「どうなさいましたか?」 あなたは店の中にいた、しかしどうやってここまで来たのかは覚えていない。 直前の記憶を引き出すもどこを歩いていたのか、どこかに居たかさえも曖昧で、夢から目を覚ましたかのように、或いは夢の世界に来たのかと錯覚する程にぼやけながらもはっきりとした思考で立ちつくしている。「もし興味があればこちらに座っては如何でしょうか?幾分か体は楽になるかと思いますよ」 声は店の奥から聞こえる。僅かに目をこらせばランプの光の奥に、焦げ茶色のカウンターの奥に人影が見えた。その手前にはランプの光でぼんやりと輝く鼈甲色の椅子が見える。 あなたはふと振り返る。19世紀を模した0世界では一般的な硝子扉、半開きになっている扉の裏側から華美に見えない程度の飾り文字で『忘れ屋』が見えた。改めて周囲を見渡せば,そこには大量の硝子細工が左右戸棚飾り棚にと所狭しに置かれていた。 扉を開けば簡単に外へ出られたが、あなたは店の奥へと進む。 薄暗く、蛍光灯よりも弱く儚いランプの灯りが硝子細工に反射して、各々が光を反射させる。ある光はスポットライトのような丸く無機質な緑、またある光はシャンデリアのように小さく多々と煌めく虹、あるいは鬼火にも似た橙から石榴へと広がる赤光などが合わさって、朧夜の中星空か街の夜景を遠い場所から見ている気分になる。かといって虫の音や喧噪は無く、僅かに甘いカモミールティーの香りが音の代わりに店内を漂っていた。「ようこそ『忘れ屋』へ、私はこの店を預かるアーティナと申します」 奥には1人の女性が座っていた。声音は少し低め、深海にも似た海色のドレスを纏い、手足も顔も同色のレースに覆われているため髪の毛1本も見えず、立ち上がった体の線だけ見れば成熟期に入った未だ若い女性にも見える。「この『忘れ屋』という店はお客様の記憶を分離する……つまり記憶をお客様の身体から別けて『なくす』お店でございます」 手袋からでも伺える長い指があなたへ、こちらをと新たに温め直されたカモミールティーとバターの香る焼菓子を置く。「『なくす』と言いましても記憶の存在自体が無くなる訳ではありません。別けた記憶はこちらで硝子細工に変えまして、もし戻したいと思えばその細工を割れば記憶は全て戻ります」 改めて壁の硝子細工を見渡せば、宝石のように複雑なカットが施された人物像から鉱物のように無骨に切り取った風景彫りなど、多種多様の人間が思い思いに創ったかのように数多の細工が並んでいた。「この店の硝子細工は全て、訪れたお客様方が置いて往かれた記憶です。触っても構いませんが決して割らないで下さい、他人が壊すとその壊した方にも記憶が焼き付いてしまいますから」 そう言いながらあなたへ目線を合わせるようにアーティナも席へと座る。「さて……こちらに来られたという事は、お客様は何か忘れたい記憶が有るのでしょうか?いえ、無くても構いません。時折忘れたくなくとも来てしまうお客様はいらっしゃいますので。ですが多くの方は一時、できれば一生忘れたい記憶を忘れるためにこちらへ訪れることが多いものですから」 カモミールとは違う、洋装には珍しい印度や中東を髣髴とさせる刺激的ながら清涼感の在る香りが女主人から漂う。「先に言った通り、この店はお客様の記憶を身体からなくすお店でございます。別ければ細工を割るまで記憶が戻ることは無く、欠けた記憶によってはその方の性格に大きな変調をきたすかもしれません。場合によっては加工を断ることもありますが、お客様の方でも不都合があれば途中でも断って下さって構いません」 あなたはこの話をどう感じたのだろうか。そんな事ができるのか?何かのきっかけで思い出さないのか?本当に途中で止められるのか?などその人なりの疑念や感想はあるのだろう。「ですがもし、本当に忘れたい、誰かに知られたくない記憶が有るのでしたらどうか私に語っては頂けませんか?ここは記憶を司る店であり、その記憶を預かるために『忘れ屋』は在りますから」 しかし正面に座る女主人には表情は見えなくとも嘘を言っているようには見えない。 そしてここが壱番世界の常識の及ばない超常が存在する0世界だからこそ、それは嘘でないとあなたは感じる。 さて、あなたは記憶を消せるとしたら何を語るのだろうか? 少なくともこの世界、この店はあなたの記憶を別ける為に今は存在している
―――この店は記憶を扱うお店でございます。記憶というのは日々の暮らしの中で蓄積し、人が生きて往く限り得るものです。 時にはその記憶を思い出し、引き出すことで今を癒したり未来への手助けとなる事もありますが、時には今を脅かしたり未来の妨げとなる記憶も些か存在します。 そんな記憶を扱うようになってもう半世紀を超えましたが、今回のお客様はその中でも稀有な、初めて見る状態でいらっしゃいました。 扉を開く音がかき消される程に騒がしい『言葉』に、思わず言葉を詰まらせてしまいました。 あぁ言葉というのは私がお客様から記憶を別ける時に使う特殊能力から由来します。こちらは私の意思とは無関係かつ、お客様の居た世界の言語で聞こえる為理解することはできませんが、もし勝手に人の心を覗いたのかと憤慨されるのでしたらここで非礼を詫びさせていただきます。 『………忘れ屋?』 その『言葉』のせいで第一印象は『記憶に殺される』が相応しかったと思います。 本来なら重さなど無いのに有るかと錯覚する程に色濃くはっきりとした『言葉』の塊と、その塊をまるで長い時間背負って来たかのような這う這うの体でお客様は参られました。 『くっくっくっ……運命とは何とも可笑しなものね。この私が、プライドを捨てて貴女にお願いをするわ。どうか……私を助けて頂戴』 『大丈夫でございますか!?』 そのままお客様は玄関に崩れ落ちまして、慌てて挨拶も忘れて駆け寄りました。が、そこで初めて店の逆光ではなくお客様が自身の体が透けて居ることに驚きました。そしてその触れた感触も、鎧の金属部がまるで真綿を触れるようにあやふやだったのは布先からでも覚えております。 『もう時間が無いわ……。一度しか言わない……いえ、言えないから、良く聞くのよ』 運ぶ中、語る度にお客様の体が軽く解けます。そして解けるお客様の体に対して塊は色濃くなりました。 『思い出したのよ……。私の存在意義、存在理由……、そして、この0世界に私が呼ばれた本当の意味を。そう……私の名前は最後の魔女。全てが最後を迎える時に、私はそこに現れる。私は知っている、チャイ・ブレの意思を……真の目的を。それは……』 『お客様!』 言葉を紡ぐ度に思い出す記憶に反してでしょう。まるで言葉の砂時計のように、お客様の言葉が流れる度に言葉から変換したお客様の存在が塊に移って往く中、座らせる手前でお客様がお客様が膝を付いた時、思わず足が消えてしまったのかと慌ててしまいました。 『構わないわ、それより私は頼んだはずよ』 しかしお客様は私を制しました。幸い消えていなかった脚で一歩一歩をしっかりと踏んで椅子まで行きまして、ご自身で座られました。 『早く、急いで私のこの記憶を別けて!さもないと……私と共にこの世界は消滅してしまう!』 椅子の細工が見えるまでに、本当に消えて無くなりそうな中威厳にも似た凛とした姿勢を崩さず、改めてお客様は私に依頼を注文しました。 本来なら幾つか確認を頂いて、別ける記憶を選別してから行うところですが、その緊急性とお客様の姿勢から判断して、説明もそこそこにお客様の記憶を結晶化させていただいた次第です。 「これで私の話は以上になります」 「……それで、これが私の記憶の結晶なのかしら?」 最後の魔女の指さす先にあるのは1つ硝子細工。先程まで語っていたアーティナの話を信じるならそれは最後の魔女を消滅に至らせようとした記憶で出来た物だ。しかし現在透けることなく五体満足の彼女にはいまいち思い当たる節も無ければ、どうやってここまで来たのかさえ思い出せない。 「だから私はここにいると?」 実に半日以上の記憶が、消した記憶共々彼女から抜けてしまったからだ。 「別ける必要のなかった記憶まで消した事については私の非ですのでその点は本当に申し訳ございません。ですがお客様の、直接的に命を脅かす記憶を一刻も早く取り除くための私なりの最善の処置だと信じております」 「ふん…………」 最後の魔女は聴いていない。半分以上は聞き流して殆どの興味をカウンター上の細工に向けている。 それは天へと咆哮をあげる竜の硝子細工。高さ20cmを超えるかなりの大型で、モリオンにも似た透過しない光沢はガラスと言うよりは水晶細工に近い。 荒く砕かれた台座とは対照的に、緻密に彫られながらも大きな光沢を放つ西洋竜の像は、最後の魔女が触れると手袋越しからもひやりとした感触を感じる。 しかし最後の魔女は、何故かは解らないが直ぐに手を離してそれ以上は触れなかった。 「では、最後に確認ですがこちらの硝子細工はいかがいたしましょう?もしお客様が望めば細工はこちらで置いてゆくことができます」 アーティナが問う。その時の出来事を思い出せない以上彼女の話を演技だと信じても構わなかったし、触れて恐怖にも近い嫌悪感を知ったからこそ、硝子細工をここに捨て置くこともできた。 「持ち帰るわ」 だが、彼女は持ち帰ることを宣言した。 「分かりました、それではこちらをお包みしますので少々お待ち下さい」 答えを受けてアーティナが店奥へと行く間、再び出されたカモミールティをくゆらせつつ、最後の魔女は何気なく店内を見回す。 周りを埋め尽くす硝子細工は、傍から見ればただのオブジェにも見える。磨かれた細工はちり一つ見えず、ランプの光を透かして色付く壁面は珍しくただ単純に不思議な光景を醸し出す。しかしもし先程の店主の話が本当ならば、それらは全て捨てられてきた記憶で、それも捨てたくなるほどの記憶なら………… 「お待たせしました、こちらが件の細工になります」 思った以上に早くアーティナが戻り、幸運にも最後の魔女は思考を中断する。 「そして何かありましたらまた店の方へお尋ね下さい、お待ちしております」 どこにでもありそうな籐籠に仕舞われた硝子細工を渡し、最後の魔女へと一礼を取る。 その様子を最後の魔女はさも当たり前のように受け取り、そして渡された硝子細工をキルト地の上から緩く撫でる。 「くっくっくっ……。この硝子細工が砕ける時、それはこの世界の終焉を意味する。今はまだその時では無い……。壊れぬよう、大事に大事に保管しておくわ」 触れる度に相変わらずそれは冷たく、撫でていると心がゾクリと泡立つ最後の魔女の硝子細工。その真偽が判らずとも、触れればそうかと憶いそうな細工を撫でながら店を後にした。 そして見届けた主人はまた席に座る。創った記憶がこの後どうなるかは知る由もない、ただその細工は客人の助けになれたかと思いを馳せながら、紅茶と共に次の客人をまた待ち始めた。 【END】
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