「『名も無き月』……ですか」 紫雲 霞月(シウン・カヅキ)の言葉に、久間 黒冬(ヒサマ・クロフユ)は小さく頷いた。 「戦争推進組の中でも特に過激な、争いを激化させたくて仕方ない連中だ」 「存じています。先日、昼人族の和平組要人を暗殺したのも彼らだとか」 「ああ。彼奴らの暗躍のお陰で、疑心暗鬼が普通種双方に広がりつつある。どうにかしてこの無意味な争いを終わらせようと、心ある者たちが必死に動いているというのに、嘆かわしい」 黒冬が、巨体を揺すって溜息をつく。 彼は、熊型獣人である久間一族の族長だ。 身体は大きく――力は強く、巨体に似合わぬ俊敏さも持ち合わせ、智謀知略にも長けながら、そのうえ深い度量と獣人族のみならず世界全体を見据える広い視野までも持つという傑物である。この、普通種戦争と呼ばれる大掛かりで深刻な諍いにおいては、「戦場に久間あり、久間に黒冬あり」とも讃えられる偉大な武人なのだ。 彼は、獣人社会においてはかなりの発言力を持つ有力者でもあると同時に、一向に収まる気配を見せないこの現状を憂い、どうにかして戦いを終わらせようと奔走する一派の要人でもあった。 言ってみれば、『気は優しくて力持ち』を体現するような人物なのである。 彼が、荒廃してゆく世界に心を痛め、和平を成し遂げるべく水面下の駆け引きを繰り広げる理由も理解できよう。 「そんな中、黒冬殿が暗殺されるようなことがあれば」 「無論、事態は更に泥沼化するであろうな。数多くの命を奪ってきた我が身だ、いまさら死など恐れはせぬが……それが戦争を長引かせるなら、むざと殺されてやるわけにはゆかぬ。霞月殿、此度は無理を強いて済まぬが、よろしく頼むぞ」 「もちろんです。必ず、刺客を退けてご覧に入れましょう」 「頼りにしている。――ことが終わったあかつきには、必ずやこの世界に和平を」 黒冬は、息子ほどに年の離れた、立場的には雇われ罠師である霞月を軽んずることなく、対等の客人として礼を尽くす。その深い度量と、平らかな世への強い意志を覗かせる姿は、若い霞月にとっても心地よいものだった。それゆえに、彼は静かに、力強く頷く。 「はい。黒冬殿ならば、必ずや成し遂げられると信じています」 「……ああ」 その責任の重さが判るからこそだろう、表情を引き締めた黒冬が、霞月の罠に護られた奥の間へと戻ってゆくのを見送って、 「さて……では、どうしようか」 獣人族でも指折りの要人宅とは思えぬ、質実剛健を地で行く簡素でがっしりした造りの屋敷をぐるりと見やり、霞月は見取り図を広げた。 霞月は、夜人族としてもこの世界に存在する種族全体からしてもまだまだ若輩の域を出ない。が、それでも夜人として持って生まれた魔力や身体能力の高さには定評があるし、書と絵の双方を修めなければ扱うことの出来ない書画魔術を若くして会得している。 彼を、新進気鋭の罠師と称する言葉は、決して誇張ではないのだ。 「『名も無き月』……どう来る?」 黒冬からの情報を整理すると、早ければ三日後、遅くても十日後には何らかの動きがあるだろう。 「これ以上の戦いが世界のためになるとは思えないが……彼らには彼らの思惑がある、か」 見取り図と実物を確認し、どこにどんな罠を張れば効果的か熟考しつつつぶやく。 前述の通り、世界は現在、普通種と呼ばれる昼人族と獣人族の繰り広げる戦争の真っ最中だ。 きっかけがなんであったのかは、実を言うと霞月にもよく判らない。 恐らく、発端そのものは単純で、ちっぽけなことだったはずだ。 しかし、昼人族と獣人族の間に横たわるいくつかの溝が事態を深刻化させ、泥沼化させた。 今や、どれだけの血が流れ、どれだけの命が失われたかすら、もう誰にも判らない。 この世界に存在するほかの種族、天人族や夢人族、夜人族などの長命種は、戦争推進組と和平推進組のふたつに分かれた強硬派と、事態を見ているだけもしくは記録するだけの静観派に大別され、世界の行く末をじっと見守っている。五行長と呼ばれる、都市の守護者であり天人たちのまとめ役でもある人々や、強い力を有した大半の天人たちは、都市への悪影響を鑑みると、静観派に所属せざるを得ないような状況だ。 先だって二十六歳になったばかりの霞月は、強硬派和平組夜人族のひとりだ。大掛かりな人脈や縁故を持たぬ雇われ罠師だが、その優秀さと人柄で徐々に名を上げ、信頼を得つつある。 「……今は、出来ることをやるだけだ」 独語し、紙に筆を滑らせる。 力強い筆致で絵を、文字をかたちづくり、魔力を精緻に織り上げてゆく。 理知的な眼差しが強さと意志を孕んで紙面へ向けられると、勇壮にして優美なる曲線が、いくつもの風景や文字、事物や事象を滑らかに描き出してゆく。 行き止まりの罠、無限螺旋の罠、落下の罠、暗闇の罠、昏倒の罠、金縛りの罠、放出の罠、雁字搦めの罠、麻痺の罠、腹痛の罠などなど、物騒だが命まで取るつもりはない罠を書画魔術によって組み上げ、刺客の進入口となりやすそうな位置に設置してゆく。 霞月には判っていた。 誰も彼もが己が思惑と利己利他によって動いている今、満足のゆく結末を迎えたければ自分で考え行動し戦うしかないのだと。 「私は……見てみたい。戦いのない、平和な世の中を」 決して簡単なことではないとも理解しつつ、手も届かない儚い夢だとは微塵も思わず、一歩ずつ近づいているのだと信じて、霞月は己がなすべき仕事を果たすのだ。 * * * * * 空には、月が出ていた。 世界のあちこちで戦火が上がっているはずなのに、ここは驚くほど静かで、煙の匂いも血の臭いも剣戟の音も聞こえない。 家人も使用人も、すべてよそへ避難させた屋敷は、更にひっそりと静まり返っている。 霞月は、図太いというべきなのか悠々自適というべきなのか、特に緊張もしていない様子の――それは、霞月の力を全面的に信用しているからなのかもしれないが――黒冬とふたりで、黒冬の奥方が準備して行ってくれた夕餉をいただいてから、黒冬が籠もる部屋の前に陣取った。 霞月がこの屋敷へやってきて一週間が経とうとしている。 その間にも黒冬は己が狙われていることなど意にも介さず精力的に動き、そのお陰で一部の獣人族と昼人族の間で和平に関する会合がもたれることとなった。その会合には、当然、黒冬が出席することになっていて、霞月の責務は更に重大さを増している。 別筋からは、『名も無き月』から和平組要人を何人も暗殺した凄腕の刺客が放たれたという情報も入ってきていて、恐らくその襲来が今夜辺りだろうと予測されていた。そのため、黒冬は家人や従者を避難させたのだ。 霞月は黒冬にも避難しておいてほしかったのだが、熟練の武人でもある黒冬がそれを了承するはずもなく、今に至るわけである。 「……無論、しくじるつもりはないが」 万が一霞月が危機に晒されれば部屋から飛び出してきそうな、別口の危惧をひしひしと感じるだけに、わずかな失敗も許されない。 霞月は使い慣れた刀を腰に佩き、『その時』を待っていた。 夜が、ゆっくりと更けてゆく。 ――彼ら、夜人の時間の到来だ。 四肢に力が漲る。 霞月は紫の目を細め、窓の向こう側に、皓々と輝く月を見上げた。 と、 「……来たか」 賊の侵入と所在地を知らせる索敵魔術が発動し、霞月の脳裏にその詳細を送る込んでくる。 慣れているのか、『判って』いるのか、それとも間一髪で回避しているからなのか、賊は霞月が入念に設置した罠をことごとく回避し、少しずつこちらへと近づいてきている様子だった。 「なるほど……凄腕という情報は真実のようだ」 だが、霞月の声に焦りはない。 何故なら、優秀な、一流の罠師は、己自身をもって最高の罠とするのだから。 それゆえに、すべての罠が突破され、もしくは無効化されても、霞月の表情は変わらず、 「夜人族の、高名な罠師が待ち構えていると……そうか、それが、あなたか」 無感情な声が、ただ事実を確認する口ぶりで言っても、焦りを覚えることもなかった。 「では……斃さねば」 黒冬の部屋にかけられた鍵魔法は、霞月の意識が失われない限り解除されない。つまるところ、刺客がここを超えてゆくには、書画魔術師であり刀使いでもある霞月を倒さねばならないのだ。 「君は……」 現れた青年を、霞月はじっと見つめる。 年のころは十代後半から二十代前半。 黄金の目に、瓶覗色――淡い藍色といえばいいだろうか――の髪をした、丹精に整った顔立ちの青年である。姿かたちだけ見れば、とてもではないが要人を暗殺してまわる刺客とは思えない。 「天人族、か」 何をどう、と説明することは難しい。 ただ、彼のまとう雰囲気、気配は、天人族以外にあり得なかった。 天人族が戦争推進組に属することは皆無ではないが、しかし、 「何故……暗殺など」 直接手を下してまわる天人というのは、稀有だ。 「自ら、望んでのことなのか?」 霞月の問いにも、返ってくるのは沈黙ばかり。 青年は無言と無表情を貫いたまま、ゆらり、と身構えた。 その、鋭く磨かれた爪に銀が塗ってあるのを認め、霞月は眼差しを厳しくする。 水の都に生を受けた霞月は、他の都出身の夜人たちのように流水を苦手としない。太陽光も多少まぶしく感じるが平気だ。 しかし、銀には弱い。 あれで斬りつけられ、貫かれて体内に銀を注入されたら、少なくとも数日は身動きが出来なくなるだろう。 霞月が斃されれば、霞月以上に黒冬を護れるものはここにはいない。 細心の注意を払わなくては、と胸中につぶやいたところで、 「……参る」 感情の感じ取れない声で告げると同時に青年が動いた。 「紫雲霞月、お相手しよう」 一息の踏み込みに身体をずらして対応し、揮われる手をわずかに仰け反ることでかわす。いったいどんな研ぎ方をしているのか、風圧にたわんだ前髪が数本、青年の爪に切り飛ばされて宙を舞った。 身体能力は青年のほうが上。 「あなたに恨みはないが……邪魔立てするのならば、お命頂戴する」 「すまないが、先約が入っているので他所を当たってくれ」 飄々と返し、身体をわずかによじって突き込まれた銀の爪をかわす。同時に青年の脚を払い、彼がそれを避けようと後方へ下がる隙に自分もまた後ろへ跳び、距離を取った。 技巧と経験は、霞月のほうが上。 攻めるもののがむしゃらさ、護るものの不自由さを加味すれば、青年のほうがわずかに上手……だろうか。 だが、それでも霞月は冷静なままだ。 (夜が明ければ往来に人通りが戻る。警邏のものたちも通るだろう。彼も、彼の使役者も、ことをおおごとにして荒立てるわけには行くまい。――ということは、夜が明けるまでが勝負) 青年はここを突破し、黒冬を殺さなければ仕事は果たせないが、霞月は夜明けまで彼を通さなければ任務完了となる。わずかな実力差はあれど、状況から考えれば、霞月のほうがいくらか有利といえるかもしれない。 無論、油断などは出来そうもないが。 「何、夜明けまではほんの数時間だ。――精々、有意義なひと時にしようじゃないか」 霞月は深い呼吸とともに微笑し、流れるような手つきで刀を抜く。 前方では、青年が静かで虚ろな殺意を発しつつ、無表情に霞月を見つめていた。 * * * * * 射し込んできた夜明けの陽が目を射たのは、そこから五時間が経過してからだった。 強い熱をまとった太陽が、金色の光を伴って昇ってくる。 光が、世界を、屋敷を、そしてふたりを染め上げる。 「……朝、か」 時に刃を交え、時にひたすら互いの隙を狙って見つめ合い、間合いと距離を測りつつどこか他愛ない言葉を投げかけた五時間だった。 朝日の落ちる廊下を見下ろし、青年が銀の光る手に黒い手袋をはめる。 「もう、しまいか?」 霞月も刀を仕舞いつつ、確認のように問うた。 小さな頷きが返る。 「朝までに殺せなければ戻れと言われている」 「誰に?」 「……」 当然のことながら青年は黙り、それから、ふと、ごくごくわずかな笑みを、唇の端に浮かべた。 「……?」 それはとても無邪気で穏やかで、ここでそんな笑みをみせる理由が判らず、霞月は首を傾げたが、青年はどこか楽しげに――そんな感情の発露を見たのも、初めてのことだった――、 「あなたと戦って、判ったことがある」 「何が、だ?」 「――楽しい、とは、こういうことなのだと」 「楽しい? 戦いが?」 「あなたと、戦ったのが」 やはり無邪気に、頑是無くすらある様子でそう言って、踵を返した。 「感情、というのは、これのことか……初めて、知った」 無垢な、純粋な驚きをかすかに滲ませ、つぶやくと、青年はまたかすかな笑みとともに霞月を見つめる。 「あなたとは、また会えるような気がする」 「……ああ、私もそう思う。君の名は?」 霞月の問いに、青年は首をかしげ、 「次までには、考えておこう」 それだけ言って、姿を消した。 「……」 索敵魔法が、青年の退去と、気配の消失を伝えてくるのを脳裏に受け取りつつ、霞月は青年の表情や仕草に覚えた引っかかりについて考えていた。 「なんとも、妙な……?」 青年に対する敵意は薄い。 青年からは、北の果てに聳える神峰の、その頂上に降り積もるという初雪のような無垢さを感じる。 要は、からっぽであり真っ白なのだ、彼から感じるのは。 それゆえの違和感なのだろう。 (その彼を影で操り、戦争を深みに陥れんと画策するのは、誰だ?) 速やかな和平のためには、その調査も必要かもしれない。 そんなことを思うが、ともあれ、任務は完了だ。 霞月は、黒冬への報告をすべく、鍵魔法の解除に取り掛かる。 「黒冬殿には、気張ってもらわねばな」 彼なら必ずややり遂げるだろうという確信を込めてつぶやき、解除を告げると同時に扉が開く。その向こう側に笑みを浮かべた黒冬の姿が見えた。 霞月もまた笑みを浮かべ、頷いてみせる。 ――それは、千年も昔の出来事。 書画魔術師・紫雲 霞月と、後に天人のまとめ役たる五行長のひとり、木行天人の長となる青燐(セイリン)が出会った、最初の物語である。
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