「どうなさいましたか?」 あなたは店の中にいた、しかしどうやってここまで来たのかは覚えていない。 直前の記憶を引き出すもどこを歩いていたのか、どこかに居たかさえも曖昧で、夢から目を覚ましたかのように、或いは夢の世界に来たのかと錯覚する程にぼやけながらもはっきりとした思考で立ちつくしている。「もし興味があればこちらに座っては如何でしょうか?幾分か体は楽になるかと思いますよ」 声は店の奥から聞こえる。僅かに目をこらせばランプの光の奥に、焦げ茶色のカウンターの奥に人影が見えた。その手前にはランプの光でぼんやりと輝く鼈甲色の椅子が見える。 あなたはふと振り返る。19世紀を模した0世界では一般的な硝子扉、半開きになっている扉の裏側から華美に見えない程度の飾り文字で『忘れ屋』が見えた。改めて周囲を見渡せば,そこには大量の硝子細工が左右戸棚飾り棚にと所狭しに置かれていた。「ようこそ『忘れ屋』へ、私はこの店を預かるアーティナと申します」 奥には1人の女性が座っていた。声音は少し低め、深海にも似た海色のドレスを纏い、手足も顔も同色のレースに覆われているため髪の毛1本も見えず、立ち上がった体の線だけ見れば成熟期に入った女性にも見える。「この『忘れ屋』という店はお客様の記憶を分離する……つまり記憶をお客様の身体から別けて『なくす』お店でございます。『なくす』と言いましても記憶の存在自体が無くなる訳ではありません。別けた記憶はこちらで硝子細工に変えまして、もし戻したいと思えばその細工を割れば記憶は全て戻ります」 改めて壁の硝子細工を見渡せば、宝石のように複雑なカットが施された人物像から鉱物のように無骨に切り取った風景彫りなど、多種多様の人間が思い思いに創ったかのように数多の細工が並んでいた。「この店の硝子細工は全て、訪れたお客様方が置いて往かれた記憶です。触っても構いませんが決して割らないで下さい、他人が壊すとその壊した方にも記憶が焼き付いてしまいますからどうか御気をつけて」 淹れたてのアッサムティとパウンドケーキを目の前に出し、座られたのを確認してから彼女も元いた席に座る。「さて……こちらに来られたという事は、お客様は何か忘れたい記憶が有るのでしょうか?いえ、無くても構いません。時折忘れたくなくとも来てしまうお客様はいらっしゃいますので。ですが先に言った通り、この店はお客様の記憶を身体からなくすお店でございます。別ければ細工を割るまで記憶が戻ることは無く、欠けた記憶によってはその方の性格に大きな変調をきたすかもしれません。場合によっては加工を断ることもありますが、お客様の方でも不都合があれば途中でも断って下さって構いません」 あなたはこの話をどう感じたのだろうか。そんな事ができるのか?何かのきっかけで思い出さないのか?本当に途中で止められるのか?などその人なりの疑念や感想はあるのだろう。「ですがもし、本当に忘れたい、誰かに知られたくない記憶が有るのでしたらどうか私に語っては頂けませんか?ここは記憶を司る店であり、その記憶を預かるために『忘れ屋』は在りますから」 しかし正面に座る女主人には表情は見えなくとも嘘を言っているようには見えない。 そしてここが壱番世界の常識の及ばない超常が存在する0世界だからこそ、それは嘘でないとあなたは感じる。 さて、あなたは記憶を消せるとしたら何を語るのだろうか? 少なくともこの世界、この店はあなたの記憶を別ける為に今は存在している
―――忘れたい記憶というものは人それぞれでございます。十人十色の人から、更にその一部の記憶を貰うのですから、その組み合わせは那由他を超えた数知れぬものでございます。故に似たような事が有っても同じものは何一つ無く、別ける記憶も様々です。その中でも唯一共通点を上げるとするなら……今の自分では叶わない、解決できないから来る、という動機でしょうか。 えぇ、お客様もそんな動機をもってこちらへいらっしゃったのですよ。その時のお客様は元居た世界の記憶、残した仕事内容の分別を望んでいました。 『それでは今回の記憶はお客様が預かるはずだった方々の履歴簿で宜しいでしょうか』 『はい、また元の世界に戻るまで封印して欲しいと思っております』 この仕事ではよくある系統です。お客様のように元居た場所を誇り、帰れぬゆえに思い煩う方は結構いらっしゃいますからおかしくはないのですよ。 『分かりました、まずはその履歴簿の内容を教えていただけないでしょうか?』 『はい、よろしくお願いします。では記憶の内容ですが最初にその人の名前と生没年から始まります。その後は……』 そうそう履歴簿というのは便宜上の言葉で、中身はお客様が預かった死者の方々の記憶にございます。既にご存知でしょうし、せっかく別けたものにあまり興味が沸かないように、詳しいお話はぼかしておきます。 『これを合計で391人。死者によっては少し項目が増減しますが、可能な限り封印してくださいませんか……あ、あの、アーティナさん?』 『……申し訳ありません、お客様はここ数日のご予定はいかがでしょうか』 えぇ、ここでお客様の疑問に答えられます。実は1日では流石に無理でしたので3日間、お客様にはこちらへ通って頂きました。記憶を別ける際に3日分の記憶も消してしまったため後々戸惑われたと思いますが、最初に話した通りお客様は記憶を別ける為にここにいらっしゃったのですよ。本当にご苦労様です。さて、そろそろ続きと参りましょう。 『蔡白兎 雨刻暦 五三三年生 五九六年没 齢零 蔡月剣と包橘花の間に生れる 第一男子……』 そこから3日間はお客様が語る言葉を私が記憶として紡ぎ、抜いてゆく作業になりました。しかし何分量のある依頼でしたので、一応この話の合間もその記憶の分離に穴が無いか思い馳せて頂けると有り難く思います。 『お客様』 『どうしましたか?』 『この「蔡白兎」さんの悪行をご存知でしょうか』 勿論私も何度か確認を取らせて頂きましたが、その時こんな事がございました。 『蔡白兎さんは……「齢十四 餌を誤り家畜を殺す 齢四十二 税を不当に上げる」』 『ではその善行は』 『………………』 それは最初にお客様への記憶の分別の確認と、理解を示してもらうための質問でした。常ならば驚かれながらも技術をより信頼して頂いて、すぐ作業に戻るところですが。 『「齢十五 隣家の火事を知らせ延焼を防ぐ」等がありますがちゃんと別けれたようですね。突然質……お客様?』 『……本当に、記憶が無くなるんですね。一度覚えたことを忘れるなんて今まで無くて、初めてですから』 私が思う以上に『忘れた』という事実がお客様には堪えていらしたと思います。 『無理でしたらこの辺りで仕舞いましょうか。それとも中断してこれまでの記憶も戻した方が宜しいのでしょうか?』 『いえ、そのまま続けてください。この記憶は本来冥府に来た死者の方々の経歴を確認するだけではなく、事情を汲み、生前に果たせなかった思いを聴くために預かった大切な記憶です。残念ながら今の私では書記官としての責務を全うできません』 私の仕事は記憶を別ける事であって、無くすことではなく忘れるだけと。別けた記憶はガラス細工に入れるだけで、割ればすぐに記憶が戻る仮初のものでございます。 『冥府の一員として対応できないばかりか、何もできずに死者の記憶を預かり続けるのは職務の放棄、いえ、それ以上に死者の方々への不実になります』 聞けばお客様は冥府の一柱、忘れることが困難なほどに深い記憶力をもって、死者の方々に接してきたと聴きました。 『不実、ですか。お客様は責務を果たすためにも今記憶を別けている最中ですが、これはただの仮初の技でございますよ』 誇れるほどに優れた記憶力を離されたとはいえ、簡単に忘れてしまったことで、お客様を不安にさせたと思い、その時は誤解を解きたいと思いました。 『そんな、むしろすごい技術です。思い出せないばかりか、本当に、そもそも在ったのかさえも分からなくなりましたから』 『ですが例えお客様が忘れたとしても、お客様が関わった事実が消えるわけではありません。聞く限りのお客様の情報収集にはどんな相手にさえ些細なことも見逃さず、多くを理解しようと数多を記憶する姿勢は称賛に値致します』 「そんなことはありませんよ。むしろ、今ではそれもできません」 『でもそれだけの数の死者を見て、その死者の為に行動をなさったのでしょう』 「……はい」 『お客様が元居た世界を忘れない限り、お客様は忘れられませんよ』 「そして、こうして別けた記憶を加工したものがこちらになります」 「これが、私の記憶なのですね」 「はい、こちらはムクロジの実でしょうか。ソープナッツで有名でしょうけど、実は108の煩悩を払い功徳を積むための数珠の材料にも使われます」 全ての話が終わり、もらった籠の中を樹菓が覘けば、原寸大の枝付き木の実が入っていた。勿論中身はガラス細工であり、枝葉には無い光沢を放っているが、梨色の皮に頭が少し膨らんだ丸い実だけはその凹凸のお陰か光沢は抑えられ、光を遮れば本物にもよく似ていた。しかしガラス細工を見つめていると懐かしくも後ろ髪を引かれるような感覚を彼女だけが感じていた。 「それではこの記憶の方ですが、こちらで預かることもできますがいかがいたしますか?」 「お気遣いありがとうございます。ですが形が変わってもこれは預かった大切な記憶ですので、自分のチェンバーで管理したいと思います」 「分かりました、それではどうかお気をつけて」 「ありがとうございます、それでは失礼します」 一例をした後、持った荷物を落とさぬよう、細工にひびが入らぬようにと樹菓は出口へ向かう。決して振りかえることなくあっさりと、前を見て彼女は部屋を発つ。 そして見届けた主人はまた席に座る。創った記憶がこの後どうなるかは知る由もない、ただその細工は客人の助けになれたかと思いを馳せながら、紅茶を飲まずそのまままどろみに入った。 【END】
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