけであったから。
「約束を違えてもらっては困る」
 二人の間に身を滑り込ませ、ガイドブックを盾代わりにかざしたライザーは静かに告げた。
「良くない事は起こらないと言うから僕は土産話を渡した。貴女も人を騙すのか?」
 ライザーだけが剣の所在を気にかけていた。だから、ライザーだけが咄嗟に行動を起こすことができた。
「……わたくしは、お客様に無礼はしないと申し上げたまでです」
「無礼だ。心中劇を見せられて喜ぶ客はいない」
 カインの冷めた言葉にエレイラは膝を折り、遊理が短剣をそっと取り上げた。抵抗はなかった。
「そんな……これが願いだったんですか?」
 冬夏は唇を震わせて立ち尽くしていた。「エレイラさんは森から出られない。キークスさんはさすらいの一族。同じ場所には留まれないから、だから、一緒に死――」
 ぐらり、と色彩の波が揺れる。
 一万本の蝋燭が倒れる。カインはぴくりと眉を持ち上げた。
「術が完了し、魔力が切れたか。ならばもうただの炎だ」
 ごう、と火の手が上がる。隅から隅まで木で造られた城は瞬く間に燃え上がる。極彩色の炎だ。全ての色彩をごちゃ混ぜにした、混沌の炎だ。
「……エレイラ」
 青年の顔をしたキークスは、老人のように濁った眼球と老爺の如きしわがれた声で告げた。
「こうなっては逃げられない。君の願い、聞き届けよう」
 美しい炎の中、キークスの腕に抱かれ、満たされた女主人は急速に老婆へと変じていく。冬夏が後先考えずに飛び出した時、
「お引き取り下さい」
 両手を広げ、老執事が立ち塞がった。
「次代を担う子を為すことこそ森の女の使命。使命を果たすまでは子を産める体であり続けねばなりません。姉上が若いままでいたのもそのせいです、竜刻の影響もあったでしょうが。しかし……姉上は老いました。姉上は森から解放されました、森に見放されました。これで姉上の願いの一端は叶ったやも知れませぬが」
 森に見捨てられては生きては行けないのだと厳かに続ける。しかし冬夏は拳を固めてでたらめに執事の胸を殴りつけた。温和でものぐさな彼女が、戦おうとしていた。
「通して! 通してよぉ!」
「聞けません。ここから先は我らの領分」
「全く、大したホスト役だ」
 という声に、皆の目が一斉にスタンリーへと集まった。こんな時だというのに彼はゆったりと葉巻をくゆらせていて、あまつさえその姿は俳優のように様になっているのだった。葉巻の煙はなぜか赤紫色だ。
「確かに、彼女の手助けをすると私は言った。当人が幸福になるのなら構わないだろうが――」
 彼の灰眼は静謐で、冷たい。
「客人に対する礼儀としては頂けない。非常識な振る舞いはご遠慮願おうか」
 不可思議な煙に絡みつかれ、老執事が、エレイラが、キークスさえもその場に倒れ伏した。


 城は孤高に、孤独に燃え上がる。森は静謐だ。湖の中心で燃える城のことなど知らぬかのように、まさに対岸の火事だという風情で夜風にさわさわと囁くばかり。
「全て……灰になってしまえばいい」
 遊理はぽつりと呟いた。傍らには眠りから覚めたエレイラとキークス、老執事が立ち尽くしている。スタンリーの葉巻の効果で眠った三人を旅人達が手分けして担ぎ出したのだ。
「記憶まで灰にしてしまえるわけではないさ」
 カインの言葉は相変わらず冷めていたが、
「……だが、記憶を揺さぶる物がなくなれば少しはましかもな」
 エメラルドグリーンの双眸はわずかに物憂げだった。
 紫の炎は見た目に反して最も激しいとエレイラは言った。あの一件の直後は復讐を考えていたカインだが、激情はだいぶ薄らいだ筈であった。それなのに、蝋燭の中に姉を見た瞬間、感情が生々しく蠢動したのだ……。
 壮麗な炎はしばし燃え続けた。
 やがて城は灰へと還り、宵闇は暁闇へと移ろっていく――。


「カンザス……ああ、私のセクタンなのだが、彼はなかなかルールを覚えてくれなくてね」
「セクタンにチェスを教えているのですか? さあ、ナイトを頂きますよ」
「おっと、油断していた。では私はビショップを」
 帰りの螺旋特急の中、スタンリーと遊理は携帯用のチェスに興じていた。
「どう思いますか」
 手の中で駒を弄びながら、遊理は誰にともなく呟いた。
「キークスさんの本心は……」
「彼女が言っていたではないか。他者の心に触れることなどできないと」
 スタンリーはその言葉をもって答えとなした。
 短剣と腕輪はあっさり回収できた。咎を持ち去るという遊理の言葉がエレイラの心に響いたのだ。エレイラ姉弟とキークスは一行に礼を言って夜明けの森へと消えた。彼らがどうする気なのか、誰も知らない。
 カインは座席でひとり目を閉じていた。
「おまえにとって、女主人は何だ?」
 彼らが去る直前、そう尋ねたのはカインだった。
「主にございます。主に仕えるのが執事の役目」
「おまえは彼女を姉と呼び続けていた。俺達に紹介する時も“姉上”と。――他の男を待ち焦がれる姉の姿はどうだった? 見たところ、この森には他に住人はいないようだ。二人きりの世界で、どんな思いで姉と過ごした?」
「……姉上は主にございます」
 老執事は折り目正しく頭を下げて森へと消えた。
「彼女の物語、書き留めておきたかったものだが」
 剣の痕跡が残るガイドブックを撫でながらライザーが呟く。冬夏はそっと微笑んだだけだった。
 エレイラは約束を守った。立ち去る前に自身の物語を聞かせてくれた。その物語の意味を冬夏が真に理解するのはもう少し先になるだろう。決して忘れはしないけれど。


 ある所に女がいました。女は代々森から出られない一族でした。
 まるで牢獄のようだと女は思いました。牢獄に繋がれた囚人だと。ある日、女の元に鳥がやって来ました。あちこちを飛び回る鳥は、自らが見聞きした出来事や物語を女に聞かせてくれました。女は鳥の語る物語に……やがては鳥自身に夢中になりました。
 鳥も女に口づけをくれました。女は鳥を手元の籠の中に入れたくて必死でした。けれど女は気付いていました。鳥はいっときの止まり木を求めていただけだということに。
 休息を取った鳥は再び空へと飛び立ちました。それでも、一縷の希望に縋りながら女は待ち続けました。森に囚われ、恋に囚われ……明けることのない夜の中に囚われていました。
 いいえ、夜が明けなかったのは女自身のせいかも知れません。
 鳥への執着を捨て切れなかった自分自身に囚われていたのかも知れません……。


(了)

クリエイターコメントありがとうございました。
『宵闇の囚人』、お届けいたします。

女主人の願いは「恋人と一緒に居続けるために、恋人を殺して自分も死ぬこと」でした。
竜刻の短剣の鞘はあるのに、剣が見当たらないこと。女主人の衣装がドレープドレス(=ゆったりめのデザイン)であること。女主人から森から出られないのに対し、恋人が流浪の一族であること。
以上三点が手掛かりでした。

女主人の願いについては「恋人と再び逢うこと」「恋人とずっと一緒に居ること」「恋人と共に在ること」というプレイングが寄せられました。
これらも不正解ではありませんが、ずばり正解というわけでもありません。
しかしライザーさんが剣の所在に触れて下さいましたので、グッドエンドは無理でもノーマルエンドの扱いといたしました。
尚、ライザーさんのガイドブックはトラベルギアとして使用したのではなく、「分厚い本を咄嗟に盾代わりにした」ものとして描写しております。

お楽しみいただければ幸いです。
仏教では、愛という語は執着や貪りを表すそうですね。
公開日時2010-03-19(金) 19:20

 

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