深夜過ぎ、男はふいに目を覚ました。 冬だというのにじっとりと汗を書いている。 嫌な予感がした。 普段すぐそばにある筈の体温が感じられなかったのだ。 黄金色の眠り姫。 ――彼の美しい宝、ジュリエット。 その男、リシャール・H(―・アッシュ)とジュリエットは、インドで出会った。 家業で世界中を飛び回っていた彼は、とある仕事の際、取引相手の所有物であった彼女を見初めた。雷に打たれたような、それは、まさしく一目惚れであった。 運悪く取引には別の組織の横槍が入り、取引相手は殺され、彼自身も左足に重傷を負ったのだが、その混乱に乗じてリシャールは赤ん坊だった彼女――生後間も無い雌の豹を浚ったのだった。 ジュリエットは主人の愛情を一身に受け、健やかに育っていった。 幼い頃から組織の幹部となるべく教育され、窮屈な生き方を強いられてきた彼にとって、純真で奔放なジュリエットは愛すべき天使であり、彼の憧れそのものだった。 開け放した窓から流れ込む夜気に掠れた声で、その名を呼ぶ。 常ならば、彼女が出入りしやすいよう僅かに開けてあるドアの隙間からするりと音も無く部屋へ入り、キングサイズのベッドの柔らかなスプリングを軋ませて、優雅なしぐさで彼の隣りのスペースへと上がってくる彼女が、いくら待っても姿を見せない。 男はベッドから起き出し、彼のトラベルギアである小型のナイフを手に取った。 屋敷は南仏によく見られる緩やかな丘陵地帯にあり、周囲を見渡せば広大な畑の中にいくつかの人家が目に付くものの、それらの住人たちも今は寝静まっているのだろう、灯りは見えない。 空に浮かぶ月だけが、ただ静かに辺りを照らしていた。 リシャールは屋敷の中に彼女の気配が無いことを確かめると、敷地内にある小屋に向かった。 屋敷の背後には鬱蒼とした森が広がっている。 小屋には森番が住んでおり、時折森で捕らえた獲物の料理などを作っていたために、腹を空かせた彼女がそのおこぼれに預かろうと入り込んでいた、というようなことが過去に何度かあった。主人以外には滅多に近寄らない彼女も、この森番にだけはよく懐いていた。 近付くに連れ漂ってくる血なまぐさい臭いに、今夜は新鮮な兎の狩人煮(ラパン・シャッスウル)――兎の肉を兎の血のソースで煮た料理――でも作ったのに違いない、彼女は敏感にそれを嗅ぎつけたのだろうとその居所を確信しかけて、ふと足を止める。 森番が今日から2、3日休暇を取って母親の元で過ごしたいと申し出ており、執事を通してその許可を与えたことを思い出したのだ。 ……だとすればこの臭いは。 リシャールは小屋のドアを開けた。 灯りは点いていない。 窓から冷たい月の光が射し込むばかりだ。 その光の先に、獣が蹲っているのが見えた。 姿形は豹に近いが大きさは倍ほどもあり、頭部には角が生えている。 月光を反射して白い毛皮が輝き、まるでそれ自体が発光しているかのようだ。 足元の赤黒い血溜まりは、何か大きな生き物が流したものらしい。兎よりもずっと。 獣の口の端から覗く、見覚えのある靴底に、リシャールは思わずよろめき、壁に手を付いた。 人の気配を感じ取り、可憐な乙女は無邪気に瞳を煌めかせ、振り返る。 濡れたガラス玉のような瞳。 面影を残していたのはその瞳だけ。 だがそれだけで――、リシャールには彼女が判った。 彼女も、彼女の主人に気付いたのかも知れない。 いまや巨大な化け物に変じた血塗れのジュリエットは、名残惜しげに長い棘に覆われた尾を揺らし、あとはもう二度と振り向かずに、真っ黒い森の中へ消えた。 * * * 「ファージ変異獣というのをご存じでしょうか」 童顔の青年司書、アマノが顔を上げ旅人たちを見回した。 「先の北海道遠征の折に、目の当たりにされた方もおられるでしょう。ファージは<ディラックの落とし子>の一種で、その世界の生き物に寄生します。放っておけば徐々にテリトリーを広げ、侵入した世界を変質させてしまうため、速やかに排除しなくてはなりません。ジュリエットはファージに寄生され異形化してしまったんです。……残念ですが、元に戻す方法は見つかっておらず、殺してしまうよりありません」 近隣の住人の間で「夜の森」と呼ばれているその場所では、既に浸食が始まっており、森の中は僅かな光も射さない闇に覆われている。 地面は腐ったようにぐずぐずに崩れ、歩き難いことこの上も無い。 ジュリエットは木の枝を素早く飛び移って森に侵入するものを追跡し、隙を見せれば襲い掛かってくるという。 「リシャール・Hという人物についてですが」 アマノが、『導きの書』のページを繰って付け加える。 「彼もまた世界図書館に所属するコンダクターのひとりです。今回の依頼に同行しますので、出来るだけ協力して事件の解決に当たってください。――そうそう、彼の屋敷には、小さいですが年季の入ったワインセラーがあるそうなので、ご自慢の逸品を振舞ってくれるかもしれませんね。勿論、未成年にアルコールは禁物ですよ」 らしくもなく真面目腐った表情を作って、彼は壱番世界への往復チケットを差し出した。
prologue 暗闇に沈んだ森を、漆黒の獣が駆ける。 一体どれ程の時間が経ったのか。延々続く悪夢のような森の風景は、一心不乱に走る獣から時間の概念を奪った。 先刻から一向に代わり映えのしない絵に引っ掻き傷を付けるかの如く、三つ目の狼――リュカオン・リカントロープは不快気にその整った顔を歪める。己が喉元から漏れる、ひゅうひゅうと笛のような音が耳障りだった。 内臓も筋肉もかなり消耗している。リュカオンは冷静に身体の状態を評価する。 意識を失ったままの主税(チカラ)をその背に乗せ、ぐずぐずと腐ったような地面を全力で走り続ける行為は、ゆっくりと着実にリュカオンを苛み、終わりが見えないという事実は猶お、彼の疲労に拍車をかけた。 終わりが見えない。 ふいに頭に浮かんだ言葉にぞわりと毛が逆立つのを感じる。感覚という感覚を研ぎ澄ませて走るリュカオンが方向を見誤るなどということは、通常の状態であれば決してあり得ない。『夜の森』はその名の示す通り昼なお暗い森ではあったが、周囲には一筋の光さえ差さず、もともと夜目が効くリュカオンであればこそ移動の妨げにはならないものの、得体の知れない、茫漠とした不安にやんわりと包まれ、彼は傷付いた身体だけでなく己の精神までもが闇に蝕まれてゆくのを感じ始めていた。まるで彼らの存在する空間ごと魔性の森に呑み込まれてしまったようだった。 浸食は既にそこまで進んでいるのか。 皮膚を切り裂くイバラの枝をかき分け、パートナーであるリュカオンを守り導くように走る白い狼が唐突に速度を落としたのに気付き、リュカオンは際限無く拡散していきそうになる意識を集中させ、周囲の気配に神経を尖らせた。 前方に圧倒的なエネルギーを感じる。 答えを確かめるように足を止める。 暗闇の先に浮かび上がる二つの光。 ――見上げた枝に立ちはだかるは、純白の魔物。 闇夜の森のジュリエット 1.前夜 「――では、決行は明日の夜明けに」 落ち着いた声音でイェンス・カルヴィネンが告げると、旅人達はそれに応えて頷き、視線を交わした。 リシャールの屋敷は、十六世紀頃に付近を治めた領主が狩猟用にと建てた質素な別宅を改築したもので、それでも一人で暮らすには十分過ぎる程の広さがある。温かみを感じさせる黄味がかった煉瓦造りの屋敷の中では、屋敷の主人と、世界図書館からの依頼を受けこの地を訪れた四人のロストナンバーが、それぞれに思いを巡らせながら明日の作戦決行に備えていた。 コレット・ネロはテーブルにグラスを置き、芽吹いたばかりの若葉を思わせる澄んだ緑の瞳をゆっくりと瞬かせて、この屋敷と、今回の標的であるジュリエットの主人――リシャール・Hの様子をうかがった。凭れ掛るように椅子に腰かけ、無精髭もそのままに憔悴しきった様子は、小柄な男をますます小さく見せる。 「その辺にしておかないかい? 今夜はもう休んだ方がいい。差し出がましいことは言いたくないけれど、あまり度を越すと明日に響く」 もう何杯目かもわからないワインを口に運ぶ男をやんわりと窘めるようにイェンスが言うと、リシャールが口の端を歪めて笑う。「……どうせ眠れない」 ひと息に赤紫の液体を呷ってグラスを置こうとした手元が狂ったのか、がちゃ、と大きな音が響き、奥のカウチで隣に眠る白い狼を撫でていたリュカオンがちらりと視線を向けた。イェンスが息を吐き、壁際に控えていた大柄なメイドに向け軽く手を上げて合図を送る。 「御主人を寝室へ」 頷いたメイドが手を貸すのを邪険に振り払い、男がドアの向こうへ姿を消すと、コレットが瞳の色を翳らせて言った。 「……リシャールさん、ジュリエットさんのこと、振り切れてるのかしら」 「あの様子を見ている限りではとてもそうは思えないね」 イェンスが思案するように目を伏せる。 「事情を察するに、致し方あるまいの」 黙って成り行きを見つめていた主税が淡々と言った。「……俺とて気は進まぬが、森が浸食されることは防がねばならん」 リュカオンは無表情のまま、三人の会話を聴くともなく聴きながら、グラスを傾けている。彼の本来の糧に似た液体は――似ているのは見た目ばかりであったが――、小さな棘が突き刺さったかのような彼の心持ちを鎮める効果を持っているようだった。 抜けない棘。僅かな痛み。苛立ち。悲しみというには不確かな。 リシャール氏には、気の毒なことだ。冷静に思う。 愛するものが、まるで違ったものに変わってしまう。別離と呼ぶことすらできない喪失。相手が相手だけに変質を受け入れるという訳にもいかないようだ。ならば。 せめて、苦しまぬように止めを刺してやれればいい。 あやふやな感情は消え、リュカオンの金の瞳が再び開かれた時には、迷いの無い意志のみが宿っている。 テーブルに置かれたグラスのうち、コレットのグラスには、他のグラスの液体よりも淡い紅色の液体が揺れていた。リシャールがコレットの為に用意した飲みもので、ブドウの果汁をペリエで割ったものだ。口に含めばほのかな酸味と深い甘みが広がっていく。 初めて訪れる場所、初めて相対する獣に、コレットは不安を覚えていたが、他のロストナンバー達とリシャールの屋敷で過ごすうち、次第に心は落ち着いた。 (……私より、リシャールさんの方がずっと不安なはずよね) その先にいるリシャールを気遣うように男が消えていった扉を見つめ、彼女は自分に言い聞かせる。 しっかりしなくちゃ。私は、私に出来ることを精一杯するだけ。 初めて会った時、リシャールはコレットを見て息を呑んだ。 「……失礼、あなたの美しい髪に見惚れてしまった」 言われなくても分かる。写真で見たジュリエットは綺麗な金色の毛並みをしていた。太陽の下、黄金の体躯をしならせて駆けるさまはさらに美しかったことだろう。だが、陽の光を浴びてきらめく彼女を見ることは、もう誰にも叶わないのだ。 差し出された男の右手にコレットはその白くか細い手を添えながら、男の目をじっと見つめた。目を逸らすことが出来なかった。微笑みの形に細められた目の奥に燻ぶる怒りと苦悩。何故と思わずにはいられまい。ふつふつと煮え滾る感情を誰にもぶつけることが出来ないまま、リシャールは笑っていた。それを見て、コレットは決意を固めたのだ。 コレットは、孤独と絶望を知っていた。 精神に受けたダメージは時として肉体的な苦痛を伴う。 イェンス・カルヴィネンもまた、リシャールの置かれた状況と、彼の取り得る行動――取分け、ある最悪の可能性について――を憂慮していた。 愛しい人を失う辛さを知っている。 それだけに、先程のようにアルコールが入れば多少取り乱しはするものの、平時は泣きごとのひとつも漏らさないリシャールの静かな様子にむしろ不穏なものを感じずにはいられない。彼から目を離してはいけない。イェンスは作戦遂行の際にも、出来る限りリシャールの傍を離れないよう行動するつもりだった。 愛する姫をその手に掛けねばならない男。 残酷なおとぎ話のようだ。眼鏡の奥の、深緑の瞳が煙る。 尤も、昔から、おとぎ話は残酷なものであるけれど。 児童文学作家であるイェンスはしかし、彼の作品においてハッピーエンドを好んだ。この地においても目指すものに変わりは無い。イェンスは意識せぬままに彼のトラベルギアがしまってある胸元のポケットに手を遣り、目を閉じた。 例え残酷でも、早く終わらせてやりたい。ジュリエットも彼も、これ以上傷つき、汚される前に。 2.夜の森へ 南郷 主税は武士である。 「……またしても、南蛮人に囲まれたようだの」 主税は、世界図書館で今回のメンバーと初めて顔を合わせた折、怪訝そうに旅人たちの姿を見渡した。 普段の姿ではあまりにも目立ち過ぎると考えた彼は、今回の作戦に合った服装を一式準備してもらうよう、世界図書館を通じて要求してあった。結果、主税は予想外に窮屈な思いをすることになった。 「新品で無くて申し訳ないが」と、リシャールが差出した服は、身体にぴったりと合ったシャツにジャケット、膝丈の短ズボンという古式ゆかしい狩猟用のスタイルだったのだ。元の世界では長身で通っていた主税だが、フランス人の男性にしては「小柄」なリシャールより僅かに高い程度で、彼の服は誂えたようにとはいかないまでも、丁度良い大きさであった。ターミナルや旅先で目にはするものの着慣れない洋服を、主税はなんとか自分で身に付けて、玄関に現れた。勿論下は褌のままだ。 「南蛮人はきっつい格好をしとるの。動きにくくないんか」メイドの太い腕でブーツの紐を締めあげられながら呻く主税に、コレットが微笑んで返す。「用途に合わせて、丈夫にしたり、動きやすいようにしてあったりするんですよ。馬に乗ったり走り回ったりする時には、締める部分は締めた方がいいんです。それに、靴も…… 主税さんの、サンダルのような履物ではきっと怪我をしてしまうわ」 「馬になら、袴でも乗っておったが」ぶつぶつと呟きながら、主税は思う。 (かつて虎を狩ったとかいう、殿様がおったの。俺の住んでおった土地には虎などおりはせぬ故、見たことは無いが) 「して、豹とはどんな猫なんかの」 主税の問いに、コレットが首を傾げた。「猫?」 「うむ。たしか、リシャールは『豹』と一緒に暮らしておった筈。それが『ファージ』によって化け物になってしまったと。そういえば、俺の元いた世界にも化け猫なるものがおると聞いたことがある」 「『豹』は猫では無いよ」壁に飾られたジュリエットの写真を手に、イェンスが引き取って答える。「化け猫とは興味深いね。確かに豹はネコ科の動物ではあるけれど。この写真を見る限り、毛の色といい模様といい、ジュリエットは普通の豹とは違うようだ。違法に品種改良されたものかもしれない。いずれよからぬ組織の実験動物か何かだったのだろう」 「新しい種として造られて、そうしてまた変異してしまったのね……」目を伏せたコレットの言葉に、一瞬の沈黙が訪れた。 「……そろそろ夜が明ける」 リュカオンが低く言い、漆黒の狼へとその姿を変える。 準備を終えた主税は皮のベルトに留め具を取り付け、彼のトラベルギアである妖刀『七つ指』を佩いた。「猫で無くとも為すべきことはひとつ」 「十分に気を付けて。すぐに追います」 イェンスの言葉にリュカオンは軽く頷き、白狼を伴って走り出す。普段着にコートを羽織り、小さなナイフだけを手にしたリシャールも現れ、四人は屋敷を後にした。 「夜の森」は屋敷のすぐ裏にある。 朝露に湿った芝生。その先に木々の立ち並ぶ森があり、森の中には森番が住んでいたという小屋が見える。凄惨なその最期が頭を過ぎり、コレットの足は竦んだ。 辺りが次第に明るくなるにつれて、森はその名の通り、夜の闇に沈んでいくようだった。彼らの立つ芝生と森との間には目に見えない境界線があり、境界を越えたものは、二度と元の世界には戻れない。そんな妄想に捉われる。 主税は胸一杯に朝の空気を吸い込み、一歩を踏み出した。感覚が冴えわたっていくのを感じる。惑わされはしない。 (きっと浸食のせいだわ)コレットも妄想を振り払い、あとへと続く。 イェンスは、森を見つめナイフを握り締めて立ち尽くすリシャールを宥めるように語りかけた。「屋敷で待っていてもいいんだよ。僕たちが片を付ける」 「いや」視線を外さないまま、リシャールが答える。「行かなければ。世界図書館からの依頼を引き受けた以上、これは私の仕事でもあるのだから」 「では行こう」 それに。イェンスは、声に出さずに思う。 ジュリエットは君を待っている筈だ。リシャール。 こうして旅人たちは「夜の森」へと足を踏み入れた。 ナラやカエデなどの広葉樹の幹に、イバラの蔓が巻きついている。温かな地域特有の豊かな森が、いまは生気を失い、立ち入る者を拒むように静まり返っていた。 痛々しい木々の姿に、コレットが思わずその幹に触れようとするのを主税は止め、短刀で棘だらけの蔓を切り落とした。 「不用意に触れば怪我をするぞ」 「ごめんなさい……ありがとう」 (可哀想な森。はやく浸食を止めなければ) 地面を踏みしめるごとに、ずぶり、ずぶりと靴がめり込む。 この状態で歩き回るのは得策でないと、リュカオンは昨夜、自ら囮役になりジュリエットをおびき出すつもりだと告げた。司書の話によれば、ジュリエットは侵入者が隙を見せると襲い掛かってくるという。それを逆手に取り、返り討ちにする。獣は餌で釣るのが一番だと主張していた主税もその案に異論は無く、まずはジュリエットを発見し、ひと息に倒してしまうというのが彼らの計画だった。 イェンスは彼のセクタンであるガウェインを飛ばして視界を共有しつつ、先行するリュカオンの様子を見守っていた。オウルフォームのガウェインは光が無くとも通常通りの視界を確保することが出来る為、イェンスは、持参した懐中電灯をコレットに預け、後ろから皆の足元を照らすよう頼んだ。泥対策にと準備した長靴と杖のおかげで、幾らかは負担が減っているようだ。左後ろを歩くリシャールの呼吸は荒く、早い段階で疲労の色が見えたが、彼はただ黙々と歩を進めた。 そんなリシャールの様子を、コレットも、泥に足を取られながら、注意深く見守っている。 (リシャールさんは、ジュリエットさんのことで無茶をしそうだから……もしジュリエットさんに襲われそうになったら私が止める。目の前で誰かがジュリエットさんに倒されたら、きっと、リシャールさんも、ジュリエットさんのことを振り切れると思うから) コレットはそう、覚悟を決めていた。 ふ、と、イバラを掻き分けながら皆を先導していた主税が歩みを止める。 リシャールが顔を上げると、振り返り、「空気が変わった」と呟く。 手にした杖を握り締めてイェンスが、こことは違う場所に意識を繋いだままの、焦点の合わない瞳で言った。 「彼女がいる。彼女はリュカオンを」 狙っている―― 3.白い魔物 襲い掛かる牙を、リュカオンは、辛うじて避けた。 そのままの勢いで木の幹にぶつかり、巻き付いた棘だらけの蔓に皮膚を裂かれる。通常の、植物の棘では無い。近付けば攻撃の意図をもって襲い掛かってくる。 森は深まるにつれて凶暴さを増していった。 リュカオンの視覚を以てすれば朧げながらも後方に見えていた仲間たちの姿さえ、魔性の木々に遮られ、今では気配すら感じない。威嚇するように牙を剥く白い狼の姿を視界の隅で確認し、リュカオンは自分を襲った獣の姿を探す。鬱蒼と生い茂る木々の隙間を縫って太い枝を飛び移る、薄ぼんやりとした影が見え隠れする。獣はその巨大さをものともせず、軽々とした身のこなしで、まるで狩りを楽しむようにリュカオンの周囲をぐるぐると跳び回った。 まずは獣の動きを封じるべく意識を集中した瞬間、獣が描く円を裂くように、刃物が蔓を切り払う音が響き、まず主税が、続いてイェンスに導かれる様にコレットとリシャールが、闇の中から湧き出るように姿を現した。 「リュカオンさん!」コレットが悲鳴を上げる。 両者の距離自体はそれ程無かったのだ。リュカオンは前足の付け根あたりからどくどくと流れ落ちる血を気にも留めず、冷静に現状を分析する。 獣は森を操り、森に守られている。だとすれば、勝機は―― 「ジュリエット」 優しく呼びかける声に、獣が足を止めた。 数秒、声の主を見つめ、思案するように静止したのち、再び枝を飛び旅人達から遠ざかろうとする獣を、リュカオンが追う。 と、まるで一連の動きを読んだかのように先回りしたコレットが、両手を大きく広げて獣の前に立ち塞がった。「しまった」その意図を悟ったイェンスが飛ばしたトラベルギア、グィネヴィアが届くよりも前に、獣の吐く息がコレットの金髪を揺らした。突如目の前に現れた美しく新鮮な獲物を、しかし獣がその牙にかけることは叶わず、大きな爪に皮膚を引き裂かれたのは、咄嗟にコレットを庇った南郷 主税だった。 飛び散る鮮血にコレットが絶叫する。 足元に転がった主税の肩を獣の牙が貫く。 ぶつり、と肉の千切れる音が聞こえた。 「ジュリエット、やめろ!」リシャールが叫び、走り寄る。 イェンスはグィネヴィア――女性の長い黒髪を操り、ジュリエットが獲物から気を逸らした一瞬の隙を突いて、主税の身体を獣から遠ざけた。「リュカオン、主税を……」 リュカオンが、主税のベルトを咥え、自らの背中へと放り上げる。獲物を奪われまいと牙を剥き襲い掛かろうとするジュリエットの眼を、リュカオンの額の眼が真っ直ぐに捉えた。ジュリエットが動きを止める。リュカオンがじりじりと後退する。再び仲間たちとの距離が開き、彼らの間に暗闇の幕が下りる。 コレットの、悲痛な声だけが響いた。 「お願いします! 主税さんを助けて――」 次の瞬間、グィネヴィアがジュリエットの四肢に絡み付いたのを見逃さず、リュカオンは束縛の魔眼を解き、森の出口へと向かって全力で駆け出した。 ジュリエットは怒りも顕わに激しく暴れ回り、身体を縛りつける黒髪を引きちぎる。大きな戦力を失った旅人たちが、残された力で敵を打倒するべく身構えるも、自由を得たジュリエットは、追い縋る隙も与えず太い幹を駆け上がり、再び深い闇の中へと消えていった。「ジュリエット。どうして……」呻くようなリシャールの声も空しく周囲の闇に溶け、二度と、ジュリエットに届くことは無かった。 イェンスの導きで、ジュリエットの気配を探りながら、三人はぐったりと重く、ともすれば崩れ落ちそうになる身体を奮い立たせ、歩き続ける。 感情を失ったように呆然と、ただただ前へと足を運ぶコレットに、イェンスは、掛ける言葉を決めあぐね、苦い息だけを吐き出す。彼らが逃げ切れると信じている。けれどもそれを口に出せば、その願いさえも闇に呑み込まれてしまうかのような、不条理な恐れから逃れられない。 ……ジュリエットはいまでも、リシャールを認識しているのか。 目にした光景を脳裏に思い描く。 ジュリエットがリシャールの声に反応したこと。 ジュリエットがリシャールを避けているらしいこと。 ジュリエットには、変異前の記憶も、本能を制御する理性も残っている。 イェンスはそれまで、出来ることならリシャールに止めを刺させてやりたいと考えていた。それが彼の、彼とジュリエットの為であると。だが果たしてそれは正しいことだろうか? 森に入った時から変わらず、イェンスの左後ろを歩くリシャールは、森に入った時よりもずっと確かな意志をもって動いているように見える。コレットは、自分の行動が、半分は正しかったことを確信したものの、残りの半分は取り返しのつかない、大きな過ちだったと感じていた。口数は少ないながらも周りの仲間を気遣い、行動していた主税の姿を思い浮かべる。一刻も早く彼の無事を確かめたかった。謝って、心から、お礼を言いたかった。無意識のうちに、コレットの歩みが速まる。 ――もうひとつ。間近でジュリエットと向かい合ったコレットだけに分かったことがある。ジュリエットは彼女の主人を覚えているにもかかわらず、コレットに襲いかかった瞳には底無しの闇が渦巻いていた。紛れも無く、彼女は変質していたのだ。悲しみも憎しみも無い、空虚な瞳。<ディラックの空>とは、あるいはこのような『虚無』ではないのか。 遠からずジュリエットは、自らをコントロールする力を完全に失うだろう。 はやく。 コレットは薄青い柔らかな色合いの服を血と泥で汚しながら、前へ、前へと進み続ける。 はやく、ジュリエットさんに会うのだ。もう一度。 彼女に別れを告げるために。 不意に、ガウェインと視覚を繋いだままのイェンスが、声を上げた。 「Perkele!(畜生!)」 「どうしたんだ! まさか、まさか……」 ただならぬ様子にリシャールが食らいつくように声を荒げ、頭に浮かんだ最悪のビジョンを言葉にすることすら出来ずイェンスの腕を掴む。 「いや……彼らはふたりとも無事のようだ。だが、あれは一体」 ジュリエットの周囲はいまや、彼女を包む空間自体がいびつに歪み、闇が溶け込んだかのような空気は濁って息をすることさえ難しく、至近距離まで近づいた三人は、急激な変化に対応できずに目眩を起こした。「ここに、いる」上空からふらふらと降りてきたガウェインを受け止め、イェンスが頭を振って辺りを見回す。 「これは……」 三人が目にしたのは、リュカオンが念入りに準備した、最後の舞台だった。 血の匂いが呼んだのか、再びジュリエットと遭遇したリュカオンは、直ぐに攻撃を仕掛けることをしなかった。指一本動かすことすら困難な空間で、傷付いた重い身体を引きずるように泥の中を駆け、ジュリエットの攻撃をかわしながら周囲の枝を落とし、積み重ね、リュカオンは、彼らを散々苦しめた泥沼のような地面が戦いの妨げとならぬよう、少しずつ足場を固めていたのだ。 「主税さん!」 コレットが叫んで、太い幹の影に横たわる主税に走り寄る。主税の隣には、彼を守るように、白い狼が座っていた。コレットは息苦しさに必死で酸素を吸い込みながら、彼女のトラベルギアである羽ペンの力を駆使して包帯や薬を描き出し、傷口に素早く応急処置を施していく。主税は意識を取り戻しており、布を裂いて作ったひもで腕を縛りあげていた為に出血も止まっているようだった。「驚かせてしまったようだの」 擦れてはいるものの、いつもの口調に、コレットが安堵のあまり座り込む。 「本当に、ごめんなさい……ありがとう」 「それを聞いたのは二度目だの」主税が笑う。「三度目は、聞かん」 舞台の中央では、リュカオンが最後の力を振り絞り、魔眼を用いてジュリエットの動きを封じ込めていた。イェンスに迷う隙さえ与えず、リシャールが真っ直ぐに舞台へ上がり、小さなナイフを取り出して身構える。銀製の持ち手に繊細な模様が彫り込まれたナイフは、リシャールのトラベルギア、『Elysium』。 「頼みがある」 リシャールが主税の方を向いて言った。 「私は非力だ。恐らく、一撃で終わらせることは出来ないだろう。だから、」 「相分かった」 言い終えるのを待たず、全てを察した主税が頷くと、リシャールは安心したようにジュリエットに向き直った。 主税が身体を起こして立ち上がり、すらりと刀を抜く。 コレットが祈るように胸の前で手を組み、目を閉じた。 リュカオンが、魔眼の束縛からジュリエットを解き放つ。 じゃれ付くように飛び掛かってきたジュリエットを、リシャールは手にしたナイフでしっかりと受け止め、その耳元で何事か囁いた。 「南郷 主税、義によって、助太刀致す。――御免」 主税が無事であった右手のみを使い、ただ一太刀、振り下ろす。 この体は、貴方の鞘。 ここで錆びて。 私を死なせて。 イェンスには、どこからか、覚えのあるフレーズが聞こえたような気がした。 epilogue 丘の頂上からは、広々としたブドウ畑と、その中にぽつりぽつりと点在する古い教会や民家が見渡せる。 「リシャールさんの家は、あそこね」 強く吹いた風に乱された金の髪を抑えながら、コレットが指差す先に、赤い屋根の屋敷。さらにその奥には『夜の森』が見えた。森は以前の穏やかさを取り戻し、朝の光に若葉をきらめかせている。 旅人たちは、すべてが終わった後、ジュリエットをこの丘の上に埋めた。 「ジュリエットさん、きっと喜んでいるわ」 ジュリエットの好きだった場所を、コレットはリシャールに尋ね、全員で力を合わせてこの場所まで彼女を運んだのだ。 「本当に、ここを離れるのかい」イェンスの問いに、リシャールは懐かしむようにブドウ畑を見渡した。 「こことは違う世界を見てみたい。ジュリエットの傍を離れるのは寂しいけれど」 「新居が決まったら教えてくれるね? そして……、いつかでいい。ジュリエットの話を聞かせて欲しい」 眼下の景色から目を離さないまま、リシャールが頷く。 丘を登る道すがら、主税は目に付いた赤い花を摘んで小さな花束を拵え、白い石を積んで造った目印の前に飾った。「何故ということもないが、ジュリエットには、赤が似合うと思うての」思いを馳せるように言う主税に、コレットが微笑んで同意する。「自由奔放な、情熱的な子だもの。私もぴったりだと思うわ」 リュカオンは彼のパートナーを従え、少し離れたところにある岩に腰かけ、森を見下ろしている。白い獣を打ち滅ぼして守った『夜の森』の美しさを思い、隣でゆったりと日向ぼっこする狼――ノーナの首筋に顔をうずめる。 「……リシャールさんは、ジュリエットさんのこと、愛していた?」前触れも無く、ほろりと零れ落ちたようなコレットの言葉に、リシャールが顔を上げる。 「愛してたのなら、よかった。……きっとジュリエットさんは、生きている間、すごくすごく幸せだったと思うから」 返事の代わりに涙がひとすじ、リシャールの頬を滑り落ちた。 ……それからしばらく経ったある日のこと。 イェンスはターミナル内のとある場所を訪れた。 「本当に来てくれたのか」心から驚いた顔をするリシャールに、「僕は約束を守る男なんだよ」と、悪戯っぽく微笑む。 「綺麗事かも知れないがね。死者は忘れられた時、もう一度死ぬそうだよ。彼女を愛しているなら、それはEi(否定の意)じゃないかな」 リシャールが目を伏せたまま、その意味を噛みしめる様に頷く。 それから二人は、いろいろな話をした。家族のこと。仕事のこと。ワインや、童話や、シェイクスピアについて。 「そういえばね。メイドが送って寄越したんだ」 貴方にも見て欲しい。そう言ってリシャールが見せた写真には、丘の上の墓標と、すぐ隣に植えられた小さな苗木が写っていた。『ジュリエット』と名付けられたその薔薇は、先日来の暖かな日差しに固い蕾を膨らませていて、春になれば、真紅の花を咲かせるという。 了
このライターへメールを送る