激しい雨の降る夜だった。 犠牲者の悲鳴が今夜もインヤンガイの陰鬱な町並みに響き渡る。街中を流れる、よどんだ川にかかる橋の上で、犠牲者は命を奪われた。 殺人鬼は、犠牲者のアクセサリーを奪い髪の毛を切り取る。戦利品のように持ち帰るつもりだ。 そしてすばやく闇に紛れる。今夜のような雨の日を選んで殺人を犯すので、殺人鬼を人々は「レインメーカー」と呼んで恐れた。 雨の日を選ぶのは、好都合だからだ。雨が、殺人鬼がいつも着ているレインコートについた返り血を洗い流してくれる。殺人鬼はいつものようにコートを脱いで家に帰り、平凡な市民の仮面をかぶればよかった。 だが、今夜はいつもの夜とは違った。 根気強く証拠を集め、殺人鬼の正体をつきとめ、その足取りを追っていた女探偵がいたのだ。 探偵の名は、アラハナ・シャーン。若い女性の身ながら、時には囮捜査も辞さない捨て身で事件を解決し、そこそこの信頼を得るまでになっている。「そこまでだ、ニコラス。刃物を捨てて手を上げろ」 凛とした声に、殺人鬼が目を上げると、愛用の武器である小型ボウガンを手に、探偵が立ちはだかっていた。「信じたくはなかった。お前が殺人鬼だなんて」 探偵の哀しい告発の声を、殺人鬼は凄惨な笑みを浮かべて受け流した。「だろ? 僕も君に捕まるなんてやだな。お互いにとって最良の方法がある。僕を見逃してくれないかな。他に捕まえるべき殺人鬼なんて、何人もいるだろ?」「そんなことが出来るものか。あたしは探偵だ」 アラハナは目に力をこめ、殺人鬼の目を見返した。「捕らえるなら捕らえてみればいい。でも僕がいなくなれば、さぞかし多くの人が困るだろうな。僕が奪う命の数と、僕が救った命の数を比べてみたらどう?」 殺人鬼は笑みを浮かべて言う。今しがた犠牲者を屠った大型ナイフに残る血を、雨が洗い流していく。 瞬間、女探偵の心が揺れた。ボウガンにかけた指の力がわずかに緩む。 殺人鬼はその一瞬を逃さず、ナイフを女探偵に向かって投げつけた。 アラハナはかわした。だが、雨に足をとられてすべり、地面に手をついた。 そこへ殺人鬼が襲い掛かる。アラハナの髪をつかんでのけぞらせ、喉を上向かせる。ナイフを拾い上げた殺人鬼は、ゆっくりと楽しむように、ナイフの刃先をアラハナの喉に近づけていった。「本当は殺したくないんだけどな、アラハナ。もう一度考えてみなよ。僕たちが友達同士でいたほうが、多くの人たちがーー」「黙れ、人殺し!」アラハナはあくまで気丈に殺人鬼を睨み返した。 同時にアラハナは、身をかがめると殺人鬼のひざ下を蹴り上げた。「くっ!」 殺人鬼が苦痛の声をあげて飛びのく。だが、ナイフははずみでアラハナの肩あたりを切り裂いていた。血が流れ、意識が遠のく。体勢を立て直した殺人鬼が、アラハナに再び襲い掛かろうと手を伸ばす。 女探偵は、身を翻した。 そしてーーー橋の上から身を投げた。 殺人鬼の手にかかるよりも、万が一にも助かる可能性ありと踏んでのことだろう。川の水は雨で増量し、黒い逆巻く流れとなって、瞬く間にアラハナの姿を飲み込んでしまった。「相変わらず思い切りがいいね、アラハナ」 殺人鬼は、ゆがんだ笑みを浮かべ、友を褒めた。 ◆「気がつきましたか?」 目を開けると、白衣の女性が心配そうな表情で覗き込んでいる。服装から見るに、看護士だろう。「ここは……どこだ?」 痛む頭を押さえながら、アラハナは聞いた。「あらやだ、アラハナさん。『チョウ医院』じゃないですか。この前怪我で入院されたときから、カーテンが変わったぐらいで何もーー」 看護士は、アラハナの表情を見て、「まさかあなた、記憶が……?」 看護士は次々に質問を発した。自分の名は言えるか? 生年月日は? 住んでいる場所は? その結果、わかったのは、アラハナが自分の素性すらも記憶を失っているということだった。「頭を打った衝撃のせいでしょうね。大丈夫よ、ここの先生は優秀な医師だから、きっと貴方の記憶を取り戻してくださるわ」「先……生?」「ええ。先生とアラハナさんとは幼馴染で、何度も助け合ってきた仲ですものね」 すぐに先生を呼んでくるわ、といったん看護婦が奥へ引っ込み、すぐに背の高い青年を伴って戻ってきた。 眉の濃い、少年の面影さえ残るまだ若い青年は、医師であるらしく、白衣をまとっていた。「記憶喪失だって? じゃあ、僕のことも覚えていないのかな、アラハナ?」 青年医師は、アラハナの瞳を覗き込む。「僕はニコラス・チョウ。君の幼馴染で親友だよ。何度も君の治療も担当してる」 アラハナは戸惑い顔でニコラスの言葉を聴いているのみ。「参ったな。ほんとに覚えてないんだ……」 青年医師の童顔が哀しげに歪められた。「先生、きっとアラハナさんはあの夜、殺人鬼を追いかけていたんですよ。それでこんな目にあったのね、かわいそうに」 看護婦が言った。「殺人鬼?」 ニコラスの表情が厳しくなった。「ええ、ここへ運び込まれる前の日の夕方、アラハナさんはここへ先生を訪ねてこられたんですよ。 先生は留守ですよって申し上げたら、すごく落胆して、血相変えてここを飛び出して行ったんです。きっと、死を覚悟して殺人鬼と対決したんでしょうねえ。もしかしたら今生の別れになるかもしれないって、先生を訪ねてらしたんだわ」 人のよさそうな中年の看護婦は、涙を浮かべてアラハナの運命を嘆いた。 アラハナの肩がはざっくりと切り裂かれていたのも殺人鬼の手によるものだろうと看護婦は言った。「彼女、殺人鬼の手がかりや特徴なんかは何か言っていた?」 ニコラス・チョウは首をかしげて看護婦に聞いた。「いいえ、何にも。ただこのところ、『レインメーカー』のことをすごく気に掛けていらしたし……」 看護婦が涙ぐみ、言葉を切る。アラハナが呟くように、確認するように言った。「あたしは探偵で、殺人鬼を追ってたのか……」 ニコラスがアラハナの、怪我のない方の肩に優しく手を置いた。「今は、難しいことは考えないほうがいい。治療に専念しようね、アラハナ」「……そうだな。よろしく頼む」 どこか不安げに、アラハナはうなずく。 青年医師の笑顔。 何かが引っかかる。 医師がドアを開き、看護婦とともに病室から出てゆく。「ゆっくりお休み、アラハナ」 ニコラスが言った。優しい、優しい声で。◆ 世界図書館の司書は、緊迫した面持ちで告げた。「インヤンガイで、殺人鬼……通称『レインメーカー』を調査中の女探偵が事故に遭い、記憶を失った模様です。集めていたはずの証拠や記録は、女探偵が自分の判断ですぐには見つからないところに保管してあるようです。 なので殺人鬼の正体はいまだ分からずじまい、入院中の女探偵に危険が迫る可能性もあります。一刻も早く彼女が記憶を取り戻すように働きかけつつ、殺人鬼の調査を引き継いで下さい」
●深淵 今日はどんよりとした曇り空。 窓の外を見つめるアラハナは、ノックの音に振り返る。 「世界図書館から派遣された『旅行者』の方が来られましたよ」 ドアの隙間から顔を出した看護婦が告げる。 正直なところ、アラハナは藁にもすがる気持ちだった。何か思い出そうとしても、頭に霧がかかったようで、何もつかめない状態だった。 背の高い男性二人と、女性が二人。あと一人は、獣人であるらしい、子犬に酷似した少年が案内されて入ってきた。 女性のうち、銀髪の方が手を差し伸べた。 「初めまして、アラハナ…レインメーカーからキミの護衛をすることになった、ディーナって言うの。宜しく」 「よ、よろしく」 握手すると、華奢に見えるディーナ・ティモネンの力は思いのほか強かった。もう一人の女性はコレット・ネロと名乗った。 男性のうち一人は、医師であるらしかった。ルゼ・ハーベルソンと名乗るその男性は、アラハナにてきぱきといくつかの質問をした。日常動作に不自由はないか、意識障害はあるか、等。 「脳に損傷はなし。どうやら心因性の要素が強いかな。人の心は、自己防衛のために自ら記憶を消すことがあるんだ。君ももしかしたら、耐え難い辛い記憶を自ら封じたのかもしれないね。ま、気長に手がかりを探っていこう」 ルゼの言葉に、アラハナがうなずいた。 「俺も一人の医者として、健忘症の症例にはとても興味があるよ。軽いものなら治療の経験もあるんだ。願わくば、その知識が君の手助けにもなればいいのだけどね」 「ニコラス先生が体の怪我を、ルゼ先生が心の傷を治してくださるなら、安心ですわ。あとは殺人鬼が捕まれば」 看護婦が、うれしそうに口を挟んだ。 と、もうひとりの男性、アインスが発言した。 「ふっ、殺人鬼の特定など、この私にかかればたちどころに解決するさ」 不敵な笑みともに、アインスは一歩踏み出す。 「まずは犯人がアクセサリーや髪を持ち帰っている所に着目する」 目の付け所はまっとうだ。一同がうなずく。 「何人もの人間を殺している点から見て、犯人は男だろう」へ? と小首をかしげる一同。 「なぜ、犯人はそんな物を持ち帰っているのか? 決まっている、それはもちろん女装をするためだ! そして、古今東西医者は変態と相場が決まっている」 ずるっとこける一同。 そのときちょうど、仕事の合間を抜けてきたらしいニコラスが飛び込んできた。 「遅れてすまないね。アラハナのカルテをここにーーー」 「つまり犯人はニコラス、君だっ!」びしっとアインスが指を突きつける。 「なんなんですかいきなり?」 ニコラス医師はきょろきょろ一同を見回し、看護婦の耳打ちで自分が殺人鬼と決め付けられたことを知ると、 「変ないいがかりをつけると、注射しますよ」 憤然と言い返した。 「……ハハ、冗談冗談。さて、早速捜査を開始するとするか」アインスはごまかす。 「本気で注射してやりたくなる冗談ですね。延髄あたりにぶっすりと」 ニコラスは、ふと時計を見上げると、 「これから手術なので、失礼します。アラハナのこと、よろしくお願いします、皆さん」 ニコラスは、にこりと笑顔を投げかけると、白衣を翻して去っていった。ココが「わあ、病院ってほんとに廊下まで薬のにおいがするんだ」無邪気な声をあげながら、さりげなくニコラスの動きを追っていく。 アインスは看護婦を捕まえてなにやら話し込んでおり、ディーナ・コレット・ルゼ・アラハナが部屋に残される。 アラハナがため息をついた。 「あたしは役立たずな探偵だな。殺人鬼を捕まえることもできずに、自分が怪我をして記憶までなくすなんて」 「でも少なくとも、キミは見過ごしにはしなかった。戦ったんだ、勝てなくても。キミ自身が手がかりさ」 ディーナがきっぱりといった。 「あたし自身が・・手がかり?」 「そう。まず、キミの肩の傷が見たいかな…悪いけど、見せて」 アラハナは少し警戒しているようだった。ディーナが真っ黒なサングラスをかけたままであることがどうにも気になるらしい。 「いいけど、なぜ、サングラスをかけているの? こんな薄暗い場所なのに」 「ああ、これね」 ディーナはちらりとサングラスを下げてすみれ色の瞳を見せたが、ひどくまぶしそうにすぐその目を閉じ、急いでサングラスをかけなおした。 「こんなふうになっちゃうから、サングラスを嵌めていないと結構目が痛くって、護衛として役に立てないんだ」 「そうか。‥‥ごめん」アラハナは謝り、ディーナは苦笑いを浮かべた。 「いいよ。今、キミの目の色が黒じゃなくてとび色だってことがわかったし。けど面倒だよね。世界に、拒絶されてるなぁって感じちゃう」 「わかるよ、異世界から来た不便さってやつ。俺も、波に揺られていない生活にはなかなか慣れなくってね」 ルゼが肩をすくめた。彼の出身世界はほとんど海で構成されたものであったという。 異邦人の孤独というキーワードは、記憶を失って帰属するべき場所を見失ったアラハナにどこか通じるものがあったのだろうか、警戒心を解いたようで、肩の傷をさらけ出した。 失礼、と断ってルゼが覗き込む。 「刺創から見て、刃先は斜め下向き。この、右手のひらの傷が防衛創とすると、アラハナを見下ろす角度でこう刃物を振り下ろしたんじゃないかな」 ルゼが実演してみせる。 「至近距離でしかも正面から、鋭利な刃物でざっくり、か。キミの得物はボウガンらしいよ? それなのに、そんな近くまで犯人の接近を許した…なんでだと思う?」 「あたしは‥‥かなり油断してた?」アラハナは少し考えて、答えた。 「そうだね。つまりは傷つけられると思っていなかった人間から傷つけられたってことさ。…だから私は、犯人がキミの知り合いじゃないかと思ってる。被害者を庇うのでなく、キミが相手の接近を許すほど動揺する理由、それくらいかなって」 ディーナが言ったのは、ある意味アラハナへの警告だった。アラハナはボウガンを愛用の武器として使っており、犯人を見つけたら遠くから手や足を傷つけて動きを止め、捕縛するという手法をとっていたらしい。だが、ボウガンを使うことなく犯人に接近し、みすみす怪我を負ったーーーしかも正面から刃物を向けられてーーーならば、相手が犯人と予測していなかったか。たとえば親しい人間が犯人であったとか。 ディーナは続けた。 「それから、肩の傷‥‥犯人の利き手はおそらく右だってこと。まぁ大抵の人間がそうだけど‥‥利き手がそっちの人間と両手利きの人間、全て犯人候補って思った方がいい。私も入っちゃうけどね?」 最後の一言を、ブラックジョークめかしてディーナは言ったが、 「あなたは殺人鬼にはならないタイプだ。あたしにはわかる」 アラハナは言った。 「そうかな? ナイフを持ち歩いてるから、ある意味危険人物なんだけどね」 「違うな。人殺しをするような人間は、もっと自分を守りたがる。サングラスをかけないと目が痛むような世界にわざわざ人助けに来たりしない。人が人を殺す理由の大半は、自分を守るためだ、その理由の正当性が本人にしかわからない場合もあるけれど、って、どこかで‥‥?」 記憶の切れ端がよみがえりかけたのか。アラハナは言葉を切って困惑の表情を浮かべる。 「少し休もうか」ルゼがカルテに記入しながら、声をかけた。 ◆ 数時間後。 手術を終えたニコラスを、ココ・ロロが出迎えた。 「おつかれー♪ニコラスちゃん」 犬に似た丸っこい黒い鼻、ピンと立った両耳、くりくりとよく動く丸い目。ココ・ロロに微笑みかけられたたいていの人間はほほを緩ませるのだが、 「やあ。残念ながら、手術は失敗だったよ」 ニコラスは沈痛な面持ちで、血に染まった手術着を脱いだ。 「そうかぁ。・・でも、ニコラスちゃんが精一杯やってくれたんだもの、天国へ行った患者さんはきっと感謝してるよ」 ココは励まし、クッキーを差し出しながら、油断なくニコラスを観察していた。ニコラスは手に、透明なビンを持っているのだが、その中には臓器のようなものが入っているのだ。 「これ? 患者さんから切除した腫瘍さ」 研究のために、切除した腫瘍を保存して手元に置くのだという。だが、臓器を見つめるニコラスの目は、少年がコレクションしているミニカーを見つめるそれのようにきらきらしていて、暗い反省の色はないように見えた。 「おっきいね。血がたくさん出た?」ココが質問する。小首をかしげるしぐさや無邪気な口調で、人の懐に入りこむのはココにはお手の物だ。その裏側で、冷たく冴えた目と嗅覚と聴力で、人の醜い本心をつかむのも。 「うん、ドバッとね。これもでかいけど、この前の悪性腫瘍ほどじゃなかったな。見せたげようか?」 ニコラスの返答に、異様なものをココは感じた。その口調の明るさと無邪気さが、状況にそぐわないのだ。子供の無邪気さがそのまま、小動物をもてあそび殺す残酷さにもつながるように、不吉なものをはらんでいると・・それは、「無邪気で無防備な少年」を演じているココだからこその直感だったかもしれない。 「お疲れ様でした、ニコラスさん」 コレットが、湯気の立つティーカップを盆にのせて現れた。 「ありがとう」 受け取ったニコラスがにっこりと笑う。 「これ、洗濯しましょうか?」 血にそまった手術着を、コレットが手に取った。赤く染まった手術着はべったりと重い。 「悪いね。そこの手袋をはめるといいよ」ニコラスは恐縮するが、あくまでその表情は屈託がない。コレットがぽつりと言った。 「どうして人は人を殺したりするのかなあ・・ニコラスさんみたいに、誰かを救ったりする人もいれば、誰かを傷つける人もいる。同じ血を流すことなら、人を救うためにだけ血が流れるのならいいのに」 コレットは血だらけの手術着に目を落としたままで言った。 「うーん。神様になりたいからじゃないかな。生き生きと咲いてる花を見ると摘み取ってみたくなるよね。それが花を殺すことになるとわかっていても、花という一つの生命を自分の手中におさめて、生かすも殺すも自由にしたい、って‥‥なんてね」 まあ僕には殺人鬼の心理なんてよくわからないけどね。と、ニコラスは唐突に話を締めくくった。 「ごちそうさま。さ、標本室にいこうかな。ココ君、一緒に来るかい?」 「うん」 ニコラスはココを、手術で摘出した腫瘍や、先天性異常のため出産されなかった胎児といった標本が壁いっぱいに並んだ小さな標本室にいざなった。これはいつごろの手術で、どんな患者で、傷口がどんなだったか、ニコラスは語る。患者の生命が救えたか否かよりも、自分の執刀術と臓器のことばかりを。ココは、この人は闇を抱えている、と感じた。 (「ニコラスちゃんは裏の顔を持ってるんじゃないかな。血が流れるのを見るのが大好きで、残酷なもうひとつの顔」) それを見抜けるのは、自身が裏の顔を持つからこそだと思うと、自分を好きになれないココの胸も少し苦しくなる。が、故郷に似たインヤンガイの事件の結末が少しでも明るいものになるように、見届けようとココは思った。 ◆ ディーナがアラハナに手渡したのは、愛用の武器であったボウガン。アラハナが発見された川の河口付近で柵にっかかっていたのを通行人が見つけて届けてくれたのだ。ディーナが看護婦に頼み込み、それをアラハナの手元に返すようにしてもらったのだ。 「キミが殺人鬼と対決して怪我をしたのだとしたら、殺人鬼はまたキミを襲う可能性がある。キミ自身にも自衛手段が必要だよ」 アラハナは不思議そうな表情で受け取ったが、いざ手にすると、ボウガンの弦を引いて張り具合を確かめた。長年の習慣を体が覚えていたのか、手が別の生き物のように動いたとアラハナ自身が驚いた。 「記憶には二種類あってね。結晶記憶と流動記憶と呼ばれてる。長年積み重ねた経験や習慣は結晶のように意識の底に残っているものさ」 ルゼがアラハナのカルテに目を通しながら言った。 「‥‥何か、思い出したのかな?」 ディーナがたずねた。アラハナがボウガンを手にしたまま、涙を流していたのだ。アラハナは自らの感情の奔流に戸惑ったのか、ボウガンをサイドテーブルに置いた。 「わからない。これを構えると、なぜだか悲しい気持ちになって‥‥」 「それが、最後にボウガンを構えたとき、つまり殺人鬼と対決したときの記憶じゃないかな」 ルゼがカルテに何か記入しながら言った。 「だとすると、やはりキミはその人物と対決したくなかったのかもしれないね。その記憶を取り戻すのは、キミにとってとてもつらいことなんだろうね‥‥だけどアラハナ、だからこそなおさら、ボウガンを手放しちゃだめだ。キミはそれを手にしたとき、真実を追うって決めたはずだよ。キミ自身の苦しみを代償にね」 ディーナの言葉で、アラハナの、記憶を失って放心していた瞳に、小さな光がともった。意思の宿った強い光が。 「そうしなければ、殺人鬼に殺された人たちがうかばれないものな」 「そのために一人ぼっちになるとしても、ずっと救われる。一人ぼっちにならないために悪事を見過ごしにするよりも、ひとりぼっちでも、大切な何かを守るために生きるほうが、ずっと」 ディーナが独り言のように呟き、表情を引き締めて告げる。 「だから、躊躇うな。不審な行動を見掛けたら、知り合いであろうと、いや知り合いほど撃て」 「でも‥‥あたしは今、殺人鬼についての記憶がないんだ。もし誤解で誰か、無実の人を傷つけたら‥‥」 アラハナは記憶のない今の状況がよほど不安であるらしく、ためらいを隠しきれていない。 「大丈夫、ボウガンってほとんどの場合、相手を一撃死させられないから。‥‥っていうか、多分、それもあって、キミはこの武器を選んでいた気がするんだけどな」 遠慮がちなノックの音がした。 部屋に入ってきたのは、コレットだった。 「今までの、アラハナさんがここへ通院したときの記録と、そのとき追っていた事件の情報なの。少しでも、記憶を取り戻せるきっかけになるかと思って‥‥」 コレットはノートをアラハナの眼前に広げる。病院の関係者やニコラスから聞き取った、アラハナについての情報を書き込んだものだ。 アラハナは礼を述べて受け取り、食い入るようにノートを見つめた。 「けど、アラハナさんは、この病院でたくさんお世話になってるのね。たくさん怪我して、たくさんお医者さんにかかって・・・。探偵をやめたいって思ったこ と、なかったのかな? ・・・って、今のアラハナさんに聞いても分からないよわね。ごめんなさい」 「いつか記憶が戻ったら、答えてあげられるかもしれないけど」 アラハナがもっともな返答をしたとき、 またノックの音が響いた。 今度はニコラスがいつもの笑顔を童顔に浮かべて、入ってきた。続いて、ココ・ロロも。ココは情報を得るためにニコラスに張り付いているのだが、外見もあいまって、病院全体の癒し系ペットのようになっていて、患者や看護婦からも声をかけられる存在になっていた。 「やあ、アラハナ。具合はどうかな? 午後の薬を持ってきたよ」 「また、薬か‥‥どうしても全部飲まなきゃいけないか? 体がだるくなるんだけど」アラハナがうんざりといった声を上げた。 「痛み止めが多すぎるんじゃないかな? 彼女の傷は見たところ、浅いみたいだがね。彼女を襲った殺人鬼はかなり刃物を使い慣れているみたいだね。内臓や血管をできるだけ避けて切った痕みたいに見えるんだ。まるで手術痕みたいにね」 ルゼがゆっくりと述べると、ニコラスはじっとルゼを見つめ返した。まるで強敵を前にした猫のように。 ルゼはそのニコラスの視線にはかまわず、アラハナを外に連れ出して、レインメーカーの殺人現場である橋を実況見分に行ってはどうかと提案する。おそらくその橋からアラハナは転落し、記憶を失ったのであろうから。傷の回復もだが、殺人鬼の襲撃に備えるために、アラハナの記憶を取り戻すことが優先課題だと説いたのだが、 「外出? とんでもない。殺人鬼に狙われる可能性だってあるわけだし、医者である僕が彼女を守らなくては」ニコラスは頑として拒絶した。 ディーナが冷然と、その意見の欠点を指摘した。 「だから、何? 医者が殺人鬼から人を守れる? キミ、バカなんじゃない? 少なくとも医者の言うこととは思えないね。けが人や病人を回復させるのがキミの仕事じゃない? 殺人鬼が襲撃して暴れたりしたら、患者さんたちも巻きこまれるかもしれないんだよ? その意味で、ココはアラハナを守るには不便だからね。それとも‥‥キミ、アラハナを殺したいの?」 さらりと危険な挑発を含んだ言葉をディーナが投げると、ニコラスの顔に憎しみをあらわにした別人のような表情がよぎった。 「な、何をばかな‥‥ぼ、僕はアラハナの親友として、心配だから」 「親友なら、あたしに目的を果たさせてもらえないか。あたしは、記憶を取り戻したい。そして、殺人鬼を止めたい」 アラハナがきっぱりという。 二日間のリハビリの後に、アラハナを退院させてもいいとようやくニコラスが認めた。 「‥‥言っておくけど、まだ回復しきっていないその体で、何ができるかは疑問だね。その後も、通院はしてもらわなければならないし、処方したくすりはきちんと全部飲んでもらうよ。」 捨て台詞のようにはき捨てて、去っていく。 ついていきかけたココがそっと戻ってきて、ディーナたちにささやいた。 「大丈夫だよ、アラハナちゃん。アラハナちゃんの傷はそう深くないし、ニコラスちゃんが退院を引き止めるのは、親友だから心配しすぎるんじゃないかなって、看護婦さんたちがうわさしてたのを小耳に挟んだんだ。それにニコラスちゃんって、天気が悪いと機嫌が悪くなるみたいなんだよね」 ココは窓から空を見上げる。重い雲がたれこめて、明日あたりは雨かもしれなかった。 ◆ オンボロ病院に王子様という微妙な光景。アインスがいるのは、回復期にある患者たちのためのリハビリ室。退院に備えて、指の鍛錬を始めたアラハナを見守りっているのだ。いや、彼女を見守るのみならず、 「そこ、もっとしっかり歩かんか! 助け起こしてほしいだと? か弱いご婦人の手をわずらわせるな!」 歩行訓練をしている男の患者をビシバシ叱り飛ばしている。おかげで今日のリハビリプログラムはいつもの数倍早く進んだという。 真逆に看護婦やアラハナにはレディファーストを貫き、白衣の天使だと看護婦たちをいたわり持ち上げ、おかげで看護婦たちのアインス人気は絶大である。わがままな患者をSっぷりを発揮して叱り飛ばしたことで、その支持率は急上昇した。 「アインス様、ご指導ご鞭撻お疲れ様です。ハーブティーをどうぞ」 若い看護婦がお盆をささげもって来たりする。アインスは白い歯キラリな笑顔をむけ、アラハナに向き直った。 「傷は痛むか?」 「いや、大丈夫だ。ルゼさんも浅い傷だといってくれたし。‥‥このリハビリプログラムじゃ、物足りないぐらいだ」 アラハナは、指の曲げ伸ばし運動をしながら不満そうに言う。アインスは青い髪をかきあげて、 「ニコラスは、よほどキミを退院させたくないようだな」 「確かに親友だからと、心配しすぎな気もするな」アラハナは苦笑いを浮かべる。 「しかし、私は一つ疑問に思っている事がある。コレットの調べた事柄から見ても、キミはなかなか豪胆な探偵だったようだ。おとり捜査も辞さずに身を挺して事件を解決していた程のな。そんなキミが、殺人鬼の刃を受ける直前にここへ来たというのは、ニコラスに何か伝えたいことがあったのかもしれんな。これまでの経験からして、殺人鬼と渡り合う自信は十分にあったろうから、今生の別れをつげに来たのではないと私は思うのだ。キミが自分の死を予感していたなら、もっと違う形でメッセージを残しただろう」 アインスの言葉に、アラハナは眉をひそめて考え込む。 「アラハナ、レディのキミを追い詰めるような事は言いたくないが……ニコラスについて、何か思い浮かぶ事は無いか? 何でもいい、あれば教えてくれ」 「うん。‥‥とてもいい医師だと思う。。ただ、彼を見るたび妙なイメージが浮かぶんだ。言葉では説明しにくいんだが‥‥」 「目を閉じて、思い浮かべてみたまえ」 アラハナが目を閉じる。アラハナの描くイメージを、アインスはテレパシー能力で読み取った。激しく降る雨。子供の泣き声。走り去る車らしきライトの光。 (「捨てられた子供‥‥? しかも雨の中、置き去りにされたのか?」) アインスはその意味を統合しようと試みる。 「フッ、この私にかかれば解けない謎などない!」お約束のせりふとともに。 「あのー‥‥ハーブティーが盛大にこぼれているが」 遠慮がちにアラハナが指摘する。そのとき、ニコラスがリハビリ室に顔を出した。 「やあ。どうかな、アラハナ? リハビリは進んでいるかな」 「ああ、順調だ。それより医師としてどう思う、レインメーカーの手口では常に、小型の鋭い刃物を使うそうだな。メスのような」 ニコラスが一瞬、顔をひきつらせた。 その瞬間、アインスはテレパシー能力でニコラスの意識を「読んだ」。 (傘がない、傘がない、傘がない、傘がない)呪詛のように繰り返し呟く声。 もっと深く探ろうとしたアインスだったが、執刀した手術の記憶か、生々しく切り裂かれる皮膚と筋肉の映像を見てしまい、テレパシーを止めた。 当分、ステーキは食うまいと心に決めたアインスだった。 「さて、明日は退院か。なんだかほっとするような、不安なような‥‥記憶が早く戻るといいんだが」アラハナがリハビリを終えて呟く。 ざあっと、雨音が響いた。 「とうとう降ってきたね」 ニコラスにくっついて、患者たちとおしゃべりしていたココ・ロロが窓の外を指差した。 「『レインメーカー』が出ないといいな。ね、ニコラスちゃん」 ココの言葉に、ニコラスは珍しく答えなかった。何かほかのことを考えているような遠くを見る目で、ぼんやりと雨雲を見ていた。 ●雨鬼 退院を明日に控えたアラハナは、消灯時間よりも早めにベッドに入ったようだった。病室の明かりが消えるのが、窓の外から見てとれた。 『レインメーカー』は、いつものように研ぎ澄ませたメスを内ポケットに、病院の廊下をしのび歩いた。いつものレインコートを白衣のうえから羽織っている。誰かに深夜の徘徊を見咎められたら、さっとコートを脱いで、親友が心配で様子を見にきたといえばいいのだ。 殺したくはない。だけど、アラハナの記憶が戻ったら僕は終わりだ。殺したくない。同じく孤児で、同じく教会に引き取られ、兄弟のように育てられた。アラハナは、いつもいじめっ子から僕を守ってくれた、だけど‥‥ 殺人鬼は病室のドアをそっと開いた。あの、アラハナにつきっきりの「旅行者」たちもぐっすり眠っているようだ。看護婦が彼らに差し入れたお茶に、薬を混ぜ込んでおいてよかった。 ベッドの上で、静かな呼吸とともに、毛布が上下している。 殺人鬼はメスを構えた。 ばさりと毛布がめくりあがり、同時に明かりがぱっとついた。毛布のしたから現れた金色の髪が、電灯のまぶしい光を反射する。コレットだった。 「どうして、ニコラスさん? どうして人を殺すようになってしまったの? それは人を救うために使うメスではないの?」 コレットが切ない声で呼びかける。 「雨の日にしか殺さないんだから、いいじゃないか! 僕は毎日毎日、病気や怪我を治療してる! 僕が救った命だってたくさんあるんだから!」 駄々っ子のようにニコラスがわめく。 「正真正銘の馬鹿だね、キミは。命は数で量るものじゃない、ひとつひとつ違うんだから、代わりなんてないの。医者をやっててそんなこともわからなかった?」 カーテンの陰から現れたディーナが冷静な声で言い放つ。 クローゼットに隠れていたアラハナも、姿を現して、ニコラスを見据える。ゆっくりとディーナがニコラスにちかづいていく。 「僕は雨が降ると、血を見たくてたまらなくなるんだよっ!!」 ニコラスが叫び、瞳を泳がせて脱出口を探す。ドアが開く。宿直の看護婦が駆けつけたのだ。看護婦は驚き立ちすくむ。ニコラスは野獣のように彼女に駆け寄ると、抱え込んでのど元にメスを突きつけた。 「く‥‥来るな! 来たらこいつを殺す。武器を捨てろ!」 サバイバルナイフを手にしていたディーナは、あっさりとナイフを床に投げた。それを見て、アラハナもボウガンを床に捨てる。ニコラスは看護婦を抱えたまま、じりじりと後退する。 「やめろ、ニコラス! 人を救うのが生きがいだって言ってたじゃないか!」 アラハナが叫んだ。 この極限の状況で、アラハナの記憶が戻ったのだ。 患者たちを避難させていたアインスが駆けつけたが、看護婦を人質に取られたと知り、うかつには動けずにいる。 「手術すれば血が見られる。血が見られれば、どっちでもいいんだ。殺人でも手術でも」 狂気をおびた焦点の合わない瞳で、だがニコラスの手元は狂いなく看護婦の大動脈にぴたりと狙いを定めている。 「母上が迎えに来たぞ、ニコラス」 アインスがニコラスに言った。ニコラスの注意が窓の外にそれた一瞬。アラハナは、ニコラスの手に飛びついた。 「うそだっ! お母さんは僕を捨てたんだ、迎えになんか来ない!」 ニコラスはわめきながら、アラハナの手を振り放そうともがいた。 ニコラスが苦痛の声をあげた。 ココ・ロロが足に噛み付いたのだ。 「このっ! 邪魔するな!」 ニコラスがココにメスを振り下ろす。ココの耳が裂かれて、赤い血がぴゅっとしぶきをあげて、ニコラスのレインコートにはね飛んだ。 看護婦はメスの向きが変わった瞬間にニコラスの腕から逃げだし、アインスがコレットとともに彼女を背中にかばう。 ココが血を流しながらも歯を向いて唸る。だが、目に血が流れ込んでよく見えない。人質を失い、追い詰められたニコラスは、メスを電灯めがけて投げつけた。 がしゃん、と派手な音がして、電球が割れ、部屋はまた闇になる。 今なら逃げられる、と殺人鬼は思った。突然の暗闇の中で「旅行者」たちは立ち往生するに違いない。この病院の主である自分なら、目をつぶってでも出口までたどり着ける。 「闇に乗じて逃げる気か! 出口はルゼ・ハーベルソンが固めている! どうせ逃げられんぞ!」 アインスが叫ぶが、ならばルゼも道連れだとニコラスはほくそえむ。同業者は気に食わない。流れる血の美しさよりも患者の命を最優先させるなんて感性が鈍いとしか、ニコラスは思えなかった。 内ポケットにはまだメスが何本かあるから、たっぷり血を流させてやる。ドアがニコラスの手に触れた、その瞬間だった。 銀色の光芒が闇を裂くようにとび、「うっ」という、ニコラスのうめき声が聞こえた。 ディーナが、地面に落ちたサバイバルナイフを蹴り上げ、空中でつかんだ。そしてニコラスの利き腕めがけて投げつけたのだ。 「残念。ナイフは私のほうが使えたみたいね」 サングラスをはずしたディーナの瞳が、床にがっくりとひざをついたニコラスを見下ろす。ディーナの瞳には闇こそ最適。暗視能力により光のない闇でも、通常人の明かりの下のように物が見えるのだ。 ニコラスは闇の中で低く笑った。狂気と絶望のこもった声だった。内ポケットのメスを傷ついていない腕で取り出して、自らののどに当てる。 すっ、とメスを横に引く。血しぶきが頬にかかる。闇の中では、美しいに違いない自らの血の色を見られないのが残念だ。 「・・ゲーム、オーバー・・」 呟いて、息絶えた。 ●帰還 「ふっ、流石は私。天才的な推理は的を射ていたという訳か。しかし、彼はそれほど変態には見えなかったがな……」 ロストレイルの停車場に向かいながら、アインスは青い髪をかきあげる。どこが天才的な推理じゃと突っ込みたいところだが、ともかくも事件が解決した安心感と疲労感から、一同はスルーしている。 ルゼが吐息をついた。 「しかし医師が人を救う一方で、殺人を犯すなんてな」 ニコラスは雨の日に親に捨てられたトラウマから、雨が降るたびに絶望感に教われるようになった。そこから逃れるために医師の仕事に打ち込んだが、やがて血の色の美しさに取り付かれたことから、命を救うことも奪うこともできる自分、というゆがんだ万能感を抱くことで無力な捨て子だった自分を乗り越えたと信じ込むにいたった、というのが、アラハナの知るニコラスの生い立ちと、アインスのテレパシーで得た情報、そして全員の推理を摺り合わせて導き出した推論だった。殺人の折に持ち帰った被害者の髪やアクセサリーは、自身が万能であることの証。ニコラスの持っていた医学書や研究資料の中に、それは用心深く隠されていたのがのちに発見された。 「あなたの質問に、答えておくよ。探偵をやめようと思ったことはしょっちゅうさ。‥‥人間の本質に暗い闇があるって思い知らされるたびに‥‥今もそうなんだけどね」 探偵をやめたいと思ったことはないのかと尋ねたコレットに、アラハナは言った。 でも、探偵をやめるつもりはない、と言葉を続ける。 「つらいこともあるけど、いつか、このインヤンガイを、安心して暮らせる町に近づけていけるんじゃないかって思ってるんだ。無謀だけど」 自分に言い聞かせるように、アラハナが言葉を結んだ。 「無謀じゃないよ。いつか、絶対かなう」 ココ・ロロが妙に確信的な口調で言い切った。 「うむ、私も何なりと協力してやろうではないか。なに、どんな殺人事件も得意の推理で‥‥何ぃ? 『あのへっぽこ推理だけは勘弁』だと?」 うっかりテレパス能力でアラハナの困惑を読んでしまったアインスはトラベルギアに手をかけそうになったが、皆にまあまあと抑えられる。 「傷は痛まない?」 アラハナはココ・ロロの傷を気遣った。ココ・ロロの捨て身の攻撃で救い出された人質の看護婦は、何度もココに泣きながら礼を言い、できるだけの手当てをしてくれたのだが、まだココの耳から額にかけて、ぐるぐる巻かれた包帯が目立つ。 「大丈夫、看護婦さんにも伝えといて。これぐらい平気だよ」 痛みはさほど気にならなかった。ココにとって、人質が無事救い出されたことのほうが、自身の傷よりよほど重大だった。ココにとって、心の傷にとらわれたニコラスは哀れではあったが同情はできない。どんな理由があっても殺人は許せない。 犠牲になるのはいつも力弱きものだから。ココにとっての心残りは、ニコラスを信じきっていた看護婦が、その正体を目にしてしまい激しいショックを受けていたことだった。 だけど。人に救われる喜びを知ったなら、きっと、人を救うその仕事を続けていけるとココは信じていた。 「それから、ディーナ‥‥生意気かもしれないけど」 アラハナの声に、ロストレイルに乗り込みかけたディーナが振り返る。 「あなたの瞳が光に弱いのは、世界があなたを拒絶しているせいじゃないと思う。たいていの人は光のあたってる場所しか見ないから‥‥ふつうの人の目が届かない場所に救いの手を伸ばすのが、あなたの使命だから、じゃないかな」 ディーナのサングラスに覆われた白い顔が、ふっと微笑んだ。 「また会おうね、アラハナ」 ディーナが車窓から差し伸べた手を、アラハナはしっかりと握り返した。 ロストレイルの汽笛が、インヤンガイの曇り空に鳴り響いた。
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