オープニング

 世界司書リベル・セヴァンは『導きの書』を抱えたまま説明を始めた。
「ブルーインブルーでジャンクヘヴンから出る交易船に同乗し、海魔を退治して下さい。既にジャンクヘヴンから出た船が一艘、ある海域で沈められています。ジャンクヘヴンとアロマランド間の直線航路に居座っている海魔が原因です……」

 情報を集めたところ、アロマランドからジャンクヘヴンへ向かう交易船が、既に五艘沈められていた。二つの島を結ぶ、直線航路のある一地点のみのことである。
 両島の被害の違いの原因は明らかである。ジャンクヘヴンの交易船は通常複数の島を迂回してアロマランドに至るが、アロマランドの交易船はほぼ一直線に交易相手の島に向かうからだ。交易品の特性上、輸送の時間を可能な限り短くしたいためだ。
 アロマランドの特産品は名前の通り、アロマオイルである。特殊な香りを持つオイルは、精神を落ち着かせ、快適な眠りに導くことができる。一部の上級客からは圧倒的な指示を集めるアロマランドの特産品は、空気に触れることにより激しく劣化する。アロマランドから出発した船は、最初の目的地でアロマオイルを全て売りきることを目的とするのだ。
 その海魔が、交易船を襲ったのはたまたまかもしれない。しかし、二度目からは、確実に直線航路の交易船に狙いをつけている。
 特定の海域に定住しないことで知られている『ハクオウクラゲ』が、常に同じ海域で交易船を襲っているためだ。アロマオイルに中毒性があるとは思われ毛ないが、少なくとも一体の『ハクオウクラゲ』を虜にしたことは間違いない。
 『ハクオウクラゲ』と呼ばれるブルーインブルーの固有種は、通常は大人しい、普通のクラゲと同じように波間に漂うだけの存在である。つつけば反撃はする。だが、主食はプランクトンであり、ただ漂っているだけで、体長が最大で100メートルにも及ぶ以外には、特に害はない。そう知られている。体色はクラゲらしく透明だが、白っぽく見えることから、ジャンクヘヴンの船乗りが名付けたのだ。名前の意味は、『白くて大きなクラゲ』である。
 
 問題の『ハクオウクラゲ』が、どのように船を沈めたかについては、救出されたジャンクヘヴンの船乗りの証言がある。
 突然船が動かなくなったかと思うと、巨大な半透明の足が甲板に振り下ろされた。足が二本、三本と増え、船は激しく揺れたが、なんとか持ちこたえていた。そのうち、足だけでなく『ハクオウクラゲ』の本体が乗船し、居座った。船の甲板がクラゲに覆われ、仕事ができなくなった船員たちは、火をつけて追い払おうとした。『ハクオウクラゲ』が怒ったのかどうかはわからない。感情があるとも思えない。『ハクオウクラゲ』は、ただ身震いしただけかもしれない。ひょっとして、海に逃げようとしただけかもしれない。だが、その拍子に船が横転したのは間違いない。
 ひっくり返ったのは、大型の交易船である。アロマランドの交易船はもっと小さく、『ハクオウクラゲ』が乗り込む前に横転していたということだ。
 あくまでブルーインブルーの世界での問題であり、世界図書館が介入すべき問題ではないかもしれない。事件の全容は、『導きの書』ではなく、自由に航海する比較的友好的な海賊から明らかになった。

 ジャンクヘヴンの船乗りも、船を横転させる危険があるということで乗り気ではない。直線航路をとらなければ、危険はほとんどないからだ。ロストナンバーのことは伏せられているが、船を横転させずに『ハクオウクラゲ』を退治できる人間が乗船するということで今回はあえて直線航路を取ることに同意した。なにより、アロマオイルの固定客は特にジャンクヘヴンの有力者に多いのだ。
 ロステナンバーたちに乗船してもらう交易船は比較的大型のもので、船員だけで三〇人は越える。横転させることなく『ハクオウクラゲ』を乗せることはできると思われるが、乗せる前に退治してもいい。前回転覆したジャンクヘヴンの交易品には、もちろんアロマオイルを積んでいなかったため、その襲撃で『ハクオウクラゲ』は目的を達せられなかったことになる。普通に後悔しても、ジャンクヘヴンからの大型船は襲われないかもしれないが、『ハクオウクラゲ』には高い知能はないため、襲ってくるものと考えたほうがいいだろう。また、念のため劣化して商品にならないアロマオイルを積んでいる。問題の海域周辺でオイルを散布すれば、寄ってくるのは確実だと思われる。人間にはもはや悪臭にしか感じられない匂いだろうが、水中の『ハクオウクラゲ』が惹かれているのは、匂いではなく別の成分に違いないからだ。

「『ハクオウクラゲ』には悪気がないのかもしれません。しかし、多くの人が困っています。私も……できれば殺したくないとは思いますが、他に方法がないのなら、仕方がないでしょう。交易船一杯のアロマオイルを一体の『ハクオウクラゲ』が独占するというのは、あまりにも不合理です」
 リベル・セヴァンは静かに締めくくった。
「なにより、あのアロマオイルは保存が難しいのです」
 どうやら、固定客はブルーインブルーに留まらないらしい。

品目シナリオ 管理番号1645
クリエイター西王 明永(wsxy7910)
クリエイターコメント 皆さまはじめまして。新米ライターの西王明永です。
 今回の冒険はオープニングの通りブルーインブルーで交易船を護衛する、というものです。今回は交易船が無事に着けばいいというだけでなく、特定の海域で交易船を襲う『ハクオウクラゲ』を退治して下さい。
 狂暴な敵ではありませんが、あまりの巨体で人間の乗る船がひっくり返ってしまう、という困った相手です。

参加者
エルエム・メール(ctrc7005)ツーリスト 女 15歳 武闘家/バトルダンサー
刹那(cfmt3476)ツーリスト 女 20歳 忍者
御藤 玲奈(cvnp8767)ツーリスト 女 16歳 魔人/魔術師
舞原 絵奈(csss4616)ツーリスト 女 16歳 半人前除霊師
フィミア・イームズ(czyy2955)コンダクター 男 19歳 大学生兼モデル、ダンサー

ノベル

     1
 フィミア・イームズは海を眺めていた。
 ジャンクヘヴンからアロマランドへの直線航路上である。
 天気は良く、空は青かった。白い雲がわたがしのように時おり浮かんでいる他は、海も空も果てしなく続いている。
 波も穏やかで、大型の交易船は風を帆に、海を滑るように進んでいた。
 甲板の縁に立ち、のんびりと海を眺めていられるのも、護衛という任務のお陰である。実際にすべきことは、船の護衛ではなく海魔の退治である。交易船しか襲わない変わった海魔が出るらしい。
 海は穏やかで、物騒な海魔が出るようには見えなかった。時おり跳ね上がる魚が陽光を照り返す。魚を追って跳び上がるイルカを見ると、逃げる魚を応援すべきか追うイルカを応援すべきか迷うところだ。もっとも、結末を見届けるために海に潜ろうとは思わなかった。
 交易品を運ぶための専用船なので、船員の他には一般の乗客はいない。乗っているのは船員と数人のロストナンバーだけである。
 見張りのためといって船長に借りた望遠鏡を目に当てる。
 飽きもせず海が続いていることが確認できただけで、変わったものは見つからなかった。
「やっぱり海はいいね。風がすごく気持ちいい」
「そうだよねぇ。こうしてのんびり船旅ができるっていうだけでも、護衛を引き受けた意味があるってもんだよねぇ」
 独り言のつもりで呟いたので、突然隣で相槌を打たれて驚いた。フィミア・イームズと同じ姿勢で甲板の縁に寄りかかり、潮風を受けるエルエム・メールが笑いかけた。ピンク色の長い髪をした少女である。かつて共闘したこともある。互いに格闘技とダンスを得意としていることもあり、組みやすい相手だった。
「またエルエム・メールさんとご一緒できるとは思わなかった。改めて、今回も宜しく!」
「エルでいいって、前も言ったよね。こっちこそ、ファミア、久しぶり」
 互いに手を取り合った。
 エルエム・メールは、先ほど得意のダンスを披露しようとして、忙しく働いている船員たちに無視されていた。フィミア・イームズはそのことには触れないことにした。エルエム・メールはスタイルのよい体を惜しみなく堪能できるような踊り子の衣装を身につけていたが、今は踊る気がないためか、あるいは日焼け防止か、シーツのような布をはおっていた。
「海の巨大クラゲ、やっかいな相手でなければいいですね」
「うん。そのうち船員さんに聞いてみるよ。大型船が一船ひっくり返されているらしいから、簡単にはいかないかもしれないけどね」
 海はまだ静かだった。
 波間に漂うクラゲが交易品を襲うという不思議な事件が起きているとは、とても思えないほどに。

 御藤玲奈は甲板にいた。
 海上を進むのは、実に数十年ぶりだった。ロストナンバーとなる以前から、年齢などは関係なく生きてきた。
 頬をかすめる潮風が、懐かしく感じる。その時の記憶は、あまり気持ちのいいものではなかった。今回の海魔事件は、無事に収まればいいのだが。
 船員たちは全員忙しく働き、声をかけるのも悪い気がした。本当に海魔が現れれば忙しいなどとは言っていられないが、この船の船員は海魔をおびき出すためのいわば餌として選ばれた人間たちだ。できれば、一人も犠牲にしたくはない。巻き添えになる者がでるかもしれないが、せめて意義のある犠牲にしてやりたい。
 逞しい男たちの間をすり抜け、御藤玲奈は立派にせり出した帽子をかぶった男に近付いた。男は羅針盤を確認しながら舵輪に手をかけていた。
「一等航海士のギブソン君」
「俺は船長だ。名前はバーミン」
「なるほど。名前というのは単なる物象の呼称のみならず、物事の本質を表すものなのだよ。奥さんとは上手くいっていないのだろう?」
 船長のバーミンは顔に皺をつくった。言い返そうとして、言葉を詰まらせた。
「……どうしてわかった?」
「キミに船長は荷が重い。一等航海士で満足すべきなのだよ。名前はギブソンに変えたまえ。それが、キミの身の丈にあった名前だよ」
 バーミンは口をへの字に曲げた。いきなり改名しろと言っても、すぐに応じる人間は少ない。御藤玲奈としても、ただからかっただけである。奥さんと上手くいっていないことは、海魔退治の航海に責任ある立場で参加していることで、容易に想像できる。
 最も、無意味な会話ではない。ロストメンバーについて良く思っていないと思われる男に口を開かせるには、話のきっかけが必要だと判断してのことだ。
「ところでギブソン君、これからキミが遭遇して毒に犯されて死ぬことになっている脅威について語ろうではないか」
「俺の名前は……それはもういい。俺は毒で死ぬのか?」
「もちろん。早ければ今日中だろうね。私に必要な情報を提供しなければね」
 海図と羅針盤を照らし合わせ、バーミンは進路を微調整した。その手を、御藤玲奈が止める。
「ハクオウクラゲはジャンクヘヴンとアロマランドの直線航路に出るらしいじゃないか。私は、ギブソン君の都合で無駄足を踏んでいるほど暇ではないのだよ。予定通り進行してくれたまえ」
「……どうして、そんなことがわかる」
「伊達に、千年は生きていないのでね」
 ハッタリである。バーミンが航路を変えようとしたというのも、推測の域を出ない。しかし、図星だったらしい。
「わかったよ。なんでも聞いてくれ」
 御堂玲奈はほんのわずかだけ口角を吊り上げた。笑ったつもりだが、笑顔に見られないことには慣れていた。

 猫の姿を持ち忍者としての訓練を受けた刹那は、身軽にマストをよじ登った。マストの先端に見張り台がある。木で出来たマストに爪を立て、軽やかに登った。梯子があることを知ったのは、見張り台についてからである。
 見張り台には、まだ見習いらしい華奢な体つきの船員がいた。前方の海に目を凝らしている。
「どうですか? 何か見えますか?」
 突然の声に驚いた船員は、刹那の姿にさらに驚いてのけ反った。不愉快であることは確かだが、感情をコントロールすることには慣れていた。刹那は忍である。
「い、いえ、今のところは、何も……」
 声が裏返っている。刹那は敵を見つけるのに最適な場所として見張り台を選んだ。船員は、職務でこの場所に居るのだろう。放りだすわけにもいかない。狭い見張り台を有効に使用するべく、刹那は獣人から猫の姿に変じた。
「ところで、クラゲのことを少し教えてもらえますか?」
「ええ。そうですね……」
 話し始めた船員は、振り返り、またのけ反った。刹那が猫そのものの姿になったことに驚いたらしい。実に動揺しやすい男だ。刹那は無意識に前足で顔を洗い、縦に細くなった瞳を向けた。
「クラゲは、この海域には多いのですか?」
 船員が戸惑っているままなので、刹那から質問した。
「はい。この海域には漁師たちは近付きません。魚もいるのですが、ハクオウクラゲに引っかけてしまう事が多いからです」
「へぇ。今まではあまり聞きませんでしたが、割と一般的に知られたクラゲなのですね」
「そうですね。特別大きく育つ以外には、普通のクラゲと一緒だと思われていました。食べるにも大味で美味しくありませんし、なにしろ大きいので、釣り上げるのは一苦労です。でも、今まではあまり問題ではありませんでした。クラゲですから、釣り糸をひっかけない限り、海を漂っているだけで、何の害もありませんから。刺されれば痺れますから海中で遭遇するのは避けたいところですけど、海に潜ればハクオウクラゲより危険な海獣はいっぱいいます」
「……どうして、船を襲うようになったんです?」
「船を襲ったというより、結果的にひっくり返っただけだと聞いていますが……」

 舞原絵奈は甲板に積まれた交易品代わりの樽を見上げていた。中には、劣化して使用に耐えないアロマオイルが詰め込まれている。船員たちの気分が盛り上がらないのも、積み荷が一因ともいえる。ハクオウクラゲを退治してアロマランドに辿り着いても、ジャッンクヘヴン太守からの微々たる報酬だけであまり儲からないのだ。
 そろそろ問題の海域に辿り着くはずだが、いまだハクオウクラゲは出てこない。出てきたら劣化したアロマオイルを浴びせて、好きだったものを嫌いにしてしまえば二度と船を襲ったりはしないだろう。舞原絵奈は船に乗る前からそう考えていたが、肝心のハクオウクラゲが出てこないのでは対処のしようがない。舞原絵奈は短剣を取り出した。周りを見回すと、船員たちが不景気な顔で働いている。舞原絵奈には目もくれない。
 短剣の先端を、樽の隙間に刺し込んだ。
 機密性の高い樽にわずかな隙間が空き、劣化したアロマオイルが漏れ出した。
 舞原絵奈は満足し、その場を後にした。
 甲板に吹く潮風が腐った臭いを届けられない場所を探し、舵輪の近くで御藤玲奈と船長のバーミンを見つけた。隠れる理由はなく、側に近付いて二人の会話に耳を傾けた。
「……なるほど、ではハクオウクラゲは、前回は船に上りこんだ後、何もしないでただ居座っていたわけだな。船員たちが炎で追い払おうとした時、触手が引っかかって海に落ちたハクオウクラゲに引っ張られ、横転したというわけか……放ってはおけなかったのか?」
「体長30メートルは下らない半透明のクラゲだよ。甲板にのさばられちゃ、仕事もできない」
「その時の船長は、どうやらギブソン君らしいな。そのために一等航海士に落とされたのか」
 御藤玲奈が話をしている相手の男が、不快そうに顔を歪めた。舞原絵奈は、さすがに黙っていられなかった。
「玲奈さん、この人はバーミンさんで、一等航海士じゃなくて船長ですよ」
 肩まである灰色の髪を揺らし、御藤玲奈は驚いた顔で振り向いた。舞原絵奈が居たことに気づかなかったらしい。そんな表情は、一瞬で消えた。
「どうして、舞原はそう言い切れる?」
「乗船する時、自己紹介されませんでしたっけ」
 バーミン船長の顔が得意げに変わる。御藤玲奈は、表情を変えなかった。
「初対面の人間の言う事を信じるほど、私はうぶではないのでな」
「……はぁ」
 毅然とした御藤玲奈の表情は崩れない。舞原絵奈は言葉を紡げなかった。

「つまり、乗船する前に叩くか、乗船されたら、逃げられないように拘束する必要があるってことだね」
 エルエム・メールは、せっかく再会したフィミア・イームズと別行動する理由を見つけられず、甲板の縁で立ち話を続けていた。
 時おり通りかかる船員を無理やり捕まえては、話を聞きだしていた。声をかけられた船員は一瞬迷惑そうな表情をするものの、エルエム・メールが笑いかけると鼻の下を伸ばして饒舌になった。
「乗船する前に叩くか。それなら、できるだけ早く発見しないとな。ところで……この臭いは何だ?」
 フィミア・イームズが鼻に皺を寄せる。肩にふくろうのセクタンを乗せているが、海の上ではあまり役には立たないだろう。
「劣化したアロマオイルじゃないかな? ハクオウクラゲを呼び寄せるために散布しているのかもよ」
「そんな計画は聞いていないが……このまま海域を出てしまうよりはましか」
 船が止まった。先ほどまで張られていた帆が、力なく垂れさがっている。
「凪いだみたいだね。船も止まったみたい。この海域に、何かあるのかな?」
 エルエム・メールがマストを見上げる。フィミア・イームズが同意した。
「海に漂うクラゲが同じ海域に留まっているっていうことは、その周辺は潮の流れが止まっているか、かなり緩やかなんじゃないか? そうでなければ、クラゲが自力で留まっていることはないだろうからね」
「つまり、この辺りにいるっていうこと?」
「だろうな。出るとしたら、この海域だ」
 フィミア・イームズが近くの船員に尋ねるが、船員は不景気な顔で足早に立ち去った。
「船員たちは、巻き込まれたって言う感じが強いのかもね。頼りにできるのは、私たちだけみたいね」
「ああ」
 力強くうなずくフィミア・イームズの背後に、軽やかに影が降りた。
「刹那、どうしたの? ハクオウクラゲの頭でも見えた?」
 マストの上の見張り台にのぼって行ったはずの獣人が、音もなく甲板に降り立つ。猫特有の身のこなしなのか、着地寸前に空中一回転していた。
「見えましたが、頭ではありません。私としたことがうっかりしていました。ハクオウクラゲの半透明の足が甲板を覆ったと、船員から聞いていたはずなのですが……ハクオウクラゲの体が白いのは、太陽の光にいぶられて水分が減った後らしいのです。水中ではほぼ無色透明で、水中から上がったばかりのハクオウクラゲも、同じように……遠くから見つけるのは私の目でも難しいでしょう」
「で、何が見えたんだ?」
 フィミア・イームズがいらついたように尋ねた。刹那は気分を害するでもなく、色の違う両目を向けた。
「お二人には、まだ見えませんか?」
 エルエム・メールは、フィミア・イームズの背後に、ぼんやりと浮かび上がる壁を見つけた。透明に近い質感が、乾燥して白色を帯びようとしていた。

     2
 御藤玲奈がゆっくりと腕を動かすと、大気から沁みだすように黒い霧が現れた。舵輪の近く、まだ船長のバーミンと話をしていた。突然発生した、量こそ少ないが不穏な黒い霧に、バーミンのみならず舞原絵奈も眉を寄せた。
「ギブソン、キミが船を止めたのではないのだな?」
「この辺りは突然凪ぐことで有名なんだ。帆船を操舵で止めるなんてことは、俺でもできないよ。風が止んでも勢いと海流で船はゆっくりと動いている。そのうち、風が吹きだすだろう」
 『ギブソン』と呼ばれることには、バーミンはすでに抵抗を辞めていた。御藤玲奈に限ってのことである。
「風が吹く海域まで行けるのか? 風が吹いたからといって、本当に動けるのか?」
「玲奈さん? どうしたんですか?」
「絵奈の目には見えないか?」
 御藤玲奈が腕を振るう。腕の動きにあわせたかのように、黒い霧が広がった。密度を薄め、甲板を渡るように広がる。
 黒い霧がわだかまった。何もない。そのように見える、見通しのいい甲板の上だ。
「まさか……クラゲ? ハクオウクラゲですか?」
「ああ。そのようだ。体色が白いと聞いていたが、乾燥した後らしいね。上の部分が少し、白くなり始めているよ。どうやら、この船はもうハクオウクラゲに巻きつかれているようだ。私も気づかなかった。静かな海魔といったところだね」
 御藤玲奈が、飛散した黒い霧を呼び戻す。手に巻きついた黒い霧が、鋭い刃へと変じた。
甲板の上を覆う白い触手が、乾燥して次第に白く変わる。5本の触手が甲板を横断していることがわかった。クラゲの本体、頭部はまだ海の中だ。
 御藤玲奈が霧を変じた刀を振り下ろす。クラゲの足に深々と喰い込み、体液が流れ出る。だが、それだけだった。痛がるでもなく、動揺するでもない。
「玲奈さん、私は船に引きあげたほうがいいと思います。この船なら十分持ちこたえられますし、今のまま逃げだしたら、船がひっくり返るかもしれません」
 舞原絵奈が自らも短剣を手にしながらも、生意気なことを言う。御藤玲奈はわずかに口角を上げた。
「そんなことはない。だが、確実に仕留めるには船に引きあげたほうが、都合がいいだろう。足を斬られて痛みを感じないような単純生物だ。逃げられたら、そのうち海の中で復活するだろうからな」
 御藤玲奈はハクオウクラゲを殺すつもりだった。人に危害を与えた海魔を生かしておくべきではないからだ。『仕留める』と言った時の舞原絵奈の表情が目についた。殺したくないのだと推察する。どちらが正しいかはすぐにわかる。御藤玲奈は刀を霧に戻し、登ってくるハクオウクラゲに巻き込まれないように船尾に移動した。

 刹那はハクオウクラゲの足が横たわる甲板に、分身を放って船員たちを避難させた。自分達は戦う意思がない船員たちは、喜んで避難を始めた。ハクオウクラゲを退治するのは、あくまでロストナンバーの役割である。
 本体である頭部がまだ海の中である。刹那は足に気を集め、甲板から海へ跳び出した。
「コスチューム・ラピッドスタイル!」
 背後でエルエム・メールの声を聞いた。船から飛び出すと、眼下に大量の水と、水を割る透明の物体が見えた。ただ船に足を延ばして浮いているだけに見える。刹那は、ハクオウクラゲの傘の上に着地した。足元がぺこりと沈むが、足場はしっかりとしていた。隣にエルエム・メールが降り立つ。
「私はこれの動きを止めようと思いますが、エル様はどうされます?」
 刹那は黒い針を取り出した。
「こいつが単独で動いているのかどうか確認したいってだけ。操っている奴がいるなら、きっと海の中だとおもってね。ところで刹那、その針は影に刺さないと意味ないんでしょ? どこに刺すつもり?」
「……そうですね」
 影に刺さなくても使い道はあるが、自分の武器をすべて教えることもないだろう。
「それと、こいつを足場に戦おうって思ったけど、こいつ、襲ってこないね」
 エルエム・オールがハクオウクラゲの頭を蹴りとばした。透明の皮膚がぶわぶわとするだけで反応もない。
 甲板の上でフィミア・イームズがクラゲの触手を掴んでいた。引きあげようとしているようだ。
「エル様、戻りましょう。ハクオウクラゲの目標は船に乗ることで人間はどうでもいいとしたら、海の中では戦えません。クラゲがどうしたいのかわかりませんが、甲板に引きあげて様子を見ましょう」
「うん。そうだね」
 刹那とエルエム・メールが跳躍しようと膝を曲げた。
 足元が揺れた。ハクオウクラゲが海の沈む。
「潜るの?」
「いえ、傘を広げたんです。これは……移動します。クラゲの移動方法そのものです」
 ハクオウクラゲの傘が縮まる。あり得ないことだが、ハクオウクラゲは海面から上へ向かって移動した。それは空中である。海中で暮らすクラゲに、空を飛ぶ能力はない。そのはずだが、巨体を誇るハクオウクラゲは、長い触手を船に巻き付けることで、可能にした。
 空中に透明の巨体が浮かび上がる。
 次の瞬間には、ハクオウクラゲの巨大な頭部が甲板を占領した。

     3
 フィミア・イームズは、エルエム・メールと刹那が海に投げ出されるのを目撃した。身軽で、少しの足場さえあれば水中すら移動できる二人だが、足場のない海の上を走れるはずがない。
 救難用の樽を持ち上げ、海に投適した。水しぶきが酷く、目標が定まらない。あの二人なら、樽一つあればなんとかできるだろう。そう思っていた。
 水しぶきの原因がハクオウクラゲであることは間違いなかった。だが、本当の理由はわからなかった。ハクオウクラゲが何をしようとしているのか、どうして、水しぶきをあげることになったのか。
 甲板に、重い音が響いた。同時に、船が沈んだ。
 喫水線が、あるべき場所から直下に沈む。そのまま海の底に引きずり込まれるかもしれない。それほどの衝撃だった。
 胃の中に重いものが落ちるような気がした。とにかく船の縁につかまり、何が起こっているのか探ろうとした瞬間、今度は急激な上昇を味わった。
 激しい上下運動を何度か繰り返し、やがて、巨大な帆船は落ち着いた。
 甲板の光景が一変していた。巨人の手で押しつぶされたかのように、あらゆるものが横倒しにされていた。
 ――一体何が……。
 視界が歪む。
 透明だ。透明のそれが、甲板にいる。
 太陽の光に早くも乾燥しつつあるのか、うっすらと白く変わる。
 ハクオウクラゲが、甲板の上に居た。帆船という器の上に、巨大なプリンをひっくり返したように、鎮座していた。
 船員たちは刹那と舞原絵奈が避難させていた。フィミア・イームズは拳を打ち鳴らす。
「容赦しないぞ」
「おーーーいっ」
 海の上から聞き知った声が上がり、フィミア・イームズは樽に載ったエルエム・メールと刹那に気づいた。
 ハクオウクラゲは動かない。名前の通り、次第に白さを増していく。
 背中を向けたからといって、襲いかかってくるとは思えなかった。フィミア・イームズは樽に向かってロープを投げた。
 ロープが着水する前に、樽を蹴り、エルエム・メールと刹那がロープの上を走ってくる。固定もされていないロープの上を走るのは、訓練だけでできることではない。
「ありがと。たすかったよ」「ありがとうございます」
 フィミア・イームズは軽く笑い返すと、静かな敵に視線をもどした。
 ハクオウクラゲは、ただ佇んでいた。

 舞原絵奈は船底に潜り、積み上げられた劣化オイルの縄を切断した。
 ハクオウクラゲは甲板のほぼ中央に居座っている。唯一の積み荷である劣化したオイルも、甲板にあった分はクラゲに押されて潰されたが、船底にはまだオイルが残っていた。
 運ぼうとして自分の非力さに打ちひしがれた。一般人と比べて非力だとは思わない。だが、液体で満ちた樽を担げるほどの怪力ではない。
 なんとか運び出そうと頑張っていると、クラゲから避難した逞しい船員が、軽々と樽を担ぎあげた。
「こんなもの、どうするんだ?」
「クラゲに浴びせるんです。いくら好きな物でも、食べ過ぎると嫌になるでしょ」
「そんな理屈で、あついがいなくなってくれればいいんだがな」
 別の船員が憎まれ口を叩いたが、肩にはやはり樽を担いでいた。舞原絵奈が反論する前に、さらに別の船員が口を挟んだ。
「どうせ、売り物にはならないんだ。なんでもやってみようぜ」
 その船員も、樽を担いでいた。
「確実に撃退できるっていう根拠はないんだな?」
 さらに後方からきた船員も、樽を担いでいた。
「はい。でも、私にはこれしか思いつかなくて」
 もっとさらに後からきた船員が、樽を担いだまま無愛想に言った。
「俺達は甲板には出ないぞ。運ぶだけだ。とにかく、任せたぞ」
「はい」
 舞原絵奈は強い決意と同時に返事を返し、駆け足で甲板に戻った。
 甲板では、フィミア・イームズとエルエム・メールがハクオウクラゲに対して拳を振るっていた。二人の強烈な打撃や投げ技は、通常であればかなりの威力を誇る。
 ハクオウクラゲは、ただぷるぷるとしていた。
 船底の倉庫から甲板への出入り口は船尾付近にある。幸いにもクラゲに覆われてはいなかった。舞原絵奈の背後に、次々と樽が積み上げられた。樽を運び出した船員は船底に戻る。みな一言ずつ励ましの言葉をかけていく。
「いまさらこんなもの、どうするんだい?」
 もっとも冷やかな声が、仲間であるはずの御藤玲奈から発せられた。黒い霧をまとわりつかせている。攻撃に参加していないのは、ハクオウクラゲに通じる攻撃方法を思いつかなかったのか、あるいは別の考えがあるのかもしれない。
「アロマオイルをハクオウクラゲに浴びせるんです。いくら好物でも、食べすぎれば嫌いになるでしょ」
「海中で臭い解るはずがない。アロマオイルのある成分があの海魔を引き寄せるのは間違いない。だが、大量に浴びせたからといって、意味があるとはおもえないな。万が一、暴れ出したらどうする? 今は大人しく無賃乗船しているだけだが、以前のように船をひっくり返すかもしれないぞ。なあ、ギブソン君」
 船長としての責任感からか、唯一甲板に残ったバーミンが引きつった顔でうなずいた。

 御藤玲奈が睨んだとおり、バーミンはかつて転覆させられた交易船の船長だった。責任をとらされ、不遇の扱いをうけていたところに、太守が海魔退治の人を集めていることを知り、是非にと応募したのだ。御藤玲奈には、どう対処するべきかわかっていた。はじめからではない。バーミンと話しているうちにはっきりしたのだが、それを仲間に言うつもりはなかった。はじめから全てを見通していた。そのほうが格好いい。
 だから、フィミア・イームズとエルエム・メールの攻撃が、いくら頑張っても徒労に終わることは計算済みだった。戦う必要はない。唯一必要なのは、刹那の能力だ。だが、舞原絵奈にやりたいことがあるのなら、協力してやるぐらいの気持ちはあった。やらせても問題は起こらない。そう判断してのことである。
 なにより、無計画に暴れるフィミア・イームズとエルエム・メールがだんだん見ていられなくなってきた。
「絵奈、考えがあるなら協力してやるよ。フィミア、エル、いつまでも遊んでいないで絵奈を手伝ってやってくれないか。刹那はいい。クラゲの足が届かない場所に隠れて、黒い針を用意しておいておくれ」
 全力で戦っていたフィミア・イームズとエルエム・メールは『遊んで』と言われてむっとした顔をしたが、舞原絵奈が大きな樽に奮闘しているのを見かねたのか、手伝ってやることにしたようだ。
 舞原絵奈の指示で、フィミア・イームズとエルエム・メールが樽を担いでハクオウクラゲの頭を登る。
 樽の中身をぶちまける。黒ずんだ液体が悪臭を放つ。舞原絵奈の陣が発動した。
 ハクオウクラゲの五感が通常より鋭敏になり、劣化したアロマオイルを強引に堪能させられる。
 ハクオウクラゲは動かなかった。
 樽が全て空けられ、甲板には腐臭が満ちた。
 ハクオウクラゲは真っ白に染まった。乾燥したのだ。
 マストが張る。船がゆっくりと動き出す。
「ギブソン君、例の海域を抜けたのかい?」
「ああ。そうらしい。おぅい、船底のやつら、全員出てこい。船が動くぞ」
 船員が顔を出し、臭いに悶絶する。
「……船長、まだクラゲがいるじゃないですか」
「仕方ないだろう。クラゲは邪魔だが……このクラゲ、どうするんだ?」
 御藤玲奈は軽く肩をすくめた。その時だった。ハクオウクラゲが動いた。海に帰ろうとしている。傘を広げた。水中から跳び上がるほどの力である。海に戻るぐらいはできるのだろう。御藤玲奈は、落ち着いて指示を出した。
「刹那、黒い針を。海に逃がしたら駄目だ。また、別の船が襲われる」
「わかりました」
 傘を広げようとしたまま、ハクオウクラゲが動きを止めた。甲板に落ちたクラゲの影に、刹那の黒い針が刺さっていた。
「さあ、ギブソン君、出発だ」
「……えっ? あれ、どうするんです?」
「所詮はクラゲだいうことだよ。いま、この刹那の力で動けなくしてある。3日もこのままにしておけば、乾燥して死んでしまうだろう。雨が降ったら、水分を与えないようにシーツでもかけてやるんだね。甲板を覆われて邪魔だろうけど、嵐にでも出くわさなければギブソン君が舵とりを間違えないかぎり、遭難したりはしないだろう」
 バーミンは舵輪を握った。

 ハクオウクラゲを乗せたまま、交易船はアロマランドに到着した。
 乾燥し、干からびた巨大クラゲはアロマランドの人々を安心させ、ジャンクヘヴンとの交易が再開された。
 ロストナンバー達は人々に感謝され、身分を隠したまま歓迎された。ロストレイルに乗り込み、世界司書にお土産を持ってくるのを忘れたことに気づいた。
 リベルセヴァンは少しだけ不機嫌になったが、表情には出さずに五人の労を労った。後日、ジャンクヘヴンに向かうロストナンバーに、買い物のリストを渡していた。
 これは噂だが、バーミンという船乗りが、この事件からギブソンに改名したそうである。
                                  了

クリエイターコメントシナリオ納品させていただきます。
ご参加いただきました皆様、どうもお疲れさまでした。
満足のいく内容になっていることを祈ります。
では、また機会がありましたら、よろしくお願いします。
公開日時2012-01-24(火) 22:00

 

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