柔らかいソファに沈み込むようにして身体を預けている。 何をするでもなく、ぼうっと視線を投げかけている先には意味はなく、うつろにみえる彼のその瞳は現よりも夢を写しているのだとヴィンセント・コールは気がついていた。 コーヒーミルで豆を挽いて、コーヒーを淹れる間もほとんど彼から目を離さない。いや、離せない。 白い陶器のマグカップに琥珀色の液体を注ぐ。ふうわりと湯気とともに彼が気に入っている豆の香りが部屋に広がった。 だが、彼は先程からいっさい姿勢を変えない。ヴィンセントがマグカップを手にして近づいていっても、そのマグカップを差し出しても。 (……駄目ですか) ふぅ、小さなため息がコーヒーの湯気を揺らした。 彼、イェンス・カルヴィネンは暫く前に最愛の妻を亡くした。その後から彼の心は夢と現を往復するようになっていた。 一日中の殆どを、ベッドの中で瞳を開けたまま過ごすこともあれば、今日のように普通に起き上がってきたかと思えば電池が切れたかのようにソファに埋もれるように座って動かないこともままあった。フローリングやカーペット敷きの床に直に座って呆けていることもあるから、ソファに座っただけ今日はマシなのかもしれないとヴィンセントは思った。 「コーヒー、もらえるかい?」 「!」 突然声を掛けられて、ヴィンセントは肩を揺らした。ゆっくりと視線を戻してみれば、イェンスがソファに腰をかけ直してこちらを見ているではないか。現に戻ってきたようだ。 「……どうぞ。軽食も用意してありますので、それを召し上がって薬を飲んでください」 「薬の管理ぐらい僕にもできるよ。子供じゃないんだから」 コーヒーの入ったマグカップを傾けながら小さくため息をついたイェンス。ため息をつきたいのはこちらの方だった。 「駄目です」 背筋を伸ばして立ち上がり、ダイニングテーブルの方へと歩みゆくヴィンセント。イェンスはコーヒーを嚥下してにこやかに言葉を投げかける。 「自殺などしないよ。天寿を全うして、天国から彼女を引っ張り上げるんだ」 「……」 彼はそう言うが、万が一のことがあってはならない。ヴィンセントは取り合おうとせず、そのままダイニングテーブルへと向かい、作っておいたパストラミサンドとポテトサラダが綺麗に盛りつけられた皿からラップを引き剥がす。イェンスが肩をすくめる気配がした。 テーブルに置いておいたピッチャーからグラスに水を注ぎ、ピルケースから1回分の薬を取り出して小皿に乗せる。そしてピルケースはポケットに仕舞った。 彼は大丈夫だというけれど、ヴィンセントは残りの薬も全て管理し、そして銃も全て鍵のかかる箱やら引き出しやらに仕舞い、その鍵を管理していた。イェンスは大げさだと笑うけれど、なにかのはずみでということもある。自分の管理不届きで、彼を失いたくはなかった。 *-*-* 「わ、わぁぁぁぁぁぁっ!?」 「!?」 椅子に座ったままうっかり眠ってしまっていた。だが耳をつんざくような悲鳴とけたたましいベルの音で目が覚めた。 ヴィンセントは弾かれたように立ち上がり、声の主のいるはずの部屋へと向かう。 (いったい何が……!? 眠っていたのを確認して、私も少し気が抜けてしまったか……くっ) もしものことがあったら――そう考えてヴィンセントは唇を噛み締めながら長い足を動かす。悲鳴の主はイェンスに違いなかった。 彼の寝室の扉が半開きになっているのを見て、胸が締め付けられる。ヴィンセントはもどかしそうにドアの取手を握り、勢い良く開けて一歩足を踏み入れた。 「何があったのです……か」 しかしそこに広がっていたのは想像していたどれもと違った光景。 「ヴィンセント!」 「ちょっ、何なのよ、この男は!」 イェンスは衣服の前がはだけているのをシーツで隠し、子供のように震えている。それもベッドから落ちたのか、床の上で。彼のそばにはギラつくほど真っ赤なハイヒールと、下品なくらい光を反射するスパンコールのついた衣類が脱ぎ捨てられている。そして彼の手には、真鍮製の呼び鈴が握られていた。 ベッドの上では下着姿の女性がヴィンセントを指さして、イェンスへと喚き立てている。 「それにあんたも! 急に何なのよ、さっきまでおとなしかったのに人をゴキブリみたいに!」 「この女性はどなたですか?」 「し、知らないよ……」 「はぁ!?」 安っぽい傷んだ金色の髪の女はイェンスの言葉に冗談でしょ、と叫ぶ。 「やってられないわ!」 ベッドを軋ませて、イェンスの隣に女が乱暴に降り立つと、「ひぇっ」と声を上げてイェンスが後退り、震えが強くなる。それを睨みつけて女は衣類とその近くに落ちていた真っ赤なハイヒールを拾い上げた。 「忘れ物です」 女が降り立ったベッドの反対側に転がっていたハイヒールの片方を拾い上げ、ヴィンセントは部屋の出口で片方のハイヒールに足を通している女に差し出した。 「ふんっ!!」 すると女はひったくるようにヴィンセントの手からハイヒールを受け取って、もう片足に装着すると振り返りもせずにスタスタと廊下へと出て行った。あんまりな態度を取られたヴィンセント側も、その行動に好意は半分もなかったのでお互い様ということだろう。 「何があったのですか?」 女の足音が去ったのを確かめて、改めてイェンスへと声をかける。ぶるぶる震えていた彼は、ホッとしたように震えを止めてヴィンセントを見つめる。 「僕にもよくわからないんだ」 イェンスの話を総合すると、どうやら目が覚めて町へと彷徨い出た所、先ほどの女性に声を掛けられて上がり込まれたようなのだが、イェンス自身は覚えていないという。 「……ふっ」 先ほどのブルブルと震えていたイェンスと事情をつなぎ合わせると、力が抜けた。この部屋に来るまでの緊張感は何だったのか。自然、笑いが漏れた。 「笑い事じゃないよ」 「そう言われましても」 *-*-* ある時を境に、イェンスの精神状態が落ち着き始めた。次第にカウンセリングの必要頻度も減っていき、ついには週一のカウンセリングすら不要になった。念の為にと医者から預っていた精神安定剤や向精神薬、睡眠薬の出番も、次第に減っていった。 彼に何があったのだろうか。ヴィンセントは口には出さなかったが常に気にはしていた。だが悪い方向に傾いているのではないことは確かで。だからこそ、ヴィンセントは深く追求することはなかった。 彼はだいぶ落ち着いたがまだ少し不安定で、自分が薬や銃を管理してやらねばならない、そう思っていた。事実、調子が悪そうな時に薬と水を持って行くと、彼は「ありがとう、助かるよ」と告げてくれるから。まだまだ自分は必要とされている、そばに居てやらねばならない、そう感じることがヴィンセントにとって嬉しいことでもあった。 だが、ヴィンセントは知ってしまった。 ある日、不思議な列車が走るのを目撃してしまったことで、ヴィンセントは今まで知らなかった世界を知ることになった。 その列車はロストレイルというらしい。 いや、それよりも何よりもヴィンセントが驚いたのは、『ロストナンバー』と呼ばれる者達が集まる0世界という世界に、既に馴染んだ様子のイェンスがいたことだった。 そして――彼の側にはヴィンセントの知らぬ者達がいた事。 その者達は0世界におけるイェンスの同居人達だという。イェンスが世話をしていると聞いて、ヴィンセントは彼の週一カウンセリングが不要になった原因を悟った。 「ヴィンセント、この世界については僕は少しばかり先輩だからね。何かわからないことがあったら聞いてくれ」 親しいヴィンセントの覚醒を嬉しそうに受け入れる彼。『こちら側』でも当然のごとく自分を受け入れてくれることは嬉しかった。でも。 自分や彼にはもう誰も居ない。だから自分が居てやらねばと思っていた。 だが彼は――。 (まるで子供のようですね) 自らの裡を這いまわる嫉妬じみた感情に、思わず自嘲の笑みをこぼす。歳だけはれっきとした大人である自分に、こんな子どもじみた感情があったのかと少し驚きながら。 思い知らされたのだ。 彼には自分だけしかいないと、心の何処かで思っていたおごりを。 あまり口には出さないが、自分には、彼しかいないと思っているからして。 それを打ち砕かれて、なんだか心中が荒れていた。 正直、少しばかり面白くなかった。 ……置いていかれた気がしたのだ。 「彼らが僕の同居人だ。仲良くしてやって欲しい」 イェンスは心からそう望んでいる様子で、穏やかな笑みをヴィンセントに向ける。だがヴィンセントはそれをすんなりと受け入れることは出来なかった。いや、表面上は受け入れたふりは出来る。さすがにそこまで子供ではない。だが……心の奥底まで受け入れられるかといえば、まだ時間が必要そうだった。 (本当に、私はこんなにも子供だったのですね) イェンスに聞こえないように小さくため息を付いて。 「善処します」 そう答えれば、彼は嬉しそうに笑った。 その笑顔が『以前』の彼の笑顔と同じで、嬉しさとともに心締め付けられる心地さえした。 *-*-* 自分はきっと、イェンスに『失ってしまった日常』と『心の安寧』を取り戻させるのは自分でありたいと思っていたのだ――ヴィンセントは自室の机に肘をつき、口元に軽く手を当ててそう結論づけた。 勿論、不安定だった彼の世話をしていたのは見返りを願ってのことではない。けれどもいつか自分のしたことが彼のためになるさまを見ていたかったのだ。自分が、彼を元気にしたかったのだ、きっと。 だがそれは0世界の同居人という、ヴィンセントにとっては突然現れた存在によって成されてしまった。ヴィンセントの知らぬ所で。 あの時は、彼が快方へと向かうのならばそれでいいと思っていたが、いざその原因を知ってしまうと無力感とともに自分は必要とされていないのではないか、そんな思いがふらりとヴィンセントの脳裏に立ち寄る。 必要とされたい、そんな思いが自分にあったことが驚きだった。無意識の内に自分は必要とされていると思い込んでいたのかもしれない。 たとえイェンスがヴィンセントを不要だと思っても、ヴィンセントはそうは思わない自信があった。 いや、それは確固たる思い。 (それなのに) それなのに。喪失感のようなもの、迷子になって置いていかれたような気持ち、これはどういうことだろうか。 脳裏に焼き付いているのは、イェンスが0世界の同居人たちと楽しそうに笑っている姿。 そこには、ヴィンセントの姿はない――。 *-*-* 「イェンス、着替えてください。今日はホリーグレイル社のパーティですから」 「ああ、そうだったね。タキシードの用意は……」 「クリーニングから返ってきていますよ」 ヴィンセントがどんな思いを抱えていようとも、日常は無情にも訪れ、過ぎていく。 糊の効いた白いシャツを羽織り、黒いズボンを履く。イェンスがタイへと手を伸ばす時、少し躊躇ったのをヴィンセントは見逃さなかった。 イェンスは震える手でタイを取り、自らの襟元へと運ぶ。ヴィンセントは彼を気にしながらもじっと様子をうかがうことはせず、ジャケットにブラシをかけていた。 「う……ヴァ……ヴェ、ヴァ……」 「!」 予想はしていた。けれども実際その、嘔吐とともに漏れる苦しそうな声を聞くと、胸が締め付けられる。 「イェンス!」 ガタリ、サイドテーブルを倒すようにして床に座り込んだイェンスにヴィンセントは駆け寄った。その手には濡れタオルがある。 彼が嘔吐するのはこれが初めてではなかった。妻を失って以来、イェンスはネクタイを締めると吐くようになっていた。理由はわからない。 最初の頃は突如訪れる嘔吐感に振り回されて吐瀉物を衣服にも引っ掛けがちだったが、最近は吐くかもしれない、という予感とともにネクタイを結ぶからか、衣服の被害を出すことは減っていた。 「……すまない」 「喋らなくて構いません。今、水を持ってきます。濡れタオルで口元を拭いておいてください。ああ、床の吐瀉物はそのままでいいですから」 蚊の鳴くような声で搾り出された謝罪に、ヴィンセントはてきぱきと指示をすることで答え、入口近くのテーブルに置いておいた、日本で作られたという切子ガラスの水差しからセットのグラスへと水を注ぎ、雑巾と洗面器を手にイェンスの元へと戻るヴィンセント。グラスをしっかりと握らせて、口の中をすすぐ様に勧める。 すすいだ水を洗面器へと吐き出したイェンスは、水を嚥下する。その間、ヴィンセントはゆっくりと彼の背中をさすっていた。 「こんな事は君にしか頼れない」 「気にしないでください」 またか、という思いはない。むしろ自分がイェンスにしてやれることがある、それがヴィンセントにとって大切なことだった。 早めに着替えを促すのも予め吐いた時のための用意をしておくのも慣れた。代わりのタキシードやスーツもすぐに出せるように用意してある。 「その代わり、何かあれば頼ってくれ」 「……」 「最近、浮かない顔をしている時があるから」 嘔吐で顔を青白くさせ、床に座り込んだ情けない姿でイェンスは平然と言う。ヴィンセントは瞠目し、そして。 「……子供のようです」 漏れたのは自嘲。 頼ってほしい、そう言われただけで心が暖かくなってしまうなんて。必要とされている、それがわかっただけでこんなにも心のつかえが晴れるなんて。 単純すぎて、まるで幼子のようだ――その思いは決して単純なものではないのだけれど、ヴィンセントは笑みを浮かべた。 イェンスの情けない姿を笑ったのではなくて、自分の心の移ろいに笑いが漏れただけ。 イェンスにもそれが伝わったのだろう、笑うヴィンセントを彼は温かい瞳で見つめていた。 【了】
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