ブルーインブルーの海上に浮かぶ小島群から船で二日ほど離れたところに、奇岩が列ぶ場所がある。 人はおろか動物も住まうことのない場所だ。海洋を渡る鳥などが群れをなし羽を休めることはあっても、自生する植物すらもまばら。寄せる波が残す海藻の類いがへばりついているぐらいだ。 海流も季節や時間の移ろいによって影響を受ける。ゆえに漁をするにも不向きであって、つまるところ、あまり人の足を寄せる場所ではないのだけれど。 けれど、この奇岩の列なりを抜けた場所に、唯一といっても差し支えのないような観光の見所がある。 かつて――それこそ気の遠くなるような悠久の時を超えた過去には、この辺りの列石群はいくつかの岩山であったのだという。それが波や風によって削られ、現在のようなかたちとなったのだという。 奇岩の間に出来た洞穴を抜ける船上で、ヴィンセント・コールは青灰色の双眸をゆったりと細める。 白々とした波がすべる海は海底が覗き見えるほどに透明度も高く、鮮やかな蒼を広げていた。船員の説明ではこの海色も時間の経緯によって変化するのだという。 きちんと整えた黒髪は海風をうけて幾筋か風になびいている。波が薙いでいるせいもあってか、船の揺らぎはそれほどでもない。 手すりに背を預け、足もとでガラハッド――オウルフォームセクタンがうつらうつらしているのを時おり見やりつつ、ヴィンセントは船員から聞いた情報をしたためた手帳を広げていた。 船上にはあまり相応しからぬスーツ姿。それでもネクタイはきちんと締め、海風が乱していく黒髪も無意識に手で撫でつけている。 手帳にしたためたいくつかの情報の中、彼が請けた依頼の内容も簡潔に記されてあった。それは海を荒らす怪物への対処でも、海賊への対処でもない。 端的に言えば、それは列石群の清掃だ。 手帳を閉じて胸ポケットにしまいこんだ後、ヴィンセントは改めて辺りに乱立する奇岩の群れに目を向ける。 「あの大きな岩を過ぎれば見えてくるよ」 子どもを連れた初老の男が指をさす。示された方に目をやれば、そこには確かにひときわ大きな岩があった。 「あんたは初めてかね?」 男が問いかけてくる。ヴィンセントは視線を男へと移し、ええ、と応えて微笑んだ。 男が連れていた子どもが駆けて行く。その先には船員が数人と船客が数人。文字通りの和気あいあいとした空気を漂わせつつ、時おり楽しげに笑い声を響かせていた。 「海藻が増えると音が変わってしまうのさ。音が濁ればそれがメルビレイを呼び寄せてしまうんだそうでな。そうなるとこの一帯もメチャメチャになってしまう」 ヴィンセントは男の言にうなずきを返す。 メルビレイとは巨大な化け魚だそうだ。気性も極めて荒く、しかも数匹のメスを引き連れた群れで一帯を支配する。しばらくすると別所に渡っていくのだそうだが、彼らが居着いている間に生態系おろか外観もすべてがことごとくに破壊されてしまうのだという。 どういう仕組みは知れないが、この辺りの列石群が悠久の間破壊されずに済んでいるのは、メルビレイが嫌うもの――彼らは優れた聴覚を備えているというのだが、それを刺激する要因があるためだともされている。 列石群の中、洞穴を備えたものがある。その洞の中を海風が過ぎる際、列石群は唄を奏でるのだという。 むろん、それは風が響かせるものに過ぎないのだろう。岩が唄うわけがない。けれど人々は信じているのだ。その唄が怪物の到来を遠ざけているのだ、と。 さらに言えば、列石群を破壊し終えたなら、メルビレイの群れは人が住まう小島群にすら近付いてくるかもしれない。二日の移動を要する距離があるとはいえ、万が一にもそんな事があってはならないのだ。 「唄う列石が島に住むわしらを守ってくれてるのさ」 男は笑う。 ヴィンセントはやはり静かにうなずいて、それから再び視線を船が向かう先へと向けた。 アルウィン・ランズウィックは船員は船客たちの中心に陣取って、機嫌よく歌ったり踊ったりしていた。 日の出と共に目を覚まし、日没と共に眠る。そんな生活を常としているアルウィンにとっても、船上にあれば波の音が心地よい子守唄のようで、ゆったりと進む船の揺らぎもまた心地よい揺りかごのようだ。船員たちは陽気で気のいい者たちが揃っているし、つまるところ、アルウィンにとってはとても良い環境が多く揃っている場所なのだ。 ――けれど残念なことに、ただひとつだけ。 その気持ちに小さな影を落とす存在――ヴィンセントさえいなければ。 請けた依頼の内容はとても簡単なものだった。 歌を唄う列石群にこびりついた海藻などを掃除する。ただ、その一点のみ。 海魔の掃討が生じるわけでもない。要人の護衛や保護があるわけでもない。半ば観光を楽しみ、そのついでに岩の掃除をするというだけの、何という事もない内容だったのだ。 船上にあれば捕れたての魚介を食する事も出来る。釣りをする事も出来るし、槍の稽古も思いのままだ。 司書は同行する相手はアルウィンよりも先にブルーインブルーに向かったから、現地で合流してくれと言われた。胸を躍らせ、いや、まさに踊りながら船着場に来てみれば、そこにいたのはアルウィンが同居しているイェンスの”エージェント”であるヴィンセントだったのだ。 何で頬を膨らませているんです? 笑みを浮かべるでもなく、ごく真顔で、ヴィンセントは開口一番にそう言った。 アルウィンは意味もなく威嚇して、――けれどもすぐに、大好きなイェンスの顔を思い出した。 もしも自分がヴィンセントと仲悪くしていたら、イェンスはどんな風に思うだろう。優しく、穏やかなイェンスを思う。困らせたくはない。 だから、アルウィンは笑った。つとめて親しく、友好的である事をヴィンセントに知らせてやろうと思って。 それなのに、ヴィンセントは訝しげに眉さえしかめて言い放ったのだ。 何でそんなに引きつった顔をしているんです? その一言で、アルウィンの中のなにかがどかーんと音をたてて壊れたのだった。 そもそも、アルウィンはヴィンセントの事を嫌いなわけではない。ヴィンセントがアルウィンを嫌っているのだ。少なくともアルウィンはそう思っている。 大好きなイェンス。アルウィンがイェンスと暮らしを共にして、イェンスと親しくしているから。だからきっと、ヴィンセントはアルウィンに冷たくあたってくるのだ。 アルウィンだって、ヴィンセントと仲良くあろうと思っているのだ。なんなら業塵と同じに子分のひとりにしてやらない事だってない。そうすればヴィンセントの足もとにいるあのガラハッドだって思うぞんぶんに撫でられるだろうし、きっとすべてが解決される。 それなのに。 船が唄う列石に到着したのを報せる汽笛を鳴らす。船員や船客たちがわっと沸き立った。アルウィンもまた飛び跳ねて、皆よりも先に船首に向かう。 波は引け、列石の下には海中に没していた白砂が姿を見せていた。 「今から数時間ほどはあの砂の上を歩き回れるそうです」 後ろから声をかけられ、アルウィンは飛び跳ねた。そろそろと振り向けば、そこにはほかならぬヴィンセントの姿。 他の者たちと違い、ヴィンセントはアルウィンのために視線を合わせてくる事もない。表情を崩し笑いかけてくることも、声の調子をやわらかなものにしてくる事もしないのだ。 「列石までは小舟での移動になるようです。……行きましょう」 「あ、アルウィン、泳いで行ける!」 言うが早いか、アルウィンは踵を返してヴィンセントの傍を離れようとこころみた。 が、ヴィンセントはアルウィンの首ねっこをつかまえて、さも当たり前のような顔で言ったのだ。 「行きますよ」 何の変動もない表情。 アルウィンは上目にヴィンセントを見上げ、ぐぬぬと小さく唸るぐらいしか出来ずにいた。 青々と広がる波の上、小舟はゆっくりと進む。漕いでいるのはヴィンセントだ。 始めのうち、アルウィンは自分が漕いでやると大騒ぎをした。実際に、ヴィンセントも最初の内はアルウィンの言葉と気合に委ね、静かに座っていたのだが。 得意満面に舟を漕いでいたアルウィンだったが、不慣れなためもあってだろうか。次第に腕の動きが悪くなり、そうして程なく、舟は海上で動きを止めたのだ。 それでもどうにか、余裕ぶった表情を努めつつ、再び舟を漕ごうとはしたのだが。 「私がやりますよ」 そう言って、ヴィンセントはアルウィンの手からオールを譲り受けたのだった。 「……どうしてもやりたいのか」 ぐぬぬと小さく唸りながら、アルウィンは悔しげにヴィンセントを仰ぐ。 「貴方には難しいでしょう?」 ヴィンセントはやはり表情ひとつ変える事もなくそう言って、なんという事もなさげに舟を漕ぎ出したのだった。 波が舟をたたく。その音を聴きながら、アルウィンはそっぽを向き、頬をふくらませた。 「またですか」 頬をふくらませるアルウィンに、ヴィンセントはわずかに息を吐く。 「貴方は私の前ではいつもそうやって頬を膨らませていますね」 「むぁっ!?」 応えにもならない声をあげてヴィンセントを見る。 ヴィンセントはまっすぐにアルウィンを見つめ、続けた。 「子どもなら子どもらしくしていればいいのでは?」 言われ、アルウィンは顔を上気させる。舟の上で立ち上がり、座っているヴィンセントを上から見下ろしてから口を開けた。 「おまえ、おまえはいつも意地悪だ!」 言って、まっすぐにヴィンセントを指さす。 舟が揺らぐ。転覆しそうになるのを、ヴィンセントはどうにか留めていた。 「意地悪?」 ヴィンセントの眉がわずかに跳ねたのを見て、アルウィンは思わず息をのむ。 ヴィンセントはアルウィンを特別扱いしない。 甘やかす事もしない。褒めちぎる事もしない。叱る事もしない。視線を合わせるために膝を折る事も、声の調子をやわらかくする事も、何ひとつ。 それは、けれど、アルウィンを子ども扱いしたりせず、対等に扱うという事でもあるのだけれど。でも、アルウィンにはそれが分からない。 ヴィンセントが訝しげに眉をしかめている。 「ひとまず座ってください。舟が揺れます」 言われて、アルウィンはやはりぐぬぬと喉を鳴らした。 「……アルウィンがイェンスとなかよしだからだ」 舟の上に腰を落としながら、アルウィンは小さくこぼす。ヴィンセントの表情が初めてこわばった。 「……なんです?」 「アルウィン、知ってる! アルウィンがイェンスとなかよしだから、イェンスがアルウィンに取られたみたいだから、だからおまえはアルウィンに意地悪するんだ!」 一息に吐き出す。 ヴィンセントは表情をこわばらせたまま、なんという応えも口にしない。 舟の底が砂を噛む。 「……そうですか」 短い沈黙の後、ヴィンセントは一言だけそう述べて、舟を白砂の上へと引き上げた。 アルウィンは思いの丈を一息に吐きだした後、ふと我にかえって、思わずヴィンセントの顔を仰ぎ見た。けれどかける言葉が思いつかない。そもそもヴィンセントはアルウィンの事など見てもいなかった。 船員や船客たちの舟はもういくつも白砂の上にあって、皆それぞれにデッキブラシや色々な道具をかまえ、岩の掃除を始めている。 引潮の間に作業を終わらせておかなくてはならないのだ。遊んでいる時間などあろうはずもない。 「あ」 ヴィンセントを呼ばわろうとして口を開ける。 けれどもヴィンセントはアルウィンの声に耳を貸すでもなく、スーツの乱れを正しながら、岩場に向かい歩き去ってしまったのだった。 その背を送りながら、アルウィンは小さく唇をとがらせる。遠ざかっていくヴィンセントは、一度もアルウィンを振り向いたりしない。その背中を睨めつけて、アルウィンもまた背を向けた。 けれど、 少しだけ足を止めてちらりと振り向いてみる。そうして尖らせていた唇をゆるく噛んで、アルウィンはわずかに瞬きをした。 ――意地悪なのはヴィンセントじゃない。 アルウィンだ。 海風が岩場を撫でていく。 短いトンネルのようになっている洞と、アーチ状になっている洞と。列ぶそれらの間を踊るように流れていく風は、確かに唄っているかのような音を奏でていた。 波の音と、踏まれるたびに鳴る白砂と。 海藻の除去が進むごとに、風洞の間で唄う風の声は質の良いものへと変じていく。 人々の笑いさざめくなごやかな空気。 それを覆う空は、海の色をそのまま映したように青かった。 背の届かない場所の掃除は、船員が肩車をしてくれたから出来た。アルウィンを肩車したまま、船員はおどけてくるくるとまわる。船員たちが、船客たちが笑う。アルウィンも笑った。 風の唄が海上を滑っていく。これできっとまた当分の間、メルビレイも海魔も寄っては来ないだろう。 人々は列石の掃除をする。まるで神事を行うように心をこめて。けれども場に広がっているのは明朗とした空気だ。 アルウィンも唄う。船員たちも唄いだした。 離れた場所で粛々と掃除を進めていたヴィンセントが、離れた場所で楽しげに唄い踊るアルウィンを見ている。 ――イェンスがアルウィンに対するときに見せる、やわらかな表情が脳裏に浮かんだ。 アルウィンの無邪気さは、いつだって周りの人々をああやってなごやかにさせる。そうしてそれはきっと、ヴィンセントには間違っても真似の出来ない事だ。 イェンスを取られたみたいだから アルウィンの声が耳に触れる。 それを打ち消すように、風の唄が白砂の上を駆けていった。 作業は滞りなく終わり、潮が戻る前に小舟は船へと引き戻っていった。 列石の間を吹き流れる風は美しい唄を歌いながら海の上を滑り、流れていく。 船上では船員たちが作業を手伝った者たちに菓子を飲み物とを振る舞っていた。船はこのまま一晩留まり、列石の唄を楽しみながらゆったりとした時間を過ごすのだという。 獲れたばかりの魚を焼いたものを両手に持ち、双方を交互に堪能しては頬を緩めているアルウィンの前に、今度は甘いケーキが積まれた皿が差し出された。 顔を輝かせて見上げたアルウィンの目に、いつもと変わらぬ表情を浮かべたままのヴィンセントの顔が映り込む。アルウィンの顔が知れずにこわばった。 「よく頑張りましたね」 言いながらアルウィンの隣に腰をおろし、ヴィンセントはようやく、本当にわずかに笑みを浮かべた。そうして自分は持ってきたグラスの中で揺れるラム酒を口に運びつつ、短く浅い息を吐く。 「が、がんば」 アルウィンの顔が紅潮する。――ヴィンセントに褒められたのは、これが初めてのような気がしたのだ。 けれどヴィンセントは口ごもるアルウィンの動揺っぷりを横目に見やり、口角を歪めあげる。 「認めてあげても良いですよ」 「ぬあ」 続いたヴィンセントのその言葉に、アルウィンの表情が再び一変した。 「ころころとよくもまあ、そうまで表情を変えられますね」 皮肉めいた言葉。 弾かれたように立ち上がったアルウィンの手が、ケーキを積んだままの皿をヴィンセントの顔に叩きつけていたのは、きっとやむを得ない事だったに違いない。
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