走る、走る、走る。 昼下がり、活気のある大通りをエミリエは走り続ける。 アリッサとはぐれたのは五分前、だがアリッサなら一人で大丈夫。 エミリエ一人で二時間、そう、たった二時間。――もう三十分ほど逃げたから、あと一時間半ほどでいいから逃げ切らなければいけない。 見上げた街中の時計は十五時三十分であることを示していた。 薄暗い路地を抜け、公園を通り、大通りに出ると周囲を見回す。 そこに待ち伏せも追っ手もいないことを確認すると、エミリエは小さくため息をついた。 その瞬間を待っていたかのように突如、リベルの声がする。「現在地、エリア109、酒場前。ターゲットEを確認。同Aは別行動の模様。各班、第一種追跡配置。オペレーション・T9、状況を準備せよ」 その声にはじかれるように、またエミリエは走り出した。 帽子を目深にかぶりなおして特徴的なピンクの髪を隠し、なるべく大きな道路を選んで走る。……小さな路地では確実に包囲されるに決まっている。 人ごみにまぎれてしまえば、もし真正面から出くわしてもやり過ごせるかも知れない。 ちょこまかと人の間を縫うように駆け回り、屋台をひっくり返し、本屋の間を駆け抜け、喫茶店で一服するフリをして裏口から逃げ出しては、また走る。 が、どこへ行っても必ず、そう、必ず追っ手がそこにいた。 エミリエに掴みかかってきた男の手をひょいひょいとかわし、彼女を追跡する指揮を執る世界司書に人さし指をつきつけ叫ぶ。「ちょ、ちょ、ちょっとリベル!? こないだのオペレーション・ベツレヘムといい、今回といい、なんでこんなに厳重配置なのぉ!?」「殺虫剤のパラドクスです。同じ殺虫剤を使い続ければ虫は耐性を身につけ、その殺虫剤はいずれ効かなくなります。そうなる前に次の手を打っておくのは当然です」「あー! ひどい!ひどいよ、リベル! 今、エミリエのこと、虫って言ったっ!!」 ぱたぱたぱたぱた。 走り去る。抗議をしながら走り去る。 リベルが手を翳し、叫ぶ。「全員、再配置。ターゲットAは追跡班のみ任務続行、他の班はターゲットEの捕獲を最優先する。オペレーション・タニマニキュウチョウメ、状況を開始します。 総員展開!」 そして、幾度目かの追いかけっこが始まった。 他人の庭園を駆け抜け。「ターゲットE! 現在、エリア163を通過!」 お寺の下にもぐりこみ。「エリア134を通過。動けるものは先回りしろ」 プールサイドを着衣のまま駆け抜ける。「エリア173、泳ぎの得意なものは追撃。他はプールサイドを囲め」 墓場を過ぎて、神社を越え、駅前のベンチを横切って、キヨスクの前をUターンして、桟橋へと向かう。 小さな酒場の脇、高いレンガに左右を囲まれた路地裏でぜぇぜぇと息を整えているエミリエの背後から、拡声器を通したリベルの声が響いた。「ターゲットE! ここにいるのはわかっています。武器を捨て、速やかに投降しなさい! 今なら計算ドリル二冊で不問にします」「ヤだぁぁぁ!! 捕虜の拷問はいろんな世界だって国際条約で禁じられているんだよ! リベル、まさか知らないの!?」「これは内紛で、内乱で、教育で、しつけで、ついでにおしおきです。貴方に人権はないと思ってください」「あるもんーー!! リベルなんか野良セクタンに噛まれちゃえー! 深爪になれー! 靴箱に見慣れない手紙が入っててどきどきしながら開けたのに中身はただの広告チラシで、心のどこかでがっかりしちゃえー!」 エミリエは大声で叫びつつも、周囲を観察する。 左右は建物が迫っており、前にリベル、後ろからはきっと他の暇な司書が待ち構えているに違いない。 そうであれば、建物の中に逃げるしかない。 エミリエの身長から考えると登るにはやや高い位置にあるが、どうにかよじ登ることもできるはず。 よいしょっと窓によじ登り、どすんと床にしりもちをつき、おしりをさすりさすり見渡すとそこは小さな酒場だった。 木製テーブル、お酒、ジュース、そしてそこで食事中のロストナンバー達。 各テーブル、全従業員、それらの視線が彼女の方に集中する。 これ幸い、と思ったかどうか。エミリエは座りなおした。 胸の前で手を組んで、大げさに瞳をうるませて訴えかける。「た、助けてみんなっ! 悪い魔女に追われているのっ!!!」 エミリエは、まっすぐに嘘をついた。 もちろん心底信じるものはいない。心から信じられるとエミリエとしても困る。「お願い! エミリエ、捕まったら……と、とんでもない拷問を受けちゃうんだよ! ……おやつのケーキのいちごだけ没収されるとか。朝、無理矢理起こされてラジオ体操第二させられるとか! エミリエの目の前で仔セクタンと遊んでるのにエミリエには抱っこさせてくれないとか! え? セクタンに仔セクタンも親セクタンもいるのかって? 気にしちゃダメだよ、そういうのは! でもリベルはもうすぐ会議があるから、それまで逃げ切ったらいいの! あと一時間くらい!」 そして彼女が、かつて「ソースと醤油の瓶のラベルを入れ替える」というイタズラの報いとして受けた『二時間の無休憩正座』という無慈悲な拷問がいかに酷く、一刻も早く人道的見地から0世界での禁止令を成立させるべきかの重要性を訴えていると、外から『あーあー』と拡声器の声が響いてきた。「その店にいるロストナンバー諸君に告ぐ。ロストナンバー諸君に告ぐ。こちら世界司書リベル・セヴァン。速やかに犯人の引き渡しを要求します。犯人、エミリエ・ミイの罪状は以下の通り、本日の午後三時から行われるはずだったマクレイン卿主宰の勉強会を、共犯Aと共謀して脱走。前科294犯! われわれはただちに彼女を捕獲して自習室へ連行します。――もちろん私は諸君の公正かつ正義を愛する心に疑いなど抱いていません。これより私達は戸口より突入します。窓および扉があれば施錠し、協力者は彼女を捕縛してください」 どたどたどた、と表で数人が走る音がしている。 時計によると現在時刻は四時。なるほど、五時まで勉強会をやっているから、それが終わるまで逃げられればいいらしい。「おい、どっちにつく?」 酒場に座っていた男が誰にともなく呟いた。 ざわざわざわ。「俺はリベル。どうせまたエミリエのイタズラだろ? おしおきするのは大人の役目だ」「うーん、あたしはエミリエ。いつもの事だし、お祭りみたいなものだしね」 そんな会話があちこちで聞こえてきた。 これから敵味方に分かれて争う、というより、チェスでも始めようかという程度の柔らかい空気のまま、リベル陣営、エミリエ陣営、観客席と三つに分かれたようだ。「で、どうするね? このままじゃ袋のねずみだしな。迎え撃つしかないんじゃないか? 何を準備して、どうやって待ち構えるか……面白くなってきたな!」 と、エミリエ陣営。「エミリエを捕まえるとなると難しいからな。ちょっと策を考えないと。……なんかいい作戦はないか? 何を準備して、どうやって捕まえるのか……あれ、あっち側とやることは同じだな」 と、リベル陣営。 リベルvsエミリエ。 0世界の本日午後最大の決戦、全酒場スタッフが――グラス割れないかな的な意味で――手に汗にぎる、愛と感動と友情のストーリーの火蓋が、今、テキトーに切っておとされた。 果たしてエミリエはあと一時間を逃げ切ることができるのだろうか!? 果たしてリベルはあと一時間以内にエミリエを捕まえ、計算ドリルを解かせることができるのだろうか!? 勝負開始まで、――あと十分!
●五分前 昼さがりの食堂。 テーブルや椅子がドアや窓に山と積み上げられ、さながらゲリラ戦の様相を呈していた。 他ならぬエミリエは、予想以上の対応に半ば冷や汗をかいている。 この場を逃げ切ったことによる計算ドリルの恐怖は逃れても、酒場の人に謝らなきゃいけないとか、どっちかってゆーとそっち方面で、かなり怖い。 「なるほど、エミリエの嬢ちゃんは悪い魔女に追われてるのか。これは、協力しなきゃな! 俺で良ければ力になるぜ!」 巨大な人型の鳥、いや、鳥型の人? どちらかはよく分からないが、グランと名乗ったロストナンバーはまっすぐに応じてくれた。……だからこそ、エミリエは視線をあわせられず、冷や汗を浮かべながら目をそらす。 メイド服を着たツインテールのピンク髪が特徴的なドワーフ、ファニーが首をかしげた。 「うっわー、アレ、信じるんだ……。なんかとってもいい人だね。ってゆーか、いい鳥だね。あれ? どっち?」 彼女はいわゆるドワーフ種族ではあるが、神話や伝承歌に登場する低身かつずんぐりむっくりの体型というわけではなく、その容姿はどちらかというと通常の人間の子供に近い。 つまり、髪の色と体型のみで語るならば、非常にエミリエに似ている。 彼女は、せせり――もとい首をかしげたグランの袖を引っ張る。 「ねぇねぇ、あたしがエミリエに変装して逃げ回るってどーかな?」 「おお。いいアイディアじゃないか。よし、服を買ってくれば……」 「えー、でも、もう包囲されてるよお?」 彼女の言う通り、酒場の外には世界図書館のスタッフをはじめ、リベルの協力要請に応じたロストナンバーが陣取っている。 どうしたものか、と手羽先――もとい腕を組み、グランは窓の外を眺めた。 いい方法があるよお、と顔を綻ばせたのはファニー。 彼女はエミリエの腕を引っ張ると、酒場スタッフの更衣室へと連れ込んだ。 今のうちに作戦会議をしておこう。とグランがテーブルにつく。 相手がリベルと言う事もあってか、酒場のほとんどの仲間はなかなか挙手しない。 「魔女に追われている世界司書を助けないなんて! 俺はちょっとみんなを見損なったぜ」 「まったくです。私は協力しますよ」 グランの正面の椅子をそっと引いて、静かに腰掛けたのは片岡渚。 メガネをかけた顔立ちには、若いながらに相応の余裕が感じられる。 穏やかな微笑みからは、これから大立ち回りをやる程の迫力はない。 ありていに言えば、第一印象からは戦闘が得意なタイプには見えなかった。 「あんた。悪りぃが今からやるのはケンカだぜ?」 「ええ、分かってます。それでは作戦タイムですね。武器という程のものではありませんが、ここにマンドラゴラのせんじ薬がありまして」 「……ありまして、って。あんた、それ、わりとえげつないシロモンじゃないか?」 グランの指摘通り、あまり人間にはよろしいものではない。 もちろん、鳥にもよろしいものではない。 何に使うつもりで持っていたのか的な意味で色々聞いてみたかったが、グランは渚の穏やかな笑みの前に何故か気おされた気がして質問を断念した。 「分かった。じゃあ、作戦だが――」 グランが言いかけたその時、入り口に築き上げたバリケードが崩れ落ち、外部からの衝撃でドアが破られた。 ●1分経過 「リベルさま! ド、ドアが開きますてござりますればありおりはべりましてハイ、この通りィィィー!」 すっとんきょうな男の声がした。 「は、はひっ! リベル閣下様ァ! ワタクシメがターゲットE殿をお連れ申し上げ候えばいたしますですの至りィっ!」 ずいぶん崩れた敬語がこぼれて来る。 しばらくして、崩れたテーブルをおしのけて酒場に入ってきたのは、一人の男だった。 オールバックにサングラス、派手な色のアロハシャツをだらしなく着崩し、酒焼けした赤ら顔にコケた頬、背筋を丸めたままポケットに手をつっこみ、くわえタバコの煙をふーっと吹き出す典型的なチンピラスタイルである。 「おぅぅぅ!! オらァ!? てめェら見せモンじゃねェぞ、オラぁ! この間下譲二様をナメてんのか? あン? ああン!?」 言動の威圧感も中途半端なヤクザモノと言うに相応しい。 彼を見たものは以後『チンピラ』という言葉を聴いた時、常に彼の姿が浮かぶに違いないという程のインパクトである。 間下譲二、と名乗った彼はつかつかと店内を歩いていた。 意図的に大きな足音からは威圧感を出そうとして、どことなく空滑りしている感がぬぐえない。 テーブルの中、あまりお近づきになりたくないという理由で彼と視線を合わせるものが少ない事が彼の気分をよくする原因だったのだろうか。 彼の目は睨みを利かせつつも、口元はやや緩んでいる。 観衆の中に彼をまっすぐに睨みつけていたのはグラン。 その横で、何故か穏やかな笑みを浮かべていたのが片岡渚。 恐怖の色が見えない二人に気を悪くしたか、チンピラはつかつかっと歩み寄った。 テーブルを平手でばんっとはたくと、まずはグランを下から睨みつける。 「おうおうおう、おい、トリぃぃ!!」 「……俺のことか?」 「オウよ。他にいるかァ? そらっトボけて鳥肌立ててんじゃねぇぞ? おうおう。リベル様のお言いつけだぜ。ここにエミリエって世界司書がいンだろ!? とっとと出しゃ何もしねェからよ、とっとと差し出せや。あァン? ぼやぼやしてっと焼き鳥にして食っちまうぞ!? この間下 譲二様をナメてっとケガするぐらいじゃすまねぇヨ?」 脅しのつもりかどうかは分からないが、喋り言葉に見事なまでに高音と低音を使い分け、そのどちらもが裏声に近い超高音から、オペラ歌手かくやの低音まで使い分ける術は見事だった。 グランは素直にその部分に関心しつつ、知らない、と断言する。 けっと舌打ちして顔をあげた譲二の視線の先、すっとピンクの髪が掠めた。 「おうおう、いるじゃねぇか。おいコラ、ガキぃぃ!! そこ動くんじゃねェぞ、コラ!!」 相変わらずの怒号をあげ、一歩を踏み出す。 瞬間、彼のつま先に、何か柔らかいもので押さえつけられる感触がして譲二は派手にすっころんだ。 べちっと生々しい音が床から響いた。かなり痛かったに違いない。 何かにつまづいたかと思ったが、踏み出した足先を抑えられたのだと知る。 がばっと状態だけ起こした譲二の鼻先、大きな四足歩行の獣が鼻先を近づけていた。 「い、犬ぅぅ!?」 「誰が犬ですか、失礼な。ハイエナですわ」 「うわ、喋った!!!!!」 ロストナンバーに獣人や獣は珍しくない。 喋る獣も決して珍しい存在ではないが、それでも人型のロストナンバーの方が圧倒的に多いため、動物そっくりの容姿のロストナンバーが流暢に喋り出すと驚くものは多い。 間下譲二もその一人だった。 座り込んだ姿勢のまま、ずりずりと数十センチ下がる。 ハイエナ、と名乗ったそのロストナンバーはグランの方を向き、自分はファリア・ハイエナというロストナンバーだと改めて自己紹介する。 グランに鳥肌が立っていたのが生来のものなのか、肉食獣に対するものなのか、横で見ている渚にはよくわからなかった。 よろよろと立ち上がった譲二に向かい、ファリアが至近距離から思い切り駆け出す。 ほんの数十センチの距離で一気にスピードを乗せた彼女の体は譲二の上半身に激突し、その勢いで彼の後頭部が床に叩きつけられた音がした。 「……いい音しましたね。ごいんって」 お茶を手に、渚が呟く。 彼女が一人でほのぼのと向かえた視線の先、譲二は後頭部を抑えて酒場の床をごろごろとのたうち回った後、立ち上がった譲二はファリアに指をつきつけた。 「オイ、こらテメェ。ナメくさったマネしてんじゃネェぞ。あアン! 気絶するかと思ったじゃねぇかアア!?」 「気絶させるつもりでしたのに。――なかなか丈夫ですわ。この人間。顎でも噛み砕きましょうか。うぃ~うけけけけけけ……」 「怖ェこと言うんじゃねぇぞ、オイ!? なんだよ、そのうけけってのは」 「あら、笑っただけですのに」 譲二にはハイエナそのものの容姿を持つファリアの表情を読み取ることができない。 不気味な笑い声も相まって、譲二は僅かに身を引いた。 ●十分経過 ティーカップをテーブルに置いた片岡の首に、譲二の腕が回された。 途端にぎゅいっと力を込めて締め上げられる。 「おうおうおうおう、ネェちゃんよう? 見せモンじゃねぇぞ、コラ。おい、テメェら! このネェちゃんのキレーな顔にピリッとした刺青いれたくなきゃ、ちっと引っ込めや。あぁン?」 「ひゃっ? うぐっ……」 ぐいぐいと首元を締め付ける力は、さすがに渚の細腕では振りほどくことができず、頚動脈を締め付ける圧迫感を緩和するだけで精一杯である。 「おぅ、ネェちゃん。いい乳してんじゃねぇか? あァ?」 「ちょっ……」 「おおっと、ヨケーなマネすんじゃネェよ? アん?」 譲二が取り出したナイフは、渚の頬をぴたぴたと叩く。 余計なマネをすれば、顔に傷がつくと言わんばかりである。 女性の顔に傷をつける原因にはなりたくないが、譲二の行為にも許せないものがある、と、グランはテーブルについたまま、じっと彼を睨みつけていた。 「おい、あんたの目的はエミリエの捕獲だろう。その娘には関係ないだろう」 「あァ? うっせぇぞ、コラ。トリ公。塩ふって焼き鳥にしてビールのアテにすんぞ、コラ。お? いいかもな。おいコラ、乳ネェちゃんヨォ、オレ様にお酌しろや、オイ」 「……わかりました」 状況のわりに、少し眉を寄せただけの渚は店員からビールを受け取ると、コップに注いで譲二の前へ置く。 ナイフをチラつかせることも忘れず、よしいい子だ、と彼はけらけら笑った。 気分が良くなってきたか、床に伏せているファリアをナイフの切っ先で指す。 「おい、さっきのハイエナ野郎」 「女性を野郎呼ばわりとは、品のないオスですわ」 「ピンクのガキが、ドアの向こうにいる事ァわかってんだぜェ。ちょっと咥えてつれてこいや」 「お断りします」 「断ると、このネェちゃんに真っ赤な化粧することになるぜェ。ひゃははははっ、いいな、オイ。人質ってのはこういう風に使えンだよナァ?」 「くっ、……卑劣ですわ」 ファリアはゆっくりと立ち上がると更衣室へと入り、帽子を目深にかぶった少女を連れ出した。 ファリアの横でエミリエは帽子を目深にかぶり、譲二とは視線を合わせない。 その仕草を恐怖、あるいは畏怖と捕らえたか、譲二は渚を放り出してエミリエの前まで進む。 そのまま腕を伸ばし、エミリエの襟を掴んだ。 ふと譲二が天井を仰いだ。 何か感慨に耽っているように見える。 「お。おおおお、こ、この譲二様が。な、なんか初めてワルのまま、任務が達成できたかも……、あ、いや、何でもネェんだよ、おら、見てンじゃねぇ、コラ。……おい、ガキ。エミリエっつったかァ? 世界司書っつってもガキがハバ効かしてンじゃねぇぞ? リベル様に差し出してやっから、覚悟しやがれよコラ。それとも何か? 世界司書ってのはカネ持ってンのか? カネ。カネだよ、カネ。ナレッジキューブでも、円でもドルでもいいゼェ? 持ってんだったら素直に差しだしゃ悪りぃようにはしねェからよ。おら。素直に出さネェといくらガキでもこの場でヒン剥くぞ?」 答えないエミリエの目の前で、譲二はナイフを揺らす。 やがて彼女はポシェットに手をつっこんだ。 思わず覗き込んだ譲二にナレッジキューブではなく、巨大なハンマーが突き出される。 彼が目の当たりにしたハンマーは、勢いそのままに彼の鼻先に強かに打ちつけられた。 ごいんっ☆ と、綺麗な重低音が酒場に響く。 その振動が彼の脳と言わず、臓器と言わず、体中のあちこちにビリビリとした震えを伝えて行き、譲二が足元から崩れる。 エミリエは、――いや、エミリエの服を着たファニーが思いっきり、舌をつきだし、あっかんべー、っと笑った。 コノヤロウ! と立ち上がった譲二の頭の上、いつのまにか立ち上がっていたグランが黒い粉を撒く。 「なんだ、コラ。何のマネしてやがるんだこのトリこ……くしゅんっ、はくしょっ、げほげほっ、なんだコレ、げふぉっ、くしゅんっ、くしゅしゅっ、げほっ、がはっ」 涙と鼻水を浮かべた譲二がこれでもかとばかりにくしゃみを乱発していた。 グランはコショウと描かれた袋のラベルをファニーに向けてみせる。 「うぃーうけっ、くしゅっ、うけけけくしゅんっ」 遥か先で、ファリアも同じようにくしゃみを繰り返していた。 便利なのか不便なのか、どうやら通常の人間より、嗅覚だけでなくこういう感覚も非常に敏感らしい。 ●三十分経過 譲二の気管支がようやく落ち着きを取り戻した時、彼は三人と一匹に取り囲まれていた。 東西南北を囲まれ、彼は床に座ったままおずおずと見上げる。 「いや、ちょっと、いやいや、あのその、ネェちゃん達。ちょっと顔がマジすぎネェっすかぁ~? あはははー、いやいや、オレもね、いいオトナなんだからよう、そんなマジで子供にナイフ使ったりするワケねぇだろ? ナ? オトナとして、逃げ回ってる子供にキョウイクするのも役目じゃねぇかって思うわけだ。ほら、そんな怖ェ顔すんなって、ナァ? おい?」 「うわー……。もーちょっと悪役っぽく堂々としてればいーのにー……」 エミリエの服を着たまま、ファニーはぼそりと呟いた。 譲二を囲んだまま、今度はグランが声をあげる。 「ところで本物のエミリエはどこへ行ったんだ?」 「ああ、エミリエならさっきあたしの服着て、……まだ更衣室に隠れてんじゃないかなー……?」 エミリエを連れてくると告げ、ファニーが立ち上がった。 「おっとその前に」とイタズラな笑みを浮かべ、酒場のカウンターの裏へ移動する。 その時、再び酒場のドアが開いた。 ロストナンバーを従えたリベルがいつもの無表情で立っている。 二人と一匹に囲まれたままの譲二を見て、やや半目になることで無表情なりに精一杯「呆れました」と小さく呟いた。 その表情は気にせず、譲二は囲まれたまま立ち上がり、袖に噛み付いていたファリアを振りほどいてリベルの元へと駆け寄った。 「り、リベル女帝閣下陛下猊下ぁっ!! ワ、ワタクシメは精一杯、世界図書館のために働いたのでありまするですが、こやつらが殿下のご意向に逆らうのでありますですからしてハイィィィィー!!!!」 譲二が思い切り声を張り上げる。そのまま手を伸ばして腰から腿へとぴったりとつけ、これまでの猫背をそっくり返すようにぴんっと張り、軍隊風にぴしっと敬礼を捧げた。 「間下さん。私は女帝でも、閣下でも、猊下でもありません。リベルです」 威厳たっぷりに譲二に告げると、彼女はグラン達に向き直った。 「世界図書館は、……いや、マジメに言うのも何ですが、エミリエが勉強をサボっただけです。別に危害を加えるとかしませんから、彼女を渡していただけませんでしょうか」 リベルが一歩前に進む。 途端、殺気のようなものを感じて足を引っ込めた。 直後、その空間にファリアの牙が走る。 そのまま踏み込んでいたら足を噛み砕かれていたか、リベルの背筋に寒気が走った。 「ライオンみたいに、自分が偉いなんて思うモノが、あたしは嫌いなのですわ」 「誤解です」 「権力側、体制側! 横暴を振るうのはいつだって自分が正しいと思うものですわ」 「いえ、そこまで大仰な話でもありません」 「あなたの横暴に少女の涙が流れることがある、と思い知りなさいませ!」 「確かに計算ドリルを前にしくしく泣かしたりしますけど」 「ほら見なさい! もう問答無用ですわ!」 ファリアが前足にかかった赤いリングをに意識を集中させた。 彼女の持つトラベルギアである前足の前輪の効果は『分身』である。 ハイエナの姿は一匹から二匹へ、二匹から四匹へ、とどんどん増殖していくが、二十匹ほどの数へと増えると広い酒場もさすがに狭苦しく感じた。 先頭のハイエナがリベルへと飛び掛る。 彼女がすっと体を引いてかわすと、その牙はリベルの後ろにいた譲二の肩へと食い込んだ。 「うぎゃーー! いでででで!! ストップ! 痛ぇぇー!!!!」 ぶんぶん腕を振り、その反動で落ちたファリアを睨みつけ「おうおうおうおう!! 肩の骨が折れたじゃねぇか! オトシマエ、どーやってつけてクレんだぁ? ああ!?」とファリアに顔を近づけ、精一杯凄んだ。 「折れていませんわ」 「あああああン!? 折れてンだっつったら折れてんだヨぉ!? 慰謝料よこせやこのイヌがァ!!」 「噛み砕くつもりでしたのに。やっぱり丈夫ですわね」 「だァら怖ェこと言ってんじゃねェヨ!?」 ●四十二分経過 「あ、リベルさん?」 手をあげたのは渚だった。 リベルは無表情のまま、何ですか? と応える。 「私、降伏します」 彼女はあっさりと告げた。 そのまま両手を小さくあげたポーズで、リベルの横まで歩み寄る。 「私、リベルさんの味方になります。あ、刃向かう気なのは、そこのトリのグランさんと、ハイエナのファリアさん。それと、エミリエさんの格好はしてますが、ファニーさんです。二人と一匹ですね。エミリエさんはさっき更衣室で、ファニーさんの格好に着替えてました。たぶん、そのまま逃げる気です」 すらすらすらすら。 ぺらぺらと渚は陣容のうちを明かしていく。 リベルは鉄面皮を崩さず、にこりともせずに酒場を見回し、空間と罠の解説に耳を傾けた。 「あと、あのあたりでファニーさんが何かしてましたので、トラップでもあるかも知れません。気をつけてください。たぶん、エミリエさんはいないので、近づかない方がいいですよ」 「うわ、この裏切りものーっ!!」 思わず叫んだのはエミリエの格好のままのファニー。 小さな体に巨大なハンマーを抱えたまま、思い切り背伸びをすると渚に人差し指をつきつけた。 「あんた、酷いじゃないか。ここで裏切るなんて」 グランはグランで羽先を震わせ、渚を睨む。 当の渚はといえば、涼しい顔で優雅に微笑んで見せた。 「あら、このためにエミリエちゃんの味方になったのよ? 最初からリベルさんにつくつもりでしたもの。裏切りではありません、作戦です」 ころころと笑顔と笑い声をこぼす。 「く、全部嘘だったっていうのか」 「あら。女にとって、嘘は化粧と同じです」 グランの問いに対し、慈母のごとき笑みを浮かべつつ彼女はきっぱりと言い放った。 「この、……外道。女の風上にもおけませんわ……」 「そういうの、普通は『ハイエナのようなヤツ』って言うんですよ?」 「ぶ、侮辱ですわ!」 表情からは読みとるが困難ではあるが、ファリアの声には怒りが滲み出ていた。 二十頭ばかりのハイエナが一斉にうううぅぅと唸り、威嚇を始める。 渚は涼しい顔のまま、それを一瞥するとジュースの入ったボトルをあけ、コップにつぎ、一気に飲み干した。 そのままコップに二杯目を注ぎ、リベルへと差し出す。 「さあ、リベルさん。勤務中ですからお酒はダメですよね。ジュースで乾杯しましょ?」 「…………………………」 リベルは応えない。 眉をぴくりとも動かさず、じっと渚の目を見つめる。 「…………………………」 「…………………………」 「…………………………」 「…………………………」 「…………………………ちっ」 柔らかな笑顔を崩さないまま、舌打ちをしたのは渚の方だった。 そのまま譲二に向き直り、どうぞ、とコップを差し出す。 「おうネェちゃん。気ぃ利くじゃねぇか、俺様に惚れたかァ? あアン? 愛人にしてやってもいいぜ。ぎゃははははっ」 コップを手に取り、口へ運ぼうとする。 リベルが短く告げた。 「薬でも入ってますか?」 その声に、譲二はとっさに口からコップを放す。 「……へぶっ!?」と間の抜けた声、そしてコップが床に転がる音と共にジュースは床にしみこんでいった。 光景を目の当たりにしつつ、渚は相も変わらず悠然と微笑んでいる。 「やいやいやいやいやい、コラ、ネェちゃん。俺様に一服盛ろうたァいい度胸してンじゃねぇか。危ネェ、危ネェ。リベル閣下様のお言葉がなきゃ、ほ~んとヤバかったぜ。おうおう、覚悟はデキてんだろうナァ? あァン?」 下から睨みつける譲二の肩越しに、渚はリベルと視線をぶつけていた。 完全にシカトされた譲二が「おうおう、無視してンじゃねぇぞ!?」と声を荒げるが、それすらも黙殺する。 十分ににらみあった後、渚は突然目頭を押さえて座り込んだ。 「そ、そんな……あたしはただ皆さんの喉を潤そうと思って……」 三流の昼ドラマに出てきそうな悲しみに打ちひしがれる人妻のようなポーズで、めそめそしくしくと泣き声をあげる。 「騙されないでください! これはエミリエさん側の策略です!」 顔を抑えたまま、渚はびしっとグラン達を指差す。 もちろん。 シチュエーションがシチュエーションなだけに、誰一人信じない。 いや、 「そ、そんな事はしていないぞ、この卑怯者っ!」 鳥一匹だけは信じたようだ。 嘆息ひとつ。 渚の方を見たリベルは冷たい声をあげる。 「エミリエを渡す気はない、と言う事でよろしいですか?」 「ええ。でも勘違いしないでくださいね。子どもはのびのびと自由に、とか、お勉強ばかりでは、とか言う気はありません」 リベルが無言のまま先を促す。 渚はくすりと微笑み、先ほどよりよっぽど強力に断言した。 「そのほうが面白そうですし」 と。 ●四十九分経過 「おおおお。いい女じゃネェか!?」 「ちょ、ちょっとやめてくださいまし!」 「いいじゃねぇか、かわいこちゃぁぁんっ!」 譲二はファリアの毛皮に顔をうずめていた。 もふもふ。 ふさふさふさふさふさ。 ふぁっさふぁっさふぁっさふぁっさ。 「おおお。いい手触りだぁぁぁ」」 「ちょ、ちょっと皆さん! 見てないで止めてくださいまし! 何故、このオスはいきなりこんなことになりましたの!?」 譲二の行動を観察しつつ、リベルは床にしみこんだコップを見つめる。 思い当たる事と言えば、これしかない。 「……飲むとこうなると言う事ですか? しかし彼は飲まなかったはずですが」 「先ほど、ビールのお酌をさせていただきました。……マンドラゴラの煎じ薬らしいです。あ、買った時、効果不明って書いてあったので、凶暴化したらどうしようかと思いました」 そうですか、とリベル。 グランが額の汗をぬぐうマネをして、渚に声をかける。 「あんた、わりとえげつねぇな。いまさらだが」 「言ったでしょう? 女は嘘と香水で生きていく生き物です」 そのやり取りの間にも、リベルは無言で手を振り上げ、振り下ろした。 合図である。 酒場を取り囲んでいたロストナンバーや世界図書館の職員が一斉に酒場に踏み込んできた。 元々酒場にいた者達はほとんどが逃げ出すか、観客となって無責任な野次を飛ばしている。 「お相手、いたしますわ」 たった一頭で、二十の戦力となるのがファリアである。 うぃーうけけけ、と不気味に笑い、哂い、嗤い、そして二十頭に分身したファリアは真正面から集団につっこんでいった。 猛る牙は容赦なく侵入者の肩口に、手足にと食い込んでいく。 死闘ではないため、なるべくケガはさせないつもりで戦りあっているからか、侵入者達も獲物を手にせず、素手での勝負を挑んできた。 彼らの背を踏み台に、あるいは手足に絡みつくように牙を立て、そしてまた、足元に十分にスピードの乗った体当たりをぶちかまして、ファリアは十九頭で八面六臂の大立ち回りを演じていた。 ちなみに最後の一頭は譲二に溺愛されている。 「うおおおー、この譲二ことジョー様のもふもふを止めるヤツぁタダじゃおかネェぞ、コラァー!!!」 「ちょ、ちょっとレディのどこを触ってるんですの、破廉恥なっ!」 もふもふ、ふさふさ。 ハイエナとは言え野生のそれとは違い手入れはなされている。 また薬の効果もあってか、いたく譲二のお気に召したようだ。 「ちょ、やめてくださいましっ、こら、オスっ! ちょっと、皆様も見てらっしゃらないで、何とか、この!!」 分身を呼び戻そうにも、分身は分身で侵入者達の迎撃で手一杯である。 はたから見れば非常に激しい野生vsロストナンバーの勝負であるが、こちらはこちらで、イヌにじゃれつくヤクザモノと言った風情で非常にほのぼのした光景であった。 「あ。見たことあるよー。雨が降ってる時に不良が子犬とかにやさしくしてると、ちょっと、きゅーんってきたりするよね」 うんうん、と何かを理解した顔でファニーが大きく頷いた。 ファリアの抗議が聞こえてきたが彼女は気にしないことにする。 更衣室の扉を見て、手元の窓を見た。 最初にエミリエと打ち合わせた時間が、もうそろそろのはずだ。 ついでに時計を確認し、一呼吸。 「そろそろかな? 10、9、8……」 ファニーのカウントダウンが始まる。 「6、5、4」 ファニーが窓のひとつに手をかけた。 「3、2、1、エミリエ、出番だよーっ!」 大声を出すと同時、ファニーが窓を大きく開けた。 ばたんと更衣室のドアが開き、ファニーの服に身を包んだエミリエが思いっきり走り出してくる。 「あ、ありがとファニー! みんなもありがとねーっ!」 「おう。魔女は任せとけ!」 グランの声を背に、開いた窓に向けてエミリエは大きくジャンプし、窓枠を踏み越えると外へと駆け出していった。 侵入者であるロストナンバーの数人が窓から追いかけようと走ってきたところで、ファニーが近くの油を床に落とす。 当然、瓶が割れて床に散らばった油が侵入者の足を取り、盛大にすっ転ばせた。 「ごっめ~ん☆ それ拾ってー」 愛想たっぷりの笑顔を振りまき、ファンーは油で転んだ侵入者達に小麦粉を降らせた。 不利と見たか、この酒場に用はないと考えたか。 リベルが撤退を命じる。 「この酒場を放棄。部隊を再編してA班は……」 「パンケーキ、好きか?」 リベルの指示を遮る大声と共に、グランは大量のパンケーキを取り出した。 数秒後。 まるで枕投げ大会が始まったかのように、酒場中にパンケーキが乱舞する。 ひゅんっ、 ひゅんっ、 ひゅんっ、 グランを基点に、パンケーキが宙を飛び交う。 その中の一投がリベルの顔へと目掛け、滑空し、命中した。 「しまっ……」 リベルが口をあけた時、その口にふわりと香ばしく柔らかく、そして甘いパンケーキが飛び込んだ。 「もがっ」 「うまいだろう。俺の奢りだから、遠慮無く食っていいぜっ」 羽根を使って、どうしてここまで器用にできるのかと言う程に正確なコントロールで彼は侵入者達にパンケーキをぶちあてていった。 ●六十四分経過 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」 何故か譲二を先頭にして、グランが、ファニーが、渚がぺこぺこと頭を下げていた。 般若のような形相で怒っているのは、酒場の店長のようだ。 見渡す。 皿が割れている。 パンケーキはあちこちに飛び散っている。 小麦粉で一角が真っ白に。 油溜まりができているところまである。 そして、大立ち回りの結果、ハイエナの毛が店内に散乱していた。 テーブルや椅子の破損も散見できる。 「もう、本当にごめんなさい」 ぺこぺこ。 リベルは『誠心誠意謝罪するように』と申し伝えて、先ほど世界図書館へと帰っていった。重要な会議があるようだ。 リベルの命令とあっては、譲二も威圧するわけにはいかず、さりとて普通に謝り慣れていないので、とりあえずぺこぺこ頭を下げ続ける。 グランとファニーは箒とちりとりを手に、酒場の掃除を始めていた。 ファリアは床に落ちたパンケーキを頬張り「うぃー、うけけけけけ」と満足そうに嗤っている。 結局、一同はテーブルや椅子を修理して店内を綺麗に片付けること、そして何日か酒場を手伝うことを約束させられていた。 「まぁ、これでエミリエが魔女につかまらないなら、これくらいはお安い御用だぜ」 「……え。まだ信じてるの?」 「……信じてる? どういうことだ?」 ファニーの呟きに、グランは心底不思議そうな顔を浮かべていた。 「おい、乳のネェちゃんはどーしたんだ?」 譲二がぼやく。 マンドラゴラの煎じ薬のおかげで、まだ頭がふらついている。 先ほどから姿の見えない渚は、すでに逃亡したのだろうか。 「くっそ、あのアマぁ。今度会ったら……」 「あら。愛の告白でもしてくれるんですか?」 「あァ?」 見上げると、渚が相変わらず優雅な笑みを浮かべ、譲二を覗き込んでいた。 「うっひょっ。俺の女にしてヤんよぉっ!」 ぴょんっと飛びかかった所で、渚はすっと体を引いた。 譲二の体は着地点を失い、そのままパンケーキを食していたファリアの上へと落ちる。 「うけっ」 と短い声がして、ファリアは譲二の下敷きになっていた。 もちろん、その後。 譲二の体には無数の噛み後ができた。 後日、彼が傷について「ちょっと女に噛み付かれちまってよォ」と説明する内容は、一応、嘘ではない。 ごちゃごちゃと、そしてドタバタと。 ほとんど収集もつかないままに。 0世界の隅っこで、今日も平和に騒ぎがひとつ収まったことになる。 ――ただ。 もちろん、当事者の掃除当番はしばらく続くのだった。
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