伊原の故郷は概ね平和だった。妖と呼ばれる存在が『さわぎ』を起こすこともあったし、世界の均衡が密かに崩れ始めていたのだが、伊原の周りはまあ平穏だった。 ところで伊原は箪笥の付喪神だ。昼は青年の姿で散歩を楽しみ、夜は空き家に入り込んで休むという生活を送っていた。 そんなある晩のことである。箪笥の姿でまどろんでいると、がたがたと戸口が開いた。 「ふー、参った参った」 「こんな時ばかりは屋根が欲しくなるねえ」 「邪魔するよ、お若いの」 年長の妖たちがどやどやと入ってくる。伊原は「はあ」と応じるばかりだ。耳を澄ませば、ぱたぱた、とたとたと雨音が聞こえてくる。 「突然降られてもうた。雨宿りさせてくれんかの」 「はあ」 「何もない家じゃの。暇を潰せるような物はないのか?」 「そう言われても……」 伊原は困り果ててしまった。箪笥には初対面の相手をもてなす能力などないからだ。 「相変わらず気の利かないこと」 いつの間にか、猫の姿の猫又が傍で伸びをしている。伊原はほっと息を緩めた。 「良かった。知ってる顔がいた」 「へえ、箪笥が人見知りするのかい。で、いつまでその姿でいる気なの」 「はい、はい」 言われるままに人型へと変じる。猫又はいつものように膝の上に陣取って香箱を作った。 雨音と一緒に足音がやってくる。妖は次々と増えていく。寝そべる者、家の探索を始める者。間延びした雨音が弛緩した空気を加速させる。ついには給仕に回る者まで現れた。青い甚平を着た、壮年の男の妖がお茶を配り歩いている。彼を横目に、猫又がゆっくりと頭をもたげた。 「嘆かわしい。暇を持て余した妖ほど悲しいもんはないよ」 鼻の上に皺を寄せる。やけに人間臭い表情である。 「あたしらは誰かを怖がらせてなんぼだろう。これだけ雁首揃ってるんだ、ちっとはらしいとこ見せてみな」 とた、とた、とた、とた。雨音が静寂を打ち鳴らす。 暗闇の中、青い鬼火が揺れている。一つ、二つ、三つ……。十まで数えたところで伊原は諦めた。まさか百には届かぬだろうが、二十や三十ではきくまい。 「人魂のようじゃの」 髑髏の妖がうっそりと笑い、手近な鬼火を吹き消した。ぼぼう、と周囲の火が震える。鬼火自身が楽しげに身をよじったようにも見える。 「次は誰ぞ」 「とびきり恐ろしいのを頼むぞえ」 妖たちの顔の上を、生き物のように陰影が這った。 猫又の一喝を受けた妖たちは真剣に話し合った。脅かし合いでもしてみるか、肝試しはどうだ、いいや外は雨だぞ、ならば百物語の真似事でもしてみよう……。戸を開け放して茶の間に集まり、蝋燭の代わりに鬼火を灯して、即席の怪談会場が出来上がったのだ。 「何ぞ人臭くはないか」 老爺の姿をした妖が金壺眼をぎょろぎょろとさせる。人と聞いて他の妖も身を硬くする。伊原はきまり悪げに襟首を掻いた。 「すみません、私です。夕方、人と立ち話をしてきたものだから」 「さようか。なら、次はわしが話そうかの」 しかつめらしく咳払いをする老爺に皆の視線が集中した。 「人間の、山岳部の四人が冬山に登った。雪は腰まであり、吹雪も止まず、体力が削がれていくばかり。途中の山小屋で夜を明かすことにしたが、火種も明かりもない中で眠ったら凍え死んでしまう。そこで彼らは寝ずに済む方法を考えた。まず各々が部屋の四隅に立つ。一人目が二人目の所へ行って肩を叩く。二人目の立っていた所に一人目が立ち、二人目は三人目の所へ行って肩を叩く。以後三人目は四人目を、四人目は一人目を……とな。小屋の中をぐるぐる回るうちに朝が来て、下山することができた。しかし別の仲間にこのことを話すと――」 「もう一人いたのではないか、と言うのであろ?」 「お、落ちを先に言うでない!」 女の妖の指摘に老爺が憤慨する。女は鼻を鳴らしてせせら笑った。 「それは『隅の婆様』の縁戚じゃて」 「そうだそうだ、どこが恐ろしいのだ」 「ぬう……今のはちょっとした練習よ。次が本番じゃ」 次々と飛んでくる野次に老爺はむきになった。人間の怪談で彼らが怖がるとは限らない。彼らが恐れるのはもっと別の物だ。 とた、とた、とた、とた。雨粒が樋を伝い落ちている。鬼火が揺れる度、黒い影が壁で身をよじる。 「……そして、引き返した男は仕方なく空き家に足を踏み入れた。途端に、腐った床がべきっと抜けて――」 「ひい、ひいぃ」 引き攣れた悲鳴が上がる。伊原だ。腰を抜かして震える伊原に妖たちが首を傾げた。 「まだ序盤じゃぞ」 「はあ……腐食の話はちょっと……」 「そういえばぬしは箪笥か。ならばこんな話はどうだ? 小さな村で一家惨殺事件が起こった。目撃者はおらず、事件の捜査は難航した。しかし殺害現場で返り血を浴びた箪笥に奇妙な出来事が」 「か、勘弁してもらえないかなあ。血の染みなんてできたら取れない……」 伊原はほうほうの態で部屋の隅に逃げた。箪笥は角に収まるのが落ち着くのだ。 と、視界の端で猫又の尾が揺れる。見れば、猫又は青甚平姿の男の膝で香箱を作っているのだった。壮年の、温和な風貌をした男の姿に伊原は首を傾げた。 (はて。何の妖だろう?) 皆から離れて座る男は一言も発さない。微笑みながら、ひどく楽しそうに百物語に耳を傾けているばかりだ。妖どもを焚きつけた猫又も妙に大人しい。 訝っているうちに猫又と目が合う。猫又は静かに首を横に振った。やけに人臭い風情で。黙っていろとでも言うかのように。 「ほうら。次は誰じゃ」 とた、とた、とた、とた。足音のような雨音が迫る。 一つ、二つと鬼火が吹き消されていく。沈黙と暗闇が密度を増し、わずかな風鳴りにさえ皆の顔がこわばる。いつしか軽口は消えていた。蒼白な燐光の中で、誰が呑まれたように押し黙っていた。 「そろそろ青行燈でも出るか」 老爺の妖が冗談を飛ばすが、応じる者はない。 ――灯りが全て消えた時、良くないことが起こるという。百物語の言い伝えだ。 やがて、とうとう鬼火の残りが一つになった。 「いよいよじゃぞ」 「ほれ、お前、行け」 「わしはさっき話したじゃろうが。おおい、この家の主はどこ行った」 「はあ。じゃあ私が」 隅の伊原がおずおずと進み出た。 「だいぶ昔の、私の知り合いの曾祖母の話なのだけど。おばあさんは北国の、古い空き家に住んでいた。いつから、どうしてそこにいるのか分からないけれど、気がついた時は既にそこにいたのだそうだよ」 ぼそぼそとした伊原の声はやけにはっきりと皆の耳朶を打った。それほどまでに静寂が煮詰まっていたのだ。 「おばあさんはまだ若く、そこそこ綺麗な娘さんだった。空き家には家具や日用品が放置されていて、おばあさんは白粉を探し出して顔に塗った。肌がとても白く見えて、おばあさんはいたく白粉を気に入った。それで毎日毎日白粉を塗ったそうなんだ。豪雪で外出もままならなかったけど、おばあさんは満ち足りていたんだろうなあ」 伊原は軽く唇を湿らせた。風もないのに鬼火が震える。怯えているのだろうか。視界の端で、猫又がぱたりと尾を振った。 「やがて雪が溶け、ある日、人間が家に踏み込んできたんだけど」 伊原はわずかに身じろぎして言葉を切った。袖の下に腕を入れ、記憶を手繰りながら言葉を探す。 「ううん。これ、怪談と呼んでいいのかなあ。私も詳しく聞いたわけじゃないんだけど……ちょっと、何と言うか……」 「早う話せ」 周囲の妖が急き立てる。伊原は困ったように眉根を寄せたが、話すと言ったのは自分だ。 「この話、怖いといえば怖いんだけど。どうして怖いのかよく分からなくてね」 「最後まで聞かんことには分からん」 「それもそうだなあ。じゃあ続きだけど、ある日おばあさんの住処に人間が踏み込んできた。たまたま奥の部屋にいたおばあさんは物陰から様子を窺った。入ってきたのは初老の男女と、数人の中年男性。中年たちが家具を運び出し、家の中はあっという間に空になって、後には男女だけが残った。そして」 とた、とた、とた、とた。 「二人とも、床に落ちた白粉を拾い上げてむせび泣いたんだよ。曾祖母が使ってたあの白粉なんだけど。当時は化粧品も粗悪で、有害な物質が含まれていることもあったみたいで。空き家の主は白粉を使い続けて、顔に糜爛(びらん)ができて」 とた、とた、とた、とた。 「それを隠すためにさらに白粉を塗って、ますます悪化する悪循環に陥った。顔はどこに行っても治らなくて、結局心を病んでしまったらしいんだ。おばあさんは愕然とした。慌てて鏡を見ると、崩れ、爛れた顔がそこにあった。人間たちが来るまでは何ともなかったのに、話を聞いた途端に顔が爛れてしまったんだ。以来、おばあさんの一族は醜女の血筋になったそうだよ」 ごとりと窓が鳴った。風が近付いてきたのだ。鬼火が揺れる。伊原の顔で、ひずんだ陰影が蠢く。 「この話がどうして怖いかっていうと、ううん。人間の言葉や行動が一方的にこちらに影響してくるような……時にはこちらのありようまで決めてしまうような感じがするから、かなあ。ほら、私なんかは人間の作った物から生まれたわけだし。どうだろう?」 首を傾げてもいらえはない。代わりに、薄い寒気が場を浸した。居心地が悪いのだ。己の生が、別の何かの手中にあると聞かされたようで。 朧な明かりの中で皆の顔が揺れている。這い寄る風の音はまるですすり泣き、あるいは忍び笑いのよう。 伊原は改めて皆を見渡した。 「ええと。私が火を消せばいいのかなあ?」 「ちょ、ちょっと待て。すぐでなくとも良かろう」 「そうじゃそうじゃ。もう少し楽しんでも、のう」 「しかし百物語の作法に反するぞ」 妖たちが囁き合う中、立ち上がる影があった。青い甚平の、あの男だ。伊原の前にやって来た男は、にっこり笑って炎を吹き消してしまった。 空気がはっと凍りつく。 圧倒的な暗闇が降ってくる。 規則的な雨音ばかりが響いている。 「な、何じゃ。何も起こら」 とた、とた、とた、ばたばたばたばた! 雨音が急に駆け足に変わった。まるで馬の大群だ。ただの雨だと誰かが叫ぶ。ばたばた、がたがた、乱暴な風雨が廃屋を揺する。梁が軋む。押し殺した悲鳴が広がる。 「――楽しかったよ。ありがとう」 混乱の中で、伊原は穏やかな男の声を聞いた。 とた、とた、とた……とた。遠ざかるのは雨か、足音か。 鬼火が灯る。腰を抜かした妖たちの姿が浮かび上がる。雨音はいつしか消えていた。皆は顔を見合わせ、引きつった安堵を浮かべた。 「ほ……ほれ見ろ。何も起こらんではないか」 「だから青行燈など出ぬと言うたであろ」 「やれやれ。雨も止んだし、頃合いかの」 来た時と同じように、妖たちはがやがやと廃屋を後にする。青甚平の男の姿はない。 伊原が息をついていると、猫又がひょいと膝に飛び乗ってきた。 「箪笥の割によく喋ったねえ。なかなか面白い話を出してきたじゃないか」 「どうも……。あの甚平のモノは人だったね」 「おや。あんたにしては聡いこと」 猫又は目を細めながら髭をむにゃむにゃとさせた。 「その通りさ。さっきまでいた連中、怖がりの強がりが多かったろう。だから仕方なくあたしが誤魔化してやってたんだよ」 一説では、妖は人の恐怖から生まれたとされている。そんな彼らが怖がるのは他でもない人間だ。 「それにしても人間ってのは勇ましいねえ、平気であたしらの中に入ってきてにこにこしてるんだから。勇ましすぎて震えがくるよ」 「そういえば、お茶まで配っていたっけ。何とも豪気だなあ」 「ま、ある意味青行燈だったってことさね。妖連中にとってはさ」 猫又はころころと笑うばかりだ。 百物語の最後には怪異や妖怪が現れるという。それを指して青行燈と呼ぶ。 (了)
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