ここは、どこだろう。 白い壁。整然と並んだ横長の椅子。十字の形のレリーフ。色とりどりの硝子窓。 朝もやに差し込む光。小鳥の囀り。甘い花の匂い。 関節部の継ぎ目が軋み、思うように身体を動かせない。 記憶の映像は途切れ、像を結ばない。 自分の出自に関する記憶が、消失してしまったようだ。「……お姉ちゃん、誰?」 気がつくと、数人の子供たちが、私を取り囲んでいた。 彼らは皆、不思議そうな顔で、こちらを見ている。 だけど、何を言っているのかは、よくわからない。 私の知る言葉とは、あまりにも違いすぎる、聞いたことのない言葉。異国の言葉?「僕、ジミーっていうんだ」「私はアメリア。こっちが妹のパティよ」 彼らは皆、何事かを言いながら自分の方を指さしている。 きっとそれが、彼らの名前なのだろう。 だけど、それ以上のことは、よく分からない。 彼らに害意はなさそうだった。 心配そうな顔。屈託のない笑顔。 たとえ言葉が分からなくても、私のことを心配してくれていることは分かる。「……フィーア」 私は自分を指さしながら、たったひとつだけ、彼らに伝えられる言葉を――自分の識別コードを告げた。◇「ミスタ・テスラに転移したロストナンバーを保護してほしいの」 それが、此度のオリガ・アヴァローナからの依頼であった。「名前は『フィーア・シュヴァンフラウ』。機械の身体と人の心を併せ持つ、少女型の自動人形(オートマータ)よ。魔力によって動く人型ロボットとかアンドロイドに近い存在、と言えるかしら。命に別条はないものの、転移時のショックで記憶の大部分を失っているらしくて、今は『聖シルベスター教会』という所に保護されているわ。ただ、一つ問題があって……」 少し不安げな、そして困ったような表情で、オリガは続ける。「聖シルベスター教会は、身寄りのない子供を引き取って養う孤児院の役割も果たしているのだけど、どうやらそこの子供たちがすっかりフィーアになついてしまっているみたいで、片時も彼女のそばを離れようとしないらしいの。もし彼女を連れていくとなれば、きっと子供たちは黙っていないでしょうね。だからと言ってこのまま放置しておけば、いずれ『ディアスポラ現象』の進行によって、彼女は遠からず『消失』してしまう……彼女を助けるためにも、そして将来的に子供たちを悲しませないためにも、何とか上手く説得してほしいの。それに、はっきりとした予言の形にはなっていないのだけど、他にも何かトラブルの種があるらしいわ。恐らく戦闘といった事態にはならないと思うけれど……気をつけてね」◇「聖シルベスター教会か……お前ら、いいところに来たな」 大衆紙『コメット・エキスプレス』編集長にして元ロストナンバー、シドニー・ウェリントンは、旅人達から依頼内容を聞いて、悪戯っぽくニッと笑って見せた。「先日うちに『セレスト財団』から、直々に取材依頼があったのよ。今度、次期当主候補のミシェール・セレスト嬢が、聖シルベスター教会を慰問に訪れるので、取材に来てほしい、とな。彼女としては、単に広告を打つのではなく、ちゃんとした記事にすることで、より広く下流階級の窮状を世間に訴え、問題提起し、より多くの支援を募りたい、ということなんだそうだ。うちとしても、貴族のご令嬢の独占インタビューを掲載出来れば、売り上げも上がって願ったり叶ったり、ってやつよ」『ノブレス・オブリージュ』……高貴なる者は、それに相応しい品性、教養、良識を備え、社会に進んで貢献するという精神は、かつての壱番世界の貴族社会における美徳である。 このミスタ・テスラの貴族たちも似たような価値観を持っており、セレスト家に限らず、社会的弱者の救済に力を入れている者が多い、とシドニーは語った。「もっとも実際には、金だけ振り込んで本人は顔見せどころか手紙すら寄越さないことも珍しくはないんだが、こと『セレスト財団』に関しては、代々当主が実際に現地を訪れ、人々と交流することでも知られている。当然ミシェール嬢もだ……上流階級のお嬢様とお近づきになれる、またとないチャンスだぜ?」◇「アルフォンス、準備は出来て?」「はい。全て整っております。お嬢様」 アルフォンスと呼ばれた青年執事は、先祖代々より仕える主の末裔、ミシェール・セレストに恭しく頭を下げた。「しかし、些か不穏な動きもございまして……」「不穏な動き?」「はい、詳しくはこちらをご覧いただきたく」 そう言って、アルフォンスは新聞を差し出した。彼の指し示した広告欄を見て、ミシェールも眉をひそめる。「これだけでは何とも言えないけれど……注意する必要はありそうね」「それと……雑役女中のシータが市場で聞いた話によりますと、お嬢様が訪問される予定の教会に、不思議な少女が現れたという噂が流れているそうです。何でも、身体の大半が義手義足、或いは機械で出来ているとか、言葉が通じない代わりに不思議な歌を歌うとか」 一連の報告を受けたミシェールは、しばし何やら考え込んでいるようだった。「……ありがとう。ジグラード卿については、引き続き警戒を。そして、情報収集の方も続けて頂戴」「イエス・マイロード」 一礼の後、端正な顔立ちの執事は静かに退室する。後に一人残されたミシェールは、机の上に飾られた写真を寂しげに眺め、呟いた。「お父様……」 そこには亡き父と、幼い二人の少女が写っていた。◇ 子供たちに乞われ、今日も私は歌う。 自分の記憶に残っている歌。懐かしい歌。 彼らの言葉を理解できず、また話せない私には、これしか出来ることがないから。 そしてこの子たちはいつも、私の歌を嬉しそうに聴いてくれる。 たとえ歌詞の意味は分からなくても、旋律は心に響き、魂を震わせる。 繋がれる心 溶けあう魂。 どうか、どうか、離さないで。 見も知らぬ場所で、私はひとりぼっち。 助けてくれたここの人たち、そしてこの子たちには、本当に感謝してる。 だから、だから、一人にしないで。 ずっとずっと、そばにいて。「僕たち、お父さんもお母さんもいないんだ。神父さまたちは優しくしてくれるけど、それでもやっぱり、さびしいよ……」「フィーアお姉ちゃん、絶対に私たちから離れないでね。約束して。絶対よ……」 言葉は通じなくても、歌によって繋がれた迷い子たちは、孤独な心を支えあうように、固く、固く抱き合った。◇ 深夜、子供たちが寝静まった頃。 見回りを終えて帰ってきた神父は、そっと机の引き出しを開けた。 取り出したのはペンとインクと便箋。そして、少し前の日付の新聞。 小さなランプの薄明かりの下で、その広告欄の内容を確かめる。 ジグラード子爵――彼は魔道科学、特に『賢者の石』や『オートマータ』といった事柄に関する情報、あるいは実物を求め、その提供者に多額の報酬を提供しているという。多くの工場に出資し、工業部門に幅広い顔を持つが、しばしば労使問題を起こしており、一部の労働者たちからの評判は芳しくないという噂もある。 あのフィーアという少女の素性は、分からない。しかし、全身が鋼で出来た、人形にも似た身体をした彼女は、きっと普通の人間ではあるまい。 あるいは彼女こそが、子爵の求める「オートマータ」なのかもしれない……。 決して、彼女が疎ましいわけではない。しかし、金がなければ、ここにいる子供たちを養ってゆくことは出来ない。 孤児たちの養育も含め、この教会の運営は、主に信者からの寄付によって成り立っている。 しかし、都市部の大聖堂ならいざ知らず、下町の小さな教会では、集められる寄進の額も限界がある。それらの援助があっても、ギリギリなのが現実なのだ。 出来ることなら子供たちに、もっと美味しいものをお腹いっぱい食べさせてやりたい。もっと良い服を買って、望むならばきちんとした教育も受けさせてやりたい。だが今のままでは、そのささやかな望みすらも叶わない。 それでも、と神父は思う。たとえ人間でなかったとしても、今の自分の行為はフィーアを、人と同じように歌い、子供たちに笑顔を取り戻してくれた彼女を「金で売る」のと同じではないのか……?「お許しください、神よ……許しておくれ……フィーア……」 苦渋と逡巡に顔を歪めながら、年老いた神父は、白い便箋にペンを走らせた。
蒸気科学と魔法の力が共存する世界、ミスタ・テスラ。 そしてこの世界における旅人達の拠点。大衆紙『コメット・エキスプレス』編集室。 都市の片隅にひっそりと存在するこの小さな新聞社の編集長にして、元ロストナンバーの現地協力者、シドニー・ウェリントンは、今回の世界図書館の依頼である「フィーア・シュヴァンフラウ嬢の保護」の件について、旅人達と打ち合わせをしていた。 「それじゃあ、俺が、聖シルベスター教会の神父とミシェール・セレスト伯爵令嬢の会談を取材している間に、お前らはフィーアや子供たちに接触し交渉する、という流れで良いな?」 シドニーの言葉に皆は頷いたが、その中でただ一人、シュマイト・ハーケズヤだけが首を横に振った。 「悪いがわたしは行かない。別行動をとらせてもらう」 「何処へ行くつもりだ」 「ジグラード子爵のところだ。何でも卿は、フィーアのようなオートマータにいたくご執心のようだからな」 思いもよらぬシュマイトの言葉に、シドニーを含めた全員が驚愕する。 「ちょっ……お前、ジグラード子爵がどういう人物か分かって言ってるのか!?」 「ああ、勿論だとも。まずは卿に発明品と機械の腕前を売込みに行き、私を雇わせる。皆がフィーアを子供たちから引き離すことに成功したら、わたしはジグラートに進言し、一度フィーアを引き取らせる。フィーアを受け取る取引が済んだら《機械改造》でフィーアの体調を操作し悪化させる。元の世界で魔法と科学を融合させたわたしの天才的頭脳があれば、造作もないことだ。そして『症状を進行』させて仮死状態にし、廃棄の名目で運び出す。この失態でわたしはクビになるだろうが、特に何の不利益もない。どうだ、名案だろう?」 「……問題大ありだ!! この大馬鹿野郎!!」 自信満々で胸を張るシュマイトを、シドニーは大声で怒鳴りつけた。怒りのあまりバンッ! と机を叩いた振動で、積み上げていた紙束が跳ね上がり、床にばらばらと舞い落ちる。シュマイトが小柄な少女の外見をしているから、辛うじて殴りたい衝動を抑え罵声で済んでいるようなもので、もし相手が男だったら、問答無用で殴りつけて歯の1、2本でも折っていたかもしれない。それほどの剣幕だった。 「ジグラード卿は『オートマータ』だけでなく『賢者の石』の情報も集めてるって言ったよな? そんな人物の所へ、壊れて動かなくなったオートマータが転がり込んできたら、どうなると思う? せめて廃棄前に彼女の構造を調べようと、或いはオートマータの動力源として最も有力視されている『賢者の石』だけでも取り出そうと、バラバラに解体するだろうな。そうなったら今度こそ彼女は、本当にお陀仏だ。テメェはその薄っぺらい浅知恵で、かけがえのない仲間の命を奪い、スクラップに変えるつもりか!? 自惚れるのもいいかげんにしろ!!」 「シドニーさん、落ち着いて」 クリストファー・ティムが二人の間に割って入る。出発前に世界司書のオリガや以前ここを訪れた仲間たちから、シドニーは気さくで面倒見の良い人物と聞いていただけに、ここまで激昂する彼の姿を目の当たりにして、皆少なからず動揺していた。 そしてそんなシドニーの怒りを一身に受けたシュマイトは、ただ無言のまま俯き、唇を噛みしめた。無論彼女としては、0世界帰還後にきちんとフィーアを「修理」するつもりではあった。だが絶対の自信を持っていた計画の「致命的欠陥」を、ああも皆の前ではっきりと指摘されては返す言葉もない。それでも、普通の女の子ならすっかり萎縮して「ごめんなさいもうしません許して下さい」と泣き崩れるところを、少なくとも表面上は冷静に、表情一つ変えずにいられるのは、元来気の強い彼女の性分ゆえか。 クリストファーの取りなしに、シドニーもようやく落ち着きを取り戻す。 「……すまない。年甲斐もなく取り乱しちまって。ただ、既に引退した身とはいえ、俺は元ロストナンバーとして、多くのツーリストを見てきた。フィーアと同様『機械の身体』を持つ者、獣の姿をした者、人の形をしていない者も沢山いた。それでも、様々な世界を共に旅し、酒を酌み交わし、同じ釜の飯を食ったあいつらは、言わば俺にとって『家族』や『親友』に近い間柄だ。だから、その仲間になるかもしれない相手を、ただの道具扱いするような考え方には我慢がならねえんだ。そんなの、前にここへ来た奴が言ってた、キルケゴールとかいう野郎と同じじゃねえか……」 そして彼は、胸の動揺を抑えるように、未だ無言のままのシュマイトに向かって宣言した。 「……とりあえず、取材にはついてこい。ただし現地では、常に俺と行動を共にし、監視下に置かせてもらう。こういうやり方は趣味ではないが、事が事なんでな」 ◇ 一悶着はあったものの、旅人たちはシドニーに伴われ、フィーアが保護されているという「聖シルベスター教会」に向かった。 建物は老朽化の為、所々塗装が剥げたり煤をかぶっていたりして、都市部の大聖堂に比べれば、些かみずぼらしい感は否めない。それでも、貧しい労働者階級が多く住むこの下町において、この教会は信仰の拠り所であると同時に、親をなくした子供たちが最終的にたどり着く『我が家』でもあった。 一行が目的地に到着したのとほぼ同時に、一両の馬車が教会の前に止まった。 若い執事に伴われ、上品なドレスを纏った少女が馬車から下りてくる。歳の頃は17歳ぐらいであろうか。この世界の成人年齢である20歳に達していないにも関わらず、その瞳は凛として、次期当主たるに相応しい聡明さと気品を感じさせる。彼女こそがミシェール・セレスト伯爵令嬢その人であった。 「これはこれは、お久しゅうございます。レディ・ミシェール」 普段とは違う丁寧な態度で、シドニーはかぶっていた帽子を取り、深々と頭を下げた。 「私、シドニーさんにはとても感謝しておりますのよ。父の代から、寄付に広報にと、我が財団の活動を支援して下さっていますもの」 「自分こそ、かつて流浪の身であった頃から、御父君やここの人々には大変世話になりましたから、少しでもご恩返しがしたいのですよ」 親しげにシドニーと歓談するミシェールの前に、虎部隆が進み出る。 「へー、俺と同じぐらいなのに随分しっかりしてるね。今日はどういったご用件で? あ、ついでに好みのタイプも知りた……」 言いかけて、ミシェールの側に仕える執事とバッチリ目が合った。短い金髪と青く涼やかな瞳が印象的な、長身の青年だ。ミシェールの身辺警護も兼ねているらしく、その周囲に張り詰めた空気は、一切の害意が立ち入る隙を許さないように思えた。 執事は隆をさほど危険視してはいないのか、極めて冷静な面持ちで先刻の質問に答える。 「本日はこの聖シルベスター教会への寄付と視察、ならびにここで養育されている孤児たちの慰問に参りました。この後応接室にて、デクスター神父との会談を予定しております。ご質問は、その時に改めて」 (すげー……やっぱ本場の貴族ってのは、あんなイケメンの執事も雇えるんだな) イケメンはともかく、その流暢な応対と立ち居振る舞いに、隆はほうっ、と感嘆の溜息を漏らす。 「お嬢様、そろそろお時間でございます」 「ありがとう、アルフォンス。さ、参りましょう」 執事アルフォンスに促され、ミシェールは一行と共に教会の扉へと向かう。 「ようこそいらっしゃいました。ミシェール様、そして『コメット・エキスプレス』の皆様。ささ、どうぞお入りください」 出迎えた神父は一行を快く歓待してくれた。しかし、その表情にどこか疲れたような雰囲気が見られるのは、単に年老いたせいばかりではないように思えるのは気のせいか。 ミシェールとアルフォンス、そしてシドニーとシュマイトは、神父に案内され応接室へと通された。その間、他の仲間たちは一旦彼らと別れ、此度の保護対象であるフィーアの姿を探す。 中庭に入ったところで、16歳ぐらいの少女が、十数人の幼い子供たちに囲まれているのが見えた。 ほとんど白に近い色をした、長い金髪と白い肌。愛らしい顔立ちは、先刻のミシェールよりも繊細で、純真な心を窺わせる。その姿はまるで神話か童話に出てくるような「白鳥の乙女」を思わせた。しかしよく目を凝らして見れば。首筋や衣服の間から、からくり人形の様に人工的な機構がのぞく。 彼女こそが「フィーア・シュヴァンフラウ」その人に違いなかった。 子供たちに囲まれたフィーアは、彼らに乞われるままに歌っているようだった。 その歌声の何と清らかで、美しいことか。カナリアの如く繊細で、それでいて高らかに響くソプラノ。「天使の歌声」というものがあるとするなら、今聞いているフィーアの歌はまさしくそれだろう。 彼女の歌声を聴いた五十嵐哲夫が、ふと呟く。 「きれいな歌だな……それにどこか、哀しくもある……」 哲夫は当初、フィーアは子供たちにとって「母親代わり」的な存在になっているのではないかと考えていた。しかし、実際に聞いた彼女の歌声は、それだけでは片づけられないような複雑な色を帯びているように思えた。愛しさと慈しみと共に、失うことを引き裂かれることを恐れるような、喜びと悲しみの入り混じる不思議な歌。 彼女が一通り歌い終えたところで、隆が一歩進み出て、声をかける。 「えーっと、君がフィーア……だね? ちょっと話があるんだけどさ……」 ◇ フィーアが哲夫と隆に伴われて一旦離れ、応接室ではミシェールらの会談が進む中、クリストファーは中庭に残った子供たちを集めて言った。 「あー……うん、と……来たばかりでいきなりこういうことを言うのは心苦しいのだけど、フィーア君と一旦別れて、私たちに任せてくれないだろうか?」 「えーっ! どうして!?」 突然の言葉に子供たちは動揺し、非難がましい瞳をクリストファーに向ける。予想していた反応とは言え、実際にその状況に立たされると胸が痛い。しかし、それでもここで退くわけにはいかない。 「君たちの気持ちもわかる。無理なお願いだとは承知もしている。ただ、一度世界図書館の方に来てもらわないとフィーア君自体が消えてしまうからね」 「図書館に行かないと消えてしまうって、どういうことなの?」 子供たちに指摘され、クリストファーははっと口を噤む。この世界の住人に、世界図書館やディアスポラ現象といった『真理』に関する事柄を教えることは、禁忌とされていた。何故なら『真理』に目覚めてしまった者は今いる世界から放逐され、新たな彷徨い人になってしまうから……今の彼自身のように。 図書館については適当にごまかし、さりとて上手い詭弁も思いつかず、 「とにかく、フィーア君はいつまでもここにはいられない。一旦ここを出て、私たちと共に行かなければ、いつか人知れずいなくなって、永遠に会えなくなるんだ。それは寂しいし悲しいだろう? 一度別れても絆があればまた会える。大人が信じられなくて孤独なのだとしても、周りには君たちと同じ友達がいるだろう? だから寂しくなんてない。一人なんかじゃない」 クリストファーは努めて優しく労わるように、子供たちに語りかけたつもりだった。だが、 「……適当なこと言わないでよ」 「えっ……?」 彼の想いとは裏腹に、子供たちの視線は、不信と冷やかさを増してゆく。 「僕たちがいつ『大人を信じてない』なんて言ったの? 神父様やシスターのことは大好きだし、感謝もしてる。僕たちのこと知りもしないくせに、勝手に決め付けないでくれる?」 「それにね、いくら絆があったって、会えないものは会えないんだ。僕だって毎晩、神様にお願いしたさ。もう一度パパとママに会わせて下さいって。でもそれが絶対に無理だってことも知ってる。だってパパとママは、もう天国に行ってしまったんだもの」 「ここにいたら永遠に会えなくなるって言うんだったら、出て行ったら余計に会えなくなるじゃないか。出て行けば会えて、残れば会えなくなるなんて、そっちの方がおかしいよ」 「それとも、私たちがパパやママに会えないのは、絆がないっていうことなの? そんなのひどいよ!」 迂闊だった。ここにいるのは皆、親と死に分かれて永遠に会えなくなったか、貧困故に捨てられて再会が絶望的な子供たちだ。『いつかまた会える』なんて気休めが現実の前に無力であることを、誰よりも彼ら自身が痛感しているのだから。 最年長らしい少年が言った。 「教えてあげようか。おじさんが言ってるのは『きれいごと』って言うんだよ」 冷めた視線と容赦のない言葉が、クリストファーの胸に突き刺さった。 ◇ 一方、隆と哲夫に呼びされたフィーアは、まず第一に「久々に言葉の通じる相手が現れたこと」に驚き、そしてほんの少し安堵した。 「あなた方とは、言葉が通じるのですね」 「ああ、俺たちも昔、あんたのように異世界に飛ばされて『世界図書館』に保護されたんだ」 「せかいとしょかん、ですか?」 隆の言葉に興味を示したフィーアは、ディアスポラ現象のこと、世界図書館のこと、そして自分の置かれた状況について説明を受ける。そして、このまま放っておけば、自分がいつか『消失』し、子供たちの記憶はおろか、世界そのものから忘却されるであろうことも。 「このまま居ればあんたは消える。ある日突然いなくなるってのは、子供達にとって一番残酷な別れ方じゃないか? そういうのはあの子たちには早いよ」 先刻の陽気な振る舞いが嘘のような真剣な表情で、隆は語る。 ロストナンバーとして覚醒する前、壱番世界で平和に暮らしていた頃の彼には、兄がいた。勉学も運動も人望も、自分など比較にもならないほど出来過ぎた兄。肉親としての親愛と、コンプレックスの入り混じる、複雑な感情。 しかしある日突然、その兄は行方不明となり、故に彼の存在は決して消えることのない「超えられない壁」となった。 普段は馬鹿兄貴だの何だのと憎まれ口を叩いていても、失った後になって、その大きさに気づく。 だから隆は、かつての自分と同じ思いを、子供たちにはさせたくなかった。 「……俺も図書館と関わりだしてから日が浅いから詳しくはしらねぇけど……、あんたがそう望むなら、図書館でパスホルダーを貰って、こっちの世界に帰属する、って選択肢もある……らしい……ただ、よく考えてほしい、さっきも言った通り、あんたはこの世界にとっては異邦者だ、体が体だけに色んな奴に目をつけられる可能性だってある……もしかしたら、あの子供達も泣かせるかもしれねぇ……だから、じっくり考えてみてくれ……自分にとって、一番だって思う選択肢を」 哲夫もまた、彼なりにフィーアのことを案じ、慎重に言葉を選んでいた。彼自身、自分がどこの世界にいたとしても異邦者と思ってる節があるので、出来る限りフィーアにも無理強いはしたくないと思っていた。彼女自身の意志で、幸福な未来を選んでほしいと。 実際には「再帰属」は口で言うほど容易ではない。その世界の運命に深くかかわるか、世界の住人の誰かとの『確固たる絆』を結ぶことが必要だとされている。単にこの世界が好き、ここに住みたいと思っただけでは駄目なのだ。あのシドニーからして、ロストナンバーになってからこの世界に再帰属するまで、実に40年近くの歳月がかかったという。まして、つい先日ここにたどり着いたばかりのフィーアでは、恐らく条件は満たせないだろう。子供たち、或いは他の誰かとの絆が、今以上に深く、分かちがたく結びつくまでは。 二人の言葉を黙って聞いていたフィーアは、不安げな瞳で二人を見つめ、呟いた。 「……自分がこの世界にとって『異質な存在』であることは分かっています。機械文明が発展しつつあるこの世界で、私のような『機械の身体』を持つ者がどのような目で見られるのかも、そしてそこに伴う自身の身の危険も。……では聞きますが、仮にあなた方についていったとして、今後実験や研究調査の為に私をバラバラに解体しないという保証はありますか?」 「そんなこと、あるわけないだろっ……!」 言いかけた哲夫の脳裏に、出発前のシュマイトの言葉が甦った。勿論、ロストナンバーの保護と互助を目的とする世界図書館が、無残にも彼女を解体するなどあるはずがない。しかし、そこに属する個人が必ずしもそれに同意するとは限らず、また世界図書館側も、実際に何か問題を起こさない限りは、個々の思想までも制限する権限を持ってはいない。もしあの時シドニーが止めていなかったら、彼女の計画が『実行』されていた可能性だってゼロとは言えないのだ。 それは隆も同じだった。この後彼は子供たちに対して「彼女のことは俺たちが守る」と約束するつもりだった。しかしあまりにも率直なフィーアの言葉と、それが現実となっていたかもしれない可能性の前に、その決意も揺らぐ。果たして今の自分たちに、そんな資格はあるのか、と。 一瞬の躊躇と後ろめたさに、二人は言葉を詰まらせる。 「……少し考えさせて下さい。突然のお話なので、まだ心の整理がつかないんです。今夜一晩考えて、明日には必ず、お返事いたしますから」 「ああ、俺たちとしても、無理強いするつもりはないしな」 哲夫は頷き、シドニーから預かった『コメット・エキスプレス』社の名刺を手渡した。もし決意を固めたらここを訪ねてほしい。自分たちはここにいるから、と言い残して。 フィーアは名刺を受取ると、深く一礼して、子供たちのところへと戻って行った。 細く寂しげな後姿を残して――。 ◇ 神父との会談が終わり、応接室の扉がを開かれる。 旅人達と合流するシドニーらと一旦別れた後、ミシェールとアルフォンスの二人は、視察のため教会内部を散策していた。 中庭へとさしかかったところで、ミシェールと同じぐらいの年頃の少女が、子供たちに囲まれながら歌っている姿が見えた。異国の言葉なのだろうか、歌詞の意味はよく分からないが、その声の、旋律の美しさに、聞いているだけで魂が震えるのが分かる。 「……クレア……」 「……お嬢様?」 いつの間にか、ミシェールの碧い双眸から、一筋の涙が零れおちていた。普段は人前で弱音を吐くことのない彼女の只ならぬ様子に、アルフォンスが心配そうな顔で尋ねる。 「……あ、ごめんなさい。あの歌を聴いているうちに、思い出してしまったみたい。お父様と、クレアのことを……」 「……お嬢様の心中、お察しいたします。お父上が『あのようなこと』になり、クレア様の安否もまだ……しかし私もシータも、お嬢様の御心を支え、暗雲を払い、セレスト家に仇なす全ての邪悪から命に代えてもお守りする所存です。それが、お父上やお嬢様に支えられ今日まで生きてきた私共の意志であり、願いなのですから」 「ありがとう、アルフォンス。そうね、泣いている場合ではないわ。私たちにはまだ、成すべきことがある。まだ全てが終わったわけではないんですもの……」 若き執事の穏やかな言葉に支えられ、ミシェールは涙を拭いて、気丈に微笑んで見せた。 ◇ 「ああそうだ、これ、俺からの寄付な!」 教会を去る前、隆は神父の前に、中身がパンパンに詰まった大きなカバンを差し出した。 中に入っていたのは、子供サイズの服や缶詰、菓子類だった。事前に隆がセクタン・ポンポコフォームの『真似マネー』を使って調達したものだ。シドニーから「あまり使いすぎるとこの世界の経済が破綻するから、程々にしとけ?」と釘を刺されたこともあって、あまり大量の物資は調達できなかったが、何よりもその心遣いが、神父にとっては嬉しかった。 隆は神父の側に近寄り、他人に聞こえぬようそっと耳打ちする。 「……神父さん、フィーアと子供たちのこと、大切にしてやんな。世の中にはさ、金で買えねえものもあるんだ。失った笑顔は二度と戻らねえ。まっ、俺が言っても説得力ナッシングだけどな」 苦笑して立ち去る隆の背中を、神父は感謝に満ちた瞳で見送った。 (ありがとうございます……私は、もう少しで過ちを犯すところでした……) ジグラード子爵に宛てて書いた手紙は、投函せずに机の引き出しにしまいこんである。あれは早々に破り捨ててしまおう。自分にとって、何よりも子供たちが大切なように、今の子供たちには、きっとフィーアが必要なのだろうから……。 不安をぬぐい去り、年老いた神父はそう決意するのだった。 ◇ 翌日。 一行が0世界への帰還準備を始める中、『コメット・エキスプレス』編集室を訪れた客があった。 「……フィーア!」 そこにいたのは誰あろう、フィーア・シュヴァンフラウその人である。 「先日の件について……返答に参りました」 奥に通されたフィーアは、何度も口にするのを躊躇いながらも、やがて意を決して、申し訳なさそうに口を開いた。 「……あの後、私自身も色々と考えましたが……やはり私は、あの子たちを残してあなた方についてゆくことは出来ません」 「それは『俺達が信用できない』ということなのか?」 哲夫の問いにフィーアは明言こそ避けたものの、ただ哀しげな瞳を伏せ、無言で俯くのみであった。俯く直前、クリストファーの方を一瞥したことからして、子供たちからも一連の顛末を聞いたのだろう。 深く淀むような沈黙が、彼女の胸中を何よりも雄弁に語っていた。 「……そうか。俺たちの方こそ、いきなりやってきて変なこと言って悪かったな。ただ、今後もし何か困ったことがあったら、ここにいるシドニーを頼ってきてほしい。彼はあんたや俺たちの様な存在のことも理解してくれるし、秘密も守ってくれる。ミスタ・テスラの生活が長い分、俺たちみたいな『余所者』よりは信用できるだろう」 「もし気が変わったら、いつでもシドニーのおっさ……編集長に言ってくれよな。俺たちの仲間が迎えに行くからさ」 「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」 哲夫、そして隆の精いっぱいの気遣いに、フィーアは涙を堪るかのような表情で、ただひたすら頭を下げた。 ◇ 帰りのロストレイル車内。 ボックス席に座る4人は、皆一様に沈痛で重苦しい表情をしていた。 何故なら、隣に座るはずだった「機械仕掛けの歌姫」は彼らを拒み、今ここにいないのだから。 特にシュマイトは、シドニーから厳しい説教を食らって以来、教会に同行した間も一言も喋らず、ただ貝のように無表情で押し黙っていた。自身の浅慮を恥じているのか、それともプライドを傷つけられて不貞腐れているのか、その表情から伺い知ることは難しい。ただ、自らの言動を「キルケゴールと同じだ」と指摘されたことについては、少なからず思う所があったであろうことは間違いない。 沈黙を破って、隆が呟く。 「なあ……俺たちさ、初めてロストナンバーになった時って、ものすごく不安だったよな。突然知らない世界に飛ばされるわ、言葉は通じないわ。俺みたいな壱番世界の人間はまだしも、ツーリストともなれば故郷にも戻れなくなって、親しい人とも会えなくなって、すごく寂しかっただろうな……」 「……そうだね。私も真理に覚醒して、愛弟子と離れ離れになった時は、どうしようかと思ったものだよ。自分の境遇もさることながら、何よりも彼女の安否が心配だった。後になって、同様に覚醒した彼女と偶然再会した時は、本当に安心したものだ」 当時のことを思い出し、クリストファーはほんの少し懐かしげな笑みを浮かべる。 「……もしかしたら、フィーアも同じ気持ちだったのかな」 ふと漏れた隆の呟きに、全員がはっと気づく。 どうして、今まで忘れていたのだろう。フィーアは『かつての自分』だったということに。 彼女が本当に求めていたのは、『子供たちと離れなければお前は死ぬ』という脅し文句ではなく、世界とかけ離れた異質な者にも分けへだてなく差し伸べられる優しい手と、揺らぐ心をしっかりと支えてくれる力強い言葉だったのではないだろうか? どうしてあの時、誰も彼女の不安な気持ちに気づいてやれなかったのだろう。 しかし、既に0世界へと帰還する列車に乗り込んだ今となっては、何もかもが遅すぎた。 もし再びミスタ・テスラを訪れたなら、もしフィーアとの再会が叶うなら、今回のことを彼女に謝りたい。そして今度こそ彼女を『仲間』として、改めて受け入れたいと思う。 だが異世界への過干渉は、その世界に更なる混乱を招く危険と隣り合わせの行為だ。故に彼らは、世界図書館の許可なくして、勝手に現地を訪れることは出来ない。次にチケットを発行してもらい、贖罪の叶う機会は、いつになることか。 別れ際のフィーアの物悲しげな瞳を、彼らは忘れることが出来なかった。 ◇ 子供たちに乞われ、今日も私は歌う。 自分の記憶に残っている歌。懐かしい歌。 そしてこの子たちはいつも、私の歌を嬉しそうに聴いてくれる。 たとえ孤独を抱えていても、歌声に心は繋がれ、魂はひとつになれるから。 だから、だから、一人にしないで。 ずっとずっと、そばにいて。 あの日、ここを訪れた旅人は言った。 私はこの世界では『異物』だと。いつか消えてなくなってしまうと。 その言葉はきっと正しいのだろう。消えるのは怖い。死ぬのは怖い。 それでも、もし許されるなら、私は残された日々を、大切な人のために使いたい。 たとえそれが泡沫の夢だとしても、最期の瞬間まで、孤独な魂を癒したい。 そう望むのは我儘ですか――。 「お姉ちゃん、ずっと僕たちと一緒だよね……?」 「……大丈夫よ。あなたたちに、寂しい思いはさせないわ……」 たとえ言葉が通じなくても、寂しげな笑顔が、優しさを、想いを繋ぐ。 (ごめんなさい……私はこの子たちに、嘘をついてしまった……) そんな懺悔も後悔も、天使の歌声にないまぜに溶け込んで。 虚ろなまでに晴れ渡った空に、美しくも哀しい歌声が響いた。 <了>
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