異世界シャンヴァラーラに存在するあまたの【箱庭】のうち、もっとも多様で不可解な発展を遂げたもののひとつが『電気羊の欠伸』だ。 金属派生の生命が暮らす、不可思議ではあるが穏やかなその【箱庭】は、十色の神なる羊と、羊から直接生み出された十色の化身、そして化身を模してつくられた守り人たちによって護られている。 壱番世界に換算して四十世紀以上の文明、技術を持つここは、一般的な世界の人々にとって奇妙なことがらも多いが、他の追随を許さない力によって護られているため、無益な争いや諍いからもっとも遠い、静かに安らいだ世界でもあるのだ。 黒、黄、金、緑、青、赤、紫、灰、銀、白。 【箱庭】はさまざまな属性を持った十の領域に分かれ、それぞれの羊と化身たる『数持ち』、そして夢守たちによって司られ、護られている。それぞれの領域にそれぞれの属性を有する住民がいて、奇妙だが平和で穏やかな営みが、実に数十億年にわたって連綿と繰り広げられているという。 それら、十の領域の狭間であり頂点であり底辺でありどこでもない場所に、ゼロと呼ばれる領域がある。 ゼロ領域は、黒から白まで、十のすべての羊が自分たちの力を混ぜ合わせてつくった場所だ。 そこはすべてにおいて自由で、すべてにおいて許されており、そしてすべてからはぐれて孤独な、すべてでありなにものでもない、そんな場所なのだという。 ゼロ領域は狭間の地だ。 それゆえ、どこのものとも知れぬさまざまな魂が行き来し、迷い込み、旅立って行く。 その魂の受け皿となっているのが、再誕都市アレグリアだ。 二千年ほど前、羊たちによって生み出され、ゼロ領域の中心にたゆたう、喪われた魂の集う美しい街である。 厳密に言えば『電気羊の欠伸』本来の住民ではない、『外』から流れ着いた魂を持つ人々が暮らす街は、静謐で幻想的な十領域とは違い、人種の坩堝を思わせる多様さと色鮮やかさに満ちている。 先日、永く不在だったゼロ領域の化身が誕生し、街はいつにも増して賑やかに華やいでいる。 *「ん? 観光にきたのか?」 移動装置から降り立てば、白羊アーエールの化身、十雷(トオカミ)が目ざとく見つけて声をかけてくる。 頷き、周囲を見渡す。 アレグリアは、中世ヨーロッパを思わせる街並みに、時おり不思議な建物やオブジェが混じった、決して整然とはしていないが美しく温かみのあるまちだった。おとぎ話のような、という言葉がこれほどしっくりくるまちもあるまい。 壱番世界はドイツに存在する“中世の宝石”、ローテンブルクに、幻想のエッセンスを足したらこうなるだろうか。 街には、思わず目を奪われる建築物や、さまざまな品物を扱った店があり、観光や買い物、食事などを愉しむことが出来るようだ。「美しいところだろう。オレたちはデータとして、いろいろな『美』の知識を持っているが……この街は、百の知識では覆せないほど美しいと思う。十雷という個体のたわごとだけどな」 白の夢守は、どこか慈しむような眼で街を見つめている。 十雷の視線の先、街をゆくのは、姿かたちも多様な『ロボット』たちだ。 明らかに機械と判る身体のものから、アンドロイドやガイノイドと呼ばれるような、ぱっと見ただけではそれと気づけないようなものまで、驚くほどいろいろな人々がいて、ここはまさに人種のるつぼだった。 そう、ここに住んでいるのは、機械で出来た身体を持つ人々、いわゆるロボットたちなのだ。 外見も形状も多様なロボットたちには心があり、感情が、魂があって、ものを食べたり飲んだりすることもできるし、眠ることも遊ぶことも愛し合うこともできるといい、つまるところアレグリアでは人間と何ら変わりのない日常が営まれているのだという。「彼らは都市によって生み出され、ある日突然、街のどこかに現れる。だが、そのままでは、彼らはただの、行動をプログラムされた金属にすぎない」 生まれたての彼らは、空をずっと眺めているだけだ。 その金属の眼には、空以外の何も映らない。「だが、ある日突然、『それ』は訪れる」「それ?」「覚醒、オレたちは誕生とも呼んでいる」 アレグリアの夜には、空を裂き、星が降る日がある。 その、星のどれかがロボットに堕ちるとそれは起きる。 彼らの中に、忽然と心が生まれるのだ。アレグリアに降る星とは、煌めきながら注ぐ魂のかけらなのである。 ゼロ領域は、その特性ゆえに、魂や精神を司る黒羊の領域よりも曖昧模糊としたものを集めやすいのだという。「……シャンヴァラーラだけではない、ありとあらゆる世界で喪われた魂のかけらが、あそこに迷い込み、彼らの一体に宿る。そうして、彼らは目覚める。ヒトとして、再び生きるために」 非業の死を遂げたもの、天寿をまっとうできなかったもの、激しい悲嘆、狂おしい苦悩、無念、心残り、後悔を抱いて死んだもの。 そういう魂が多いようだ。 しかし、平穏に生きて幸いのまま眠りに就いたものの再誕が皆無というわけでもないらしい。ただもう一度逢いたかった、そんな可愛らしい思いを抱いて再び生まれ、二度目の出会いを果たしたものたちもいるのだそうだ。 そして、それら目覚めたものたちの心や記憶は、生前そのものではないのだという。「かけらだからなのか、『新しく生まれた』からなのか、それとも、『忘れたほうが幸せなこともある』から、かな。オレたちは、忘れることが出来ない存在だから、よくは判らないが」 彼らの大半は新しい生を甘受して、自分がロボットであることと、自分に心があることの双方を受け入れ、アレグリアでの営みを――引いては、『電気羊』やシャンヴァラーラとのかかわりを愉しみ、幸いを謳歌している。 しかし、中には、前の世で抱いていた哀しみに囚われたまま――もしくは、哀しみを抱いたまま再び生まれてしまった苦悩を嘆いて――、涙し続けるロボットも、いるのだという。「アレグリアは美しいまちだ。この、『電気羊の欠伸』にはない文化、営みが、彩り豊かに共存している。人々は大半において友好的だ、『外』からの旅人は歓迎されるだろう。好きなように過ごしてくれ、それがこの街の望みだ」 言って、十雷は旅人を見やる。「――……それに、もしかしたら、懐かしい誰かと出会うかもしれない。そのときあんたが何を思い、どんな行動を取るのか、興味深くも思う。ああ、いや、 興味深いって言葉は気を悪くさせるかな」 不思議な形状の瞳孔を持つ眼が、静かに細められた。 どこか懐かしい、不思議な感覚とともに、ロストナンバーは街へと歩き出す。 ――あまたある“新しい再会”は、小さな運命の顔をして、旅人を待っている。
アレグリアに入るなり、タリスはぴょんぴょんと飛び跳ねた。 「すてきなまち! にぎやか!」 となりでは、タリスが描いて生み出した、ねことサボテンが合わさったようなゆるキャラ、『にゃぼてん』も、タリスを真似してぴょこんぴょこんと跳ねている。 「色彩豊か。色がたくさんって、いいね!」 タリスは鮮やかな色が大好きだ。 赤、青、黄色、緑に茶色、桃色、紫に金銀、水色も茜色もいい。 深紅も真紅もいい。 空色も紺色もいい。 若葉色も、深緑色もいい。 その、生きている色たちを、タリスは愛する。 それによってかたちづくられた、世界というものも。 「とってもきれいなまち。わくわくしちゃう」 期待感たっぷりのタリスがくふふと笑うと、純白の髪をした長身の夢守は、 「タリスはここが気に入ったか」 「うん!」 「そうか。なら、好きなところを案内しよう」 そう言って、タリスをひょいと右肩に載せ、歩き出した。 にゃぼ、と鳴いたにゃぼてんが十雷の脚をよじのぼり、タリスと反対の肩に腰を落ち着ける。とかげのような尻尾を持った鴉猫とゆるキャラを肩に載せた男前夢守というのはなかなか不思議な光景だが、タリスもにゃぼてんも気にしていないし、街ゆくひとびとにも時おり変わった姿かたちのものがいるから、これはこれでアレグリアの『普通』なのかもしれない。 「何がしたい? どこへ行きたい?」 「判らない。だから、何でもしたいし、どこだって行きたいな。……ねえ、ここには、他の世界で死んだ人のたましいが流れつくって、ほんとう?」 「そうだ。……誰か、会いたい相手がいるのか?」 「うん……うん」 「それは、どんな?」 「わからないの」 「?」 「とっても大切なひとなんだ。今でも大好きで、会いたくて、その人のことを考えるだけでここがぎゅってなるのに、ぼく、その人の顔も名前も思い出せないの。どうしてかなあ? ここなら、その人にも会えるかなあ?」 タリスは、どこか寄る辺ない笑みを浮かべる。 十雷は、そうかと答えただけで特に何も言わなかったが、なるべく人通りの多い場所を歩いてくれたし、タリスの気持ちを明るくしようとしたのか、故郷や0世界ではみたこともないような飲み物や食べ物をご馳走してくれた。 サファイアの色をした果実をしぼり、たっぷりの果汁に、琥珀色の、レモンのようなかたちをした果実の汁をほんの少し落とし、蜂蜜の味がする氷を浮かべたジュースは、甘く爽やかで、意識がぱっと明るくなる清々しい酸味と、独特の香気を持っていた。 「ジュースおいしいね。だけど、ふしぎなジュースだね。宝石がジュースになったみたい」 「これは、湖底に実るサフィルエラという果実の汁だ。気持ちがさっぱりするというので、人気があるらしい」 「みずうみ?」 「アレグリア北端に、トロイヘマという小さな湖がある。まことなる宝石という意味の湖でな。そこには、生きた水晶の魚や、銀の鳥や、虹色の水草なんかがあるんだが、サフィルエラはその中でも一番美しいと言われている。金剛石のような幹と藍玉色の葉、青玉色の果実を持つ幻想的な木だ」 「ふうん……ぼく、見てみたいな」 「いいとも」 「あとね、あのね、ぼく、アレグリアの絵を描いてみたいの。いろんな人、いろんな色、見たいもの、描きたいもの、たくさんあるの! にゃぼてんも描こうね、いっしょにアレグリアたんけんもするんだもんね!」 「にゃぼ!」 夢守の肩の上でにゃぼてんがぴょこんと跳ねる。 ふたりの様子に快活な笑い声を立て、白の夢守は歩を進めた。 その先々で、タリスは、不思議で美しい、どこか懐かしい光景をいくつも眼にした。 筆と絵の具が楽しげに踊る。 * 彼は今日も絵を描いていた。 真っ青な疑似空を見つめ、雲の白さに目を細め、風の清らかさに微笑みながら、滑らかに筆を動かし続ける。黒いライオンを擬人化し、朗らかさのエッセンスを付け加えたような、愛敬のある姿かたちのアンドロイドは、 「世界は美しい。描くことは美しい。生きることは美しい」 謳うように言葉を重ねながら、大きなキャンバスに、大胆な構図と色遣いで絵の具を置いてゆく。 ゆったりと降り注ぐ明るい陽光に、知らず知らず口笛がこぼれる。 「ああ……なんて、満ち足りているんだろう」 それは感嘆の響きを伴っていた。 「俺は、もう一度ここに生まれられて、よかった」 ――彼は、描いた絵が動き出す世界『Visual Dreama』に生まれた。 絵と絵がぶつかり合い、自らの美しさばかり主張し他者の美しさを認めない、エゴイズムをむき出しにした争いに巻き込まれ、美しい絵たちの醜さに直面し続けて心を病んだのだ。 そのまま絶望し、その中へ埋没して滅びゆくのみかと思われたが、とある旅人たちが描く絵に触れて癒され、立ち直った。 “魔法”が途切れなければ、あのまま、あの小さな世界で絵を描き続けていただろう。 結局、“魔法”が切れて非業の死を遂げたが、彼自身の願いか、それとも誰かの祈り、もしくは嘆きのゆえか、彼は再びここへ生まれることが出来た。そして、大好きな、彼の根本と言って過言ではない絵を、好きなだけ、好きな時に描き続けている。 まちの人々は彼の描く絵を愛してくれる。 故郷を思い出すのだという人もいれば、この絵を飾ると幸せな気持ちになるのだという人もいる。“想い”が伝わってくるから好きなのだという人もいるし、感情が迫ってきて胸がいっぱいになるからいいのだという人もいる。 彼は、それらの絵を住民たちに売って生活していた。 おとぎ話のような街ゆえ、金を稼ぐすべがなくとも、誰かが手を差し伸べてはくれるのだが、彼は、自分の描くものが人々を喜ばせ、それによって対価が得られるという日々の営みをとても気に入っている。 今、彼が描いているのも、この街で目覚めたときから親切にしてくれている恩人に頼まれたものだ。アレグリアを一望できる、美しい丘からの風景である。 街を見つめていると、思い出すことがある。 あの、混乱とエゴと絶望ばかりの、モノクロの感情が支配する世界で、ほんのわずか、彼の胸を色づかせ、温める記憶だ。 「タリスはどうしているかな。それに、彼は」 ――最期に、想いを託した。 絵への、熱い、尽きせぬ想いを。 「俺は、こうしてまた、描けているけど」 ふう、と息をつき、氷薄荷茶を口に含む。 清々しい香りが、胸の中を風になって吹き渡ってゆく。 思いを込めて、ひとふでひとふで、色を置く。 銅の幹に翡翠の葉が茂る巨木を描きながら、つい最近だったようですらある別れの日を思いだす。 「あのふたりは、ちゃんと、描けているかな。怒っていたり、泣いていたり、絶望していたり、しないだろうか。――しているかもしれないな、哀しい別れだったから」 “もうひとり”が心を閉ざしてしまったことだけが、彼の気がかりで、心残りだ。ともに遺されたもの同士、タリスが彼を癒してくれればいい、心を開かせてくれればいい、そう切に願う。 「流杉。きみは今も、泣いているのかい」 そうでなければいい、笑っていてくれればいい、美しい絵を描き続けていてくれればいい、そんなふうに思いつつ――祈りつつ、彼は絵筆を滑らせる。 * 見た瞬間判った。 思い出した。 あの人だ、そう確信した。 絵を描くのが好きだと言ったら、比較的新しい住民で、絵を生業にしているものがいると十雷が教えてくれた。 案内してもらった先で、その人を見た。 黒獅子獣人の姿をした精巧なアンドロイド。 手には絵筆と絵の具パレット。 アレグリアを一望できる丘で、絵を描いている。 ――彼だ。 そう思ったとたん、タリスは走り出していた。 「クレオー!」 全力で走り込み、飛びついて、押し倒す勢いでしがみつく。 「クレオ、クレオ、クレオ! やっと会えた、思い出せた。ライオンさん……じゃない、クレオ!」 クレオと呼ばれた獣人型アンドロイドは、しばし呆然としていたが、 「どうして忘れていたんだろう、どうして思い出せなかったんだろう。うれしい、うれしい、うれしい。うれしいよクレオ、もう一度会えた、ぼく、本当にうれしい」 タリスがぎゅうぎゅうと抱きつくと、 「……タリス……!」 たくましい両腕で、そっと抱きしめた。 声には万感の思いがこもっていた。 「ずっと、ずっと伝えたかったことがあるの。どうしても伝えたくて、だからどうしても会いたかったの」 「伝えたかったこと?」 「うん。あのね、ありがとう。クレオのおかげで、ぼくは“想い”をいっぱいみつけたよ。たくさんたくさん見つけたよ。だから、おれいを言いたかったの。ありがとうって、クレオのおかげだよって、言いたかったの。それが叶って、ぼく、ほんとうにうれしい」 いつしかタリスは、クレオの胸に顔を埋めて泣きじゃくっていた。 「どうしてかな、なんでかな、こんなにうれしいのに、幸せなのに、なみだがいっぱい出てくるよ。どうしてだろうね、とまらないんだ」 泣きながら、笑いながら、細い、小さな腕でクレオを抱きしめる。 タリスの頭の上に、にゃぼてんが飛び乗り、にゃぼ! と鳴いた。 「見て、ぼくが描いたんだよ。ぼく、いっぱいいっぱい描きたいものがあるんだ。描きたいものができたんだ。それ、全部、クレオのおかげだよ。ありがとう……ほんとうにありがとう。クレオと出会えてよかった。もう一度、ここで会えて、ほんとうによかった」 クレオは、一生懸命に心のうちを、感謝の言葉を紡ぐタリスをじっと見つめていたが、ややあって首を横に振った。 「お礼を言うのは俺のほうだ。――ありがとう、俺も、本当にうれしい。まさかここで、君と再会できるなんて、夢みたいだ」 明るい、朗らかな笑みとともに、もう一度タリスを抱きしめる。 タリスはくすくすと笑って、強くクレオに抱きついた。 そこからしばし、互いの近況など話したあと、クレオは少し、言いづらそうにそれを問うた。 「なあ、タリス」 「?」 「彼、は?」 ふたりの間で『彼』と言えばひとりしかいない。 タリスは頷いた。 「今は哀しいの。だけど、クレオをみたら、きっと元気になると思うんだ。笑えるようになると思うんだ。ぼく、三人でいっしょに絵を描きたい。みんなで描けば、もっともっと楽しいと思うから」 同意するように、にゃぼてんが「にゃぼ!」と鳴く。 「頼んでいいかい、タリス。俺も、もう一度彼に会いたい。会って、俺は今幸せだから、君も幸せになってほしいって伝えたいんだ」 クレオの願いが理解できないはずもなく――なぜならそれはタリス自身の願いであり祈りでもあったから――、タリスは満面の笑みとともに、元気よく頷いた。 「うん。ぼくも、三人で会いたい。彼に笑顔が戻るのを見たいよ」 人間のものとはつくりも質感も違う、異形の、異質の、しかし確かな体温と存在を持った手指どうし、小指を絡めて『約束』を交わす。 「絶対に会いに来るよ、彼といっしょに。出来ることなら、かなうなら、今すぐにでも!」 ようやく掴み得た希望が、弾けるような笑顔になって零れ落ちる。 アレグリアは、そんな喜びを包み込んで今日も輝いている。 ――再会は果たされ、約束はなされた。 哀しい眼をした青年が、半信半疑の表情で、鴉猫に引っ張られてアレグリアを訪れるのも、そう遠いことではないだろう。
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