伊原の故郷は概ね平和だった。妖と呼ばれる存在が『さわぎ』を起こすこともあったし、世界の均衡が密かに崩れ始めていたのだが、伊原の周りはまあ平穏だった。 壱番世界の現代日本によくあるような町に住む伊原は、昼は散歩を楽しみ、夜は空き家に入り込んで休むという生活を送っていた。野宿など恐ろしくてできなかった。たとえ雨雪が降らなくとも、夜露や朝露で湿気ることを考えればどうしても屋根のある場所を選ばねばならなかった。 ところで伊原は箪笥の付喪神だ。昼間は青年の姿で歩き回るが、日が暮れれば箪笥の姿でうとうとしていた。日が昇ればまた人型を取って外出し、日が沈む頃に同じ空き家に戻る。消えたり現れたりする不思議な箪笥の噂はあっという間に尾ひれ付きで広まった。 しかし伊原は大らかだった。別の視点から言えば世事に疎かった。時間の尺度が人と異なることや、日々の暮らしに汲々としない性質のせいもあっただろう。よって、当の伊原が噂を知ったのはだいぶ後になってから――つまり、噂が都市伝説と化してからだったのである。 破れ、黄ばんだ障子から差し込む朝日で伊原は目を覚ました。 「……あれ?」 そして首を傾げた。まただ。引き出しの中に、覚えのない手紙が三通鎮座している。 (私に宛てたわけじゃなさそうだなあ) 跳び箱の四段が跳べますように。テストで百点を取りたい。お父さんとお母さんが仲良くなりますように……。拙い字で書きつけられているのはメッセージというより願い事だった。 「まあ、いいか」 しかし伊原は大らかだった。細かいことは気にしないのだった。手紙をそのままにぶらりと散歩に出かけ、夜には空き家に戻って休んだ。 「……あれ?」 だが、翌朝も首を傾げることとなった。また同じような手紙が放り込まれている。クラスメイトの誰それに告白したい、喧嘩した兄と仲直りしたい、お小遣いがもっと欲しい等々。 そんな日々が繰り返され、手紙はどんどん溜まっていく。差出人は近所の小学生らしい。捨てることもできず、さすがの伊原も困り始めていた。 「どうしたものかなあ……なぜ私にこんな手紙をよこすんだろう」 「そりゃあんた、怪談扱いされてるんだよ」 ある日、馴染みの猫又が愉快そうに教えてくれた。 「怪談? まあ、私はこれでも付喪神だしなあ」 「そういう意味じゃないんだってば。『あそこの空き家には出たり消えたりする奇妙な箪笥がある。箪笥を見つけて、誰にも見られず引き出しにお願いごとを書いた紙を入れることができれば願いが叶う』って子供らが噂してるよ?」 「ええー?」 伊原は困り果ててしまった。箪笥には願いを叶える力などないからだ。 「まあ、いいんじゃない? 願い事を叶えて下さいなんて、可愛いもんじゃないの」 「困ったなあ……どうにかならないかなあ」 「あたしに言われてもねえ」 猫又は耳の後ろを掻きながら欠伸をするばかりだ。うーんと唸った伊原だが、ここにいてもどうにもならない。とりあえず、いつものように和服の青年の姿で散歩に出ることにした。伊原はいつでもマイペースだった。 がらりと玄関を開けると、ランドセルを背負った少年が立っていた。 「ああ、どうも……」 「ひっ」 戸惑いながら挨拶をすると、少年は泡を食って逃げ出した。その拍子に彼の手から便箋が落ちる。落し物だと声をかけても、少年は一目散に走って行ってしまった。 「そうそう、さっきの噂の続きだけど」 猫又の声が追いかけてくる。 「『ただし和服の男に見つかると影を取られるか、攫われる』そうだよ」 「……困ったなあ」 箪笥には影を奪う力も子供を連れ去る習性もない。少年が落とした便箋には隣のクラスの誰それと仲良くしたいという願い事が書きつけられていたが、もちろん箪笥にはどうしようもなかった。 その後も手紙は溜まる一方だったし、噂も広がる一方だった。願い事が成就した――伊原は何もしていない。偶然や本人の努力によって叶っただけだ――お礼にと引出しにシールを貼られ、箪笥の姿では泣けないのだが泣きたくなったこともあった。人間好きの伊原だが、何をするか分からない子供は苦手だった。人型で散歩している最中に勇敢な子供に石を投げられてからはますます子供を避けるようになった。 「可愛いもんじゃない」 馴染みの猫又はころころと笑うばかりだった。伊原も伊原で、今ひとつ深刻には見えない風情で「困ったなあ」と繰り返すだけだった。 だが、話はこれだけでは終わらなかった。 近所の、とある小学校。休み時間の四年二組にひたひたとざわめきが広がる。 (三組の愛奈ちゃん、ずっと休んでるらしいよ) (学校帰りに和服の男を見たんだって) (次の日、元気なかった。学校に来なくなったのってその次の日あたりからだよね?) (修斗も空き家の前で和服の男を見たって。話しかけられたから必死で逃げて来たって) (やっぱり影を取られるのかな? もしかして、愛奈ちゃん……) 「ねえ修斗くん」 という女子生徒の呼びかけで内緒話はぴたりと止んだ。友達の輪に加わらずに席で頬杖をついていた修斗少年は不機嫌に顔を上げた。 「妹、どうしてるの? もう一週間も休んでるんでしょ。おかしくない?」 「はぁ? 知らねーし」 「兄妹でしょ」 「知らねーし。ってか、一緒に暮らしてるわけじゃねーし」 吐き捨てるような言い方に教室は静まり返った。少年の“家庭の事情”を知らぬ者はこのクラスには――恐らく、三組にも――居ない。 「気分悪い。俺、早退するわ」 少年は荒々しくランドセルを手にして教室を後にした。 その頃、空き家の伊原はいつものように引き出しの手紙を読んでいた。 「困ったなあ」 昨夕から今朝の間に放り込まれたとおぼしき便箋には相変わらず他愛ない願い事ばかりが書きつけられている。掛け算の九九が言えるようになりたい、新しいゲームソフトが欲しい、所属する少年野球チームでレギュラーが獲れますように等々。 「とりあえず神社で預かってもらったら?」 「そうだなあ、もう少し溜まったらそうしようか……おや」 猫の姿の猫又に相槌を打ちながら、ふと手を止めた。 真っ黒な手紙が入っていた。幾度も幾度も書き直したのだろう、白い便箋のほぼ一面がぐちゃぐちゃと塗り潰されている。日の光に透かすと、「死ね」だの「二度と学校に来るな」だのの罵詈雑言が並んでいるのが辛うじて読み取れた。しかし奇妙なことに、わずかな余白には小さく「仲良くできますように」と書き添えられているのだった。 「困ったなあ。結局、どっちなんだろう」 「そりゃあんた、後から書かれた方が本音なんじゃない?」 猫又は髭をむにゃむにゃとさせ、人型を取った伊原の膝で香箱を作った。 「はあ。だったら最初から本音を書けばいいのに」 「人は嘘をつくからね。自分にも他人にも」 「はあ。人が人に嘘をつくことはあっても箪笥につくとは思えないけれど」 「あはは。好きだよ、あんたのそういうところ」 「それはどうも……悪いけど、そろそろどいてもらえないかなあ」 「はいはい、失礼」 猫又を膝から下ろし、伊原は日課の散歩へと出かけた。 風は穏やか、日はうらら。春の訪れを予感させる暖かさである。ぶらりぶらりと、そぞろ歩く。商店街には近付かぬようにしていた。店頭の品物を無意識にしまい込んでは大変だからだ。 (嘘、か) 和紙のような雲を仰ぎながら、ふと手紙の内容が脳裏をよぎる。 人の世界では嘘も方便と言うのだったか。だが、必要な嘘ばかりとも限るまい。真逆の言葉で心を隠して、何か得るものがあるのだろうか? (これが機微というものなのかなあ) そんなことを考えていたものだから、曲がり角から出てくる人影に気付かなかった。 「あっ」 「おっと」 ぶつかってきたのはランドセルを背負った少女である。十歳くらいだろうか、転倒した彼女に伊原の動きが一瞬止まった。 「ああ、申し訳ない……大丈夫?」 ようやく手を差し出すと、顔色の悪い少女は「ひっ」と悲鳴を上げて後ずさった。影を取られるか攫われると思っているのだろうか。持て余した手を引っ込められずにいると、小さな衝撃が伊原の背中を襲った。 「そいつから離れろ!」 甲高い少年の声。振り返ると、ランドセルを肩にかけた少年が敵意をむき出しにして次々と石を投げつけてきた。慌てて顔の前に腕をかざしながら、伊原はなぜか少年に既視感を覚えた。 「あっち行けバケモノ! 攫うなら俺を攫え!」 「え、あの、私は何も」 「……お兄ちゃん」 「ええー?」 泣き始める少女に伊原はぽかんと口を開けた。ほぼ同時に、少年が意を決した表情で伊原の腰にタックルを仕掛けた。彼の目には伊原が少女を泣かせたように見えたのだろう。不意の攻撃に伊原は尻もちをつき、少年は伊原の胸をでたらめに殴りつけた。 「馬鹿野郎! あっち行け! 俺の妹だ、手ェ出すな!」 「ちょっと、待っ」 うにゃーお、と聞き慣れた声が割り込む。見れば、猫の姿を取った猫又が全身の毛を逆立てているではないか。 「ああ、助かっ――」 「フーッ!」 「ええー?」 猫又が飛びかかったのは少年ではなく伊原だった。涙と鼻水を垂らした少年にぽかぽかと殴られ、猫又の爪で威嚇され、伊原はほうほうの態で逃げ出すしかなかった。 「……あ」 残された少女は茫然と座り込んだままだ。肩で息をしながら伊原を見送った少年が少女を振り返る。泣き腫らした少年の顔を見て少女はまたしゃくり上げた。 「修斗お兄ちゃん。ごめんね、ごめんね」 「……俺の方こそごめん、愛奈」 兄妹は揃って泣きじゃくった。 修斗と愛奈は同じ小学校に通う二卵性双生児だ。両親の離婚に伴い、兄は父に、妹は母に引き取られた。以後、父を慕う兄と母を庇う妹の間に亀裂が入り、きょうだい喧嘩が絶えなくなった。打たれ弱い妹は離婚と喧嘩のストレスで体調を崩し、学校を休みがちになった。今日は途中の時限から学校に出てくる予定だったそうである――という話を猫又が聞きつけてきたのは半日後のことだった。 「妹はあんたに影を取られたんじゃないかって噂でもちきりだったよ。多分、体調を崩す直前にたまたまあんたの姿を見ちまったんじゃない? それで精神的にとどめを刺されちゃったのかもね」 猫又は手紙を収めた段ボールをひっくり返し、二枚の便箋をくわえ出した。『お父さんとお母さんが仲良くなりますように 愛奈』。『喧嘩した兄と仲直りしたい 愛奈』。 「そういえば……先日家の前で会ったのはあの少年だったような」 玄関先で伊原とぶつかった少年は慌てるあまり手紙を落として行った。文面は『隣のクラスの愛奈と仲良くしたい』。妹と書かない辺り、複雑な心境の表れなのだろう。 「あんたの言った通りだ。あの兄妹、確かに箪笥の前では嘘をつけなかったね。また一つ願いを叶えたってわけだ」 猫の姿を取った猫又はさも当然のように人型の伊原の膝に陣取った。 「はあ。叶えたと言っても、両親のことは私にはどうしようも」 「いくらかマシじゃない? 兄妹がいがみ合ったままよりはさ」 「それはそうかも知れないなあ。まあ、私は何もしてないけれど」 伊原は左頬の引っ掻き傷を撫でながら溜息をついた。 「それにしても……どうして私があなたに引っ掻かれなきゃいけないのだろう」 「だって、あんたがいつまでも兄妹の間に居座るから。ああいう時は兄に懲らしめられたふりしてさっさと退散するもんでしょ? ほんとに野暮なんだから」 「そういうものかなあ」 だが、日が暮れて箪笥の姿に戻った時には左側面に傷が付いていて、伊原は泣きそうになったという。 数日後。兄妹の手によって『タンスさんありがとう!』というメッセージ付きの似顔絵(?)とホログラム仕様のシールを貼られ、伊原はまた泣きそうになった。 「あはは。可愛いもんじゃない」 「何とかならないかなあ……私はただの箪笥なのに……」 「勲章だよ、勲章」 猫又はころころと笑うばかりだ。 世界は今日も平和である。 (了)
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