風に殴られ、千切れた羽が吹き飛ぶ。いつもは空へと飛び立つ手助けをしてくれるはずの風が、身体を包む羽を奪い、翼を撃つ。眼を射る風に涙が滲む。金眼を出来る限りに細める。遠い眼下に、夜の暗い海。月光が崩れる藍の波にきらきらと白く光っている。 綺麗、と思い、 どうして頭が下なんだろう、と思い、 そうして、やっと気付いた。落ちている。 視界が不意に白霧に覆われ、同じように不意に晴れる。抜けた雲の欠片を一瞬纏う。雪崩寄せる風が流線型の身体に纏った雲の衣を奪う。 風が哂う。傍らで渦を巻く。渦巻きながら、頭も翼も尾羽も細い足も、身体の全てを殴る。 慌てて翼を広げようとして、痛みに啼いた。高い声が空に響き渡る。 風に抵抗しようとした白い翼には、幾本もの矢が突き刺さっている。溢れた血が紅い珠となって風に散る。 火の光が脳裏に蘇る。番えられた矢、飛び立とうとする翼に突き刺さる矢。耳を貫く喚声は、人間の声。殺せと哂う、人間たちの声。(どうして)(あなたたちを乗せて僕は飛ぶのに)(飛んだのに、どうして) 身体を苛む痛みとは違う痛みに、もう一度悲鳴を上げる。 風が巻く。身体に打ちつける風の強さに、落ちる体に、心臓が早鐘のように打つ。羽ばたけない。飛べさえすればどこまでも行けるのに、 ――月光を煌かせる海に、一条、光が走った。自然のものではない、火の光。夜闇に然程効かない眼を凝らせば、海にぽつりと浮かぶ小さな島が見えた。光は、その島に建つ塔から海原向けて発せられているらしい。 弓矢を射掛けてきた人間たちの持っていたのと同じ色の光。 あの下にも、人間が居る。 錐揉み状態で落ちる翼の先まで怒りが満ちた。風に撲たれるのを嫌って細めていた金色の眼を大きく開き、啼く。喚く嘴を裂くように、風がその凶暴な腕で掴みかかってくる。 このまま落ちれば、この身体はあの光のある島の地面に叩きつけられて粉微塵になる。もし僅かに軌道が逸れて海に落ちたとしても、それは同じだろう。 此処が何処か、 どうして落ちているのか、 そんなことはどうでも良い。(殺してやる) あの光の島に自分を殺そうとしたのと同じ種族が、人間が居ると言うのならば、これから死ぬ自分の道連れにしてやろう。 人間に対する怒りは容易に憎悪となった。心を占めた憎悪に、金色の眼がぎらぎらと光る。残酷な笑みが腹の底から湧き上がる。 一声、啼く。頭の飾り羽に傷付いた翼に、蒼白い雷光が生まれた。 風さえ撥ね退けて、凶暴な光が尾を引く。墜ちる。「灯台大破。島に唯一住んでいた灯台守一家死亡。落下したロストナンバー死亡」 『導きの書』から眼を背けるように、獣人の司書は目前の旅人たちを見仰ぐ。赤茶色の尻尾が力を失くし、床に付くほどに垂れ下がっている。「これは予言。確実に起きるけれど、確定の未来ではない。……未来を、どうか助けてください」 三角耳の間に皺を寄せた難しげな表情のまま、司書は息を吐き出した。一度眼を閉ざし、開く。「詳しい説明、します」 黒い眼が旅人たちを見据える。「ディアスポラ現象により、帰属世界より放逐されるロストナンバーは、現地で天女鳥と呼ばれる種類の鳥。雷を発生させる力持つ。白い。大きい」 あなたくらい、と見仰ぐ司書の視線の先には、大柄な人間の男。「翼を広げるともっと大きい。元の世界では人間を乗せて飛んでいた。けれど何らかの理由で殺されそうになった。その直後、覚醒、転移。転移する先がブルーインブルーの小島の上空」 落ちた、と感情を殺した声で告げる。「両翼が酷く傷付いている。飛べない。人間を憎悪。けれど、……多分、一時的。そう信じたい」 ブルーインブルーの地図を取り出し、地図上では芥子粒よりも小さな島を黒い爪で指し示す。落下地点は此処、と。「島の住人には何らかの襲撃があると。それから護るために遠い外国からの傭兵を派遣すると通知済み。島への到着は昼。落下開始は夜。月が水平線を離れる頃。落ちる子の泣き声が響く。それが始め」 地図の縮尺から見ても、歩いて巡れる小さな島であることは確かだ。小さな島ではあるものの、広大な海を照らす灯台があり、海路を行く者たちの重要な目印のひとつでもある。「どうか、助けてください」 ロストナンバーを、灯台島の住人を、海路を行く者たちを。彼ら全ての未来を。「お願いします」 地図を畳み、天女鳥用のパスホルダーとチケットを胸に抱いて、世界司書の獣人は深く頭を下げた。
潮風が砂浜に流れ込む。 遥かな海を渡るうち潮の匂いを帯びた風に、陽光色した髪を撫でられ、フィルシアは唇を微かに笑ませた。瞳を覆い隠す一つ目の仮面は、けれど視界を遮るものではない。視力の無い眼に代わり、仮面の眼を通して、彼女は眼前の海を『視て』いる。 旅人たちを灯台島まで送り届けてきた小さな帆船が、のんびりと遠去かって行く。海も空も、どこまでも穏やかだ。 この穏やかな光景が夜には一変すると、予言が為されている。 天高くより、雷を纏った白く大きな鳥が墜ちて来る。 島の真中に唯一建つ白い灯台は、その中の住人と共に黒く焼けて崩れ、砂浜から海に向けて延びる樹の桟橋は衝撃に打ち砕かれ、墜ちた鳥の身体は粉々に砕け―― (このままでは何も、誰も救われないから) フィルシアは華奢な身体に力を籠め、仮面の眼を蒼空へと上げる。 (助けてみせます……) 細波の絶えず寄せる白い桟橋が軋んだ。人の気配に振り返るフィルシアに、軽く手を上げて笑いかけるのは、ルゼ・ハーベルソン。一纏めに結わえた柔らかな茶色の髪が潮風にふわりと揺れる。 「挨拶、して来たよ」 人懐っこそうな茶色の眼が、陽光を受けて明るく透ける。 「危険があるかもしれないから、今晩は外に出ないように言って来た」 灯台守一家に小さい子どもが居てね、と笑む。 「思わず一緒に遊んでたら少し遅くなった」 「いえ、……ありがとうございます」 フィルシアは自身の眼でもある仮面に白い手を触れさせる。 「私、こんな目をしてるから、きっと怖がらせてしまう」 「そんなことはないよ」 どこか儚げにも見えるフィルシアの傍にひょいとしゃがみこみ、ルゼは桟橋の下を覗き込む。 「魚が居る」 「……え?」 「天女鳥くんを助けたら、魚釣りをしよう」 透明に、どこまでも蒼い水の中、舞うようにして魚が泳いでいる。きらきらと鱗が、波が陽光に光る。掌ほどの魚を追い、悪戯っ子のように楽しげに笑むルゼの眼が、 「海に加えて、怪我をした仲間……か」 ほんの少し寂しげに懐かしげに細められる。 「元いた世界を思い出すよ」 故郷の海を探すように、顎を上げ、空と海を分ける水平線を見遣る。 「天女鳥さんを助けたいです」 ルゼの視線を追うように、一つ目の仮面の顔を上げて、フィルシアは呟いた。 白くて、雷を纏って、何かに裏切られて、 (……私の知っている人に似てるから) 「大丈夫、きっと助けてあげよう」 海から天空へと眼を移し、ルゼは力強く言う。 「俺は戦うことは苦手だけど、治療は得意なんだ」 大人の男程の巨躯持つ犬が、濡れた岩場を歩く。しなやかな筋肉と漆黒の毛で包まれた身体は、ゆったりと歩くだけでも圧倒的な存在感を放つ。けれど、その足取りは軽い。爪と肉球でしっかりと岩を掴みながら、桟橋とは島の反対側に当たる、浅瀬を伝う。尖った耳を立て、注意深く周囲へと巡らせる。様々な道具の取り付けられた、鎖型の万能首輪がジャラリと鳴る。 島の真中に位置する灯台を見遣る。海風に乗って微かに聞こえる子どもの声は、灯台守一家の子のものか。 (空から堕ちていく鳥……) ふと足を止め、クラウスは理性に満ちた黒い瞳を青空へと向ける。眼と眼の間に斜めに走る傷が、眉間に寄る皺と共、僅かに歪んだ。 世界司書の言葉が蘇る。 ――人間を憎悪。 憎悪は枷となる。それをクラウスは知っている。本来は自由であるはずの心を縛る、黒く重たい枷。それはきっと、空を自由に飛べるはずの鳥の翼をも奪ってしまう。 (その枷から解放しなくては) 鳥が墜ちると予言された灯台島を巡り、島のどこに何があるのか根気良く調べながら、クラウスは今はまだこの世界のどこにも見えない天女鳥に心で呼びかける。 (待ってろよ、助け出してやる) 視界を防ぐ、大人の身長ほどの大岩に助走もなく後肢の力で飛び乗り、ぐるりを見回す。右に白い灯台、左に海。正面には小さな砂浜と、海へ延びる白い桟橋。桟橋の上、並んで立つのは今回の旅の仲間だ。仮面の少女がフィルシア、白い服の青年がルゼ。この島に来る船上で互いに名乗り合ってはいる。 鳥を助ける算段を確認しなくては、とクラウスは岩を蹴って砂浜に降りた。 姿も種族も違うけれど、ロストナンバーの鳥を助けたいと言う想いは皆同じだ。 夕凪の海が金色に染まり、やがて朱に染まる。緋色の海に金色の光の道を作り、太陽が沈んでいく。黄昏の海に空に、時折真っ直ぐ、灯台からの白い光が走る。 フィルシアは透明な紅の波が寄せる砂浜に身じろぎもせずに立ち、飽きず海を見詰めている。寄せては引く波に爪先が触れているように見え、濡れるぞ、と口を開きかけて、ルゼは眉を寄せた。 太陽の最後の光を全身に受けるフィルシアの足は、静かに寄せる波にも、砂にも触れていない。まるで風の精霊のように、その身を夕凪の風にふわふわと浮かばせている。 風を嫌いになってほしくない、と祈るように言っていたフィルシアの言葉を思い出す。風と一緒に飛べないのは悲しい、と。それは彼女が風を操るからか、彼女自身が風だからか。空を飛べると言うことは聞いているものの、実際に彼女の能力を見ていないルゼにはまだ分からない。 (抱えて飛んでもらえれば良かったんだけど) フィルシアもクラウスも、空へと持ち上げることが出来るのは自身の身体だけらしい。 (ま、出来ることをやるだけだ) 桟橋の先に腰を下ろしたまま、夕空を仰ぐ。夕陽に紛れ込むように、一番星が光を増して来ている。天空から降る鳥が雷を纏えば、あんな風に見えるだろうか、と小さく息を吐き出す。 砂浜から少し離れた、大きな岩の上で肢を揃えて伏せるクラウスを見遣る。 (皆、怪我は無いに越したことはないけれど) 脇に置いた、緊急治療用の道具を詰めた箱に片手で触れる。暗くなり始める周囲を照らそうと、灯台守から借りた角灯に火を入れる。 陽が沈んでしまえば、空に闇が満ちるまでの間は少ない。星が光を増し始め、灯台からの光の筋が眩しいほどに海を照らし出す。 『……月が昇り始めた』 距離を置いているはずのクラウスの声は、彼自身の能力のひとつであるテレパシーによって、ルゼにもフィルシアにも、すぐ近くに居るかのように届いてくる。 『そろそろだ』 星灯りの降る岩の上、クラウスが影のような身体を起こす。灯台の光が反射し、二つの眼が金色に光る。立ち上がり、油断無く空を見仰ぐ。 砂浜のフィルシアが金の髪を潮風に揺らして空を見上げる。心が急くのか、爪先は更に波打ち際を離れ、その身体は今にも空へと舞い上がって行きそうだ。 彼女自身を央にして緩く風が起っている。波が巻き上げられ、小さな水珠が風に踊る。舞う海の雫を、遠い水平線を離れた満月が白く輝く腕を伸ばし、掴む。海が月光に満ちる。 風と波の音を切り裂いて、鳥の鳴き声が夜空に響いた。 『きた!』 クラウスの声が示すのは、灯台の遥か上空。 ルゼとフィルシアの心に声を届けると同時、クラウスは岩を蹴る。地を駈けるかのように、夜空へと翔け上がる。 立ち上がるルゼの身体を、風が撲つ。突風によろめきながらもルゼが見たのは、その華奢な足を透明な風に変えて空へと舞い上がる、フィルシア。天女鳥に呼びかけるためだろう、上半身は少女の姿を保っている。 「頼む!」 ルゼは夜空へと駆け上がる二人に呼びかける。姿を追い、空を仰ぐ。空の一点、月光を浴びて白さを増す天女鳥が見えた。未だ、星よりも一回り大きく見えるほどの高さだ。 真直ぐに、墜ちて来る。 『そこの鳥、助け出してやる!』 声では届かない距離でも、クラウスのテレパシーならば届く。助けると強く伝える言葉は、想いは、傷付き墜ちる天女鳥に届くだろうか。 潮風の空を翔けるクラウスの隣に、身体の半ばを風と化したフィルシアが並ぶ。仮面の一つ目は、苛烈なまでの勢いで落下してくる白い鳥の姿を捉えている。風に撲たれ、白い羽が散る。矢で射抜かれた翼から血が珠となり舞う。 天女鳥が泣き叫ぶ。 クラウスが風の力を使い、天女鳥目掛けて昇る風を作り出す。その風の流れに乗り、フィルシアが更に疾く、空高く奔る。 天女鳥の元へと辿り着き、血と凶暴な風が巻くその身体を、ふわり、包むように自身の風で包み込む。傷付いた身体に周囲で暴れる風の影響をなるべく受けないように、少しでも負担が掛からないように。落下を止めるに至らないまでも、せめて速度が緩むように。 矢に射られ、白い羽に血を塗れさせた、惨い鳥の姿にフィルシアは悲しくなる。その眼に宿る光は、傷付けられたことに対する恐怖に占められている。 「ここに貴方を傷つける人はいないから……」 金の髪の少女の半身で、フィルシアはそっと呼びかける。 身を苛み自由を奪っていた風が緩んだことに気付き、天女鳥は金色の眼に少女の姿を映した。人間のようにも見えるその姿に、短く鋭い警戒の声を上げる。 「私、こんな目してるけど、怖がらないで」 怯える様子を見せる天女鳥に、名前を聞かせて、と静かに穏やかに、フィルシアは続ける。とにかく、落ち着いて欲しい。痛みが和らげば少しは落ち着くかもしれない。治療の出来るルゼの元まで、このまま風に乗せてそっと運ぶことが出来れば。 『お前に何があったのかわからないが、』 クラウスの操る風がフィルシアと天女鳥を更に包む。一層緩やかになる落下速度の中、怯える鳥に寄り添おうとクラウスが近付き、―― 突然、天女鳥が恐慌状態に陥った。矢を射られ、見知らぬ世界に放り出され、見たことのない生き物に囲まれ、その心は狂乱の極致。 傷付いた翼を羽ばたかせる。血が飛ぶ。 耳をつんざく鋭い声で、天女鳥は啼いた。破裂音に近く、空気が震える。風を弾き、フィルシアをクラウスを撥ね退け、天女鳥の身体を雷が包む。 「……ッ?!」 フィルシアは少女の姿を解き、全身全てを風と化して雷の衝撃から逃れる。 クラウスは咄嗟に万能首輪から長い鉄線を遠い地面に向けて撃ち出し、身体を殴る雷撃を逃そうとする。 『俺たちが助け出す!』 身体の細胞まで焼き尽くそうとする雷に耐えようと、裂帛の気合こめて、吠える。けれど。 「きゃいんっ!」 蒼白い雷焔が黒い身体を突き抜ける。凄まじい衝撃が尻尾の先までも打ち据える。クラウスの強靭な意識が一瞬途絶える。風を操り、自身を空へと駆けさせていた力の流れが切れる。 突き退けられるようにクラウスの身体が夜空へと放たれる。 再び天女鳥の傍へ風の身を寄せるフィルシアだけでは、その重みを充分には支え切れない。地へ引きずり込まれるように、落下速度が一気に増す。天女鳥を護ろうとするフィルシアの周囲で風が凶暴に哂う。 「クラウス! フィルシア!」 島から見守るルゼの、怒号にも似た声が哂う風を殴りつける。 天女鳥がぎくりと身体を固まらせるのを、風となったフィルシアは見た。怯え切った金色の眼が、自身の雷で傷付き、落ちていくクラウスを映す。 僅かな逡巡の後、どうしようもない後悔を含ませ、天女鳥は短く呻いた。 白翼に纏っていた蒼白い雷が光を失う。 「……優しい子。落ち着いて、ね?」 フィルシアは上半身を人の姿へと変え、どこまでも穏やかに話しかける。血に塗れた天女鳥をその白い腕で抱き締める。雷は解け、灯台と灯台守一家が死に至ることは、もう無い。ただ、このままの速度で落ちてしまえば、天女鳥の身体はもたない。 灯台の先端が、地面が迫る。 「大丈夫」 掠れた声でフィルシアは囁く。 「傷が治ったら一緒に飛びましょう」 クラウスは墜ちる。 短い黒毛に覆われた肢体のあちこちから黒煙と血が滲む。潮風が悪意を持ったかのように傷付いた身体に殴りかかる。 呻き、震える瞼をこじ開ける。そうして、 吼える。 クラウスを護る風が爆ぜるように生まれる。墜ちる身体が止まる。その傍を、風を巻き込んで天女鳥とフィルシアが掠め落ちていく。 『墜ちるな、鳥!』 天女鳥の白い翼を、フィルシアの金の髪を、クラウスの操る風が激しく巻き上げる。二人の落下速度が弱まる。それでも、止まらない。灯台の光が白い鳥を照らす。灯台の屋根を天女鳥の翼が掠める。羽根が幾つも散る。 フィルシアは天女鳥の柔らかな羽毛の頭をきつくきつく、抱き締める。 不意に、視界が白く染まった。身体が柔らかいものに受け止められる。どこまでも柔らかく落下の衝撃を受け止め、吸収し、大きくたわむ。 それは重なる羽毛にも似た、 「よし、間に合った」 ルゼの意のままに動き、尽きることのない白い包帯型トラベルギア。 繭のように天女鳥とフィルシアを包み込んだまま、白く柔らかな布の塊は地面へゆっくりと下りる。包帯の繭を追って、クラウスが空から駆け下りた。雷による火傷の痛みに息を切らしながらも、何でもないように、繭の傍に肢を揃えて座る。 「後でお前も治療しよう」 『ああ、頼む』 ゆるゆると包帯が解けていく。繭に閉じ込められていた風がふわりと流れ出る。 解ける包帯の向こう、フィルシアが座っている。風であった身体を人間の姿に変え、包帯越しの地面に倒れ伏す天女鳥の首を抱いたまま、優しく微笑む。 小さく鳴いて、天女鳥が金色の眼を開く。その眼に映して、傍らに跪き、手を伸ばして来るルゼ。人間。 金の眼に殺意が浮かび上がる。 血に濡れる翼を無理矢理に動かす。ばちん、と静電気に似て、その身体に微かな雷が跳ねた。 「天女鳥さん!」 いけない、とフィルシアが小さな雷の痛みにも構わず、天女鳥の首を抱き締める。 「ダーメーだ」 ルゼも、天女鳥の飾り羽根のある頭に触れさせた手は離さない。子どもを優しく叱り付けるかのように、小さな笑みさえ浮かべる。 「俺たちを殺すのはいいけど、それよりお前の手当ての方が先だ」 「大丈夫、もう誰も貴方を傷付けたりしないから」 『助けてやると言っただろう』 フィルシアの手が天女鳥の首を撫でる。その手を、ばちん、と小さな雷が撲つ。それでも逃げない小さな手に、天女鳥の眼が痛みを堪えるように歪む。 「大人しくしなさい」 ルゼに言われ、天女鳥の身体から力が抜けた。翼を淡く包んでいた雷の膜が消える。 「名前を、聞かせてくれれるかい?」 「天女鳥さん、では呼びにくいですしね」 くすり、フィルシアが笑む。 「……鳥は、鳥」 初めて、天女鳥が言葉を発した。 「名前なんか無い」 それきり言葉を閉ざす。けれど、身体はフィルシアに預け切り、ルゼの傷を調べる手にももう抵抗はしない。 ルゼは薬や道具を詰めた箱と角灯を手元に引き寄せ、天女鳥の傷付いた身体に手早く治療を施していく。身体の傷には消毒と止血を、 「天女鳥の仲間は優しい奴らばかりだったかい? 中には嫌な奴も居たんじゃないか?」 荒れた心には根気強い説得を。 (まあ、……説得って言っても、俺には気の利いた言葉なんて言えないけどさ) 「人間だってそうだ」 天女鳥の金色の眼が、言葉を紡ぐルゼを追う。 「無抵抗のお前に矢を射た最低な人間もいれば、」 ルゼの手の動きに大人しく従い、天女鳥は片翼を広げる。その翼に射込まれた矢に、クラウスが唸り、フィルシアが唇を噛む。 「傷付いたお前を助けたいと思う人間だっている」 血を溢れさせる翼に痛み止めと血止めを施し、矢の形状を調べ、抜く。軍船の船医であったルゼの治療の動きに迷いは無い。 「いい人間もいるって分かってたから、お前は元の世界で人間を乗せて飛んでくれてたんじゃないのか?」 くぅ、と天女鳥は鳴いた。人間をその背に乗せて飛んでいたことを思い出したのか、翼を大きく広げようとして、 「こーら、怪我してるんだから動かしちゃダメだ」 叱られた。 星月と灯台の光が真っ暗な海を照らす。細波と潮風が砂浜に静かに寄せる。 予言の鳥は、救い出された。 朝焼けの海に魚が跳ねる。それを追ってきた海亀が穏やかな海面から顔を出す。海鳥が空を駆ってきた勢いそのままに海へと潜る。 天女鳥は桟橋の上に陣取り、丸くなっている。時折、風に当てたくなるのか、包帯の巻かれた翼を広げては、誰かに叱られたように渋々と畳む。灯台に近いこちら側に蹲っているのは、包帯塗れのクラウス。天女鳥に負わされた火傷をルゼに治療してもらった後も、天女鳥の傍を離れようとはしなかったらしい。 朝の冷たい潮風に金の髪や服を遊ばせながら、フィルシアは砂浜を歩き、桟橋へと近寄る。 『俺たちも、元は世界から飛ばされた存在』 クラウスが天女鳥に話しかけている。 『同じような存在だ』 「……なかま?」 『そう、仲間だ』 クラウスが笑ったように、フィルシアには見えた。 近付くフィルシアに気付き、クラウスが天女鳥の影になっている桟橋の奥を眼で示す。桟橋の先に腰掛け、ルゼが魚を釣っているらしい。 「僕は、……どこへ行けばいい」 帰属していた世界より放逐され、帰るべき場所を見失った。天女鳥は途方に暮れて項垂れる。 『空を飛ぶ鳥は自由に空を飛ぶ』 クラウスは揃えた前肢に顎を乗せ、謎掛けのように言う。 『だから、未来へ飛んでいけばいいと思う』 「……未来?」 天女鳥は首を傾げる。自分で探せってことかな、と朝焼けの空を見仰ぐ。飾り羽根がひょこんと揺れる。幼子のような仕種にフィルシアは笑み、天女鳥の首を抱くようにして脇を通り抜け、桟橋の先へと向かった。 海に釣り糸を垂らしながら、ルゼが肩越しに振り返る。 「おはよう」 「おはようございます」 傍らに置いた桶には、銀色の魚が何匹も跳ねている。 「天女鳥にやってくれるかい」 「あ、……はい」 ルゼの言葉を聞きつけた天女鳥が嬉しそうな鳴き声を上げた。翼をはためかせようとして、 「こーら、傷が開く」 また叱られる。先ほどから繰り返されていただろうその遣り取りに、フィルシアはくすくすと笑いながら、魚の入った桶を両手で持ち上げた。フィルシアの差し出す魚を天女鳥は次々に丸呑みにしていく。桶いっぱいの魚を食べてもまだ足りなさそうな顔だ。 「回復を早めるには食事が一番だからね」 よしよし、と頷き、ルゼは魚釣りに精を出す。 『ああ、そうだ』 思い出したように、クラウスが言う。 『俺はクラウス』 「……クラウス」 名を持たない鳥は不思議そうに繰り返した。 『よろしく』 「それは名前?」 『勿論、名前だ』 「いいな、名前」 金色の眼で傍らのクラウスを見、フィルシアを見て首を傾げ、ルゼの背中を見て小さく鳴き。 「――僕に、名前を付けて」 天女鳥はクラウスの言った『未来』を探すように空へと顔を向ける。 「名を呼んで。そうしたらきっと、飛べる」 世界を失った名を持たない鳥に、旅人たちがどんな名前を付けたのか。それはまた、いつか。 終
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