夜露に濡れた草を分け、大地を踏み、樹の根を蹴り、駆けていた筈だった。鋭い草の葉が膝を掠めたのを覚えている。凍える山の大気を覚えている。自らの吐いた熱い息が霧のように頬にまとわりついたのを、覚えている。 瞳から鼻先までを覆うのは、母の手で着けられた面。両の目は光を捉えない。視界を奪われ続けて生きてきたからか、鬼である父から継いだ血のせいか。見えずとも、山中を自在に駆けることが出来た。周囲を包む樹の呼気が読めた、大地に湧く生命の熱を感じた、息づく獣たちの声が聞こえた。鬼子を生んだ母とその鬼子である自分を疎外する、里の人々の感情が肌に届いた。 それなのに。 今、感じるこれは何だろう。 土の匂いは僅かだ。まるで何か固いもので蓋をされているかのよう。 樹の呼気は強い。けれど、いつも全身で感じているものとは違う。知らない森の匂いがする。ほんの少し前までは色濃く感じていた獣の気配が、いつの間にか消えてしまっている。 それなのに、声が聞こえる。すぐ傍で笑いさざめく人間の声。その声から、理解できる言葉を拾うことは出来ない。里の人間が喋る言葉は理解出来たのに、今、言葉が解らないのはどうしてだろう。 歯車が軋むような未知の獣の咆哮に肩が強張る。帯に結わえ付けた大刀の鞘を払おうとして、やめる。獣の咆哮に聞こえる声に、殺意は感じられない。水車小屋の中で規則正しく動く石臼の音と、どこか似ている。倦みもせずに動き続ける、からくりの音。 傍らを掠める足音。迫る足音に身体を振り向かせたところで、足音は止まらない。まるで自分が見えないかのように通り過ぎていく。 (鬼が怖くないのですか) ふと、そんな思いが浮かんで、消える。否、と混乱する頭のまま、真遠歌は首を横に振る。 頭部からは二本の白い角。人間から見て異形のものであるしるし。 里人は皆、鬼を恐れた。鬼と人との間に生まれた自分を疎んじた。 (わたしは、……) 人間から嫌われ、怖がられる生きもの。その思いは、身に刻み込まれている。 (違う、……違う) 膝から力が抜ける気がして、思わずたたらを踏む。土とは違う、何か酷く固く冷たい大地の感覚に、どうしようもなく戸惑う。 今、考えなくてはならないのはそれではない。 自分が立っている大地はなにものだ。どうして急にこんな知らぬ大地に立っている。棲家とする山はどこだ。生きろと願ってくれた母は、 (――死んでしまったけれど、) 母の地はどこだ。 目眩のするほど、鼓動が煩い。落ち着かなくては、そう思えば思うほど、呼吸が乱れる。 眉間に力を籠める。鼻を突く、山のものとは違う臭いの正体に気付いて、呻く。鋼の錆びた臭い。自らの佩く大刀と同じ、錆びたものの臭いが、薄い瘴気のように辺りに漂っている。 (ここは) 心に零す呟きが途切れる。 足音がする。ただ行き過ぎるだけの幾つもの足音の中、意志を持ち、真直ぐにこちらに向かってくる二人分の足音。 混乱で沸騰しかけていた心と頭が、水をさされたように冷える。 (敵) そう、思い定める。 生きてきた今まで、真直ぐにこちらに向かってくるものの大抵は敵だった。そんな世界で生き抜いてきた。 無言のまま大刀の鞘を払う。 片方がたじろぎ、足を止める。片方はまだ真直ぐにこちらに向かってくる。殺意は窺えない。ただただ、静かな気配。 「待ってくれ」 近付いてくる方が穏かな声を掛けてくる。言葉が分かる、そのことに思いが至るよりも、警戒が勝った。 そういうものが一番厄介なのだと知っている。身の内に押し殺された殺意に気付かぬままに背を向けた瞬間、不意の一撃をくらわされたこともある。 どうあっても、と心を定めて呟く。 (わたしは生きねばならないのです) それが母の遺した願いであるが故に。 「俺たちは」 相手の言葉を待たず、地を蹴る。一蹴りで宙に舞う。大刀を振り上げる。風が身を巻く。跳躍の勢いと身体全ての力で、一刀のもとに敵を両断するため、刃を振り下ろす。刃に裂かれた空気が重たく唸る。 身に宿る鬼の血がもたらす豪腕の刃は、けれど思いがけず、受け止められた。金属の軋む音。打ち合わされた刃と刃から弾け散る銀の火花さえ、見えぬ眼に見えた気がした。 地に足が着く。鍔迫り合いを嫌って一度飛び退りながら、鋭い息を吐き捨てる。 相手が刃を持っている。渾身の一撃を受け止めるほどの剛力を持っている。 今はそれだけで、相手を攻撃する充分な理由になった。 間を置かず、打ちかかる。敵を滅するが唯一の生きる術。 出会いがしらに向けられた確かな殺意と重たい一撃に、歪は戸惑った。それでも咄嗟に抜き放った大剣は、確実にその一撃を受け止めた。 待ってくれ、と再度呼びかけようとした言葉は、続けざまに放たれる刃に打ち砕かれる。 正面から振り下ろされる一撃。 胴を横薙ぎに抉ろうとする一撃。 歪の眼は見えない。けれど気配を辿れば、眼が見える者のように、――むしろ、見える者よりも確かに剣は使える。 携えた大剣で確実に受け止め、受け流す。気配はまだ幼い子供のものなのに、彼の放つ一撃一撃はひどく速く、ひどく重い。 腕を断とうとする刃を刃で受け止める。腕が一瞬痺れる。 少し離れた背後に、覚醒時以来、何くれとなく世話になっている鰍が立っている。この激しい殺意を、鰍に向かわせてはならない。 細身の身体を包む鋼にも似た筋肉が軋む。大人をも撥ね飛ばす力を、一歩も退かずに受け止める。護らなければならない。その思いが、足に腕に、力を滾らせる。 不思議だった。 こちらを殺そうとする相手の思惑は確かだ。次々に放たれるどの一撃も、確実に殺そうとする意志をまとっている。けれど、打ちかかってくる刃の軌道は、一途なほどに真直ぐだ。敵を惑わせる技巧も何もなく、ひたすらに自らの力と速さで以って斬ろうとする刃。 十四歳。ロストナンバー保護を依頼してきた際、司書が口にしていた彼の年齢が頭を掠める。身体を作る骨はまだ細く、鎧う筋肉はまだ薄いだろう。それなのに、これほどまでに殺意と力を籠めて刃を振るわねばならない理由は何だ。 鞠のように彼の身体が跳ねる。恐ろしいほど身軽に宙で身を翻す。 ――生きたい こちらを殺そうとする刃を受け止めた瞬間、対峙する相手の真摯な絶叫を聞いた気がした。誰何もせずにこちらに刃を向けてきた理由は、たぶんそれで充分だと、歪は思う。 「待ってくれ」 重い刃を止め、食いしばった歯の間から、もう一度言う。 互いの鋼が軋むほどに咬み合っていた刃が外れる。彼が戸惑ったように何歩か後ずさる。 言葉が届いたのか、と安堵したのは一瞬。刃持たぬ手を差し伸ばす歪から逃れるように、彼は大きく跳び退った。刃を向けようか向けまいか、困惑しているような気配が伝わってくる。 「待ってくれ」 歪は繰り返す。 生きたいとひたすらに願いながら刃を振るう子供に、どう言葉を掛ければ良いのだろう。 ――生きたい がむしゃらに振るわれる刃が語るのは、その一言。 刃を振るって生きなければならないその意味に行き当たって、歪は更に言葉に迷う。小さな彼を護る者が居なかったのだ。その身を自分で護らねばならなかった。身を護る術さえ自分で得ねばならなかった。 小さな身体を圧しようとするものの正体に、彼は気付いているのだろうか。 孤独ではないのか。 寂しくなかったか。 そう問いかけることは憚られた。それはあまりにも傲慢である気がした。それほどまでに、彼には生きようとする力に溢れていた。 自らを殺そうとする刃の主に伝えるべき言葉に、迷う。 (お前を助けたいんだ) そう願う歪の気持ちを拒絶して、彼は刃だけを突きつけてくる。 白い少年が不意に大きく跳び退る。その背には、街の光景を反射させる硝子のビルが建つ。追い詰められた、とでも思ったのか。少年の手にする大刀の刃が戸惑うように揺れた、次の瞬間。少年は思いがけず、踵を返した。 「あ、こらぶつか……ッ?!」 鰍は制止の言葉を喉に詰まらせる。 駆け去る少年の姿は、硝子の壁を擦り抜け消えた。 「うっそ、――って歪?!」 歪が少年を追う。眼が見えなくとも物の位置が正確に分かるはずの歪までが、硝子のビル壁に迷い無く突進する。鰍の声に歪が灰色の髪を揺らして一瞬、振り向く。心配ない、と微かに笑んだ顔が、ビルの壁へ擦り抜けるように消える。和装にも似た民族衣装の裾が翻り、壁に呑まれる。 「……マジで?」 眼を見開く鰍の薄桃色の髪を、肩に陣取った子狐型セクタンのホリさんが引っ張った。 「いたたた、ホリさん、やめてやめて」 ホリさんの小さな手ごと自分の髪を押さえ、鰍は改めて周囲を見回す。 晴れ渡る青空から降り注ぐ光を集めて、ビルの群が蒼く輝く。流線型の車らしいものが、灰色の道路の上、低い駆動音を立てて行き交う。壱番世界の人々とそう変わらぬ姿の人々が、他愛ない会話を交わしながら、青い路の上を歩いて行く。人の姿に混じって、滑らかな金属の肌持つアンドロイドの姿もある。 壱番世界よりも何世紀分か、技術の発達した世界なのだろう。 ただ、気になるのはそこではない。 「あー、うん、……おかしいよな」 白い少年と歪があれだけの大立ち回りを演じたというのに、人々に動揺はない。眼にも入っていない様子で通り過ぎる。 「あのー、ちょーっと、ごめんな?」 華やかな笑い声を上げ、鰍を追い越していく少女に手を伸ばす。 見慣れぬ衣服の裾に、細い肩に触れたはずの指先には、何も感じられなかった。掌が空気を掴む。 「……幻」 眉をひそめ、 「ホログラム、かな」 どっちかって言うと、と言いなおす。 それでも、ひっきりなしに行き交う車の真ん中には突っ込む気になれない。賑やかな人波を抜け、等間隔に植えられた街路樹を避け、少年と歪が消えた硝子壁の前に立つ。 「……よし」 ホログラムだと頭では理解しても、目の前に確固として立ちはだかる壁の存在感はどうしようもない。それでも、遠ざかりながら聞こえる剣戟を、少年と歪を、追いかけたい。瞼を閉ざす。思い切って壁に向けて一歩踏み出して、 ごん、と岩のように固い何かに力いっぱい額をぶつけた。 「っだッ!」 肩から落ちかけたホリさんが抗議の声を上げる。ホリさんのもこもこした背中とぶつけた額を抑え、その場にしゃがみこむ。 「何だってんだよ、もうー……」 ホログラムに覆われ隠れているが、何かがあるのは確からしい。 視覚に惑わされない歪達だけが、ホログラムに惑わされず、障害物さえ擦り抜けて行けるのだ。 「あの子も、見えないんだっけ」 新たなロストナンバーの保護を依頼してきた司書は、その特徴と共にロストナンバーの名も告げていた。 「真遠歌」 鬼の少年の名を、鰍は小さく呟く。 「……あんな小さいのにな」 突然見知らぬ地に放り出されて、どんなにか混乱しているだろう。どんなにか不安だろう。少年の心中を想い、鰍は立ち上がる。 とにかく、二人を見つけなければ。 追う歪から一心に遠ざかろうとしていた小さな背中が、左右を高い壁に挟まれた通路で突然、止まる。 駆ける勢いのままに振り返るなり、真遠歌は抜き身の刃を歪へと疾らせる。物の怪の巨躯を一薙ぎで斬り裂く大刀の一閃を、歪の大剣が弾く。鋼の塊を打ち据えるような感覚に、真遠歌は唇を引き結ぶ。強い。 何度斬りかかっても、斬れる気がしない。危険だ、と腹の底で本能が喚き続けている。殺せない、と感じてしまえば、自分が殺されてしまう。それは間違いない。 止められた刀を引き戻す。対峙する相手の刃は追って来ない。間髪入れず突き込んだ刃は、大きく弾かれた。腕が頭よりも高く跳ね上がる。 元より錆びて朽ちていた真遠歌の大刀が、鈍い音立てて折れ飛ぶ。思わず唇から小さな悲鳴が洩れた。 隙を突かれまいと大きく跳び退る。 追撃は無い。 相手に殺気は無い。 折れた大刀に素早く手を這わせる。錆でざらついた刀は、肘の長さほどを残して失せている。 (刃は、まだある) 折れた刀を振り上げる。 周囲には相変わらず人の声に満ちている。聞いたことのない言葉が氾濫し、幾千もの足音で溢れる、生まれて初めての賑やかなこの場所は、けれどどうして人の熱を感じられないのだろう。間近に声が聞こえる。きっと真横を歩いているはずの人間の体温さえ、欠片も感じられない。 (ここは、……) 身体全ての力で以って斬りかかる。今まで、どんな敵も全て刀で叩き切って来た。爪持つものはその爪ごと、牙持つものはその牙ごと。刃持つものはその刃ごと。それなのに、殺気もなくただ静かに立つだけの者が、どうしても斬れない。渾身のどの一撃も、ことごとく受け止められてしまう。 (……あなたは) 見えぬ眼で、真遠歌は刃交わす相手を見詰める。 (わたしはあなたを殺そうとしているのに) 下ろした刃が受け止められる。刃が滑る。互いの鍔と鍔で押し合う形となる。折れた刀が根元から折れそうなほどに軋む。相手の刃が高く澄んだ音で鳴る。 対峙している者は人間ではないのかもしれない、と真遠歌は思う。少なくとも、鬼の膂力に敵う人間はいなかった。 「待ってくれ」 けれど、この訳の分からぬ地で、自分にも分かる言葉を口にするのは、今はこの人だけ。 互いの髪が触れる間近で、見える眼持たぬ二人は互いを見据える。 先に視線を逃がしたのは、真遠歌。相手が抗おうとする力を逆に使い、跳び退る。距離を取る。 「違う、」 必死に呼び止めようとする声に背を向け、走る。逃げ出す。 訳が分からなかった。ここはどこだ。あなたたちはなにものだ。どうしてわたしもあなたたちも、こんなところにいる? 追ってくる人も、さっきちらりと見たもう一人の人も、殺気はなかった。でも、悪意がないとどうして言い切られる? 見知らぬ人をどうして信じられる? それも、こんな見知らぬ地で。 (わたしは鬼子で、) 人は鬼を恐れる。恐れるが故に殺してしまう。だから、 (わたしは人が怖い) 鬼の父は殺された。人の母はいくつもの人の手で狂わされた。 (……けれど) 賑わう人並みの真ん中を、 速度を上げて行き交う車の只中を、 立ち塞がるビルの壁を、 風に揺れる街路樹を、 眼に見える全てを擦り抜け、眼の見えぬ二人は幻の街を自在に駆け巡る。 (これだけ刃を向けているのに、) 息も乱さず地を駆けながら、真遠歌は惑う。 (あの人はわたしに一度も刃を向けない) 塵ひとつ落ちていない青い路を、鰍は辿る。路を歩き、建物の入り口を潜れば、少なくとも立体映像によって隠された何かにぶつかることはないらしい。 顔を上げる。青空の果てまでも続いて行きそうな超高層ビル群が視界を覆う。賑わう雑踏や機械の駆動音、耳を惑わせる全ての音を圧して、時折激しい剣戟の音が響く。 幻に路を隠されながらも、音を頼りに二人を追う。 どこまでも明るい街だと思う。 ロストナンバーとなる前にも後にも、様々の街を探索している。どれだけ安全で清潔な街にも、暗い路地裏があった。人の避ける空間があった。 そういうものがここにはない。どの通りを歩いても、朗らかな人々で溢れ、空から降る光で満ちている。 悪意が排除されている。 「まあ、幻だしな」 その幻を映し出しているものは何なのだろう。幻で覆い隠しているものは何なのだろう。 人波の中、立ち止まる。 幾つかの通りを歩いて、気付いたことがある。 (……皆、同じ場所へ向かってるんじゃねぇの?) 気付いてみれば、それは異様な光景だった。人もアンドロイドも、皆一様に同じ方向へと足を向けている。 鰍は人の流れの先へと視線を向ける。 街の中心部に当たるのだろうか。他の高層ビルよりも一際高い、円錐型した白い塔が見えた。思わず、足がそちらに向かう。 人々が温かな笑みを交わす。 アンドロイドと人の子供が手を繋いで歩いて行く。 人の流れが辿り着いた先、活気づいた街の中央。青空を支えるようにして静かに佇む白い塔の入り口に、 「……アンドロイド……?」 ぺたり、座り込む人型機械。白い衣装と金の髪に覆われた背中から、色とりどりのコードが数十と延び、白い塔と繋がっている。周りで賑やかに笑いさざめく人々やアンドロイド達と違い、『彼女』だけが固く目を閉ざし、まるで、――死んでいるかのよう。 片足がほとんどもげている。白い頬には無数のヒビが入っている。金の髪も白い衣服も煤け、背中から延びるコードは幾つも切れて青い路に散らばっている。『彼女』の周りだけ、音が絶えている。 鰍は『彼女』の前に膝をついた。手を伸ばす。揃えた膝に投げ出された白い手に、触れる。その瞬間。 視界を、白光が埋めた。 「うっわ……ッ?!」 片腕で眼を覆う。もう片腕で肩に乗ったままのホリさんを支える。瞼を閉ざしても眩しいほどの光は、けれどすぐに勢いを失った。眩しさに涙の滲んだ眼を開いて、息を呑む。 淡く青い眼を開いた『彼女』の背で、白い塔が輝く翼を広げるように、光を放っている。鰍の周囲から音が消える。塔に集まっていた人々が、ビル群が、光に押し流され、光に溶ける。 街を覆っていた立体映像が消えていく。 「――おかえり、なさい……」 溶けて解けて、消えていく人々と街を見詰める鰍の耳に、柔らかな声が届いた。白い手が、僅かに動く。久方ぶりの人間の訪れを感知して、『彼女』はひび割れた頬で微笑んだ。 「おかえりなさい」 煌く光に、砕ける硝子のような光の中に、幾つかの光景が映る。 遥かな天の星目指し、数千数万の宇宙船が飛び立つ青空。 人の絶えた空っぽの街。ひとり佇む、街の管理人である人工知能の『彼女』。 永遠にも思える時に、街が綻びる。壁が砕ける。骨組みが錆びる。朽ちる街路樹、砕け散る硝子、樹の侵入を受けるビル群、根に絡まれ割れる路。風と雨に打たれて街が崩れる。 「おかえりなさい」 か細く繰り返すうち、『彼女』の声に力が蘇る。はっきりと、歓喜の色を帯びる。 街の住人ではない鰍は、『彼女』の冷たい手にもう一度触れて、言葉を失う。嘘でも、ただいま、と言えばいいのだろうか。街の幻を作り出した『彼女』に。何百年もの間、人間を待ち続けた『彼女』に。 「おかえりなさい」 鰍の逡巡にも構わず、『彼女』は繰り返す。その周囲に、街の残像はもう無い。崩れ果て、大地から芽吹き育ち続ける樹々にそのほとんどを呑まれた街が広がるばかり。 緑に埋められた廃墟の街の真ん中で、鰍は小さく息を吐く。 「……寂しかったよな」 そっと、『彼女』の頭を撫でる。 「おかえりなさい」 頬を撫でながら風に流れる、優しい花びらのような声が空から降って来る。 「おかえりなさい」 黒く錆び、半ばで折れた大刀を片手に構えたまま、真遠歌は動きを止める。言葉の意味は分からぬまでも、声に含まれた歓喜は心に容易に届いた。 ひどく、柔らかな声だと思った。まるで待ちわびた我が子を抱きしめるような、母親の声。 柄を握る手から、ふと力が抜ける。刀に力を伝えるため、低く落としていた腰が持ち上がる。詰めていた息が零れ落ちる。優しい声には、その力があった。 「おかえりなさい」 声は、繰り返す毎に小さくなり、やがて消えた。 声を追いかけ耳を澄ませて、気づく。周囲に満ちていた大勢の人の声も足音も、何かのからくりのような音も、何もかもが消えている。 樹と岩の間を通る風の音だけが聞こえる。 「お、何だ、こんな近かったのか」 明るい声が思いがけぬ間近で聞こえた。あまりに明るい声に、刃向けることすら忘れ、真遠歌は声の主へと顔を向ける。ほんの僅か、寂しげな気配がするのはどうしてだろう。 「よう、」 おかえり、の言葉が、真遠歌が対峙していた相手へと掛けられる。 「ああ、……」 どこか戸惑ったような相手の気配は、 「ただいま」 すぐに笑みを含んだ応えに変わる。 (……そうか) あの優しい声は、もう聞こえなくなったあの声は、おかえりなさい、と言っていたのだと、真遠歌は気付いた。気付いて、どうしてか胸をしめつけられた。 胸が痛む理由には、すぐに思い当たった。 真遠歌におかえりなさいと言ってくれる人は、もうどこにも居ない。 「真遠歌」 刃持たぬ方の人に名を呼ばれ、真遠歌は知らず伏せていた顔を弾かれたように上げる。名を呼んでくれる者など、もう居ないはずだった。 それに、と思う。 この人は、恐れも忌みもせず、名を呼んでくれる。 随分と背の高い人のようだった。そうして、とても明るい声をしている。 「真遠歌」 刃を交えた方の人も、名を呼んでくれた。この人はとても真直ぐな声をしている。刃と同じに、剛くて真直ぐな声。 (あなたたちは、……) おかえりなさい、と言っていたあの柔らかな声と同じに、とても優しい気配をしている。――今更、気付いた。 折れた刀の柄を握り締めたまま、真遠歌は決意を籠めて風を吸い込む。 それを問いかけるには勇気が要った。だから、『おかえりなさい』の声が降って来た空で舞う風を力にしたくて、胸いっぱいに風を招く。 「鬼が、怖くないのですか」 風を勇気に換えて、真遠歌は問う。 「ん?」 鰍は、怖いも何も、と軽く答えようとして、やめる。 小さな鬼子は、身体中で緊張している。精一杯の問いかけに、鰍は顔中で笑った。答える。 「迎えに来たんだ」 刃持つ小さな手に、鰍は手を差し伸ばす。 「帰る場所を、共に探そう」 大剣を鞘に収め、歪が淡く笑む。 ――おかえりなさい 花のように笑う春風の声を、真遠歌は聞いた。 終
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