オープニング

 瑞々しい体は傷つき、煌めく水飛沫は血と泥で汚れている。そんな気がした。
 イルカと波をモチーフとする旗印はだらりと垂れ下がっている。真鍮の鎖から下がるコンパスに虚ろな指を這わせる。さきの交戦で壊れたのだろうか、針は滑稽なまでにぶれ、どの方角を指しているのか窺い知ることはできない。
 嘆息することもできず、ロミオは揺れ動く針を見下ろした。
(人は自由であるべき……)
 その理念にのっとって行動してきた。団の練度の低ささえも意志の力で補ってきた。その結果がこれか。悪辣な商人にまんまと騙し討ちにされ、古くからの同胞はロミオの前で血を流した……。
 真紅のバンダナが素っ気なく揺れる。視界に入る赤が血に見えて、バンダナをむしり取る。
 茫と立ちすくむだけの王子は、背後から忍び寄る別の赤色に気付かなかった。

「“海賊王子”ロミオが発見されました」
 リベル・セヴァンの言葉に旅人達はざわめいた。ロミオはガルタンロックの計略にはまり、死亡説が囁かれていたのではなかったか。
「場所は快楽都市――“夜に咲く花”ロトパレス。娼館や賭博場などが集まり、都市全体が歓楽街になっている場所です。ロミオ団は秘密裏にロトパレスに停泊している模様」
 さきの事件で被害を受けたロミオ達は動揺している。海軍はこれを好機と捉え、ロミオを捕縛するべく動き出した。他の都市人間が多くロトパレスを訪れていることもあり、騒ぎを大きくすることは避けたい。よって少数精鋭の部隊を秘密裏に送り込むことになったのだという。
「この件に関して海軍から協力依頼が来ていますので、皆さんには海軍と一緒にロトパレスに行っていただきたいのです。部隊は海軍の士官二名とロストナンバーとの混成になります」
 リベルはそこで一呼吸置き、改めて口を開いた。
「海軍はさきの事件で世界図書館を少々見直したようですが、今は良い心証を持っていません。士官の同行は監視の意味合いを兼ねているとの通達も受けました。死んだと思われたロミオが発見されたことによって、我々がわざと彼を生かしたのではないかと疑う人間が少なからずいる……とも」
「だったらどうして依頼なんかよこすんだ」
 というロストナンバーの反駁はもっともであった。
「世界図書館の力はあちらにとっても益のある事。簡単に関係を断ちたくはない筈ですから、見極めを行うつもりなのでしょう。また、世界図書館がロミオに好意的な姿勢を取っていると思われれば、海軍との……ひいてはブルーインブルーとの関係がどうなるか分かりません。皆さんがどういった理念や理由で行動しようと、あちらは皆さんのことを“世界図書館所属のロストナンバー”と見なすでしょうから」
 リベル・セヴァンという司書は主観を述べない。冷静な司書からもたらされる“客観的な推測”が旅人達の肩に重くのしかかる。
「我々司書は依頼をもたらすのみ。行動はあくまで皆さん次第なのです。私から行動指針を示すことはできませんし、するつもりもありません。その点をくれぐれも誤解なきようお願いいたします」
 感情の窺えない表情で導きの書を閉じ、リベルは旅人達に一礼した。
「どうか、お気をつけて」

 海面は澄み、陽光を弾いて煌めいている。クリアな水平線に無感動な一瞥をくれたアンリはロストナンバー達に仏頂面を向けた。
「どうもどうも、ご足労いただきまして」
 対照的に、シャルルという年嵩の軍人はにこやかに頭を下げる。
「この度はどうぞよろしく。私はシャルル、こっちの若造はアンリです。ほら、アンリ」
「……よろしく」
 シャルルに促され、不承不承といった風情で一礼した。若鷹の如き相貌には露骨な猜疑と不審が浮いていて、旅人達は軽く顎を引く。このアンリという若者はロミオ捕縛に並々ならぬ執着を見せており、旅人達への同行を熱烈に志願したという。
「くれぐれも邪魔はしてくれるな」
 アンリは敵意をむき出しにして旅人達に布告した。
「貴方達がどう考えているか知らないが、ロミオの野郎は海賊だ。義賊だろうが王子だろうが賊は捕えねばならない。奴の“ファン”だという人間もいるそうだが、冗談ではない。俺の父は奴のせいで死んだ」
 唾棄するような物言いに旅人達は顔を見合わせる。シャルルがやんわりと制止に入るが、血気盛んなアンリはそれを振り払った。
「父はとある貴族の傭兵だった。後ろ暗い商売をしている船で……ある時貴族の船がロミオ団の襲撃に遭い、傭兵達はその責任を問われて全員解雇された。父は次の仕事探しに明け暮れ、体を壊して命を落とし、一家は離散した。……クソ貴族の護衛についた父が悪いと言えばそれまでだ。しかし誇り高い父は家族を養うために必死だった。仕事を選り好みしている暇などなかったんだ。家族のために矜持を枉(ま)げた父を俺は誇りに思う。少なくとも、実の伴わぬ青臭い正義感をプンプンさせる若造よりはな」
「アンリ、その辺にしておけ」
「どんな物事にも二面性はあるさ。誰かを救えば誰かが泣くこともあるだろうさ、俺達海軍とて例外ではない。だが奴はどうだ。義賊ともてはやされ、自分の行いの裏で泣いている人間がいることを知っているのか。――俺は奴と刺し違える覚悟で海軍に入った」
 荒々しく船に乗り込むアンリを見送り、シャルルは旅人達に「すみませんねえ」と頭を下げた。
「血の気の多い奴で……。公私混同はよせ、逆恨みを公務に持ち込むなと何度も言い聞かせたんですが。まあ、奴があの調子だから私が派遣されたんですがね。それから誠に申し上げにくいのですが――」
 困ったように苦笑しながら、年嵩の軍人の目は油断なく旅人達の表情を探っている。
「貴方達の動向に注意するようにと上から言われていましてねえ。いやはや申し訳ない、上には逆らえませんので……これも中間管理職のさだめですな」
 やんわりとした言葉とは対照的に、皺の刻まれた目許はひんやりと峻烈だ。旅人達の口の中に苦い味が広がる。世界図書館とブルーインブルーの関係は持ちつ持たれつなのだ。ブルーインブルーに助力する代わりに、世界図書館はジャンクヘヴンにロストレイルの駅を敷設させてもらっている。
 複雑な胸中を抱えて船に乗り込もうとした瞬間、とたとたと駆け寄ってくる者がある。
「あ、あの!」
 旅人達に声をかけてきたのは少女だった。茶色の髪に結えられた赤いリボン。どこかで見た顔だ。
「こ、こんにちは。あたし、リコっていいます」
 ガルタンロックの手先が開催した人身売買に“出品”され、ロミオに救出された少女だった。
「あたし、王子さまにお礼を言いたくて。でもどこにいるのか分からなくて……お父さんに教わりながらいっしょうけんめいお手紙を書きました。それで、海軍の人が王子さまを探しているっていう噂を聞いたから、軍の人に頼めばもしかしてって……」
 息を弾ませ、頬を紅潮させながらリコはぴょこんと頭を下げる。
「このお手紙を王子さまに渡してください。助けてくれてありがとうって」
 目の粗い紙の上には、ロミオの似顔絵とともに稚拙な字で感謝が書き付けられていた。これもまた海賊王子の一面だ――。

「わたしは高みの見物が好きなの。奴も参ってるようだし、しばらく居させてあげましょう」
「海軍が動き出していると聞きます。こちらが奴に接触して潜伏を勧めたと知られれば……」
「大丈夫よ、そんなヘマはしないわ。少し様子を見て……使えそうなら使うし、揉め事が起こりそうなら奴を放り出せばいいだけ。あなた達は何人かロトパレスに残って頂戴。わたしは面白いことは大好きだけど、厄介事は大嫌いなの。――分かるわね?」
 氷のような微笑に手下たちは口をぐつむ。“赤毛の魔女”は女海賊の親衛隊を従えて“彼”が待つ船室の扉を開いた。
「初めまして、ロミオ」
「……フランチェスカ」
「あら、ご存じなの? 光栄だわ」
 茫然と呟くロミオにフランチェスカはくすりと笑い、彼の身なりをさっと観察した。
「無様な坊や」
 そして正直な感想を述べた。
「理念は人を動かすわ。けれど、理念だけで渡っていけるほど世の中は甘くない……ってところかしら? あなたの海賊団が弱小であることがその証明ね」
 理想を追い求めた果てに同胞の血を浴びたロミオはかすかに唇を歪める。フランチェスカは傍の女海賊に言い、一枚の絵を持って来させた。
「この絵の花、何だか分かる?」
「蓮か」
「ええ。このロトパレスのモチーフになっている花よ。どう思う?」
「どうって」
 意味ありげな問いにロミオは眉を寄せる。女の言葉はいつだって不可解だ。
「……綺麗、だな」
「言うと思った」
 フランチェスカはひょいと肩をすくめ、丸くくり抜かれた窓の前に立った。繁華街の灯りがきらびやかに、不規則に明滅している。
「蓮は泥の花なのよ」
「泥の花?」
「そう。蓮は泥の中に根を張るの。花は綺麗だけど、足許は泥にまみれてるってわけ」
 魔女は豊かな赤毛を揺らし、悪戯っぽい微笑とともに振り返った。
「ようこそロトパレスへ、王子。蓮の宮殿で、あなたは何を見るかしら?」
 ロトスは蓮。パレスは宮殿。泥の上に咲く快楽都市で、それぞれの思惑が動き出す。

品目長編シナリオ 管理番号767
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
クリエイターコメント※※※!注意!※※※

このシナリオは『長編シナリオ』です。
参加費用は『2000チケット』です。通常シナリオの倍額ですのでご注意ください。
制作期間も通常シナリオより長くなっております。ご了承ください。

※※※※※※※※※※


長いOPですみません。
『青の羅針盤』アンカーを務めさせていただきます、宮本ぽちです。よろしくお願いします。
シリーズ物ではありますが、それぞれの内容は別個の依頼となりますのでどなた様もお気軽に覗いてみてください。

さて、状況は結構シビアです。おまけに軍人が何か物騒なことを言っています。彼の言い分には色々ツッコミどころがありますが、このシナリオの主眼はそこではありませんのでよろしくです。
また、月見里WRの『【青の羅針盤】海鳴りが示すもの』にて救出された少女からロミオへの手紙を預かりました。こちらに関してもプレイングにお書き添えくださると幸いです。

フランチェスカは皆さんが着く頃にはロトパレスを離れているので、絡むことはできません。
尚、時系列としてはシナリオ『泥の花』の後になりますが、内容に繋がりはないので気にしないで下さい。

それでは、蓮の根元を確かめに参りましょう。

参加者
夕凪(ccux3323)ツーリスト 男 14歳 人造精神感応者
坂上 健(czzp3547)コンダクター 男 18歳 覚醒時:武器ヲタク高校生、現在:警察官
ツヴァイ(cytv1041)ツーリスト 男 19歳 皇子
レナ・フォルトゥス(cawr1092)ツーリスト 女 19歳 大魔導師
緋夏(curd9943)ツーリスト 女 19歳 捕食者

ノベル

 海の風と陸の風は日の入りの刻に交じり合い、入れ替わる。その刹那、海上や沿岸部から一時的に風が消え失せる。その不気味なまでの無風状態の中、船はのろのろとロトパレスに近付きつつあった。
 三枚の紙片に何事かを書きつけていた坂上健――いつもの白衣姿である――はふと顔を上げ、首を傾げた。
「……やけに静かだな」
 船上にあることを忘れてしまいそうなほどだ。汐はとろりと滞り、風はそよとも動かない。
「夕凪でしょうな。しかしここまで静かなのも珍しい……嵐の前の何とやらでなければ良いのですが」
 穏やかに微笑むシャルルの前で健は唇を引き結んだ。シャルルの目はやはり笑ってはいない。この軍人は、船旅の間も和やかな雑談を装いながらロストナンバー達の挙動に目を光らせていた。
 一方、夕凪という名の少年はシャルルの視線を気にした風情もなく欠伸をした。痩せた体躯と青白い肌からはいくぶん病人めいた印象を受ける。差し込む斜光のせいもあるのか、赤い瞳はまるで血の色をしているように見えた。
「どちらへ?」
 無言で船室を出ようとする夕凪をシャルルがやんわりと見咎めた。
「いちいち言わなきゃいけねーの?」
「貴方がたの動向に目を配るようにと言われておりましてねえ。これまでの経緯もあることですし……」
「おれらがわざとおーじサマを助けたってか? 知らねーよ、そん時は伸びてたし」
「ほう」
 シャルルは冷ややかに目を眇めた。
「では、その前は?」
「さーな。仲間と一緒に口封じに蜂の巣にされたかねーし」
「成程。先方がなぜ貴方を派遣したのか、よぉく分かりました」
 この瞬間、あくまで穏やかだったシャルルの声がわずかに剣呑さを帯びた。
「……シャルル」
 夕凪が出て行くのを待って健は慎重に声をかけた。
「俺はロミオ捕縛に全力を尽くす。だから、ロミオを捕縛できたら聞いてほしいことがある」
「聞いてほしいこととは?」
「任務を果たした後で言う。そうじゃなきゃ意味がないだろ」
 自分の心根は態度で示すと暗に告げ、健は紙片を白衣のポケットに突っ込んだ。
「ちょっと外に出てくる。着くまでには戻るから」
「何かご用でも?」
「アンリと話したいことがある」
 健は言葉少なに船室を後にした。
 
 陽が落ちる。太陽は水平線にとろけ、空と海は鮮烈な朱に染まる。それは今わの際にひときわ激しく燃え上がる蝋燭にも似ていた。
 炎のような落陽の中、甲板に出たツヴァイの赤毛が燃えるように輝いている。ロミオが海賊王子ならツヴァイは生まれついての皇子だ。
「ロトパレス……蓮の宮殿かー」
 赤き皇子の口調はあくまで軽やかだった。平素通りを装う彼の横顔をレナ・フォルトゥスが一瞥する。ツヴァイが内心で苦虫を噛み潰していることにレナは気付いている。だが、ツヴァイは殊更に胸を張って気勢を上げた。
「ンな皮肉な名前を付けたのがどこのどいつか知らねーが、もし俺がネーミングライツを買ったらもっといい名前を付けてやるね! ピュアパレスとかな!」
「クサいわね」
「クサいとか言うな! ……だってさ……」
 レナのクールな一言に噛みつくツヴァイだが、その勢いも長くは続かなかった。
「足元が汚いだの何だのって言ったって、綺麗なモンを綺麗だって言って、何が悪いんだよ……」
 皇子の声は風船がしぼむように消え入ってしまう。豊かな髪の毛を潮風に踊らせ、レナは軽く肩をすくめた。
「ごちゃごちゃしたことになっているようだけど、海賊は海賊ですわ。――いくら綺麗な言葉を並べてもね。今回でお縄ですわ」
 どうなることやらと呟くレナの髪の毛もまた赤だ。深紅の瞳が見つめる先、燃えるような落日の底で、黒々とした蓮の町が横たわっている。
(ガルタンロックに、フランチェスカね。海賊に名を連ねる面々の拠点のひとつといっていいかしら。上陸前に下調べはしておきませんと)
 太陽系を模した美しい杖を振るった時である。
「ふざけるな!」というアンリの怒声が響き渡ったのは。

 時間は少し遡る。
 船内を歩き回った健は船尾に佇むアンリを見つけた。操舵室の影法師が長く伸び、アンリの立つ場所だけに濃い陰影を落とし込んでいる。
「アンリ」
 健は意を決して声をかけた。無言で振り向けられる視線の険しさに胃の腑がぎゅっと収縮する。しかし健はつかつかと歩み寄り、アンリの手首を掴んだ。
「話がある、アンリ」
「貴方と話す事などない」
「俺にはある。少しだけ俺に時間をくれ」
 アンリの目が敵意を帯びる。掴まれた手首を荒々しく振り払おうとするが、健はそれを許さない。
「放せ。不愉快だ」
 脅しのつもりだろうか、サーベルの鍔ががちゃりと鳴らされた。
「刺したければ刺せ。――刺されてもこの手は放さねぇ」
 握る手に力を込める。アンリは舌打ちして得物の鞘から手を離した。
「……いいか。お前自身にとって大事なことだ」
 健は素早く視線を巡らせ、付近に人影がないことを確かめてから切り出した。
「お前はこれが自分の踏み絵だと気付いているのか?」
「何?」
「お前は、自分でガルタンロックと繋がりがあるって公言してるも同じなんだぞ!」
 つい、声が熱を帯びる。アンリは峻烈に眉を跳ね上げたが、健は気付かない。
「海賊同士は不仲だ……お前がいくらロミオを憎んでも、それは海軍への忠誠の証にならない! シャルルに査察されてるのはお前も同じなんだぞ」
「……ふざけるな」
「何――」
「ふざけるな!」
 激昂した軍人は感情のままに怒声を吐き散らした。
「踏み絵だと? ガルタンロックと繋がっているだと? 何を根拠にそう思うんだ? 父がかつて悪徳貴族の護衛についたからか、それともロミオとガルタンロックが敵対しているからか? たったそれだけのことで繋がっているだと? ――侮辱するのもたいがいにしろ!」
 健はひゅっと音を立てて息を吸い込んだ。推測は全くの的外れだった。それどころか、地雷を踏んでしまった。
 根拠のない推測は憶測であり、侮辱に等しい。もっと注意深く話をするべきだった。
「どうした!」
 騒ぎを聞き付け、ツヴァイとレナが駆け付ける。今にもサーベルに手をかけそうなアンリをツヴァイが慌てて羽交い締めにした。
「落ち着け、落ち着けよ! 着く前から仲間割れしてどうすんだ!」
「“仲間”だと?」
 アンリはきっとツヴァイを睨めつけた。血走った目に敵意と反駁を見て取り、ツヴァイはかけるべき言葉を見失う。これが自分たちの置かれた状況なのだ。
「落ち着きなさい!」
 ぴしゃりと一喝したのはレナだった。荒事の場にはそぐわない美女の姿に気勢を殺がれたのか、アンリは渋々口を閉ざした。
「納得できないこともあるでしょうけれど、あたしたちは海軍からの依頼を受けてここに来たの。……仕事はきちんといたします。今はそれしか言えないわ」
 レナの後ろで健が茫然と立ち尽くしている。凪にまどろむ空と海の狭間で、旅人も軍人も不穏な赤に染まっている――。

「到着しました」
 操舵手が告げ、船はロトパレスに碇を下ろした。
 真っ先に、軽やかに降り立ったのは緋夏だった。真っ赤な夕焼けの残滓の下、緋夏の赤毛もまた燃えるように煌めいている。
「賭博場だ、賭博場だ」
 彼女の赤い瞳は髪の毛以上にきらきらと輝いていた。
「遊んでみたいなー、あああー、でもお目付けが、仕事が……」
「その通りですな。まずは任務を優先していただけるとありがたい」
「言われなくても分かってるしー」
「は、はあ」
 くるりと振り返った緋夏にシャルルは目をぱちくりさせた。縦に割れた緋夏の瞳孔は爬虫類を連想させる。
 緋夏の様子を峻烈に一瞥し、アンリは帽子を深く被り直した。アンリもシャルルも目立たないように私服に着替えている。健は無言でアンリの背中を見つめるばかりだった。今は距離を置いたほうがいい。
「さてと……どうなるかですわね。ガルタンロックとかいう外道が関わっている場所ゆえ、注意するに越したことはないのですが」
 レナの手の中で星杖・グランドクロスが再度振るわれる。不可視の存在が陽炎のように揺らめき、白い肩にまとわりついた。もしもの時のための備えだ。
「とにかく、探さなきゃなー。海軍に追われてるヤツが身を隠す場所っつったら……やっぱ同じ海賊とかヤのつく職業の人のトコとか、そういう所なんじゃねえか?」
「そうね、聞き込みから始めましょう。ちょっと気になる場所があるの」
 ツヴァイは「へえ?」と語尾を持ち上げる。レナは軽く肩をすくめた。
「いきなり上陸するほど迂闊じゃないわ」
 サーチアイという魔法を駆使したレナは既に島の下調べを済ませていた。
 一方、不機嫌とも無関心ともつかぬ沈黙を保っていた夕凪はぴくりと眉を動かした。無表情を崩さない彼が別の場所へと注意力を飛ばしていたことに気付いた者はいただろうか。
(おーじサマの仲間の……あのおっさんはくたばったと思ってたが――)
 生きているらしい。前回の事件に乗り合わせた際、夕凪はロミオの同胞であるジャンと“接続”した。一度繋がった相手なら、生きてさえいれば位置を探査できる。
 大きな双眸を虚ろに動かした夕凪は景観に気を取られるふりをして歩を緩めた。
(奴らを嵌めたガン何とかの縄張りには近付かねーだろ。フラなんとかってオバサンの縄張りを中心に探すか)
「おっと。どちらへ?」
 一行から離脱を図ろうとした夕凪の手首をシャルルが掴んだ。
「ロトパレスは初めてでしょう? 離れないで下さい」
「迷子になるほど間抜けじゃねー」
「おや。オブラートに包みすぎたようですな」
 ぎちりと、シャルルの手に力がこもる。
「単独行動はよしていただきたい。――態度の悪い者をマークするのは当然のこと。お分かりいただけるかな、坊ちゃん?」
 夕凪は小さく舌打ちした。すべて監視役に把握されることを前提に動くつもりでいたが、とりあえずは行動を共にするしかなさそうだ。
「下手な事をされると評判が落ちて仕事が減るわよ」
 牽制のつもりでもあるまいが、レナは高らかにヒールを打ち鳴らした。
 その時――それを待っていたかのように街並が煌めき始めた。
「あ」
 と声を上げたのは誰だっただろう。薄闇を埋めるように次々と明かりが走り、灯っていく。看板を照らし上げるランタン、着飾った女たち、人を呑み込む賭博場。沈みゆく太陽と入れ替わりに“夜”が目覚めようとしている。
「では、市街地のほうへ参りましょうか。何卒よろしく」
 シャルルがかしこまったしぐさで一礼した。
「船内で簡単にご説明申し上げましたが……歓楽街という性質上、ある意味では犯罪の温床とも言える場所です。とはいえこういった場所ははけ口として必要ですから、海上都市同盟の必要悪として扱われているのですがね。そういった意味でもゆめゆめご油断召されませぬよう。ま、皆さんなら心配はないでしょうがな」
 蓮の宮殿は人々の欲望の掃き溜めだ。さざなみのように寄せては引く喧騒に包まれながら、旅人達は足を踏み出した。

(わー。わー。凄いなー)
「……なあ」
(本格的、って言うの? ダイスまであんなに綺麗!)
「あのさ。ちょっといいか」
「え? あ、ごめん、何?」
 健に肩を叩かれ、緋夏はようやく我に返った。
「大丈夫か? なんか、ショーケースにへばりついてトランペットを見つめる少年みたいな目してたけど」
「大丈夫、大丈夫。遊びに来たわけじゃないしー」
 ひらひらと顔の前で手を振り、愛想笑いをしてみせる。彼女の言葉遣いは奇妙にあどけなく、整った容姿とすらりとした長身には不釣り合いに思えた。
 きゃああ、と甲高い歓声が上がる。じゃらら、とチップの山が崩される。半ば地下に潜るようにして建設された賭博場は薄暗く、互いの顔すら判然としない。鈍いダウンライトを照り返すダイスが妖しく輝いている。艶めかしい肉付きの太腿を網タイツで包み、肩をむき出しにした衣装を纏った女給がシルバーのトレイを手に行き来している。滑らかに賭場を渡り歩く女給は緋夏の視線に気付いてウインクした。人懐っこく手を振り返した緋夏だが、健の視線に気付いて慌てて踵を返した。
「仕事仕事、自重自重、っと」
 司書はロミオ団がロトパレスに“停泊”していると言っていたから、彼らの居所は概ね割れているのではないか。しかし念のために歓楽街で情報収集をすべき――というのは名目で、要は賭博場を覗いてみたかったのだった。
「最近、ある界隈の賭博場に珍しい客が通って来てるみたいよ。貧相な身なりで、負傷もしてる。どこかの海賊じゃないかって賭博場の連中は言ってるみたいだけど。そこに行って話を聞いてみませんこと?」
 だから、サーチアイで下調べをしたレナがそう提案した時は内心で小躍りしたものだ。
「ねえ、あの手紙見せてくれない?」
「ん、ああ」
 緋夏の求めに応じ、健は白衣のポケットから紙片を取り出した。出発前にリコから預かった手紙である。
「へえぇ。へったくそな字ー」
 ストレートな感想とは裏腹に緋夏は柔らかく目を細めた。ブルーインブルーの識字率はそれほど高くない筈だ。親に教わりながら書いたと言っていたが、それでも苦労しただろう。
「この似顔絵、ロミオのつもりかな。あ、見て見て、“王子さま大好き”だって。読んでるこっちが恥ずかしくなっちゃう」
「子供の好意ってヤツは純粋だが、単純だからな。……良い部分しか見えてないってこともあるかも知れねぇ」
 健の声が低くなる。“救いの王子さま”にのぼせるあの少女が、ロミオが海賊であることを真に理解しているとは思い難い。
「でも、ロミオがこの子を助けたことは間違いないんでしょ?」
 緋夏はじっくりと文面に目を通し――さして長い文章でもないのに――、「よし」と呟いて手紙を畳んだ。
「なんだかんだ言ってもさー、ロミオの行動って格好いいじゃん。正義を感じさせるっていうか、ヒーローっぽいっていうか。ほんとに王子様みたい」
「物語の世界ならな」
 健はちらとアンリの背中を窺った。緋夏はアンリの耳に入らないように声量を調節しているが、もし耳に入ればまた悶着が起こりかねない。
 緋夏は「そうだね」と肩をすくめた。
「だからこそ、こうやって立ちはだかる現実も……ううん、仲間も自分も、かな。そーいうのを全部打ち破って突き進むべきなんじゃないかな。それが出来ないならそこまでだと思う」
 幼いのは口調のみであるようだ。醒めた意見も、肩にこぼれる緋色の髪を軽やかに払い上げる手つきも容姿相応に大人びている。
 二人のやり取りを無関心に聞き流しながら、夕凪はけだるそうに周囲を見回していた。というのはふりだけで、視覚情報は双眸ではなく“第三の眼”から得ている。シャルルの監視は鬱陶しいが、それも就寝時までだ。後はどうにでも出し抜ける。
 こちらの様子を窺っている人間はいないかと更に注意を巡らせた時、一人の男が視界に入った。従業員だろうか、蝶ネクタイを着け、ぴっちりと髪を撫で付けている。夕凪は自然な無関心を装ったが、近付いてきたのは相手の方だった。
「失礼。未成年の入場はお断りしておりますが……何かご用でも?」
「人を探してんだけど」
 夕凪は好都合とばかりに口を開いた。
「おーじサマ、知らね? 海賊おーじロミオ」
「……彼は死んだという噂ですが」
「でも死体は上がってねーんだろ? 海軍が捜索してるって聞いたけど」
 無邪気さを装うように大きな瞳を瞬かせ、夕凪はこくんと首を傾げた。
「もしかしたら生きてるんじゃねーかって思って。おれ、一度会ってみてーんだよね」
「それはまた何故」
「だってカッコイイじゃん、おーじサマ」
 首筋にアンリの視線が突き刺さるが、意に介さなかった。情報を引き出すためにロミオに憧れるふりをしているのだといちいち説明してやる気などない。
 蝶ネクタイは答えない。夕凪もまた虚ろに男を見据えた。
(……まさか、当たりか?)
 この店はフランチェスカ派の縄張りだ。
 別の視線を感じる。こちらを気にしている人間はまだ他にいる。
「ロミオに関して知ってる事があったら教えて欲しいのだけど」
 口火を切ったのはレナだった。
「最近、常連以外の人間が出入りしているのでしょう?」
「さて……私はいち従業員ですので、何とも」
「ネタは上がっているの」
 半ばはったりで畳み掛けると、蝶ネクタイはひょいと眉を持ち上げた。
 沈黙。ジャコウとアルコールの匂いが混じる喧騒が葉巻の煙のように絡みつく。
「――こちらへどうぞ、お客様方」
 するりと、どこからともなく二人の巨漢が現れた。従業員と同じ制服を身に着けているが、肩や腕の筋肉は接客業に不似合いなほど隆起している。
「何するの」
 乱暴に両脇を固められ、レナは声を荒げた。
「お静かに。ここでは他のお客様のご迷惑になりますので」
 ぎろりと睨めつけられ、レナは舌打ちした。仕込んでおいた魔法を発動させることはたやすい。しかし此処では客を巻き添えにしてしまう……。
「あーあ、つまんねえ」
 というツヴァイの声が緊張感を破った。巨漢に背中を押されながら、彼は大仰にお手上げのポーズを取っていた。
「せっかく賭博場に来たのにさー。ゲームのひとつやふたつ……な?」
 お手上げを装って背中に手を差し込んだ彼の手には――ファイティングナイフ。
「お客様。妙な真似は」
「そっちこそ」
 ツヴァイはニッと笑い、
「動いたら死ぬぜ?」
 薄闇のヴェールを切り裂くようにナイフを放った。
 しなやかな刃が巨漢の頬をかすめ、迅雷の如く壁に突き刺さる。甲高い悲鳴、割れるグラス。逃げ惑う女たちには皇子は陽気に手を上げてみせた。
「わりーわりー。ちょっとしたショーさ」
 そのまま壁の一角を指す。おお、とどよめきが上がった。ダーツの的――ギャンブルの待ち時間を潰すために設置されているのだろう――のど真ん中に、ツヴァイのナイフが真っ直ぐに突き立っていた。
「ケンカとか、嫌いじゃねーけどさ」
 巨漢に向き直ったツヴァイは愉しげに指を鳴らした。青い双眸にはやんちゃな少年の如き闘争心が浮かんでいる。
「ケンカしたくて来たわけじゃねーんだよな。それに……ゴロツキ相手なら負けたことねーんだ、俺。――それでもやるか?」
「ありがと。ここは任せたわ」
 ツヴァイの肩を叩き、レナは素早くその場を離れた。既に夕凪が先行している。
 360度にわたる夕凪の視界は賭博場からこっそり抜け出す人物の姿を捉えていた。先程からこちらを気にしていた男だ。この騒ぎをどこかに報告する気なのかも知れない。

   ◇ ◇ ◇

 ぼんやりと目を開くと暗闇の底に横たわっていた。
 体の下が揺れている。馴染み深いこの感覚。船の中だとすぐに分かった。
 目を閉じてみる。そしてまた開く。どちらでも変わらない、と思った。目を閉じていても開いていても闇の中だ。
 今どこにいるのだろう。
 この船はどこに向かっているのだろう。
 虚ろに伸ばした指先に真鍮の鎖が触れた。ぼんやりと引き寄せる。鎖の先に付いていた筈のコンパスは、ない。

   ◇ ◇ ◇

「騒ぎにしたくないから少数精鋭の部隊を送り込む、って話じゃなかったか?」
「逆手を取るんだよ。騒ぎを起こした奴が隠密部隊だなんて誰も思わねーだろ?」
 健の耳打ちにツヴァイはからりと答え、「それに」と付け足した。
「ヤの付く人には荒っぽいやり方のほうが効く場合もあるしな」
 何とも逞しい皇子である。だが、健はツヴァイが苦い心持ちでこの任務に臨んでいることを知っていた。
 ――しっかし……俺たちの選べる選択肢なんて、一つしかねーじゃねーか。ロミオを捕まえて海軍に引き渡す。まさか海軍を敵に回す訳にはいかねーからさ。
 船の中でツヴァイはそんなふうに独りごちていた。呻くような独白と唇を噛み締めた横顔は健の脳裏に鮮明に焼き付いている。
 尋問のために一行はバックヤードへと移動した。この場に居合わせているのはツヴァイ、健、緋夏とアンリである。シャルルは夕凪とレナの後を追った。
「……俺たちは賭博場の内偵や摘発に来たわけじゃないんだ」
 気勢を失った従業員に健は静かに声をかけた。
「教えて欲しいことがある。さっき他の仲間が言ったが、最近出入りしてる新顔の客について」
「聞いてどうするのです」
「犯罪者もしくはその手下、関係者である可能性がある。……あくまで推測だが」
 と口を挟んだのはアンリだった。目立たぬように布に包まれたサーベルがくぐもった金属音を立てる。蝶ネクタイの従業員はアンリに訝しげな視線を向けた。
「お客様方は軍の関係者ですか?」
 アンリは答えなかった。しかし、沈黙は時に言葉よりも雄弁だ。
「お尋ねのお客様についてですが……我々は、海賊としか聞いておりません」
 蝶ネクタイは諦めたように肩を揺すり、口を開いた。
「それから、外部の人間にそのことを明かさないようにと。それ以上の事は何も。他の者も知りませんよ。まあ……もしかしてロミオの関係者じゃないかという憶測は流れておりますが」
「“海賊としか聞いていない”って」
 緋夏が首を傾げた。
「じゃ、海賊だってことは誰から聞いたの?」
「上から、です」
「上って、フランチェスカ?」
「海賊の首領と直に言葉を交わせるほど偉くはございません」
 どうとでも取れる返答に緋夏は軽く眉を顰めるしかなかった。
 それ以上の情報は引き出せず、一行は賭場へと戻った。
「ま、とりあえず待ってみようよ。あっちのみんなが捕まえてくると思うしー」
 緋夏は楽天的だったが、レナと夕凪が追跡していることを考えればあながち無根拠な見込みでもないだろう。一方、ツヴァイは首を傾げた。
「仮にロミオの部下だったとして、だけどさ。なんで賭博場に居たんだ? わざわざ人の多い所に出てくるなんて、“潜伏”らしくねーっつーか」
「……金が欲しかったんじゃないか」
 という健の言葉は、ともすれば喧騒と嬌声に掻き消されてしまいそうだった。
「じっとしてたって腹は減るし喉も渇く。前の事件で怪我をした団員もいたみたいだし、薬や包帯も必要かもな」
 かといってまっとうな労働に就くことはできない。潜伏中の身では海で略奪行為を働くわけにもいかないし、義賊という旗印を掲げている以上は店舗や民家に押し入るわけにもいかないのだろう。
「王子が賭博で食い繋ぐ、か。……落ちぶれたって言ったらわりーけど、何だかな」
 今の王子たちは蓮の町の根元で泥水をすすっているのだ。暗澹たる表情で独りごちるツヴァイをアンリは冷たく一瞥した。
「貴方が何を嘆いているのか俺には分からない。奴はそもそも海賊だ。略奪行為で飯を食うのはまっとうな事で、賭博で糊口をしのぐのは“落ちぶれた”事なのか?」
 視野狭窄に陥った軍人の横顔を健が無言で見詰めている。
 煌めくシャンパングラス。人を幻惑するように転がるダイス。つややかに光る女の柔肌……。眩暈がしそうだ。虚飾であろうと、この町は目がくらみそうなほど美しい。
「……綺麗だよな」
 知らず、ツヴァイは呻くように呟いていた。
 その頃、蝶ネクタイを外した従業員が賭博場を抜け出したが、この場に居る者は誰一人として気付かなかった。

 ターゲットを追い、緩やかな坂道を駆け下りる。徐々に港から離れていることに夕凪は気付いている。
「気を付けて」
 レナの声が飛ぶ。だが、言われるまでもなく夕凪は気配を感知していた。一人、二人、三人。建物の陰から新たな人影が現れる。体格からしていずれも男だ。
 古ぼけた街灯が断末魔の痙攣のように明滅している。不安定な光の下、ちかりと無機質な光が煌めいた。迫るカトラス。抵抗する気概はあるのか。
「間違いねー」
 読心を試みた夕凪の断定は端的だったが、それで充分だった。すかさずレナが星杖を振り上げる。暗闇が陽炎のように揺らめいた、その瞬間!
 湧き上がる咆哮。否、雷鳴か。轟音とともに閃光が奔り、海賊を打ち据える。もんどり打った海賊の前に忽然と現れたのは虎とも獅子ともつかぬ大きな獣だった。
「大人しくなさい。殺しはしないわ」
 召喚したサンダービーストを従え、レナは凛と宣告した。海賊ふぜいが抗う術など持とうか。
「……お見事」
 シャルルはぽかんと口を開けていた。
 やがてトラベラーズノートで連絡を受けた面々が駆け付ける。だが、捕えた手下たちからロミオの居場所を聞き出し、速やかに踏み込む――というわけにはいかなかった。手下たちは頑として口を割らなかった。
「もー。なんにも教えてくれないの?」
 縛り上げた彼らを前に、緋夏はじれったそうに言葉を重ねる。
「困りましたな」
 シャルルも辟易していた。アンリは黙り込んでいる。あれほど感情をむき出しにしていたのに、不可解な沈黙だ。
「拷問でもしてみるかい」
 やがて手下の一人が唇の端を歪めた。
「したけりゃしろ。死んでも口は割らねえ」
 残りの男たちも同調した。着衣は襤褸に等しく、顔や肌も土埃と垢で黒ずんでいる。
 彼らはロミオの“理念”の下に集った者たちだ。錬度はともかく、結束は固い。死んでも頭(かしら)を守ろうとしていることがその証左だろう。
(ロミオ……お前は立派な理想を持ってるのに)
 ツヴァイの口の中に苦い味が広がる。
(いい仲間も持ってるのに。どうして)
 だが、これが現実だ。高い理想を持った彼らの現状がこれなのだ。
 その後も尋問を続けたが全く埒が明かず、レナは溜息をついた。
「いつまでも張り付いているわけにもいかないし……とりあえずこいつらに見張りを立てて、他の方法を考えましょうか」
「本当に捕まえる気なのか。お頭がやってること、知らねえわけじゃねえだろう」
「何ですって」
 なじるような口調にレナは柳眉を跳ね上げた。
「確かにロミオは海賊らしくないわね。でも、海賊を名乗っているからには、海賊として、捕まえる」
 一句一句はっきりと告げ、峻烈に踵を返す。海賊たちは答える言葉を持たなかった。
「おれ、疲れた。さっさと寝てー」
 尋問に一切加わらなかった夕凪が初めて口を開いた。
「ちょっと。やる気あるの?」
「やる気がねーなら来てねーよ」
「まあまあ、お二人とも。今日はもう遅いですし、とりあえず宿で休みませんか。彼らを見張るために交代で起きることにすれば不都合はないでしょう」
「お好きにドーゾ」
 取りなすように割って入るシャルルを無表情にかわし、夕凪はふらりと外に出た。ひんやりとした夜風の感触にわずかに唇を歪める。この風はロミオの頭を冷やしているのだろうか、それとも。
 ロミオ包囲網は少しずつ、しかし確実に狭まっている。
(まだくたばんなよ、おっさん)
 知りたいことがある。ロミオに質したいことがある。だから潜伏場所を探す、それだけのことだ。

   ◇ ◇ ◇

「リコ。まだ起きてたの?」
 咎めるような母の声にリコはびくりと体を震わせた。手元が狂う。ああ、と声を上げた。
「あら……また王子さまを描いてたのね」
 娘の手元を覗き込んだ母親は微苦笑した。声をかけられて驚いたのだろう、海賊王子の似顔絵は朱で汚されていた。
「ママがびっくりさせるから……」
 クレヨンに似た赤い筆記具を握り締め、リコは目を潤ませる。母は「ごめんね」と娘の頭を撫で、寝室へと促した。
「今日はもう寝なさい。よく寝て、頭がすっきりしたらもっと上手に描けるわよ」
「はぁい」
 部屋の明かりが消される。小さな背中を、真っ赤に汚れた王子の似顔絵が見送っていた。

   ◇ ◇ ◇

「はーい、交代だよ」
「おう。頼む」
 ツヴァイとタッチを交わし、緋夏が次の見張りについた。健も一緒に腰を下ろす。縛られ、部屋の柱に繋がれた海賊たちの正面では寝ずの番に臨むアンリがむっつりと胡坐をかいていた。
 一行が泊まっているのは大部屋である。部屋の中央に海賊を繋ぎ、奥には寝台と浴室。女性陣に配慮し、寝室は分厚い合板で区切られていた。
「なんか、大人しいねー?」
 沈黙を貫いている海賊たちに緋夏は首を傾げた。緋色の瞳は珍しい物でも見るように彼らの顔を覗き込んでいる。
「抵抗しないの? もう諦めたとか?」
「………………」
「仲間の数はどれくらい? 負傷の状況とー、団全体の戦力とかは?」
「………………」
「答えるわけないか。じゃあ、なんで賭博場にいたの? 遊んでたわけじゃないでしょー?」
「……金が必要だった」
 呻くような手下の言葉に健はわずかに唇を歪めた。
「フランチェスカって人は助けてくれないの?」
「下手な借りは作らねえ」
「縄張りにかくまってもらってる時点で“借り”ができてるんじゃない? そうそう、縄張りっていえば……ガルタンロックの縄張りでもあるんでしょ、ここ」
 ガルタンロックの名に反応したのだろうか、海賊たちはぴくりと頬を痙攣させる。緋夏は彼らの前にしゃがみ込み、肩にかかる緋色の髪をばさりと払った。
「ガルタンロックはゲドウだってレナが言ってた。例えばこの町の娼館の娼婦とかもガルタンロックが“調達”してるんでしょー、さらわれたり売られたりしてさ。それって人身売買ってことだよね。王子様が嫌いそうな話だよね。けど此処ってそういう町なんでしょー? ロミオはこの町を自分の目で見たわけ? 見たらどう思うかなー?」
 それは尋問でも厭味でもなかった。好奇心からくる疑問と質問だった。
「……お頭は出歩けない」
「ふーん? そっか、センプクしなきゃいけないもんね。それか、出歩く気力もないとか? それともこの町を見たくないから出歩かない? どっち?」
「………………」
「ま、ムズカシイ話はいいや。何して遊んでたの? ルーレット? スロットみたいなのもあったよね? ねーねー」
 火の粉のように煌めく瞳の前で海賊たちは再び口を閉ざす。緋夏は「ツマンナイ」と不機嫌に頬を膨らませた。
 アンリは口を開かない。緋夏と手下のやり取りを止めるでもなく、思い詰めたように顔をこわばらせているばかりだ。
 健はそっとアンリの隣に腰を下ろした。アンリは険しい一瞥を投げてよこした。
「船の上では済まなかった。……これ、読んでくれないか」
 誠心誠意謝罪し、紙片を差し出す。アンリは露骨に不快そうな表情を浮かべたが、健はアンリの手を両手で包み込むようにして紙片を握らせた。
「何だこれは」
「読めば分かる」
 とにかく読んでみろと健の目が言っている。アンリは猜疑と不審を浮かべながらも紙を開いた。
「……何のつもりだ」
 そして、すぐに剣呑な視線を向けた。
 健が渡したのはリコの手紙の写しだった。船内で書き写しておいた三通のうちの一通だ。
「それも事実のひとつだろ? ……お前だってもらえる筈なんだ、こういうものを。海軍にとって、海軍を頼る人にとって何が一番大事か考えれば」
 窓を覆うカーテンがわずかに揺れている。
「シャルルにも言ったが、俺はロミオを捕まえに来た。けど……今がお前にとっても岐路だと思ってる。普通、目の前で溺れかけてる人間が居たら全力で助けようとするんじゃねぇ?」
 船に乗り込んだ時からアンリと友誼を結ぶよう努めてきた。任務としてのみならず、健個人としてアンリを気にかけているのかも知れない。
「……何が言いたい、サカガミ」
「健でいいよ」
 健は気さくに笑い、片膝を立てた。
「お互い感謝の手紙を貰えるように頑張ろうぜってことだ」
 
 絡みつくような視線を感じる。背を向けることすら面倒だ。
「ごゆっくりお休みください」
 見え透いた言葉がかけられる。夕凪は薄く目を開いた。
 向かい側の寝台に横たわったシャルルが暗闇の中で目を光らせている。
「明日もよろしくお願いいたしますよ。私どもといたしましても、坊ちゃんのことはとても“頼り”にしておりますから」
 返事の代わりに寝息を立てる。ゆっくりと意識を入水させていく。潜るような感覚とは対照的に、視界は上へ上へとずれていく。
「見張りの順番は最後でしたねえ。夜明け近くになるでしょうか……」
 文字通りの“抜け殻”に声をかけ続けるシャルルに冷めた一瞥を落とし、夕凪の意識は肉体から離脱した。音もなく、深更の屋外へと抜け出す。ぽきりと折れてしまいそうな三日月だけが夕凪を見ている。

 がたりという物音が静寂を打った。細く開いた扉から青白い灯明が忍び入っている。ともしびではなく、月光と知った。
(満月なのか?)
 つい先日が新月だった筈だと訝るロミオだが、外が明るいのではなく内が暗すぎるのだとようやく気付いた。
「お頭」
 配下が遠慮がちに声をかけてくる。焦燥と不安を見て取り、ロミオは眉を跳ね上げた。
「――戻って来ないだと?」
「はい。賭博場のニイちゃんが言うには、向こうで騒ぎが起こったとかで……もしかして、それで」
「追手がかかったか」
 ロミオは舌打ちすることもせずに呟いただけだった。
 小さな物音が響き、はっと身をこわばらせる。痩せたネズミが目の前を走り抜けていった。
「貧相な体しやがって。此処に居たって食い物はないぜ」
 自嘲するように呟いたその時だ。
「おっさん、萎れたな」
 聞き覚えのある不機嫌な声――まるで寝起きの悪い少年のような――がうっそりと響く。
 痩せたネズミが出来の悪い糸繰り人形のような動きでUターンし、目の前に戻ってきた。ロミオは瞠目した。ネズミが喋っているのか。しかし、この声は。
「なんつーザマだよ、あのおっさんは命を懸けてアンタを守ったのに」
 ネズミに憑依した夕凪はロミオをひたと見据えた。ジャンの居場所が此処だと知った時から潜伏先の見当は付いていた。しかし慎重な夕凪は推測を補強する手掛かりを求めた。賭博場の蝶ネクタイが怪しいと睨んで彼の心を読み、更に精神的特徴を把握して彼の行動を追尾した。海賊の頭と話せるほど偉くないという彼の言葉は嘘ではなかった。彼が繋がりを持っていたのはロミオではなく、ロミオの配下であったから。
 次に捕えた手下の心を読み、ロミオの居場所を確信した。だが、生身のまま動けばシャルル達に捕捉されて踏み込まれてしまう。それでは不都合だった。
「で、この先どうすんだよおーじサマ。ずっと此処に潜ってんのか」
 重傷を負ったジャンは別室に寝かされている。潜伏中の身では医者の所に連れて行くことも充分な手当てを施すこともできないに違いない。放っておけば死ぬだけだろう。
 ジャンは体を張ってロミオを守った。それを見たロミオは何を思い、どう変わったのか。
「ここで折れるのか。それともあの綺麗事を掲げ続けるか? おれはそれが知りたい」
「綺麗事、だと」
 ロミオの声にわずかに力がこもる。反駁する気力は残っているのか。
 痩せたネズミの眦(まなじり)がかすかに細められた。それは幾分いびつな、好奇の笑みに似ていた。
「あのおっさんがアンタの代わりに倒れるの見て、どう思った。相も変わらず“困ってる奴がいるんなら助けたい”って言い続けんの?」
 ロミオも手下たちもなりは変わらない。服はくたびれ、髪は乱れ、好青年然とした顔立ちは垢と汗まみれ。理想という名の綺麗事を貫いた果てに同胞は血を流し、欲望の掃き溜めのような町に流れ着いて、賭博で食い繋ぎながら息を潜めている。それが今の彼らの姿だ。
 ロミオは答えない。迷っているのか、答える術を持たぬのか。重く湿った沈黙ばかりがわだかまる。
 やがて夕凪は興醒めした溜息をこぼした。
「萎れたな」
 再度繰り返し、ネズミの体から意識を切り離す。
「いいこと教えてやろうか。“人助け”をしてきたアンタを憎む奴がいる。あと、おれらは海軍の奴らと一緒にアンタを捕縛しに来た」
「憎む」
 ロミオは捕縛よりもそちらのほうに反応したようだった。
「アホらしいとおれは思うけどな。若いほうの軍人だ……」
 夕凪の声は壁にこだまするように尾を引き、緩慢に消えた。

 暗闇が降ってくる。纏わりつく視線を感じ、意識を第三の目へと移動させる。仮面のようなシャルルの微笑が出迎えた。
「そろそろお時間ですよ」
 促されるまま、夕凪はのろのろと寝台を降りた。
「見張りなんざ必要ねー」
「どういう意味です?」
「おーじサマの居場所、分かった。おれらが着いたのとは反対側の港だ」
 水平線が払暁に染まり始めている。逃げ切るか、捕まって縛り首になるかは海賊次第だ。

   ◇ ◇ ◇

 重苦しい空気がとぐろを巻いている。
「お頭」
「お頭……」
 仲間の声に覇気はない。
 今から海に漕ぎ出すか。海軍の巡視船に見つかったらどうする。ならば戦うか。この状態で?
 それにあの少年はなぜ追手の存在を知らしめたのか。逃がすためか? しかしあの口ぶりは……。
 ――考えても詮無い事だ。猶予はそれほど残されていない。
『この先どーすんだよ』
 少年の声が脳裏に甦る。
 どうするかなど分からない。考えている余裕もない。軍への連行を拒否する本能と果てのない自問ががかぎろいのように揺れ、せめぎ合ってている。
『アンタを憎む奴がいる』
 くたびれたポケットに手を突っ込む。コンパスは壊れたままだ。
 真鍮のチェーンは、いつの間にか千切れてなくなっていた。

   ◇ ◇ ◇

 夕凪の情報を受けてすぐさま港へと移動した一行だが、レナの表情は少々複雑だった。
「今は任務を果たそうぜ。な?」
「ええ」
 ツヴァイに諌められ、生返事をする。猜疑の視線は最後尾で傍観を決め込んでいる夕凪へと向けられた。
(……どうしてすぐに教えてくれなかったのかしら)
 読心ならば手下たちを捕まえてすぐに、あるいは彼らを発見した時点で行えたのではないのか?
「みんな、離れて」
 緋夏が何かを告げるように前へと進み出た。
「――いっぱい吐くよ」
 すうと息を吸い込む。次の瞬間、ごうと火の手が上がった。
 山火事のような炎が夜明けの港を照らし上げる。緋夏の両手が煌めく。十本の指には十個のリングがはめられている。指輪が鮮烈に閃く度、めらめらと燃え上がる火は不可思議なヒトガタへと変貌を遂げる。それは兵隊だった。炎の兵隊たちが次々に、何体も作り上げられていく。
「出し惜しみなんかしないからね」
 緋夏の目つきは肉食獣のそれへと変わっていた。マッチの箱を開け、中身を無造作に口中に流し込む。竜のブレスの如く口から炎を吐き出す。両手を振るって兵隊を成形する。緋色の瞳にちろちろと反射する炎は蜥蜴や蛇の舌のようにも見えた。
「ほらほら、ぜーんぶ燃えちゃうよ!」
 港には係留船が列を作っている。多くは木製だ。火が移ればひとたまりもない。
 ぎしり――と一艘の漁船が不穏に軋む。
 炎のスポットライトの中、煙にいぶり出される虫のように“彼ら”は現れた。
「……ふざけんな」
 ツヴァイの奥歯がぎりっと噛み鳴らされた。
「どうしてお前が出てこねえんだよ!」
 皇子の咆哮は手下たちの鬨の声に掻き消された。
「近接は任せろ!」
 健のトンファーが、緋夏の炎兵隊が唸りを上げる。海賊たちはやつれていたが、鬼気迫る形相とともに襲いかかって来る。今や気力だけが彼らを動かしている。
「ふざけんな!」
 血を吐くようなツヴァイの絶叫。ナイフが炎と払暁を裂いて飛ぶ。肩や足を穿たれた海賊たちに、シャルルとアンリのサーベルが振り下ろされる。
「出て来いよロミオ! こんなの、指導者のやるこっちゃねえぜ!」
 立派な理想を持っているのに、なぜ暴力行為などに走った。良い仲間を持っているのに、なぜ彼らを危険な目に遭わせた。
 そして今も、また。仲間がこんなにも必死になっているというのに。
「よそモンが知ったようなこと言うんじゃねえ!」
 背中から体当たりを喰らい、ツヴァイの態勢が崩れる。振り下ろされるカトラス。轟音。間一髪、レナのサンダービーストが放ったいかずちが海賊を打ち据えた。
「俺達の……意志だ」
 落雷を受けた手下は途切れ途切れに告げた。
「お頭は――」
「やめろ!」
 掠れながらも凛とした声が響いた。
 傍観を決め込んでいた夕凪が初めて表情を動かす。
 シャツを血に染め、垢まみれの顔で現れたのは“海賊王子ロミオ”その人だった。 

 ごうごうと炎が猛る。ばちばちと火の粉が爆ぜる。
(……違う)
 ロミオ自身の出血ではない。夕凪は瞬時にそれを見抜いていた。夕凪が接触した時にはあんな血痕はなかった。
(誰の血だ? あのおっさんか……?)
 渦を巻き、壮絶に燃え上がる炎。此処はまさに戦場だ。それなのに、どうだろう。ロミオの瞳はなぜああも揺れ惑っている?
「手加減なんかしないから。逃げたいなら自分で何とかしてみせなよ」
 緋夏の瞳もまた燃えている。峻烈な声音とは裏腹に、緋色の双眸は真っ直ぐにロミオを見つめている。港に降り立った王子を炎兵隊が素早く包囲する。血染めのシャツは炎に照らされ、より一層禍々しい色彩を放っていた。
「ふぅ~ん……ここで、何をしているのかしら?」
 ヒールを高らかに打ち鳴らし、レナが星杖・グランドクロスを振りかざす。
「ひとつだけ言える事は……今日で、おしまいかしら」
 真紅の双眸が静謐に燃え上がる。サンダービーストが咆哮する。緋夏の炎が絡みつき、雷が更にボルテージを上げる。
「待ってくれ」
 レナを制したのはツヴァイだった。
「……ロミオ」
 ツヴァイの視線は厳しい。だが、炎に照らされる彼の表情が苦悶に歪んでいるのが誰の目にも見て取れた。
「お前、今まで何をしてきた。義賊ったって、暴力、犯罪、命の軽視……やっちゃいけないことだぜ、そりゃ。俺からしてみりゃ、お前だって海賊だ。お前もガルタンロックも同類だ」
 ――ロミオの顔が決定的にこわばった。
「わりぃけど、お前を海軍に引き渡させて貰うぜ」
 抵抗すれば交戦も辞さないとばかりにナイフを構える。ロミオの視線が一行の上を行き来し、アンリとシャルルの上で止まった。
 その時だ。
「……何が理想だ」
 ごうごうと猛り狂う炎の中で、その声はなぜかはっきりと皆の耳を打ったのだった。
 健が怒号を上げる。“彼”はツヴァイの横を通り過ぎ、一直線にロミオへと迫った。何を意図しているのか分からず、緋夏は炎の兵隊を操ることすら忘れた。

 どつり。

「―――……ッ!」
 押し殺した悲鳴。炎に囲まれ、崩れ落ちる王子。
 炎の兵隊を跳び越え、サーベルをロミオの腹に突き立てたアンリは、肩で息をしながらその場に立ち尽くしていた。

 空気が凍りついた。時さえも止まった気がした。 
 マグマのような炎が地面を舐めていく。地べたを這いずり、王子が呻いている。まるでガマガエルのようだ。目を血走らせたアンリは口汚くロミオを罵倒した。
「何が理想だ。実のない理念で何ができる! どうして父が貴様なんかに! 父は大切な者のために己を枉げた、貴様より数倍優れた人だったのに……っ!」
 身をよじらせる炎がアンリの横顔にどぎつい陰影を刻み込む。とどめを刺さんと再度サーベルを振りかざす。シャルルが地を蹴って飛び出す。だが、それに先んじてばさりと白衣が翻った。
 棺に釘を打ち込むような鈍い音が暁の下に響き渡る。
「……ってぇ」
 業火の中、アンリの刃をがっちりと受け止めたのは健だった。
 ひたり、ひたり。朱がサーベルを伝い、滴る。紅蓮の炎を照り返し、健の血は怖気がするほど鮮やかな色を放っている。
「サカガミさん――」
「大丈夫だ。……待ってくれ。頼むから」
 シャルルを制し、健はサーベルの刃を握る手に力を込めた。朱に染まっているのは掌だけだ。白衣の内側に隠した武器たちが強固な盾となってくれた。
 健だけがアンリを気にかけていた。だから、健だけが咄嗟に動くことができた。
「……放せ、サカガミ」
 サーベルが、アンリの歯がかたかたと鳴っている。掌が、熱い。肉に灼けつくような痛みと一緒に、アンリの震えが伝わってくる。
「断る」
「放せ! 俺はそいつを――」
「刺したければ刺せ! 死んでもこの手は放さねぇ!」
 ぎちりと、更に刃を握り込む。船上でアンリの手首を掴んだ時と同じように。眉間に脂汗が噴き出す。痛みで脊髄が痺れる。
「こんなことして何になる……復讐は何も生まない」
「綺麗事を言うな! 貴様もロミオと同じか!」
 アンリの目尻にじわりと涙が滲んだ。
「無益は百も承知だ。だが、本気で復讐を考えたことがあるか? 理屈で片付けられない感情を経験したことがあるのか? 逆恨み? だから何だ! 人を傷付けたくせに、王子ともてはやされていい気になっているこいつを俺は許せない!」
「頼むから聞いてくれ! 復讐して何になる。ロミオは裁きを受けずに死に、お前は軍から懲罰を受けてそれで終わりだ。何ひとつ変わりはしねぇんだよ!」
 ゆっくりと、握った刃を引き寄せる。
「なあ。言っただろ、感謝の手紙が貰えるように頑張ろうぜって。お前軍人だろ。何のために軍に入ったんだ。軍務の名の下に私刑を果たすためか。なあ……」
 サーベルごとアンリを抱擁するようにして健はその場に崩れ落ちる。

 友の血を吸ったシャツが自身の血に染まっていく。炎に灼かれた地面は熱く、体の中は更に熱い。
(ジャン……)
 海軍が来ると知った後、船倉に横たわった朋友の元に向かった。あの事件の後、一応の手当ては施したものの、深傷を負ったジャンはずっと熱にうなされていた。包帯の下の傷口はただれ、腐りかけたかさぶたの下から黄ばんだ体液が滲出していた。ロミオにできたのは彼を抱擁することくらいだった。くたりとした友を抱きかかえながら、無力感に身を切られた。
 清廉な理想では仲間を守ることすらできなかった。
(おれは……無力だ)
 平衡感覚がぐるぐると回り始める。吐き気が食道を駆け上がる。
『……さ――……き!』
 うっすらと目を開けば、炎と同じ色をした女――視界もぐにゃぐにゃとしてはっきりとは分からないが――が、何事か大声で叫んでいた。
『王子さま、助けてくれてありがとう!』
 幻聴か。
『王子さまのおかげです! ママもパパもありがとうって言ってました!』
 ああ――こんな自分に、なぜ感謝の言葉など。
『かいぞくでも、あたしを助けてくれたもん! ありがとう! 王子さま大好き! 大好き!』
 ずいぶんと都合の良い幻聴ではないか。だが……こんな空耳なら悪くない。
「……ありがとう」
 うわごとのように囁き、王子は暗闇の底で目を閉じた。

「畜生!」
 ツヴァイは拳を地面に叩き付けた。誰も気付かなかった。アンリがロミオに向ける苛烈な憎悪、『奴と刺し違える覚悟で海軍に入った』という言葉。兆候はあったのに、彼が復讐を企図していることに誰一人として気付くことができなかった。
「ちゃんと聞こえたかな」
 リコの手紙を大声でそらんじた緋夏は表情を曇らせた。手紙を渡せない状況になるかも知れないと考え、前もって内容を暗記しておいたのだが……。
「なんで。なんで?」
 分からない。なぜこんな終幕になったのか、分からない。
 ぱん、という乾いた音が響いた。
「馬鹿者」
 能面のような顔で立ち尽くすアンリに平手打ちを喰らわせ、シャルルはロミオの傍に膝をついた。首筋に触れる。弱いが、ぴくぴくと脈はある。レナが素早く応急処置を施した。彼女がきつく唇を噛み締めていることに誰が気付いただろう。
「まずは手当を行いましょう。その間に応援を呼びます」
「そうね。……とりあえず、捕縛は果たしたってことでいいのかしら」
 シャルルは答えなかった。
 夕凪は一歩離れた場所から冷めた目でなりゆきを傍観していた。目的は果たした。訊きたいことは訊いた。ここで斃れるならそれまでだろう。
 だが。
「アホらし、ガキかよ逆恨みじゃねーか」
 ぼそりと漏らした感想はあまりに的確かつ不適切で、間の悪い事に、シャルルの耳にしっかりと届いたのだった。
 温和な筈の軍人は無遠慮に、乱暴に夕凪の胸倉を掴んだ。大人の力で体を引き上げられた少年の足は地面を離れ、ぶらんと浮いた。
「確かに逆恨みだが、奴が問題にしていたのは私怨ばかりではないぞ。そんなことすら分からぬガキにガキと呼ばれる覚えなどない――が」
 夕凪を宙吊りにしたまま、シャルルは不意に唇だけで微笑んだ。
「私としたことが、肝心な点を忘れておりました。坊ちゃんのおかげでロミオが見つかったのですよねえ、いくら腹立たしくとも恩人は恩人でしたな。いやはや申し訳ない、とんだご無礼を……」
 夕凪は相変わらず無表情かつ無関心だった。精神感応の力に長けてはいても、アンリの感情に初めから興味などない。
「傷を見せて」
 レナは健の傷にもてきぱきと処置を施した。創傷は肉まで達している。浅い傷ではないが、掌のみの負傷で済んだことは不幸中の幸いだろう。
「馬鹿なことするわね」
 知らず、口調がきつくなる。健は弱々しく唇の端を吊り上げた。苦笑いしたつもりらしい。
「普通、目の前で溺れかけてる人間が居たら全力で助けようとするんじゃねぇ?」

 夜が明ける。東の果てから、まっさらな朝がやってくる。
 白い光の下で、燃え残っていた炎はいつしか消えていた。
 後に残されたのは焼け焦げた地面ばかりだった。

 海の風と陸の風は日の出の刻に交じり合い、入れ替わる。その刹那、海上や沿岸部から一時的に風が消え失せる。その不気味なまでの無風状態――朝凪の中、船はのろのろと蓮の町を離れた。
 夜明けに染まる海面を無言で見詰める軍人二人に健が静かに歩み寄った。アンリがわずかに顔をこわばらせる。健の両手に巻かれた包帯には血が浸み出している。シャルルは軍帽を取り、深々と一礼した。
「申し訳ありませんでした。私の部下がとんだことを」
「いや。俺が自分でサーベルを掴んだだけだ」
 健は軽く肩を揺すり、大したことはないと示すように手を握ったり開いたりしてみせた。
「シャルル、アンリ。ロミオを捕縛できたら聞いてほしいことがあるって言ったよな」
「そうでしたな。そろそろお聞かせ願えますか?」
「ああ。――ロミオと話をした上でいい、彼に海賊限定の私掠船免状を与える検討をして貰えないか。決めるのはもちろん海軍だ。俺が言ってるのはあくまで提案さ」
 シャルルは「ほう」と眉を持ち上げた。
「非合法な手段を選んだロミオに弁解の余地はない。それでも無法者同士が食い合うのは海軍にも悪くない話の筈だ。民衆の反感だって買わずに済む」
 まっとうに考えれば、ジャンクヘヴンはロミオを処刑するだろう。しかし市民にも人気があるという点で多少躊躇いを感じるのではないかと健は読んでいた。
 ロミオは一応の手当てを受けたが、重傷であることには変わりない。回復するまではしかるべき施設に収監されることになるだろう。
「それから、これを証拠として軍に持ち帰ってほしい。リコの手紙の写しだ。……これもひとつの事実として、さ」
「確かにお預かりいたします」
 シャルルは健から受け取った手紙を丁寧に畳み、懐にしまい込んだ。健の手元には写しがもう一通残っている。これは健が持ち帰り、資料として世界図書館に提出するつもりでいた。
 アンリは黙っている。健と目を合わせようともせず、朝凪の水面に視線を投げ出している。
「……サカガミ」
 やがて、ぽつりと健の名を呼んだ。
「俺は……一体……」
「健でいいって」
 嗚咽を漏らすアンリの肩を叩き、健は気さくに笑った。
「な、これからだぜ。お前は俺を忘れるけど……俺は忘れないから」
 旅人は任務が終われば帰還し、また次の地へと赴く。川の流れのように、決してひとつところに留まることはない。
 アンリはくしゃりと顔を歪めて落涙した。シャルルは凛と背筋を伸ばし、無言で健に敬礼した。

 ぎしりとステップを軋ませ、ツヴァイは船室に降り立った。
 包帯まみれのロミオとジャンが声もなく横たわっている。ロミオの瞼は薄く開かれているようだが、意識は未だ戻らないようだ。
 ぷうぅーん……。ぷうぅーん……。
 かすかな羽音が耳朶を掠めていく。どこからか迷い込んだ蠅がジャンの鼻先に止まり、足を擦り合わせ始めた。既に死んでいるのではないかとツヴァイは唾を呑んだが、確かめることはできなかった。本能的な恐怖と拒絶が湧いた。それは死体に対する畏れに似ていた。
「……ロミオ」
 王子の傍らに膝をつき、耳元に口を寄せる。
「今回はこんな結果になっちまったけどさ。もし、まだやりたい事があるなら……脱走してでも出て来いよ」
 いらえはない。けれど、届いていると信じている。
「んで、今度は別の方法でブルーインブルーを変えていきゃいいさ。お前の理想に共感するヤツは沢山いるだろうしさ。……お前も、しっかり支えてやれよ」
 最後の一言はジャンに向けられたものだった。彼の手から鎖の切れ端らしきものが覗いていることに気付く。血で汚れた真鍮のチェーンだ。
「目ェ覚めたらこれ読みな」
 健から受け取った手紙の原本をロミオの懐に差し込む。
「お前のジュリエットから手紙だぜ。これもお前の姿には違いねーだろ?」
 ロミオとジュリエット。壱番世界であまりに有名なその作品が悲劇であることをツヴァイは知っていたのだろうか。
 一方、緋夏とレナは甲板で海面を眺めていた。朝日を弾く水面は不規則に、不定形に煌めき続けている。眩暈がしそうだ。ほんの少しの風でいかようにも形を変える輝きを見つめていると幻惑されそうになる。
「痛っ……もぉー」
 掻き上げた髪の毛が指輪に引っ掛かり、緋夏は不機嫌に舌打ちした。潮風で髪が硬くなったのか。鮮烈な赤毛は湿気を含み、わずかにうねりと広がりを帯びている。
「なんか、面白くない」
 親指の爪を噛む。乱暴に立てた歯は指先の皮をも突き破ったが、その痛みが緋夏の気を引くことはなかった。
「ロミオは捕まった。あたし達は任務を果たしたわ。……任務は果たしたのよ」
 レナは自らに言い聞かせるようにそう繰り返した。言葉ほどの達成感はないけれど。
 喉に引っ掛かった小骨のように、消化しきれない違和感ばかりがわだかまっている。考えるべきことはロミオの捕縛以外にもあったのかもしれない。
 ――自分の行いの裏で泣いている人間がいることを知っているのか。
 ――王子さまにお礼を言いたくて。
 対照的なアンリとリコの言葉の深意を誰が重く受け止めただろう。どちらも真実の裏表であることに誰が考えを巡らせようとしただろう?
「海賊は海賊ですわ」
 やがてレナはきっと唇を引き結んだ。
「けれど、このままでは終わらないでしょうね」
 船は一路ジャンクヘヴンへと向かう。ちかりちかりと、前方で規則的な光が瞬いた。海軍の迎えの船がやって来たらしい。
「………………」
 夕凪はゆっくりと目を開いた。
 ――ジャンの気配が途絶えた。
「やっぱりな」
 ぼそりと呟いた夕凪は欠伸をこぼしただけだった。

   ◇ ◇ ◇

 真っ赤な爪が華奢なシャンパングラスを弄ぶ。物憂げに頬杖をついた魔女の肩に豊かな赤毛が艶めかしくこぼれた。
「つまらないわ」
 赤毛の魔女――フランチェスカは開口一番そう言ってのけた。
「もうちょっと骨があるかと思ってたけど……結局、単にお縄になっただけってこと? まるで三流の戯作ね。ありきたりすぎる結果なんか面白くも何ともないわ」
 やれやれといった風情で溜息をつき、配下を下がらせた。後には女海賊の側近だけが残った。
「ねえあなた。蓮の花がどうしてあんなに美しいか知ってる?」
「は?」
 唐突な問いに側近は戸惑いを露わにする。この首領の言葉はいつだって謎めいている。
「泥の花だからよ。泥は冷たくて汚いけれど、とっても栄養豊かなの。つまり、厳しい環境に耐え抜いた種子だけが美しい花を咲かせることができるってわけ。花どころか芽さえ出ずに終わってしまう種も多いでしょうけれど」
 あの王子はどちらだったのかしらと過去形で括り、魔女はすいと目を細めた。
「もうひとつ。ジャンクヘヴンに協力している謎の一団がいるっていう話は聞いてる?」
「奇抜な格好をした連中としか」
「ええ、そうよ。今回出て来たのもそいつらなのかも知れないわ。使えそうならちょっと調べてみるつもりでいたけれど――」
 グラスを傾ける。縁に残ったルージュを慣れたしぐさで拭い、ネズミに飽きた猫のような表情で肩をすくめた。
「判断はお預けね。もっと面白いものを見せてくれるかと思ってたのに、期待外れだわ」
 その頃、ロストナンバー達は0世界に帰還していた。出迎えたリベルに健が簡潔に結果を報告し、リコの手紙の写しを渡した。
「お疲れ様でした。皆さんご無事で……とはいきませんが、重傷者は出なかったのですね」
「大した怪我じゃねぇよ」
 健は包帯を巻いた手をひらひらとさせた。
「ロミオの処断は海軍の管轄ですから、現時点では何とも言えないでしょうね。ひとまず、海軍との関係悪化は避けられたと見て良いでしょう」
「だといいけれど」
 レナは眉間に皺を寄せた。
「一人、ロミオの居場所を把握していたのに速やかに教えてくれなかった人がいるものだから」
「しかし、最終的には士官に情報を伝えたわけですから。火種として残る可能性がないとは言い切れませんが、致命的なファクターではないと考えます」
 客観的な推測を述べるリベルの目には相変わらず表情は窺えない。彼女に感情があるとしたら、世界司書としてロストナンバー達を労う気持ちだけだろう。
「本当に、お疲れ様でした」
 リベルは折り目正しく一礼した。
 ロミオは一命を取り留め、現在、司法手続きが進行中である。

(了)

クリエイターコメントありがとうございました。ノベルをお届けいたします。
事務局さんと相談した上でこの結末といたしました。

健さん、負傷させて申し訳ありません。
アンリにアプローチしていたのが健さんだけでしたので、あそこで止められるのは健さんしかいないと判断しました。見せ場のひとつと思っていただければ幸いです…。

また、OPのクリエイターコメントの、
>彼(アンリ)の言い分には色々ツッコミどころがありますが、このシナリオの主眼はそこではありませんのでよろしくです。
というのは、アンリに説教することが主たる目的ではないですよという意味でした。

海軍からの依頼は果たしましたが、後味はやや悪い模様。
今後、何か動きがあるかも知れません。
公開日時2010-08-27(金) 21:00

 

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