ぷらんぷらん。 ベンチに腰を掛けて下ろした足をぷらぷらと揺らしているのは白い女の子。 透けるような白い肌に白銀の長い髪と瞳、白い服――いつからそこにいるのだろうか、誰も彼女には注視していない。 少女――シーアールシー ゼロはぼーっとしながら考えていた。彼女の上には変わらぬ空が光を注ぎ、彼女の白銀の髪をキラキラと輝かせている。風がそれを優しく揺らすものだから、光がちらちらと散って見える。 (ゼロは聞いた事があるのです。 ターミナルの住人が歩んできた人生は様々ですが、最も絢爛にして華麗なるはブランさんの半生だと) 本日のお題はどうやらブラン・カスターシェンに関することである。ウサギの獣人である彼は、自ら貴族の子弟と名乗り、華やかな来歴を吹聴している。彼の口から語られる来歴を信用している人はあまりいないらしいが、むしろゼロは信じている方だった。 (何処かに自叙伝があるそうなのですがー) 一時期、彼の自叙伝があると噂になったことがある。だがゼロは実物を見たことはない。一生懸命探したのだけれど、図書館でも見つけられなかった。一体何処にあるのだろうか。 (でも、本人に会って聞けばよいので問題ないのです) おっと、がっかりしているのかと思えば立ち直りが早い。ゼロは両足を付いてすっくと立ち上がり、こくりと頷いた。 「ブランさんは何処にいるのです?」 誰に問うでもなく呟いて、てくてくてくと数歩歩いて、ふと立ち止まる。何かが頭の隅に引っかかっていて……。 (なぜなのでしょう? 誰か誘わないといけない人がいるような気が、物凄くするのです) 特に約束していたわけでも誰かに話したわけでもないのだが、なんだか一人で行くべきではないというか誘わなかったらあとが怖いかもしれないとかそんな、不思議な感覚。 誰だったっけ、誰を誘わないといけなかったんだっけ……壱番世界で言う、喉に小骨の引っかかったような状態。ゼロは白銀の髪をさらっと揺らして首を傾げる。この感覚は何なのだろう――考え込もうとした瞬間。 「おろ、ゼロさんじゃないですか」 「!!」 背後から掛けられた声に、ゼロは勢い良く振り返って。そして心の中で激しく納得したものだ。 そこに立っていたのはコンダクターの小竹 卓也。壱番世界の住人でありながらツーリスト疑惑をかけられたり、重度のドラケモナーとして名を馳せている男である。噂によれば、ドラケモであれば性別など超越して滾る愛をぶつけられるらしい。 「あ、小竹さんなのです。こんにちはなのです」 ぺこり。ゼロがお辞儀をするとばさぁっと銀の髪が動き、光を反射させた。 「一緒にブランさんのお話を聞きに行きませんか? なのです」 単刀直入に切り出したゼロ。だって直感が告げている。第六感だか第七感だか第八感だか知らないが、誘わなければいけなかったのは彼だと!! 「え?」 けれども卓也にしてみれば、いきなりそんな事を言われても記憶にも身に覚えもないわけで。当然ながら聞き返――……さずに即OKしそうになった。本能の赴くままにというやつだ。だがなんとかかろうじてそれをこらえて(発揮するのはブランの目の前で良かろう)ゼロの説明を聞く。 「ブランさんに自伝の話を聞きに行く?」 通行人の邪魔にならぬよう、道の端にゼロを誘導して、建物の壁に寄りかかるようにして卓也は記憶をまさぐる。その中に、引っかかるものが確かにあった。 「あー、そういえばブランさん、クリスマスプレゼントで2010年、2011年と自叙伝第1部と第2部をプレゼントにしていたんですっけ」 「そうなのですー。ゼロはぜひ読んでみたくて図書館を探したのですが、なかったのですー」 ブランの自叙伝についてはやはり卓也も知っていた。当時、そのインパクトで噂になったから覚えていたのだ。 「……嘘か本当かは置いといて内容気になりますな。図書館にないと言うことは自筆なんでしょうね」 ブランの語る来歴は胡散臭いものが多い。自叙伝とやらの内容も何処まで信じていいのかわからないが、確かにどんなことが書いてあるのか気になる。 「ま、それならブランさんをもふりに、じゃない聞きに行きましょうか」 卓也の口からぽろっと本音がでかかった。だがゼロはそれを聞かなかったフリをする。いや、本当に聞こえなかったのか、それとも通常過ぎて気に留めるほどのことではないと思ったのか。 「小竹さんはブランさんの居場所、匂いでわかったりしないのです?」 「いや、それはさすがに――どうだろ」 本気とも冗談とも取れる返答をした卓也はちょっとだけ後悔する。だって、ゼロが向ける視線が尊敬に満ち溢れた、キラキラした物になってしまったから……。 「あ、いや……ここは確実に、トラベラーズノートで連絡取ってみません? 依頼に行ってなければ0世界にいる確率が高いでしょうし」 子供の期待を裏切るのはなんとなく悪い気がしたが、ここは確実にとトラベラーズノートを取り出す。 「なるほどなのですー。ゼロもお手紙書くのですー」 壁にノートを押し付けるようにして、二人でエアメールを書く。 程なくして、相変わらずの大仰な物言いの返信が、二人のノートに届いた。10行くらいのその返信は要約すると、 『OK。レストラン【ミスチヴァス】で会おう』 となる。 この人、メールくらい簡潔に書けないのか? *-*-* 商店街の奥まったところにある瀟洒な建物、そこがレストラン【ミスチヴァス】だった。壱番世界の中世ヨーロッパの貴族の住むような、上品な洋館風になっており、一見すると一見さんお断りでドレスコードのあるような店に見える。 「……ここか?」 「看板を見る限り、そのようなのです」 遠目から建物を見つめてごくり、卓也は唾を飲んだ。明らかに敷居も値段も高そうな店なのだが、自分達は入れるのだろうか。そして会計は誰持ちになるのか。やっぱり話を持ちかけた側の自分達が払うべき? 「たのもー、なのです」 「いやいやいやいやゼロさんちょっと待って!」 そんな卓也の思惑などするっと無視して、ゼロはとてとてと入り口へ近づいていく。卓也も慌てて追って、そしてなんとなく違和感に気がついた。 看板の店名の下には『24時間営業』。 入り口に扉には『冷やし中華始めました』。 壁には『アルバイト募集! 学生可』。 「……」 おおよそ瀟洒なレストランには似合わない、手作り感満載な張り紙が卓也たちを迎える。 「はいるですよー」 重そうな扉をゼロが押すのを手伝って、二人は店内へと足を踏み入れた。 カランコロンカラン…… お客を知らせて鳴ったベルは喫茶店っぽくて、まあ大きくは外していない。 しかし壁に飾られているのは高級感溢れる絵画などではなく、 『かき氷始めました。おすすめはハバネロシロップ!』 『ビッグ海鮮ちらし、30分で完食できたら賞金有り!』 『本日A5ランク牛肉入荷いたしました。おすすめは特製ステーキです』 まともなレストラン風の張り紙に混じって、B級な感じの写真や張り紙が……いや、むしろソッチの方が多い。 (一体、どんなレストランだ……) 「ミスチヴァスへようこそ! お客様、お二人様でしょうか?」 「ゼロ達は待ち合わせをしているのですー。ブランさん、来ているですかー?」 出迎えに出てきたウェイトレスにゼロが用件を告げる。狐獣人のウェイトレスはふりふりの制服からもふもふのしっぽをのぞかせて「いらっしゃってますよ」と微笑んだ。 「も、もふもふさせてくださいっ!」 「えぇっ!?」 壁の張り紙からウエイトレスーと視線を写した卓也の開口一番の一言。ついついウェイトレスさんのしっぽがふわふわでもふもふだったから、なんかでてきてしまった。 「小竹さん、ちょっとだけもふもふ我慢して欲しいのですー。ブランさんが待っているのですよー」 「えー、でもー」 「ご、ご案内いたしますね……」 驚愕から戸惑いに表情を変えたウェイトレスは、引きつる顔に無理矢理笑顔を浮かべ、二人を先導して歩き出した。プロ根性がそうさせるのだろうか。 ウェイトレスが案内したのは庭に面したテラス席だった。生垣の向こうは道であるが、あまり人通りは多くないらしい。 そこにはすでにブランが着席していて、優雅にティーカップを持ち上げながら雑誌をめくっていた。 「ブランさん発見。こんにちはもふらせて下さいもふぅ!」 「おお! 来たか。我輩の全てを知りたいなどという欲張り者が」 「綺麗なお店なのですー。ブランさんに似合っているのですー」 三者三様の挨拶。噛み合っているようないないような、それに気がついているのは冷静な目で見ているウェイトレスだけだった。 「とりあえずそこにかけろ。なにか食べるか?」 「ゼロは大丈夫ですー」 ゼロは食事の必要がない、メンテナンスフリーなのが特徴だ。だが卓也は腹が減っている。しかし。 「ブランさん、いきなりこんなこと聞くのも失礼ですけど、ここってお高いんじゃ……」 やっぱりちょっと気になるのはお値段。その問いにウェイトレスから受け取ったメニューをブランは卓也に差し出す。高い料理が並んでいる頁を開いて。 「うおっ……」 受け取ったメニューの頁には、ちょっと手が出ないような値段の料理が並んでいた。というか、これ一品食べるくらいならもっと安いものをたらふく食べたい……そんな心理が働いてしまう。 「ページを捲ってみろ。ここの売りはピンからキリまでだ」 言われた通りページを繰ってみれば、段々と料理の値段が安くなっていって、そしてメニューの内容もレストランにとどまらず、喫茶店や下町の食堂のようなものまで含まれていることに気がついた。道理でこのメニュー、異様に分厚いわけだ。 「ああ……これなら」 「なんなら我輩のツケにしておけばいい。より多く持てるものは、持たざるものに施しを与える。それが貴族の役目だ」 「まあ、じゃあお言葉に甘えて……これとこれとこれ」 なんだかいちいち言い方は気に食わないが、奢ってくれるというならば素直に奢ってもらおう。卓也はメニューを指してウェイトレスに伝える。ウェイトレスが少し卓也と距離をとっているのは気のせいだろうか。 「あとその尻尾、一回もふらせて下さい」 「!? お客様、こまりますっ……! 他のご、ご注文は承りましたっ! お待ち下さいませっ!」 さらりと言った冗談のつもりだったのだが(いや、本気だったのだろうか?)、ウェイトレスは再び顔をひきつらせてすごいスピードで厨房へと消えていった。きっと今頃、他の店員たちに今起こったことをありのままに伝えているに違いない。 「女性の扱いがなってないな」 「本能の赴くままに行動しただけです。問答無用でもふらなかっただけ褒めて下さい」 「小竹さんが本能の赴くままに行動していたら、ターミナルには被害者の会ができてしまうのですー」 「ゼロさんひどっ」 にこにことしながらさらっと言ってのけたゼロ。卓也の小さな抗議も意に介さず、ゼロは椅子に座ったまま足をぷらぷらさせて口を開く。 「メールで送った通りなのです。ブランさんの半生について聞きたいのですー」 「そうだ本題……って勿論もふらせて欲しいのもあるんですが、自叙伝についてお話聞きに来ました。や、生い立ちについて直接聞いたほうが早いか?」 カトラリーボックスからスプーンを取り出し、マイクのようにしてブランの口元に差し出す卓也。気分はリポーターだ。 「何か凄いと聞いたんですが」 取材用のテープレコーダーをテーブルの上に準備。一応代えのテープも持ってきた。欲を言うならICレコーダーの方が良かったかもしれないが。 「自叙伝? それなら持ってきたぞ!」 「え!?」 「わぁい、本当なのですか~?」 どさ、どさ……テーブルクロスの上に広げられたのは、辞書ほどに分厚いハードカバーの本2冊。 「あれ、クリスマスプレゼントに贈ったんじゃ……」 「よく知ってるな。これは複数刷ったもののうちの1冊だ」 「自筆じゃないんですか?」 小竹がインタビューを開始している間にゼロは厚い表紙をめくってみた。 『ブラン・カスターシェン自叙伝 第一部』と書かれたその本のまえがきには 『吾輩の華麗なる履歴を綴った自叙伝である。 すでに百科事典なみの厚さがあるが、特筆すべき事柄が多すぎて、 この一冊には生誕から3歳までの出来事しか記すことができなかった。 よって「第一部」とさせてもらったので了承されたい』 との注意書きがあった。確かに分厚くて重く、読みきるには時間がかかりそうだった。 続いて「第二部」の表紙も開いてみる。同じくまえがきには 『吾輩の華麗なる履歴を綴った自叙伝を進呈しよう! 昨年の出版した「第一部」に続き、 この一冊には4歳から6歳までの出来事がつぶさに記されているぞ』 と書いてある。 「手描きじゃないみたいなのです。きちんと印刷されているのです」 「わ、本当だ」 ページを捲って文字を触っているゼロに倣って本を開いた卓也も、それを確かめて。 「知り合いの印刷技術者に頼んで印刷してもらったのだが、分厚すぎて各10部しか刷れなかったのだ。装丁は私がデザインし、行ったのだ!」 今日日、記念として自分で本を製本する人達もいて。そんな人達の為の道具が壱番世界では出回っている。ブランもそういうツテを使って自分で製本したのかもしれないが……。 (百科事典並みの本の製本って、素人だと気が遠くなるくらいの労力使いそうだ……) 本当、この人は無駄なところで無駄に力を発揮するなぁ……。 「10冊あるのです? 何故図書館にはないのです?」 「それがだな、リベル女史に図書館においてもらえるように頼んだのだが……一個人の、それも真偽の怪しい自叙伝なんて置けないと一刀両断されてしまった。英雄の自叙伝なら置いてもいい、とも」 「えー、リベルさんわかってませんね。伝記の棚じゃなくて小説の棚に置けばいいのに」 「図書館に置いたら、みんな読みたがると思うのです。常に貸出中になると思うのですー」 卓也とゼロの言葉に、ブランは満足気にうんうんと頷いて。常に貸出中になるのは、分厚すぎるからという別の理由もありそうだが、それには誰も触れない。 「全くもってして遺憾なのだよ。今度はアリッサにでも交渉してみるか」 「それがいいのですー」 ブランが賛同者を得て上機嫌になったところで、頼んでいた料理が運ばれてきた。 残念ながら、運んできたのは人間型のウェイターだった。あらぬ方向に警戒されたらしい。 「自叙伝なら貸し出そう。だがそれで君たちの好奇心は満たされるのかい?」 マカロンをつまんで、ブランは挑発するように言った。ゼロと卓也は顔を見合わせて。 「満たされるわけないじゃないですか。自叙伝に載っていない話、あるんですよね?」 「ゼロはもっと色々な話を聞きたいのですー」 卓也がテープレコーダーのスイッチを入れる。 「よかろう。心ゆくまで聞くがいい」 ブランがニヤリ、笑った。 *-*-* 「まず我輩が生まれたばかりの頃の話だ。 両親が乳母を求めた所、我輩に乳を含ませたいとはちきれんばかりの胸を抱えた乳母希望者が行列を作ったそうだ。 行列は街の大通りに沿って街の出口まで続き、商人達は店を出すことすらままならなかった」 「それは凄いのですー。でも商人さんは困ってしまうのです」 「だが商人達はそれが我輩の乳母希望者だと知って、無理やりどかせるのをやめた。 そのままカスターシェン家へ願い出て、我が家の敷地で商売をはじめたのだ。 乳母が決まるまでの間、我が家の敷地には民の生活を左右する市場までできてしまったのだよ」 「お買い物が便利になったのです。赤ちゃんを抱えたお母さん達も便利なのです」 「いやいや、逆に苦労した人達もいるよね、遠くなってさ」 どうだ我が父の度量と我が家の敷地の広さは。そう自慢しているのだが、いまいちゼロには通じていないらしい。でもブランはそんな事は気にしない。 「我輩が9歳の誕生日を迎えると知って、国中の者達がこぞって人参を送ってきた。 父や祖父と親交のある他国の者までプレゼントを人参にしたらしい。 毎日毎日人参が届く。3日後にはすでに家の中に置き場がなくなり、庭へ置くことにした。 10日後には積めるだけ積み上げることにして、山を作った。 そして誕生日当日には、屋敷の高さをゆうに超える山となった。 この山は『ブラン生誕9年を祝うニンジンマウンテン』として、今も語り継がれている」 「人参のお山ですかー。登って遊べてお腹が空いたら食べられて、一石二鳥ですー」 「いやいや、崩れるでしょ。というか下のほう腐らないの? それ、全部食べたの?」 モフトピア的思考のゼロに対して、卓也は現実的にツッコミを入れる。だが二人共全くこたえないのだからたちが悪い。 「我輩の毛が生え変わる時期など、我輩の抜け毛を求めて黄金が取引されるくらいなので、 希望する国民に膨大な数のくじを配って、当たった者に抜け毛を進呈することになったくらいだ。 どうやら我輩の抜け毛は、幸運のお守りになるらしい」 「今は抜けないのです?」 「いたたたた……今はまだ換毛が始まってないぞ」 「というか、お守りって、ウサギの足じゃなかったっけ?」 こんな感じでブランの話は延々と続いていく。その度にゼロがボケた感想を言って卓也が突っ込む、その繰り返し。 紅茶やジュースも何杯となくおかわりをし、スイーツや軽食もはさみ、だらだらだらだらと過ごす。 性別を無視した女子会のようなものだろうか。いや、それよりも年末年始に友達と集まってだらだら過ごすのが近いか? 何時間経ったのかわからなくなるあの感覚。違うのはここが誰かの家ではなく、瀟洒なレストラン(だけどちょっと変)であるということ。 テラス席に他のお客が来ることはなく、店内と繋がっている扉は必要がなければ締め切られていたためあまり店内を気にしてはいなかったが、もう何度も何度もお客は入れ替わっているはずだった。さつまいもチップスを運んできたウェイトレスに目を向ければ、今まで店内でも見たことのない人だった。 (あれー……時間、どのくらい経った?) ぼうっとする頭を働かせようとする卓也。ブランは最初と変わらず元気にしゃべっているし、ゼロも楽しそうにそれを聞いている。じゃあそんなに時間が経っていないのか? (それにしてはだるい、というか……ねむ……) 替えにと持ってきたテープはもうとっくに使い果たしてしまった。 「それで吾輩がドラゴンの討伐に赴くことになったが、 そのとき吾輩の身を案じて国中の乙女が流した涙は大河となって、 今でも『ブランの身を案じて乙女が流した涙の河』という名で呼ばれており、 その川の水は不思議にも腰痛に効くという話だ」 「肩こりには聞かないのです? 肩こりに困っている司書さんがいたのです」 (ゼロさん、突っ込みどころはそこじゃ、な……) 言葉にしたつもりだが、卓也の思いは言葉にはならなかった。 襲い来る睡魔は頭の中心をふわふわとさせ、瞼を下ろそうと引っ張る。 それもそのはず。三人がここで話し始めてすでに12時間以上が経過しているのだから。 停滞している0世界には、特別な期間を除いて夜が訪れない。だから空の変化で時間の推移を感じることはできない。 ゼロと卓也が出会ったのが昼ごろだとすれば、すでに夜中。 普段宵っ張りだとしても、だらだらと食べてまったりを繰り返していれば眠気は襲ってきやすくなる。ツッコミも兼ねて、精神的にも疲労しているからして。 「ドラゴン討伐の帰りのことだが、 途中の街で水を一杯所望したら、麗しい女性たちが我も我もと持ち寄ってくれて、 その水を集めると、泳げるほどになったのだ。 その泉は『ブランに差し出した聖なる水の泉』として地図にも載せられたのである」 「ゼロも泳ぎたいのですー。この泉は関節痛に効くのです?」 (だか、ら、そこ、じゃ……) 遠いところでブランとゼロの声が聞こえる。まるで薄い壁を隔てているようで、自分が聞いているのではない感覚。 (あの二人は、疲れない……のか?) とうとう卓也はここで、睡魔に抗うことを放棄した。 *-*-* 「……ものだ」 「……のですー」 なにか言い争うような声に、卓也は目を覚ました。というより、自分が寝てしまっていたことに気がついた。テーブルクロスの上に涎のシミを見つけて、口元を拭う。 (ブランさんとゼロさん……?) ゼロの声はいつもと変わらないが、心なしかブランの声が弱々しい気がする。卓也はガバっと顔を上げた。 「よぉ、起きたか……」 「おはようございますですー」 「!? ブランさん!?」 卓也は驚きで目を見開いた。なんと、ふさふさだったブランの毛皮はクタッとして薄汚れていて、しかも所々円形に抜け落ちている。大きいもので掌大ほど。 「っ! 一体何があったんですか!? 敵襲にでもあいましたか!?」 椅子を蹴るようにして立ち上がり、心なしかげっそりしているブランの肩を揺する。 「? 小竹さん寝ぼけているのです? ゼロとブランさんはずっとここでお話ししていたのですー」 「え」 にこー……ゼロはいつもと変わらぬ笑顔で告げる。いや、ちょっと今はそれが怖い。 「ブランさん、自分どのくらい寝てました?」 「がっつり12時間ほどだな……」 「その間、ブランさんはずっとしゃべり続けていたのですか?」 「ああ。期待されると応えずにはいられぬ性格なのでな……」 こそこそこそ。ゼロに聞こえぬように交わされる会話。ゼロはきょとんとした表情で二人を見ている。 「無茶しやがって……」 腕で涙を拭くような仕草をして、卓也はブランの肩をぽん、と叩いた。 ウサギはストレスに弱いという。 ストレスとは無縁そうなブランだが、げっそりしていて内臓の調子も悪そうだ。 衛生へ……じゃなくて、医療スタッフー! スタッフー! *-*-* 新しい自叙伝が出るとしたら、こんな一文が追加されるかもしれない。 『英雄ブラン・カスターシェンを唯一打ち負かした勇者、その名もシーアールシー ゼロ』 【了】
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