「シャンヴァラーラへ向かってもらいたい」 赤眼の世界司書、贖ノ森 火城はそう言ってチケットを取り出した。「夜の女神ドミナ・ノクスは正式に世界図書館の受け入れを決めた。彼女らの御座す天恒宮(てんこうぐう)と直接つながった無人の【箱庭】に駅が建設される。駅には、女神の化身やシャンヴァラーラに住まう協力者たちのいずれかが常駐し、ロストナンバーたちへの依頼や協力要請が行われることになるだろう」 火城の説明によると、女神の化身とは、彼女が自分の持つ神威の欠片を封じて創った、彼女の意思を反映させる人形のようなものであるらしい。能力的には、女神本来の力の百分の一も持っておらず、駅を離れると土塊に戻ってしまうそうだが、『アンテナ』と呼ばれる情報収集器官を有しており、世界全体を見通すことが可能なため、いつでもシャンヴァラーラの最新状況を知ることが出来るようだ。「協力者というのは、実を言うと帝国にも華望月にもいる。彼らは元々ロストナンバーでな、ドミナ・ノクスがシャンヴァラーラへ帰還する際、彼女とともに世界に帰属することを望んだものたちだ。彼らは帝国側と華望月側に分かれて、自分たちが最善と思う方法で世界の安定のために働いている」 駅が建設される無人の【箱庭】は、元々は彼らが秘密裏に会うための場所なのだそうだ。 元ロストナンバーは全部で十人。 様々な姿、様々な能力、様々な技術を持った、出身世界も種族も年齢も性別も思想もばらばらな、しかし一様に強い意志と覚悟を持った人々であるといい、いずれは全員と相見えることになるだろう、と火城は言った。「元ロストナンバー同士の絆は深く、ドミナ・ノクスとのつながりも強く、何とかして世界に平和を、安定をという強い思いに変わりはないが、自らの思想、自らが十全と思う方法のために別々の道を選んだことからも判るように、最終的には敵同士として殺し合うことすら覚悟の上のようだ」 帝国が正しいのか、華望月が十全なのか、他に最善の方法があるのか、恐らく誰にも判らない。 この世界全体が行き着く先も、その正しさの証明も。 判らないからこそ、ドミナ・ノクスは、竜の青年がタグブレイクによってシャンヴァラーラへ飛ばされてきたのをきっかけに、これをよい機会と捉え、新しい視線、新しい風を内部へ入れることを決めたのだろう。「そんなわけで、あんたたちには、これから、帝国と華望月の双方で活動してもらうことになると思う。どちらが正しいか、どちらが最善か、それとも他にとるべき道を模索するのか、判断はそれぞれに委ねられる。――そのために何を見、何を聞き、何を知るべきであるのかも」 火城はそこで一旦言葉を切り、「……と、言っておいて何だが、あんたたちに今回行ってもらうのは帝国でも華望月でもない。そのふたつの組織の狭間にある異質な【箱庭】で、名を『電気羊の欠伸』という、非常に独特な発達をしたところだ。そこで、守護者である神と、その化身である夢守と接触して、何らかの物品を手に入れてきてほしい」 そう言を継いだ。「そこの神は電気羊と呼ばれる、極彩色の動物の姿をした存在だ。全部で十体いてな、あの【箱庭】は、その羊たちの夢によってかたちづくられている。『電気羊の欠伸』では、すべてが羊たちの夢に強烈な影響を受けるため、帝国も華望月も、そう簡単に手を出すことは出来ない」 火城が言うには、帝国の技術や文明が、他の【箱庭】に比べると――それどころか、壱番世界よりも――格段に進んでいるのは、数代前の皇帝がこの『電気羊の欠伸』への潜入及び羊たちとの接触に成功し、様々な技術や物質を持ち帰ったからなのだと言う。「羊たちの夢が支配するあの【箱庭】では、すべてが帝国の技術をはるかに凌駕する。そうだな、帝国の技術が壱番世界で言うところの二十四世紀前後だとしたら、『電気羊の欠伸』のそれは四十世紀を軽く超えるだろう。ゆえに、過去に何度も大々的な侵攻が計画されたそうだが、帝国のたくらみが成功したことは一度もないんだそうだ」 その侵攻を阻んだのが、羊の夢を媒介に強大な力を揮う、夢守(ユメモリ)と言われる羊たちの化身で、広大な【箱庭】内に百体ほど存在する彼らは、『電気羊の欠伸』の住民を羊たちに代わって護る代理戦士なのだそうだ。 中でも、『数持ち』と呼ばれる、一から十までの数字を名前に宿す夢守たちは、羊たちが特別に我が身を削ってこしらえた化身で、一体で一個師団をも軽く凌駕するという。 黒い羊はプールガートーリウム、夢守は一衛(イチエ)。 黄の羊はテッラ、夢守は二桐(フドウ)。 金の羊はゲンマ、夢守は三雪(ミソギ)。 緑の羊はナートゥーラ、夢守は四遠(シオン)。 青い羊はアクア、夢守は五嶺(ゴリョウ)。 赤い羊はイーグニス、夢守は六火(リッカ)。 紫の羊はアエテルニタス、夢守は七覇(ナノハ)。 灰の羊はカリュプス、夢守は八総(ハヤブサ)。 銀の羊はフルゴル、夢守は九能(クノウ)。 白の羊はアーエール、夢守は十雷(トオカミ)。 それぞれがそれぞれの属性を、司るものを持ち、巧く接触出来たものに、己が属性の範囲内ではあるが、強大な力を持った様々な品や技術を与えてくれるのだそうだ。「『電気羊の欠伸』に元ロストナンバーはいないが、女神と羊、羊と夢守とは密接につながっていて、それゆえに今回の、ロストナンバーたちの来訪に関してもつなぎが取れている。『数持ち』たちが出迎えてくれるはずだから、それぞれ、気になる羊の元へ赴いて、『電気羊の欠伸』の探検と、物品の採集を行ってほしい」 理由は、との質問に、火城は少し笑った。「『電気羊の欠伸』に出かけて無事で戻って来た上、何かしらの物品を持って来たとなると箔がつく。帝国も華望月も、ロストナンバーという第三勢力に一目置くようになるだろう」 女神ドミナ・ノクスの願いはただひとつ、シャンヴァラーラの民の幸いのみ。 そのための、ロストナンバーたちの働きかけを、彼女は歓迎するという。 世界図書館が大々的に動くことはなくとも、彼女の思いに共鳴した人々が、ほんの少し、新しい風を吹き込んで、それが新たな流れになることは決して過剰な干渉ではないだろう。「『電気羊の欠伸』は奇妙だが興味深く、実を言うととても平和な【箱庭】だ。奇妙な連中が多いが、夢守たちと関わるもよし、住民たちの話を聞くもよし、変わった食い物を試させてもらうのもいいだろう」 そう言って、「ここで彼らと何らかの関係がつくれれば、今後、事態の進行に有利なアイテムを分けてもらえるかもしれない。そうなると、様々な方面で行動しやすくなるかもしれないな」 火城は、そう続けてから、ただし、と付け加えた。「帝国や華望月とは違って、ここの連中は感覚的にあんたたちが異質な存在だということを理解している。それは、自分たちが異質であることを知っているからだ。――要するに、『電気羊の欠伸』は【箱庭】の中でも突出した特異さを持つ異世界中の異世界だ。常識では考えられないようなことも起きるだろうから、充分に気をつけてくれ。無茶をして出て来られなくなった、なんてことにならないように」 では、健闘と旅の安全を祈る。 火城はそう締め括って、チケットをひとりひとりに手渡したのだった。
1.ゲンマ――色彩の織り成す理知の美 『電気羊の欠伸』は空のない【箱庭】だった。 武骨な黒系統の、材質が何とも量れぬ、そのくせ妙に生き物めいた質感の金属柱や壁で覆い尽くされ、明らかに人工と思しき光がそこかしこで明滅する、打ち捨てられた金属工場のような場所だ。 幾重にも連なった階層によって成り立っているこの【箱庭】では、不思議な質感の金属で出来た柱や太いチューブや壁が高く高く、果てが伺えないほど伸びており、それらによって空や天体は覆い隠されている。 「永劫連結異相構造体……なるほど、この重なってゆく『層』が『電気羊の欠伸』っていうことだね。この様子だと、構造体は自己増殖機能つき、って感じかな。ん、この『反響』からすると、天体は構造体に取り込まれた後、か」 この世界における植物なのだろうか、様々な色合いの、グラスファイバーを幾重にも束ねたような何かが、どこの階層にもちらほらと見られた。 樹齢二百年級の重厚さを有したそれらは、透き通った内部に赤や青や黄色などの淡い光をともしながら、枝葉にも見える半透明の末端部分を、どこからともなく吹いてくる風に揺らしている。 それを植物のようだと思うのは、時折、末端部分がちらちらと瞬き、子どもの拳サイズの丸い『実』をつけるからだ。ふらりと現れる奇妙な住民たちが、その『実』を収穫して行くのを見ていると、これがこの世界の農業なんだろうか、と思わなくもない。 「ふうん……」 ベヘル・ボッラは感情の希薄な――というよりも、表情の出にくい――目で周囲を見渡しながら小首を傾げた。 「なんだろうね、閉塞感はあるのに息苦しくはないっていうか」 壱番世界の人々の感覚で言えば、ここは異質な廃墟と称するのが相応しい場所だろう。 世界そのものは広いのに閉ざされたイメージが常に付きまとい、暗くはないが明るくもなく、不潔ではないが――むしろ黴菌や腐敗物、病原菌などという生々しいものとは無縁に思える――整然としてもおらず、確かに住民の存在は感じられるのに『生きた』気配はあまりにも希薄という、壱番世界の感覚でいえば恐ろしく現実味の薄い世界だった。 「でも……色々、ありそうだね」 しかし、ベヘルは高度に発達した科学文明の世界出身だ。 高度な科学技術を残して消えた、正体不明の先達の遺産によって成り立っている世界で、清濁、善悪を問わない多様な娯楽と快楽を提供する星で、過剰な技術力に囲まれて暮らしていた彼女にとっては、それほど奇妙に感じられる世界でもなかった。 特にベヘルは、麻薬と同じ括りで語られる、仕掛けを凝らした音響・映像で観客の精神や肉体に強い影響を及ぼすアートに携わっていた身だ。自分が創り手だったこともあって、足元が定まらないような、現実感の薄い情景には耐性がある。 「さて、と……」 司書、贖ノ森はこの【箱庭】の神である電気羊に会えと言った。 そして、何かしらの物品を受け取って来るように、と。 「まずは、その羊を探さなきゃね?」 ベヘルが呟くと、その声帯の震えを感知したとでもいうように、直径一メートルほどの、蓮葉を髣髴とさせる形状をした円盤のようなものが音もなく彼女の前に飛来し、止まった。 「……連れて行ってくれるってことかな」 恐れ気もなく蓮葉に乗ると――思いの他ふかふかとした感触だった――、それは滑らかな動きですうっと浮き上がり、目線の上、およそ百メートル先に見えている次の階層へと移動した。 「ん、ここはちょっと、幻想的だね。遠未来の森ってとこかな」 蓮葉の移動装置がベヘルを誘ったのは、グラスファイバー樹の森とでも言うべき、どこか神秘的な空間だった。 「ここに羊がいるってこと……?」 当然ながら無言のまま蓮葉が飛び去ってゆくのを視界の端に見送り、辺りを見渡す。 淡い彩光をまとって明滅を繰り返すグラスファイバー樹に一面を囲まれた空間は静謐で美しかったが、ここに生きた存在がいるようには思えなかった。枝葉を揺らす風もなく、身動きするものも、音を立てるものもおらず、ここでは何もかもが静止しているように見える。 「……ちょっと自己主張してみようか」 しばらく周囲を観察した後、黙っていても仕方ない、と、ベヘルはトラベルギアを発動させた。 完全な球体をした、表面が滑らかな鏡面の小型スピーカー七つ組。 それがベヘルのトラベルギアである。 「αからβへ、有機から無機へ、金剛から小鳥へ、カミからヒトへ、心臓から思考の末葉へ……」 抑揚のない声で微調整を加えながら、周囲を一定のリズムを発生させながら浮遊するよう操作して、データとしての『音』を転送する。『音』は、例え言語を違えようとも、直接思考に響き、アプローチを行う。 浮かび上がったスピーカーが、独特の質感を持った『音』を紡ぎ始めると、変化はすぐに現れた。 それまで規則性のない色合いで、ばらばらに明滅していたグラスファイバー樹林が、濃淡の様々な青に変わり、波のように連綿と――ゆったりと瞬き始めたのだ。 それと同時に、階層上部の『壁』にぽっかりと穴が空き、 「おや……アレ?」 「ちょっ……なんでこんなとこに穴があんのよー!?」 そこの穴から、ぼろぼろのマントをまとった何者かと二足歩行する兎とが唐突に降って来て、音もなく飛来した蓮葉がふたりを受け止めて地面へ降ろすのを、ベヘルは小首を傾げて見ていた。 「あれ、きみたちは……」 ふたりは、ベヘルと同じく今回の『電気羊の欠伸』行きを志願したロストナンバーたちだった。 ぼろマント氏がヘータ、兎嬢がレモン・デ・ルーツといっただろうか。 「……なんで上から?」 無論、理論上は無限の階層が存在すると同時にすべての場所につながっているとされる永劫連結異相構造体であるから、どこから現れてもおかしなことはないのだが、ベヘルがアプローチを行った直後のことなので、やはり何か関連があるのだろう。 「知らないわよ、羊に会わなきゃって思ったら何かの音が聞こえて、音が聞こえたって思った途端穴が空いて落ちたんだもの!」 豪奢なゴシック&ロリータのワンピースを身にまとった兎様が憤慨する横では、 「何でだろうね。不思議だ。でも、不思議なのは知ることにつながるから、いいことだよ。それで、キミは……ロストナンバーだよね、同じロストレイルに乗ることをして来た」 ヘータが独特の話法で疑問を表現している。 「ワタシもこの世界を知りたくて、羊に会うことをしなくちゃって思ったら、ここに落ちたんだよ。ワタシが思ったことが外に出る世界なのかな?」 「……なるほど、ぼくも似たような感じだね。思惟を察知する何らかの器官があるのかな、ここには。もしかして、金の羊に会おうって思わなかった?」 「なんで判るの、あんた。まさか、読心能力者!? 破廉恥な!」 「破廉恥って……いや、ぼくがそう思ったからだけど。要するに、その思考を何かに察知されて、ここへ呼ばれたんじゃないか、ってこと」 「ワタシは誰に会おうかと思っただけだけど、知ることによいものがもらえればいいな、と考えたよ」 「じゃあ、そうなんだろうね。同じようなことを考えたから招かれたんだ」 ベヘルがそう言った時、 「正解よ。いらっしゃい、お客人たち」 三人の背後から唐突に声が響いた。 「ぎゃあ! ちょっと、急に現れないでよ、びっくりするじゃない!」 レモンがすごい悲鳴を上げて振り向き、それから白兎らしい赤眼をぱちくりと瞬かせる。 「あら、本当に羊なのね」 言葉通り、彼女の視線の先には、黄金の体毛を持つ羊がいて、ふわりと宙を漂っていた。 サイズは壱番世界で羊と総称される生き物よりふたまわりほど大きく、ふわふわとした柔らかそうな体毛は思わず触ってみたくなるものの、表情の伺い難い金眼は、どこを見ているのかも判らない。 そもそも異質な神である電気羊と普通にコミュニケーションが取れるのかどうか不明だが、要するにコミュニケーションが取り難いからこそ化身が存在するのかもしれない、とは思う。 「ええ、夢を媒介とするのが電気羊ですもの」 今一つ噛み合わないことを言ってにっこりと笑うのは、二十歳半ばと思しき華やかな美女だ。 緩やかなウェーブを描く、眩しく長い金髪をゆったりと流し、不思議な形状の瞳孔のある、黒曜石のように光沢のある黒の双眸を持つ彼女は、身体にぴったりと添う、ゴムと絹を混ぜ合わせたかのような漆黒の衣装を――後にそれをスキンスーツと呼ぶのだと教わった――身にまとい、立っている。 身体のあちこちに、ベヘルと同じようなソケットやプラグ、コネクタがあり、またあちこちからチューブやコードが伸びていた。 「あんたが夢守? その、羊の?」 レモンの問いに、夢守が頷く。 「ええ。あたしは三雪(ミソギ)、金羊ゲンマの化身。――鉱物と文化、知識を司る羊の元へようこそ、お客人。話は夜女神より伺っているわ」 ゲンマの持つ意味は『宝石』。 それは、宝石を内包する鉱物全般と、それを美しいと感じる文化、そしてそれらを『知る』ことを欲する知識を司るものの持つ名なのだった。 「はじめまして。ワタシはヘータ。よろしくね。ワタシは、この世界を知りたくて来たんだ。知ることは、良いコトだよ」 「あたしはレモンよ。金の羊だからお宝! って思って来たんだけどあながち間違いでもなかったみたいね。あたしの勘に狂いはなかったわ、ふふん」 独特の言い回しをするヘータと、欲望の権化的なことを言いつつ胸を張るレモンを見るともなしに見た後、ベヘルは金の羊と三雪と向き合った。 「……あなたからは、あたしたちと近しい匂いがするわ」 「ああ、かもね」 ベヘルが軽く肩を竦めると、なんとも間延びした声で羊が鳴き、それと同時にグラスファイバー樹林の一角が唐突に開けた。 「ともあれ、こちらへどうぞ。おもてなしをするわ、――あたしたち流の、だけれど」 幻想的に瞬くグラスファイバー樹の向こう側に、壱番世界ではありえないような不思議な姿をした人々を認め、ベヘルは眼を細めた。 そこには、異質ではあるものの、確かに『生きた』人々の営みが見える。 「興味深いな」 根源を異にする近しい人々の在り方を見るのは悪くない、と、ベヘルは羊と夢守の誘うままに歩を進める。 2.アーエール――あまねはすものであり暴君 日奈香美 有栖は、空のない世界の中、トラベルギアである日傘を差しながら歩いていた。 空がないのだから太陽もなく、日傘を差す意味はあまりないが、要するに気分の問題だ。 「不思議な世界……」 『電気羊の欠伸』は今まで有栖が見たいかなる世界とも異なっていた。 空も地平線も海もないのに、そのすべての気配がする。 どこまでも続く無限性と、超えることの出来ない閉塞感が共存している。 根本的に無機でありながら、ここに存在するすべてが有機的に増殖し成長することが感覚的に判る。 多様な彩光を内包したグラスファイバーの樹、地から天へ流れる天空媒質《エーテル》の河、恐らく壱番世界の計測器では解明の手掛りすらないだろう金属で出来た山や、金属光沢を持つ無機質の植物たち、無機物から生まれた生き物たち。 そのどれもが、有栖にとっては生まれて初めて見るものだった。 「こんな成り立ちは、初めて。何もかもが、違うのですね、ここは」 彼女の故郷とも、壱番世界とも、ほかの異世界とも違う。 生命と非生命が逆転し、有機と無機が境目をなくした、恐ろしく現実味の希薄な世界だった。 「異質であることがこの地の意義であり意味。それは、この地が【箱庭】として分かたれる前、天地開闢の頃から変わらない」 不意に背後から聴こえたその声に、有栖は足を止め、振り返る。 危険は感じなかった。 「……どなたです?」 小首を傾げての問いに、かすかな笑いが返る。 「あんたが会おうと呼んだんじゃないのか」 答えたのは、背の高い、二十代後半から三十代前半と思しき鋭角的な美男子だった。 短く切り散らした純白の髪に、不思議な形状の瞳孔のある、黒曜石のように光沢のある黒の双眸を持つ彼は、均整の取れたしなやかな四肢をスキンスーツに包み、真っ直ぐに有栖を見つめて立っている。 身体のあちこちに無機質なソケットやプラグ、コネクタがあり、またあちこちからチューブやコードが伸びていて、それが彼から有機的な印象を遠ざけている。 「では、あなたが?」 有栖が問うと、男は鋭い眼差しとは裏腹の、思いのほか人好きのする笑みを浮かべて頷いた。 同時に、唐突に激しい風が吹き、場の雰囲気が変わる。 何か、強大なものが迫ってくる、そんな気がして空ならぬ空を見上げると、そこには、純白の体毛と漆黒の眼を持つ大きな羊が、強烈な風をまといながら浮かんでいた。 風が渦巻き、有栖の髪を大きくはためかせる。 「オレは十雷(トオカミ)、白羊アーエールの化身。――大気、天候、空間を司る白羊の元へようこそ、異神のお嬢さん。話は夜女神から聴いている、まあ、ゆっくりしていってくれ」 アーエールの持つ意味は『空気』。 それは、世界を取り巻く大気と、大気の変動である天候、そしてそれら全体を内包する空間を司るものの持つ名なのだった。 「……私は、アーエールとは、大気の他、風や嵐を司るものだと思っていました」 「まあ、間違いじゃあないな。我が御祖アーエールは“あまねはすもの”だ。姿を見ることは出来ずとも必ず存在する。風も嵐も、その一環だ」 「ええ。では……激しく荒ぶることもある、と?」 「アーエールは時に暴君とも称される。黒羊プールガートーリウムに次いで破壊的な力を持つ神だ。その意味があんたには判るだろう」 生命が存在するためになくてはならぬ大気。 それはしかし、時に激しく猛り狂い、暴虐の限りを尽くし、多くの命を奪う。 恐らくその二面性を持つのが白羊アーエールなのだ。 「ふむ、では……お手をどうぞ、お嬢さん。あんたのお仲間がゲンマと接触したようだ、そちらへご案内しよう」 十雷が淑女にするような恭しさで硬質的な手を差し出し、有栖は少し笑ってその手を取った。それは人間とは思えないほど硬く、温度があるのか、血が通っているのかすら判らなかったが、少なくとも『生きた』感覚はあって、有栖は少しホッとする。 「我々の流儀は異質だ、少々驚かせるかもしれないが……せっかく来てくれたんだ、しっかりもてなすとも」 「ありがとうございます、そのお気持ちだけで充分嬉しいです」 「なるほど、異神の姫君は優しいんだな」 悪戯っぽい十雷の物言いに少し笑い、有栖は彼に導かれるまま奥へと進む。 3.アエテルニタス――不変と流転の二重螺旋 「私は七覇(ナノハ)、紫羊アエテルニタスの化身。――時間と普遍、不変と流転を司る紫羊の元へようこそ、異界の客人よ」 アエテルニタスの持つ意味は『永遠』。 それは、永遠という概念の根本である時間と、それを行き渡らせる普遍、普遍の中にある“決して変わらないもの”と“常に変化し続けるもの”を司るものの持つ名なのだった。 要するに、羊は、名前から連想される事柄の関連事象、並びにその両極を司るということらしい。 宝石であるならば、それを宝石と認識する文化や知識を。 空気であるならば、包み込むすべての事柄を。 永遠であるならば、刹那も。 ――が、そんなことよりも大切な事柄がエイブラム・レイセンにはあった。 「あ、やばい、超好みのタイプ。俺はエイブラム・レイセンって言うんだ、よろしくな。あのさ、唐突だけど質問していい? アンタの好みとか教えて欲しいんだけど。俺なんかどう?」 鮮やかで妖艶な紫色の体毛と漆黒の眼を持つアエテルニタスの化身、七覇は、肩ほどの長さで切り揃えられた、光の加減では黒にも見える艶やかな紫色の髪と、不思議な形状の瞳孔のある黒の双眸をした、外見で言えば二十歳前半程度に見える繊細な顔立ちの青年だった。 彼は、シンプルなのに様々な機能が付随していると感覚的に判るスキンスーツに、エイブラムより拳ひとつ分ほど高いすらりとした身を包んでいる。身体のあちこちにソケットやプラグ、コネクタがあり、またあちこちからチューブやコードが伸びていたが、サイバノイドであるエイブラムとしては、単に同類的な親しみを覚えるだけのことだ。 黒と赤、紫のどれにするか悩みながらあちこちまわって、何となく紫が一番好みなんじゃないかな、という野生の勘で訪れてみたらドンピシャだったわけだが、当然、いきなり言われた方は何のことか判るまい。 「……それは、異界流の挨拶なのか?」 不思議そうに小首を傾げる様子や、真っ直ぐな紫髪がさらりと流れる様までが好みで、エイブラムはこのまま依頼のことなんか全部忘れてイイコトしたい、と思ったが、それを察したように、紫の羊が「何か用事あって来たんだろお前」的なニュアンスでンバアアアアと鳴いたので、渋々本題と向き合うことにする。 「いや、挨拶っていうかもっと直接的なことなんだけど……まあいいや。えーと、話は伝わってるみてぇだし進めるとして、要するに情報とアイテムをもらってこいみたいな?」 恐ろしく直接的な物言いだったものの、七覇はそれを気にすることなく頷く。 彼の背後で壱番世界で言えば乳牛くらいのサイズがある紫羊が間延びした声で鳴いた。どうやら同意の鳴き声らしい。 「では、何が知りたい? 何がほしい?」 「え、そんな簡単でいいのかよ」 「君がアエテルニタスを選んだからだろう」 「あー……つまり、時間の真ん中にいるから?」 「知識のゲンマと時間のアエテルニタスは親和性の高い羊だ。かれらは双方に力を循環させることが出来る。ゆえに、アエテルニタスを選んだ旅人は、知識にも近くなる」 「なるほど。えーと、じゃあ、七覇の好みのタイプ」 「……質問の意味が理解できないので後にしてくれ」 「そういう知識には疎いのね、了解。後にしたって理解できるかは判んねぇけど、まあいいや、だったらむしろ俺が教えてやるから。んじゃ、帝国に関して」 「ああ」 「帝国があんだけ強い力を持ったのって、何代か前の皇帝に羊が何か渡したからって聞いたんだけど、どの羊がどんな技術を与えたんだ?」 「ああ、今の皇帝の曽祖父だな。彼に力を与えたのはイーグニスとカリュプスだ。“ありとあらゆる精製能力”と“常に成長し続ける創造力”を与えたと聴いている」 「精製能力と創造力……ふうん……?」 壱番世界などでは太刀打ちも出来ぬほど高度に発達し、その技術力でもってほかの【箱庭】を屈服させ続ける至厳帝国。その発達の源が、羊たちから与えられた高い技術力と、その技術力をどんどん発展させてゆく自己成長作用ということだろう。 「他には?」 「んー……アンタたちってさ、俺が言うのもなんだけど異質だと思うんだ。そういう風に創られたのを辛いって思ったことはあるのか?」 「さて。我々は羊を筆頭に、他の【箱庭】の住民たちとはまったく別の成り立ちをした存在だが、我々がシャンヴァラーラの住民であることに変わりはないし、異質であることを理解し自覚することはあれ、この状況こそが我々にとっては通常だ、それが不具合となったり不都合となったりしたことはないな」 「なるほど、そんなもんか」 「ああ。――後は?」 「後は……そうだな、欲しいものの方かな。アイテムってか、ここの機械技術が欲しいんだけど。この身体のヴァージョンアップがしたいんだよな」 「ふむ、それは少し難しいな。羊から得られる力ではなく、この世界の技術そのものとなると、規約の問題が」 「えー? んじゃいいよ、自分で勝手に盗むから。それならいいだろ?」 唇を尖らせたエイブラムの言葉に、七覇はしばし考え、それから頷いた。 同意するように、背後で紫羊がバアアアアと間延びした声で鳴く。 「出来るのなら、自由に」 「よしっ。んじゃ早速」 「……まあ待て、君の友人たちが古帰蝶(こきちょう)回廊に集まっているそうだから、まずはそこで一服してくれ。何か、面白い催しをしているようだ」 「催し? ふーん……」 同じロストレイルでこの【箱庭】にやってきた、個性豊かな人々の顔を思い起こし、首を傾げつつも七覇の言葉に従う。 もちろん、気持ちの上では、すでに、七覇からこの世界の技術や知識を盗む気満々である。 4.異質と共鳴の幻想曲 古帰蝶回廊と呼ばれるその階層は、最小サイズでも直径一メートルもの規模がある蝶が宝晶化した状態で地面に埋まっている――というよりもガラス状の地面に張り付いている、もしくは同化していると言うべきか――、大層美しく幻想的な空間だ。 たわわに実をつけるグラスファイバー樹林と、玻璃煉瓦を組み立てて建てられたマンション状の住居がそこかしこに見られるここは、『電気羊の欠伸』の中でもどちらかというと他【箱庭】の人間たちに近い外見・考え方をする人々が暮らす場所だ。 自己修復、自己保存、自己増殖能力を有する有機金属から発生し、羊と夢守たちによって方向性を示された結果『人間』とよく似た姿かたちや思考を得た彼らは、ロストナンバーたちにも絶大な興味を示した。 「でね、あんたたち、こんなのどう? あたしはこっちをお勧めするけど、こっちも似合いそうよね」 肌の色が薄青であることと、頭部が頭髪ではなく細かい水晶柱群によって覆われていること以外はほとんど人間と変わらない、晶精人と呼ばれる彼らは、レモン・デ・ルーツが持ち込んだ秘蔵のファッションカタログに興味津々だった。 特に、年若い晶精人の感性は人間の若者と近く、レモンの見せる色とりどりの衣装を、眼を輝かせて見ている。 あんたにはこれが似合いそう、そっちのあんたはこれね、とアドバイスをしていたレモンが、 「そういえば、あんたたちって帝国と華望月のこと、どう思ってるの? ここは戦争に巻き込まれることはないみたいだけど、外では結構大変なことになってるみたいよ」 ふと思いついて尋ねると、彼らは顔を見合わせて、それから頭部を覆う水晶柱群を響かせた。彼らは声帯を持たないので、こうやって意思の疎通を図るらしく、金属製の鈴を彷彿とさせるその音を耳にすると、彼らの思考が直接脳裏に展開されるのだ。 「ふーん……どっちも仲良くすればいいのに、ってあんたたちは思うのね。あたしもそう思うわ、争ったっていいことなんてないもの。ああ、そうなの、羊も夢守たちも、条件さえ揃えば力を貸してもいいって言ってるのね?」 帝国の思惑も華望月の立ち位置も、善悪の判断も正否の在り処も、未だはっきりとはしていない新世界である。 レモンは、世界のバランスを保つものとして、もしも自分に出来ることがあるのならそれをまっとうしよう、と思うことしか出来ないのだ、今のところは。 「まあ、あたしに手伝って欲しいならそう言いなさいよね、一緒にカタログを見た仲だもの、すぐに駆けつけるから」 任せなさい、と胸を張るレモンに、晶精人の若者たちがキラキラした憧れの眼差しを向けている。 そこから少し離れた場所では、ヘータが、金羊ゲンマがぽろっと生み出したアイテムを三雪から受け取っていた。 「これをもらってもいいのかな? これがあると、知ることがたくさん出来る?」 ヘータがいそいそとマントの中に包み込もうとする――若干捕食に見えなくもない――それは、成人男性の頭部程度の大きさのある、驚くほど正確な擬切隅星型大十二面体と表現するのが相応しい、透明な石の結晶体だった。 「これは未来の揺らぎを感知する感応水晶よ。運命や未来は流転するものだから、確実とは言えないけれど、あなたが望む揺らぎをみせてくれるかもしれないわ」 「それはすごいね、どうもありがとう」 「どういたしまして……と言いたいんだけど、残念ながらこれをシャンヴァラーラの外に持ち出すことはまだ不可能なの。危険すぎてね。駅に専用の保管庫を用意してもらうから、エネルギーを安定させる技術が確立するまでそこに置いておいてね」 「おや……それは心が残って未練があることだね。でも、待つことは苦しいことじゃないから大丈夫だよ。よく眺めにくればいいだけだからね」 ボロボロのマントとしか思えないものの上機嫌と判る口調でヘータは言い、やはりどこか捕食めいた動作で戦利品を我が身の内に収めた。 ヘータがこのアイテムを手に入れた時点で今回の依頼は完遂ということになるのだが、旅人たちは、古帰蝶回廊の人々に、不思議な茶と茶請けでもてなされ、のんびりとした一時を満喫していた。 「香りだけなのに、風なのに……咽喉を潤してくれるお茶なんですね。とてもすっきりして美味しいです」 有栖が微笑む通り、真ん丸の水晶玉をくりぬいたかのようなグラスを傾けると気体が咽喉を滑り降りてゆく風茶、口に入れると芳醇な甘味とともにパチッと弾ける食用雷、飲み込むと同時に音楽が身体の隅々まで行き渡る果実など、この世界のもてなしはどれもが独特で物珍しい。 それらで舌を楽しませつつ、羊と夢守、興味津々な晶精人たちとともにベヘルが取り組んでいるのは、彼女の世界では至上の音楽と称された『音』の再現だった。 「生きた音……なのね?」 「うん、詳しいことは何も判らないんだけどね、前文明の残した擬似生命体の持つ『核』なんだ。宝玉ってぼくたちは呼んでた。それをぼくたちが認識すると、触れるのでも見るのでもいいんだけど、そうすると魂まで粉々になりそうな至上の音楽になるんだよ」 「それを再現したいのか、なるほど。……我々の手持ちで何かあったか、そういう技術。あるとすれば、ゲンマ、あんたの領域だろう」 オレとアーエールに出来るとしたら音響効果を増幅させるくらいのものだ、と十雷が言うと、金羊はバアアアと鳴いて、もこもこの毛の間から正三角柱の塊を五つ、こぼした。 三雪の説明によると、黒水晶のような光沢を持つそれは、記憶を媒介に音や声、言葉を再現する音響装置だという。 「これならば、ベヘル、あなたの記憶媒体を介してその『生きた音』を幾重にも響かせ、増幅させて本物に近づけることが可能よ。あなたのメモリは――……あら?」 三雪の身体から伸びたコードがベヘルの右腕に触れ、 「……ごめんなさい、これは、あなたの大切な領域ね。あたしには触れられないわ」 すぐに、気遣うように離れてゆく。 ベヘルはかすかに笑い、そのメモリに眠る、破損した情報の欠片に思いを馳せて頷いた。 「気にしないで。ぼくが直接つないでみるから、大丈夫」 この複雑で奇妙な世界ならば、破損したデータを再生させる方法もあるんだろうか、などと益体もないことを思いつつ、右腕の複合音響機器と音響装置をつなぐ。 と、記憶にスイッチが入り、いつか聴いた宝玉の『音』がベヘルの脳内から流れ出してゆく。 「わあ……!」 有栖が驚きと感嘆の声を上げて周囲を見渡した。 ベヘルの記憶を通じて正三角柱の記憶再生スピーカーから溢れ出した、言葉では表現出来ない『生きた音』が、古帰蝶回廊全体に響き渡り、階層を震わせ、揺らす。 心臓に染み渡り二度と離れなくなるような、深く遠く澄んだ音色だった。 本物にはまだ少し足りない気がするから、調整と研究は必要だろうと思うものの、確かにあの時触れた至上の音楽の一端をこの『音』は表現していた。 「あら……素敵ね。こんな『音』を持つあなたの世界を、一度見てみたいわ」 三雪が眼を閉じ、耳を澄ますと、金羊ゲンマは何となく楽しげにバアアと鳴いた。 晶精人たちは、その青い肌を紺色に上気させて『音』に聞き入っている。 その、稀有な音楽会の片隅で、 「あーっ、くそ、逃げられたっ!」 ばたん、と引っ繰り返るのは、七覇のプロテクトに挑んでいたエイブラムだ。 先ほどまで七覇に絡み付いていたコードが外れてしまっているのを見るに、技術を盗む挑戦その一は失敗に終わったらしかった。 「処理速すぎだろ、くそー……」 体力を消耗する作業だったのか、大の字になってばてているエイブラムに、七覇が静かな笑みを向ける。 「接戦だったな。次はもう少し気を引き締めなければ危ないかもしれない」 「お、次も受けてくれんの? よし、じゃあまた来ようっと」 「なかなか楽しかったし、私自身ためにもなった。君が望むならいつでも受けよう。――アエテルニタスならたぶん処理速度を上げる品を出してくれるが、どうする?」 「えー……いや、欲しいけど、やっぱ一回くらい素で勝ちてぇし、今回はいいや」 「ずいぶん好もしいことを言う。そういう潔さは好きだな」 「え、なにそれ、愛の告白?」 「……意味を理解しかねるのでもう少し平易な言葉で頼む」 珍妙な表情をする七覇に、そのうちちゃんと教えてやるよ、とケラケラ笑うエイブラム。 その周囲をも包み込む、幻想にして稀有な夢幻の音色。 新しく得た知識を、品を持ち帰り今後のことを考えなくてはという思考を、意識の隅々まで浸してゆく音の奔流が凌駕する。 「……悪くない世界だね。ここで、もっと色々な音楽やアートに触れてみたいかも」 唇の端っこで笑ってベヘルが言い、記憶の中の『生きた音』を更に何重にも重ねて響かせた。 そのいっそ凶悪ですらある音楽に、ロストナンバーもシャンヴァラーラ人も関係なく聞き惚れ旋律に溺れる、そんな不可思議で幻想的な異世界での一時は、もうしばらく続く。
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