少女の手を取り、走る。足がもつれる。振り返る眼に、翻るのは少女の白い髪。灰蒼色の眼が泣きそうに歪んでいる。色を失った唇を開き、悲鳴に近い声で何事か言っているが、分からない。少女の言葉を理解することは出来ない。 暗い路地を走り抜ける。この先に行けば、大きな通りがある。せめて人込みに紛れることが出来れば、追手の眼も少しは誤魔化せる。 このインヤンガイで、人の命は軽い。人込みに紛れたところで、追撃の手が緩むとはあまり考えられない。下手をすれば、人込みに向けてさえも、銃を向けてくるかもしれない。 それでも、とモゥは大通りに向けて走る。息が切れる。足が重い。身体が熱を帯びて言うことを聞かない。 路地の向こうに光が見えた、その刹那。 乾いた銃声と共、モゥは転んだ。肩が地面に叩きつけられる。背中に少女が倒れこむ。 激しい鼓動を圧して、腿が痛む。撃たれた。モゥは悲鳴じみた息を洩らす。立ち上がろうとして、這いずるだけに終わる。血の痕が地面に残る。 起き上がる。顔や手足を地面で酷く擦った。汚泥に塗れた傷口が痛む。 また何か言う少女の肩を掴み、背に庇う。 路地の暗がりから、男が一人、歩み出る。浮浪者じみた片手に提げているのは、黒い銃。「その女を渡せ」 首を横に振る。反対の足を撃ち抜かれる。衝撃に足が跳ねる。心臓が痛みと恐怖に凍る。「寄越せ」 男は、激痛に喚くモゥの前にしゃがみこむ。火傷するほどの熱を帯びた銃口を、今度は右の肩口に押し付ける。掌が焼けるのも構わず、モゥはその銃口を掴んだ。背に庇う少女に向け、 逃げろ、と。言うことは出来なかった。男のもう片手には、大振りの鉈が握られている。血に塗れたそれが、自らの腹を切り開いたのだと気付いた時には、モゥは泥の地面に身体を倒している。どろどろと流れ出していくのは、血と臓物。少女の悲鳴が耳を貫く。 逃げろ。囁くモゥの首筋に、モゥ自身の血脂に塗れた大鉈の刃が降って来る。「インヤンガイ」 黒い爪の先から赤茶色した尻尾の先まで、ぐぅうっと伸びをして、獣人の司書は立ち上がった。首に提げた『導きの書』を両前肢で抱え、黒い眼を上げて旅人たちを見仰ぐ。「インヤンガイに、ロストナンバー。探偵モゥ・マンタイが保護。迎え、お願いします」 『導きの書』から引っ張り出した資料には、ロストナンバーの少女の特徴と、「糸、使う。元の世界で、糸使って、妖獣退治。でも、この子、まだ子供。退治の訓練中。力、弱い」 少女の持つ特殊能力が記されている。「インヤンガイ、危険組織たくさん。暗殺組織、呪殺者組合。万が一、力使うところ見られれば、きっとさらわれる。組織の一員にされる」 消失の運命も怖いけれど、と世界司書は眼を伏せる。「わたしは、まず、それが怖い」 助けてあげてください、と三角耳の頭を下げる。 閑散とした路地を進めば、そこに『モゥ・メイ探偵事務所』がある。「お客さん達、モゥに用事があるの? ロストナンバー? にゃははははっ、来るの遅かったヨ。今日からここはただのメイ探偵事務所ヨ。モゥは死んじゃったからネ」 メイは連名の看板を外そうとしていた。「首ちょんぱ。誰かを護ってたみたいだけどネ。モゥはがんばりすぎたのヨ」 首飛ぶわ護っていた誰かはあっさりさらわれるわ。「犬死ネ」 遺品回収してあるヨ、と明るく笑う。「見てくカ?」 事務所内の机には、食べかけの炒麺と、モゥの遺品らしい品々が乱雑に置かれていた。 用途不明の細い鉄棒、携帯ゲーム機、大きめの布、空っぽの財布、銀色の糸、使い古したメモ帳、朱色ペン、未開封の缶詰。そのどれもが夥しい血に塗れている。 血に塗れたメモ帳を開く。そこには乱れた文字が書き込まれていたが、モゥの血で酷く汚れている。文字を読み取ることは難しい。 唯一読み取れたのは、『発信機』の文字のみ。「受信機なければどうしよもないネ」 食べかけの炒麺を平らげ、メイは首を傾げる。「ところで、ロストナンバー達、おなか空いていない? ゴハンおごってヨ」
「モゥが死んでたのはここヨ。死体はもう片付けたネ。腹も割かれて内臓でろでろヨ」 メイは壁に掛けられた街区の地図の一点を、箸を持った手で示す。 「誰を護っていたかなんか知らないネ」 どうせ道端で困ってたのを拾ったのヨ、と笑う。 「いつものことネ」 問いを投げてきた流鏑馬明日(ヤブサメ メイヒ)を真っ直ぐに見返すその笑顔に、相棒を喪った痛みは欠片も見当たらない。 「あなた……」 明日は黒い眼をしかめる。相棒が惨たらしく殺されたと言うのに、どうしてこうもあっさりと言い放てるの? 「相棒だったのでしょう? モゥが命を掛けて守ろうとした者の事は心配ではないの?」 明日は黒い瞳に悼みを滲ませる。殺された挙句、護ろうとした者を奪われ、モゥはどんなにか無念だろう。 空になった炒麺の皿を名残惜しげに見下ろし、メイは小首を傾げる。 「いつものことネ」 繰り返す言葉と共、眼に浮かぶのは、変わらぬ笑み。 「インヤンガイの人間は命が軽いヨ。軽い安い、……不味い、ネ」 殺人鬼や暴霊の手により、理不尽に無意味に、インヤンガイの人々は殺されていく。暗殺組織や呪殺組合までも数知れず存在するこの世界で、人の命はいとも簡単に奪われる。 「そんなことはないわ」 どんな人間であろうと、死んでいい人間など居ない。軽んじられていい命など、決して無い。 眦を決する明日としばらく見詰め合った後、メイは持ったままだった箸を空の皿へと投げた。たしなめられたことなど意に介していないように、ひょいと立ち上がる。 「ごはん、おごってくれないネ?」 明日は苦々しげに怜悧な眉を寄せる。 事務所の古びたソファに腰掛ける青燐(セイリン)は首を横に振る。単眼模様の描かれた青い布に隠れ、その表情は分からない。クラウスは黒い短毛に覆われた巨躯を伏せさせたまま、閉じていた瞼をお愛想のように開けるのみ。 窓辺に立ち、インヤンガイの淀んだ風に結い上げた黒髪を晒す璃空(リク)はメイを見ない。風に流れた髪が、不思議な紫色を帯びて揺れる。 「モゥの遺品、好きにするといいネ」 メイは小さく肩をすくめた。どこまでも軽く言い、笑みを浮かべる。何も気にしていない足取りで、事務所から出て行く。 明日はその背中を追おうとして、やめた。小さく深呼吸する。事務机の上に置き捨てられたモゥの遺品へと注意深い眼を向ける。 「ところで」 青燐が立ち上がる。髪と同じ薄青色のゆったりとした衣を揺らし、明日の隣に並ぶ。 「受信器と発信器って、なんですか?」 機械類、弱いんですよねー、と呟いて、血で斑に染まった銀色の糸を指先に摘む。顔も体格も分からない青燐の声は、穏かな壮年男性のもの。 「発信器の放つ、……インヤンガイだと霊力になるのかしら? 霊力を受信器が捕捉して、発信機のある場所を示すのだけれど……」 明日は青燐に説明しながら、細い鉄棒とゲーム機を片手ずつ持つ。どこか不器用そうな手つきで、ゲーム機に鉄棒を近付ける。電源を探して、ゲーム機を引っくり返し、見つけた小さな穴に鉄棒を捩じ込んでみる。 璃空はゲーム機を調べる明日の手元を、興味深そうに紺碧の眼で見詰める。大人びた雰囲気を纏ってもいるが、好奇心を剥き出しにする様子はまだ年相応の少女にも見える。 「すまないが、機械については全くわからないんだ」 「私も、壊しそうなんですよねー」 青燐が表情の見えない布越しでも分かる、困った声で言う。 『とにかく、助けなくてはな』 クラウスが伏せていた床から起き上がった。低い声がその場に居る者の脳内に響く。 人間のように喋ることの出来ないクラウスは、自身の持つ能力を介して『喋る』。事務机の上に顎を乗せ、黒い鼻先を動かす。遺品に残る様々な匂いを確かめる。 『……余計な仕事、一つ増やしやがって』 血に塗れたモゥの手帳を不機嫌そうに睨みながらも、その黒い眼は真剣に遺品ひとつひとつを記憶していく。 「ああ、糸って、彼女の持ち物ではないですかねー」 『そうだな』 青燐の掌に包まれた銀の糸に鼻先を寄せ、匂いを覚える。元の世界で、糸を使った妖獣退治の訓練をしていたという少女。その少女のものと思われる銀糸は、今はどこまでも頼りなく垂れている。 「それを、貸してくれないか」 クラウスが鼻先を離すのを待って、璃空が小さな手を伸ばした。さらわれたロストナンバーと同じ年頃の少女の紺碧の眼には、けれど強い意志が宿っている。 青燐から受け取った銀の糸を手に、璃空は一人、窓辺に立つ。機械のことが分からなくとも、調べる手は、ある。右腕に嵌めた腕飾りに触れる。十二の宝石が輝く銀の腕飾りには、璃空と契約を交わした式神が宿っている。 名を囁けば、璃空の命を受け、鳥と鼠の姿持つ式神が現れる。それぞれに銀の糸に染み込んだ少女の気配を覚えこませ、 「人が多いのが難点か」 窓辺から式神たちを放つ。インヤンガイの人の多さに惑うかもしれないが、少しは探れるはず。 「……まさか、これが受信機って事はない……」 ゲーム機を探っていた明日の手が止まる。 「かしら……」 幾つもあるボタンのどれを押したのか。ジジジ、と危なげな音を立て、携帯ゲーム機の小さな画面に光が灯る。古びた緑色の画面に映し出されたのは、壁に掛けられた街区のものと同じ、地図。 モゥの殺害現場からそう遠くない建物のひとつに、発信器の在り処を示してか、赤い光が明滅している。 「気付かれてなければいいんですけどねー」 画面を覗き込む仕種をしながら、青燐は考え込む。少女を連れ去った組織の人間が、少女に付けられた発信器に気付いているとしたら。 「逆に利用されていないとも限りませんし」 罠にかけられる可能性もある。警戒を促す青燐に、明日は頷く。 璃空の式神が戻ってくるまでの時間もある。 「殺害現場にも行ってみましょう」 大通りから脇に外れると、途端に光は途切れる。折り重なるような建物に遮られ、暗く汚れた空は遠い。 人の絶えた石畳の道には、惨劇の痕跡が生々しく残っている。 モゥが息絶えたその場所には、路地の両側の壁に血飛沫が撒き散らされ、大量の血がろくに流されもせず黒く道にこびりついている。探せば腹を割かれて流れ出した内臓の一部でさえも見つかるのではないか。 凄惨な殺人の現場に、明日は眉をしかめる。この様子では、モゥの遺体がきちんと弔われたかどうかも怪しい。インヤンガイの現実だとしても、日常だとしても。ここは、この世界は、命が軽んじられすぎている。 「さまざまな理由で所属してると思うんですけどねー」 青燐は石畳にしゃがみこみ、モゥの血痕に指先を触れさせる。モゥを殺した者は、何を思ってモゥの腹を割き、首を落としたのか。 布の下、青燐は一度固く瞼を閉ざす。じわりと胸に湧いた苦い記憶を押し戻す。今は、彼女を思い出している時ではない。モゥと同じに首を断たれ、命を奪われた―― 「……人を殺す、その前に」 感情を押し殺すための笑みを浮かべる。 「その術を仕込まれる前に、ねえ」 「助け出さなくては」 きっと不安も大きいだろう、と璃空が強く頷く。 「知らずに組織の一員になるって、惨いことですよねー」 のんびりと立ち上がる青燐を、璃空は見仰ぐ。カラリと言ってのけるこの人の過去には、何があるのだろう。まるで、そういう経験があるかのように言う。 璃空の視線に気付き、青燐は笑ったようだった。 「私の世界でのお話。『名も無き月に気をつけろ』」 まるで御伽噺をするかのように、 「命を狙われたら最後だと」 自らの世界の暗殺組織の名を口にする。まさかそこに所属していたのか、と璃空が問うよりも先、 「まあ、千年以上も昔の話ですけどねー」 青燐は、あはは、と短く笑った。少なくとも声の上では笑ったように、聞こえた。 「あなたの嗅覚で、解らないかしら?」 明日に請われ、クラウスは血の痕に鼻先を近づける。モゥを殺した者が、モゥの体を裂いた刃をまだ持っているのならば。その体に返り血を浴びているのならば。少女に付けられているかどうか怪しい発信機よりも確実に、少女をさらった者の後を追える。 事務所で覚えて来たモゥの血や少女の匂いと、地面に残る匂いに違いがないか確かめる。血の匂いは、路地の奥へと続いている。 石畳の道に添う尖った黒い三角耳の間の賢そうな額を、思わず撫でたくなって、明日はほんの微かに黒い眼を歪める。静かに苦笑いする。見失った世界で共に居た、あの仔は元気にしているだろうか。まだ小犬だったけれど、賢い仔だった。誰かの世話になっているだろうか。 人よりも暖かな動物の体温のせいか、飼っていた子犬のことを思い出すためか。黒いドーベルマンの姿したこの旅の仲間には、ひどく親近感を覚えてしまう。 『後を追う』 短く言い、クラウスが地を蹴る。 賑わう大通りから一本外れる。人の気配が一気に消える。遠い喧騒は、路地に淀む暗闇と得体の知れない悪臭に押し潰される。 鳥が舞い降りる。璃空の差し伸ばした小さな指に留まり、璃空にだけ解る言葉で何事かを囁く。そうして、消える。 「間違いない」 紺碧の眼が見据えるのは、大通りを挟み、複雑に絡まりあう建物の一つ。灰と黒に斑に煤けた建物の中に、銀の糸の持ち主が居る。それは確かだ。 『捨ててあった』 狭い路地から足音もなく現われたクラウスが、口に咥えていた大振りの鉈を地面に放り出す。血脂で黒く汚れた大鉈の刃は、最早用を成さないほどに切れ味を失っている。 モゥの血に塗れた服も、と吐き捨て、璃空の視線を追って黒い瞳を上げる。 『少女の匂いはあの建物からだな』 「受信機が示すのも、あの建物ね」 明日は手にしていたゲーム機型の受信機を確認する。難しい顔でゲーム機のボタンを操作し、建物内部の画像が出ないか探ってみる。 「これ以上は無理ね」 画面に映る画像は変わらない。用済みのゲーム機をヒップバックに押し込む。クラウスの持って来た大鉈に、組織の手掛りとなるものが無いか確かめる。 璃空は考え込むように眼を伏せる。 「……建物の何処に居るか、だな」 呟いて後、 「組織の者の前で多少なりとも力を見せれば、捕まえてくれぬだろうか」 自らを囮とすることを何でもないように提案する。 「上手くすれば、彼女と同じ所に入れてくれると思うのだが」 別の場所に閉じ込められたとしても、 「内部に入れさえすれば何とかなるな」 少女の全身を満たすのは、強い意志。ただひたすらに、自らを犠牲にしてでも人を助け出そうとする、一途な想い。 すぐにでも向かおうとする璃空の肩が、やんわりと押し留められる。 「それはあんまり、ねえ」 薄青色の衣に隠れた大きな手は、青燐のもの。優しげな手と同じ、柔らかな声音が降って来る。 「あなただけ危険に晒す訳にはいかないわ」 大鉈を検分していた明日が顔を上げる。 「身を護る術は持っている」 心外そうに首を傾げてみせる璃空に頷き、明日はけれど、次いで首を横に振る。 「一人きりでは行かせられないわ」 とは言え、捕らえられることを目的にするならば、大人数で行くのは警戒される。 「組織へは、こっそり侵入したいですけどねー」 璃空の背中を軽く叩き、青燐は建物に挟まれた狭い空を見上げる。重なり合った建物には、屋根や配管や出っ張りが沢山ある。上手く辿れば、目的の建物の屋上に渡ることも可能だろう。幸いと言うべきか、今回の旅の仲間は皆身軽そうな者ばかり。 『天井から探索する』 建物を見据え、クラウスが宣言する。 『あの造りならば、おそらく、天井が高い』 潜り込めるはずだ、と言い切れるのは、元の世界で一時期だけとは言え諜報活動をしていた経験からだろうか。 「そうですねえ」 青燐は目当ての建物と、近隣の建物との距離を確かめた後、 「居場所も確かになりましたし、侵入してみましょうかー」 のんびりとした足取りで、大通りの人込みに紛れ込む。後に続く仲間の気配を感じながら、通りを横切る。目的の建物の隣の古い住居棟に何気なく入り込む。非常階段らしい錆びた螺旋階段を登れば、人目に触れず、屋上に出る。 「ここから」 淀んだ空から降る熱の溜まった屋上には、不要品なのだろう、机や椅子や、霊子機器等のガラクタが捨てられている。 「跳びます」 青燐が示すのは、ひと一人の背丈ほど離れた隣の建物。柵も何もないこちらの棟から、向こうの屋上を囲む手摺は僅かに高いが、 「警備は甘そうですねー」 屋上の端に立った青燐は、助走も躊躇いもなく、恐ろしいほどの身軽さで隣の建物へと飛び移った。周囲の様子を素早く確かめ、手招きする。 幅は然程無いとは言え、地面までの高さは充分にある。それでも、迷う者は居ない。 青燐の後を追い、巨躯を満たすしなやかな筋肉の力でもって、クラウスが飛ぶ。 『手伝うぞ』 クラウスの操る風の助けと青燐の伸ばす手を得て、璃空が、明日が跳ぶ。 手摺を越え、何も置かれていない屋上に侵入する。屋上にぽつりとあるのは、横幅が人の倍ある、巨大な通風孔。煤けた煙突が突き出しているようにも見える。縁に取り付き、覗き込む。鉄網が張られてはいるが、簡単に破ることは出来そうだ。 空調のものなのか、熱を帯びた風が吹き上がっている。生活の臭いや火薬の臭い、果ては香木を焚くような匂い、様々な匂いが混ざり合う。 背丈ほど下に見える暗い床が、天井裏だろう。 『先行する』 錆びた鉄網を取り除いた通風孔から、クラウスが音も立てずに飛び降りる。クラウスの見立て通り、大柄なクラウスでも匍匐せず前に進めるほどに、天井裏は高さも幅もあるようだ。 「そんなに大きい組織でもなさそうですねー」 人の気配が少ない、と青燐は首を傾げる仕種をしながらクラウスを追う。 「出来れば、潰したい所だな」 璃空が瞳に力を籠める。 「壊滅させてやりたいですけどねー」 通風孔から降って来る少女の身体をふわりと抱き止め、青燐は頷く。 「少女の救出が優先ですよー」 「勿論だ」 小さく礼を言い、天井裏に足を付ける。璃空に続き、明日が降り立つ。薄暗くはあるが、腰を屈めさえすれば歩くことは出来そうだ。暗闇でも視界の利く青燐と、匂いを辿れるクラウスが先に立つ。 生暖かい風が押し寄せる。足音を殺し、気配を殺し、旅人たちは進む。巨大なプロペラファンが緩慢に回る脇を擦り抜け、換気扇の隙間から武器倉庫らしい部屋を覗き込む。刃物類や銃器が乱雑に転がってはいるものの、 「少ないわね」 明日が呟く。建物全体に動く人の気配も少ない。 「小さい組織なのか、……末端なだけなのか……」 クラウスが足を止めた。青燐が片腕を広げる。明日と璃空が暗がりに足を止め、息を殺す。 天井の下は通路になっているのだろうか。一人分の足音が近付く。そのまま、速度を緩めることなく遠去かる。 短い安堵の息と共、再び進む。 『……オレに脳内の情報を読み込む力があればなぁ……』 組織の人間からそうして建物内の情報を盗むことが出来れば、少女の居場所を得ることも簡単なんだが、とクラウスが珍しく嘆息じみた言葉を洩らす。様々な匂いが混ざり合う中で、少女の微かな匂いを辿ることは矢張り難しいのか。 何かの配線や通気管を避け、柱を回りこむ。得体の知れない埃や蜘蛛の巣や小さい獣の死体を踏み越える。通風孔を辿り、階下の天井裏に降りる。地味な探索をしばらく続けて後、 『お、見つけた』 尖った耳を動かし、クラウスは呟いた。 通風用の網から、天井裏に光が入り込む。人ひとり通り抜けられる網の下に見えるのは、鳥籠のような形した牢。その中に、銀髪の少女がうずくまっている。 赤錆の浮いた牢を数人の人間が囲んで立っている。浮浪者のような格好の者、全身を黒い外套で覆った者、インヤンガイの街人のような格好をした者、スーツを纏った者。格好は様々だが、共通して、少女に向け不可解な呪文を唱えている。 「……操る気だ」 式神や術符、精霊を操る力を持つ璃空が、少女の周りに渦巻く呪術の気配を感じ取る。元の世界の精霊のものとは言葉は違うため、操ることも言葉を聞き取ることも出来ないが、少女に取り憑こうとする悪しき精霊の意志ははっきりと読み取れる。 「行きましょう」 明日がトラベルギアの銃を取り出した。低く、呻くように言う。 身体が動かない。動いたとしても、周りは赤錆びた鉄格子に囲まれている。逃れられない。 項垂れた視界に映るのは、薄暗い床に投げ出した自身の手。掌が赤く血に塗れている。身体がまだ動いた時に鉄格子を掴んで、ささくれた鉄片で指先を切り裂かれたからだ。 それとも、これは自分の血なんかではなくて。 思い出す。自らを庇い、撃たれ、腹を裂かれ、首を断たれて死んだ男のことを。囁かれた言葉は解らなかったけれど、必死の思いだけは伝わった。護ろうとしてくれた。こんな訳のわからない世界で、手を引いて一緒に逃げてくれた。 彼の声を、顔を思い出そうとしても、もう思い出せない。低く重なる呪詛にも似た言葉が耳に侵入してくる。頭を侵す。絶望に満たし、闇に染めようとする。この言葉は何? この世界は何? わたしはどうしてこんなところでこんな目に遭っている? この人達はどうしてわたしにこんなことをする? それにしても、ああ、どうして身体がこんなにも動かないのだろう。 こんな世界など、――そうだ、こんな世界など、 「その子を離しなさい。あなた達には渡さないわ」 言葉が、聞こえた。凛とした女の声に、心臓がことんと動く。ままならない世界に向けようとしていた、怒りにも似た怨嗟の想いが一瞬で霧散する。 言葉が解る。わたしを助けようとしてくれている言葉が、聞こえる。 空気の爆ぜるような轟音が天井から湧く。周りを囲んでいた者達の悲鳴が突風に混じる。髪が風に引かれる。耳を埋めていた呪詛の声が途絶えた。顔が跳ねるように上がる。身体が動く。 『悪事の報いを受けろ!』 低い声が頭の中に響く。けれど、さっきまで聞こえていた呪詛の音とは違う、心強い声。砕けた天井から、風を纏って黒い大きな犬が降りて来る。銃を構えた女の人の黒髪を揺らし、隣に立つ。 浮浪者の格好をした男が何か叫び、懐から取り出した小刀を黒髪の女の人目掛け、投げる。風纏う犬が女の人の前に立ち塞がる。その風でもって刃の軌道を逸らす。小刀が床に落ちるのと、女の人の撃った銃弾に足を撃ち抜かれて浮浪者の男が倒れるのはほぼ同時。 スーツの男が牢に駆け寄ろうとして、白い煙のようなものに撒かれた。よろける。天井に開いた穴から、薄青の衣の人が音も無く降る。目前に降って来た人の手にあるのは、かぶの形した薄緑色の香炉ひとつ。投げつけられたのが、その中にあった香炉灰だと気付き、スーツの男は嘲笑浮かべて懐から銃を出す。 「香炉以外に、武器がないとでも思ったか?」 男の持つ銃ごとその掌を貫いたのは、薄青の衣の裾から覗く指から伸びた、錐よりも鋭い光帯びる爪。悲鳴上げ、自らの掌抱えて、男がその場にうずくまる。 予期せぬ乱入者に、一人が壁に縋りつく。もう一人が黒髪の女の人に飛び掛る。銃を構えるよりも速く、女の人の身体が翻る。突進をかわし、風を裂く鋭さで跳ね上がった足が男の腹にめり込む。項で結うた黒髪が綺麗な円を描く。身体が沈み、靴先が跳ね上がる。顎を蹴り上げられ、男はもんどりうって床に倒れた。呻いて、動かなくなる。 喧しい警報音が響き渡る。間を置かず、何人かの忙しい足音がこちらの部屋目掛けて近付く。 壁に縋り付いていた一人が、黒い犬の放つ暴風に足元を掬われ転がる。それでももがいて起き上がろうとして、次いで放たれた真空の風に身体を切り裂かれ、倒れる。ふわりと見えない力で身体が持ち上がる。悲鳴と共、頭から床に叩きつけられる。警報音を掻き消して、空気を揺らがせる咆哮が耳を貫く。それは、男には脳を揺らがす大音声だったのか。ぎくりと震え、男の身体から力が抜ける。 「また来たわね」 近付く足音に、女の人が呟く。手にしていた銃を仕舞い、懐から今度は二丁の拳銃を取り出す。 「潰すまで」 薄青の衣の人が冷たく笑う。指先から、音も立てず鋭い爪が伸びる。 牢の正面にある扉が開いた。床に倒れる呪術者達と同じに、一見、街の住人のような格好をした者達が数人、手に手に武器持ち、押し寄せる。 女の人が銃を撃つ。薄青の衣の人が駆ける。 黒い犬が牢に近寄り、色々な道具の付いた首輪から細かな道具を伸ばし、牢の鍵を解除しようとする。 「クラウスくん!」 女の人が叫んだ。銃を撃ち、爪を振るい、牢を護る二人の隙を縫って、大鉈を振り上げる男が突っ込んでくる。黒い犬が首輪から紫の光帯びる電撃の武器を取り出す。その紫の光が男に届くよりも、 「『解』!」 不意に生まれた不可視の壁に阻まれるのが先。大鉈を振り下ろした勢いをそのまま返され、男がよろける。黒い犬の操るスタンガンが追い縋る。音と紫電が放たれ、男の身体が跳ねる。床に伏せる。 とん、と軽い音が横で鳴る。見れば、円柱型した牢の脇に黒紫髪の少女が一人。 「待たせた」 不思議な文字の書かれた紙を牢に貼り付ける。術符に封じられた力を、 「『解』」 短い言葉ひとつで解き放つ。不可視の盾が再度牢の周囲を巡る。 「短時間だが、これで敵の刃は届かない」 『充分だ』 共に戦ったことのある仲間なのだろう、短い目配せの後、黒い犬は牢の鍵を外しにかかる。 「……あなたたちは、」 言葉が通じるのか、不安だった。この人達が喋る言葉は解るけれど、わたしの話す言葉はこの人達に通じるのだろうか。 「大丈夫、私達は味方だ」 鉄格子越しに、少女が手を伸ばす。優しい夜空の色した瞳が、安心させようとしてか、にこりと笑む。 『驚いても仕方ないが……』 ここは異世界、と黒い犬が頭の中に声を響かせてくる。 身体の動きを縛られたまま、否応なく耳に聞かされていた呪術の声は恐怖と不快を煽るばかりだったけれど、この声は安心出来る。怖くない。 『俺たちも、同じものだ』 「急なことで不安だったろう」 伸ばされる少女の手に、傷付いた掌を伸ばす。錆びた鉄片の刺さった掌を両手で包み、少女はほんの僅か、紺碧色の眼を痛ましげにひそめた。空中に不思議な文字を描きこみ、短く『解』、と呟く。術式に籠められた力が発動し、掌の傷がゆるゆると温かく癒されていく。 「もう、安心していい」 跡形もなく傷の癒えた掌から目を上げる。牢の向こう、 女の人に蹴り上げられ、男の身体が宙に浮く。浮いた男の襟首を、薄青の衣の人が掴む。床に叩き付け、鋭い爪の先を首元に押し付ける。何事か、怖いことでも囁かれたのか、ぎくりと男の身体が固まった。手にしていた武器が床に落ちる。女の人がその武器を蹴り、遠くに離す。 牢の部屋に押し掛けていた者は最早全員、撃たれ蹴られ、斬られて、床に倒れこんでいる。 「後は、こちらの専門機関に任せるしかないわね」 女の人が銃を仕舞う。小さな息を吐き出し、目を閉ざす。呟いたのは、誰かに向けての鎮魂の言葉。 「そうですねー」 薄青の衣の人が纏う雰囲気が一気に緩まる。指先から伸びていた爪は、腕を一振りすれば元の長さに戻る。声も、周囲の空気までもが、のんびりとしたものに変わる。 「本当は、壊滅させてしまいたいんですけどねー」 そののんびりした声で、物騒なことを言う薄青の衣の人の手を、女の人は示した。 「あなた、怪我を――」 「ああ、金属物で傷つけられると治りが遅いんですよねー」 乱闘の最中、鉄の刃か何かを引っ掛けられたらしい手の甲には、薄く血が滲んでいる。 もうすぐ治りますよ、と顔を隠す布の下で笑う。 『インヤンガイから、さっさと帰るぞ』 鍵が外れた。赤錆びた鉄格子が開く。 「立てるか?」 鉄格子を潜り、少女が手を伸ばしてくる。 「うん、……大丈夫」 深い安堵と共に、手を伸ばし、立ち上がる。こういう時はどう言えば良かったのだろう、とまだ少し混乱気味の頭で必死に考える。 ――そうだ。 「ありがとうございます」 掠れた声で、どうにか小さく、呟く。 言葉が通じるこの人達に。 言葉の通じなかったあの人に。 「……ありがとう」 終
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