万象の果実の名を冠する異世界、シャンヴァラーラには、今日も異世界人が訪れている。 ここ数か月で何かあったのか、世界統一に向けて邁進するシャンヴァラーラ最大の【箱庭】、至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレの動きが鈍化し、世界は小康状態を保っているように見える。 そのため、帝国にも、華望月の中心ヒノモトにも、竜涯郷にも、そのほかの【箱庭】にも、観光や交流目的の旅人たちがちらほらと見受けられた。 それら【箱庭】のひとつ、『電気羊の欠伸』にも、旅人の姿はあった。ここは、奇妙で多様な無機生命の織り成す、不可解でありながら美しい世界だ。物見遊山にはもってこいと言える。 その、『電気羊』の一角で、「……ロウ・アルジェントと連絡が取れない?」 黒羊の化身にして【箱庭】の番人、夢守のひとり一衛(イチエ)を前に、首を傾げるものがいる。「那ツ森(なつもり)アソカが、そう言っていた……? 何かあったんだろうか、帝国に。表面上は穏やかな日常が続いていると聞くけれど」 疑念に答えられるものはいない。 白羊の化身、十雷(トオカミ)が、人間臭い仕草で肩をすくめる。「ルーメンの力が増して、こちらから帝国の様子をうかがうことは難しい。どうにか読み取れたのは、軍部に奇妙な動きがある、程度のことだ」「軍部? クーデターとか……いや、まさかな」 皇帝に絶対の忠誠を誓う軍が、反旗を翻すことは考えづらい。しかも、都市そのものに不穏な空気は感じられないのだ。 しかし、皇帝の側近であり護衛である、元ロストナンバーと連絡が取れないのも、奇妙な――やけに不安をあおる出来事だ。不穏な出来事には事欠かない時勢だけに。「帝国のことは、オレたちも注視しておく。一柱の神の台頭は、世界のバランスという意味でも、あまりいいことじゃないからな」 それよりも、と十雷が切り出したのは、「すでに聴いているかもしれないが、今回、あんたたちを呼んだのは、ゼロ領域の夢守が生まれたからなんだ」 どことなく喜ばしげな内容だった。「ゼロ領域は、黒から白まで、十のすべての羊が自分たちの力を混ぜ合わせてつくった。そこはすべてにおいて自由で、すべてにおいて許されており、そしてすべてからはぐれて孤独な、すべてでありなにものでもない場所だ」 なぜ羊たちがそこをつくったのか、十雷は語らなかったが、「ゼロ領域の化身は長く不在だった。なにせ、『全であり無』たる領域だ、その化身の創造には強い力が要る。なにより、今まではそれほどの必要性もなかった」「それが、なぜ、急に?」「……『電気羊の欠伸』全体のバランスを鑑みて、羊たちが決めた。そうとしか言えないが」 少なくとも、新しい夢守が唐突に誕生したことには、快活な十雷が言葉を濁す程度の事情が含まれているようだった。「それで……その、新しい夢守は、どこに?」「アレグリアのどこかにいるみたいだな。あそこが、彼の守護領域の中心ってことになるから」 初めて聞く名称に、ぱらぱらと疑問の声が上がる。 それには、一衛の静かな声が答えた。「再誕都市アレグリア。わずか二千年ほど前、羊たちに生み出され、たゆたう、喪われた魂の集う場所だ」 アレグリアはゼロ階層の真ん中、空を模した空間に浮かぶ空中都市なのだそうだ。壱番世界の中世ヨーロッパを思わせる、美しく彩り豊かなそこには、機械で出来た身体を持つ人々、いわゆるロボットたちが住んでいる。 外見も形状も多様なロボットたちには心があり、感情が、魂があって、ものを食べたり飲んだりすることもできるし、眠ることも遊ぶことも愛し合うこともできるといい、つまるところアレグリアでは人間と何ら変わりのない日常が営まれているのだという。「彼らは都市によって生み出され、ある日突然、街のどこかに現れる。だが、そのままでは、彼らはただの、行動をプログラムされた金属にすぎない」 生まれたての彼らは、空をずっと眺めているだけだ。 その金属の眼には、空以外の何も映らない。「だが、ある日突然、『それ』は訪れる」「それ?」「覚醒、私たちは誕生とも呼んでいる」 アレグリアの夜には、空を裂き、星が降る日がある。 その、星のどれかがロボットに堕ちるとそれは起きる。 彼らの中に、忽然と心が生まれるのだ。アレグリアに降る星とは、煌めきながら注ぐ魂のかけらなのである。 ゼロ領域は、その特性ゆえに、魂や精神を司る黒羊の領域よりも曖昧模糊としたものを集めやすいのだという。「……シャンヴァラーラだけではない、ありとあらゆる世界で喪われた魂のかけらが、あそこに迷い込み、彼らの一体に宿る。そうして、彼らは目覚める。ヒトとして、再び生きるために」 非業の死を遂げたもの、天寿をまっとうできなかったもの、激しい悲嘆、狂おしい苦悩、無念、心残り、後悔を抱いて死んだもの。 そういう魂が多いようだ。 しかし、平穏に生きて幸いのまま眠りに就いたものの再誕が皆無というわけでもないらしい。ただもう一度逢いたかった、そんな可愛らしい思いを抱いて再び生まれ、二度目の出会いを果たしたものたちもいるのだそうだ。 そして、それら目覚めたものたちの心や記憶は、生前そのものではないのだという。「かけらだからなのか、『新しく生まれた』からなのか、それとも、『忘れたほうが幸せなこともある』から、かな。オレたちは、忘れることが出来ない存在だから、よくは判らないが」 彼らの大半は新しい生を甘受して、自分がロボットであることと、自分に心があることの双方を受け入れ、アレグリアでの営みを――引いては、『電気羊』やシャンヴァラーラとのかかわりを愉しみ、幸いを謳歌している。 しかし、中には、前の世で抱いていた哀しみに囚われたまま――もしくは、哀しみを抱いたまま再び生まれてしまった苦悩を嘆いて――、涙し続けるロボットも、いるのだという。「アレグリアは美しいまちだ。この、『電気羊の欠伸』にはない文化、営みが、彩り豊かに共存している。人々は大半において友好的だ、『外』からの旅人は歓迎されるだろう」 再誕のまちアレグリア観光を勧めてから、白の夢守はひとつ、頼みごとをした。「新しい夢守は、名を零和(レイハ)という。もしよかったら、まちを散策しながら彼にいろいろなことを教えてやってくれないか」「いろいろなこと、とは?」「――彼が、ゼロ領域の守護者として、命を、心を愛し、護るために戦えるように」 十雷の言葉には、祈りにも似た何かがある。 旅人たちが同意すると、彼らの前に、蓮花を模した台座のような、仏教芸術を思わせる優美な乗り物が現れた。これで、現地まで、もしくは行きたいところまで運んでくれるらしい。「ほかにも、何かやりたいことや知りたいことがあったら言ってくれ。オレたち以外の夢守や羊に用がある場合でも構わない。ゼロ領域は、『電気羊』すべてに通じているから、呼ばれればすぐに対応できるだろう」 そういって、十雷は装置を起動させる。 蓮花の移動装置は、シャボンのような膜をまとうと同時にふわりと舞い上がり、くるくるまわってから一直線に飛び始めた。 * * * アレグリアは、中世ヨーロッパを思わせる街並みに、時おり不思議な建物やオブジェが混じった、決して整然とはしていないが美しく温かみのあるまちだった。おとぎ話のような、という言葉がこれほどしっくりくるまちもあるまい。「ドイツにさ、ローテンブルクってあるじゃない、中世の宝石って呼ばれてる。あんな感じだな」 まちをゆくのは、姿かたちも多様な『ロボット』たちだ。 明らかに機械と判る身体のものから、アンドロイドやガイノイドと呼ばれるような、ぱっと見ただけではそれと気づけないようなものまで、驚くほどいろいろな人々がいて、ここはまさに人種のるつぼだった。「実を言うと、最初に、都市によってつくりだされ生れ落ちた時、彼らの姿はほとんど同じなんだ。それが、魂を得て日々を営むうちに、少しずつ変わってゆく。ヒトも、そうやって、自分の顔やからだをつくっていくんだろう? それと、同じことなんだろうな」 ツアーガイドを買って出た十雷が、そんな説明をしてくれる。 彼に案内されるまま、食べ物や雑貨や衣服などを商う店や、可愛らしいカフェやレトロな食堂などの連なる通りを、行き過ぎる人々とあいさつを交わしながら歩く。 露店で売っている果物をひとつ、買い求めて齧れば、異国のまちを歩く観光気分を満喫できる。 通りを歩く住民たちは、皆、活き活きと楽しげだ。 どこかで時おり喧嘩の声も聞こえるが、それをいさめる声も聴かれる。 確かに生命でありながら、どこか異質で理解の及びにくい、他領域の住民、生物たちとは、明らかに一線を画した『在りかた』が、ここにはあった。「オレたちには世界の真意は判らんが、すべての事象に意味があるなら、これもまた何かのためなんだろうな。――ん、あそこだ」 零和は、まちの真ん中にある噴水広場の片隅に佇んでいた。 夢守が共通して持つ、楔に似た不思議な形状の瞳孔のある黒眼と、光の加減で十色に変わる、オパールに似た色合いの髪をした細身の青年だ。「……零和?」 旅人が声をかけると、青年は二度三度と瞬きをし、それから頷いた。 理知的な、穏やかな風貌の、人間で言えば二十代半ば程度に見える青年だが、その眼差しはまだ茫洋としている。「彼女はなぜ泣いているんだろう。……泣くって、どういうことなんだろう?」 零和の視線の先には、噴水公園の隅、木製のベンチに腰かけてうつむく娘の姿がある。 機械的な部分の見受けられない、精巧なガイノイドと称するのがふさわしいだろう彼女の、白い頬を、透明な雫が伝い続けている。零和は、それをじっと見つめていた。「なぜ泣いているのか、尋ねたのか?」 『兄』たる十雷の問いに、零和はおっとりと頷いた。「だけど……判らなくて」「彼女は、なんて?」「心はもう要らない、要らなかった。ただあの美しいものを、もう一度確かめたかっただけだったのに、って。――僕には、その意味が判らない。だから、彼女の涙を止めることも、出来ないんだ」 心って何なんだろう? 零和は頑是なく首を傾げる。 十雷は小さく肩をすくめ、「我らが末の弟は、『心』というものが気になってしかたないらしい。――ああ、そうだ、我ら夢守も、最初から完成されているわけではないんだ。特に零和は、『特別製』だから」 何かしらの含みとともに言って、旅人たちを見やる。「彼女の名前は雨鈴(アメスズ)といったはずだ。以前の記憶の大半は失われているようで、どこの、どんな魂のかけらが迷い込んだのか、我々にも判らない。ただ、心は要らないと泣きながら、もう一度確かめたかったと希う、それが判れば出来ることはあるんじゃないかと」 言葉が継がれる。「あんたたちは、オレよりもはるかに、確かに『ソレ』を知っているだろう。アレグリア観光のついでで構わない、もしもよければ、あいつに、『ソレ』の何たるかを教えてやってくれないか。そして、もし出来るなら、彼女の涙を止めてやってくれ」 気になってしかたないらしく、零和は彼女の腰かけるベンチの、反対側の隅に座り、雨鈴を見つめている。それはまるで、幼い少年少女の、他愛なく可愛らしい出会いのようでもあった。 ――見れば、どこか懐かしいような、知っているような気がする顔のロボットが、旅人たちの傍らを行き過ぎていく。アレグリアを歩けば、あの日喪い、もう二度とは会えぬと思っていた誰かと、すれ違うことがあるかもしれない。 そして、再び生まれたその人は、笑っているのかもしれないし、雨鈴と同じように、何かを嘆いているのかもしれない。「世界の多様性こそ創世二柱の願い。だとすれば、あんたたちがここで『誰か』と出会うのも、世界が求めていることなんだろう」 だから、と、白の夢守は旅人たちの背を押す。 すべてにおいて自由であれ、と。 何よりここは、すべてであってなにものでもない、全と無の交錯する領域なのだから。 ――そうして彼らはめいめいに動き始める。 それぞれの思いとともに。 * * * 一衛は、旅人たちを見送ったあとも、感覚器を広げて『電気羊の欠伸』を見ていた。 黒から白、そしてゼロまでをひととおり確認し、「新しい夢守、か」 小さくつぶやくと、感覚器とのリンクを切って背後を見上げる。 そこには、いつの間にか黒い羊がいて、茫洋とした眼差しでふわふわとたゆたっている。「――……あれは、私を滅ぼすためのものか、プールガートーリウム。私が暴走したとき、確実に始末をつけるための」 羊はただ、ンバアアァ、と間延びした声で鳴いた。 一衛の唇をわずかな笑みがかすめる。苦笑の様相を呈したそれは、初めて会ったころのロストナンバーたちが見れば驚くだろう程度には人間臭く、温度というものを含んでいた。 羊の、茫洋とした眼が一衛を見やるが、黒の夢守は小さく首を振る。「いや……私はこの変質を、むしろどこか楽しんでいる」 童子のような無邪気さで言い、「さて、私も見に行こうか……我らが、最後のきょうだいを」 一歩踏み出すや否や、一衛の姿は地面へと溶けて消えた。
1.まちは踊る アレグリアの街並みは、疑似太陽に照らされて輝くようだ。 さんさんと降り注ぐ日光のもと、人々は賑やかに、活き活きと『今日』を営んでいる。 「親近感を覚える領域なのです。名前のせいなのです?」 シーアールシー ゼロは、己と同じ名を冠したこの領域に興味津々のようだった。 「魂はディラックの空を超えられるのです?」 「どうなんだろうね? でも、俺は、世界を超えて惹き合う何かがあるのは確かだと思ってるよ」 ゼロの素朴な問いに、蓮見沢 理比古がふんわり笑って答える。 「なるほどなのです。ゼロたちも世界を超えて巡り会ったのです。そう考えれば、魂というかたちのないものがどこか別の場所で交錯することも、決しておかしなことではないのかもしれないのです」 生真面目に首肯するゼロに頷き返してから、理比古はぐるりとアレグリアを見渡した。 「おとぎ話の国みたいだ」 陽光が映り込んだ灰の眼は、やわらかな光沢のある銀を宿している。 「ドイツには行ったことあるけど……うん、確かに似てる。似てるけど、なぜかな、あの時よりもきれいに見える気がする」 「似た光景でも、見えかたが違うのです?」 「ん? うん、そのときは仕事だったからね。こういう風に観光で行くって滅多にないし、心の持ちようが違うからなのかも」 国内有数の名家の当主をつとめ、諸国のセレブリティとの関係も深い理比古であるから、取引や会合などで海外へ出向くことには慣れているものの、仕事以外という意味ではむしろ珍しいらしい。 「誰かに気を遣いながらあれこれ立ち回らなきゃいけない、なんてシチュエーションじゃないのは、ホッとできていいよね」 「立ち回り……理比古さんは、百戦錬磨の猛者なのです?」 「だったらいいんだけどねー。俺は、あの方面ではまだまだくちばしの黄色いひよっこだから」 と、そこへ、 「おーい、面白いもんが売ってたから買ってきたぜ」 小走りに戻って来たのは、強化増幅兵士のアキ・ニエメラである。 面白いもの、と言いつつ、手にはなぜか花束を抱えていた。何、という品種かも判らない、可憐で美しい花々は、どれも清々しく甘い香りを立ちのぼらせている。 「……これは、面白いのです?」 「きれいだけど……普通の花束だよね?」 ふたりが首を傾げると、アキは得意げな顔をした。 「ただの花に見えるだろ? でもこれ、食い物なんだとさ」 アキが言うには、鮮やかに咲き誇るこの花は、見た目は普通の生花だが、食べると色合いに応じた様々な味がするのだという。そして、日光にさえ当てておけば、食べても食べても新しい花が咲くので、本体である茎や葉が弱って枯れるまで、長い時間を楽しめるのだそうだ。 「あ、ほんとだ。この紫の花、ブルーベリーみたいな味がする」 「青い花はミントの味がするのです。とてもさわやかな味なのです。……では、赤い花は唐辛子味なのです?」 「それ楽しいおやつの時間じゃなくてドッキリ阿鼻叫喚タイム用だよね……」 「ちなみに、その黄色い花はもちろん、カレーとか和芥子じゃなくてレモンとかグレープフルーツ味だからそのつもりでな」 もさもさと花を食べつつアキが釘を刺す。食べ方が無造作すぎて、残念ながらあまり可愛くない。 「アキさんは、どなたか会いたい人がいてここへ来たのです?」 「ん? いやぁ、そういうのはいねぇんだよなぁ」 花をついばむように食べながら――誰も魅了されない不条理な条件付きとはいえど、誰もが美しいと感じる窮極の美少女であるから、むろん、とてつもなく様になっている――ゼロが問うのへ、アキは肩をすくめてみせた。 先天的ESP能力者であったがゆえ、少年のころに軍へ売られた過去を持つアキである。 師と仰ぐに値する人々との出会いがあったおかげで、人間というものに絶望することなく、飄々と流れながら生きてきたが、それゆえに、『もう一度会いたい』と願うほど他者に対して執着したことがなかったのだ。 「いつか、どこかの世界でもう一度会いてぇって思うとしたら、それはたぶん、今の相棒なんだよな」 「では、ご家族はご存命なのです?」 「あー、ご存命かどうかは知らねぇけど、死んでても別に会いたいとは思わねぇなぁ」 「それは……仲が悪かったのです?」 「ん? どうかな……まあ、少なくともお互い好いちゃいなかったか。『悪い』っていう関係ですらなかったような気もするが。――理比古、頼むからそんな顔すんな、俺は別に自分が不幸だとは思ってねぇから」 「あ、いや、ごめん。そういうの弱くて」 「恩師やら世話になった上官やらはたぶん確かめるまでもなく俺より元気だからな。俺の二倍長生きするって笑ってた」 「なんか……矍鑠(かくしゃく)を通り越す感じだね……?」 「まあ、だから、特別会いたいとか、会わなきゃとか思う相手はいねぇんだよ。強いていうなら、相棒を連れてきてやりてぇってくらいで」 「それ、いつも言ってるよね、アキ」 くすりと笑い、理比古がオレンジ色の花をついばむ。 「あ、柑橘系かと思ったらマンゴーっぽい味だった」 緑色の花を租借したゼロは、ピーマンかわさび味かと思ったらメロンの味がしたのです、と嬉しそうに言い、なぜまずその味を想定するのかとアキに突っ込まれている。少女の姿をした不条理生物――いや、生物と言っていいのかも判らないが――は、次いで理比古へ同じ質問を向けた。 「理比古さんは、どなたか会いたい人がいるのです?」 「ん? うん……そうだね」 表情は穏やかなまま、曖昧な笑みを浮かべて理比古が頷く。 銀を宿した灰眼が、華やぐ街並みへと向けられた。 * * * リニア・RX‐F91は興奮することしきりだった。 「うわぁ、うわぁ! なんだか懐かしく感じますよ! 機械の身体のひとがこんなにいるなんて……!」 住民や生物がすべて機械で出来ている世界から来たリニアである。 ロストナンバーたちにもロボットや機械、サイボーグなどは存在するが、住民まるごとが金属の身体を持っている、というシチュエーションには、やはり懐かしいものを覚えずにはいられない。 「いろんなひとがいるんですね。金属っぽかったり、生身っぽかったり、中間っぽかったり。形容しがたい感じのひともいますけど……みんな、なんだかあったかい感じがします。すごく嬉しいですねぇ♪」 故郷と似たまちといということで、リニアのテンションはうなぎ登りだ。 「あっすみません、握手してもらってもいいですか? ごめんなさい、触ってみてもいいです? あの、あたし、懐かしくて」 なにせ、他のロストナンバーとは違い、アレグリアの住民たちは、リニアにとって真実の意味で『同じ』存在なのだ。彼女だけが他面子をしのぐハイテンションだったとして、誰がリニアを責められただろうか。 「でもみんな一度亡くなったひとの魂で動いてるんですか」 「そうだな。『動いている』のではなく、正確には『生きている』が正しいが」 「それって、おばけですか……」 思わず怖気づくリニアを、十雷がたしなめる。 「あんたは、自分がどこか別の場所で生きた誰かの魂の再来じゃないって断言できるか? 万物が流転するものだとしたら、再誕は新しい始まりに過ぎない。それは、恐れるものではないだろう?」 「あ、はい……すみません」 在りようこそ他とは違っても、彼らが生きていることに変わりはないのだとの説明に、思わずしゅんとするリニアだが、十雷はかすかに笑って肩をすくめた。それは、驚くほど人間臭い仕草だった。 「いや、別に怒っているわけじゃない。彼らとあんたに何の違いもない、それだけのことだ」 言ってから、白の夢守はにぎわう街並みを指さす。 「さて……では、街中を案内しよう、お嬢さんがた。何か、見てみたい、もしくは欲しいものは? オレはそれほどここには詳しくないが、どこに何があるかくらいは知っている」 「あっじゃあ、可愛いものとか、美味しいものが知りたいです! バッテリージュースはありますかね……?」 「さあ、どうかな。ここは世界と文化の坩堝だ、探してみれば案外、見つかるかもしれないぞ」 その傍らで、 「ふうん……ここが『電気羊の欠伸』。アレグリアというの」 もうひとりの『お嬢さん』ことパティ・ポップは珍しげに周囲を見渡している。 「不思議な……というより、なんだか懐かしいところですわね。見慣れない建物は多いけれど、過去と現在と未来が組み合わさるとこうなるのかしら? いろいろと、見てみたいわね。調査を兼ねて」 意気込みは充分のパティだが、やることと言えば結局のところ観光である。 赤煉瓦の屋根が並ぶ、懐かしくも可愛らしい建物の隣には、宇宙ステーションを髣髴とさせる、メタリックで鋭角的な建築物がそびえ立ち、そうかと思えば、その横には七色に光る膜で出来た、ふわふわと膨らむテントのような何かが並んでいる。 「あれは全部、誰かのお家なんですか?」 「そうだな、半分は家で、半分は何かの店だ」 「あの、黒い矢じりのような建物も、ですの?」 「あれは確か、極上の茶を飲ませるカフェだったはずだが」 「へえ……見かけによらないんですのね」 その後も、『見かけによらない』建物を見学しつつ、調査という名の観光を楽しむ。 鉄や、金銀銅の塊としか見えないのに、口に入れるとドーナツやクッキー、キャラメルの味がする不思議な鉱物を売っている屋台に寄り道し、地底湖に生える千年琥珀樹から絞ってきたという、蜂蜜の味をした飲み物を愉しみ、道行く人々とあいさつを交わしながらまた先へ進む。 色とりどりの小物がところ狭しと並べられた可愛らしい店が連なる区画で、パティは仲間たちへの土産を選んでいたが、 「……あら?」 ふと振り返り、小首をかしげる。 いっしょに、はしゃぎながら土産を見ていたリニアも首を傾げた。 「どうしたんですか、パティさん?」 「いえ……見覚えのある顔があったような気がして。……でも、きっと気のせいですわ」 首を振り、気を取り直したようにロボット少女を促す。 「リニアさん、あっちも見てみましょうよ、面白いものがありそうですわ」 リニアはにこにこ笑って、元気よく返事をした。 2.再会する ニコ・ライニオはある種の自信を持ってまちを歩いていた。 「僕は、きっと出会えるはずだ」 懐かしい誰かと再会できるかもしれない、と聞いたとき、彼の頭の中に浮かんだのは、故郷で出会い、また別れてきたたくさんの女性たちの笑顔だった。ニコを支え、力づけ、励まし、愛し包んでくれた、この上もなく美しい数々の笑顔だ。 「魂が流転し、世界をも超えて出会い続けるというのなら」 ニコは、魂とは『かたち』であると考える。 その人が、その人であるあかし、そしてその人をかたちづくる根本のもの。 それならば、ニコに、女性たちと過ごしたすべての日々を覚えている彼に、懐かしい人々を見つけ出せないはずがない。たとえかけらであっても、ニコには、『彼女』を見つけ出す自信があった。 ざわめくアレグリアを歩きながら、ニコはぐるりと周囲を見渡す。 縦長の瞳孔を持つ銀の眼は、うきうきとした楽しげな光で彩られている。 「それにしても、不思議な世界だな」 ひと目で金属と判る身体の人々が数多く闊歩し、そのくせ、生きたにおいで満ち溢れた活気ある街だ。 それぞれに違った形状をしたロボットたちが、その違いなど何の妨げにもならないとばかりに言葉を交わし、触れ合い、笑顔を向けあう。こんなに穏やかで懐の深い『人種の坩堝』があったとしたら、世界はどれだけやさしくなれるだろうか、などと思う。 「さて……何か面白いものは、と……」 珍しいものがあれば同行者たちにも教えてやろう、と、きょろきょろしながら歩いていたニコは、 「もう……なんでよ。どうしてなの、本当に!」 角を曲がった先の建物の傍らで、女性の姿をしたロボットがぷりぷり怒っているところへ行き逢った。 「信じられない。本当に……信じられないったらありゃしないわ!」 ほとんど人間と同じ形状の彼女は、すらりとした、背の高い、大人の女性の姿をしていたが、口調や物言いを聴くに、内面はもう少し幼いのかもしれない。 ニコは、別段、じろじろ見てやろうとか、いい年をした大人が大きな声を出してとか、そんな思いでいたわけではない。ただ、何かに怒っている彼女の持つ魂のかたちに、覚えがあっただけだ。 彼は、何の疑いもなく確信していた。 「……何よ」 ニコに気づき、女性が唇をとがらせる。 その仕草にも覚えがあった。 「ジーニャ?」 不躾な視線を詫びるより早く、懐かしい名前が唇から滑り落ちる。 と、女性は不思議そうな表情をした。 「どうして私の名前を知ってるの? あなたとは初対面……よね?」 小首を傾げたさまにも覚えがあって、ニコは微笑む。 「昔の知り合いによく似ていたからつい、声をかけたんだけど。まさか、名前までいっしょだなんて思わなかった。偶然ってすごいね」 にこにこ笑って言うと、ジーニャははにかんだように黙った。 「君は、どうして怒っているの?」 「判らないの」 「判らない?」 「ええ。何かにものすごく腹が立って仕方なくて、怒らずにはいられないのだけれど、それがなぜなのか、判らないの。それにも腹が立って、わたし、ここのところずっと、怒っているのよ」 ニコには、ジーニャが起こっている理由が判る気がした。口に出しても怪しまれるだけだと判っていたから、沈黙を保ちはしたけれど。 (ジーニャ、まさかここでまた、会えるなんて) もうずいぶん昔の話になる。 自分になつき、キスをせがんできたおませな少女がいた。 まだ幼かったので、色恋の対象からは遠かったが、少女のほうではそう思っていなかったらしく、あの手この手でニコに迫っては、彼を苦笑させたものだ。 (ね、デートしようよ、ニコ) (君が大人になったらね、ジーニャ) (じゃ、キスして) (……大人になったらね) (もう、意地悪! 大人になったら、絶対よ!) (もちろん、可愛いお姫さま) (わたし、絶対、ニコがびっくりするくらいの美人になって、ニコを慌てさせてやるんだからね!) 懐かしい、遠い思い出だが、他愛ない、微笑ましいそれは結局、果たされることはなかった。 ある日、暴走した荷馬車がジーニャの家に突っ込んで、彼女は重い荷の下敷きになり、命を落としてしまったから。 唐突な別れだった。 あの時の、ぽっかり空いた胸の虚ろを、ニコは今でも鮮明に思い出せる。 人間の持つ美しさ、魂の強さに反した、儚さともろさ、あっけなさを突きつけられた出来事だった。それでニコの、竜たる彼の、人間への想いが変わるわけではなかったけれど。 それでも、あの別れが、ひときわ苦い思い出であることに変わりはなく、ゆえに、ニコはこの再会を救いのように喜ぶ。 「そっか……でもさ、ずっと怒ってたって、面白くないじゃん? よかったら、僕とデートしてくれない? 僕、ここに来たのは初めてなんだ。面白いところを案内してもらえると、嬉しいかも」 ジーニャの怒りが理解できる。 それは、約束を守れなかった誰か、すなわち、彼女自身への怒りだ。何度も何度も念を押しておきながら自分から破ってしまったことへの憤りを、彼女はまだ抱いているのだ。 「……そうね、それも、悪くないかもしれないわ」 けれどその怒りも今日で終わらせていい。 なぜなら、約束を果たす相手は、今、ここにいるのだから。 恭しくひざまずき、手を差し出すと、ジーニャはちょっと照れたように頬を赤くして、それからニコの手を取った。 「お供させていただけますか、可愛いお姫さま?」 「ええ、つきあうわ。あなたが声をかけてくれて、少し気持ちが楽になったから」 ジーニャの笑顔は、あのときと変わらず、いとしく美しい。ニコの指を握る華奢な手は温かかった。 ああ、ここで彼女は生きているのだ。 あの時、大人になれなかった彼女とは守れなかった約束が、今ここで果たされようとしているのだ。 そう思うと、歓喜を含む感慨が込み上げて、ニコは晴れやかに笑った。 * * * アルティラスカは、そぞろに歩いた道の先で、ひとりの青年と邂逅を果たしていた。 まちの片隅で、花屋を営む青年だ。 ほとんど機械らしい部分のない、精巧な姿をした彼は、配達を終えて帰る途中だと言い、アルティラスカに、天女が衣を広げたような形状の、美しい花を見せてくれた。鮮やかな紺碧の色をした、優美で神秘的な花だった。 「これだけ、事情があって返品されてしまって」 「そうなんですか……きれいな花ですね」 微笑み、花の香を胸いっぱいに吸い込んだとき、何かがちらちらと意識の奥底で瞬いたような気がしたが、それは確かなかたちになる前に儚く薄れて消え、アルティラスカの思考にはのぼらなかった。 「あの……失礼だけど、どこかでお会いしたことが?」 青年が、何かを思い出そうとするように、アルティラスカの美貌をまぶしげに見つめる。アルティラスカは首を振った。 「いいえ。あなたとは初めてお会いします。私は今日、初めてここに来たのですもの」 そう返しつつも、彼女自身、不思議な温かさを感じたことを否定は出来なかった。その温かさは、すぐに、女神ゆえの慈愛という感覚の中に溶けていったが、それは特別といって過言ではない感情だった。 なぜそれが自分の中にあるのか疑問に思うよりも、覚醒するとはそういうことなのかもしれないという納得が先立つ。 ――しかし、アルティラスカには知る由もない。 目の前にいる青年が、女神という、何に対しても平等な――平等であらざるを得ない彼女がロストナンバーとして覚醒した際、彼女を保護してくれた青年の生まれ変わった姿なのだということなど。 覚醒し転移した先の世界が彼女を『女神』として認識しておらず、それゆえアルティラスカがまだ女神ではなく、ひとりの女性としてそこにいることを赦されていた時、彼女はその青年に恋をしたのだ。 薬師を営む、心優しく素朴な青年だった。 女神たる彼女が本来抱くはずのない恋心を生じさせるに足る、清く善き、そして魅力的な人間だった。 彼とともにいるとき、アルティラスカは、何に対しても平等であることを世界そのものに求められる女神ではなく、ただ、ひとりの男に恋する乙女でいられた。無垢であるがゆえに、彼女の恋は少女の初々しさをはらみ、初夏の風の清々しさを内包した。 それは幸せで穏やかな時間だった。 ――だからこそ、長くは続かなかったのだとしても。 結局のところ、青年は殺され、彼女を包む幸せな場所は破壊されたのだ。 嘆きに狂い邪神化したアルティラスカは、彼女を迎えに来たロストナンバーたちと激しい戦いを繰り広げたのち鎮められる。そして、その結果世界に女神であると認識されたアルティラスカは、忘却の呪縛によって初恋に関する記憶と感情を失った。 すべてを忘れたアルティラスカに、アレグリアで再びの生を生き始めた彼との再会を喜ぶすべはない。 しかし、なぜか、青年の言葉は、声は、不思議と心地よく彼女の中へ染み渡ってゆくのだった。 「この花は、逢いたいと願う相手に出会わせてくれる、不思議な力を持っていると言われているんだ。名前を、シックザールといって、恋人たちの間では、お守りのように大切にされているんだよ」 それは、運命、もしくは縁(えにし)を意味する言葉だ。 巡り会い愛し合う運命。 そんな願いが込められた花なのだろう。 「そうなんですか……これはなぜ、返品を?」 「お客さんが恋人に贈ろうと注文されたのだけど、哀しいことに、それをお届けする前に破局が訪れたらしくて。この花を見ても、やるせない気持ちが募るだけだから、と」 「まあ……それは、寂しいことですね。新しい、喜ばしい出会いが、そのかたにも早く訪れますように」 「そうだね、俺もそう思うよ。だけど、運命も縁もたったひとつ、たった一筋だけじゃないから。きっと、佳き出会いが待っているはずだよ」 物静かに笑う彼に、アルティラスカも微笑み返す。 すべてを忘れ、すべてに平等な女神として生きるアルティラスカが、特別な感情を含む懐かしさを感じるはずはないのに、彼の言葉は、微笑みは、やはり彼女の中に、清水のごとく心地よく染み渡ってゆく。 しかしながら、やはり、今や女神であるアルティラスカが、『それ以上』を感じることは、出来ないのだった。 「っと、すまない、長話をしてしまった。店の片づけをしなきゃいけないから、帰るよ」 「いいえ、なんだかとても楽しかったです、ありがとうございます」 アルティラスカが微笑むと、青年はその笑顔をまぶしげに見つめ、それからシックザールの花を一輪、彼女に差し出した。 「俺も、君と話せて嬉しかったよ。また会えるといいな。……ああそうだ、名前を訊いてもいいか? 俺はヴィーダー・ゼーヘンっていうんだ」 「ありがとうございます。私は、アルティラスカと申します。そうですね、機会があれば、また」 花を受け取り、笑みとともに一礼して、アルティラスカはその場をあとにする。ヴィーダーは晴れやかな笑顔とともに手を振ってくれた。 やはり、アルティラスカには知る由もない。 シックザールの花が、ふたりの哀しい恋、あの最期の日を見届けた花と酷似していたなどということは。 世界を隔ててしまった今、それを語るものはもう、どこにもいない。 ――彼の他には。 「そうか、そうだったんだ」 凛と背筋の伸びた、美しい背中を見送って、ヴィーダーはシックザールの花を見つめる。それは、一枚、また一枚と、花びらを落としてゆく最中だった。南国の海のような花びらが、ほろりほろりと落ちてゆく。 「あの時俺は、最期に君の名を呼びたかったんだ……アルティラスカ」 大切な宝物を掌に乗せるようなひそやかさで、懐かしげに――愛しげに名を呼び、役目を終えて散ってゆく花を指先で撫でる。 「叶えてくれたんだな、シックザール。ありがとう……思い出させてくれて。もう一度、出会わせてくれて」 感謝の言葉の中には、祈りのような想いがある。 あの最期の日、己が死を恐れるより強く、切実に想った祈りだ。 「君や、他のひとはこれを悲恋だというかな。……俺は今、とても幸せだけど。君が生きて、幸せでいてくれると知れただけで」 アルティラスカを見送る彼の眼は、どこまでもやさしく、慈しみに満ちていた。 3.循環する そのころ、ティリクティアは、零和の案内で――というにはいささか心もとなかったが――アレグリアを散策していた。 雨鈴を気にしつつも、自分がこの領域の守護者となったこと、務めなどは理解しているようで、ティリクティアにアレグリアを散策したいからいっしょに来てほしいと言われた時も、零和がそれを拒むことはなかった。拒む、という感覚を理解していないのかもしれないが。 「あなたに必要なのは経験よね、きっと。もちろん、私だって、経験豊富というわけではないけれど……」 聡明と言えども、まだ幼い彼女である。 自分の言葉に、絶対的な重みが足りていないことも理解している。 だから、 「いろいろなものを見てみたいわ。美味しい甘味屋さんがあれば入ってみたいし、きれいな服を売っているお店があったら行ってみたい。たくさんのものを見ながら、『心』を感じていきましょう。そうやって積み重ねたものが、いつか、魂の一部になっていくのだろうと思うから」 彼女が零和に向ける言葉は、すなわち、ティリクティア自身が心についての理解を深めるためのものでもあった。夢守でなくとも、それは、深く知る意味、意義のあるものだからだ。 「零和、あれは何? あの、年経た大樹を燻した銀で塗り込めたような建物は」 「中央広場の祝福塔。『星』が降るとき、誰かが新しく覚醒するときに、自然と鳴り響くんだ」 「じゃあ、あれは? まるで、空を渡る虹の翼のよう」 「あれは『風』だ。アレグリアをいつも吹き抜けて、ここを清浄に保っている。誰にでも見えるわけじゃないって、十雷が言ってた」 「ねえ、あそこには何を売っているの? とてもいい匂いがする」 「白金樹の果実を使った菓子を扱うお店だ。白金樹の実はとてもおいしいのだけど、なかなかたくさんは手に入らない。『神さまの賜りもの』って呼ばれているくらい貴重なんだそうだ。だから、あのお店も果実が手に入ったときだけ開くんだ。今日は、開いているんだな」 「あら、そうなの? じゃあ、食べてみなくちゃ損よね、それは」 小走りに店へ向かうティリクティアと、その後ろを雛よろしくついてゆく零和。 零和は、ゼロ領域の貴い守り手であるのと同時に、すべての人々の子どものような扱いであるらしく――なにせ、今のところ、彼よりあとに生まれ覚醒した住民はいないのだ――、幼いティリクティアからしても微笑ましい扱いを受けていた。 白金樹の果実、最高級の桃をとびきり滑らかにして、やさしくも華やかな芳香をさらに芳醇にし、甘みと酸味のバランスを絶妙に整えたかのようなそれ、生で食べれば濃厚な果汁と快香がほとばしり、たったひと口で夢見心地になれるという果実をふんだんに使った、ジェラート状の氷菓を差し出され、非常に困惑している。 「僕は、そういうものを食べる必要はないから……」 「でも、味覚そのものは、あるのよね? せっかくだからいただけばいいのじゃない? おいしい経験って、とっても貴重だと思うわよ、私」 ティリクティアはティリクティアで、零和さまのお友達なら、と、果実をつかった濃厚なジュースをおまけしてもらい、上機嫌である。 「すごい、これは本当に、神さまからの贈りものかも」 白金樹というだけあって、その果実も果肉も、まぶしいようなプラチナの色だ。これが食用だとは、この世界でなければ信じられないかもしれない。 絹のような滑らかさで咽喉を滑り落ちてゆく、果実分の多いジュースにうっとりする。濃厚なのにくどくもしつこくもなく、一口含むごとに爽快な気分にさせてくれる。味、香り、舌触り、そのすべてが、ティリクティアをいたく満足させた。 「ああ、おいしい。おいしいと嬉しいし、楽しいわね。――あなたも、そう感じているかしら?」 「……判らない。だけど……うん、僕は、これを経験して、よかったと思う」 ジェラートを不器用な手つきで口にしながら小首を傾げ、零和が少し笑った。 「なら、よかった。おいしいものは、偉大だわ」 ティリクティアも、にっこりと笑う。 「みんなにも、――雨鈴にも、持って行ってあげようか」 「あら、それは名案ね。私も、焼き菓子やゼリーを試してみたいわ。零和、あなたが選んでくれる?」 「えっ」 「誰かのことを考えながら選ぶって、すごくいい経験になると思うの」 「う……わ、判った……」 微笑ましいくらい真剣な表情になった零和が、同行者たちへの差し入れを選ぶ間、ティリクティアは街並みを眺めていた。 美しく、穏やかなところだわ、と、彼女が奇妙な安堵を覚えるのと、背後に見知った気配を――存在を感じるのとはほぼ同時だった。 「プレズィールの花が咲いたわ。本当に美しい花」 「ようやく咲いたんだ。あなた、一生懸命お世話していたものね」 「そうよ、だから、なおさら美しく感じるのかもしれないわ」 「プレズィールの花は喜びを連れてくると聞くから、近いうちにいいことがあるかもね」 「ふふ、だったら素敵ね」 「サーリオーラ、なんだか嬉しそうね?」 「ええ、不思議なくらい、幸せな気持ちなのよ。花のおかげなのかしら」 女性型のロボットがふたり、他愛ない会話を交わしながらティリクティアのすぐそばを通り過ぎてゆく。 その片割れの気配に、ティリクティアの意識は釘付けになった。 振り返り、行き過ぎてゆく彼女の中に懐かしい面影を見て、息を飲む。 「……サラ……」 つぶやいた本人にしか聞こえなかったくらい小さなそれは、誰を呼び止めることもなかったけれど、ティリクティアの唇には、わずかな悼みを含んだ穏やかな笑みが浮かぶ。 それは、ティリクティアの教育係だった女性の名だ。 ティリクティアは、やさしい彼女が大好きだったけれど、サラは、もうずいぶん前に、戦いによって命を落としていた。 「ああ……よかった」 もう二度と会えないと思っていた。せめて、苦しいままでなければいいと、祈っていた。 和やかに談笑しながら歩み去ってゆく、懐かしく慕わしい後姿に、ティリクティアはまた、微笑む。 「いいわ、それで。あなたが、ここで幸せに生きているのならば」 言葉を交わす必要はなかった。縁があればいずれ、そう思うだけで――彼女が今幸せだと知ることが出来ただけで満足だ。 眼が、頬が温かい。 「うん、これでいい。――ティリクティア?」 ようやく差し入れを選び終えて顔を上げた零和が、ティリクティアを見やって目を瞠った。 「ティアでいいわよ、別に。――なんでもないの」 「でも……今のティリクティアは、雨鈴と同じだ。何か、哀しいことが?」 「ああそうだ、まだ、言っていなかったっけ。あのね、涙は嬉しいとき、幸せなときにも流せるものなのよ? ――本当、不思議よね」 「……?」 「今は判らなくてもいいわ。きっと、いつか、あなたにもそんな時が訪れるから。さあ、次はどこを案内してくれるの? 私、きれいな細工物を扱っているお店にも、興味があるのだけど」 頬を伝う涙の暖かさが、零和にも伝わればいい。 それが、どれほどの――そう、息が詰まるほどの――喜びか。そして、それを喜びだと思えることが、どれだけの幸いをもたらしてくれるか。 そういうものが、全部、零和にも伝わればいい。 そんなふうに思いながら、ティリクティアは、真珠の涙もそのままに、やわらかく微笑むのだ。 * * * 道を曲がったとき、ふたり連れの大柄なアンドロイドたちとぶつかった。 「あ、すみませ、……!」 謝りかけて、ふたりの顔が眼に入るや否や、理比古は硬直する。 「どうした、理比古」 思わず後ずさりよろめいた背をアキが支えた。 「理比古さん、顔が真っ青なのです。どこか痛かったのです?」 ゼロが不思議そうに見上げてくる。何でもないと返そうとして、笑顔が引き攣る。呼吸がうまくできなくなって、手足がしびれた。 なぜなら、人間で言えば壮年くらいの外見をした男性型ロボットたちは、理比古にとって思慕と恐怖双方の対象である――死してなお、今でもそうあり続けるふたりの義兄によく似ていたのだ。 ここが魂の循環する都市だとしたら、彼らが生まれ変わっていたとしてもおかしくはない。その場合、自分に待っているのがひどい罵倒と暴力だけだと知っているから、未だ虐待の傷から立ち直り切っていない理比古は身動きが取れなくなる。 しかし、反射的にうずくまり謝罪の言葉を繰り返しそうになる前に、 「いや、こちらこそすまなかった。怪我はないか?」 「悪かったな、兄貴がよそ見して」 「お前だってよそ見していたじゃないか。私だけに責任を押しつけるなよ」 生前の彼らからは聞いたこともない穏やかな言葉が返って、理比古はようやく呼吸を思い出した。 (にいさんたちじゃない) では、アンドロイドたちは、亡き義兄とよく似ただけの、アレグリア住民なのだ。そう思うと、安堵と失望が半分ずつ押し寄せる。 あからさまにホッとした表情をしてしまったのか、アキとゼロが首を傾げた。 「なんだ、理比古は年上の男が苦手なのか? とーちゃんが厳しかったとかそんなんか?」 「それとも、おじさんたちの顔が怖かったのです? 人間というのは得てして怖い顔を恐れるものだと師匠から教わったのです」 「……初対面の相手の顔を怖いって言っちまうのはまずいんじゃねぇ?」 「おっと、これは失敗だったのです。こういうときは『威厳のあるお顔』と言うべきだとも師匠に教わったのです」 「ゼロの師匠って迂闊なのかお気遣いの人なのか判らんわー」 気の抜けるようなゆるい会話を繰り広げるふたりのおかげでようやく我に返り、 「いやッ、あの、そういうのじゃなくて……ッ」 いい年をしてみっともない、と思わず赤面する理比古を、アンドロイドたちがやさしい笑みで見ている。 ふたりは、兄がフォーアネーム、弟がゼーゲンというらしい。ここで目覚めて数年だと言い、『前』の自分のことはほとんど覚えていないものの、手先の器用さを活かして小物屋を営んでいるのだそうだ。 「へえ、小物屋か。主にどんなものをつくってるんだ?」 「たいてい何でもつくるが、俺は木の細工、兄貴は金属の細工が得意だな」 「木の細工というと、どんなものなのです? 実を言うとゼロは、師匠へのお土産に、かっこいい杖がほしいのです」 「杖か。たとえばどんな意匠のものがいい?」 「師匠は魔女なのです。魔女にふさわしい、威厳のあるものがほしいのです。たとえば、竜を一撃で撲殺できるような」 「うんゼロ、今俺の中で魔女がゲシュタルト崩壊したわ」 「ゼロのお師匠さん、すごいね……」 竜を一撃で撲殺できる杖を軽々と扱う魔女とはいったいどんな魔女だろう、っていうかその場合魔法要らなくない? という猛烈なツッコミの嵐が吹き荒れる。つきあい自体は長くない三人だが、ボケとツッコミのコンビネーションでいえばすでに熟練の域だ。 と、ゼーゲンが吹き出し、フォーアネームもくっくっと声を立てて笑う。 「あの……?」 「いや、何。見ていて微笑ましいと思っただけだ」 「仲がいいんだな、三人とも」 義兄たちがそんなふうに笑うところなど見たことがなかったので、違う人たちだと判っていても、理比古は驚く。そして、ふたりの面影に、嬉しくなる。 「えッいや今のって仲良しってカテゴリにくくるようなもんだったか」 アキが目を剥いたが、もちろんゼロは、さすがおふたりはよく判っておいでなのです、などとどこまでも通常運転である。 しばしの歓談ののち、別れる際、理比古は自然と問うていた。 「あの、またお会いできますか」 返ったのは首肯と、やはり穏やかな微笑みだ。 喜びと幸せのあまり涙ぐみそうになる彼を、事情を知る『家族』ならば笑いはすまい。 「無論だ。今度は店に来てくれ。茶を出して、もてなそう」 「たくさんおまけするから、何か買っていってくれると嬉しいな。ああ、ゼロの言うような杖は、次までにつくっておくから少し待ってくれるか?」 「はいなのです。よろしくお願いするのです」 「俺はまずあんたがそれをつくれるところにびっくりだよ」 呆れつつ、アキが手を振って踵を返し、ゼロがそれに続く。 理比古は小さくお辞儀をして、ふたりの背を追った。 アンドロイドたちは、三人の背中をいつまでも見送っていた。 彼らが角を曲がり、消えたのち、弟は穏やかに兄へ言うのだ。 「なあ、兄貴」 「どうした?」 「俺は今日、あの子に会えてよかったと思ったよ。なぜだろうな」 「……私もだ」 彼らも理比古も、知る由もないのだ。 彼らが、歪みに歪み、絡まり澱んだ感情の中、ほんのわずかに――しかし切実に残されていた魂のかけら、何もかもやり直して義弟に優しくしたい、普通の仲のよい兄弟でありたいという望みからここへ再び生まれたなどということは。 「また、あの子が来たら、もてなしてやらねばな」 「そうだなあ。俺はちょっといい茶を用意しておくよ。兄貴は甘いものでも用立ててやってくれ。確か、好きだったはずだから」 ――知らずとも、再びつながった、えにしの糸に変わりはないのだから。 * * * 楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。 まちを歩き、ジーニャの好きな可愛い小物を売る店を見て回り、珍しく収穫できたという白金樹の果実を使ったアイスクリームを分けて食べてから、手をつないでまた、まちを歩く。 ジーニャはよく笑った。 ニコはその明るく魅力的な笑顔、幸せそうなそれをこっそりと見ては、自分もまた幸福の笑みを浮かべるのだった。 「今日はありがとう、本当に楽しかったわ」 デートの終わり、家の前で、ニコはお姫さまにかしずく騎士のように恭しく一礼する。 「僕も楽しかったよ。おつきあいに感謝。――また、誘ってもいい?」 「もちろん。あなたと街を歩くのは楽しいから。怒っていたのが嘘みたいに、気持ちも落ち着いたし」 その理由をニコは知っているが、口にするだけ野暮というものだろう。 「ああ、そうだ」 ニコは悪戯っぽく笑った。 「……デートのお礼」 両手でそっとジーニャの顔を包み込み、彼女の額についばむようなキスを落とす。ジーニャは目をぱちくりさせ、ややあって頬を赤く染め、そして本当に幸せそうに笑った。 「ありがとう、ニコ」 「お礼を言うのは僕のほうだよ」 護れなかった約束のお詫びと、それにも勝る再会への感謝を込めたキスは、確かに、ジーニャに何かを届けたようだった。 「じゃあ、またね」 「うん、また」 彼女と別れ、歩くニコの足取りは軽い。 過去の彼女のことを決して忘れないように、ニコは、今日出会った彼女のことも忘れないだろう。たとえ時間が流れ、すべてが過ぎ去ったとしても――『かたち』が少し違っていても、ニコにとっては『大切なひとり』だ。 それを、再度、強く思った。 まちをゆくロストナンバーたちは、気づいただろうか。 どこかで見たことのある顔立ちの、もしくはその面影を残したロボットたちが、ときおりすれ違ってゆくことに。 ――その中に、異世界のあちこちで起きた戦いのただなかで、命を落としたものたちとよく似た姿があったことに。 それこそが、このゼロ領域の本質なのかもしれない。 4.『星』はうたう 川原 撫子は、ティリクティアが零和とともにまちを回っている間、雨鈴の傍らで彼女を見ていた。無言のまま涙を流し続ける彼女の横顔は、美しくはあったがやはりものがなしい。 「普段、あんまり深く考えませんけど」 理比古とアキ、ゼロが楽しげに語らいながらこちらへ近づいてくる。リニアとパティ、そして十雷が戻って来たのが見える。ニコとアルティラスカが別々の道から広場へ入ってくる。大きな紙袋を手にしたティリクティアと零和の姿も見えた。 なぜかひとり多い気がしたが、錯覚だったようだ。 「心って、思えば思うほど、複雑なものですよねぇ」 雨鈴は何も言わない。 ただ、彼女が撫子の言葉を聴いているという確信はあった。 「零和さん、帰ってきましたねぇ。あ、ほら、こっち見てますよ? 雨鈴さんのこと、気になってるんですねぇ」 沈黙。 「零和さんて、なんだか可愛いですよねぇ。外見は私より年上なんですけどぉ、弟みたいな感じがするっていうか」 答えはない。 が、しかし、 「雨鈴さんは、私たちがこうやって、周囲でがやがやするの、迷惑ですか? 迷惑なら、少し、やりかたをかえなきゃなぁって思うんですけどぉ」 撫子の直截な問いには、首が振られる。 「迷惑だなんて、思ったことも、ありませんでした」 涙混じりの声に、お節介な人々に対する負の感情はない。 「そっかぁ……よかったぁ」 「でも……私は、何も、返せないから。放っておいてくれても、いいのに」 「あはは、そうは行かないのがヒトっていうか、ヒトの、めんどくさくて可愛いところなんですよねぇ」 快活に笑う撫子と、やはりうつむいたままの雨鈴を、零和がしきりと気にしている。気にはなっても、自分にはどうすることも出来ないと思っているのか、ティリクティアに促されても、こちらへ近づくのは躊躇しているようだ。 「零和さんの心の動きが手に取るようにわかっちゃう……いやぁん、可愛いですぅ」 ウフフと笑い、撫子は零和を手招きする。 『おずおず』というのが相応しい調子で近づいてきた零和の頭を、うっかり子どもにするように撫で、 「……この世界にセクハラってないですよねぇ!?」 今のは訴えられても仕方ないレベルだった、と慌てて確認する。幸いにも、ここにいるのは大らかで壱番世界の一般常識という意味合いからは外れた人々ばかりだったので、撫子はお縄を頂戴せずに済んだ。 「うっかりうっかり。人によっては触れられるのイヤって方もいますから、確かめずにしちゃいけませんよっていう。あはは、失敗ですねぇ」 てへぺろとばかりに笑ってから、でも、と続ける。 「あなたのこと見てます、心配してますっていうのを、もっともダイレクトに伝える手段が、相手に触れることだっていうのは事実なのでぇ、ケースバイケースっていうか、うーん、習うより慣れろ? ですかねぇ?」 撫子の言葉に、ティリクティアとアルティラスカが同意した。 「そうね、私も、不安な時なんかは、誰かに抱きついたり、手を握ってもらったりするとすごく落ち着くわ。相手の体温を感じられるからかしらね」 「私も、そう思います。古来より、相手に手で触れて癒すからこそ『手当て』と言うのですもの。――あなたに触れてもいいですか?」 巫子姫と女神、双方から差しのべられた手を、雨鈴は拒絶しなかった。そっと伸ばされた小さな愛らしい手と、しなやかな美しい手が、己のそれを静かに取るに任せていた。 「温かいわ、雨鈴。あなたの心の中と、同じなのかしら」 「本当に……とても。あなたの涙と同じくらい」 ふたりの清い乙女らが、あとは何も言わず、黙って寄り添うさまは、どこか冒し難く、神々しくすらあった。 「うーん、なかなか難しい注文ですよね」 そんな中、可愛らしく腕組みをしてリニアが唸る。 「ただもう一度、あの美しいものを見たかっただけで心は要らなかった……ですか」 考え込む風情もまた可愛らしい。 むろん、小難しい事柄とは無縁の少女ゆえ、リニアはすぐにぽんと手を打ち、 「でも、アレですよ。心がないと美しいかどうかなんて解らないじゃないですか」 世紀の発見でもしたかのように大きく頷く。 「だってホラ、美しいもの、素晴らしいものを見て心がどうこう……とか言うじゃないですか。そう考えたら、要らないなんてことないですよ、絶対」 それから、 「そうだ、とりあえずあたしの歌も聴いてください☆」 アイドルモードに変わり歌い始めた彼女を、雨鈴や零和のみならず、通行人たちも物珍しげに見ている。日常を愛し謳歌する、元気いっぱいの歌は、まるで内側から活力が湧いてくるようだ。そう感じたのは撫子だけではなかったようで、一曲歌い終え、ぺこりとお辞儀する彼女に、惜しみない拍手が送られた。 リニアはにこにこと笑い、 「楽しいと思える心がないと、美しいものをいくら見ても意味ないです。だからあたし、雨鈴さんに心があって、ほんとによかったと思うんですよ♪」 素朴に、純粋に、ただ喜びを伝える。 朴訥であるがゆえ響くのか、雨鈴はリニアを、まぶしいものを見る目で見つめた。 「心を知っている人たちは、すごいな」 零和の、自分にはそれがないと言わんばかりの残念そうな口調に、ゼロが首を傾げた。 「何かを知りたがるのも好奇心という心の働きなのです。零和さんが彼女の涙を止めたいと思うのも、人がどんなときに泣くのかをどこかで知っていなければありえないのです」 「……?」 「だから零和さんは、気づかずともすでに心を持ち、心について知っていると思うのです」 「ええと……それは、つまり……?」 「ゼロの論旨としては、他人の心に共感できるからこそ、彼女の涙を止めたいという思いが生じるわけで、その思いもまた心のひとつであり主要な動きだ、ってとこかな」 「アキさんは痒いところに手の届く素敵な方なのです。孫の手とお呼びしたいのです」 「それ褒め言葉か……? まあ、いいけど」 もう慣れたと言わんばかりのアキである。 撫子はまたうふふと笑って、もう一度零和の頭を撫でた。 「零和さんが雨鈴さんのことを気にするとか、私が零和さんを子どもみたいで可愛いなって思うのは心の働きですけどぉ……心って、自分と他者の間で生まれる情動じゃないかって思うんですよねぇ」 「情動?」 「誰かと友達になりたいとか、その人のことを深く知りたいとか。それが想像通りだったり違ったりして、怒ったり泣いたり笑ったりとか……人と触れ合うことで磨かれていくものなんじゃないかなぁって」 撫子の視線の先には、涙する少女へと静かに寄り添うふたりの乙女。あれは、それぞれが積み重ねてきた時間の中で、思いのままに選んだ最善、彼女らの『心』の発露なのだ。 「どこにも、万能なんてものはないと思いますぅ……たとえ、世界を守護する夢守でも。見てるだけで届くものなんかなくて、どんなに頑張っても零れていくんですぅ」 異世界群を旅し、さまざまな出会いと行き逢ってきた撫子の言葉には、説得力と力強さと、いくばくかの哀しみがある。 「それでも、心のかけらが再誕するこの場所ならぁ、とり零したものとまた会えるかもしれないんですよねぇ。だから、零和さん、見ているだけじゃなくて、ひとつひとつの心に、手を伸ばし続けてほしいんですぅ」 撫子は、雨鈴と零和、双方を交互に見詰めながら、朴訥に、真摯に言葉を紡いだ。 「もしも、たくさんの心に触れすぎて、あなたが苦しくなったら、その時生きて、傍にいる、私たちの誰かがきっとあなたを慰めますからぁ。だから、零和さん、あなたはあなたの心と思いで、雨鈴さんに寄り添ってあげてほしいんですぅ。そこにいるだけだって、癒されるものは、確かにあるんですよぉ」 彼女の言葉をすべて理解し納得できたかは判らないが、零和は神妙な顔で唇を引き結び、小さくうなずく。 「僕は生まれたばかりで未熟だから、判らないことも出来ないこともたくさんある。だからこそ、撫子が言うように、手を伸ばして向き合いたいって思う。夢守として、それから、心を持つモノとして。――うん、今、そう思った」 まだどこか幼い眼差しに、それでもはっきりとした意志の光が宿るのを、撫子は笑みとともに見つめる。もう一度頭を撫で繰りまわしたい欲求に駆られたが、さすがに通報されそうなのでやめておく。 もの静かな、穏やかな空気が辺りを満たした。 雨鈴はまだ、泣き止んではおらず、ときおり洟を啜る音が聞こえるが、彼女の視線が少し上を向いていることに撫子は気づいていた。これまでのやり取りの中に、何か、感じるものがあったのだろう。 彼女を見つめていた理比古が口を開いたのは、その時だった。 「雨鈴さんが確かめたいのは、心に関することだよね?」 「俺も思った。あんたが言う、『あの美しいもの』は、人の想いとか、愛情とか、そういうもんなんじゃねぇかなって」 「気が合うね、アキ。俺はまだまだ至らないひよっこだけど、それだけは確信してるんだ。言葉にすればとんでもなく気障になっちゃうけど、愛って感情ほど美しいものはない、ってさ」 「理比古は恥ずかしげもなくまっすぐでいいな。いや、これはほんとに褒め言葉だぜ? 照れもせずそれが言える君はすごい」 「え、やだなあ、ニコだってそう思ってるんじゃないの? あの、可愛い女の子といっしょにいるときの君は、幸せの真ん中にいるみたいな顔をしてたよ?」 「うお、見られてたか。――うん、そうだよ、僕はそれを信じてるから、今もここにいるんだ」 アキにも理比古にも、ニコにも、迷いは感じられない。 その力強さに励まされるように、背中を押されるように、躊躇いつつも雨鈴が口を開く。 「ほとんど何も、覚えていないけれど。――たぶん、私には、救いたいと思ったものがあったんです。だけど、それを救うために、誰か大切な人を裏切ってしまったのじゃないかって。裏切ってしまった私を、それでも『あの人』は愛してくれたのじゃないかって。そう思うと、狂おしくやるせなくて」 愛した、愛された、幸いなる日々と、美しい『想い』の在りよう。 もはや失われたたくさんのものが哀しくて、苦しくて、申し訳なくて、けれどもう一度確かめたくて。だけど苦しくてたまらないから、こんなに苦しいなら、もう心は要らないのにって。 ぽつりぽつりと、少女がこぼす胸の内に、零和がやるせない顔をした。 彼自身、そんな表情をしていると、自分で気づいていたかどうかは、判らない。 「だけど……でも、みなさんが言うように、心がなければ私は、そのすべてを感じることは出来なかったんですよね。もうどうしようもない、苦しい苦しいって思っているすべてが、『心』からの贈り物なのかもしれません」 だから、と彼女は言葉を継ぐ。 「どうしようもない気持ちは、きっとこれからも消えることはないけれど、私はもう少し、この心を携えていようと思います」 そして零和を見つめ、ぺこりと頭を下げる。 「ごめんなさい、ありがとう」 零和は戸惑ったように首を振り、 「僕は何もしていないよ。何も出来なかった」 「でも、あなたはずっと、いっしょにいてくれたから」 はにかんだ表情で押し黙るのだった。 頑是ない、可愛らしいそのやり取りに、撫子は微笑まずにはいられない。 5.それを心と人は呼んだ ゆったりと夜は訪れた。 今日は、『星』の降る日ではないようで、頭上を瞬く光の粒は、こちらへ近づいてくる様子もない。広場には、星空を愉しむアレグリア住民があちこちで見られた。 「魂とか心って、結局何なんだろうな?」 皆から励まされ、落ち着いた様子の雨鈴と零和を眺めやり、アキはつぶやく。 おそらく、明確な答えなどないと、誰もが理解しているだろう。 それはまさに、心の数だけ存在するのだ。 「ああ……ほら、きれいだね。さっきの夕焼けも、すごくきれいだったけど」 おっとりと微笑み、理比古が空を見上げる。 雨鈴と零和がそれに倣い、溜息をついた。無邪気な仕草で、自然と空へ伸びる手を、理比古のやさしい眼が見ている。 「俺はさ、心っていうのは、誰かの涙を止めたいって気持ちそのものだと思うな。あとは、夕焼けをきれいだと感じたり、星空に手を伸ばしたくなったりするのも、心の仕業だと思うよ」 強く意識すれば他者の深層意識すら覗ける、超級のテレパスたるアキにとって、それらはなおさら不可思議でよく判らないものだ。 「ゼロもそう思うのですー。心がなければ、何を感じることも出来ないのです。心とは一生のおつきあいで、離れることは出来ないのです。なら、慌てず親交を深めるのが一番手っ取り早くて確実なのですー」 「そうですよねぇ。それに、心って結構強いものですから、時間が経つうちに和らいで、受け止められる痛みだってたくさんあると思いますよぉ」 「うん、でもそれって自分だけの力じゃなくて、まわりのおかげでもあるよね。ひとりじゃ生きられないんじゃなくてさ、やっぱり、誰かがいてくれると心強いよ。重たい荷物だって、みんなで運んだら、ちょっとずつ軽くなるでしょ」 「ああ、僕はそれに助けられてここまで来たのかも。だから僕は、誰かの荷物をいっしょに運びたいって思うんだな」 ひどい傷を匂わせながらしなやかに折れない心を感じさせる理比古や、種族の違いゆえの多くの別れを経て今に至るらしいニコをはじめ、誰もが痛みや苦しみを持ち、時にその重さゆえに膝をつき胸を掻き毟り狂い嘆きながら、それでも多様に息づき――『次』へと続き、つながっている。 この、触れれば触れるほど判らない、神秘的なものは、誰の胸の中にも収まっているのだ。そっと開けてみれば、そこにあまたの感情を、命の道筋そのものを見ることが出来るのだろう。 「俺は死ねない身体だから、かえって思うんだよな。生きてるのと考えてるのは、全部心につながってんじゃねえかなってさ」 ベンチに腰かけて、無心に夜空を見上げる雨鈴と零和、雨鈴の隣で、彼女の手を取り微笑むアルティラスカ、零和の膝を枕代わりにうとうとし始めているティリクティア。ニコはそれを、最初に感じた軽薄さが嘘のように穏やかな眼で見つめているし、リニアはゆったりと子守唄を歌っている。 「異郷で見る星空が、こんなに美しいものだとは、思いませんでしたわ」 パティの言葉に、ぱらぱらと肯定の言葉が返り、 「心は、それぞれ別々のところに入っているもののはずなのに、同じものを見て美しいと感じるんですから、不思議ですよねぇ」 瞬く金銀を見つめ、撫子がほうと溜息をつく。 雨鈴は、そんな彼女をじっと見つめ、 「私も、そう思います」 静かに、しかしどこか力強くはっきりと言って、ふわり、と微笑んだ。 彼女の笑みを目にした零和はあからさまな安堵の表情を浮かべ、それからまた、星空を見上げる。 「ああ、安心したらおなか空いちゃいましたぁ。ティアさんと零和さんが買って来てくれた差し入れ、食べません?」 それを合図とばかり、うとうとしていたティリクティアもいい匂いに起き出してきて、ささやかなお茶会が開催される。 和やかさを増した空気の中、 「おや……懸案事項は解決したのか? なら、よかった」 唐突に、黒の夢守が地面から生える。 慣れていない者たちが思わずびくりとなる中――ちなみに、きょうだいであるはずの零和もその中に含まれている――、 「あっ、ゼロは一衛さんにお訊きしたいことがあったのです」 まったく動じない理不尽生物ことゼロがびしりと手を挙げた。 「ああ、どうした」 「ウィル・ソールさんにお会いすることはできるのです?」 ゼロの言葉に、一衛はあっさり首肯する。 「ウィル・ソールか。会おうと思えばいつでも会えるが」 「そうなのです? 報告書には、自らの言葉で意思を語ったり、旅人の前に姿を現したりする場面がなかったので、妙に思っていたのです」 「ああ……それは、その、なんだ」 いつも快活な十雷が、歯切れ悪くごにょごにょと言うのへ、 「あれは地味なんだ」 空気を読まない一衛がずばりと真実を言ってしまう。 「ちょおま、仮にも俺たちの『祖(おや)』だぞ」 「事実だ」 「太陽神なのに、地味……」 「まあ、そうなんだよ。シャンヴァラーラの主神は夜女神で、彼はその伴侶だからな。会いたいって言えば出て来るだろうが、彼はものすごくおとなしいんだ。自分からあれこれ話すより、人の話を聴いてるほうが好きってくらいの性質だしな」 「ふーん……あ、あれじゃね、今流行の草食系」 「草食系の太陽神って、なんか斬新ですねぇ」 結局、会ってみたいなら話を通しておくからまた要請してくれ、ということになる。 「プールガートーリウムさんは羊さんなのです? ゼロはお会いしてもふもふしてみたいのですー」 ゼロが要望を重ねると、ンバアアアァという気の抜けた鳴き声がして、いつのまにか背後に、漆黒の毛を持つ、どでかい羊が浮かんでいる。 「あップールガートーリウム。また抱きついていい? っていうかするよ?」 「なんと、理比古さんは経験者だったのです? では敬意をこめて先達とお呼びするのです」 「じゃあ私も! 私も抱きつきたい!」 ゼロと理比古とティリクティアが一斉に黒羊へ突進し、ふわっふわな手触りに歓声を上げる。おそらく、こういう扱いはされたことがないのだろう――なにせ、仮にも神である――、黒羊の眼は心なしか泳いでいるように見える。 「いやぁ、なんだか微笑ましい光景だなぁ。神と人間たちの心温まる光景! みたいなさ」 「ニコって大らかっていうか大物だな。……あっ、ちょ、なんか困ってるみてぇだからあんま理不尽な仕打ちはしてやるなよ! あとそれ一応神さまだからな!」 テレパスで黒羊の困惑を感じ取り、アキが注意する間に、撫子とリニア、パティまでプールガートーリウムをもふもふし始め、事態はより一層の混迷を極めてゆくのだった。 「得難い経験だな、プールガートーリウム」 その化身たる一衛は、真顔でもっともらしくうなずいていたが、 「そうだ、訊きたいことがあったんだ」 黒羊から離れた理比古が歩み寄ると、無表情に首を傾げた。 アキのテレパスは、理比古が奇妙な不安を抱いていることを漠然と伝える。 感情を希薄に設定されているという黒い夢守が、旅人たちとのかかわりの中、少しずつ心に広がりと豊かさを得てゆく喜びに重なる、不可解な疑念だ。 「なぜ、どうしてそれが気になるのか、訊かなくちゃって思うのか、俺自身、よく判らないんだけど」 「ああ」 「……ねえ、一衛はどこにも行かないよね?」 祈りのようですらあるそれに、しかし、一衛はほんのわずか、瞑目し、 「さあ、どうだろう」 思わず人間と見まがう表情で、微苦笑を返したのだった。 わずかな、変化の兆しをはらんで。 * * * 一夜明け、帰りのロストレイル。 「ん……あらぁ?」 「どうされましたか、撫子さん」 「いえ、昨日会ったロボットさんが、乗っていたような気がして。うーん、最初からいっしょに乗ってたんでしたっけぇ……?」 「そういえば私も、見覚えのあるロボットを見た気がするわ。でも、機械型のロストナンバーもたくさんいるから、判らないわね」 そんな、誰かがひとり多いような、不思議な錯覚を皆に抱かせつつ、螺旋特急は何もない空を走ってゆく。
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