係員が硝子戸の外側の灯を消せば、本日の展示はおしまい。一昨日あたりまで特別展示されていたらんぷ達は、別の家具博物館や持主のところに連れて行かれた。らんぷ達が博物館の中央に飾られていた間は、展示室の電気が消えた後も、警備員が懐中電灯を片手にうろうろしていたが、 「静かになったのう」 「なり申したな」 天板の上で半筒猪口とそば猪口が言葉を交わす。はて、少し前までは「妾の方が美しいであろ」「否、某の方が味わいがある」とか何とか、夜になる毎世間話も交えて言い争っていたように思うのだけれど。お陰でこちらはすっかり耳年増だ。 (少し前ってどれくらい前だったかなあ) ひと月前か一年前か。はたまた十年前なのか。硝子戸の向こう側を過ぎていく年月は、夢を見ているかのようにぼんやりとしている。夢現のうちに、硝子戸の向こうを人間たちがこちらを眺めて過ぎて行く。時々、係員が硝子戸を開けて天板や縁金具を磨いてくれた。前に磨いてくれたのはいつだったかな。展示ケースの中は虫も埃も入らず湿気も適度で有難いけれど、そろそろ棹通しを油で磨いて欲しいなあ。装飾の薔薇の花弁の縁や茨模様の透かしの辺りを布で擦ってもらいたいなあ。 (でもそれよりも、) 自分の引き出しの中に意識を向ける。ああ、やっぱり何にも入っていない。私の中は空っぽだ。 硝子戸にぼんやり映る自分の姿は、他の展示ケースに納められている茶箪笥やからくり箪笥と比べても、結構大きい。私はこんなに大きいのに、空っぽなんだ。その上、ものを収納するはずの私がこんな硝子ケースの中に納められている。並べて飾られている。こんなのは、こんなのは、―― 「ここ狭いの暗いの!」 隣の百味箪笥の引き出しがガタガタと騒がしい。いいなあ、お隣さんの引き出しには何か入れてもらってるんだなあ。 「出して! お願い、ここから出してー!」 隣の箪笥の引き出しの中、どこか幼い声で何かの妖が必死に叫んでいる。 「出してってばー! 呪うぞこらー!」 百はないが、三十三ある引き出しのひとつが激しく揺れる。おいおい、そんなに揺らしたら倒れてしまうよ。 「おうい、誰か助けておあげよ」 寝言を言うように、息を吐くように、声が出た。自分の声が自分の引き出しの中でくわんと響く。あれ、私、喋ることが出来るじゃないか。 天板の上の猪口たちは沈黙している。向こうの硝子ケースの中の箪笥も扁額も大甕も、展示室の入り口で口を開けて佇む何体もの狛犬たちも、お隣の百味箪笥も、返事する気配はない。 (まあ、お隣は作られて間もないようだしなあ) 「仕方ないなあ」 呟いてみる。やっぱり声が出た。若い男の声だなぁ、そう思いながらガタガタ揺れる百味箪笥に近付く。 「某は分厚いから良い」 天板から転げ落ちた半筒猪口がぼやく。 「だが、おそば殿は斯様に華奢、もっと丁寧に扱え」 「あれ、妾のためにそのような」 「ご無事で御座るか」 「半さまこそ」 仲睦まじい猪口たちは放置する。百味箪笥の引き出しを開けてやる。 (……ん?) 私は単なる箪笥なのに、どうして動けるんだろう。 (まあ、いいかぁ) 「ぷは、やっと出られた!」 引き出しの縁にけむくじゃらの小さな両腕を投げ出して、小さな妖が一息吐く。黒い毛に覆われた頭の天辺には小さな角、金色のまん丸い眼、背中には蝙蝠の羽、丸々とした尻には鼠の形した尻尾。この辺りでは見ない姿の妖だ。 「ありがと、助かったよ」 小さな妖は蝙蝠羽をばたつかせる。 「っと、とと」 思い出したように丸い金目をますます丸め、開けた引き出しの縁にひょいと立つ。片腕を胸に、外国風のお辞儀をする。 「おはつにおめもじいたします。あっし、生まれは欧州、名を、――」 ぎこちない言葉が不意に詰まる。お辞儀したまま、首を捻る。バランスを崩して引き出しの中に転がり込む。 「どうしたんだい?」 覗きこむと、妖は仰向けで照れて笑った。 「なまえ、まだ無かった」 「そうなのかい?」 「君はなまえある?」 「伊原だよ」 箪笥であるはずなのに、何故だか自分の名前をきちんと知っていた。ぼんやりのんびり漠然と違和感を覚えながら、伊原は引き出しの中から小さな妖を助け出す。 「前は、確か居なかったよね」 硝子ケースの内側で、伊原は小妖と向かい合う。小妖は揃えた膝を所在無げにもじもじさせ、三角座りに座りなおす。伊原を見仰ぐ。 「家具博物館ってどんなところかなって思ったの」 人に見つからないようこっそり忍び込んだはいいものの、 「ここ、面白いね」 内側に和紙を貼った茶葉の匂いの残る大甕、赤い実や走る馬を描いた大皿、なんだか読めない難しい字を書いた扁額、壁際にずらりと並ぶ様々の形の狛犬、硝子ケースに並ぶ整理箪笥に階段箪笥、茶箪笥や車箪笥やからくり箪笥。竹の行李に桐の長持、黒檀の櫃。鈴蘭や銀杏の葉の形のらんぷ。 夢中になって見ているうちに、夜警の人間に見つかりそうになった。 「それは災難だったねえ」 「普段は見回りなど居らぬのにのう」 「らんぷたちは預かり物ゆえ、なあ」 伊原は頷く。猪口たちが話に混ざってくる。 「それで、慌てて箪笥に隠れたんだけど。あれ開いてるなあ、って人間の声がして、引き出し、閉められちゃったの」 ぱたん。両手で引き出しを押す仕種をして、子妖は毛氈を敷いた床に倒れこむ。へへへ、と金色の眼を細めて照れ笑いをする。 「ほんと、助かったの」 再度礼を言い、寝そべったまま蝙蝠羽を広げる。風を自らの周りに巻いて浮き上がる。 「いいなあ、何処へでも行けるんだなあ」 伊原は羨ましくなる。もしも自由に動けるなら、人間のように歩いてみたい。あっちにふらふら、こっちにふらふら。箪笥のこの身では一度台輪を着けてしまえば、誰かに押してもらうか、棹通しを使って持ち上げてもらうかしなくては、一寸だって動けない。もしも出来るのなら、根無し草のように目的もなく歩き回ってみたい。そうしていつか、この空っぽの箪笥を大切な預かり物でいっぱいにしてみたい。出来るなら、大切に扱ってくれて、この引き出しに大切なものをたくさん入れてくれる持ち主に出会いたい。 小妖は伊原と猪口ふたつにバイバイと手を振る。蝙蝠羽で飛び立って、 「ぎゃあ」 ばちん、硝子戸に顔面をぶつけた。元気に羽ばたいていた蝙蝠羽が項垂れる。硝子戸に小さな豚鼻の跡をつけて、小妖はずるずると硝子ケースの床に落ちる。 「えええ、なにこれー」 小妖怪はぺたんと尻餅ついて金目を丸くする。小さな掌を硝子戸に押し当てる。押しても引いても横に滑らせようとしても、硝子戸は開かない。 「鍵が掛かっているねえ」 「嘘、どうしようどうしよう」 ばちんばちん、小妖は硝子戸をひっぱたく。がたんがたーん、硝子戸の枠が揺れる。 「開かないよう開かないよう」 金目に涙を溜めて喚く小妖の黒毛に包まれた手を、伊原はそっと掴んで止める。 (あれ?) どうして掴めるのかなあ、何だかまだ夢でも見ているみたいだなあ。どこまでものんびり、そう思う。 「だめだよ、硝子が割れてしまうよ」 「この手は怪我なんかしないの!」 小さな角の先まで尖らせて、小妖はべそべそと泣く。伊原の膝に縋りつく。 「さわぎに、なってしまうよ」 妖は人の世に潜んで存在する。人の居ない森や山の奥に棲まう妖も居るには居るが、人の世界に潜むには、それ相応の制約がある。 人に妖の存在を知られるような『さわぎ』をおこさない。そんなことも、人の世に生きる妖の制約の内。人が自分たちと違うものを怯え恐れ、果ては滅ぼしてしまおうとすることを、妖たちは心の奥底で知っている。 人は恐れる。たとえ、己が作ったものから発生した妖であろうとも。 (まあ、私は箪笥だからなぁ) 人が作ってくれたこの箪笥の造作は気に入っている。和と洋の融合された細部は素晴らしいのひとことだし、隠し引き出しのからくりだってあるのだ。――それはともかく。 伊原を作り出してくれたから、人間は好きだ。出来るなら人間の傍に居たい。その為には、『さわぎ』は起こさないに限る。 「やだよ、ここから出たいよう」 小さな妖の小さな背中を撫でてやる。 (あれー?) 伊原は箪笥だ。 (どうして膝や手があるのかなぁ) 「あにさんはどうしてこんなところに居るの」 小妖が涙塗れの金目で伊原を見上げる。 「運び込まれたんだよ」 棹通しに棹を通して、台輪も上手く使って、人間四人がかりでよいこらせ、と。傷ひとつとしてつけないようにと、縁金具もどの面も布団に包まれた。大事に扱われている感じがして、あの時は幸せだった。それなのに―― 「妖も展示してるの?」 「……へ?」 小妖の言葉に、伊原は素っ頓狂な声を上げる。思わずそこいらに転がるお喋り猪口たちを見遣るが、 「あれ、気付いてませなんだかえ」 「呑気な付喪神でござるなあ」 彼らのことではないらしい。 「あれ?」 伊原は自分の手を見下ろす。足を見下ろす。箪笥に手足はない。手で触れば短い髪が生えている。纏う衣装は箪笥の姿生かしたように、洋装を取り入れた和装の風。硝子戸を見れば、年の頃二十歳前半の青年の姿がぼうやりと映りこんでいる。 「驚いたなぁ」 「気付いてなかったの」 伊原はのんびりと頷く。 「動けるのはこういうわけか」 そうだ、と思う。自由に動けるのだ。ならば、 「私もここから出て行くことにするよ」 伊原の言葉に、小妖は目を剥いた。 「さわぎになるよう」 今度は小妖が伊原を制止にかかる。小妖は助けを求めるように猪口たちを見遣るが、猪口たちはだんまりを決め込んだ。素知らぬ様子で転がっている。 「元々ここにいたあにさんが居なくなったら、さわぎになるってば」 「引き出しを空にしたまま並べて飾るなんて箪笥に失礼だ」 伊原は腕を組む。人がするように、眉を寄せて難しい顔をしてみせる。 「こんなのは箪笥の仕事じゃないよ」 それは前々から確かに思っていたこと。 「どうしても出たいの?」 「どうしても出るよ」 伊原は頑として譲らない。のんびりとしているくせに頑固な箪笥の付喪神に、小妖は途方に暮れる。何事かを考えてか、床をごろんごろんと転がり回って、 「そうか!」 ふと、小妖は転がることをやめた。 「人の仕業にしちゃえばいいんだ」 企み顔でにやりと笑う。起き上がって伊原の前で姿勢正して正座する。大陸出のくせに、小妖の仕種は時折ひどくこちらじみている。博物館好きな小妖は、映画だって好きなのかもしれない。 「まず、どうにかあっしをこっから出してくだせぇ」 任侠映画の口調で、小妖は伊原を見据える。 「仲間を連れて、あにさんを助けに参ります」 きっと、と小さな身体に力を籠める子妖の意気込みを伊原は信じた。よし、と立ち上がる。 元の位置に戻り、箪笥の姿に戻る。自らの力で以って真ん中の引き出しを外へと押し出す。自由に動けることを知ってしまえば、箪笥の姿となっても案外ある程度の動きは可能らしい。 何かの弾みに外れ落ちた風を装い、引き出しを床に置く。 「こうしておけば朝に係員が来た時、引き出しを元に戻すために硝子戸を開くはずだよ」 箪笥の姿となっても声は出る。伊原は嬉しくなる。 「その隙を狙うんだね」 小妖は目を輝かせる。隙を縫うのは得意だよ、と蝙蝠羽をすばしっこく羽ばたかせる。 「私の後ろに隠れておおきよ」 「うん」 猪口ふたつを抱えて、小妖は蝙蝠羽で飛ぶ。伊原の天板に元の通りに猪口を並べ、自分は伊原の裏側に身を潜ませる。 伊原は硝子戸の向こうをわくわくと眺める。灯が落ち、それぞれの硝子ケースに淡い光があるだけの静かな博物館。目を凝らし、耳を澄ませば、もしかしたら他にも付喪神がいるかもしれない。天板の上で今はただの猪口の振りをしているお喋り猪口たちのように、夜になれば館内のどこかでひそひそと喋る家具があるかもしれない。 だって人の世には妖が潜んで生きているのだ。 自分はただの動けない箪笥だと思って人の世を夢現に見ていた頃とは違い、全てが明瞭に見える。それが伊原にはとても嬉しかった。私に心がある証拠、そう思う。 「少し眠るの」 後ろで小妖が欠伸をする。 「ああ、朝が来たら起こしてあげるよ」 朝をこんなに楽しみにしたことはないかもしれない。 伊原が空っぽの家具を飾る博物館を脱走する日まで、あともう少し。 終
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