「おお……!」 感嘆の声を上げたカンタレラを、クージョン・アルパークはいつも通りの笑みで見守っている。 木々に囲まれているこの場所は、ともすれば鬱蒼と生い茂るくらき森といっても差し支えがない筈だが、空は澄み渡り陽光が差し込み、程良く日陰になっている。 足下は青々とした草と舗装されてはいるが管理はされていない、おざなりな歩道だ。 急な訪れだったから、カンタレラの格好はフラメンコドレスとハイヒールのままだが彼女は一向に気にせず、裾が草に触れるのも躊躇わずに先を進む。 ※ 少しばかり前。 二人は0世界の一角にありチェンバーでのんびりとお茶を飲んでいた。 クージョン行きつけの店のようで、目新しさにきょろきょろとするカンタレラとは対照的に慣れた様子で店員に注文を出す。 ややあって運ばれてきたティーセットは、香りの芳醇さとカップの造形の優雅さが見事にマッチしていた。 『美味しいのである!』 『うん、そうだね。君の口にあって良かった』 どこかほっとした口調のクージョンに気付かず、ご機嫌でカンタレラは紅茶とスコーンを頬張る。 いくらロストナンバーといえども、クージョンより年上には見えない。 『ほら、ここ。スコーンがついてるよ』 優しい笑みのまま、カンタレラの頬を紙ナプキンで優しく拭う。 『う、うむ。すま、いや、ありがとう、なのだ』 少しばかり頬を染めて、カンタレラは礼を言う。 こういう時は、なんとなく「すまない」より「ありがとう」が相応しい気がした。それが何となく気恥ずかしくてクージョンの顔を真正面から見られない。 そんなカンタレラの微妙なオトメゴコロが伝わっているのかいないのか、彼はカンタレラの柔らかい髪を一撫でして、席に戻る。 クージョンとともにいると心が安らぐ。ざわめくことも多いが、そのざわめきは嫌いではない。歓迎すべきものだ。 こんな安らぎは初めてだ。 ――。 ヴン、と目の前の愛おしい相手がブレる。目眩ではない。心が、脳が、魂の根幹が揺さぶられる。 大切な何かを忘れて思い出せない、あの中途半端に引っかかっている居心地の悪さ。 第一安らぎを感じるのは初めてではないはずだ。比較するわけではないが、覚醒前にも間違いなく安らぎを感じていたはずなのに。 『大丈夫?』 はっと意識を戻せば、クージョンが小首を傾げてカンタレラを見守っている。 『う、うむ。大丈夫……なのだ』 自分でも持て余す、時々訪れるこの妙な違和感。だが彼にあまり心配をかけたくない。それにあの不安定さもクージョンの声を聞けばきれいに消えるのだから。 『君はすぐ我慢ばかりするからね』 『そ……そんなことは……』 『あるでしょう』 『むぅ』 多少の自覚はあるから、指摘されれば、しかも相手が相手だけに強く否定もできない。 『本当に大丈夫ならいいけど。これから少し依頼をこなしてくるから。一人かもしれないけど、体調には気をつけるんだよ』 『司書からのであるか?』 『ああ、そうだよ』 どんな世界か聞いてみた。 雄大な大地と光あふれる森、清らかな湖と爽やかな風。そんな恵まれた場所らしい。聞いた途端、カンタレラの瞳が輝き始める。 全身で「一緒に行きたいのだ!」と訴えている。こうなってはもうなかなか折れてはくれない。折れたとしても、クージョンの心が痛むほど彼女は無意識にしょんぼりと落ち込んでしまうのだろう。勿論、クージョンがだめだよと言えば諦めるだろうが―― ※ 結局カンタレラは世界司書から(些か強引に)チケットを奪い取り、クージョンに同行した。気が弱そうな世界司書は、困りますぅぅぅ、と嘆いていたが、クージョンは笑って流した。 ロストレイルに乗ってたどり着いた先は、カンタレラの予想以上に圧倒的な風景だった。 0世界も過ごしやすいが、あの場所にはない、大地のにおいがする。 空と大地の境目を地平線だよ、とクージョンが指し示す。 青と緑がきれいに区切られていて、それなのに解け合っているように見える。 初めて見る地平線に見入るカンタレラを、クージョンはしばらく好きにさせておいた。急ぐ依頼でも無かったし、彼女の横顔を見続けているのも悪くない。 「……は。すまないのだ、つい」 「気にしないで。私も楽しませてもらったから」 「なにを楽しんだのだ?」 「秘密」 ハテナをいっぱい浮かべたままのカンタレラの背を押し、森へと向かう。 ※ 森の中はカンタレラにとって本来は鬼門である。 薄々と本人も気付いているかもしれないが、彼女は天然素材の方向音痴なのである。 自信満々で道を進んで正反対の場所にたどり着けばまだいい方で、概ね斜め上にねじ曲がった場所にたどり着く。 この森は幸か不幸か、長い間放置されたいたから荒れてはいるが、かつては丁寧に整備された道であったらしい。いくつもの道が延びているが、案内標識の残骸が分かれ道ごとに立てられている。 穴が開いているもの、焼かれているもの、古びて木そのものが朽ち果てているもの。形は様々だった。 クージョンは世界司書から預かったらしい地図をしばらく見ていたが、すっと鞄の中にしまう。 「見なくても大丈夫であるか」 「うん。もう覚えたからね」 「な、なん……だと……」 一度で地図を覚えるなど、カンタレラにとっては人間業ではない。畏怖と尊敬が絶妙にブレンドされた視線でクージョンを見つめる。 「くっ、カンタレラも、地図見たら行けるのだ!」 「そうなの?」 「あっ、当たり前である!」 「そっか。じゃあ、お願いしようかな」 仕舞った地図を再び取り出し、カンタレラに手渡す。変な対抗意識と勢いだけで言ってしまったが、こうなると彼女としても引っ込みがつかない。 「任せておくのである!」 さして大きくはない地図を広げる。本当は今地図上で今どこにいるかも定かではない。 「うん、頼むね。……あ、カンタレラ」 「なんであるか? ついてくるといいのである」 「そうなんだけどね。とりあえず、その地図」 「うむ」 「逆に持った方が上下合うと思うよ」 ※※※ 地図を逆さまに持つというベッタベタなボケをかましたカンタレラであったが、なんと奇跡的に、正しい道を進んでいた。 ずんずんと進むカンタレラの少し後ろを、まるで見守るようにクージョンが歩いていく。 「次は……こちらである!」 「あ。その前にカンタレラ、ほら。こっちに鳥が居る。見てごらん」 「ん? おおっ、本当である」 見上げた木の枝には、可愛らしいサイズの鮮やかな色をした小鳥が、美しい声でさえずっている。森に反響して耳に心地よく入ってくる。二人を見ても飛び立たないのは、ひとに慣れているためか、一度もひとを見たことがないからか。 「えぇっと。道は……」 「うん。こちら側だね。大丈夫だよ」 迷わない奇跡のトリックは、進むべき道ではない方を選択をしそうになった時にクージョンが正しい道をごまかしながら選ばせていたからだった。 間違っていると指摘するのは簡単だけど、折角二人できたのだから、少しでも楽しんでくれるた方がいい。 これまでに、路傍の花、ウサギ、キツネ、熊、と色々見られたから、これはこれで楽しくはあるのだ。 見ていて飽きない。 ―なにが、とはあえて言明せず。 まあカンタレラが楽しそうなのは、いいことだ。 ※ 森の最奥。 といっても、すぐ近くは海であり、相変わらず風の通りはいい。先ほどまでと違うのは風に潮のかおりが混じっていることだ。 そしてその場所には、廃墟と化した教会が残っていた。 こんな森の外れにある小さな教会ですら戦火に巻き込まれたのだろうか。 かたちは保っているものの、天井は崩れ落ち、正面の扉はかしがっている。 「昔は孤児院でもあったそうだよ」 ちからをだいぶ込めて、扉に手をかける。カンタレラも手伝おうとしたが、その前に何とかひと一人が入れそうな分ほどはこじ開けられた。 もうもうと埃が立ちこめている……かと思われたが、床に多少積もってはいるものの、外観からくるイメージほどは無い。 海から吹く潮風に舞ってしまっているのだろう。 天井がないから太陽の光もよく届く。色褪せたステンドグラスに光が反射しほんのわずかに輝く。 ―あなた方は? 突然の声に、反射的にカンタレラはクージョンを背に庇う。 「私たちは依頼されてオルガンを直しに来たんです。どうも連絡が行き違いになったみたいで。すみません」 ぼんやりとした存在に向かって、クージョンは丁寧に返答する。 ―ああ、そうなのですね。いつ頃からか音が悪くなってしまって。ありがとうございます。 そのオルガンはすっかり色褪せてしまっていたが、試しに鍵盤を叩いてみたら、調律はすっかり狂っていたが、ちゃんと音は出た。 「今直しますから、少しお待ち下さい」 このぼんやりとした男が何者なのか、カンタレラは全く判らなかった。格好からして壱番世界の牧師に似ている。 ちゃんと聞いておけば良かったと少しばかり後悔する。そういえばこの世界の土地に関することだけしか聞いていなかった、と思い出す。しかし今聞くのは良くない、というのも理解している。 終わった後に尋ねればいいだけだ。 ―子供たちは、逃げ切れたのでしょうか。 ぼんやりとした牧師に尋ねられたが、カンタレラには答えようがない。 「すまないのだ。カンタレラには判らない。クージョン……あの人なら聞いているかもしれないのだ」 隠しようもないから、自分で答えられる範囲で伝える。 ―そうですか。……無事だと良いのですが。 オルガンの修理にはもう少し時間がかかりそうだったから、カンタレラは周りに茂る植物について牧師に教えて貰っていた。彼は付近のものだけでなく、道中見つけた植物にも詳しかった。 どれほどか経って、ポーンと高い音がした。 「直りましたよ」 ―ああ……ありがとうございます。これで、また……。 「試しに一曲引いてみましょうか。そうだ、カンタレラ、併せて歌ってくれるかな」 「うむ」 クージョンが軽やかにオルガンを弾き始める。 以前教えて貰った、壱番世界の神を讃える歌だという。 素晴らしき恩寵というこの唄はこの場所には相応しいものなのかもしれない。 調律し直したオルガンは予想以上に良く響き、カンタレラの歌声がそれに乗って教会全体を包む。 その旋律と歌声に抱かれた牧師は、祈りを捧げるような穏やかな表情でゆっくり、ゆっくりと光の粒子となって空へと向かっていく。 完全にその光が無くなり、丁度曲が終わる。 つい先程までそこにいて、カンタレラに植物について講義をしてくれていた存在が消えてしまったというのは、何ともいえない喪失感がある。 「今回の依頼はね」 優しくオルガンの蓋を閉めながら、クージョンは牧師が立っていた場所を見つめる。 「この教会で戦火に巻き込まれて亡くなったまま彷徨っている牧師を天に導くことだったんだ」 風が空へと吹く。 「昔あった戦争で、敗残兵を匿った事でこの教会は巻き込まれたらしい。子供達と敗残兵を逃がすことには成功したみたいだけど、牧師だけ逃げ遅れたみたいでね。亡くなった事に本人も気付かなかったから、随分長い間ここで彷徨っていたんだ」 「心配していたのだ。子供達は逃げ切れたのかと」 「心残りだったんだね」 どうなったのか世界司書から聞いていないのか、明言してくれないことに少しだけ治おさまりが悪いが、あまり深くは考えないことにした。 聞いていないだけかもしれないし、最悪の事態だったとしても今更どうしようもない。 ※ 「……時間までまだあるね。少し、歩こうか」 すっと差し出された手を、繋ぐためだと理解するのに暫くかかる。 思い切ってぎゅっと握ってみると、思いのほか無骨な感触とひんやりとしたぬくもりが伝わる。 「さっき教えて貰ったのだ。このあたりの植物について」 「そうなんだね。私にも教えてくれるかな」 海の近くにまで来ているのだからと、海に続く道をのんびり歩く。 道中の草花や木々を、牧師に教えて貰った通りにクージョンに伝える。この森が豊かなのは季節が温暖だからということもあるようで、それ以外にも日照具合等にも詳しかった。学者肌の男だったのかもしれない。 森から抜けると、少しばかりの平地と砂地、そして雄大な海が見える。 先程よりもずっと強い潮のかおりが流れ込んでくる。 「海なのだ!」 カンタレラの故郷の世界にも広大な海はあったが、覚醒して以来、なかなか海を見る機会には恵まれなかった。海も嫌いではない。 軽やかに砂地に駆け下り、ハイヒールを脱ぎドレスの裾をまくって海に少しだけ足を浸す。 海水を蹴り上げると水飛沫が太陽の光を受けて輝いてまた海に戻る。 沢山歩いたから、自覚が無くとも思いのほか足に疲労が蓄積していたようで、冷えた海水が心地よい。 振り返ると、平地と砂地の境目でクージョンがカンタレラを見守っていてくれた。 それがとても嬉しい。 ひとしきり海水で遊んで満足し、クージョンの下へと駆け寄る。 「冷たくなかった?」 「丁度良いのである」 クージョンと、その後ろにある緑豊かな森を見ると懐かしくなる。 「……主の」 「うん?」 「主の家も、こんな森の近くにあったのだ」 ある日突然いなくなってしまった主のレシェフ。感謝の言葉が綴られていようとも、いきなり居なくなられては困惑するし、絶望する。 主としての尊敬と、女性としての愛を捧げた相手だ。あの時の感情は間違っていないはずだ。 それなのに。 ヴン、とまた意識がブレる。 主を思い出すと、不可思議な感覚が襲ってくる。 薄暗い中、足下だけがぽっかりと空いて、その中は真っ暗闇だ。それなに自分は落ちもせずに立っていられる。 けれどしっかりと立てているわけではなく、ゆらゆらと不安定な足場に無理矢理立たせられているような、そんな感覚。 焦ってもがいてその場から逃れようとしても足は進まない。 ――レシェフ様、レシェフ様、レシェフ様――! 主の名を叫んだところで、救いの手はこない。 違和感のもとは、そこなのだと思う。 カンタレラの記憶にある主であれば、呼び声には必ず答えてくれるはずだ。 覚醒して、クージョンに、他の親しい友人たちに出会う前は不安に駆られて主を思いだそうとした。 したのだが、どうしても違和感が拭えない。 記憶の中の主の像がブレる。 その差を追求しようと記憶を呼び起こすと目眩や頭痛が酷くなる。 「大丈夫?」 優しい声色に揺り起こされる。 顔を上げると、心配そうなクージョンの顔がある。 そう、この声を聞けば、この人の姿を見れば大丈夫。 腕をクージョンの背中に回し、顔を肩に預ける。 「……大丈夫なのだ」 落ち着いた声だから、彼もそれが無理に出した言葉ではないことが判るから、カンタレラの背中に手を回す。 ※ 海岸べりにある大きな木の根元で、二人は寄り添っている。 クージョンは座って本を読んでいる。 カンタレラはそんな彼の膝に頭を寄せてぐっすりと眠っている。 暖かなな日差しが二人を照らす。 クージョンはカンタレラの豊かで艶やかな銀色の髪を撫でる。 幼子の様に安心しきって眠っている姿はほんの少し複雑な気持ちになる。 けれどこの穏やかな時間の賜物なのだから、天秤が喜びに傾く。 さやさやと髪を揺らす程度の風が絶え間なく流れている。 「いい日だ」
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