漆黒の海面を縫うように滑る海よりなお黒い影。ビッシリと生え揃った、鋼の帷子のような鱗が、時折、月光を反射してぬめぬめと光る。禍々しくも神秘的なその光景を見つめていると、すべてが非現実のように思えてくる。――これは夢だ。とても美しい。アウレーリエは波間に突き出した岩礁の上にいた。見知らぬ土地で目覚めたアウレーリエは見知らぬ人間たちに捕われ、奴隷船に乗せられ、嵐に遭い、海に投げ出された。彼女は一生の半分を海中で過ごす一族の生まれであったが、其処には故郷の海にはいない化け物が棲息していた。同じく海に投げ出された奴隷商人たちは次々に化け物の餌食になった。歌っていると恐怖を忘れる。アウレーリエは人間とは違った発声器官を使い、空気を震わせる。どれほどの時間が経ち、何人があの蛇の犠牲になったのか。アウレーリエは、歌い続ける。 * * * 「みなさん、ミカンはお好きですか?」長身の青年司書がにこやかに問うた。 「ブルーインブルーにあるエオフェニアという島は、柑橘系の果物の輸出で有名なんです。今回の任務は、その島に飛ばされたロストナンバーを保護する、というものです」 真理に覚醒し、元の世界を放逐されたロストナンバーは、転移先の世界での混乱を防ぐ為、そしてまた彼ら自身を消失の運命から救う為に、世界図書館によって保護されることになっている。 世界司書アマノは、手にした『導きの書』のページを繰った。 「彼女の名前はアウレーリエ。元の世界では太陽神に仕える歌姫でした。生まれつき言葉を話すことはできませんが、『トラベラーズノート』の効力によってこちらの言葉は通じます。彼女はテレパシストです。精神感応によって意思の疎通を図ってくるでしょう。一番の問題は……」アマノが一枚の紙にするすると紐のような絵を描いていく。 「これです」と、紐の絵を見せられてきょとんと首を傾げる旅人たちに、「……大きな蛇のような海魔です」と説明を付け加える。 「彼女はエオフェニアで一番大きい港から北の方へ回った岬、その沖数キロ以内の岩場のどこかにいる筈なのですが、当該海域には凶暴な海魔がいて、簡単には近付けなさそうなんです」アマノが眉を顰めた。 海魔は大人の男を丸呑みしてしまうくらいに巨大で力が強く、その鱗は槍や弓でも歯が立たないほど固いという。 「まずはこの蛇を退治して頂くこと。それから、彼女を保護してくださるようお願いします。おそらく自分の身に起きたことに混乱して怯えているでしょうから、安心させてあげてください。往復のチケットと……、これは、彼女の分のチケットです。みなさん、きっとご無事で帰ってくださいね」
第一幕 ミカンも歌を聴くのも大好きですっ♪ 井上ほたるは、そう元気に言って、ペコリと頭を下げた。 太陽の恵み豊かな南方の島、エオフェニア。 活気ある港町の市場はいつも変らぬ賑わいを見せており、色鮮やかな果実や花々が石畳の路地に並べられた様は、まるでおもちゃ箱をひっくり返したように雑然としてエネルギーに満ち溢れ、美しい。 そいで、そいで、おいしそうで、楽しくて、綺麗! ほたるは空を見上げて、うぅんと伸びをした。 切り揃えられた銀色の髪が、陽の光を浴びてキラキラと光る。 抜けるような青い空の下、元の世界を放逐されたロストナンバーを保護するため島を訪れた旅人たちは、それぞれ来るべき戦いに備え、支度を整えていた。スキンヘッドの彫り師、柴 越後は彼のトラベルギアであるウォレットチェーンの手入れに余念がない。皮職人を名乗る流芽 四郎は、以前ヴォロスに行った際、手に入れ損ねた巨大蛇の皮を思い描きながら自作した皮鎧を装着すべく準備している。闘牛士であるフアン・ロペス=セラーノは海魔を引きつけるため、闘牛士の衣装と、ムレタと呼ばれる赤い布を以て相対する心積もりである。 そしてほたるはと言えば。 露店に積み上げられた、新鮮な柑橘類を矯めつ眇めつ、心ゆくまで吟味しているのであった。 勿論、水着の準備だってばっちりだよっ。 水玉リボンがポイントの、可愛いスカート付きのビキニ、持ってきたんだから。 ほたるの準備は他のメンバーのそれとは多少違っていたけれども、目的は同じだった。 ――何としても蛇を倒して、アウレーリエさんを助ける。 ほたるは、みなの足手まといにならないよう頑張ろうと心に決めていた。 「えっと、じゃあミカンをください! そう、それっ、おっきくて綺麗なの!」 「あいよー、これね、お嬢ちゃん、可愛いからひとつオマケしとくよ!」 「わーい! ありがとおじさん♪」 嬉しげに笑って、肩から提げたカバンに大事そうにミカンをしまう。 アウレーリエさんはきっと不安だろうから、おいしいものを食べたら、気持ちも落ち着くんじゃないかな?って思って。笑顔で話すほたるに、「ええ、きっと喜んでくれると思いますよ」と越後は言い、八重歯をのぞかせて微笑む。 スキンヘッドに複雑でカラフルな模様の入った、ピアスだらけの越後を、ほたるは当初「うん、怖いひとだっ」と認識していたのだけれど、短い旅の間に、その印象は一変していた。とても礼儀正しくて紳士的だし、可愛いものが好きなのは私と一緒だもの。 フアンさんもそう。ほたるは隣に立つ褐色の肌の男をちらりと見上げる。 最初は、年の割に落ち着いていて、取っ付きにくそうな人かなあと思ったけど、ロストレイルの中で自慢の水着を見せびらかしていたら、ああ、それは溌剌と美しい君が着てこそ、引き立て役の務めを果たす為に一層輝くに違いない、だなんて、冗談でも無さそうに言うのだ。そしてそれが決して不自然に聞こえない、大らかで、男らしいひとなのだった。 「そうだな。オレの故郷でも、収穫の季節にはオレンジの実があちこちで見られたものだ。もしかしたら、アウレーリエにとっても馴染み深い果物かもしれない」そう言ってフアンは店先のオレンジをひとつ手に取ると、その芳しい香りを吸い込み、故郷に思いを馳せるように目を細める。 「ああ、そちらのケアはお任せする。どちらかと言えば、あっしは、モノ言わない相手の方が得意ですからね。さあ、船の手配をしてこよう」 船着き場で交渉を始める、どことなく風変わりながらも着実に自らの務めを果たしてゆきそうな四郎の後姿を眺め、ほたるは確信する。 このメンバーならきっと大丈夫。 ……なんだかちぐはぐではあるけれど。 その分、互いの足りないところを補い合えるメンバーなのだと、ほたるの直感は訴えていた。 夕刻過ぎ。4人のコンダクターは、船を動かせるだけの僅かな船員を伴って、静かに出港した。昼間は柔らかに頬を撫でた風が、いつの間にか凪いでいる。 可能であれば明るいうちに海魔を仕留めたいというのが全員の意見であったが、現地で調べる限り海魔の出現は夜に限られており、また何人かの船乗りが耳にしたという女の歌声も同様だというのでは、司書が示した広い海域を何の目印も無く探索するなどということは到底不可能で、出発を遅らせざるを得なかった。問題の海域へ踏み込むことを嫌がる船乗りが多かったこともあり、四郎が交渉の末に協力を取り付けた船員たちは、船が海魔の住処と言われる場所に近付いたところで積んである小舟と4人を降ろし、安全な所で待っている、という手筈になっていた。 船は穏やかな海をゆるゆると進む。 目的の海域は岩礁が多く、熟練の船乗りでも、ひとつ間違えば座礁して身動きが取れなくなる恐れがあった。 目的地まであと僅かというところで、年かさの船乗りが唸った。 「悪いが、これ以上は無理だな」 甲板で行く先を見つめていた4人が、顔を見合わせる。 「大きな時化(しけ)が来る」 海が荒れ始めれば、繊細さを要求される岩場での航行は困難だった。僅かな時間で状況が一変する。それが海の恐ろしさだ。奴隷船の船員たちは海の脅威を十分に知らなかったのだろう。生温い空気に雨の匂いが混じる。 着実に、嵐が近付いていた。 「ありがとう、ここで結構だ」 軽くため息をついて四郎が礼を言い、4人は船乗りたちと共に小舟を降ろす。 「あんた達の無事を祈ってるよ」 帽子を取り見送る船乗りたちを、ほたるは一瞬心細げに振り返り、ふるふると、恐怖心を振り払うように首を振った。器用に舟を操りながら越後が、そんなほたるを励ますように笑い掛ける。「大丈夫。きっとうまくいきます」その言葉に、四郎とフアンも力強く頷いて見せる。 海魔はこの近くにいる筈だ。油断はできない。弱気になってちゃダメだ! ほたるは自分の直感と仲間たちの無事を信じることに決め、ぎゅう、とパスホルダーを握った。その中に眠るセクタンに話しかける。 行くよ、ぽてと。頼りにしてるからね。 太陽が海の向こうに消え、風が強くなってゆく。 その狂騒の中。 風と波の砕け散る音に混じって、微かに、微かにひとの声のようなものが聞こえる。 研ぎ澄ました意識の先、ついに捕らえたその声を逃さぬよう、フアンは拳を握り締めて祈った。 第二幕 聖母マリアよ、オレ達とアウレーリエに、慈悲を。 ひとたび獲物を見据えれば、二度と目を逸らすことは無い。 それは、闘牛士である彼の習性と言っても良いだろう。 此処へ至るまでの航海の途中、フアン・ロペス=セラーノはひとり船室で戦いの支度を整えていた。船上か岩場が戦いの舞台となるのであれば、遠距離攻撃に向かない自分には不利だ。だが幸いこの勝負は一対一の戦いでは無い。 自らを囮にして海魔の注意を引くため、フアンは彼の正装を選んだ。 魂を掛けた舞台にこそふさわしい、光の衣装。 『Vestido de Luces』。 金糸の刺繍が施された絢爛な上着に袖を通せば、どんな戦場も彼のアレナ(闘牛場)になる。 ――海魔は動くものを襲うという。 海魔に遭遇した船乗りは言った。 ならばオレの技は有用だな。見ていろ、釘付にしてやる。 次第に激しさを増してゆく波風の中、微かな声が、大きく、小さく、途切れ途切れに旅人たちの耳へ届く。 < ち か づ か な い で > ふいに、フアンの脳裏に言葉のイメージが弾けた。 「近付くな、だって?」 辺りを見回し、メッセージの送り主を探すも、彼ら4人のほかに人の姿は見えない。 当ても無く海面へと視線を泳がせ、フアンは目を見張った。 ぶくり。ぶくり。 歌声に合わせるように、うねる波に黒い泡が生まれ、海面が不自然に隆起する。 ――大きさ? 頭から尻尾まで、蛇の全身を見た者はいない。 だが船乗りを丸ごとつるりと飲み込んじまうとこを見たやつはいるぜ。 瞬間、山のように盛り上がった波が、船に向かってくるのが見えた。 「ヤツだっ!!」 フアンが叫び、旅人たちが身構える。 舟が大きく持ち上げられ、海面に叩きつけられた。 「きゃあっ?!」バランスを崩したほたるを、四郎が素早く支える。 船底を通過した影は、物凄い速さで遠ざかったかと思うと、ぐるりと旋回して再び真っすぐに舟を狙ってくる。 越後は素早く舳先の向きを変え、突き出した大きな岩の一つに近付いて、彼のセクタンを呼び出した。 フアンが軽やかな身のこなしで岩に飛び移る。 岩を避け、軌道を逸らす海中の影に向かって、ムレタを振りかざしフアンが叫んだ。 「オーラ! デカブツヘビ! そんなにノロくちゃ、昼飯にありつけないぞ!」 声に反応して方向を変え、ざぶり、と海面から巨大な頭をもたげた蛇を狙い、越後のセクタン、赤殿中が炎の弾丸を放つ。体勢を立て直したほたるも、パスホルダーを翳してフォックスフォームにチェンジさせておいたぽてとを呼び出し、続けざまに炎を飛ばした。 しかし。 ――鱗。ありゃあ固いなんてもんじゃない。俺は、一度だけヤツと遭遇したことがあるが、矢だろうと銛だろうと突き刺さりゃしねえ。反対にどんな丈夫で鋭い刃もぼろぼろになっちまったって。 「……何か変ですね」 「うん、あのヌルヌルした鱗に当った途端、炎が消えたみたい?」 蛇は炎の眩さに一瞬怯んだものの、ダメージを受けた様子も無く、悠然と波間を縫って奔る。首を傾げた二人の頭の中に、先程よりも強いイメージが流れ込んだ。 < は や く に げ て > はじかれたように、互いの顔を見る。 「アウレーリエ!」 叫んで辺りを見回すも、周囲の岩場に人の姿は無い。 イメージはフアンにも届いていたが、彼は今まさに、戦いの最中にあった。 幾度も思い起こした、船乗りの言葉がよみがえる。 ――弱点は。ただ、ひとつ。ひとつだけ。目だよ。 暗い海のなかに爛々と光る目が、ふたあつ、並んでいるだろ。 狙ったものはいるが、ヤツの動きが速すぎて誰にも仕留められなかった。 致命傷にはならんかも知れんが、勝機があるとすれば―― 真っ向勝負か。望むところだ。 「さあどうした! こっちに来てみろ! ウスノロめ!!」 海面から斜めに突き出した岩場で足を踏ん張り、深紅のムレタを翻して叫ぶフアンを目掛け、徐々にスピードを増しながら、巨大な海魔が突き進む。 フアンが大きく息を吸い込み、右手で剣を構えて、ひた、と蛇を見据えた。 『Sol y Sombra』――日向と日陰――、ムレタと対の存在である細身の剣。 これで、終わらせてやる。 見る間に縮んでいく両者の距離に、ほたるが思わずぽてとを抱きしめて目をつぶる。 飛沫が上がり、波間から不気味に光る眼が現れた、その刹那。 フアンは飛び上がり、獲物を見失い見開かれた蛇の右目を、深々と貫いた。 怒りと苦痛に蛇が咆哮する。 「やった!」四郎の上擦った声にほたるが目を開けると、剣ごと蛇に身体を持って行かれたフアンが、のたうち回る蛇に投げ飛ばされるのが見えた。 「フアンさん!!」 数メートルも吹き飛ばされ、突き立った岩に叩きつけられたフアンが、ずる、とそのまま岩場に崩れ落ちる。 四郎がすぐさま舟を岩場へ向かわせるも、深手を負い、牙を剥いて暴れ回る蛇がその行く手を塞ぎ、辿り着くことが出来ない。 海魔はいよいよ本性を現したようだった。 先程までは獲物を弄ぶような余裕を見せていた蛇が、今は獰猛な魔物となって、狂ったように獲物の命を狙っていた。 蛇の怒りが呼んだかのように嵐は激しさを増し、冷たい雨が旅人たちの体を打つ。 気圧されたように立ち竦む旅人たちの耳に、そのとき、柔らかく、彼らを勇気付ける音が響いた。 美しい歌声であった。 ほたるが顔を上げる。「アウレーリエさんが、近くにいる!」 じっと海魔の様子を窺っていた四郎は、歌が聞こえてきた瞬間、海魔の動きが鈍くなったことに気付いた。「今がチャンスだ。そっちは頼んだ」越後に告げると、声とは逆の側からフアンのもとへと向かう。「了解!」と越後は返して、思いのままに長さを変えられるウォレットチェーンを操り岩の凹凸に引っ掛けて、声の主へと向かって岩から岩を飛んだ。 蛇は、響き渡る歌声に惹かれるように、岩礁の一つを目指す。 アウレーリエは、その岩の端にぺたりと座っていた。 金色の髪も、身体にまとう薄い衣も、ぼろぼろに乱れ、擦り切れてしまい、見るも痛々しい姿である。何日にも及ぶ恐怖にやつれ果て、それでも彼女の声は豊かで、不思議な力に満ち溢れていた。 歌姫は向かってくる海魔を恐れもせず、ただ無心に歌い続ける。 海魔の反対から回り込むように、越後が彼女を救出するべく、砕け散る波を避けて、岩を飛び移ってゆく。 海魔が先か、それとも。 「私だって弱点、わかってたよ! だって、目玉はやわらかいからーっ!」 舟の上からほたるが叫んで、蛇の目を狙い、ガラス製のチャクラムを投げつける。 まず一撃。続いてもうひとつも見事に命中し、蛇は頭部から血を流しながら、不気味な声を上げて海中に逃げ込んだ。 「よ……っと。ふう、助かった。援護、ありがとうございますー!」 アウレーリエのもとへと辿り着いた越後が叫んで、ほたるに向かって大きく手を振る。ほたるを乗せた船もまた目的の岩場に着き、四郎がフアンを助け起こすのを確認して、越後は歌姫へと向き直った。「お待たせしてしまいましたね」 歌うのを止めて大きな目を見開き、小刻みに震える歌姫に優しく語りかける。 「こんにちは、アウレーリエさん。私、柴と申します」 第三幕 貴女を助けに参りました……ナイトです。 柴 越後は、アウレーリエに向かって紳士的に手を差し伸べ、「あっ、こんな格好ですが無害ですよ?」と、付け加えた。彼自身、自分の身なりが相手に与える印象については十分に理解しているのである。 土砂降りの雨の中、先程まで自分の命を危険に晒していながら、この期に及んで、このセリフ。なんとも緊張感の無い、ちぐはぐな自分に思わず笑うと、つられる様にアウレーリエが微笑み、それを見た越後はようやく安堵する。「一緒に貴女の故郷に帰りましょう」 捕われた女性を助けるのは、男の役目。 奴隷商人に捕われ、次には蛇に捕われた姫君に、越後は同情的であった。女性を酷い目に合わせるなんて、男の風上にも置けない。絶対に助けて見せる。 そうして、今や目的の半分は達した。 あとは彼女を世界図書館まで送り届けること。 5人一緒に、ターミナルに戻ること、ですね。 越後はそう自分に言い聞かせながら、上着を脱ぎ、アウレーリエの肩に掛けた。 「びしょ濡れで、余り役には立たないかもしれませんが」 困ったように言う越後を見上げ、にこ、と感謝をこめて笑うアウレーリエの手を取り、迎えの船を待つ。 アウレーリエは、無邪気な女性であるようだった。 あれほど酷い目に遭っていながら、警戒心というものをほとんど見せない。怯えて手が付けられないかも知れない、くらいの覚悟を、越後はしていたのだが、彼の隣りに座っている歌姫はもはや安心しきって、あまつさえ、ウトウトと微睡んでいる。 「テレパシスト、か」 先程、混乱のさなかに頭に響いた言葉を思い出す。その言葉は、音というより、脳に直接訴えかけてくるイメージ、といったものだ。彼女は、彼女を助けに来た越後たちを殺させないため、遠ざけようとしたのだ。見たところ20代……自分よりも少し下、というところだろうか。子供のような顔をして眠るアウレーリエが少しでも安心できるよう、越後は「よしよし」と言いながら、彼女の小さな背中を撫でてやった。 蛇の沈んだ場所を挟んで向かい側の岩場では、ほたると四郎のふたりが、フアンを介抱しているところだった。フアンは、彼のセクタンであるニーニョの護りによって、軽い打身と掠り傷程度で済んでおり、身代りにダメージを受けたニーニョはぐったりとしていた。 「悪かったな、ニーニョ」フアンが上半身を起こしてニーニョの額(?)にキスをする。 「あんたがそこまで無鉄砲な男だとは思いませんでしたよ」 「そうだよっ。死んじゃうかと思って心配したんだからー!」 口々に責めるふたりに、フアンは「死ぬつもりはなかったもんだから、説明しなかったんだ」などと真顔で言い、四郎を呆れさせ、ほたるを余計に怒らせた。 「まぁ、無事だったからいいんだけどね!」緊張から解放されて、なぜかプンプンしているほたるが、はっと我に帰る。「そうだっ! アウレーリエさん!」 「遅いから、心配しましたよー」 数分ののち、ようやく反対側の岩場に近付いた舟に向かって、越後が手を振る。 「ごめんねー?! フアンさんが悪いの!」 「いや、そういう訳でも無いんですが」 「そっちも、無事だったようだな」 口々に言いながら現れた3人の様子を、目を覚ましたアウレーリエが興味深げに眺める。 「ご紹介しましょうね。アウレーリエさんです。で、こちらが」言い掛けた越後を遮るように、ほたるが手を上げる。 「はい! 私は井上ほたる! こっちがぽてとだよっ♪ 大変だったよね、アウレーリエさん。私たちが助けに来たからには、もう大丈夫だからねっ。安心してね?」 勢いに押されて半歩下がったアウレーリエが、ほたるの元気な様子にふわりと笑うと、ほたるも一緒になって、えへへ、と笑った。 「フアン・ロペス=セラーノだ。Me alegro de verte.(貴方に会えて嬉しい)」そう言ってフアンはアウレーリエの右手を取り、恭しく持ち上げる。貴婦人に対するかのような態度に、歌姫は嬉しげに微笑んで返す。次いで最後のひとりを見遣るアウレーリエに、「あっしは流芽 四郎という者です」簡潔に名乗って、「紹介が済んだら、急いだ方がいい」と、乗船を促した。 「そうですね。あの蛇は死んだわけじゃないですから」越後が表情を引き締めて言い、アウレーリエの手を取って舟へと乗り込む。 5人のロストナンバーは嵐の中、約束の場所へと舟を急がせた。 このまま無事、辿り着きさえすれば、少なくとも、第一の目的は果たせたことになる。 けれども。 釈然としない思いが、旅人たちの中にあった。 既に多くの人間の命を奪った海魔。それを放置して帰るのか。 勿論、その為に目的が果たせなければ本末転倒だが、しかし。 黙り込んだ旅人たちの前を、不穏な影が通り過ぎた。 「迷っている余裕は無いみたいだな」フアンが不敵に笑う。 「私は、出来ればこのまま帰ろうと思ってたんですが」と、越後がため息をついた。 「……諦めきれなかったんだろう、蛇は。諦めきれなかったのは、あっしも同じですがね」 「今度は、抜け駆けなしだよ!」戦いに備えて武器を手に取る四郎に、ほたるが続く。 「おっと」ほたるは振り向いて、「大事なこと、忘れてた。アウレーリエさんに、これあげるね!」と、カバンの中からミカンを取り出す。 「絶対にあいつを倒して戻ってくるから、待っててねっ」再び始まるであろう戦いに、不安な様子を見せるアウレーリエの両手を握り、ミカンを持たせてぎゅう、と握ると、アウレーリエは、こくん、とひとつ頷いた。 宵の口から降り続いていた雨が上がり、雲の切れ間から月の光が漏れる。 月光を反射して波間に煌めく明りが、海魔の所在を示している。目を潰されて方向感覚を失ったのか、海魔は不自然に巨大な頭を振りながら海中を彷徨い、少しずつ、旅人たちとの距離を詰めてゆく。 「お役目、今度はあっしに譲って頂きますよ」静かに、しかしキッパリと言い放たれた四郎の言葉に、フアンは一瞬首を傾げ、そして笑った。 「ああ、わかった。しかし、はっ、オレを無鉄砲だと言ったのはアンタの筈だが」四郎が胸に抱えたセクタン、六郎の、凛々しくも悲壮な表情を眺めて注文を付ける。「撤回してもらおうかな? アンタには負ける」 「なんとでも言ってくれ」 四郎は海魔を正面に真っ直ぐに立ち上がり、いつものように淡々と、宣戦布告した。 第四幕 さて、海魔殿、この命を賭け金に挑んだ勝負です。 「……貴方のその気品ある外皮を頂きたいのですが」 流芽 四郎の蛇への執着は、まさにその皮にあるのだった。 今度こそ手に入れる。以前のような失敗はしない。もう二度と。 四郎は、動物の皮を切る為の、小さな刃物の柄を握り締めた。 「行きますか」 四郎の声を合図に、4人が目配せを交わす。 先陣を切って、ほたるが舟を飛び出した。 「蛇さん、こーちらっ♪」歌うように言い、隣り合った岩を次から次へと飛び移りながら、ぽてとに炎の弾丸を撃ち込ませ、手負いの海魔を惑わせる。「んー、蛇さん長いから、これでぎゅって、結べちゃったりしたらラクなんだけどっ」「それで十分、後は私が引き受けますよ!」越後が、のたうつ蛇の体にウォレットチェーンを絡ませて、縛り上げていく。「こういうのはあんまり好きじゃないんですけど……この場合はしょうがないという事にしましょう」 切り立った岩の間に縛り付けられた蛇の前に舟を運ぶと、フアンは眉一つ動かさず、自分の腕にナイフの刃をすーっと滑らせた。鮮血が滴り落ちる、その匂いに蛇ががばり、と口を開けて牙を剥き、その瞬間を逃さぬよう、越後がウォレットチェーンを噛ませる。「ぽてとふぁいあーっ!!」怪力でチェーンを引き千切ろうと足掻く蛇の口内に向かって、ほたるが仕上げとばかりに炎の弾丸を放たせた。 「いまだ!」叫ぶフアンの声を背に、小柄な四郎が蛇の体内へと飛び込む。 蛇が、何とかして異物を吐きだそうと激しくのたうちまわる。 死に物狂いで暴れる蛇の怪力に引っ張られたチェーンが岩と擦れ合い、金属質の、耳障りな音を立てた。 「あまり長くは、保たないかも知れない……!」越後が悲鳴のように叫ぶ。 どちらにしても勝負を長引かせるのは危険だった。 内側を攻撃している四郎を援護すべく、ほたるとフアンが外側からも攻撃を加える。ふたりはすぐに気付いていた。喉元から腹にかけた個所には、鱗が無い。 「四郎さんは、ここから出てくるはずっ」ほたるのチャクラムが、のけぞった喉に命中し、キィンと高い音を立てた。不自然な音に、ほたるが攻撃を止める。 次の瞬間。月光に照らされた蛇の白い喉が、裂けた。 海鳴りのように断末魔の声が響く。 海魔の白い喉に、真っ赤な血飛沫が不規則な模様を描いた。 その赤の中心には、ナイフを握り締めたままの、四郎の姿が。 四郎もまた血に塗れて赤く染まっており、ほたるは思わず悲鳴を上げる。 ふらりと傾いた四郎は、そのまま海へと落下した。 フアンとほたるが慌てて四郎を救いあげる。 幸い、海魔の牙は皮鎧を貫通しておらず、四郎の意識はすぐに戻った。 彼のダメージをの大半を、セクタンの六郎が肩代わりした為でもあったが。 必死に蛇を縛りあげていた越後は、蛇がだらりと弛緩した、その反動でウォレットチェーンを握っていた手を滑らせた。ずるずると、巨大な蛇が沈んでいく。 頭を振り、意識と、視界をはっきりさせようとした四郎が、目前の光景に目を見開いて跳ね起きた。 「……逃がしてなるものか!!」 必死の形相で叫ぶと、蛇に絡み付いたウォレットチェーンをしっかと掴み、後を追う。 「ちょ、貴方まで一緒に沈む気ですか!」慌てた越後が手を伸ばすも、巨大な蛇は四郎を道連れにして、あっという間に深い海の底へと見えなくなっていった。 「う…そ、でしょ……?」 思いもかけない出来事に、呆然とする一同。 それから、どれほどの時間が経過したのか。 ぼこ、ぼこと、海面に泡が浮かびあがり、続いて四郎が姿を現した。 ゆっくりと持ち上げた右手には、巨大な蛇の頭と、まだそこに絡み付いたままのウォレットチェーン。 「Enhorabuena!(やったな!) アンタは大物だ!」 いつもの無表情に得意げな色を浮かべた四郎に、フアンは賛辞を送り、肩を抱いて祝福した。 「なんでみんな、心配かけるかなあ?!」と、ほたるは憤り、越後はそれを宥めるのに必死だったという。 終幕 『太陽と海の歌』 帰りのロストレイルを待つ間、一行は、港町で冒険の疲れを癒した。 ほたるがプレゼントしたミカンは、アウレーリエにとって幸運の象徴になったようで、あの日以来、彼女が朝食にミカンを欠かすことは無い。 太陽の恵み多き土地を故郷に持つフアンは、太陽の巫女である歌姫に、ゆっくりと根気強く、彼女の置かれた状況と、彼らのこれからについての話をした。トラベラーズノートの力を借りてさえ、それは困難なことであったけれど、フアンは決して諦めなかった。 アウレーリエは、今はすっかり落ち着いて、世界図書館へ向かう時を待っていた。 5人で過ごした最後の夜。 四郎が、海魔の皮を切り取り、保存が利くよう簡単な処置を施したものを手に現れた。 「遺物だ。沈んだ文明の」 皮は、4人の知っている『生き物』のそれとはまったく違った物質で出来ていた。黒ずんだ金属質の鱗。その隙間を埋める粘着質の液体は今は乾いていたが、入手直後には、四郎の愛用の器具を溶かしてしまったという。 「あの海魔が、目を潰されて暴れ出したのを覚えてるか? それが一瞬で大人しくなった。あの時、海魔は……歌を聞いていたんだと、あっしは思う」淡々と四郎が語る。「奴隷商人を皆殺しにしても、アウレーリエは殺さなかった」 「あの蛇が歌を?」フアンの問いに、ため息交じりに越後が呟く。 「もしかしたら、共鳴したのかもしれませんね。故郷を見失った孤独の姫と、歪に発達し滅んだ文明の迷い子、か」 ふいに訪れた、悲しみとも寂しさともつかない心細さを振り払うように、ほたるが請う。 「ね、楽しい歌、リクエストしてもいいっ?」 「アウレーリエさんの歌、私も聴かせて頂きたいですね」越後が言い、フアンも同意するように笑った。 一瞬きょとんとしたアウレーリエが、頷いて目を閉じる。 そして流れ出す、妙なる調べ。 聞いたことも無い不思議な響きの言葉。 だけれども、その連なりが響き合い、意味を成し、詞(ことば)になり―― ほたるには、聴こえてくるような気がするのだった。 生きとし生けるもの すべてのものに 捧げよう この歌を 歌おう 貴方の名を 歌おう 命の喜びを 歌おう 太陽と海の歌を―― 了
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