「よっ……と」 シド・ビスタークがダクトから掴み出したのはデフォルトフォームのセクタンだった。「こんな所にも入り込んでやがるとは……にしても」 手にしたカゴにセクタンを放り込み、シドは首をかしげた。「最近、妙にセクタン多くないか?」 カゴの中では捕獲されたセクタン達がぷるぷると揺れている。 セクタン。チャイ=ブレの意志から生まれた、冒険旅行のパートナー。旅のアシストとしてのみならず、コンパニオン――例えば犬や猫を家族同然に可愛がるように――として傍に置くコンダクターも多いという。 だが、そのゼリー状の体は時に小さなトラブルを引き起こす。 配管に詰まってロストナンバー達への連絡を滞らせたり、画廊街に溢れて画家たちのアトリエを塞いだり、司書室の電話線にぶら下がって司書たちの連携を妨げたり……。 その都度、世界図書館の担当者たちが懸命に処理に当たった。彼らの迅速な対応と誠実な報告に信頼感を増したロストナンバーも多いだろう。それにトラブルといっても、セクタンの愛くるしい見目もあってか、深刻な苦情にまで発展するケースは少なかった。皆が「またか」と微苦笑しながら事態を見守るような風潮さえ生まれていたのである。 そう――あの日までは。『皆様には大変ご迷惑をおかけしております。秋のセクタン大発生により路線が塞がれたため、螺旋特急の運行を停止中です。取り除き次第運転を再開いたしますのでしばしお待ちください。尚、本日発車予定の列車に関しましては状況を見て対応を――』 ターミナルのホームには幾度目かになるアナウンスが流れている。「どういうことなんですか、シド」「いや、だから秋のセクタン大発生だろう」「大発生の原因はと訊いているのです」「知ってたら教えて欲しいね」 無表情なリベル・セヴァンの前でシドは肩をすくめるばかりだ。 ターミナル中が色彩の洪水で溢れている――。一言で表すとしたらそんな形容が相応しいだろうか。 セクタン、セクタン、セクタン、セクタン。どこもかしこもぷるぷるだらけ。この間にも世界図書館には怒涛のような報告が押し寄せている。曰く、セクタンに戸口を塞がれてアトリエに入れない画家がいる。曰く、図書館ホールに溢れたセクタンのせいで冒険旅行の依頼を確認できない。曰く、自身が管理するチェンバーをセクタンに占拠された。曰く、セクタンバリケードに阻まれ、出来上がった報告書を提出できずにいる司書がいる……。「このままにしてはおけません。原因究明より、まずはこの事態に対処せねば」「リベルー、大変大変!」 ピンク色のおさげを揺らして駆けてきたのはエミリエ・ミイだった。「あのね、あのね。任務から帰って来たロストレイル3号がホームに停まってるんだけど――」 息を切らしながらもたらされた報告にリベルは眉を跳ね上げた。 その頃、ロストレイル3号に残されたロストナンバー達は息を殺して外の様子を見守っていた。 うようようようよ、ぷるぷるぷるぷる。デフォルトフォームのセクタンにびっしりと張り付かれ、車窓も乗降口もぴくりとも動かない。 そう……旅人らはロストレイルの車内に閉じ込められてしまったのだ。 任務から帰還したばかりの彼らだが、ホームに流れるアナウンスを聞いて大体の状況は把握している。ロストナンバー達の力をもってすれば強行突破はたやすい。しかし世界図書館の所有であるロストレイルの車体を損壊することには躊躇いがある。「多分、図書館のほうで対応に当たってるんじゃないか? 時間が経てばそのうち出られると思うが」 と誰かが楽観論を述べた時、みしみしと不穏な音が鳴り響いた。車窓に亀裂が生じるや否や、どうと流れ込むセクタンの洪水! 数分後、リベルの放送がターミナル中に響き渡ることとなる。『世界司書リベル・セヴァンより、ターミナルの全住人へ。セクタンの群れによってロストレイル3号がジャックされました。自力で脱出した者のほか、未だ若干名が車内に取り残されている模様。至急救出チームを編成いたしますのでご協力願います。繰り返します――』
誇り高き獣の本能ゆえか、真っ先に異変を嗅ぎつけたのは灰色狼のロボ・シートンだった。 「なんだ? セクタンがいっぱいだな」 得体の知れない気配と蠢動。大地が怒りに満ちているとでもいうのか。 「……げ、まずい!」 ロボの耳が不吉な振動を捉えたまさにその時、別の車両のボルツォーニ・アウグストが静かに目を開いた。 いつも通り腕と足を組んで軽く瞑目したボルツォーニの姿はうたた寝でもしていたように見えたかも知れない。しかし彼は眠らない。不死の君主たるボルツォーニには眠りという概念自体が意味を成さないのだ。 (……どうしたことだ) 列車はとうにターミナルに到着しているのに、一向に降車できる気配がない。 「びゃびゃう、びゃう! びゃあぁぁぁうううぅぅんん!」 見れば、実体を備えた使い魔がぺったりと車窓に貼り付いて騒ぎ立てていた。ひどく興奮した使い魔は外を指して一層びゃうびゃうと吠え(?)立てる。つられて外を見たボルツォーニはようやく現状を把握した。即ち、セクタンの大軍によって列車がジャックされそうになっているという事に。 「ほう」 一ミリも表情を変えずにそう応じたのと、淡白な反応に使い魔がショボーンとしてしまったのと、車体が軋み始めたのとはほぼ同時だった。 目が覚めるとそこはセクタンの海でした。 「ななな何があった!? ちょっと居眠りしてただけなのに!」 陸 抗はあたふたと体を起こした。その途端、ぱちんという破裂音が響く。目印代わりに持ち歩いている風船――何せ抗は身長17.5センチメートルだから――がセクタン雪崩で割れてしまったのだ。 「……あれ、でも、ぷよぷよ気持ちいいな」 どさくさに紛れてセクタンに抱き付いてみる抗である。ついでに頬ずりもし放題だ。セクタンは微妙に嫌がっているが、仲間がひしめき合っているので拒もうにも拒めない状況である。 「ははは、何しても逃げられないぜ! っていうか自分が押し潰される時も近ぎゃあああああ!」 「ん? 悲鳴はすれども姿は見えズ……気のせいかナ?」 ワイテ・マーセイレが首を傾げている。風船がなくなった今、抗の姿はセクタンに呑まれて見つけることができない。 予想だにせぬ状況に放り込まれた者の反応は大雑把に分けて二つ。動転するかしないかである。その点では、覚醒だの真理だのを立て続けに味わわされるロストナンバー ――特に、ディアスポラ現象で異世界に飛ばされるツーリスト――は、ある程度の耐性があるのかも知れない。覚醒して0世界に到着したばかりのワイテもそのタイプなのだろう。というか、色々な意味で大らかなワイテは、色彩の洪水が渦巻くロストレイル車内を割と冷静に見つめているのだった。 「よく分かんないけど大変だネ、これハ。まずは状況を整理しようカ」 1.あっしは覚醒して別世界に飛ばされ、回収されタ 2.0世界に到着したと思ったら何かゼリーの海だっタ 3.ゼリーがウボァー 「まにゃーーーーーっ!!?」 アルド・ヴェルクアベルもウボァーとセクタンに流されていく。その傍らでワイテはしきりに首を傾げている。 「これが0世界なりの歓迎方法……ってわけじゃなさそうだネ」 「ああもう、なんでこんなにセクタンだらけなのさーっ!?」 「だけド、そうとも言い切れないカ。世界は広いんだかラ」 「ちょっとちょっと、のんびりしてないで助けてよー!?」 「んー、でも、少なくとも同じ車内にいた人達の反応見る限りレセプションではなさそウボァー」 ゼリーの海に押しやられ、ワイテはアルドともども流されていく。 「うわ!? ちょ、何だこの状況!?」 相沢優も少々動揺していた。 「と、とにかく脱出しないと……」 肩の上でぷるぷると震えるマイデフォルトセクタン・タイムを抱き締めたその時である。 後から後から流れ込むセクタンに文字通り足元をすくわれ、優は呆気なくゼリーの海に沈没した。ぷるんっと投げ出されたタイムは色彩の浪間へと消えていく。 「た、タイムー!?」 このまま藻屑と化してはたまらぬ。ざぶざぶとセクタンの海を掻き分けて進軍を開始した優だが、その表情には言葉ほどの危機感はない。むしろ、ちょっとした至福を感じている模様である。 「やっぱ良いよなぁー、デフォルトのこの感触。ぷるぷるしてさ……癒される……」 「……どっちかっつーともふもふのほうがいいけどな」 「え?」 「あーいやいや、別に」 怪訝そうな優の視線をかわすようにひらひらと手を振るのは鰍である。 (なに、このもちもちした虹の洪水……眼に優しいっつーか眼に痛いっつーか……もふもふ……) ドン引きしながらもポンポコフォームやフォックスフォームに目を奪われる鰍(三十一歳)は、実は隠れもふ好きだった。 「ンだよ、三十路がもふ好きで悪いかよ!? 俺だってなぁ、覚醒があと二年早けりゃ永遠の二十代ぬぉわあぁぁぁ!!」 「危ない!」 慌てて手を伸ばす優だが、一瞬遅かった。セクタンの雪崩に巻き込まれた鰍はあっという間に優の視界から姿を消した。 「うわぁぁあ、コン太どこに行ったー!?」 秋吉亮もまたセクタンの洪水に巻き込まれていた。肩に乗せていた狐型セクタンも見当たらない。 「と、とにかく外に誰かいないかな? おぉーい、助けてくれうぼはぁ!」 大きく開けた口にどどうとセクタンが流れ込んでくる。この状況では叫ぶことすらかなわないようだ。 「おっト。大丈夫大丈夫、慌てない慌てなイ」 色彩の濁流の中で亮の腕を掴む者がある。流されるまま流され続けていたワイテだった。どうにか体勢を立て直した亮はげほげほと咳込みながらも頭を下げた。 「あ、ありがとうございます。初めまして」 「初めましテ。やー、大変なことになったネー。ま、敵意ないみたいだしなんとかなるよネ。あっしを回収した人達の中にもこれと同じゼリー連れている人いたシ」 「回収? もしかして、覚醒して転移先で保護されたばかりのロストナンバーさん……?」 「そうだヨ、よろしク。そういえば、ゼリー連れた人どこ行っちゃったんだロ? ゼリーに埋もれて見えないけど大丈夫だよネ。強そうだったシ」 (大物だ……この人は大物だ……) ワイテの落ち着きっぷりに戦慄する亮である。 どこからともなく柔らかな湯気が漂ってくる。続いて、ふんわりとした紅茶の香り。サシャ・エルガシャが手にしたティーポットである。ホワイトプリムと黒に限りなく近い濃紺のエプロンドレス姿でティーセットと携えた彼女は正統派メイドそのものだ。 「慌てず騒がず落ち着こう。走るの危険事故のもと、注意一秒怪我一生。ワタシはメイド、笑顔を忘れずご奉仕を……よし!」 自らに言い聞かせるように繰り返し、サシャはピシャッと己の頬を叩いた……が。 「みんな落ち着いて! ハイ、紅茶を召し上がれ。体の中からホッと温ま――きゃーっ!?」 そもそもセクタンがひしめくこの空間で紅茶を配って歩こうとする事自体が無謀だった。ゼリーの大洪水に呑まれ、ドジっ娘メイドよろしくティーポットが宙を舞う。しかしこれはトラベルギアなので床に落としたくらいでは壊れない。 が、ポットの中身はそうもいかなかった。 アツアツの紅茶が綺麗な弧を描いて飛び出す。その先には篠宮紗弓がいた。 「きゃあ、ごめんなさい!」 「ん? ああ、平気だよ」 という紗弓の言葉通り、紅茶は不可視の壁に阻まれて飛び散った。冷静な紗弓は、セクタンが車内に雪崩れ込んだ瞬間に咄嗟に結界を張り巡らせていたのだった。 「さてさて。この後どうしようかねぇ?」 だが、咄嗟すぎて高度が足りなかったため、結界の中で体育座りにならざるを得なかった。おまけに紗弓はスタイリッシュでぴったりとした黒い服装に身を包んでいる。そんな彼女が体育座りでひっそりと微笑を浮かべる姿はある意味シュールだった。 「まぁ、どうにかなるかな」 以前の依頼で顔を合わせた優を結界に引き込んで助けようとしたのだが、そのいとまもなく彼は押し流されて行った。しかし救出部隊がやって来ている事は車外の気配で分かっているし、自分は結界の中にいれば身の危険もない。よって紗弓は冷静だった。別の言い方をすれば、非常に呑気だった。 「腹が減っては何とやら。良かったら一緒にどうだい?」 クッキーにマドレーヌ、フィナンシェ等々。持参の菓子を並べていく紗弓にサシャが目を輝かせた。 「ありがとう! 長期戦になるかも知れないし、カロリー補給しなきゃだね。そのうち外の人が何とかしてくれるだろうし……」 「そうだね、今はのんびり待とうか」 「うん。あ、ワタシ、サシャ・エルガシャっていいます。今お茶を」 「私は篠宮紗弓、よろしく。気を付けて、今お茶をこぼされたら避けられないからね」 「は、はい」 結界に入り込んだサシャは頬を赤らめて返事をした。もちろん体育座りで。 零は無である。ならば零とは不条理そのものだ。無なのに存在する。存在するのに目には見えない。実体を持たず、ただ概念としてのみ存するのである。 「――これはチャイ=ブレの導きかも知れないのです」 銀の瞳がゆっくりと開かれる。美しいウエーブを描く銀糸の髪が決意のように凛と揺れる。今、彼女が目覚めようとしている。 「ゼロとパートナーになる定めの、運命のセクタンを探すのです!」 無にして有、有にして無。窮極の美少女にして空気並に地味。二律背反にして不条理、謎めいた八歳児シーアールシー ゼロは静かにオペレーションを開始した。 「う、運命のうねりは時に怒涛の如く押し寄せるのです」 ……セクタンの津波にあっさり呑み込まれながら。 その頃、藤枝竜は食堂車を出たところだった。 「ふう~、お腹いっぱい!」 もちろん、竜がお腹いっぱい食べたのはセクタンではなくまっとうな車内食である。 「何だか騒がしいですね……あれ?」 ふと足を止める。 ぷるぷるぷるぷる。車両の連結部分で青いデフォルトセクタンが震えているではないか。 「かっ……!」 叫びたいのをぐっとこらえ、竜はぼっと頬を染めた。 セクタン。それはコンダクターの特権。しかし可愛いものは可愛いのだ。ツーリストだってセクタンを愛でたいのだ。 (だ、誰のかな。はぐれたのかな。でも、でも……可愛い~!) ああ、不安に満ちた瞳は迷い犬のよう。縋るようなおめめがひたすら竜を見上げている。 「おいで、おいで」 そろそろと手招きすると、青セクタンはよちよちとやって来て竜の手におさまった。初めて抱くセクタンの感触に竜は顔いっぱいの感動を浮かべる。このままむぎゅむぎゅしたいところだが、興奮すれば炎でセクタンを傷付けてしまう。ジレンマである。 「お迎え来ないみたいだし、うちの子にしちゃおうかな……今日から貴方はドラちゃんね!」 竜(ドラゴン)だからドラちゃんである。青だからといって某国民的猫型ロボットではない。 「よしよし、これで私もコンダクターですよ。みんなに見せてこようっと」 ドラちゃんを抱っこしながら客車に戻ろうとした時、とうとう“その瞬間”が訪れた。みしみしと軋む扉、ごばぁと押し寄せる色彩の濁流! 「どぉうわぁ~!!!?」 ドラちゃんはぷるんっと放り出され、竜は訳も分からず大波に呑み込まれていく。しかし周りはセクタンだらけ。正直嬉しい。嬉しいが、興奮すればセクタンをも燃やしてしまう。究極の葛藤が竜を苛む。 「こ、これはセクタンの刑ですか!? あ~ん、もうどうしたらいいんですか~あ!」 泣き笑いの竜を巻き込んだ津波が向かう先では雪峰時光が談笑を楽しんでいた。 「ふぅ……無事に任務も終わったでござるし、今日はゆっくり湯浴みして休むでござる」 困難な仕事だった。だが、心地良い疲れがサムライの体を満たしている。戦いを共にするうちに初対面の同行者とも打ち解け、和やかな雑談に華が咲いていた。 「貴殿の術の腕前は見事でござったなあ」 「いやいや、そんな。時光さんの剣の腕にはかなわないよ」 「はっはっは、ご謙遜を……ん?」 得体の知れぬ視線を感じた気がした。それもかなりの多数だ。 「どうかしたの?」 「いや失礼、気のせいでござった。それにしても、拙者も貴殿のような術が使えれば戦いが一層楽にどわあああああ!!」 何気なく車窓に目をやった時光は雄々しい悲鳴を上げた。視線の主は車内ではなく車外にいたのだ。 「な、何でござるか……このぷるぷるの群れは!?」 窓硝子に極彩色のセクタンの大群がびっしりとこびりついている。ある者は無表情、ある者は謎のアルカイックスマイルと共にひしめいている! (面妖な。否、そ、それよりも何故かような事態に……) ガマの油のような脂汗がたらたらと頬を伝っていく。 そう……時光はセクタンが苦手なのだ。 変幻自在な彼らはどちらかというと魑魅魍魎に近い(時光視点)。凛々しいサムライも魑魅魍魎の類だけはどうしても駄目なのである。 「もし深更にあの生物と目が合ってしまったら……拙者、騒ぎ出さない自信は無いでござああああ入ってきたああああ!!」 窓や扉を破って流れ込むセクタン洪水。ぷるぷるの猛攻を受け、錯乱したサムライは大騒ぎしながら流されていく。時光の頭の上では一体のセクタンが楽しそうに飛び跳ねている。それが時光の恐慌に拍車をかけている。 「……何だ、ぎゃーぎゃーと」 時光の野太い悲鳴は夕凪の耳にも届いていた。 「外見えねー。秋のセクタン大発生っつってたが……毎年こんなんなってんのかよ」 無表情を常とする夕凪も些かげんなりした風情で車外(といってもセクタンしか見えない)に目をやっている。夕凪が乗り合わせた車両はまだ静かだが、閉じ込められたことには変わりない。 みしみし、ぎしぎし。前方で不吉な音が鳴り響く。夕凪は胡乱な表情を向けた。 「おーあっちの車両に流れ込んでら」 そしていつも通りぼそぼそと感想を述べた。無感動に。平坦に。セクタンの濁流の中にはロストナンバー達も混じっていたのだが、夕凪の知った事ではない。 「セクタンまみれで圧死とか、笑えねーなぁ……」 怠惰な欠伸をひとつ。次の瞬間、ぴたりと動きを止めた。 ぎろろんっ。 車窓に張り付いた無数の目が夕凪を見つめている。 「こっちもヤベー」 肩かけ鞄をひっつかんで身を翻すのとセクタンが窓を破るのとはほぼ同時だった。逃げ足には自信がある夕凪だが、所詮は列車の中である。ひしめくセクタンで足場も悪く、あっという間に追い詰められる羽目になった。 「あー……何ツーか、逃げ場無くねー?」 幽体離脱で逃れれば良いのではないかという思いがちらと脳裏を掠めたが、すぐに打ち消した。肉体を車内に残したままではどうなるか分からない。ゼリーまみれの体などごめんだ。 不意に足首を掴む者がある。夕凪は剣呑に眉を持ち上げた。 「帰りたい……圧死したくない。助けて……」 けだるげな顔の女児が夕凪を見上げている。迫りくるセクタンに何ら手を打てぬまま流されてきた九歳児――ヴェロニカ・アクロイドだった。 「離せガキ」 「ガキ? ああ……今はそうだな……」 夕凪少年にガキと斬り捨てられてもヴェロニカは動じない。というか、言い返すのも面倒だ。九歳児は仮の姿、本来は美しきハンターで、任務帰りでエネルギー源である血液を切らしているために体が縮んだだけ――なのだが、この状態ではそれを説明することすら億劫なのである。 しかし、手を拱いていては本当に圧死してしまう。 「何とか……脱出しなければ……」 無気力なまま、ヴェロニカは必死(※彼女基準)にセクタンを押しのける。しかし実際はセクタンを一体ずつ掴んでは横に置いているだけであるため、凄く……のろい……。 「何……これ……」 掴んだデフォルトフォームが不可思議な光を放っている。このセクタンこそ現在捜索中のアリオのポラすけであったのだが、ヴェロニカがそれを知る由もない。 「別にいらない……」 そのままぽむと脇に置く。不思議なセクタンは色彩の波に呑み込まれていく。 「あー……」 やがて夕凪はセクタンの浪間に消えるヴェロニカを無表情に見送ることとなった。 戦いはまだまだ序盤である。 さて、車外の面々もこの事態を傍観しているわけではない。リベルの呼び掛けに応じたロストナンバー達が集まり、救出チームの編成が完了していた。 セクタンの山に埋もれたロストレイル3号を前に、鹿毛ヒナタはニヒルな笑みを浮かべた。 「色彩の洪水……ね。随分な当てつけだなオイ」 天才的な素描能力と壊滅的な彩色能力という葛藤を抱えるヒナタはこの光景に苦い思いを抱いていたのかも知れない。 「それにだな。俺も『セクタンに邪魔されてアトリエに入れなーい☆』とか是非言ってみたいぜ! 入れないアトリエも持ってませんから……ええ」 フッと哀愁を漂わせながらずびしぃっとサングラスを装着する。 「しかし! 仕事はきちんとこなすぜ! ……つーか、これ解決したら寸志の給与でも貰えねえかな。0世界の危機だろ一応。俺の城実現の為、ナノ単位でも一歩。え、駄目? いや、そこを何とか」 やる気があるんだかないんだか分からないヒナタをよそに、武闘派女子高生こと日和坂綾は口惜しげに拳を震わせていた。 「こ、コレが全部フォックスフォームだったら鼻血モノだったのに……!」 惜しいよねと自身のセクタンに同意を求めるが、フォックスフォームのエンエンは微妙な表情だ。 「うんうん分かってる、救助に来たんだもんね」 綾は腕まくりして作業に取り掛かった。まずはこのセクタンをどかさねば救出もへったくれもない。ぷるぷるを掴んでは放り掴んでは放り掴んでは放り掴んでは掴んでは放りあっ間違った、ともかく手作業での除去に精を出す女子高生である――が。 「……何か、地道過ぎて気が遠くなりそうだよね? ああー、派手な魔法でどかーんとか出来ないのかなぁ?」 「不可能ではありませんわ。けれど、大規模な儀式魔法を発動させればロストレイルまで巻き込むかも知れないし……」 レナ・フォルトゥスが唇に指を当てて思案顔を作る。耳聡く聞き付けた綾はぱっと顔を輝かせた。 「え、例えばどんなのですか?」 「“ブラックホール”辺りなら纏めて片付けられるかしら」 「わ~。ロストレイルまで吸い込んじゃいそうな名前……」 「その通りなのよ。……っていうか、セクタンってこんなにいた? 一体どうなっているわけ?」 足許をよじ登ってくるセクタンをそこそこ優しく払いのけ、レナは改めて周囲を見回した。セクタンセクタンセクタンセクタン、どこもかしこもぷるぷるだらけである。デフォルトフォームの中に時折狐やら狸やらドングリやらフクロウやらが混じっているのはご愛嬌だろうか。 「おっ、悩む顔もいいねー。彼女、目線お願い!」 「え?」 ぴぴっ、ぱしゃっ。振り返ったレナの前でデジカメのフラッシュが瞬く。カメラの向こうから顔を覗かせたのはヒナタだった。 「サンキュー。はい、次はセクタンのみんな! 目線こっちー!」 せっかくこれ見よがしに壮絶な光景が広がっているのだからと、ヒナタはせっせと写真撮影に勤しんでいるのだった。ぎろろんっと振り向くセクタンの群れ、ぴぴっぱしゃっと光るフラッシュ。タイトルは『無造作な色彩がひしめく列車』である。言われてみれば前衛的な現代アートに思えなくもない(ヒナタ視点)。 「うん、なかなかシュールだ。列車埋もれて見えねぇけど」 「……ちょっと」 「芸術の意味など後付け上等。考えるんじゃない、感じるんだ!」 「やる気あるの!?」 「す、すんません」 凄みのあるレナの美貌にヒナタが縮み上がった時である。 セクタンに埋もれた車両から、黒い霧が禍々しく噴き上がったのは。 シュコー、シュコー。 (落ち着け……活路は必ずある……) シュコー、シュコー。阿鼻叫喚の車内の一角で怪しげな呼吸音がこぼれている。 ガスマスクと小型酸素ボンベで武装した坂上健である。彼は座席の陰に腹這いになって息を潜めていた。何故マスクやボンベを持っているのだと突っ込んではいけない。なぜなら健は武器ヲタクだからである。 ついでに言えば健は真剣そのものだった。 「武具ならまだしも、KIRIN(Kanojyo Inai Reki Iko-ru Nenrei)なまんまセクタンで圧死するのは哀し過ぎだろ、ヲイ」 童て……もとい、人生の春を知らぬまま死んでたまるか。そんな素朴な本能が十代少年の奥底で滾っている。武具になら潰されてもいいのかと突っ込んではいけない。なぜなら健は武器ヲタクだからである。 「とりあえず長期戦覚悟でカロリー補給だ。……って、あれ? く、食えない?」 常備しているビスケットを口に運ぼうとする健だが、マスクをかぶった状態では摂食は不可能だ。ようやくそれに気付いてもぞもぞとマスクを剥ぐ健をオウルセクタンのポッポが物言いたげに見つめている。 「そなた、どうするつもりじゃ。このままここに留まるつもりかの?」 もしゃもしゃとビスケットを頬張る健にジュリエッタ・凛・アヴェルリーノが目を眇めた。 「まさか。……けど、すぐには思い付かない」 ガスマスク、小型酸素ボンベ、閃光手榴弾、催涙手榴弾、催涙スプレー、ビスケット、水。以上が健の所持品である。なぜ手榴弾だの催涙スプレーだのを常備しているのかと突っ込んではいけない。なぜなら健は(以下略)。 「そなた、なかなか見どころがありそうじゃ。ものは相談なのじゃが」 どうじゃわたくしの婿にならんかの。条件反射でそう続けてしまいそうになるのをぐっとこらえ、ジュリエッタは健に耳打ちした。 「……この濁流を突破しようってのか?」 健は難色を示す。だが、ジュリエッタは勇敢な笑みと共に小脇差を撫でてみせた。 「心配ご無用。護身術程度のたしなみはあるゆえ」 隙のない手つきに健は息を呑んだ。 「分かった。援護は引き受ける」 「頼もしい言葉じゃの」 すらりと小脇差を抜き放ったジュリエッタは、 「ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ、推して参る! 花道を飾ってみせようぞ!」 フラグめいた名乗りを上げて突撃を開始した。健もトンファーを振るいながら後に続く――が。 「ぬ、これは!?」 うずたかく積もったセクタンの小山が二人の行く手を阻んだ。 「何事じゃ、通路のど真ん中に」 「誰か埋まってるんじゃないか? おい、大丈――ッ!?」 咄嗟にセクタンの山に手を突っ込んだ健は息を呑んだ。 指先に触れたのは人間とは異質な感触。うずたかく積もった色彩の中でぎらりと光る金の双眸、うるるるという獰猛な唸り声。 「せ、せまい……」 ずぼぼっと飛び出す巨大な肉球。ハッハッという荒い息遣いとともに“彼”の鼻面が現れた。 「どこから、どのように、こうなったか、わからん……」 ロボである。列車が軋み始めたと思うや否や、不覚にもセクタンの山に埋もれてしまったのだった。 「済まない。恩に着る」 健とジュリエッタに引き出され、誇り高き獣兵はようやくセクタンの雪崩から生還した。体毛に絡みつくセクタンはぶるぶると体を振って吹き飛ばす。 「相変わらず大量のセクタンか……で、この状態でどう動けと」 「わたくしたちは運転室を目指しておる。差し支えなければそなたも来てくれんかのう?」 「運転室? 何をするつもりだ?」 「実はじゃな」 ジュリエッタの耳打ちにロボは「ほう」と唸った。 「事情は分かった。オレも共に行こう」 アオオォォォォォ――――ン! 「あれ? 今、どこからか凛々しいいななき(?)が」 ロボの高らかな雄叫びはサシャの耳にも届いていた。 「もしかして、白馬に乗った王子様が助けに来てくれるのかなぁ。颯爽と。華麗に!」 夢見がちなドジっ娘メイドはうっとりと頬に手を当てる。しかし彼女は相変わらず体育座りである。 「王子様かどうかは分からないけど、外の人達が何とかしてくれるさ。外へ出るにはセクタンたちを押し出すなり吹き飛ばすなりしなければならないし……流石にそれは可哀想だ。ここで待機が賢明だね」 紗弓ものんびりと紅茶をすすっている。同じく体育座りで。サシャはアーモンド形の瞳を煌めかせながら羨望の溜息をついた。 「はぁ……篠宮様は冷静だねぇ。すごく大人っぽい」 「そうかい? これでもまだ二十四だよ」 「えっ? ワタシと四つ違うだけ?」 「ん? ということは、貴女」 「二十歳です……」 消え入りそうに言って俯くサシャに紗弓は目をぱちくりさせた。あどけない顔をした小柄なサシャは十代の少女にしか見えない。 「はは。まあ、年齢なんかどうだっていいじゃないか」 「う、うん」 和やかなお茶会を続けられるのも紗弓の結界のおかげである。咄嗟の発動とはいえ高さ以外は完璧で、セクタン一匹寄せ付けない。 「はい、ガネーシャも手伝ってね」 というサシャの声に応じ、彼女の肩からタヌキ型セクタンが滑り降りる。器用にカップを運ぶ姿に紗弓は目を細めた。 「可愛いもんだねぇ」 自らも結界の外からデフォルトセクタンを引き込んで撫でくり回す。だが、だからといってセクタンで圧死するのはごめんだ。押し合いへしあいしながらびっしりと結界に張り付くセクタンの視線はこの際気にしないことにする。 「た……け……」 不意に、細い呻き声のような物が聞こえた気がした。 「助けて……」 ぬう――と青白い顔が現れた。どんと結界を打つ白い手、ずるずると伝い落ちる長い髪。流されるまま流されてきたヴェロニカである。しかしそんなことなど知らないサシャは景気良く悲鳴を上げた。 「いやあぁぁぁぁぁ来ないでえぇぇぇぇ!!」 ぶんぶんとティーポットを振り回すサシャ、自己紹介すら億劫なダウナー・ヴェロニカ。紗弓が咄嗟にヴェロニカを結界に引き込もうとしたが、ヴェロニカはすんでのところで濁流にさらわれ、セクタンの藻屑と化した(比喩である。念のため)。 「ああ行っちゃった。ま、何とかなるか。……で」 紗弓は苦笑いでサシャを振り返った。 「どうしようか、これ」 結界の中は水浸しならぬ紅茶浸しだった。紗弓の髪も紅茶でしっとりと濡れている。 「ぷはぁっ!」 アルドはようやくセクタンの深海から浮上した。神秘的なしろがねの毛並は寝癖のようにあっちこっち跳ねている。小柄なアルドはセクタンに踏まれて蹴られて押し潰されて、とことんもみくちゃにされたのであった。 車外の声や物音が大きくなった気がする。そういえば秋のセクタン大発生だの救助隊だのというアナウンスが聞こえたような気がする。 「秋……むぅ。チャイ=ブレなりのハロウィンのイタズラだったりするの? だったらせめてカボチャフォームなセクタンでも生み出して、ターミナル中にお化け役としてバラまいたほうがまだ愛嬌があるのにぃ……!」 鼻の頭に皺を寄せ、むすーっとむくれるアルド。しかし何だか可愛らしい。何せ彼は猫獣人である。 だが、よくよく考えてみればこれだけ大量のデフォルトセクタンを目の当たりにするのは初めてだ。アルドの拠点の仲間はツーリストばかりであるため、そもそもセクタンには馴染みが薄い。 「へえ……いろんな色のセクタンがいるんだなー。あれっ、こんなのもいるんだ?」 アルドが見つけたのは銀色のセクタンだった。自身と同じ色に親近感を覚え、そっとつまみ上げてみる。 「……すっごくぷにぷにしてる、なんだかグミみたい。……というか、グミだね、グミ」 「………………」 「……噛んでもいい?」 「………………!」 「ねえ、かーんーでーもーいーいー?」 「………………!!!」 その頃、流され続けたヴェロニカはゼロにとっ捕まっていた。ヴェロニカの着衣からほんのりと紅茶の香りがするのは恐らく気のせいだ。 「セクタンがコンダクターにしか懐かないと誰が決めたのです。ツーリストだってセクタンに興味があるのです」 「ああ……」 「ヴェロニカさんの運命のセクタンも、この中に存在している可能性があるのです!」 「そうなのか……」 熱弁するゼロとは対照的に、ヴェロニカは相変わらず無気力だ。 「千里の道も一歩からなのです。まずはプロポーズするのです」 ゼロは手近なセクタンにアプローチを開始した。こういう場合の定型句ならいくつか知っている。聞きかじっただけとも言うが。 「そこの貴方。ゼロの子を産んで欲しいのです」 「どうやって……?」 「ゼロのお味噌汁を作って欲しいのです」 「ゼリーの味噌汁……嫌だ……嫌だ……」 「黙ってゼロについて来て欲しいのです」 「そもそもセクタンは喋らない……」 「今日も月夜の醤油羊羹」 「みたらしの味……」 手当たり次第に当たって砕けるゼロにヴェロニカがぼそぼそと突っ込む。ゼロは熱のこもった表情でヴェロニカを抱き起こした。八歳児の腕の中で九歳児(仮)はくたりとするばかりだ。 「さあ、ヴェロニカさんも。下手な鉄砲も数を撃てば当たるかも知れないのです」 「これを舐め終わったら……」 とことんダウナーなヴェロニカはのろのろと棒付きキャンディを舐め始めた。 「……このままでは運命が逃げてしまうのです。ゼロは先に行くのです」 「分かった……」 「追いかけて来てくれますか?」 「これを舐め終わったら……」 「きっとですよ。約束なのです」 フラグめいたやり取りを残してゼロはヴェロニカと別れた。不条理の体現者(大袈裟)たる幼女には前しか見えない。セクタンの山を掻き分けながらずんずんと進んで行く。 だが、ゼロははたと立ち止まった。 (肝心なことを忘れていたのです) 結婚するならば相手の親にも挨拶せねばならない。セクタンの親とはチャイ=ブレである。少なくともゼロの思考回路ではそうなっている。 「今のうちから予行演習をしておくのです。『お母様と呼ばせていただきたいのです』。『息子さんをゼロにくださいです』。『お孫さんの顔を早くお見せしたいのです』。『貴女の瞳に乾杯の音頭』。『キミの寝耳に不滅の兄貴』」 「え、何……?」 ひたすら謎文句を唱え続けるゼロをこわごわと見送る優だが、 「お母様……? チャイ=ブレってメスなのか?」 ツッコミどころはそこではない。 「それより、タイム! 戻って来てくれタイムー!」 どこもかしこもデフォルトフォームだらけ。ともすれば見失いそうになる中で、幸いタイムはぴょんぴょんと飛び跳ねながら自分の位置を知らせている。しかし遥か前方であるので優の手は届かない。その上、タイムはなぜ優が慌てているのか理解していないようだ。どこまでも楽しそうに跳ね続けるのみである。 「くそっ、このセクタンめ、セクタンめ! いや気持ちいいけど! ある意味幸せだけど……っ!?」 不意に優の顔がこわばる。次に真っ赤になり、セクタンの海の中で悶え始めた。 「あはははははは! ちょ、やめ……何コレ!?」 「あれ? あ、ごめん!」 セクタンの山の下からずぼっと顔を出したのは亮だった。 「済まない。ちょっとセクタンをくすぐってみたんだけど……」 間違えて優の足をくすぐってしまったらしい。 「くすぐる? セクタンをですか?」 「ああ、うまくすれば自分から外に出て行ってくれるんじゃないかと思って。でも」 相変わらずのセクタンの海を見回し、亮はげんなりとした。作戦は失敗のようだ。 「大丈夫です、外の救出部隊が何とかしてくれますよ。それよりタイム、タイムをっ!」 「タイム? 君のセクタンか? 俺のコン太も見当たら――」 「ぎゃああああああああああ!」 野太い悲鳴が亮の言葉を遮った。 時間は少し遡る。 「ハアハアハアハアハアハアハアハアゲフッ」 動転しまくった時光は過呼吸気味だった。がくりと膝を折る彼を夕凪が無関心に見下ろしている。元々隣接する車両に乗り合わせていた彼らはセクタンに流されるうちに合流したのだった。 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏せくたん怖い迷わず成仏南無阿弥陀仏」 「それ効くのか、おっさん」 「おっさ……!?」 容赦ない夕凪の突っ込みに時光は愕然とした。擬音をあてはめるとしたら昔懐かしの「ガビーン」だ。 「せせせ拙者はまだ二十一でござる! ぴっちぴちの男子(おのこ)でござるよ!」 「どーでもいーけどよ」 夕凪は怠惰に舌打ちして前方に視線を投げた。 「おれ、逃げるから。せーぜー頑張んな」 「あああああああ見捨てないで欲しいでござる! そうでござる、逃げるのなら奥の車両に! そこならまだ魑魅魍魎の手も及んでいない筈でござる!」 「あーそう」 「貴殿も共に来て下され! 拙者一人では怖すgいや兵力は多い方がよろしかろう!」 「おれ関係ねー放せ」 夕凪は問答無用で手首を掴まれて引きずられて行く。腕力では成人の時光がまさっている。 車両の扉を乱暴に引き開けた時光はその場に凍りついた。 「何と……此方も陥落しておったとは……!」 ぷるぷるぷるぷる、うようようようよ。車両はセクタンの群れに埋め尽くされ、文字通り足の踏み場すらなかった。 「な、何か持っていないでござるか!?」 ニンニク、お札、お守り、蝋燭、十字架エトセトラエトセトラ。懐から次々と取り出される各種幽霊撃退グッズ。和洋ごった煮で集められたそれらを無表情に一瞥した夕凪はふと眉を持ち上げた。 「おっさん」 「これでもないこれでもないこれでもない、と、とっておきの呪符はどこでござるか!」 「おっさん、前、前」 「ええい、拙者は今忙しいでご、ざ……!?」 顔を上げた時光ははっと息を呑んだ。 車両の奥に猫がうずくまっている。ぷるぷると震えるセクタンの中、銀色の瞳が不穏に煌めいている。 「かーんーでーもーいーいー……?」 はあぁと吐き出されるぬるい息、ぎらりと光る鋭い牙! 「どわあああああ化け猫おぉぉぉぉ!」 「え、何……?」 銀色セクタンにがぷりと噛みついた――甘噛みである――アルドはきょとんとしている。 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏うぅぅぅぅ!」 「た……助け……」 「!?」 脱兎の如く駆け出した時光は白目を剥いた。 「助けてくれぇ~……」 地を這うような怨嗟(?)の声。セクタンの群れの下から蒼白な手が突き出している。 「ぎゃああああああああああ!」 「あ」 恐慌状態の時光にどんとぶつかられ、夕凪がバランスを崩す。その隙にバッグがゼリー洪水にさらわれた。 「……二日ぶりの飯が……」 中身は未開封のポテトチップスとカップ麺だ。貴重な食事は成す術もなくセクタンの浪間に消えていく。依頼中は多忙で食べる暇がなかったし、乗車から到着時間までが中途半端だったために食堂車も使わなかったのである。 「おれの……夕飯……」 夕凪の双眸に初めて感情らしきものが灯った。 「何だ、今の悲鳴……聞き覚えのある声だったが」 酸欠で蒼白になった鰍はようやくセクタンの底から這い出した。悲鳴の主は時光だが、セクタンに埋もれていた鰍がそれを知る筈もない。 「ひでぇ目に遭った……一瞬本気で死を覚悟したぜ……」 いつの間にか相棒のホリさん(セクタン)も見当たらなくなっている。鰍はまたげんなりした。このまま放置しては後がうるさい。探すしかないだろう。 「しっかし、この状態で探すっつっても……お?」 ホリさんと同じフォックスフォームのセクタンがきょとんと鰍を見上げている。鰍は恐る恐る手を伸ばした。外見での見分けは付かないが、問答無用で齧られたらホリさんに違いない。多分。 「ほーれ、おいでおい――ぎゃああああああああああ!」 がぷり。鰍に噛み付いたセクタンはホリさんではなく秋吉コン太だった。 一方、ひたすら前進を続けるゼロはと言えば。 「手当たり次第で発見できる可能性は低いようです」 砂場の棒倒しの如くセクタンの山の中にアイスの棒を突き立てた。棒が倒れた先に行ってみようという作戦である。棒が倒れる先はなぜか常にセクタンの密集地点で、その度にゼロはもみくちゃにされなければならなかった。 「だ・れ・に・し・よ・う・か・な・て・ん・の・ちゃ・い・ぶ・れ・の・い・う・と・お・り、なのです」 セクタンの群れの中から告白相手を選び出し――なぜかゼロから見て常に奥の方向である――、当たっては砕ける。そんな不毛な時間が繰り広げられている。 「次は……だ・れ・に・し・よ・う・か――な?」 極彩色の密林に分け入るゼロの指がぴたりと止まった。小さな指が差し示す先、カラフルなセクタンの中に暗い色彩が紛れ込んでいる。 「んーやっと出られタ。あーちょっとちょっト、引っ張らないでネー」 暗色のローブの先っちょをセクタンに掴まれながら“彼”は現れた。 「あ、君。さっきから聞こえてたけど、運命の相手を探してるのかイ? よろしければあっしが占ってみようカ?」 「………………!」 占い師ワイテとの運命の邂逅だった。 車体が軋み始めたあの時、ボルツォーニは相変わらず眉ひとつ動かさなかった。だが、平素通りの無表情の下ではこの状況を打開するべく思考回路がめまぐるしく働いていたのである。 (列車がセクタン圧に負けるのも時間の問題か) セクタン圧とはセクタンによる圧力を指す。ボルツォーニがたった今名付けたのである。 「びゃうびゃう! びゃうううっ!」 猫のぬいぐるみのような姿をした使い魔は警告のように鳴き続けている。正直あまり可愛くない。それはともかく、突如として響き渡る衝撃音と悲鳴にボルツォーニはぴくりと眉を持ち上げた。吹き飛ばされる車間ドア、ごばぁと流れ込むセクタンの洪水! 「うおっ、何だ!?」 その瞬間、突如噴き出す黒い霧に車外のヒナタが仰け反った。霧の正体はボルツォーニである。一瞬の判断で己の姿を黒い霧に変え、わずかな隙間から脱出したのだ。口をぱくぱくさせるヒナタを尻目に、蝙蝠の翼を纏ったボルツォーニは上空へと舞い上がった。 「これはひどい」 こうして鳥瞰してみれば惨劇の様相がよく分かる。まるで極彩色の饗宴、むしろ狂宴だ。ロストレイル3号のみならず、ターミナル中がセクタンにまみれている。 「う~っ、キリがない。ナンか、ナンかさ……」 ボルツォーニの眼下、果てのない手作業にいそしんでいた綾の目が据わり始めた。 「この状態のセクタンを見てると、見てると……ナンかこう、すっごく美味しそうなグミに見えない?」 「まさか」 レナがさらりと受け流す。しかし綾の目は本気(と書いてマジと読む)だ。 「だってさ、キレイだし、プルプルしてるし……ま、マジ美味しそう!」 がぷり。武闘派女子高生は手近なデフォルトセクタンをつまみ上げて本気で齧りついた。セクタンは声にならない悲鳴を上げて手足をばたつかせている。 「ちょっと、よしなさいってば」 「いやいやいや、冗談じゃなくて本気よ本気? コレでセクタンがコッチを脅威に感じて大量に押し寄せてきたら、少なくとも中の人は安全そうじゃん?」 「……本当に?」 「う……っ」 探るようなレナの視線に綾は言葉を詰まらせた。 「ゴメンなさいウソですお腹減って齧ってみたくなっただけですゴメンなさい。だってだって、あんなにキレイで美味しそうなんだよ?! 理性の1つや2つ、空腹なら飛びかけるよね?!」 「………………」 「ゴメンなさいウソです反省してますもう絶対セクタン美味しそうとか思いませんからそんな目で見ないでど突かないで~!」 「誰もど突いたりしません。それより今は手を動かしましょう」 「は、はいっ」 年上のクールビューティーにぴしゃりとたしなめられ、きびきびと働き始める綾である。 「それにしても、キリがないわよね……あら?」 レナの懐から使い魔のイタチが飛び出した。レナの背中によじ登ろうとしていたセクタンにがぷりと噛みつく。するとどうだろう。ぷるぷるのセクタンがあっという間にしおしおになっていくではないか。 「……成程、使えそうね。いや、でも」 使い魔は二匹いるとはいえ、一体一体噛みつかせたのでは手作業と変わらない。 「うし、そろそろ仕事しますかねっと」 ひとしきりベストショットを撮り終えたヒナタもようやく動き始めた。きらりと光るサングラス、ぶわりと膨張する影。触手状へと変貌した影は割れた車窓に吸盤の如く貼りついた。セクタンが割った硝子の破片を剥がし取り、手早く作業口を確保する。 「往生せいやー!」 投網状に変化された影を縦横無尽に振り回す。セクタンの群れがぼろぼろと掬われては絡め取られていく。そのダイナミックさは大型漁船の巻き網漁、あるいはオキアミを食らうシロナガスクジラの如く。 「はっはァ、大漁だぜー! セクタン乱獲祭だー!」 「うおっ!? よく分からんが助かった! おぉーい、下ろしてくれぇ!」 「ん、何か声が。気のせい? そぉーれもういっちょ!」 「やはり俺は視界の外か……っ!」 オキアミ(抗)もシロナガスクジラ(網)の端っこに引っ掛かっていたのだが、小さすぎてヒナタには視認出来なかったようだ。結果、再度投げ込まれる網と共に車内に逆戻りする抗である。 そんな一幕を見下ろしながら、ボルツォーニはぼそりと独りごちた。 「面倒だ」 無愛想な溜息をひとつ落とすも、 「このまま私だけ戻っても良いが……」 次の瞬間、蒼白な唇がわずかに吊り上がったように見えた。手にした魔術武器――鋼で出来た小さな立方体に見える――が展開され、瞬く間に変貌を遂げていく。 網に引っ掛かったまま車内に押し戻された抗はもはやボロボロだった。 「くそっ、やっぱり自力で脱出するしかないか!?」 とりあえず出口を目指そうとするが、 「俺のサイズでも身動きひとつ取れん!」 ぎっちりみっちりのセクタンの狭間でジタバタするばかりである。どうにもならないのか。このまま潰されるのを待つしかないのか。アルカイックスマイルでこちらを見下ろすセクタンがこんなにも憎らしく見えたのは初めてだ。 その瞬間、抗に天啓が下った。 「そういえばこいつら、風船みたいだよな……?」 エアーPKで空気の針を作り出す。刺したらパンと弾けるのではないか? しかし、そうは問屋がおろさなかった。 「ぬおぉ!?」 痛いと暴れ出すセクタンにもみくちゃにされ、抗は濁流の底へと沈んでいく。この狭い空間で暴れられたらひとたまりもない。比喩ではなく、息が苦しい。酸素が薄くなってきたのだろうか。 「つ、潰され……! おーい、誰かいないのか!?」 天は抗を見捨てなかった。 ウオォォォォォ――――ン! 「トンファーはいつでもどこでも近接最強なんだよ! でも手加減はしてやる!」 「安心せい、峰打ちじゃ!」 猛々しい狼の雄叫び、唸るトンファー、振るわれる小脇差。進撃を続けていたロボと健とジュリエッタだった。 「じれったい。牙を使わせろ」 ロボはぎりぎりと歯切りした。先程から前肢や鼻先で薙ぎ払うだけの攻撃に徹している。健はシュコーシュコーと言いながら頑なにかぶりを振った。 「相手はセクタンだぞ。できるだけ傷付けないようにするべきだ」 「おっ、ロストナンバーか!? おーい、こっちこっち!」 「このまま詰まってとんでもないことになるよりはいい」 「しかしじゃな」 「!? そ、それ以上足を下ろすな! そこには俺が――うわああああ!」 「何だ? 気のせいか?」 ぷちっ。 「た……助け……」 二人と一頭が走り去った後にはズタボロの抗が残されたが、残念ながら誰も気付かない。 「ロボ殿、ここは辛抱じゃ! わたくしが先駆けを!」 素早さを生かし、ジュリエッタが最前線に躍り出た。居合いで弾き飛ばしたセクタンを小脇差の雷撃で痺れさせる。動きが鈍ったところを健のトンファーが薙ぎ払う。 その時だ。 「ぅおわぁ~!?」 「タイムー!」 聞き覚えのある声とともにどどうとセクタンの波が押し寄せる。流されてきた二人の姿に健は目を見開いた。 「藤枝さん? 相沢も!」 咄嗟に二人の腕を掴む。この瞬間、健は波に呑まれて隊列から分断された。しまったと舌打ちする健だが、ジュリエッタとロボなら心配ないだろう。ロボが本気を出さないか少々気がかりではあるが。 「お前らも乗ってたのか。大丈夫か?」 「あ、ありがと……ひぃ!?」 竜と優は健を見るなりおののいた。当然である。ボンベを背負ってシュコーシュコー言ってるガスマスク男は傍目には不審者でしかない。 「あ、ドラちゃん!」 「え、あ、この青い子?」 優は竜が拾ったセクタンを抱えていた。先程、押し潰されそうになっているところを見つけて救助したのである。 「ドラちゃん、ドラちゃん~! うわあ、ありがとうございます~!」 「ドラちゃん……? 青いから……? うわわ、あちあち! 竜さん、火、火!」 「あっ、ごめんなさい」 興奮のあまりくすぶってしまった竜は慌てて深呼吸した。ほっと胸を撫で下ろす優だが、今度ははたと健を振り返る。 「そういえば、もしかして……」 「ん? いやいや、大丈夫! 誤爆誘爆系は持ってない!」 健はぶるんぶるんとかぶりを振った。セクタンやロストナンバーがひしめくこの状況下、白衣の下にあらゆる武器を仕込んだ健はある意味最大の危険人物だ。 「でも、脱出に役立ちそうなもんも持ってない……。わ、悪かったな武器ヲタのくせに役立たずで!」 「誰もそんなこと言ってないから!」 「二人ともやめてくださーい!」 竜の一喝(?)に男子二人は口をつぐんだ。 「それより、何とか脱出しないと! ここにいたらセクタンが私の炎で燃えちゃうかも知れませんし! それにもし最終形態的なセクタンとかが出てきたら……。あ、それはそれで可愛いかな?」 竜の脳裏には合体ロボットならぬ合体セクタンの姿が渦巻いていた。 「っていうか、よく考えたらマナさんとか乗務員さんとかも居るよな? くそぅ、何人乗ってるんだ? 全員無事に脱出しないと意味ないぞ?」 「救出隊が来てる、そっちに任せよう。それより一緒にタイムを捕まえてほし……ってあれ、タイムー!?」 周囲を見渡した優は愕然とした。このどさくさでタイムを見失ってしまったようだ。 「こうなったら一か八か脱出だ。相沢、協力してくれ!」 「駄目だ、まだタイムがっ!」 「だからって――」 健ははっと言葉を切った。 背後の壁がみしみしと軋んでいる。新たな洪水が流れ込もうとしている。そう思ったら、頭より先に体が動いた。 「危ない!」 咄嗟に飛び出した健は竜を庇うようにして通路に倒れ込んだ。一瞬遅れて、健の背中にどどうとセクタンが雪崩れ込む。 「大丈夫か、藤枝さん」 「あ、はい……あの」 「わぁかっこいい」 優が棒読みで感想を述べた。健はかっと頬を紅潮させて振り返る。 「いや、女の子は庇うだろ、普通? 自分より強そうとか関係ないだろ」 「そうだな」 「相手が受け入れやすい方法は選ぶかもしれないけど……相手によって信念変えるって、俺は嫌だぞ?」 「ソウダナ」 「わ、悪かったな。俺だって自分がマザコンくさいかなって思ってたよ、チクショ~!」 「もー、二人ともやめてくださーい!」 竜の口からぼっと火の粉が飛び出した。 セクタンまみれのアルドは上機嫌だった。 「あーもう、こーんなコトしておいてのほほーんとした顔しちゃってさ」 ごろごろ、ごろにゃん。 「こらー、なんでこんなに大量発生してるんだこのこのー」 ぶにぶに、ぷよぷよ。初めこそ任務帰りの疲労もあってぶーたれていたアルドだが、今となっては毛糸玉を与えられた猫の如くセクタンとじゃれ合っている。 「……撫でてもいいか?」 「え、何?」 ぴくっとヒゲを震わせて振り返ると、鰍が真顔で立っていた。 「い、いやいや、何でもねぇ。とりあえず何とかしなきゃな」 鰍の手から真鍮の龍――ウォレットチェーンが放たれる。龍と鎖、二連のトラベルギアは絡み合いながら網目状に広がり、瞬く間に車両の扉を覆った。 「とりあえずこれで凌げるか」 普段なら結界を発生させるところだが、今回は網の目だけだ。結界を張ってはセクタンを傷付けかねない。 「さて、と。やってやんよ!」 相棒のホリさんを捜索すべく、鰍は腕まくりしてセクタンの山へと突っ込んで行った。目指すはフォックスフォームの群れである。こうなったら手当たり次第にちょっかいを出してみるしかない。くどいようだが、問答無用で齧られたらホリさんである。多分。 「ほーれほれほれ」 がぶり。 「おいでおいで」 げしっ。 「怖くない怖くない」 どすっ。 「ちょ、何この予想外の反応!? つーかなんでたかられてんの俺!?」 わらわらわらわら、もふもふもふもふ。なぜか全てのフォックスフォームに齧られ蹴られ殴られ弄られ、鰍はあっという間に狐の群れに埋もれてしまった。 だがしかし。 「でもちょっといいな……もふもふもっふる……」 鰍、三十一歳。くどいようだが隠れもふ好きである。 「あああ、この子でもないこの子でもないこの子も違う」 だが、小さな至福はあっさりぶち壊された。何者かの手が狐型セクタンをぽいぽいとつまみ上げ、もふもふの山を崩していく。 「困った……コン太どこ行った……」 狐が群れているのを見つけてやって来た亮だった。 「あんたのセクタンもフォックスか?」 「あ、はい。どさくさに紛れて見失ってしまって」 「そっか。まあ、気を落とすな。遠くには行ってねぇ筈さ」 鰍は気さくに亮の肩を叩いて元気づけた。無論、先程噛みついてきたフォックスフォームがコン太だとは知る由もない。 「――それでは始めましょウ」 不意に耳朶を打つ厳かな口上。振り返った鰍は小さく息を呑んだ。 ぱらららら、しゃらららら。 暗色のローブの人物が鮮やかにカードをシャッフルしている。しかしその手は爬虫類めいているし――まるで擬人化した竜のように――、フードの下の瞳孔は縦に割れているのだ。 問題は、この状況でなぜ占いをしようとしているのかということだが。 「はいはイ、とりあえずスペース空けてネー。占いしたいからちょっとどいてネ」 セクタンの群れを手で払うワイテの前ではゼロがちょこんと正座している。まどろむようにとろんとした瞳はワイテが繰るカードだけを注視している。 「タロットですか?」 亮が気付いて問うた。 「そうだヨ。あ、君も占いしたいかイ? まあ暇だしいいヨ。こちらのお嬢さんが終わったらネ」 「ありがとうございます! じゃあ、コン太……俺のセクタンの行方を!」 「俺も俺も。ホリさんの居所とか分かっかな」 「なになにー、何やってるの? 占い?」 身を乗り出した亮と鰍にアルドも加わった。彼らの後ろからセクタンの群れがじりじりと迫る。ゼリー状のデフォルトフォーム達は鰍が張った網の目を文字通りくぐり抜けて侵入してきたのである。 「ちょ、押さないで押さないデ」 「わりーわりー、セクタンが後ろから。っていつの間に増えた!?」 「つ、通勤電車みたいですね。身動きが取れない……」 「わあ、相変わらずセクタンがいっぱい……ねえ、もう一回噛んでもいい? もう一回だけ!」 「ゼロは後からでも構わないのです」 「順番は守ろうヨ。駄目だよそんなに押されウボァー」 どどうと押し寄せるセクタンに巻き込まれ、一同は仲良く呑み込まれて行く。 だが、ゼロは見た。 宙を舞うタロットカード。そこに描かれた、二輪の戦車に跨る若き王の姿を。 「大アルカナの七番目……戦車のカード! 即ち前進と勝利の象徴なのです!」 「んー、ちょっと待っテ。王の頭が下を向いているネ。つまり逆位置だかラ、むしろ暴走や無謀ノ」 「ありがとうございますワイテさん、ゼロは自信が付いたのです!」 「こ、コン太の行方は!?」 「あれっ、銀色セクタンもいなくなっちゃった。気に入ってたのにぃー!」 「俺のホリさん……早く見つけないと蹴られる……齧られる……」 「ちょっとちょっと、そんないっぺんに言われても分からないシっていうか押さないデー」 ウボァーと流される一行が向かう先では体育座りのお茶会がひっそりと続いていた。 「セクタンさんってお菓子食べるかな? ……あ、可愛いなあ、夢中で食べてる」 結界の外から引き込んだデフォルトセクタンにクッキーを差し出し、サシャは目を細めた。 (何匹か持ち帰っちゃおっかな、エプロンに隠して……ペチコート膨らんじゃうけどバレないよね?) サシャの内心を察したのか、セクタンのガネーシャが鼻の頭に皺を寄せた。 「それにしても遅いねえ、何してるのかな。音は聞こえてるけど……」 どごごごご、ばりばりばり。シロナガスクジラもといヒナタの投網がひっきりなしにセクタンを掬い出しているのだが、セクタンは後から後から流れ込んでくるのでキリがない状態である。 「――おいこら知ってっか?」 不意に剣呑な声が響いた。 「食いもんの恨みは怖えーんだ。聞いてんのか」 夕凪である。二日ぶりの食事を回収するべくセクタンの波を掻き分けていたのだが、ポテチとカップ麺はあえなく海底へと沈んでしまったのだった。 「おら。何とか言えよこら」 夕凪の目は完全に据わっていた。手近なデフォルトセクタンを掴んで八つ当たり三昧である。びよーんと左右に引き伸ばされ、セクタンは懸命に手足をばたつかせている。ちなみにこのセクタンは優のタイムでも竜のドラちゃんでもアリオのポラすけでもない。念のため。 「……食えんのかなコイツ」 夕凪の目つきが徐々に獲物を狙うそれへと変じていく。 「食えるよな、一応いきもんだし」 セクタン危うし! 「よしな」 噛みつこうとしたまさにその時、結界の中から紗弓が止めに入った。夕凪は相変わらず胡乱な目で振り返った。 「だっておれの夕飯」 「夕飯? 空腹なのかい? 菓子ならあるけど、良かったら」 「………………」 差し出されるワッフルに夕凪の表情がぴくりと動いた。 「セクタンに食事を取られたってことかい?」 「おれのポテチとカップ麺……」 「えっ? そ、それがごはんなの?」 ぼそぼそと応じる夕凪にサシャが目を白黒させた。 「駄目だよー、ちゃんとした物作って食べなきゃ!」 「自炊なんかできねーし」 「だけど、もうちょっと何とか……ああ、ちょっとちょっとー!」 都合の悪いことには耳を塞ぎ、夕凪は車内の探索を開始した。 「ち……相変わらず逃げ場ねーな。まあ、無けりゃ作ればいいか」 セクタンの壁が薄い箇所を見つけて掻き分ける。窓枠の下の壁を鷲掴みにした。念動で引っぺがして出口を作ろうというのである。これはさすがに紗弓が見咎めた。 「やめときな、列車は公共物だよ。いや、正確には世界図書館の備品?」 「知った事じゃねーセクタンガコワシタンダヨ」 わざとらしい棒読みと共に剥がされる壁――そして、外からごばぁと流れ込むセクタン。 「……あー……そーだよな。穴開いたらそこから入ってくるよな……」 色彩の山に半ば埋もれながら夕凪はまたげんなりした。 「重っ、頭の上で飛びはねんな変なとこ入んなシャツ伸びるおれの夕飯返せ」 群がるセクタンを掴んでは投げ掴んでは投げ。愛の欠片もない手つきにサシャが「やめてあげてぇー!」と悲鳴を上げるが、夕凪の知った事ではない。 「痛っ、コイツ噛みつきやがったな。埒が明かねー……あ?」 視線を感じて振り返ると、夕凪が開けた穴越しに茶の瞳がちらと覗いた。 「あっ、やっぱり誰かいる! ねえみんな、ここに穴が開いてるよー!」 車外の綾だった。 「よっしゃ、任せとけ!」 ヒナタの雄叫び。シロナガスクジラもとい影の投網が豪快にセクタンを取り除けていく。サシャはぱっと顔を輝かせた。 「王子様! きっと王子様が――きゃああぁぁ!」 「な、何事だい? あ痛っ」 どごおおぉぉぉぉぉぉぉんと天地を揺るがす轟音。腰を浮かしかけた紗弓は結界の天井にしこたま頭を打ち付けてしまった。 「何これ、何これぇっ!?」 結界の中にいる限りサシャ達の身は安全だが、セクタン洪水の隙間から見える光景には戦慄せざるを得なかった。 轟音の正体はボルツォーニだった。 「………………」 死神の鎌の如く振り下ろされる雪かきスコップ。否、あまりに巨大なそれはもはやショベルカーのショベル部分と言ったほうが適切だろう。これがこの局面で考え得る彼の一番いい装備だった。 「なかなか壮絶ね」 人間では決して扱えぬ巨大な得物を易々と振るうボルツォーニにレナが顔を引き攣らせた。元来無表情で寡黙なボルツォーニは無言でセクタンの山に突っ込んで行く。黙々と。ひたすらに。しかし、彼の目は既に本気(と書いてマジと読む)だ。見よ、除雪車と見紛うばかりのこの動きを。今の彼は豪雪地帯の除雪車を操る職人の目をしている。 「よく分からないけど凄い! 頑張れー、負けるなー! わ、ワタシも何か……」 ポケットを探ったサシャの手にマドレーヌの包み紙が触れる。サシャは咄嗟にセクタンの前にマドレーヌをかざした。セクタン達がざざっとマドレーヌに群がる。 「成程。手伝うよ」 紗弓もサシャに加勢した。これ見よがしに差し出される焼き菓子、おびき寄せられるセクタン。手薄になった窓からサシャが飛び出そうとしたその瞬間、 「ゼエゼエゼエゼエゼエゼエゼエゼエゴフッ」 どこをどう流れて来たのやら、満身創痍の時光が車両に辿り着いた。 「おーおっさん。生きてたのか」 「ゆ、夕凪殿!? 拙者はぴっちぴちの二十一歳でござるよ! ……む? そういえば」 時光は懐に手を突っ込んだ。出て来たのは大事に取っておいた栗饅頭だ。茶のお供には最適、任務が終わった後の一服は至上の至福だが、背に腹は代えられぬ。 「ほーら、美味な菓子でござるよ。これを差し上げるので向こうへ行って下されー」 ぎろろんっ。新たなお菓子にセクタンの群れが一斉に振り返る。今にも飛び掛からんと迫る彼らに時光は顔を引きつらせた。 「まさか拙者、火に油を」 「あ。おっさん、あれ、あれ」 「ええい、くどいでござる! 拙者は今忙し……!?」 夕凪に促されるまま外に目をやった時光ははっと息を呑んだ。 死人のような色の顔が車窓越しに迫る。それはまさに吸血鬼の姿。不気味に吊り上がる蒼白な唇、禍々しき蝙蝠の翼――! 「どわあああああああ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ぅぅぅぅ!」 「………………」 振り回されるニンニクと十字架をボルツォーニは無表情に一瞥した。不死の君主はそんじょそこらの吸血鬼とは格が違う。 「あたたた……失敗失敗」 一方、錯乱状態の時光に脱出を妨げられたサシャはセクタンの海に逆戻りとなった。 「ウボァー」 「!?」 そして、流されて来たワイテ達がサシャ達とごっつんこするのはこの数秒後である。夕凪が空けた穴はこの濁流であっという間に塞がれてしまった。 ジュリエッタははっと顔を上げた。 「どうした」 「今、大きな音と……悲鳴のようなものが聞こえたのじゃが」 「そうか? 救助隊が来ているのかも知れないな」 ロボは前肢でしきりに通路を蹴っている。苛立ちがつのっているようだ。 「怖い。狼怖い……」 「ん? 何だ?」 「何でもない……」 「そうか。……というより、誰だ? どこにいる?」 ロボの嗅覚はジュリエッタでもセクタンでもない者のにおいを捉えている。正体はヴェロニカだった。彼女は体の小ささを利用して座席の隙間に避難していたのだが、セクタンに紛れてロボの視界には入らない。 (これを舐め終わったら……本気出す……) そう心に誓いながら口に運ぶ棒付きキャンディは既に五本目である。その間にもセクタンが流れ込み、憂鬱な顔の九歳児(仮)を埋め立てていく。 「まあいい。とにかく、セクタンを倒しまくればいいか?」 「気持ちは分かるがこらえてくれ。後生じゃ」 「しかし、こいつらは危ない時に身代わりになるんだろう?」 「それは宿主のコンダクターに対してのみじゃよ」 「ならばどうしろと」 ロボは低い唸り声とともに犬歯をむき出した。 「とにかくこのままでは埒が明かん。おまえ、オレの背中に乗れ」 「何じゃと」 ジュリエッタは逡巡した。闘士たるロボが人を乗せるとは。 「このまま共倒れになるよりはマシだ。それにオレのほうが数倍速い。いいから乗れ!」 「かたじけない」 ジュリエッタが飛び乗ったのを確認してロボは凛と鼻先を持ち上げた。 「天空のシリウスよ、誇り高き狼が祖霊よ。我に力を貸したまえ――!」 ワオオォォォォ――――ン! シリウスの牙に「祖」の力を宿し、ロボは一陣の豪風と化す。猛き爪をかざす必要も鋭き牙を振るう必要もない。加速したロボの体は次々とセクタンを弾き飛ばし、一直線に運転室を目指す。まるで海を割るモーゼのように。 (車掌殿も車内にいるはずじゃ。何とか探し出して運転室へ乗り込めれば……!) 列車を動かして回転させれば救助隊の動きと合わせてセクタンを振り切れる筈だ。だが、ただ走らせたのではセクタンを轢いてしまう。緊急用、あるいはメンテナンス時のために車体をホバリングさせる装置があるのではないのかとジュリエッタは読んでいた。 「車掌殿……チャイ=ブレ殿!」 ジュリエッタは魂の底から絶叫した。特に後段。 「これは緊急事態じゃ。わたくし達はセクタンを傷付けたりはしたくない! 運転室に入る許可を、何卒! 車掌殿! チャイ=ブレ殿――!」 0世界の中枢にはアーカイヴという遺跡があるという。あらゆる存在を超越した存在・チャイ=ブレは其処にひっそりと棲んでいる。 『チャイ=ブレ殿――!』 チャイ=ブレはゆっくりと目を開いた。チャイ=ブレはジュリエッタの絶叫を“感じた”。 「………………」 今、ヴェールに包まれたチャイ=ブレが動き出そうとしている。 ああ――見るがいい、全世界の生命よ。 この瞬間、0世界で究極の奇跡が…… などという展開になるわけもなく、ロボとジュリエッタは自力でセクタンを蹴散らして先頭車両へと到達した。 「車掌殿、しっかりせい!」 セクタンの山から車掌を掘り出したのはジュリエッタだった。がくがくと揺すられ、車掌はずれかけたゴーグル(?)を直す。ジュリエッタが簡潔に事情を話すも、車掌は難色を示した。問答無用とばかりにロボが運転室の扉を突破する。しかし次の瞬間、金色の双眸が大きく見開かれた。 うようようようよ、ぷるぷるぷるぷる。 「ちっ。ここも同じか」 運転室もカラフルなゼリーの占領下にあった。 色彩の奔流の前にひときわ鮮やかな真紅が佇んでいる。薔薇のように気高く、彼岸花のように凛とした紅の名はレナ・フォルトゥス。美しきアークウィザードは今、静謐に精神を研ぎ澄ませていた。 ピッ。ざっ。 ピーッ。ざざっ。 (大規模な精霊魔法……失敗は許されない……) ピピーッ。ざざざっ。 「おー舟(シュウ)、いい感じじゃね? そのまま見張りっつうか相手よろしく! 見つめ合うなり踊るなり!」 (些細な乱れでもロストレイルやロストナンバーが巻き込まれる……) ピピピーッ! 「ちょっと! 静かにしてくれない!?」 ピヒョ~……。ヒナタから借り受けたホイッスルを吹き鳴らす舟――オウルフォームのセクタンである――は、笛をくわえたまま不服そうに振り返った。 影で作られた檻の中に乱獲されたセクタンが押し籠められている。無論ヒナタの仕業である。しかしこの檻はヒナタの意志でしか開けられないため、セクタンが逃げ出す心配はない。 「や、だって追い出した傍からまた列車に接近したら大変じゃん? とりあえず放り込んどくかと思ってさー」 ピッ。ざっ。ピーッ。ざざっ。 舟は手旗信号の要領でセクタンの相手をしているのだった。笛の音とともに翼を上げ下ろしする舟に合わせてセクタンの手足がばたばたと上下する。何ともシュールな光景である。 ヒナタ本人も投網を用いて至極真面目に除去作業を繰り返していた。 「すっご~い! 豪快!」 「サンキュー彼女! これぞ現代アートだぜ! タイトルは……氾濫する色彩(セクタン)、抑止する無彩(俺)!」 「そ、そうなの? ゲージュツってムズカシイ……」 黒い網にひしめく色とりどりのセクタンと得意げなヒナタを見比べ、綾は目を白黒させた。 「数はちょっとずつ減ってきてるけど……ナンか、決め手が欲しいよね? がーっといけるようなさ! セクタンって好物ないのかな?」 セクタンは食事を必要としないが、与えられた物なら食べる。ならば、嗜好品――例えば猫にとってのマタタビのような――があれば、それでおびき寄せて安全に車両から引き剥がせるのではないか。 「あ~ナンか持ってないかな~お菓子のひとつでも……ううっ、空き時間に自分で全部食べちゃったよ~」 ポケットや手荷物をひっくり返して食べ物を探す間もセクタンの群れが押し寄せてくる。 「セクタンの好きな物ならば自明ではないか」 ボルツォーニが厳かに口を開く。きょとんとした綾だったが、すぐに思い至ってぶるんぶるんとかぶりを振った。 「いや確かにセクタンってコンダクター好きだと思うけど! 餌になるなんてイヤだ~、KIRIN(Kareshi Inai Reki Iko-ru Nenrei)なまんま、セクタンに潰されて死にたくない~!」 「ぶえっくしっ!」 綾の絶叫が聞こえたのかどうか、車内の健が豪快にくしゃみをした。ガスマスクを着けたまま。当然マスクの中は惨事である。 「大丈夫ですか?」 「ん、ああ。なんか同胞の気配が」 「タイム……タイムが……」 健と竜と優は座席の陰で息を潜めながら作戦会議を繰り広げていた。 「ちょっと考えたんだが」 シュコー、シュコーと口火を切ったのは健だった。 「要するにアレだ。セクタンはネコみたいに狭いところにみっちり嵌り込んでぬくぬくしたいわけだろ」 「ふんふん、それで?」 「つまりだな。もう一箇所穴を開ければセクタンがそこから大流入してくる。で、時間差で薄くなったところにまた穴を開けて他の面子が脱出ってことでどうだ?」 「車体を損壊するのか?」 優が難色を示す。車体なら夕凪が既に壊しているのだが、優はそれを知らない。 「相沢……俺を誰だと思ってる」 健はニヒルに笑ったようだった。マスクを着けているのでよく分からないが。 「ドクターヴェルナーへの借金、もう軽く二生(一生×二)分だぜ? それが四生になっても大差なしっ」 「んー、その作戦、私もちょっと……。いくら何でも列車を壊すのはまずいですよ」 「藤枝さんまで……。ちくしょー、だったらどうすりゃいいんだよ。KIRINのまんま死ぬしかないのかぁぁぁぁ!?」 健は悲壮な雄叫びを上げた。 「ん? 今、凛々しい叫び声が」 KIRINの咆哮はサシャの耳にも届いていた。 「王子様かも知れないね?」 「し、篠宮様!」 からかうように肩を揺する紗弓にサシャの頬が赤く染まる。しかし彼女の肌は褐色であるので多少の紅潮は分からない。 「とにかく、どうしようカ。とりあえず待ってみル?」 紗弓の結界の中には今や数人がひしめいていた。全員は入り切れないので、腹這いになって結界の中に頭だけ突っ込んでいる状態である。文字通り額を突き合わせての合議だった。 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」 時光は先程からひたすらそう唱え続けている。布団をかぶって震え続ける子供のように。手近なセクタンとじゃれ合うアルドは心底不思議そうに時光を見つめた。 「何でそんなに怖がってるのさ? こーんなに可愛いのに」 「た……助けて……」 「大丈夫だよ、噛んだりしないから触ってみなってば。ぷにぷにして気持ちいいよ?」 「あああああやめて下されやめて下され後生でござるー!」 「下を……足の下を見てくれ……」 「耳元で叫ぶなおっさん」 「拙者はおっさんではないでござる!」 「や、やはり俺は視界に入らないのか……!」 どさくさに紛れて皆と合流を図ろうとした抗はもはや力尽きる寸前だった。 「あー……もうホリさんに殺されるかもしんね……」 鰍は眉間にできた切り傷をさすりながらぼやいている。狐型セクタンに殴る蹴るの暴行を受け、デフォルトの波に流されてあちこち体をぶつけた今や生傷だらけだった。 「おや、怪我をしているじゃないか。済まない、気付かなくて」 「ああ平気平気。大したことねぇし」 「動かないで」 紗弓の目つきが変わっていく。穏やかで落ち着いた女性から――そう、魔術師の目へと。 鰍の眉間に押し当てられる指。滑らかに編み上げられる詠唱。先程までとの落差にサシャが息を呑む。 そして次の瞬間、 「ぎゃあああああ!」 鰍の悲鳴が響き渡り、鮮血がブシュウと景気良く噴き出した。 「ちょ、なんか傷広がってんだけど!」 「あ、しまっ」 「しまっ!? 今、絶対しまったって言おうとしたよな!?」 「済まないね……うふふ」 にっこり微笑んでごまかし、紗弓は治癒魔術の代わりにトラベルギアを発動させた。銀のバングルが光を放ち、開いた傷口を塞いでいく。 「ん? そういえば、さっき助けてって聞こえたような。まだ負傷者がいるのかい?」 「いやいやいや! 謹んで遠慮する」 満身創痍の抗は紗弓に見つかる前にカサカサとその場を離脱した。 どごぉぉぉぉん、ずごぉぉぉぉん。絶え間ない轟音が車内を揺らしている。投網とショベルによる作業は黙々と続いているようだ。ぱらぱらと崩れ落ちてくる天井に亮が首をすくめる。コン太も今頃どこかで震えているのではないかと気がかりだが、この状態では身動きすらできない。だからといって埋まるのはごめんだ。どうにかできないかと必死に頭を巡らした亮はぽんと手を打った。 「そうか。最初の流入の時に窓が割れたんだろ? そこからセクタンを押し出して脱出できないか?」 「この量のセクタンを? どうやって?」 「うっ。例えば……みんなで地道に押すとか……」 「かかか勘弁して下され! 拙者、せくたんと押しくらまんじゅうは御免こうむるでござる!」 (そんなにセクタンが怖いのか……世界にはいろんな人がいるんだな……) ガクガクブルブルと震え続ける時光に亮は引き気味である。 「とりあえず待ってみようヨ。慌てて怪我でもしたら元も子もないシ」 「あのぉ……ワイテ様」 おずおずと口を開いたのはサシャだった。 「もしかして、占い師さん……?」 大粒の瞳はワイテのローブから覗くタロットのデッキに注がれている。 「そうだヨ。何か占ってほしイ? 未来? 恋愛?」 「いいの? じゃ、じゃあ恋愛お願いします!」 恋バナ、スイーツ、占い。女子の三大嗜好である。 「了解。……そういえば、さっきのお嬢さんハ?」 一緒に流されて来た筈のゼロの姿がいつの間にか消えている。 「ま、いいカ」 だが、細かいことを気にしないワイテは鮮やかにシャッフルを始めた。ぱらららら、しゃらららら。魔法のように操られるカードにサシャの瞳が輝く。 「ハイ、占いしたいからちょっと場所空けてネー」 「いや、このすし詰め状態でそんなこと言われてもだな」 「占い? そうだ、コン太の行方を」 「狭い……どけよおっさん達」 「押さないデ、潰れルうボァー」 ところで。 ゼロが目にした大アルカナの七『戦車』とは、天蓋付きの車に跨る若き王の姿が描かれたカードだ。車を曳くのは馬やスフィンクスとされる。しかし、図柄によっては馬やスフィンクスは戦車と繋がっておらず、このままでは前進することができない。また、王の若さは目的に向かって踏み出す力強さを表す一方、良くも悪くも即断即決で猪突猛進な性質の暗喩とする説もある。 という解釈をゼロが知っていたかどうかは定かではないが、別の車両に居る彼女は今まさに方向転換を迫られていた。 「古人曰く」 ゼロは静かに車両の奥を見つめた。 「運命とは自分の力で切り開くもの。古人曰く、押して駄目なら引いてみろ」 神秘的な双眸が確かな意志で満ちていく。 「――おぺれーしょん・すりーぴんぐびゅーてぃー開始!」 声高に叫び、ゼロは色彩の海にダイブした。何でも、作戦名をシャウトすると縁起が良いと聞きかじったそうである。 一方、懸命の救出活動が続く車外では。 「う~~~っ、キリがないよぉ」 綾のフラストレーションがマックスに達していた。 「地道な手作業と大博打? 断然モチロン大博打っしょ!」 びしっと構えたのはどっからか持って来た塩ビパイプ――恐らく古い水道管か何か――だった。 「そんな装備で大丈夫か?」 「やってみなきゃ分かんないよ!」 「……そうだな」 ボルツォーニはセクタンの山に突貫する綾の背中を無表情に見送った。 「ほぉら、筒だよ筒~。キミたちコッチにおいで~。……え、セクタンって配管に詰まるの好きなんだよね?」 それは大博打なのか。誰もがそう突っ込みかけたが、黙っていた。綾の目は相変わらず本気(と書いてマジと読む)だ。 結果から言えば、綾の作戦は一部成功した。 ぎろろんっと振り返ったセクタンの群れはパイプに殺到し、むぎゅむぎゅと空洞を埋め尽くしたのである。あっという間に。瞬く間に。 「嘘っ、全部詰まっちゃった!? これじゃもう入んないじゃん!」 「トイレットペーパーの芯でも持ってくっか?」 「えぇ~……。で、でもないよりはマシかな?」 「――その必要はありません」 凛とした声が響き渡る。振り返った綾ははっと息を呑んだ。 ゆっくりと開かれる真紅の瞳。燃えるような赤毛を煌めかせ、星杖・グランドクロスを携えたレナが進み出た。 「下がっていて。列車の後方に魔法をかけます」 「……ブラックホール?」 「いいえ。もっと安全で実用的な魔法よ」 綾はぞくりとした。自信と確信に満ちたレナの微笑は凄絶なまでに美しい。 何かを感じたのか、除雪車の如き業(わざ)を振るい続けていたボルツォーニが音もなく地上に降り立った。促すようにレナを一瞥する。太陽系を模したレナの星杖、その中央に嵌め込まれた巨大なクリスタルがダイヤモンドの如く煌めいた。 「ここは通さん。死にたくなければ寄るな!」 運転室の前に立ちはだかったロボが雄叫びを上げる。セクタンの群れがじりじりと迫る。誇り高き狼は牙を剥き出して威嚇した。相手がセクタンでなければ爪で引き裂き、牙で八つ裂きにしてやるところだ。 運転室の中ではジュリエッタと車掌が必死の発掘作業を続けている。何せ運転室もセクタンで埋め尽くされているため、操車レバーを見つけ出すのも一苦労なのだ。 「あった!」 格闘の末、ジュリエッタはとうとう目的のレバーを発見した。 「車掌殿、指示を――何……じゃと……?」 ジュリエッタは愕然とした。セクタン圧に負けたのだろうか、レバーが壊れて動かないというのである。 「要は通電させればいいのじゃろう? わたくしの雷で……何? それだけはやめてくれ? 緊急事態なのじゃ、許可をくれ!」 その頃、抗は座席の下に潜り込んで頭脳をフル回転させていた。 「今、ターミナルに停車中なんだよな。だったら少しくらい窓とか割れてもいいかな? いや、それはさすがにまずいか……しかし緊急事態なのであって……」 「怖い……列車壊す人怖い」 通路を這うようなけだるい声。甘いキャンディの香りが抗の鼻をくすぐる。隣の座席の下に潜り込んでいたヴェロニカだった。抗は初めて顔を輝かせた。 「おお、俺が見えるのか!」 「見えるが……怖い。暴力怖い……」 「ああ、怖がらせて済まない。だけど聞いてくれ。緊急事態だから、最低限窓をだな」 「怖い……」 棒付きキャンディをくわえたままずるずると這って行くヴェロニカに抗は絶望した。 (やっと仲間と合流できたと思ったのに……!) ヴェロニカと協力して脱出することはできそうにもない。 「………………」 抗は諦観とも達観とも取れぬ視線を虚空に投げた。世界は広い。けれど、抗にはこんなにも冷たい。 「……いっそ竜巻とか起こしてふっ飛ばしたくなってきた……PK全開にすればいけるよな……」 抗の瞳に昏い光が宿った。 別の車両では健と優の議論も紛糾していた。 「命には代えられないだろ!」 「だからって、何も積極的に壊さなくても」 「緊急避難ってやつだ!」 「救助隊が来てる、きっともうすぐ脱出できる。竜さんはどう思う? ……竜さん?」 「……うーっ……」 男子二人が作戦会議を繰り広げる中、竜は頬を真っ赤にしながら頭を抱えていた。 「もう駄目かも……」 びっしりのセクタンに囲まれた彼女は幸せいっぱい、くしゃくしゃの泣き笑いだった。 「駄目……駄目です……私、すっごく嬉しくて……」 「ああ、分かる……デフォルトっていいよな、俺もよくこの感触に癒されてるん、だ――?」 和やかに応じた優ははっと言葉を切った。 ぶすぶすぶす。細い黒煙と焦げ臭いにおいが漂う。竜の腹の下の通路が不穏な音を立てて焼け焦げている。 「やばい! ポッポ、ホルダーに入れ!」 「竜さん落ち着いて、落ち着いて!」 「まだかジュリエッタ!」 「済まぬロボ殿、肝心のレバーが……ええい許せ、緊急事態じゃ! ……ありゃ? 強く引きすぎたかのう?」 「……PK全開……」 「あーんごめんなさい、もう限界です――――!」 「グラビテーション!」 レナの星杖が振り下ろされる。セクタンがずごごごごごと吸い上げられる。竜巻が巻き起こり、壮絶な火炎が噴き上げる。ロストレイルの車体がぐらりと浮く。怖い、というヴェロニカの呻き声は誰にも届かない。ダウナーな九歳児(仮)は流されるまま流されるばかりだ。 (これを舐め終わったら動く……) 再度心に誓いつつ、八本目のキャンディを口に含む。キャンディのように鮮やかな色のセクタンがヴェロニカを呑み込んでいく。 「何なにナニ? レナさん凄すぎ!」 「半分以上はあたしじゃないけどまあいいわ。とにかくチャンスよ、今のうちに救助を!」 大地属性の精霊魔法、グラビテーション。その名の通り重力を操る魔法である。重力の場を作り上げてセクタンを一か所に吸い集め、レナは素早く車内に乗り込んだ。綾も続く。 だが、何せセクタンの数が多すぎる。行く手は依然ゼリーまみれだ。 「露払いは私が」 「加勢すんぜ!」 除雪車もといボルツォーニの剛腕が唸りを上げる。漆黒のショベルがセクタンの山を突き崩す。ヒナタの両手が閃く度、無彩の投網が極彩色を狩り尽くす。 「……んー、何か外が騒がしいなァ。救出作業でも始まっタ?」 「外っつーか、中でもかなりの異変が起こってるけどな!」 相変わらずのんびりとしたワイテに突っ込みつつ鰍は必死に座席にしがみついた。謎の竜巻は巻き起こるわ車体は浮き上がって傾くわ、とても立っていられない。 「とりあえず声のするほうに行ってみようカ。はいちょっと邪魔するネー。ゼリーのみんな、握られたくなかったらどいてネー。あっしの爪は鋭いヨ」 震えるゼリーの海をわっしわっしと泳ぎながらワイテは前進を開始した。 「狙い通りじゃ!」 運転席のジュリエッタは嬉々として歓声を上げた。 「まるで遊園地の乗り物じゃ、楽しいのう!」 「そんなことを言っている場合か!」 揺れる列車に足を取られ、ロボはごろごろと通路を転がっている。 竜は華麗に車外に飛び出していた。竜巻の衝撃で窓が割れたため、車内火災だけはどうにか防げたのだ。優と健も続く。だが、重力に吸い込まれるセクタンに巻き込まれ、足がもつれる。 「お、俺に構うな、先に行け! タイムを頼む!」 「相沢! きっと助けに戻っ――ノオォォ~!」 「お二人の犠牲は無駄にはしませんっ……!」 むにむにに押し潰される優と健を残し、竜は涙をこらえてヒロイックに跳躍する。もちろんドラちゃんはマフラーの中に入れてキープだ。 「その声は……もしかして竜ちゃん!? 竜ちゃーん!」 「あ、綾さん! ここでーす、早く!」 興奮のまま火を噴く竜はすこぶる目立っていた。そう、綾たちにとってもセクタンにとってもいい目印だったのだ。うぞぞぞぞ、明かりに群がる羽虫の如くセクタンが迫りくる。竜は悲鳴を上げる。 「駄目駄目、来ちゃ駄目ー!」 「え? 行っちゃ駄目なの?」 「あっ違います、綾さんは早く来て! あああセクタンは来ちゃ駄目ー!」 セクタンの波は止まらない。炎もまた止まらない。 「うう、このままじゃセクタンを傷付けてしまう……と、とりあえず自分をセクタンと思い込めば落ち着くかな?」 多分無理だ。 「死なばもろとも! みんな纏めて助けてやんよ!」 物騒な事を口走り、ヒナタは再度投網を展開した。除雪職人もといボルツォーニは黙々と作業を続けている。彼の目にはセクタンの山しか見えない。正直言って目が怖いが、その点には触れないほうが良さそうだ。 「………………?」 ショベルの中にセクタンとは異なる色彩を見つけ、ボルツォーニの眉間にわずかに皺が寄った。 歳の頃は八歳くらいといったところか。豊かなロングウェーブの銀髪に包まれた幼女が静かにまどろんでいる。ゼロである。 「生きているか?」 ボルツォーニはゼロの頬を軽く叩いてみた。いらえはない。ショベルの中で蠢くセクタンが次々にゼロの顔に覆いかぶさる。セクタンまみれだが、本気でまどろんでいるらしいゼロはぴくりとも動かない。 「今だっ、えいっ!」 割れた窓からサシャは勢い良く飛び出した。そのまま列車の天井へと上る。少々はしたない――エプロンドレスの下が丸見えだ――が、それを気にしている場合ではない。 「微力ながらサシャもお手伝いします!」 サシャはガネーシャを抱き締めてセクタンの海にダイブした。セクタンを引き付けておく間に車内の人員を救出してもらおうという算段だ。 「わっ、トランポリンみたいでたーのしーい! きゃー!?」 サシャの作戦は成功した。成功し過ぎて、あっという間にセクタンの大津波にもみくちゃにされてしまった。 「ガネーシャ、助けて! ……ガネーシャ!?」 ポンポコセクタンのガネーシャはぷいとそっぽを向いてセクタンの海を泳いで行ってしまう。サシャが他のセクタンに目移りしたことを怒っているのだろうか? (うう、こんな時……) イケメンの正義の味方が颯爽と現れてかっさらってくれるのは小説の中だけの話なのか。もちろんかっさらう時のスタイルはお姫様抱っこだ。恋愛小説好きとしてそこだけは譲れない。 「だ、誰かー! ワタシの王子さまー!!」 「鼓膜が破れる……」 夕凪はげんなりした顔でセクタンの浪間に顔を出していた。 「っつーか飯……おれの夕飯どこだ……」 相変わらず剣呑な目で周囲を見回す。食い物の恨みはげに恐ろしい。 その頃、車内の面々も無事に救助隊と合流を果たしていた――が。 「嫌でござる後生でござる助けて欲しいでござる!」 吸い上げられる魑魅魍魎(と書いてセクタンと読む)の姿に時光が恐慌をきたしていた。 「落ち着いて! あたし達は皆を助けに来たのよ」 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏迷わず成仏南無阿弥陀仏」 「……埒が明かないわね」 レナは深々と溜息をついた。 「良かった、助かった!」 亮もセクタンの海から顔を出している。紗弓や鰍の姿もあった。レナは人数を数えて首を傾げた。 「これで全員?」 「いや、あと何人かいる筈なんだが……ドジっ娘メイドさんとか」 「王子さま、早く来てー!!」 「ああ……彼女は大丈夫そうだね。とても元気そうだ」 車外から聞こえてくるサシャの声に紗弓は微苦笑した。 「とにかく脱出よ。列車も危ないみたいだし」 「うーっ、仕方ないよね。もうちょっとじゃれてたいけど……あれ?」 レナに促され、名残惜しそうにするアルドの尻尾に何かが絡みついた。四角い肩かけ鞄である。 「誰かの落とし物かな? 中は……勝手に開けないほうがいいよね」 ちなみに中身はポテチとカップ麺だ。 体勢を立て直したロボが運転室に飛び込んだ時、ジュリエッタは振り落とされまいと必死にレバーにしがみついていた。 「そろそろいいだろう、列車を止めてくれ!」 「ろ、ロボ殿! どうやったら止まるのじゃ~!?」 「何……」 ロボはぎょっとした。ジュリエッタの手の中のレバーは途中からぼっきりと折れている。 「ちっ、やむを得んな。このままではオレ達も危ない。脱出しよう」 「車体を捨て置くわけには!」 「死にたいのか、行くぞ!」 ロボはジュリエッタの襟首をくわえて車外に躍り出た。 「こっちだ!」 車外組が手を振っている。既に救出されたロストナンバーの姿もある。地滑りのように崩れるセクタンの山、その中央をロボが颯の如く駆け抜ける。ジュリエッタも雷を放ちながら活路を開く。 「ぎゃあああああ!」 「も、申し訳ない!」 だが、ジュリエッタの雷は制御が難しいため、時々鰍辺りに落ちたりもした。なぜ鰍かといえば、恐らく彼が貧乏籤体質だからだ。 「ウボァー」 「!?」 突如、セクタンと一緒にワイテが流れてきた。結局巻き込まれたらしい。ローブの袖からこぼれたタロットが宙を舞う。その様はサシャの視界にもばっちり入っていた。 「あ!」 その瞬間、サシャの脳天を稲妻の如き感覚が駆け抜けた。 サシャの方を向いているカードは大アルカナの十――運命の輪。 (もしかして、運命の出会いが……?) オオオォォォォ――――ン! 凛々しいいななき(サシャの耳にはそう聞こえた)。セクタンをはねのけ、疾風のように駆けてくる白馬(サシャの目にはそう見えた)。その背中で勇ましく剣を振るう人物(サシャ視点)の姿はまさしく、 「王子様!」 「……な、に? わたくしが」 ロボの背に乗せてもらったジュリエッタは激しく目を瞬かせた。 「サシャではないか。どうしたのじゃ? もしやさっきの雷が当たってしまったかのう?」 「あ、あれ、ジュリエッタ……?」 「崩れる。離脱するぞ!」 ロボの警告が飛ぶ。ジュリエッタはサシャの手を取り――さすがにお姫様抱っこは無理だった――、間一髪生還した。 竜巻が渦を巻く。列車がかしぐ。色彩の狂宴が続く。列車を浮かせたのはジュリエッタの操車か、それとも抗のPKなのか。しかし今の抗にとってそんなことはどうでも良かった。 壮絶な光景を睥睨しながら、抗は不敵な表情を浮かべていた。見よ、彼の者を侵食する不可思議な刺青を。ぴこぴこと揺れるキュートなうさ耳帽を。 「ふふ……ふははははは!」 抗は龍の如き猛々しさで笑った。 「見たか俺の力を! 小さくたってやればできるんだ!」 だが、問題は17.5センチの彼が上空に浮いていても誰も気付かないということである。 「雷に当たったみたいだけど、大丈夫かい。怪我は?」 「いやいやいやいや、何ともないって。治癒とかしてもらうまでもねぇから」 「……私はよほど信用がないみたいだね?」 「いや、そうじゃなくて。さっき、トラベルギア使って治してくれた時に消耗したみたいだったからさ。だから大丈夫、な?」 という紗弓と鰍のやり取りが繰り広げられる中、ターミナルはようやく落ち着きを取り戻しつつあった。 「つ、疲れた~……」 綾はへたりと座り込んだ。さすがの武闘派女子高生もこの長期戦はこたえたらしい。 「綾、ありがとう。助かった」 「ユウさん。怪我なかった? ……そういえばタイムは?」 「ああ、あそこに……」 優は複雑な泣き笑いで後方を指差した。 ピッ。ざっ。ピーッ。ざざっ。 影の檻の中、手旗信号に興じるセクタン達の上でタイムが楽しそうに飛び跳ねている。仲間がいっぱいでご機嫌のようだ。 「良かった~! 保護されてたんだ!」 「ああ、潰されなくて本当に良かった。ほっとしたっていうか気が抜けたっていうか……」 「ひ~、セクタンは当分コリゴリですよ……ってあれ!? ドラちゃん! ドラちゃんまでいなくなっちゃった~!」 対照的に竜は泣き顔だった。マフラーの中に入れておいた筈の青セクタンの姿がいつの間にか見えなくなっている。 「ドラちゃん……。やっぱりコンダクターじゃないと駄目なのかな?」 ちょっぴり涙ぐむ竜の肩に健が無言で手を置いた。ガスマスクを着けたまま。シュコー、シュコーと言いながら。 一方、亮の狐型セクタンは無事に見つかった。とてとてと駆け寄ってくるコン太を抱き止め、わしわしと頭を撫でる。そんな微笑ましい一幕を大量の物言わぬセクタンが見つめている。 「しかし……一体、こんなにどこにいたんだろうな」 亮は改めて首をひねった。 「お前らも旅がしてみたかったのか? 早くいい相棒と出会って外に出られたらいいのになぁ」 言葉が通じたのかどうか、セクタンの群れはぷるぷると震えながら応じた。 「あ、そういやホリさん……」 鰍も相棒を探すべくぐるりと辺りを見回した。イヌ科(?)にも関わらず群れから離れ、孤高に佇む狐型が一体。 「おいでおい」 げしっ。見事なドロップキックが鰍の顎にヒットした。 「ああうん……この感触……間違いねえ……」 想定内の反応である。この後、ホリさんに散々引っ掻かれた鰍は結局紗弓の治癒を受けることとなった。 「あいたたタ。酷い目に遭っタ」 ワイテもようやくセクタンの下から這い出した。揉みくちゃにされ、ローブがずれている。ローブの下はなぜか普通のスーツ姿だ。 突如見知らぬ世界に飛ばされ、覚醒だのロストナンバーだの世界の真理だの世界図書館だのと立て続けに聞かされて、訳も分からずロストレイルに乗せられたと思ったら待っていたのはゼリーの海。波瀾万丈にも程があるが、 「ま、いいカ」 ワイテは細かいことを気にしないたちだった。 「で……ここが0世界かナ? 派手な歓迎だネ」 「ここは0世界だが、歓迎の儀ではない」 ボルツォーニがむっつりと応じた。 目が覚めるとそこはセクタンの海底でした。 (……作戦は失敗のようです) セクタンに埋もれたゼロはゆっくりと辺りを見回した。 オペレーション・スリーピングビューティー。その名の如く、眠り姫となって運命のセクタンのキスを待つ作戦だった。結果から言えば、ゼロは数多のセクタンから接吻を受けた。もみくちゃにされたのだから仕方ない。その結果、彼女はある境地に到達しつつあった。 「――ゼロは新たな真理に覚醒したのです」 今、銀色の瞳がゆっくりと開かれる。 「運命とは、ただ運命なのです」 セクタンの下で小さな体がむくむくと巨大化していく。といっても肌のキメはそのまま、髪の毛も細く美しいままで、もちろんパンツ丸見えなどという不都合も生じない。 ただ問題は、ゼロの体に大量のセクタンが張り付いていたことと、 「ど、どうにか生きて戻れたでござる……」 近くに時光がいたことであった。 ずずうぅぅぅぅん。地響きとともに、高層ビルを束ねたようなゼロの足が降って来る。振り返った時光は悲鳴を上げるいとまもなく卒倒した。 ――もし最終形態的なセクタンとかが出てきたら……。 竜がそんなふうに呟いていたことを時光は知っていただろうか。 セクタンまみれのまま膨らんだゼロはまさに合体ロボットならぬ合体セクタン、すなわち魑魅魍魎の親玉であった(時光視点)。 「ゼロはお片付けをするのです」 「うん、現代アートに見えなくもない。タイトルは……『膨張する白銀~極彩色からの昇華~』!」 ぴぴっ、ぱしゃっ。ヒナタのデジカメが瞬いた。 ゼロがボルツォーニのショベルもかくやという勢いで後片付けに励み始めた頃、一旦逃走した夕凪はこっそり現場に舞い戻っていた。車体損壊がばれないうちに姿を消すつもりだったのだが、貪欲な本能には勝てなかったのだ。 「おれの夕飯……」 どこかに紛れている筈である。しかしどこに。 胡乱な表情で周囲を探った時だった。 「この落とし物、どうしよう。世界図書館に届ければいいのかな?」 肩かけ鞄を手にしたアルドが目の前を無防備に通り過ぎて行く。 「飯」 「え、何……?」 アルドの髭がびんっと硬直した。物陰から気配なく現れた夕凪は獲物を狙う捕食者の目をしていたから。 「腹減ってんだよ」 「ぼ、僕は食べ物じゃないったら!」 ああ勘違い。不毛な追いかけっこの始まりだった。 「それにしても……こいつらが増えた原因って、一体何だったんだ? ちゃんと調べてやってほしいよ」 というロボのぼやきが聞こえたわけでもあるまいが、エミリエが「ハックション!」とくしゃみをした。 「大丈夫ですか」 「うん、平気」 報告書を精査するリベルにエミリエは愛想笑いを返した。 あれほどの混乱が起こったにも関わらず、損害はそれほど深刻ではなかった。ジュリエッタが折ったレバーは副系統であったし、ロストレイルはトレインウォーに投入される兵器でもあるのである程度の損壊を想定して作られているのである。だからといって遠慮なく壊していいということにはならないので、そこだけは留意願いたい。 「それにしても、セクタン大発生の原因は何だったのでしょうね」 「そ、そうだね」 「……エミリエ。何か隠しているのではありませんか?」 「ま、まっさかー!」 「そうですか。ならば良いのですが。ところでこの報告書、ひとつおかしな点が」 列記された関係者の数を数え直し、リベルは首を傾げた。 車外には鹿毛ヒナタ。日和坂綾。レナ・フォルトゥス。ボルツォーニ・アウグスト。 車内にはロボ・シートン。陸 抗。ワイテ・マーセイレ。アルド・ヴェルクアベル。相沢優。鰍。秋吉亮。サシャ・エルガシャ。篠宮紗弓。シーアールシー ゼロ。藤枝竜。雪峰時光。夕凪。坂上健。ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ。 「何度数えても合わないのです」 「ほんとだ、十九人しかいないね? 二十人いる筈なのに」 「ええ。事態収拾後、あの場にいた関係者全員に名乗ってもらったのですが……」 その頃、未だ片付けが続く現場に足を向ける者があった。抗である。大きな力を解放した彼の横顔にはやや疲労が見られるが、短時間であったためか、大きな障りはないようだ。 「おぉーい、いい加減に帰ろうぜ。もう解決したんだしさ」 「これを舐め終わったら本気出す……」 残セクタンに埋もれるようにしてヴェロニカがキャンディを舐め続けていた。足元にはキャンディの棒が山を作っている。 「サシャ、申し訳ない。あの雷は加減が難しくてのう……わたくしもまだまだじゃ」 「ううん、大丈夫だよ。一瞬だけ王子様に会えた気がしたもん」 別の地点ではジュリエッタとサシャが後片付けにいそしんでいた。 「それは錯誤というものじゃ。じゃが……考えてみれば、そもそも恋とは錯誤から生じるものなのやも知れぬな。錯誤と幻想は時に同義ゆえ」 「へぇー……ジュリエッタ、大人だねぇ」 「よし、次の作品のテーマはこれで行くのじゃ。名付けて『錯誤の終わり、新たな目覚め』」 「わあ、楽しみ! ……あれ?」 恋バナに華を咲かせながら、サシャはふと作業の手を止めた。 「こんなフォームのセクタンなんていたっけ? 何だか、あんまり可愛くないような……」 「びゃ、びゃうっ!(し、失礼な奴なのだ!)」 サシャが掘り出したのは猫のぬいぐるみに似た使い魔だった。セクタンに埋もれた挙句、ボルツォーニに置いてけぼりを食らったらしい。 そして後日、エミリエの部屋から『セクタン繁殖講座』なる本が見つかって物議を醸すことになるのだが、それはまた別の話だ。 (了)
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