薄暗い部屋の中、段ボールや板切れを組み上げ重ねて作った机のようなものの上に、奇怪な模様が書き込まれた紙片を広げ、探偵は髪をかきむしりながら呻いた。「呪い殺すって?」「はい」「……あんたを?」「はい」「これがその、呪術に使う紙だ、と」「紙と言うか、御札ですね」 殺されるという割りに、青年の話しぶりは落ち着いて、淡々としている。 取り立てて何の特徴も無い、強いて言うなら見るからに真面目そうな青年が、ご近所探偵ヤン・シーイィのもとを訪れたのは、自身の護衛を依頼する為――では無い。 本当のことが知りたいのです、と、青年は語った。 青年の住処に札が貼られたのは3日前。 二か月前には彼の許嫁が同じように札を貼られ、一週間後に彼女は失踪したという。 死んだとは限らないのではないかという問いに青年は、生きていればわかると言い張った。右目に浮かんだ涙を隠すように、見つめるシーイィから顔を背ける。「犯人の、目星はついてんのか?」「僕が元いた組織でしょう。僕は彼女を失って――、逃げ出したんです」「組織の名は」「ミトラファーマ(Mitra Pharma)」 * * *「ミトラファーマと言うのは、大きな製薬会社なんだそうです」世界司書アマノが『導きの書』から顔を上げて言った。「青年は会社の研究施設に所属する科学者で、あらゆる生物の寿命について研究していたとか。失踪したという彼の許嫁も、別の部門の研究者でした。ただ、部門ごとに研究内容は極秘で、互いが何の研究をしているのかは、分からないようになっていたそうです」 見るからに怪しそうですよね、とアマノは顎に手を当ててうなる。「というわけで今回は、この青年を呪うものの正体――、どこの誰が、何故、彼を殺そうとしているのかを調べて欲しい、是非、手伝ってほしい!というシーイィさんからのご依頼です。あ、ちなみに」 手にした皮張りの本のページを繰る。「呪術についてはシーイィさん、詳しくないのだそうで、その道の専門家にも応援をお願いしていると聞きました。『呪術師』という職業自体、インヤンガイには珍しくないのですが、彼らに仕事を依頼するには莫大なお金がかかるので」ご近所トラブル専門の探偵には無縁の世界なのでしょう、という後半の台詞を、アマノはのみ込んだようだ。 そんな探偵に何故こんな依頼が舞い込んだのかと言えば、先日の工場跡地の一件で名が知れたかららしい。 どうか、お気をつけて。 チケットを差し出しながら、アマノは思い出したように言った。「失踪する直前、許嫁の女性は不思議な言葉を口にしたそうです。『人魚の眼』、と」
千場 遊美は、明るい茶色の瞳を猫のように煌めかせて今回の旅の仲間を見遣り、――なんか、両方共違う意味で固そうだね!! カチンカチンコンビだ!!と、無邪気に言った。 何せひとりは眉目秀麗、如何にも高貴な雰囲気を持つ、某国の第一王位継承者であり、もうひとりは、『朽ちた鎧』そのものだったのである。 皇子は興味深げに眺めてくる遊美の視線に臆することなく、「そう固いつもりもないが、君のようなレディを守る盾となる為、必要であるならばいくらでも――」などと冗談とも思えぬ様子で言い、悠然と微笑んだ。純白の優美な衣装にすらりとした細身の身体を包んだ青年の名はアインス。その隣でちょこんと、長い歴史を感じさせるような鈍い光を放つ、金属製の厳めしい外見にそぐわず、まさに『ちょこん』という風情で立っている『生ける鎧』は、その名をイクシスと名乗り、「う、うん、殴ったりしたら、きっと手の方が痛いと思うよ」と、気遣うように首を傾げた。 * インヤンガイ、ティエンライ最下層にある探偵ヤン・シーイィの『巣』。部屋と呼ぶのもおこがましいような彼の住処で、旅人たちは、今回の事件の発端であり、依頼人である青年――チェンリーと顔を合わせた。チェンリーは世界図書館で既に受けた説明を淡々と話し終え、お願いします、と頭を下げた。 訪れた沈黙を破るように、アインスが口を開く。 「呪殺か……。どこの世界にもそんなことを考える人間はいるものなのだな。まあいい。この私にかかれば、呪殺でも暗殺でもたちどころに犯人を特定出来るのだ。今回の事件も、実は既に目星はつけている」 えっ。もう? という周囲の反応に、アインスは得意げに顔を上げてあたりを見回し、びしっと一点を指差して言った。 「犯人は……お前だ、ヤン・シーイィ!」 「……はぁいぃぃぃ?!」 驚愕の展開に妙な具合に語尾を上げ、シーイィがのけ反る。 「聞けばキミは、家賃を滞納したり無断飲食をしたりと悪行の限りを尽くしているらしいではないか。この際一つ罪状が増えてもいいかなと、幸せそうな男女を妬んで呪いをかけたのだろう。どうだ、この私の完璧な推理は!」 「なんでだよ!! っていうか、なんでだよ!! そんな、妬んでなんかねェよ!!」 いやいやツッコミどころはそこか? というような慌てぶりをうっかり披露してしまうシーイィを、憐れむような目で遊美が眺め、「うん、ちょっと落ち着いてみようか?」と口調ばかりは優しく、仲裁(?)に入る。イクシスの方を振り向くと、これで本当にシーイィが犯人だったら、人間不信に陥るに違いないと確信できるような、ふるふると震えながら子犬のような瞳でじぃっとシーイィのことを見つめている。 「俺じゃねえよ! 俺じゃないけど、そんな目で見られたらもはや何かの罪を告白せざるを得ないよ!! そう、あれは去年のことだったか……、どうしようもなく腹が減ってた俺はつい出来心で……」などと更なる混乱に陥り語り出そうとするシーイィを眺めてため息をつき、遊美がチラリとアインスの方を見遣ると、アインスはひとつ、大きな咳払いをして「ああ、まあ、冗談はさておき、だ!」と、シーイィの貧乏劇場を打ち切った。 「ともかく、まずは呪術の専門家とやらに話を聞かせて貰おうか。私も呪いというものには疎い」 その言葉に現実に引き戻されたシーイィが、はっと我に返り、目の前の資料を引っ掻きまわす。 「そう、それだろ!? うん、声は掛けてあるから、ヤツのとこへ行きさえすれば話は聞かせてもらえるはずだけどな。ていうかアインス、お前は一体どこからそんな、俺の情報なんか……」だから世界図書館は侮れねんだ、などとぶつぶつ呟きながら一枚の地図を指し示す。 「ここに、イェランって男が住んでる」 「それが、専門家のひと?」イクシスが尋ねる。 「ああ」 「えっと……、依頼人さん、チェンリーさん、は、探偵さんよりお金持ちそうだから……、直接、その呪術師さんとお話した方が早いんじゃないかな?って思うんだけど」 「あー、それはつまり、俺が間に入る意味って何かあるの?ってこと? そういうこと? 何でお前らはそんなに俺をいらない子扱いするんだよ!! 俺もな、多少は、ご近所探偵としてみんなの役に立ちたいっていう、殊勝な気持ちで!!」 「うん、それは嘘だよね。なんかあれだよ、シーイィのは、やむにやまれぬ事情っていうかさ、それこそさっきアインスが言ったみたいに、家賃の未払いとかあるから仕方なくやってるんじゃん?」 「だってそれは、家賃とか、食費とか、すごく大事だもの!!」 連続攻撃を受けて既に涙目のシーイィの台詞にかぶせるように(※スルーしたとも言う)、チェンリーが口を開いた。 「僕は、調査をお願いしたかったから……、シーイィさんの調査能力には定評があるんですよ」 ほらみろ!と得意げな顔をするシーイィを全く無視して、遊美が問う。 「呪術については? チェンリーさんの許嫁はこの札と同じもので殺されたって、思ってる?」 「ええ、それについては間違いないと」 「チェンリーさんは、呪術に詳しいヒト?」 「いいえ、呪術については……まったくわかりません」 「ふうん」 思わせぶりな様子で黙り込んだ遊美のあとを継いで、アインスが口を開く。 「まずは目的の確認だ、シーイィ」 「お、おう!」 唐突に話を振られた探偵はびくりと驚いて、口ごもりつつ頷いた。 「チェンリーの依頼はあくまで『調査』だな。自身に呪術をかけたものの正体と、目的、それらを突き止めて報告する」 「ああ、それで間違いない」 「ではもうひとつ問おう。チェンリー、君は事実を知ってどうするつもりだ」 射抜くような青い瞳にまっすぐ見つめられ、青年は一瞬動きを止めたあと、大きく息を吸い込んで、真実を知ることが出来ればそれで満足です――と言い放った。 「どちらにせよ、彼女はもういないのですから……」 青年の言葉を聞くとアインスは軽く息をついて、わかった、出来る限り協力しようと答え、二人の仲間を見遣った。 「ボクは、呪術方面からあたってみようと思う。まずはその専門家のひとに会いに行ってみるよ」 「そうだな。私もそうするとしよう。あとは呪術師の線から、呪殺を依頼した犯人への糸口をつかめるかどうか、試すだけ試してみるか。その上でミトラファーマに繋がるようなら、潜入捜査を。遊美は……、待っていてくれ。君のような麗しきレディを危険に晒すのは本意ではないからな」 「そこらへんは、俺も考えてるよ。危険の少ないようにったって、ここいらへんは何処もかしこも物騒だ。少なくとも地理には詳しい俺が付いて回るってのはどうだ?」 「えーーーっ!! わたしも行く!! レディって誰のこと?! 大体さぁ、シーイィが付いて回って、危険とか、避けられると思う?」 言い募る遊美に、アインスが顎に手をやって答える。 「思う! と断言できないところが辛くはあるな」 「アインス、おまえはどっちの味方なんだよ…… どっちにしたって、ことは調査だ、手分けした方が多くの情報が得られるって可能性は高いんだぜ」 「ふむ、一理ある」 「うぐ……まあ、確かに」遊美は悔しげにうなると、次の瞬間にはぱっと顔を上げ、瞳を輝かせて言った。 「……わかった! わたしはわたしのやり方で調査するよ!」 「遊美のやり方?」 「そう、気になったとこはとりあえず、全部てきとーにあたる! あたってくだけろ作戦だね!!」 シーイィが眼をぱちくりさせ、くっと笑う。 「気に入った! どこへでも案内するぜお姫様」 「では、決まりだな。私とイクシスは呪術師の元へ。遊美、何かあればトラベラーズノートで連絡を。彼女は任せたぞシーイィ」 「それとチェンリーさん、のことも」 気遣わしげに見つめてくるアインス、おずおずと言い添えるイクシスに、遊美は「はーーーい!」と元気に返事をして立ち上がり、「では、楽しんでいこー!!」と両手を上げた。 * 「どうぞ、あがってください。狭いところですが」 ぼそぼそと告げられた言葉に案内された部屋を見回すと、そこは確かに狭く、狭い上に、更に所狭しと人形やら干し草やら何に使うのだか分からない雑多な品々が並べられ、吊るされていて、言いようもなく不思議な、異様な空間が広がっていた。通された部屋の奥にはコンピューターが数台、置いてある、というよりは転がっていて、そのどれもが小さなランプを明滅させていることから、辛うじて、それらが稼働中であるということだけは見て取れた。 薄暗い室内をディスプレイの明かりが照らす。 「シーイィから話は、聞いてます」 大きな身体を縮こめるように背中を丸くして、呪術師イェランは、早口で抑揚の少ない、独特の口調で言った。 「腕利きの探偵をここへ寄越すと。彼には借りがある。なんでもどうぞ」 「ふむ」アインスが顎に手をやって思案するように部屋を眺める。 「呪術師……か。金持ち相手の商売が主だと聞いたが、君は違うのか?」 「僕は、事情があって、表に出られません。なのでこうして小さなお仕事や、お手伝いを、細々とやらせて頂いてるのです」 「では、早速だがこの札について、何か分かることがあれば教えて欲しい」 アインスがチェンリーから預かった札を取り出して見せる。 「拝見します」 イェランは札を受け取ると、虫眼鏡を取り出しかけて、すぐに顔を上げた。 「ああ、これは――特徴的ですね。この文様。この御札を書いた呪術師を知っています」 「それならば、話は早い!」 「ただ……呪術師は信用が第一なので、依頼人について明かすことは無いと思います。その、余程のことが無い限り」 「なんだ、金か?」 「お金なら依頼人からうなるほどもらっているでしょう。お金では手に入らないもの。呪術師はそういうものに弱い。たとえば珍しい道具、石や、薬草や、そんなものです」 「とはいえ、我々に用意できるものが、何かあるだろうか」 「さっきから、気になっていたのですが……」 イェランが、小さな目をぱちぱちと瞬かせて、じっと一点を見つめる。 「え……ボク……?」 * 「人魚って、王子様を助けて、歌声聞かせて海の藻屑にして、さらに食べると不死身になれるんだよね!! すごいね、人魚!!」 遊美の無邪気な、あるいは無邪気を装った――台詞に、チェンリーの表情が強張る。 「ねー、まずは、ちゃんと話を聞かせてくれないかな?」 「……すべてお話しました」 「すべてでは、ないよね」 黙り込む青年をまっすぐに見つめたまま、遊美は言った。 「気持ち悪いんだよ。どうしても不自然なの。なんであなたに、彼女が死んだとわかるの? 『失踪』したんだよね? わたしだったら、ちゃんと自分の目で確かめるまで、大事な人が死んだなんて信じない。例え誰に何を言われたって、どんなに、希望が無くったってさ。だから」言葉を区切り、息を吸い込む。 「あなたは知ってるんだよね? 彼女が死んだことを。そうでなければ、彼女が死んだと、確信する理由があるはず」 逃げ場を失った青年は観念したように俯き、額に手を当てた。 「僕と、彼女は――リーシャンは、つながっていたんです」 「つながって?」 「眼球と脳の一部に特殊な手術を施して、視界を共有していました。互いへの思いの為に。いつでも互いを感じられるように」 『視界の共有』。オウルフォームのセクタンにもそんな能力がある。遊美には理解できない感覚であったが、それほど突飛な発想では無いのかもしれない。遊美の元いた世界の『常識』からしても、遊美にとっては意外さよりも、そういうことか……という思いの方が強かった。 「噂には聞いたことがあるが、本当にそんなことをするヤツがいたのかよ――」という、間の抜けたシーイィの台詞からも、この世界の一部においてそれらの技術が既に広まりつつあることが窺えた。とは言え、どうやらシーイィの方がよほどショックだったらしく、普段はどちらかといえば細い目を、いっぱいに見開いている。 「っていうかシーイィいたんだよね!」 「いたよ!! 一応な!! ここは俺の住処でもあるしな!!」 「うん、まあそれはいいとして、ってことは、共有してた視界が失われたんだね?」 もはや恒例であるかのようにシーイィを無視して話を進める遊美。 「はい、彼女が失踪した、一か月後でした」 「手術で装置を外したって可能性は無し?」 「ゼロではありませんが、まず、眼球は使い物になりません。脳に埋め込んだ装置と、それから手首のコンソールに至る回路も、すべてが生体と融合する性質をもった有機物ですから、それらを取り除き、元の状態に戻すのはほぼ不可能と言える」 「つまりは、手術する時点で命がけってわけだ」 「元の状態に、戻すつもりが無ければ……?」 「どういう意味です」 「待って。あなたは? あなたもその手術を受けたってことだよね?」 「いいえ、僕の眼は……義眼なのです」 遊美は、青年が片方の眼からしか、涙を流さなかったことを、ふと思い出した。 * 「酷いのですぅ。お片づけできないご主人様のために、ご主人様が散らかした紙を綺麗にしようと、シュレッダーにかけたら、高価な呪札だったとか言って怒鳴ったのですぅ。このままじゃぁ、お家破産ですぅ」 厳めしい鎧が、仮面の奥の赤い瞳を煌めかせて嘆く。 アインスは、隙あらば、札を書いたという呪術師の心を読み、情報を得るつもりであったのだが、さすがは売れっ子呪術師、目くらましの術でも掛けられているのか、そう簡単にはいかず、イェランが提案したプランBに切り替えたのである。 題して『機械仕掛けの萌え萌えメイド人形(注:鎧)プレゼント大作戦』。 謝礼次第でどんな仕事も引き受ける、冷徹な、美貌の呪術師――キティは、イクシスを見た途端に目の色を変えた。 「なにこれ可愛い!!!」 「可愛らしい貴女は可愛らしいものに弱いようだ、レディ」アインスは、してやったりとばかりに内心でほくそ笑みつつ、あることないこと並べ立てた。 「この人形は聞いての通り哀れな身の上でな、主人に苛められているのだ」 「酷いわ! こんなに愛らしい子なのに……」 「そこで就職先を探している。そう、たとえば、大きな企業とかだな……」 キティは口をとがらせて、お芝居はいいの、とアインスを遮って言った。 「アナタ達の目的はわかってる。この札のことでしょ?」 ひらひらと、同じ文様の描かれた札をかざして見せる。 「この札は恐ろしい札よ。対になっていて、もう一枚の札を持つ者の意思に背けば、死の苦痛が襲う」 「この札と対になる札の持ち主は?」 「依頼主については明かせないわ。あたしだって命は惜しい。命まで賭けて、何の得があるの?」 キティの頑なな態度を見て、アインスが計画を進める。 「では、取引しないか」 「取引って?」 「この人形を貴女にプレゼントしよう」 「……本気!?」 「本気だとも」 ごく……と、イクシスがつばを飲み込む音が聞こえたが、アインスはあえて無視することにした。 「じゃあ、この鍵をあげる」 機械仕掛けのメイドの持つ抗いがたい魅力に負け、キティが、首から提げていた小さな鍵を差し出した。 「依頼を受けた時に預かったの。もう、見当はついてるんでしょう? ご想像のとおりよ。この鍵でかなり深いところまで入ることが出来る。けれど、私の手から離れたらこの鍵は使えなくなるわ。今からアナタに術を掛けて、鍵に、アナタを私だと思い込ませる。保って四、五時間ね。その間に用事を済ませて」 「ありがとう、協力に感謝する」 「いいえ、これは取引よ」 キティは素っ気なく言うと、アインスの耳元に唇を寄せて、何事か囁いた。 「もうひとつ。秘密の呪文。役に立つかもしれない」 素敵なプレゼントのお礼に。 キティは、豊満な胸元にイクシスの冷たい身体をぎゅうと抱き込んで笑った。 * 「人魚、か」 チェンリーの話を聞いた後、遊美は、呪術について調べ、街を歩いて人魚の話を集め――シーイィの『巣』へと戻ってきた。人魚の伝承は、遊美のイメージしていたのと似たようなものだった。儚い恋。歌。不死を与える肉。美しく、悲劇的で、グロテスクだ。 ティエンライの街並みを並んで見下ろしながら、遊美がぼそりと呟く。 「ね、シーイィは人魚って聞いたらどんな感じがする?」 「そうだなあ、メルヘンチックなイメージもあることにはあるが、俺の知ってる範囲では、やっぱバケモンって印象が強いな。人で、魚だろ。割合にもよるが、不気味だし、『不自然』だろうな」 「『不自然』か。そうかもね」 「遊美は? 人魚ってどんなイメージなんだ?」 「さっき言った通りだよ。王子様たすけたり、歌って船を沈めたり、食べたら不死身になったりー、って」 「すげぇなぁ」シーイィが小さく笑う。 「うん、すごい。でもやっぱり、気持ち悪いよ。これは、ただの勘だけど。やっぱり人魚、寿命、製薬会社って来たら人魚の肉使って不死身になろうとかそんな感じだと思うんだよね」 さらりと言って、遊美はシーイィを見た。 一瞬、驚いた顔をして、シーイィは、ため息をつく。 「まあ、人類の夢だろうな」 「私はごめんかな。そんなつまんないの」 「つまんないか?」 「つまんないでしょ。退屈で、退屈で、きっと、死にたくなっちゃう」 「なのに死ねない、か」 「わ、それってもはや、ホラーじゃん!? 絶対やだ!!」 永遠に生きているなんて絶対にごめんだ。 でも今、生きようとしないのも嫌だ。 振り返って、部屋の奥でじっと座ったままの青年の姿を確かめる。 チェンリーは何故、護衛を依頼しなかった。 許嫁が死んだから? 真実を知りたい? その真実は何処にある。 依頼の、本当の目的は。 エアメール。 トラベラーズノートを開く。 『キティさんにつかまりました。たすけにきてください。イクシス』 * キティの鍵を使い、アインスは上層にあるミトラファーマの施設へと向かった。 シーイィを通じて入手したビルの図面。それ自体に怪しいところは見受けられない。迷路のように入り組んだ数々の部屋を、図面と照らし合わせながら通り抜けていく。所持している鍵のセキュリティレベルが高い所為もあるのだろうが、覚悟していた警備も何故か手薄で、アインスは躊躇うこと無く奥へと進んで行った。 と、行き止まりに突き当たり、図面を見直す。 正面に壁。右手も壁で、後ろと左の廊下は少し先で繋がっているため、どうやら来た道を引き返す以外になさそうだった。 (本当に、そうだろうか?) 何か見落としは無いのか。 この奥に、もうひと部屋あるとしたら――、 白い壁に手のひらを沿わせた瞬間、小さく、声がした。 壁に貼りつくようにして耳を澄ます。 「せっかく、ここまで来たのに」 今度は確かに、そう聞こえた。女性の声。どこかで聞いたような。 「誰か、そこにいるのか?」 問い掛けてみるも、返事は無い。 「怪しい者ではない。何かお困りの様子が伺えたので、力になれればと思ったのだ。……とはいえ、壁に阻まれて、その可憐な手を取ることすらできないが」 更に問いを重ねると、今度は、はっと息を飲むような気配があった。 「貴方は、もしや――アインスさん」 * * * 結論から言えば。 恋が引き金だったらしい。 チェンリーもリーシャンも、優秀な科学者であると同時に、『実験動物』でもあった。施設の預かり知らぬところで二人は出会い、互いに秘密を持ったまま、恋に落ちた。二人の秘密……見当はついてるだろう。 チェンリーは『寿命』の研究をしてた。彼はとうに百歳を越えた老人だったんだ。外見だけは若さを保っていたが、内臓は限界を迎えていた。どちらにせよ長くは無かった。 リーシャンは、遊美の予想通り。『不死』の実験をしていた。『人魚』って言葉は『不死』からの連想だ。ホラーだよ。実験は最終段階までいってたそうだから、驚きだな。 視界共有の手術は、リーシャンの望みだったらしい。それが施設にバレて、命を狙われることになった。 でも、生きてたんだ。アインスは声を聞いた筈だ。彼女は秘密の小部屋に閉じ込められていた。視力を失い、一生手術の後遺症に苦しむだろうが――、生きている。 俺は、チェンリーは最初からこの結末を予想していたんじゃないかと思ってる。自分が死ぬことだけは確信していたんだ、もしすべてを失う覚悟が決まっていたら何を求めて調査なんて依頼する? 反対にリーシャンの捜索を依頼されていたら…… ミトラファーマも彼女を放ってはおかなかったろう。彼女を発見できたのはあくまでも偶然だったんだ。 ともかく依頼は成功だ。 二人は再会した。 みんなに礼を言うよ。 ありがとう。 そうだ、イクシス。 キティが寂しがっているそうだから、たまには顔を見せてやってくれ。 じゃあ、機会があれば、またな。 ヤン・シーイィ * * * キティから教えられた秘密の呪文は、隠し部屋の鍵だった。 ミトラファーマは、ふたつの神を祀っている。 ひとつは契約を祝福する神。 もうひとつは、契約を破った者を罰し、復讐する神。 アインスは、復讐神を讃える祝詞を、壁の向こうの女性へと伝えた。 果たして扉は開き、リーシャンは数か月ぶりに自由の身となった――筈だった。 シーイィの『巣』へ戻り、チェンリーと再会した彼女は、数日後、再び行方をくらました。以来、彼女の所在は杳として知れない。最後に彼女を目撃した人物の証言によれば、背の高い長髪の男と一緒だったという。 シーイィが姿を消す、二日前の出来事だった。 【人魚の眼 了】
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