ブルーインブルーでしばらく過ごすと、潮の匂いや海鳥の声にはすぐに慣れてしまう。意識の表層にはとどまらなくなったそれらに再び気づくのは、ふと気持ちをゆるめた瞬間だ。 希望の階(きざはし)・ジャンクヘヴン――。ブルーインブルーの海上都市群の盟主であるこの都市を、旅人が訪れるのはたいていなんらかの冒険依頼にもとづいてのことだ。だから意外と、落ち着いてこの街を歩いてみたものは少ないのかもしれない。 だから帰還の列車を待つまでの間、あるいは護衛する船の支度が整うまでの間、すこしだけジャンクヘヴンを歩いて見よう。 明るい日差しの下、密集した建物のあいだには洗濯物が翻り、活気ある人々の生活を見ることができる。 市場では新鮮な海産物が取引され、ふと路地を曲がれば、荒くれ船乗り御用達の酒場や賭場もある。 ブルーインブルーに、人間が生活できる土地は少ない。だからこそ、海上都市には実に濃密な人生が凝縮している。ジャンクヘヴンの街を歩けば、それに気づくことができるだろう。●ご案内このソロシナリオでは「ジャンクヘヴンを観光する場面」が描写されます。あなたは冒険旅行の合間などにすこしだけ時間を見つけてジャンクヘヴンを歩いてみることにしました。一体、どんなものに出会えるでしょうか?このソロシナリオに参加する方は、プレイングで、・あなたが見つけたいもの(「美味しい魚が食べられるお店」など)・それを見つけるための方法・目的のものを見つけた場合の反応や行動などを書くようにして下さい。「見つけたいものが存在しない」か、「見つけるための方法が不適切」と判断されると、残念ながら目的を果たせないこともありますが、あらかじめご了承下さい。また、もしかすると、目的のものとは別に思わぬものに出くわすこともあるかもしれません。
交易船の広い甲板から、ジャンクヘヴンの町並みに向かって数歩移動した場所に、蜘蛛の魔女はいた。甲板は海上から10メートルほど上空にある。蜘蛛の魔女の足元に、地面はない。何もない空中に、飛ぶでも漂うでもなく、蜘蛛の魔女は居た。 甲板からは船員の掛け声があがる。板張りをした巨大な箱(つまりコンテナ)を、大勢で運びあげている。船の縁まで運び、船の外に出そうとしている。下は艀が浮いている。海の上である。大きな積荷を受けきれず、艀が破壊されて海に沈む光景を、誰でも想像するだろう。 大きな掛け声とともに箱が投げ出された。 落下するかと思われた木製のコンテナは、空中でぴたりと静止した。ゆっくりと動きだす。導かれているかのように、倉庫街に向かって空中を移動する。 何もない空中、ではない。晴れ渡り、澄みきったジャンクヘヴンの空には、現在蜘蛛の魔女が無数の糸を張り巡らせているのだ。 ひとつ、またひとつとコンテナが投げ出され、同じ軌道を描いて空中を移動する。次第に通りがかる人々が立ち止り、いつしか群衆が集まっていた。 蜘蛛の魔女にとっても、楽な作業ではない。船乗りたちが数人でようやく運ぶコンテナの重量が、複数同時にかかるのである。手から放出した糸を背後に生えた蜘蛛の足に持たせることで、重量に耐えているのだ。 全てのコンテナを移動させた時には、ジャンクヘヴンの上空で蜘蛛の魔女は汗をびっしょりと掻いていた。 甲板で交易船の船長が手を振っている。報酬を手にしている。蜘蛛の魔女は自らが張り巡らせた強靭な糸の上を、背中から生えた力強い8本の足を使って移動した。 「助かったよ。船乗り10人分の働きだ。それだけ用意した」 船長は気前がいいところを見せようとしたのだろうか。ずっしりと重い、金貨の入った巾着を蜘蛛の魔女に差し出した。袋を受け取りながら、蜘蛛の魔女は不平を鳴らす。 「50人分……いえ、100人分以上の仕事だと思うけどね。まあいいや。どうせ、あれを売りさばけないとお金がないんでしょ。それまで待つつもりもないし、これで我慢してあげるよ。うっかり下に落として、箱が壊れたりしなくてよかったね。密売人さん」 船長の顔色が紫色に変わった。蜘蛛の魔女は喧嘩をしたかったわけではない。思ったことを素直に言ってしまっただけなのだ。船長が口を開くのと同時に、移動した。交易船のマストの先端に糸を伸ばし、船乗りたちが手も触れられない場所まで一気に移動する。 マストを登るぐらい、船乗り慣れたものだろうが、空中で静止する蜘蛛の魔女を捕まえられるものではない。蜘蛛の魔女はまだ張り巡らせたままの糸を渡り、安々と密売人達の手から逃れた。 仕事を終え、汗を掻き、蜘蛛の魔女は自らが抱える最大の敵に襲われた。空腹である。 空中を移動するコンテナを見物に集まった群衆を避け、海に渡された桟橋の裏側を蜘蛛の足で移動しているうちに、現在位置を見失った。 桟橋の裏からかさかさと這いだすと、蜘蛛の魔女と同じように腹を空かせた船乗り達が騒ぎながら歩いているのを見つけた。食事に行くらしい。蜘蛛の魔女から見れば、船乗りそのものが肉の塊である。しかし、ついていけば好物のキドニーパイにありつけるかもしれない。蜘蛛の魔女は船乗り達の最後尾を歩いている男の肩に糸を飛ばし、滑るように移動を始めた。知らない人間が見れば、まさに空中を滑って移動しているように見えるはずだ。 辿り着いたのは、いかにも船乗り達が好みそうな酒場だった。船乗り達の話を勝手に聞いていた内容によると、食事も美味しいらしい。蜘蛛の魔女は経験上、地面に降りた。愚かな人間達の生活習慣にあわせてやるのも、魔女としてのたしなみなのだ。背中に生えた蜘蛛の足も、関節で折りたたむと目立たない程度には小さくなる。 酒場の扉を開けると、おっさんたちの騒ぎが出迎えた。蜘蛛の魔女が入った途端に、声が鎮まる。蜘蛛の魔女は外見上美少女である。自分の美しさに圧倒されて声も失ったのだと解釈し、蜘蛛の魔女は颯爽と酒場の中央を歩き(二本の脚で)、カウンター席に着いた。 「おっちゃーん、黒ビール頂戴な! あと美味しいキドニーパイが食べたいわ!」 蜘蛛の魔女の美しさに呑まれて静まり返っていたはずの店内に、どっと笑い声が沸く。 「おいおいお嬢ちゃん、ここは子供の来るところじゃないぜ」「ガキは家に帰ってミルクでも飲んでな」 背後の下卑た人間達から、野次が上がる。哄笑がわずかに鎮まったのは、大人しく畳んでいた8本の足を広げた瞬間だった。船乗り達が鎮まる。だが……。 「私を馬鹿にしたのは何処のどいつだぁ! その口を塞いで天井からぶら下げてやる!」 振り向きながら凄んで見せた途端に、爆笑したのだ。店内が揺れるほどの笑い声が満ちた。蜘蛛の魔女は地団駄を踏んだ。四肢にくわえて8本の足がかさかさと揺れ動く。 「キィィー! この私をグレヴィレア(蜘蛛花)の2つ名を持つ蜘蛛の魔女様と知っててそんなナメタ態度をとってんの! 全員まとめてギッタンギッタンにしてやる!」 蜘蛛の魔女の体が、前触れもなく浮き上がった。 ジャンクヘヴンの船乗り達と、そうでなくとも品の良くない酔っ払いたちの顔色が変わったのは、ほんの数秒後だった。 蜘蛛の魔女は両手の一動作で店内中に粘着質の糸を伸ばし、背後の8本の足が力強く蜘蛛の魔女を包んだ。同時に、店内の全テーブルがひっくり返り、品の無い男たちの顔に食べかけの料理とラム酒を引っかけた。 哄笑が止み、空白の後、怒号に変わる。 蜘蛛の魔女は素早く8本の足を動かし、天井に張り付いた。 無数のグラスが投げつけられる。蜘蛛の魔女に届く前に全て止まり、投げた本人達の顔面に正確に戻り、張り付いた。 店内のほぼ中央に、ふわりと蜘蛛の魔女が降りる。同時に殴りかかろうとした男たちがぴたりと止まり、蜘蛛の魔女の動きにあわせ、マリオネットのように踊り始めた。 「キャハハハハハ! いい恰好ね! 可愛いわよ、おっさんたち」 10本の足、2本の腕で蜘蛛の魔女が踊る。軽やかなステップで舞い上がり、舞い降りずに踊り続ける。男たちは抵抗すらできないほど、蜘蛛の糸にからめとられている。舞うというよりも、ふらついてよたよたしているに過ぎない。頭と頭があちこちでぶつかり、踊りながらも昏倒する。足が疲れても止まることもできない。 蜘蛛の魔女は音も無くカウンターに戻った。 船乗り達は、まるで蜘蛛の魔女の腕の一振りに、ひれ伏すかのように床に倒れた。 唯一、残った者がいた。 「おっちゃーん、まだぁ?」 「はいよ、うちの自慢料理だからね」 蜘蛛の魔女の前に、キドニーパイが山積みされた。 厨房からキドニーパイが焼ける臭いがしていなければ、船乗り達のうち何人かは蜘蛛の魔女の胃に収まったはずである。 蜘蛛の魔女は満足いくまでキドニーパイにかぶりつき、黒ビールで喉を潤した。 了
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