霊力都市、インヤンガイ。 陰惨たる事件と鬱屈した悪意ばかりが充ちるこの世界にも、空の晴れ渡る日は来る。青く澄みきった空の下、冬の匂いを孕んだ冷やかな風に吹かれながら、白金の髪の少女が大通りを駆けていった。 「テューラ、早く、早く!」 振り返って、大きく手を振る。その笑顔の先に立つ、二足歩行の竜人――テューレンス・フェルヴァルトはやさしく微笑みを返した。 「ティアさん、そんなに、走ると、あぶないよ?」 「大丈夫よ、これくら――いっ!?」 忠告した傍から、路傍の空き缶に蹴躓く。 慌てて近くの街灯に捕まった少女、ティリクティアは、ばつが悪そうに舌を出し、それでも楽しそうにころころと笑い声を転がした。テューレンスがゆったりとした足取りで追い付いて、及び腰の彼女に手を差し伸べる。 「あー、びっくりした!」 「見てる、こっちも、びっくりした、よ」 溌剌とした琥珀色の瞳が、隣に立つテューレンスを見上げる。首を傾げ、手を取らない事を不思議に思っているだろうその首元に、思いっきり飛び付いた。 「わっ」 瞬間驚きの声を上げ、しかしすぐにテューレンスは穏やかに微笑んだ。空いた手を抱きついてきた彼女の背に回し、滑り落ちないようにしっかりと抱きしめる。 「テューラ、大好き!」 「うん、テューラも、ティアさんのこと、大好きだよ」 賑やかなそのやり取りは、溢れんばかりの親愛に充ちていた。 ◆ ウィンドウに並ぶ可愛らしい形のケーキに惹かれて足を踏み入れたその店は、杏仁豆腐や点心と言ったインヤンガイ“らしい”品目と共に、タルトやマカロンのようなフランクな菓子も取りそろえていた。 メニューに一通り目を通しただけで、ティリクティアの頬が幸せそうに緩む。 「美味しそう……悩んじゃうわね」 「これだけ、いっぱいあると、決めるのも、一苦労だね」 対するテューレンスは何処となく真面目そうな面持ちでメニューを覗き込み、しかしその背中では青い竜の尾が楽しそうに揺れていた。 「ごゆっくりどうぞ」 悩む二人を遮らぬように、店員が声をかける。はた、とメニューを繰る手を止めて、ティリクティアは顔を上げた。 「あの」 のんびりとした気質のテューレンスに代わって、テーブルにコップを置く女性店員へ、声をかける。店員は軽く首を傾げた後、暖かく応じた。 「どうしたの?」 砕けた物言いは、二人が共に少女の――テューレンスは少年にも見えるが、可愛らしい容姿をしていたからだろう。相好を崩して、言葉の続きを待つ。 「明日の音楽祭って、どんな行事なのかしら?」 「そうね……」 この街区で行われるとある音楽祭に、調査という名目で参加すること。それが今回の依頼の内容だった。 ティリクティアの問いにしばし首を傾げた後、店員はおもむろに口を開いた。 「鎮魂の行事であり、激励の行事、ってところかしらね」 「鎮魂……はわかる、けど、激励って?」 「このお祭りはね、亡くなった人の魂の安息を願う祭りであり、同時に現世を生きる人を応援する為の祭りなの」 だから、その日は街区中の人間が広場に集まるのだという。音楽により一年の元気を分けてもらうために。浄化され旅立つ魂を見送るために。 「じゃあ、たくさんの人が聴きに来てくれるのね!」 「腕が、鳴る、ね」 張り切って拳を握るティリクティアを、店員もテューレンスも微笑ましく見守る。 「私も毎年楽しみにしてるのよ。あなたたちが出るなら、見に行くわ」 そう言って、店員は一度厨房へと戻った。 やがて、どんな曲を演奏するかの打ち合わせをしていた二人の前に、注文したデザートがやってきた。 ティリクティアはマンゴーと白桃のクレープを、テューレンスはほの甘い李のトルテを。ケーキが運ばれてきて、数分、二人は交わす言葉をも飲み込みただその味を堪能した。 「……おいしい!」 「うん、おいしい」 じっくりと味わうために、ふたたび紅茶で舌を温める。そしてひと段落ついて、二人は視線を交わして微笑みあった。 「それで、曲目の、こと、なんだけど……」 控え目の音量で、店内の雰囲気を演出するBGM。テューレンスの持つ水晶――カネート、というのだそうだ――がその音色に反応し、反響するように様々な色に輝く。まるで万華鏡のようだ、とティリクティアは無邪気に笑みながらその輝きを見つめた。 「ね、テューラ」 「なに?」 問いかければ、やさしい紫の瞳が彼女へ向けられる。その、穏やかで綺麗な色を見ているのが、彼女は好きだった。 「その水晶……カネートって、テューラの笛とか、私の歌にも反応する?」 無垢な巫女姫から投げられた、素朴な疑問にテューレンスが首を傾げれば、二本の触覚が頭の上で揺れる。蜻蛉のような二対の翅も、その触覚も、おとぎ話に出てくる妖精のようだ。 「うん、もちろん」 返された答えは、シンプルなものだった。詩的な物言いを好むこの竜精は、口にする言葉の一つ一つが端的だが深く、聴く者の耳を捉える。 「カネートは、音を集めるもの。だから、どんな歌にも、音にも、応えてくれる」 ひとつ微笑んで、テューレンスは自らのトラベルギアを取りだした。自身の翅とよく似た飾りの施されたそれは、【渡り鳥】と言う名の横笛で――ティリクティアは、この笛が奏でる自在な音色も大好きだった。 耳を澄ませば、静かに長く、テューレンスが息を吸う音さえも聴こえる。一拍の間の後、命を吹き込むかのように、笛に息を通す。まっすぐの管と幾つもの穴、置かれた指の間を潜って、ただの風であったそれは美しい、音へと変わった。 「わあ……」 思わず声が喉をついて出て、慌てて周囲を見渡して息を顰める。流れ始めた美しい音楽の邪魔になることはすまいと、彼女のみならず、店員を含めた全員が耳を澄ませている。 音律の隙間を縫うように、楽しげで、やわらかな音が流れる。時には獣の鳴き声さえも再現できるというその楽器から奏でられる音色は、今は穏やかな横笛のものだ。 しなやかに動く指から、そっと視線をテーブルの上の水晶へと向ける。水晶はテューレンスの横笛に反応するように、翠や蒼の光を控え目に零している。 ティリクティアがそれに見惚れている間に、テューレンスは演奏を終えたようだった。 「どう、だった?」 「――すごい!」 感想を問われて、咄嗟に口に出たのはただ一言。 しかしそこに最大級の賛辞が籠っていると伝わったようで、テューレンスは紫の瞳を嬉しそうに細めた。 「すごいわ、テューラ! すごくいい曲だった……特にそのメロディ」 「その?」 ぴっ、と指を差せば、半目を軽く瞠ったテューレンスが首を傾げて言葉を返した。浮世離れした美しさのあるかれが見せる、人間らしい――そもそも人間でなくて竜精なんだけれど――表情もまた、魅力的だとティリクティアは思う。 「あのね、私の国の歌に少し似てるなあ、って思って。懐かしくなったの」 そう前置きをして、目を閉じて先程のメロディを追って歌い始める。幼い少女の声は初め、テューレンスの提示した旋律を忠実に追うだけだったが、それは次第に、自然に離れ始める。牧歌的な、故郷の温かさをうたうかのようなメロディ。彼女の世界のものか、異国の歌詞を伴って、歌は店内へと響き渡った。 静かに聴き入るテューレンスの手元で、カネートが流れる音へ反応を見せる。歌う巫女姫そのものを象徴するかのような琥珀色と、白金、そして歌の持つ郷愁を示すような赤橙の間をゆるゆると変動しつつ、水晶は少女の歌に応えて輝いた。 ――幸いあれ、雪花の如くに降り注げ 歌の最後は、そんな言葉であったように思う。 少女の歌う言葉が判るわけでもないのに、何故かテューレンスはそう感じ取っていた。 空気を震わせる、歌声が止んだ。 ぱちり、と無邪気な琥珀の瞳を開いて、どうだった、と問いかけてくる少女の愛らしさは、まさに太陽のようだった。 「綺麗な、歌だね」 歌声、メロディ、響き、言葉のどれもが、テューレンスの出逢ってきた音楽とはまた違う、新鮮だがどこか懐かしい美しさを伴っていた。カネートの光り方も今までにないもので、素敵な音楽に触れることができたこの出会いを、かけがえないものに感じる。 「ほんとう?」 飾らない、素直な讃辞にティリクティアが喜ぶ。 「音楽祭の、曲目――それで、行こうか」 そう提案すれば、こぼれんばかりに目を大きく見開いた。しかしすぐに綻ぶような笑みを浮かべて頷き――ふと、何かに気がついて表情を改める。 「……あ、そろそろ場所移動しないと。迷惑じゃないかしら」 白金の髪を靡かせて周囲に目を向ければ、注文を取る店員と、まばらに座る客が見える。店の中でこんな堂々と音を立てて、営業迷惑になっていないだろうかと、唐突に不安を覚えたのだ。 そんな後ろめたい眼差しに気がついたのか、店員が二人へと向き直る。先程二人に音楽祭の事を教えてくれた、女性だ。 ティリクティアの不安とは裏腹に、女性は微笑んで、首を振った。 「いいのよ。常連さんしか来なくて気が知れてるし、あなたたちの歌は素敵だから。もっと聴かせて」 ね、と周囲に賛同を求めれば、彼らに最も近い場所にいた老人客が鷹揚と頷いた。他の客からも、了承とも取れる温かなまなざしが返る。 「ほんとうに、いいの?」 「ええ。店の宣伝をしている、とでも思ってて。――実際さっきから、お客さん増えてるのよ」 最後の言葉は、ひそやかに囁くように。 店のあたたかな心遣いに、二人顔を見合わせて、同時に破顔する。 「ありがとう!」 そんな感謝の言葉も、二人同時だった。 ◆ 不思議な空間だ、と。 音楽祭の広場に足を踏み入れた瞬間、テューレンスはそう感じた。まだ音楽祭は始まっていないのに、カネートが反応を示したように見えて、思わず確かめる。果たして、水晶は穏やかな無色の光を跳ね返すだけ。 言うなれば、曲の終わりの余韻に充ちているようだ。 「なんだか……あったかいところね」 テューレンスほど敏感ではないものの、ティリクティアも同じ事を感じたようだ。広場を流れる風の音にも耳を澄ませて、幸福そうに瞳を細める。琥珀色の瞳が朝陽を受けて金色に輝くのが見えて、テューレンスもまた頷いて目を細めた。 冬であるというのに、この場所はとても暖かな大気に包まれている。 「テューラ、嬉しそう」 「うん。演奏も、出来て、色々な、音楽が、聴ける。とても、楽しみ」 「ええ、私もよ。……そうだ、一斉に歌いだしてもいいの?」 ティリクティアが問えば、舞台をセッティングしていた祭の執行役らしい長袍の青年が頷いた。 曰く、この広場には特殊な霊力の膜が張られているらしい。幾つの曲が、数多の音が溢れても、決して不快には聴こえないように。音を調和させるための力が作用しているようだ。 「たくさんの音を集めて、たくさんの死者の魂に捧げるんです」 「さっきの、あったかい、感じは、霊力、だった、んだね。……やわらかな、羽根に包まれてる、みたい」 青年の説明を受けて、テューレンスは横笛に息を通しながら笑う。ほのかな呼気が音に代わって、ささやかに大気を揺らした。霊力の膜が震える、そんな感覚さえあった。 たくさんの音を集める、というこの祭の目的は、カネートにもよく似ていて、不思議と親近感を覚える。 周囲に目を向ければ、耳を向ければ、既に幾つかのグループが演奏を始めていた。 霊力の干渉は穏やかで、それぞれの音楽が持つ魅力を決して損ねることなく、しかし柔らかな不可視の膜で以ってそれぞれに線を引いている。譬えるなら、淡い灰色の輪郭線。まるく、やさしく、様々な色の音楽を包み込む。 全ての音が確かに聴こえているのに、どれか一つに耳を済ませれば、すぐさまそれだけが際立って聴こえてくるのだ。面白い技法だ、とテューレンスは聴き入った。己の腰元では、充ちる幾百の音に応えて、カネートが幾百の色を燈し揺らめいている。紅、黄、橙、翠、水面の泡のように、水晶の奥深くから浮かんでは消える。これもまた、今までに見た事のない光り方だった。 佳日。 抜けるように青い空が、流れる冷涼な風が、彼らの音楽を今か今かと待ち侘びるようだ。 「さ、はじめよう」 「ええ」 促せば、ティリクティアの方も準備万端なようだった。とろりと溶ける蜜のような瞳と、穏やかな紫水晶のような瞳が交叉する。頷き合い、す、と息を吸い込んだ。 横笛の音色と、少女の歌声が同時に流れ出す。 初めは長く。互いの音程を合わせることも兼ねた、言葉の無い、ただの和音。それでも、広場を行き交う人の足が、彼らの前で止まる。前の方に、昨日のカフェの店員が居るのが見て取れた。 ティリクティアの挙げた手が、丸く円を描いて握られる。その指揮に合わせ、二人は一度音を止めた。 数拍の間。そしてまた、ティリクティアが歌い始める。 よく耳を澄ませば、その歌は彼女の故郷の言語であるとテューレンスにはわかる。居並ぶ聴衆も、何処か遠い異国の言葉で歌う少女の神聖な姿に魅入り、そして聴き入っていた。 ――光あれ、光あれ、祝福あれ 光あれと、幸いあれと、何度も繰り返すその歌は優しく、ただ人の世の幸せだけを祈り続ける。 横笛に口を宛てるため、俯いた視界に琥珀色の光を放つカネートが目に入る。ふ、と笑みを零して、長く息を吸った。そして、少女の歌を乱さぬように控え目に音を奏でる。 ティリクティアの歌う、フレーズの繰り返しを追って。同じ旋律を幾度も繰り返し、その中に強弱を付けて緩やかな山を描く。 寄り添い、螺旋を描いていた二つの旋律は、次第に離れ始めた。ティリクティアが主の旋律を、テューレンスが副旋律を。互いの音を引き立てるように、二人は奏であう。 逝ってしまった幾つもの魂への葬送、しかし旅立ちは決して哀しいだけではないはずだ。耳を傾ける人々にそれを伝えたくて、その喪失の瑕を埋めたくて、包み込むような穏やかな歌を届ける。 ――幸いあれ、雪花の如くに降り注げ そんなフレーズを最後に、ティリクティアは歌を止めた。テューレンスの横笛の音色だけが、余韻に浸るように緩やかに流れる。 【渡り鳥】の穏やかな笛の音が、不意にハモンドオルガンの深く明朗な響きに変わる。しかし隣に立つ少女はそれに驚いた様子も見せず、明るく弾んだ声で再び歌いだした。それに合わせて旋律も、軽やかなテンポのものに変わる。 二人の歌を聴いている人々の肩が、足が、次第に音楽のリズムに合わせて跳ね始める。身体が揺れる。彼らの楽しそうな姿に、釣られるようにして皆の顔にも笑みが浮かんだ。 ――祈りは天に、喜びは胸に 少女の琥珀色の瞳が、隣の竜精を見上げた。横笛を奏でながら器用に頷いて見せれば、破顔と共に再び片手を空へ掲げる。広げた掌にたくさんの幸いと、たくさんの音を集めて、少女の歌声は高く高くへ駆け上る。 高く澄んだ声は頂点まで辿り着いて、長く、長く響く。それに合わせて横笛の音色も、締めくくりに入った。流れるような旋律が、緩やかになって、そして――ティリクティアの掌が、再び円を描いて、握られる。それと共に、歌声と音色も、音を止めた。 広場を包む霊力膜に、音の余韻が吸い込まれていく。二人の胸に燈った暖かな熱だけを残し、音楽は止んだ。舞台は聴衆と同じ目線に戻り、ティリクティアはほっと息を緩める。その鼓膜を、音が揺らした。 顔を上げる。集まって来ていた聴衆が、彼女たちに惜しみない拍手を送ってくれているのだ。 じわり、地面に立つ脚から、熱のような、衝動のような何かが駆けあがる。これほどにたくさんの人たちが、自分たちの歌を聴いてくれていた。これほどにたくさんの拍手をくれた。 勢いよく、隣に立つテューレンスへ振り返る。衝動は震えとなって、その肩を駆け抜ける。今ならわかる、この気持ちは喜びだ。テューレンスの穏やかな瞳が、やさしく彼女を見守っていて、ついに少女はそれを抑えられなかった。 「テューラ、大好き!」 その滑らかな首元へ飛び付く。微笑み、抱き返してくれる気配がする。嬉しくなって、ティリクティアは大好きな友人をぎゅうぎゅうと抱きしめた。 ◆ 二人の出番は終わっても、まだ音楽祭は続いている。 あとは心行くまで、様々な音楽を集めることができる。テューレンスは期待に頬を緩めて、何処へ行こうか、とティリクティアに問いかけた。 「うーん……あ、ねえテューラ、ひとつお願いがあるんだけど」 「お願い?」 「あっちでね、ふわっふわのかき氷が売ってたの」 待ちきれないといった様子でティリクティアが指を差す先を見て、テューレンスがわらう。祭が始まる前の短い時間で検討を付けていたのだろう、少女の甘味に対する情熱はやはり可愛らしいものがある。 「マンゴーのソースとか、チョコチップとか、トッピングもいっぱいあったのよ!」 「それは、おいしそう、だね」 「ええ、とっても美味しいと思うわ! いきましょう、テューラ!」 手を引かれるままに駆け出す。その腰につるされた、カネートが空を映して青く輝く。 未だ見ぬ甘味と、未だ見ぬ音。未だ見ぬ出逢いに心躍らせつつ、テューレンスはティリクティアの手を握り締めて、笑った。
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