小暗い悪意うずまくインヤンガイ。しかしそんな世界にも、活気ある人々の暮らしは存在する。生きている以上、人は食事をする。実は、インヤンガイは豊かな食文化の花咲く世界であることを、旅人たちは知っていただろうか――? インヤンガイのどの街区にも、貧富を問わず美食を求める人々が多くいる。そこには多種多様な食材と、料理人たちとが集まり、香ばしい油の匂いが街中を覆っているのだ。いつしか、インヤンガイを冒険旅行で訪れた旅人たちも、帰りの列車までの時間にインヤンガイで食事をしていくことが多くなっていた。 今日もまた、ひとりの旅人がインヤンガイの美味を求めて街区を歩いている。 厄介な事件を終えて、すっかり空腹だ。 通りの両側には屋台が立ち並び、蒸し物の湯気と、焼き物の煙がもうもうと立ち上っている。 インヤンガイの住人たちでごったがえしているのは安い食堂。建物の上階には、瀟洒な茶店。路地の奥にはいささかあやしげな珍味を扱う店。さらに上層、街区を見下ろす階層には贅を尽くした高級店が営業している。 さて、何を食べようか。●ご案内このソロシナリオでは「インヤンガイで食事をする場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけて好味路で食事をすることにしました。このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが食べたいもの・食べてみた反応や感想を必ず書いて下さい。!注意!インヤンガイではさまざまな危険がありますが、このシナリオでは特に危険な事件などは起こらないものとします。
ティリクティアはインヤンガイの上層、高級飯店のテーブルについていた。大きな丸テーブルをたった一人で独占し、背の高い椅子に腰かけ、足をぶらつかせていた。 白く丸いテーブルに載っているのは、ティリクティアの前にある、お粥のお椀と野菜スティックのみだった。 一人で一席を独占するティリクティアに、周囲の客は好奇の目を向けていた。ティリクティアは周囲の目など全く気にすることなく、温かい湯気に顔を湿らせながら、お粥で満たされたお椀の中に、レンゲを浸した。 薄めた米に、流し込んだ半熟の卵と薬味のネギが彩りを添える。飾り気のない、素材のうまみのみで勝負したお粥に、ティリクティアは生唾を飲んだ。 レンゲにこんもりと掬いとったお粥を、口に運ぶ。できるだけ大きく口を開け、レンゲを押し込む。温かいお粥は、決して熱すぎはしない。口の中で解けたお粥は、上品な塩分と鮮烈な卵の風味を口の中一杯に広げた。鼻に抜ける空気が、あまりにも惜しく感じた。 顎を動かす。奥歯に押しつぶされる柔らかい米が、穀物の甘みと旨みを舌に伝える。時おり挟まるネギの食感が小気味よく、噛むことが最高の遊戯をしているかのように楽しかった。 「このお店……当たりだわ」 周囲に聞きとられないよう、こっそりと呟いた。一〇歳の幼い(本人いわく、『可憐な』)少女が、料理人の腕前を冷静に分析していることは、知られないほうがいいに違いないのだ。 ティクリティアは、野菜スティクを収めたグラスに手を伸ばした。色とりどりの野菜がある中で、あえてセロリを選んだ。野菜に好き嫌いはない。野菜の良し悪しは、味でわかる。ティクリティアは、あえて添えられたソースをつけずに、セロリを口にした。前歯を立て、かじる。 シャクリという、みずみずしい音と同時にセロリの水分が口の中にほとばしる。強い苦みの奥から、新鮮な野菜だけがもつ、独特の甘みが漂ってきた。もう一口。ティクリティアはセロリを咀嚼し、ソースをつけ、さらに口に運ぶ。 前歯でかじり、細くなったセロリを、奥歯で噛みしめる。ザクリとした食感は、奥歯で潰されたセロリの繊維からはじける水分が、目に見えるような錯覚を与えた。 「うん。申し分ないわ」 最大の賛辞を口にして、ティクリティアは食べかけのセロリをグラスに戻した。お粥も一口食べただけで、置いたレンゲを再び持とうとはしなかった。 片手を上げる。 「お呼びでしょうか?」 チャイナドレスを着たスタイルの良いウエイトレスが、にこやかに腰を折った。ウエイトレスが、ほとんど食べずに食器から手を離したティクリティアにどんな印象を持っているのか、広いテーブルを独占する少女をどう思っているのか、にこやかに笑う顔に、感情は読めなかった。だが、ティクリティアには、どうでもいいことだ。 「追加で注文をお願いします」 笑顔に対し、笑顔で返す。 「はい。どうぞ」 「えっと……デザートを……杏仁豆腐と、胡麻団子と、マンゴープリンと、アンマンと、桃包と、タピオカと、ナタデココと、ババロアと……あっ、パフェもあるのね。それと……ついでにクレープと……まだ他にあるかな……チーズケーキ!」 メニューから顔を上げると、ウエイトレスの笑顔が、引きつっているような錯覚を覚えた。 「色々と、種類がございますが」 声まで裏返っている。 「うん。だから、今言ったのを全部」 「それぞれ、種類がありまして、パフェでしたらチョコとフルーツとクリームが……」 「じゃあ、全部」 「……全種類、ですか?」 「うん! あっ、紅茶もお願い」 「……わかりました」 ウエイトレスの表情から笑顔が消えた理由がわからず、ティクリティアは首を傾げた。 「それから、こちらは下げてください。とても美味しいのです。でも、甘いものは別腹といっても、限度がありますから」 にっこりと笑ったティクリティアの顔を、まるで覗きこむかのように凝視してから、ウエイトレスはお粥と野菜スティックのグラスを片付けた。 菊花紋を描く白磁の小鉢に、限りなく透明な液体が満たされ、白い塊が浮かぶ。 添えられた小さなスプーンを持ち、ティクリティアは杏仁豆腐に微笑みかけた。 スプーンの先端が液体に沈む。一見味気ない白い個体に到達すると、抵抗を受けず、スプーンの先端が沈む。 スプーン一杯の杏仁豆腐。ティクリティアは、あえてまとわりつく透明の液体を小鉢に落とした。口に運ぶ。 舌と口蓋で押しつぶされた白い個体は、ささやかな抵抗感を残し、雪のように溶けた。口の中に広がる清涼感に、ティクティリアは満足の笑みを浮かべた。 「……なるほど。このお店の杏仁豆腐はこういうタイプなのね……気に入ったわ」 逆に、今度は透明の液体だけをスプーンに掬った。表面張力が水よりはるかに高く、スプーンの上でこんもりと盛り上がる。水より粘度の高い原因は、口の中に入れて明らかになった。 甘い。濃縮された糖分が口の中、隅々まで広がる。駆け抜ける味は、あっという間に喉元を過ぎる。 「この甘味、果物の糖分に近いわ。でも……こんな濃厚な甘味は、ふつうの果物にはない。ふむ。面白いわね」 紅茶を口に含んだ。紅茶には、ほんの数滴、レモンの果汁を垂らしただけで砂糖は入れない。舌に残った味覚をリセットし、スイーツの味をしっかりと味わうためだ。 今度は、白い杏仁豆腐と甘い液体を同時に掬った。本来の食べ方である。 口に運ぶ。太陽の光を一杯に浴びたフルーツをイメージさせる濃厚な甘みが、さわやかな白い豆腐に押し広げられる。口の中で溶け去る早さは、淡雪にも勝る。 「……美味しい……」 優しい喉越しを最後に楽しみ、ティクリティアは半ば上向いた姿勢で目を瞑った。 再び目を開け、杏仁豆腐を片付ける。 丸いテーブルには、注文したスイーツがところ狭しと並べられていた。 かりかりの胡麻で表面をびっしりと覆われた団子を、両手の指先で支え、表面に前歯を立てる。 平らな前歯が、胡麻団子をざくりと割る。もちもちの生地と、覆い隠されたふんわりした『こし餡』が、舌の上に転がった。カラッと揚げられた胡麻の芳香が鼻に抜け、かりかりした食感が奥歯に楽しい。餅と餡が口の中で混ざり合い、噛むほどに甘みが広がる。杏仁豆腐とは違った、砂糖本来の甘さが、存在を強烈に主張する。 ティクリティアは、胡麻団子を置いた。小さな両手で、小さな頬を支えた。落ちてしまう。そう思ったわけではない。ただ、幸せだった。自然と、両手で両頬を支えていた。 「ご馳走様でした」 お行儀よく、両手を合わせるティクリティアに、ウエイトレスは深々とお辞儀した。 「お見事でした」 大きなテーブルに、びっしりと並べられた色とりどりの器は、いずれも綺麗に空になっていた。 「えっ?」 「いえ……なんでもありません」 「こちらこそ。料理長に美味しく頂きましたとお伝えください」 ティクリティアを見る周囲の客は、テーブルのスイーツを完食した小さな少女に茫然としていた。周囲の視線を気にせず、ティクリティアは言った。 「ところで、この辺りにスイーツで有名なお店を知りませんか? このお店に不満があるわけではありません。でも、甘いものは別腹って言いますでしょ」 絶句するウエイトレスに、ティクリティアは最大の笑顔を見せた。 了
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