ぷかり。 見上げた先で、幻の泡が浮かんで消えた。 ぷかり、ふるん。 もうひとつ、ふたつ。 最新鋭と骨董品、双方の同居する機材の山の真ん中で、コードやプラグに埋もれ、浮かんでは消えてゆく泡を見るともなく見ながら、ベヘル・ボッラはひとつ欠伸をした。 のったりと覆い被さってくるような、現実味の薄い――しかし幻の水に肺腑まで満たされる錯覚のある深く濃い、青い蒼い海のホログラフィの中、潮騒を模した音響を聴いていると、それだけで眠気が増す。 華奢な、虚弱にも見える外見に反して、様々な改造が施されている身体能力は低くなく、身体はそれなりに頑丈だが、こういった生理現象とは無縁でいられないのが生体の面倒なところだ。無論それは、楽しみや喜びにもつながるのだろうが。 「もう少し、やっておきたい仕事がある、ん、だけど……」 言葉は途中で欠伸と混ざる。 「……次の“Caerimonia”までに、何をどれだけ仕上げればいいんだ、っけ……?」 呟くと、眼前に生体コンピュータのヴァーチャルコンソール及びスクリーンが開き、彼女と彼女の属する音楽集団【Deus Ex Machina】のスケジュールを画面の端に映し出した。 それほど遠くないうちに行われる、一般の言葉で言うところのライブコンサートの日取りと、演奏される曲目やそのために必要な機材諸々を思い浮かべたものの、また欠伸が零れて、 「まあ、少しくらい、いいか」 ベヘルは手にした端末を傍らに転がし、コードの海に横たわった。 ――すぐに、眠気の波が意識をさらってゆく。 * * * * * ざくざく、がちゃがちゃ、ざりざり。 歩くたびに耳障りな音がする。 ここはどこ? 判らない。 ぼくは誰? 知らない。 どうしてここにいるの? 覚えていない。 どうして、ぼくには右腕がないんだろう? こっちが教えてほしいくらいだ。 ぼんやりと自問自答を繰り返しながら、右腕のない子どもは――彼女は廃金属とスクラップの山を彷徨っている。 何故、の問いは尽きるところを知らないが、質問者と返答者が同じでは、満足の行く答えなど得られるはずもない。 「ぼく……ぼくは、何だっけ。誰だっけ。何で、何も、覚えていないんだっけ」 自分に問いかけるたび、ちかちかと、記憶の断片が意識の第三領域を明滅する……ような、気がする。しかしそれは、明確なかたちにはならず、泡のように弾けて消えてゆく。 おまえはもうお役ごめんだよ、使えない玩具は要らない、だからサヨナラ、と、誰かが嘲笑ったような錯覚があって、後には、居心地の悪さと、理不尽な薄ら寒さとが残った。 「……ぼくは、どこに行けばいいんだっけ」 恐らく、行くべき場所などないのだろうと半ば確信しつつ呟く。 長い永い時間、どこかで、歪んだ愉しみと目的のために生かされていた。 様々な実験を繰り返され、肉体も精神も変異してしまった。 新しい『玩具』が手に入った造物主に、否、支配者かもしれないし研究者かもしれない、そういった何者かに、彼女は不要と断じられ廃棄されたのだ。ご丁寧に、彼らに不都合な記憶の一切を削除されて。 しかしながらそれは、何も特別なことではなく、この地、遊戯星と他惑星に称される“娯楽と快楽のためだけに生きることが許される星”では、ごくごく普通の、力なきものには誰にでも起こり得る“普通の”不幸にすぎないのだった。 むろんのこと彼女は自分が今いる場所を含め、それらを知覚はしていなかったが、ただ、今の自分に意味も場所もないことだけは茫洋と理解していた。 「ぼく、……ッ」 自問自答の言葉が途切れたのは疲れたからではない。 右腕のない身体はバランスが取れず、均衡を崩してよく転ぶのだ。 それに、廃棄されてから結構時間が経っているようで、肉体の養分も不足している。身体が弱っているのだ。 だから、もう、何回そうやって転んだか判らない。 ただ、痛みより、妙な愉快さがあって、 「あはは、」 少なくとも自分は自由だ、どこで生きても死んでも自分の自由だ、と、それだけ納得したら、笑い声が漏れた。 自分でも、驚いたくらい、自然に笑っていた。 それでスッと意識が落ち着いて、 「うん、……ん?」 立ち上がろうとしたところで、すぐ傍に小さな端末が転がっていることに気づいた。古びた、粗末な端末だったが、不思議と興味を惹かれて左手を伸ばし、指先で触れる。 と、画面がパッと明るくなり、 『助けて』 『どこでもいいからネットにつないで』 簡素な、全時代的なモニタに、言葉と図が表示される。 「……? どういうこと?」 彼女が小首を傾げたのが認識できたかのように、モニタがチカチカと点滅し、 『助けて』 『ネットに』 『どこでもいいから』 『助けて』 そればかりが繰り返し繰り返し表示される。 「……うん、判った、判ったから、落ち着きなよ」 意味があるのかないのか判らなかったが、端末の画面を撫でてやりつつ、ふらふらしながら立ち上がる。どうやらあちこち彷徨った疲労が表面化しているらしく、視界が少々揺らいだが、彼女は気にせず歩き出した。 端末を抱え、必要な設備がある場所を探して移動する。 が、 「う、わッ」 ただでさえ片腕がなく、その上疲労していて平衡感覚が危ういのに、それなりに重量のある端末を抱え、しかもそれを気にしながら歩く所為でしょっちゅう身体のバランスが崩れ、彼女は何度も転ぶ羽目になった。 そのくせ、転ぶたびに端末を庇うものだから、ガラクタに半ばまで埋もれた建物を見つけて中へ入るころには、すっかり傷だらけになっていたが、傷を負うことや痛みにはそれほど恐怖も頓着もなく、ただ端末が無事だったことに安堵するばかりだった。 「ここなら……何とか、なる、かな……?」 とはいえ、すでに、肉体の疲労はピークに達している。 端末を抱えたまま大きな扉を肩で押して中に入り、長い階段を登り終えた辺りで彼女の呼吸は途切れ途切れだったが、内部施設をざっと見渡したところ奥に小端末を接続出来る大端末の存在が見て取れ、気持ちは弾んだ。 「これで……いい、かな……?」 大切に抱えてきた、すでに自分と何かをつなぐよすがのような気さえしている端末を、くもの巣にも似た配線の大端末につないだ、その途端。 ありがトうありがとウありがとう素晴らしき自由バンザイ万歳 部屋全体から響いてきたのは、様々な音を拾いつなぎ合わせた耳障りな合成音と、それから聴いたこともないような奇抜で激しい音楽。 それとともに、ガラクタの墓場のようだった建物に光が灯り、大端末がかすかな振動を立てて動き出した。彼女にも、外部感覚器を通じて、建物全体が生き返ったことが判った。 よしデータの回収完了すっきりした ホントに困ってたんだ動けなくてさ あんな狭い端末とかマジで信じらんない俺のこと馬鹿にしてる ありとあらゆる意味で俺はあんなサイズに収まる器じゃないっていうかまあある種の大器晩成的な ってことで本当にありがとうお礼がしたいな音楽なんてどうかな? 要らない? あっこの曲聴いたことある? お気に入りなんだ! まくし立てられる電子音。 声の調子は単調で、人間的でなかったが、力強いエネルギーとでも言えばいいのだろうか、そこには『生きた』何かが感じられた。彼女はあまり動かない表情筋をどうにか歪めて、笑顔をつくる。微笑ましい、嬉しい気持ちになったからだが、恐らく、引き攣ったような奇妙な笑みに見えたことだろう。 賑やかな音楽が、建物全体を揺らしている。 それに意識まで揺さぶられて、視界が危うい。 「うん、その」 この建物が打ち捨てられた音楽スタジオであることも、流れているのが古いロック音楽であることも、彼女には判らなかったが、ただ、 「……元気になったんだね、よかった」 端末に閉じ込められていた何者かが、本人(いや、人であるのかどうかは、自分が本当に人間なのかすらも判らない彼女にはどうにも伺えなかったが)の望むように新たな場所へ辿り着けたことが喜ばしく、もう一度奇妙な笑みを浮かべたところで、本当の限界が来た。 あれっどうしたの!? おーいねえしっかりしなよ! あっ ねえきみの名前は? ねえ しっかりしなってば! 疲労と空腹――彼女自身は与り知らぬところだったが、廃棄されてすでに十日近くが経っており、その間を飲まず食わずのまま過ごして来ていたのだ――、ほとんど衰弱と呼ぶに相応しいそれのために、彼女は意識を手放す。 「ぼくの、名前……なんだっけ」 そして、意識を激しく揺さぶる――しかし、不快ではない――音楽と、慌てる電子合成音を子守唄のように、深い深い眠りへと落ちてゆく。 ――それが、彼女と、自我を獲得した電子生命体たるAIとの出会いだった。 * * * * * 目を開けるとそこはまた、生命のない虚ろな蒼い海。 「――……」 幾つもの光る泡が、ふわふわと天井付近で揺れている。 ベヘルは何度か瞬きをして、上半身を起こした。 音を操る設備を携えた右腕が目に入り、かすかに安堵する。 ――あのAI、今や大事な友人である電子生命体との出会いが彼女の運命を決めた。 助け、助けられて生きて来た。 互いを認め、互いを必要としながら。 AIあってこそのベヘルであり、ベヘルあってこそのAIだった。 それは、今も変わらない。 そこでふと、違和感に気づき、 「……“Somnium”? ソム、いないのかい」 愛称とでも言うべき、夢想・幻想を意味する、彼女と相棒の間だけで通用する名を呼ぶが、返事はなかった。電子の海を気持ちよく漂っているか、『くもの巣』を伝ってどこかへ出かけているのだろう。 「“Caerimonia”も近いし気合い入れなきゃとか言ってたの、あいつじゃなかったっけ……まあ、いいか」 常に喋っているか音楽を鳴り響かせているか、の騒がしい友人がいないと、『穴倉』は妙にシンとして本当に深海のようだ。 そんな中で、たまに浸る感傷は悪くない。 「とりあえず、仕事仕事」 これが終わったら無重力カフェにでも遊びに行こう、などと思いつつ、ベヘルは作曲及び音響機器いじりを再開するのだった。
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